特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

運河で水をかぶった若い車掌さん

2019年07月28日 22時43分11秒 | 旅行

当月末で廃業予定の崙書房出版に流山市から感謝状が贈られたそうでまことにめでたいことでございます。
野田市もなんか出せっつーの。

ところでうちの母は小中学生のころ舟木一夫のファンだったそうで「仲間たち」という日活映画の
VHSテープを持っております。
自転車で川間から野田市中野台にあった映画館まで行って見た映画だそうです。
ちなみに亡父は石原裕次郎が好きでわたくしは静岡県沼津市の某ユニットが大好きです。

どれどれと一回見てみたらボンネットバスだらけの臨港バス塩浜営業所を舞台に
主人公松原智恵子嬢がバスガール役で主演している映画で「これはすごい映画だ!」と慄然悄然とし、
過日それを結構苦労して動画ファイルに変換しPCで何度も見ておりました。
バスもいいのですが、劇中舟木一夫が作ってる餃子がホワイト餃子の何倍も旨そうなのも気になりました。
一方において、かなりおぼろげなわたくしの幼い頃の記憶の一コマにもまた、流山で見たあるバスガールの姿があるので
今回お話ししたいと思います。

 

野田市と流山市の境目あたりの利根運河のほとりには、ある大学さんの郊外キャンパスがあります。

頭のよい学生さんがこんな片田舎にかき集められて可哀そうに、などと子供の頃から思っていましたが、
なんで片田舎に来たのか、崙書房『楽しい東葛事始め事典』『利根運河物語』等々によりますと、 

昭和24年新制大学になったとき「現行の校舎は手狭になる、どこかにいい土地を探そう!」
するとちょうど野田市がこの土地を競売に出していた、
交通は不便だが破格の安値であったから昭和33年に「運動場」として買収した、
やがて高度経済成長期に「工学部ブーム」が興り文部省の補助も大いに拡充されたので
入学定員を増やそうということになったので当地に「工学部 野田校舎」なるものを新造し昭和41年4月、
391名の新入生を迎えた・・・・・
ということらしいです。

 

 


貧農の子供相手の実業学校とその将来の伴侶を養成する女学校しかない片田舎に忽然と現れた「東京理科大学工学部 野田校舎」。
その頃の運河駅周辺はどのようなありさまであったか。崙書房は「東京理科大学百年史」からこのように紹介しています。
「大学は夜も講義があり、九時を過ぎた。『帰路の淋しさは格別なものがあった。街灯一つない闇夜では全くの手探り、
しかもぬかるみ、そして懐中電灯は教員の必携品となった』
『電車利用の場合は、一時間に三本程度運行されているに過ぎない常磐線で上野から四十五分、柏での待ち合わせ平均二十分、
単線の東武線十五分で運河駅に着き、そこから徒歩十分という所であったから、教員の平均通勤時間はおそらく二時間を
若干越えていたであろうと思われる。他に野田―松戸間の長距離バスが一時間一本運行されており、この料金は七十円であった。
(中略)駅から大学に至る流山道路は、当時は県道で幅員六米。駅左手にある神社(駒形社)の大ケヤキが枝をさしかけていたが、
間もなく切り落とされたのは、激増しつつあった当時の交通事情を物語っている』」
(『流山研究におどり第8号 利根運河の20年』崙書房)
随分な労苦を経て今日まで紡がれてきたこのキャンパスも、少子化と都心回帰で近い将来なくなるらしい、と
最近地元で耳にいたしました。

 

 


さて、思えばあの日もまたたいそう暑い日でございました。
「東京理科大学百年史」に言う一時間一本運行の野田―松戸間の長距離バスとやらの車中で
母とわたくしは揺られておりました。
すでに座席の配置は三方シートではなく前向席になっていて、
母を隣に車内左側列の二人席の窓側に座っておりました。
東武鉄道と京成電鉄の共同運行線でしたがどっちのバスであったかわかりません。
ただ明瞭なのは座っていた座席はたった一か所しかない扉の2列後ろで
目の前の席には大人が二人座っていましたが、車掌台が視界に入る席でした。

わたくしはまだ自転車に乗れなかったし、幼稚園にも行っていない、
しかし家族ではない大人が何を言っているのか理解できた、だから4歳頃の出来事だったでしょうか。

車掌さんは夏らしい短髪で、横顔がちょっと顎のしゃくれた感じだったように覚えています。
誰に似てたかなどというのは全くわからない。
半袖で首が広く見える純白の開襟ブラウスを着ていて、ロシア人が身に着けていそうな
暑苦しい布地の制帽をかぶっていました。
しかしかつてこのブログ内でお話しした日枝神社行きバスに乗っていた厚化粧のおばさん車掌よりは遥かに若く
もしかすると中学校出たての新社会人であったかもしれません。


野田あたりの軟弱極まりない地盤ではいかなる舗装材を使おうともまともに平滑な道路など作れません。
右へ左へ、バスは沈むタイタニック号のようにゆさーゆさーと大揺れし車掌さんのお腹にある車掌カバンや
母のぶよぶよした体も大揺れしていました。

 


バスはやがて東武線の鉄橋に寄り添うように架けられた運河橋に差し掛かりました。
モータリゼーション勃興以前に落成した運河橋はまことに狭く、バス、トラックといった大型車は
対向車が橋上を通り過ぎてから橋に進入するようになっていました。

対向車をやり過ごすためにバスは停まってしまいました。
ベンチレーターや窓を開放させていたにも関わらず
風通しの悪くなった車内はたちまち無風の蒸し風呂のようになり、
母もそして車掌さんも袂からハンカチを取り出し汗の滴る鼻の下や首筋を拭いておりました。
車掌さんの帽子の下に出ていた後ろ髪は汗でうなじに張り付き水滴でキラキラしていました。
流山市営プールへいくのであろう紺のスクール水着と何色だったか忘れましたが頭に水泳帽を被っているという
『艦隊これくしょん』の伊号潜水艦みたいな、今思えば非常識極まりないいでたちでバスに乗って来た
小学生らしき女の子の親子連れが車掌さんのさらに斜め前方の座席のグリップに掴まって立っていて、
「あ~バスとまった」「うん停まったね、クルマいるからね」
というような会話をしていました。

 

 

バスは漸く橋を渡りきり運河駅が目と鼻の先にみえる「運河駅前」というバス停につきました。
車窓から運河駅前のちょっと広めのフリースペースが良く見えました。
フリースペースといっても質の低いアスファルト合材がうすーく敷いてあるだけでボコボコしておりました。
幼児が正面向いたままバスの高い窓の向こうを見れるわけないので、座席に足を乗せ真横に座りなおして
見ていたであろうと思います。
この間車掌のお姉さんは客あしらいをしていたと思いますが残念ながら現在のワンマンバスでは見ることの叶わない
その貴重な光景は記憶から失われています。

 

 

サッシに腕か手掌を敷いて顔を横向きにして乗せ、くたびれた感じで運河駅の入口へ向かう大人たちの背中を
眺めていると、体が一回り小さく漆黒の髪と白ブラウスと濃紺か黒のスカートとそこから下方に伸びる白い足の
コントラストが綺麗にきまった後ろ姿の女の人もいることに気づきました。
しかしそれは今しがた目の前にいたはずの車掌さんその人でした。

駅舎の左側に誰でも使えそうな立水栓の蛇口がありました。
蛇口の下には排水口のあるパンもありました。
そばには中年太りの駅員さんがいて待合室の灰皿を洗っていたかバケツに水を汲んでいたか
なにか水仕事をしていました。

車掌さんはテケテケと近づくと何か駅員と話したかも知れませんが、やにわに蛇口を2,3度
大きくひねり回して頭を水流に突き出して水をかけ始めました。
頭を経由した水はパンを外れて土の地面にも跳ね落ちていました。
水をかぶったのは2,3秒ほどでしたが、さっきのハンカチらしきもので、まるで男の
風呂上りのような荒っぽい所作で髪と顔、首を拭いて髪はボサボサになっていました。

わたくしは今自分が見ている光景を何らかの言葉で母に伝えたと思います。
母は面倒くさそうに顔を左に向け、首まで拭いたあと制服に跳んだ滴をチョンチョンと拭いている車掌さんが
駅員と喋っているのを一瞥しましたが、これのなにが面白いのか、自然な光景ではないかといった感じで
無言で顔を正面に向け直し、引き続きハンカチでパタパタと顔を扇いでおりました。
しかし直前席の大人客がじっと顔を左に向けているのに気づくと、
わたくしは車掌さんの振舞いが自然なものなのか、珍しいものなのかわからなくなってしまいました。

バスはアイドリングしておりサッシに添えた手はエンジンの振動でブルブル震えてました。
駅のうす暗い待合所ではポマードのきつそうな髪をした無地白Yシャツのオジサンが新聞を広げていました。
駅舎のそばに大木があって駅前にはただシュワシュワシュワというセミの声だけが響いておりました。

この後の顛末はまったく記憶にありません。
しかし崙書房のあまたの書物を見てもなかなかバスの車掌さんについての記述は少ないようですので
流山の歴史の1コマとしてここに記したものです。

 


野田方面へ行く運河駅前のバス停は今はない川口屋というお店の前にありました。
左側路側帯にいる黒リュックカバンのお兄さんの辺りです。

 


母がかつて自転車で行った野田の映画館『共楽館』にはここからバスで行った流山の方もおられました。
「楽しみは あの頃は何でも野田だったよね。でも野田行くの大変だったんだよ。
バスは橋のそばの川口屋から乗って二十銭したよ。映画観に行くって、家で五十銭貰って、大威張りで行ったなぁ。
特に十六~十七歳頃はよく行った。
 共楽館の隣に餅菓子屋があって、野田に行くといつもそこに行くの。十銭でお菓子が七つ買えた。
パンの大きいのが二銭、大福とか羊かんだのがいろいろ入ってんの。食べきんねぇよ。
 野田には映画館が三つ、共楽館、万政館、野田銀映館があって、共楽館は日本もの、愛染かつらをやっていてな。
上原謙と田中絹代のだからみんな夢中して観てたよ。映画が終わるとみんな泣いて出てくるの。」
 (『聞き書き流山の記憶 私はそうやって生きてきた』 流山女性聞き書きの会みらい)


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