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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

『済州女性文化遺跡100」の紹介8

2020-11-23 08:29:17 | 済州女性文化遺跡
『済州女性文化遺跡100」の紹介8   86-96

86.郭地里(カㇰチリ)  金天徳(キㇺ・チョンドㇰ)碑:朝鮮時代の済州烈女の表象  p.360
(涯月邑事務所→郭地海水浴場入口)、分類:烈女
金天徳は郭地里の私奴・ヨングンの妻だったが、幼い頃から何かと才能に恵まれ、容貌が優れていた。結婚して20年たった頃に、夫が王への進上品を輸送するために本土へ向かっていたところ、ファタㇽ島近辺で船が沈没して亡くなってしまった。天徳はそれ以来3年間、祭壇に上食(喪中の家で朝夕に霊前に供える食事)をささげ、陰暦の1日、15日と名節には、ファタㇽ島に向かって神位を立てて祭祀を行い、泣き叫ぶのだった。その泣き声が哀切なあまり、周囲の人々の哀れを誘った。
彼女は幼い頃から才色兼備だったので、都から済州に流配されてきた人たちなどが彼女に横恋慕し誘惑したが、耳を貸さなかった。そのせいで、無実の罪で官庁に告発されて、80回の杖刑を受けた。さらには、涯月防御所の軍人も天徳の父を懐柔して、自分と再婚させようとしたが、婚礼の日になってその事実を知った天徳は、大声で慟哭して首をくくってしまった。幸いにも、子供たちが急いで母親を救ってくれたので、ほとんど死にかけていた彼女も生き返った。そして彼女が髪の毛を切って死を誓うと、父もそれ以上には再婚を強要できなかった。それ以後も天徳は何度も犯されかけたりもしたが、夫に対する貞潔を生涯にわたって固く守った。
天徳の烈行を最初に記録したのは、朝鮮前期の大文豪である林俤(イㇺジェ)(1549~1587)である。彼は父の林ジン済州牧司に会うために1577年に済州にやってきて、偶然に彼女の行跡を知って感動し、済州紀行『南溟小乗』にその記録を残した。
林俤は僻地の卑賤な女性の身でありながら、しかも、女性としての規範を学んだわけでもないのに、ひたすら夫に仕えるなど節操が並外れているとして賞賛し、そうした天徳の行跡は学んだものではなく、むしろ純粋な天稟に由来するものと高く評価した。「一般に世の中の男性は、ひたすら利害関係に汲々としたあげくに兄弟間でも争い、友人間でも裏切るのが日常茶飯事」と窘める一方で、天徳が貞操を守ったことを、きわめてまれなことだと指摘し、称揚する。
都でも天徳の行跡の情報を得て、1577年(先祖10年)には旌門(ジョンムン)を建てた。今ある金天徳の烈女碑は1863年に再建立されたもので、郭地海水浴場入口に立てられている。その碑も元来は、昔の大道と?クァムㇽ方面への道との交差点に建てられていたが、一周道路ができた時に村の会館に、そして2009年2月になって、今の海水浴場入口に移された。
済州市地名委員会は2008年に天徳の行跡を記念して、郭地と於音(オウㇺ)間の地方道路を天徳路と命名した。その起点は涯月邑郭地里1671番地、終点は於音里山70-9番地で、総距離は9,4キロである。

87.下加(ハガ)9里のチャンドンネ・マルバンア、新厳里(シンオㇺニ)のタンゴリドンネ・マㇽバンア:馬と息を合わせる杵臼   p.363 (下加里マㇽバンアは、マウㇽ会館東側100メートル地点、新厳里マㇽバンアは新厳マウㇽ会館→サㇺジョン門横)、 分類・生活文化、脱穀、相互扶助

済州では水田よりも畑の方がはるかに多い。元来が火山島だからである。わが国の耕地面積のうち57,4%が水田であるのに対し、済州島では水田は0,5%にすぎない。水田耕作よりも畑作業が圧倒的に盛んで、主要畑作物は麦、粟、豆などである。それを精製していたのが、マㇽ(馬)バンアで、本土の研子磨(ヨンジャバンア)にあたる。多くの穀物を精製してきた器具であり、火山島済州の農耕文化を反映した産物である。
済州マㇽバンアにはいくつかの特徴がある。先ずは、設置と運用を村の共同体である契組織が主管した。バンアの規模が大きいので、隣近所の10~20戸ごとに設置して、共同で使用した。二番目に、その契組織がマㇽバンアの設置と運用だけで機能していたわけではなく、契員たちの家々で大小の行事があると、米や現金を集めるなど相互扶助機能も果たした。3番目としては、マㇽバンアの分布が徹底していることである。1974年の金ヨンドンの調査によれば、済州の農村には平均29戸にひとつ、それが設置されているほどで、非常に多かった。4番目に、済州島のマㇽバンアの構造がとても堅固であり、野外に放置したりすることなく、済州伝統の草家内に設置され、上石、下石、マㇽバンア、そして済州固有の草家で構成されていたことである。
マㇽバンアは粟の脱穀、麦の皮を取りさって実を取り出す作業、陸稲や稲の殻をはずして米を作る仕事、そして粉挽などにも使われた。粟や麦を脱穀する時にはたいてい、牛馬の力を借りてバンアを回した。バンアを回す時には、歌を歌いながら辛さをなだめた。済州の昔の文献や植民地期の済州生活状況を調査した報告書などでは、その歌詞が哀切に満ちたものと記されている。穀物を作り、食事を用意しなくてはならなかった女性たちには、歌いたくない歌だったようである。マㇽバンアは1970年代に各村に精米所ができるようになると、見かけなくなった。その機能が消えたのは、食生活の文化が変わったからである。
現在、涯月邑下加里チ集落と新厳里ダン集落のマㇽバンアが国家指定重要民俗資料第32号―1、第32―2号に指定されている。

88.召吉里(ソギㇽリ)  ハンジㇽ(漢道、大道)ドンネ(集落)マウㇽ(村)共同水道:中山間村の飲料水不足を証言する    p.367 (召吉里→召吉里老人会館前の榎の木→召吉里共同水道)、分類:生活、水、共同水道

済州の記録写真集に最も頻繁に出てくるのが水に関する写真である。それほどに、済州人にとっては水が貴重で、切実なものであったからだが、それはまた、火山島だからでもある。済州では、水運びは女性の仕事なのだが、水がとりわけ貴重な中山間村では、4~5㎞離れたところまではるばる出向いて水を家に持ち帰った。
そうした水甕行列は1970年代以後には消えてしまった。1970年代に水革命の時代の幕が切って落とされたおかげである。政府の水源開発政策によって、都市には上水道施設、中山間農村地域では簡易水道施設が設置され始めた。
涯月邑の召吉里は典型的な中山間村で、日照りになると、流水岩との境のチャランモッ(池)まで水甕を背負って水運びに通った。村に水池が10箇所もあったが、どれも水質がよくなかったので、中山間の用水開発政策で共同水道が設置されることになった。
その時に設置された召吉里共同水道は3箇所である。流水岩里の水を引き、ハンジㇽドンネ、カウンジカㇽム、モットンネの3箇所に設置された。簡易水道が設置された際には通水式も行った。
しかし、今では昔のマウㇽ会館前にあったハンジㇽドンネ(大路村)共同水道だけが残っている。それは水タンクと水道施設で構成され、円形のコンクリート製である。道路ができたので水底を見ることができなくなり、水道の栓もなくなったが、原型がよく保存されている。
軍人たちが建設したと伝えられており、簡潔で機能的に作られ、造形美も優れている。横から見ると、キノコか宇宙船のようにも見える。
しかし、その共同水道も1年余で閉じられてしまった。長田里(チャンジャンリ)と共同水道を設置するように、流水岩里の人々が主張したからである。この村で水に関する心配が完全になくなったのは、1969年の御乗生貯水場の完工以後のことである。
召吉里バス停と現在のマウㇽ会館前には、共同水道施設と水甕を置くために使われていた台が残っている。近隣の長田里にも2箇所の共同水道が残っている。
召吉里共同水道は中山間地域の女性生活史関連の遺産であり、飲料水供給に重要な役割を果たした産業施設であり、済州近代化の証拠としても意味深い生活遺跡である。
但し、召吉里共同水道が残っているのは、村人たちの執拗な保存の意思があったからこそだった。8月にハンジㇽドンネ共同水道前で出会った村の老人たちは、「われわれが生きてきた根拠だから保存した」と語っていた。その一言が、水道の前に置かれた巨大な榎の木陰よりもさわやかに聞こえた。

89.流水岩里(ユスアㇺリ)  流水岩川(ユスアㇺチョン):涯月地域の生命水   p.371
(流水岩マウㇽ会館西北側)、分類:生活、水

済州は昔から水不足が切実な島だった。雨が多く降っても火山島なのですぐさま地下に染み入り、そのまま海に流れ込んでしまうからである。海岸で噴き出る湧泉水の水を運んできて使用するか、或いは奉天水を利用した。
朝鮮時代、済州に流配されてきた金浄〔1486~1521〕は済州の水事情に関して、『済州風土録』で次のように記録している。

漢拏山と済州の村では泉水がすこぶる少ない。村人たちははるばる5里の距離も水を運びながら、近くに水があったらどれだけよいかと思う。一日に1、2回運んでくるが、塩辛い泉水が多い。水甕を籠に入れて背中に乗せて運ぶのだが、これは水をできるだけたくさん運ぶためである。
海辺で噴き出る湧泉水がある村ならまだしも、中山間で暮らす人たちにとって水は生命水であり、生活用水でもあった。そんな状態だったので、済州女性たちの一日は、明け方に水籠にいれた水甕を背負って水を運んでくることから始まった。

流水岩里の流水岩泉(ユスアㇺチョン)は、この村の代表的な飲料水であり、西部地域の村人たちの生命水でもあった。
村ではその水のことをフリムㇽと呼んだ。貯水池は飲料水の貯水池と、野菜を洗ったり洗濯したり沐浴する貯水池に分かれている。上側が飲料用の貯水池であり、下の貯水池が野菜を洗ったり洗濯したりする貯水池である。上の貯水池の西南側は石垣で丸く囲ってある。
水が出てくるところは、半月形の広い石で覆われている。その下に小さな貯水池が3箇所、並んでいる。下の貯水場はスレート(スラブ?)葺きの屋根の下に4箇所あり、今でもこの村の人たちが利用している。
この水は高麗の三別抄がハンパトゥリに陣を構えていた頃にできた泰岩寺に関連しており、何度も改修されている。植民地期末に軍隊が村に駐屯した時には、上・下の貯水池を拡張し、1960年代初めに、近くの長田里(チャンジョン・リ)と召吉里とが共同水道を設置した時には、この水を引いて使った。御乗生水源開発によって水事情がよくなってからは使用頻度もすっかり少なくなったが、1980年代に李ウンホ社長の援助で新しく整備された。

90.流水岩里  義女・洪允愛の墓 :恋人のために命をささげる  p.374 (涯月邑官令里(クァンニョンニ)→昔のルネッサンスホテル→流水岩注油所横の小道を500メートル→松の木横)、分類:偉人、義女(タクシーの運転手さんと何度も迷いながら、とうとう見つけた時は嬉しかった。見つけにくかったのは、予想よりもはるかに「慎ましい」ものだったからである。

洪允愛(ホン・ユネ、?~1781)は恋人のために不義の権力に抵抗して死に至った義女である。
彼女の恋人はソウルから流配されてきた若い儒者・趙貞喆(チョ・ジョンチョㇽ)だった。1777年(正祖)8月、王暗殺計画事件に連累して済州に流された。主導者とみなされていた老論時派の巨頭金時訥が、妻の父だったからである。
済州に流された趙貞喆は運命的に洪允愛と出会う。
趙はいつも部屋の中に閉じこもり本を読んだり詩を詠んだりしながら静かに身を処していた。洪允愛はそんな青年儒者の世話をするうちに思慕するようになり、母が生前に準備してくれた絹の生地をお金に代えて、島では貴重な筆と紙はもちろん書籍まで買い入れて、趙貞喆のところに持って行った。筆と紙と書籍は若い儒者である趙貞喆にとって霊魂の糧食であった。允愛の心がソウルから来た若い儒者の心に届き、二人の間に娘が生まれた。
ところが1781年、趙貞喆の家門と敵対していた金シグ?が済州牧司として赴任してきた。彼は老論の政客である趙貞喆に対する監視を強め、迫害の口実を探しだそうと血眼になっていた。そして「村のを犯した」という噂を流して、趙貞喆を迫害しはじめた。
そのあげくには洪允愛が標的とされ、様々な尋問と拷問で允愛は厳しく責め立てられる。しかし、彼女は断固として否認した。その壮絶な悲鳴の声が官舎を超えて済州城内に広がっていった。望んでいた証言を得られないので、?金シグはついに彼女を梁に吊るして殺してしまった。
趙貞喆はその後1805年に、29年にも及ぶ流配生活から解放された。そして1811年には牧司として済州に赴任し、洪允愛の墓前で追慕詩を詠み、碑石に義女と記した。その追慕詩は次のとおりである。
玉のような貴方の香気は埋められて幾星霜
貴方の悲しい恨(ハン)、それを誰が天に訴え
黄泉の国へのはるかに遠い路を、貴方は何に頼って進んで行くのだろうか
貴方の魂はまだ青いままに私の心にあり、たとえ亡くなっても、二人の縁が朽ち果てることはない
貴方の名前が永久に美しく、香気高くありますように
二人姉妹のどちらもが節操高く、賢く、淑く
そんな二輪の花に、私の文章ごときは敵うわけもない
寂しい墓に、青草だけが馬の鬣のように生い茂っている
洪允愛の墓石は朝鮮時代において、女性のために建てられた唯一の詩碑であり、流配文学の花という評価を受けている。
済州女性である洪允愛と、流配人だった趙貞喆の物語は「ロミオとジュリエット」や「春香伝」よりも純正でドラマチックな実話である。洪允愛の生涯は正義を貫く主体的な女性の姿を見事に表している。
2001年に洪允愛の昔の墓があった済州市典農路一帯の道路名がホン(洪)ラン(郎)路と命名された。済州島では初めての女性ゆかりの名前である。
洪允愛の墓は済州市典農路、現在の韓国土地公司済州地域本部付近にあったが、1937年にはそこに旧済州公立農業学校が建つ際に、涯月邑流水岩里に移された。

91.高来里(コネリ)  プㇽトㇰ:海女共同体の現場    p.378 (高来里海岸道路→ナㇺトリ・プㇽトㇰ、シニムㇽ・プㇽトㇰ、ピョンセビル・プㇽトㇰ)、 分類:生活、プㇽトㇰ

「スンテクの母さん、カㇷ゚スンの母さん、海の作業に出かけようよ」
7月、じりじりと太陽が照りつける夏の日、畑で草取りをしていた女性たちが汗をぬぐいながら、一斉に立ち上がって帰路につく。間もなく、改めて家から出てきた彼女達は、潜水着、水中眼鏡、銛、浮き、収穫籠を担いで、一斉に青い海に向かう。海の近くに住む海女は既に潜水着に着替えているが、その他の女性の大部分は籠の中に潜水着を入れてやってくる。 海に入る前に岩陰(プルトㇰ)で持参した潜水着に着替えて海に入って行く。そして浮いたり沈んだりを繰り返しながら次第に海深く入っていき、上がってきてはホーイ、ホーイと苦しい息を吐き出すこと数百回、息継ぎ音(磯笛)が激しくなってきた頃には、籠には鮑やサザエが一杯で、彼女たちも海から出てくる。
海から出てきた海女達が向かうのもプㇽトㇰである。収穫籠を下ろし、火を焚き、ぬれた体を乾かす。プㇽトㇰは海女たちの休息所である。たいていは風が避けられる岩陰や、丘に位置している。石垣を積んで囲んだりもしてある。今のような海女脱衣所が作られるまでは、プㇽトㇰこそが海女の休息所であり、情報交換所であり、海女共同体の修練所でもあった。
今では温水施設を備えた海女脱衣所があるので、昔のプㇽトㇰはその機能を失ってしまったが、その痕跡は済州の海辺のあちこちに残っている。
その代表的なのが高来里である。海岸には石が積まれた自然プㇽトㇰから現代式海女脱衣所まで、プㇽトㇰの変遷を一目で見ることができる。
高来里と涯月里の境の海岸道路辺、ヒョンオン水産の内側の海辺にあるペンセビㇽレ・プㇽトㇰはその地域でも最古のプㇽトㇰである。高麗三別抄軍の入島を妨げるために、海岸に石垣を積んだのが始まりである。入口は北側の海辺に向かっている。入ってみると、まるで小さな神堂にでも入った気分である。かつて火を焚くための薪や水着を置いていた台も目に入る。
高来里ナㇺトリ海鮮食堂の西側にあるナㇺトリ・プㇽトㇰ。海辺のビㇽレ上に岩を割って四角形に石を積み、その石垣にセメントを塗りこめてある。この界隈の海女たちが1966年に自分たちで作ったものである。プㇽトㇰの入り口には1966年と、設立年度が記された石がある。
当時、プㇽトㇰ建造に参加した海女によれば、作業をさぼったら罰金3000ウォンを払ったと言う。当時の雑草抜きの日当が500ウォンだったから、3000ウォンは大金だった。1970年代にゴム製潜水服が現れると、プㇽトㇰの使用頻度が減った。さらにその後の海岸道路開設に伴い、美観を損なう懸念もあってスレートの屋根で覆ってしまったので、姿も見えなくなってしまった。それでもプㇽトㇰの形態はそのまま残っている。今では海女たちが、鮑などの不法な漁を監視するために利用している。
シニプㇽトㇰは村の代表的な飲料水源であるシニムㇽの横にあって、薪や服を置いていた台が東西に長く残っており、上軍(熟練)海女たちだけが使用した。他の海女達はシニムㇽ入口にある2箇所の自然プㇽトㇰを利用した。1982年には洞内に現代式の海女脱衣所ができたので、それらのプㇽトㇰは利用されなくなった。今では現役の海女もたった20余名と少なくなってしまった。

92.下貴(ハグィ)1里  海草のトゥㇺブㇰケムㇽ(トゥㇺブㇰはホンダワラの一種の海藻、ケは海岸、ムㇽは水、つまり、海藻が押し寄せる海岸にある湧泉水):トゥㇺブㇰが押し寄せる海辺の女湯        p.382

トゥムブㇰケは官田洞(クァンジョンドン)の昔の地名で、現在は藻腐洞(チョブドン)沿岸と呼ばれている。済州市と涯月邑の境にあり、海藻の一種であるトゥㇺブㇰが大量に押し寄せる浦口なので、そんな名前がついた。なだらかな海岸線で、海草類も少しばかり休んでいきたくなりそうな、そんな美しい曲線美で知られている。今では現代式の建物と国籍不明のネオンなどのせいで昔の趣はすっかり失われてしまったが、静けさだけは残っている。
その海岸にトゥㇺブㇰケムㇽがある。この泉水はこの村で最もおいしく水量も豊富で、人気があった。昔は水池がひとつしかなかったので、それを区分けして片側は飲料水、残りは男湯と女湯として利用していた。
またこの泉水はコンジャンムㇽ或いはクァンジャンドンムㇽ(官田洞水)とも呼ばれ、クィイㇽ(貴日)焼酎とハグィ(下貴)マッコㇽリの原材料になっていた。古来、水がよければいい酒ができるもので、その事実ひとつをもってしても、この水の味のよさが推測できる。今でもこの水池の道の向こう側には、済州合同醸造所が位置しており、水が良質なのは相変わらずであることを証明している。
そのように、トゥㇺブㇰケムㇽは良酒が醸造される源泉水なのだが、周辺の海岸は海藻の一種であるトゥㇺブㇰがたくさん押し寄せてくる所としても名高い。
トゥㇺブㇰとは済州海岸に押し寄せてくる海藻類全体を指し、済州の農業にはなくてはならないもので、畑の肥料として使われていた。だから、この村の女性たちは、一日に何度もここに足を運んだ。早朝と夕方には水籠を背負って家に飲料水を持ち帰り、黄昏には背負子を担いでトゥㇺブㇰを採取しにやってきて、夜になれば、友人たちと三々五々、籠を腰に提げて沐浴のために通うなど、まさに彼女たちの日常空間だった。
今でも泉水は健康で豊富に流れているが、1997年に今日のような姿に変わった。女湯にスレートを張り、周辺には石垣を積み、以前より優雅になった。女湯の入口は少し特異で、カタツムリの殻のようにぐるぐるまきで、外からは絶対に内部が見えない構造になっている。ちょっとやそっとでは、心のうちを見せない女心に似ているとでも言おうか。その入口に立つと、その内側がいったいどのようになっているかすごく気になる。
そこに立っていると、やがて音が聞こえてくる。トゥㇺブㇰをすくいあげ、蹴飛ばす女性たちの歓呼の声、水甕に水を入れる素早い手つきと甕の中にすべりこむ軽快な生命水の音、そして沐浴しながらの女性たちのひそひそ話、或いは、ホッホ、ケラケラと笑い声が海岸の水音に混じって聞こえてくる。

93.下貴(ハグィ)2里  カムンドン(可門洞)ハㇽマンダン(女神堂):海辺の人々にとっての理想のメント(心の友)  p.385

済州市西方の下貴2里にある下貴初等学校を通り過ぎて、もう少し西に向かうとカムンドン海岸道路の標示が見える。そして里程標にしたがって海側にさらに1キロほど行くと、カムンドン・ハㇽマンダンがある。この村に海岸道路ができて、外観は都市のようになったが、村人たちは今でも海と畑で生計を立てており、女性遺跡がよく保存されている。その中でも、本郷堂は女性遺跡として他の場所にひけをとらない重要なところで、海の人々の永遠の心の友(メント)なのである。
そこはケダン((海岸堂)とも呼び、カムン洞47という標識がついているが、昔からの信仰民は相変わらずハㇽマン堂と呼んでいる。道端にあって周りに石を高く積み、入っていくと右側には堂籠台がやや細長く端正にたたずんでおり、西側正面には神木があり、その前に祭壇があり、右側にはコㇽミョン(雑鬼を接待するための祭を行った後、飲食物を片付けて投げる)を入れる穴がある。ハルマン堂の垣根越しの西側には酺祭堂があるが、先ずはハㇽマン堂に挨拶してから酺祭を始めることになっている。
ハㇽマン堂は信仰民たちを保護してくれるので、漁夫たちは毎月15日と晦日の夜に船告辞を行う。そのとき、船主の妻はお供えを堂籠に入れてここにやってきて、一人で祭を行う。日が暮れてから線香をさげていく女性は信仰民なので、言葉をかけてはならない。同じ時刻に船主は船で告辞を行う。船告辞のお供えとしては豚の頭の上側(口よりも上の部分)、焼酎、ご飯5食分、果物3、ジェスㇰ(お供えとしての魚類)5皿(アマダイ、いしもち)などである。ハㇽマン堂のお供えは、豚の頭下側、ご飯3食分、果物3、ジェスㇰ(魚類)3皿、飲料水などである。
特異なのは、船告辞では酒を、ハㇽマン堂では主に飲料水をささげ、豚の頭を半分に割って、上側は船告辞に、下側はハㇽマン堂に捧げることである。ハㇽマン堂で祭祀を行った後で、二つのクェ(穴)にコルミョンを入れて終わる。残りは家に持ち帰って、家族で食べたり、近所の人々に分け与えたりする。
今でも海女達は安宅告辞をする際には、(1年から3年に1回、個人の事情に応じて行う)シㇺバンと一緒にハㇽマン堂に行ってビニョㇺ(1~2時間ほどのお祈り)をする。そして告辞を終えてから海に行って龍王祭を行う。そのときにはシㇺバンが同行するので、シㇺバンを通して堂ハㇽマン、門前、龍王に祭をささげる。
ハㇽマン堂には定まった祭日はない。漁夫たちは月に2回、海女達は安宅告辞のほかに、家ごとに日を選んでビニョムのために通う。
漁夫たちは秋夕と旧正月にお供えを携えてハㇽマン堂に行き、祭を捧げる。名節の飲食物を作るときにも、先ず最初にハㇽマン堂のお供えを作る。その時に豚の頭を捧げるので、豚肉の串焼きは省く。陰暦8月14日と3月晦日の朝と夜の間の適当な時刻にハㇽマン堂に行き、同じ時間に船告辞も行う。その時にはお供えが非常に豊富で、村人を招いて飲福もして楽しく過ごす。
2年ごとに堂クッをするが、霊登月である陰暦2月15日に先立って、ヨンドゥン(霊登)クッをする。そのために漁夫の中から3名の祭官を選出する。堂クッは2回あるので、村と漁村契が交代で主管し、その主宰者側が費用を受け持つ。
カムンドン(洞)ハㇽマン堂は海女と漁夫たちが通う聖所であり、今でも神聖な威力を発揮していると信じられている。漁業は命を担保にした職業なので、信仰民たちはこれまで海難事故がなかったのは、ハㇽマンのおかげと信じている。
ハㇽマン堂は信仰民がきちんと管理しており、神木と紙銭が目に入らなければ、休息所のように錯覚しかねない。ハㇽマン堂の近くには海女脱衣場がある。ハㇽマン堂に参拝して振り向くと、きちんと整備された酺祭壇が見える。ハㇽマン堂の入口から海の方を見れば、公園が造成されており、右側を眺めると海女脱衣場があり、何もかもが見事に調和した女性海洋文化を一望できる。

94.上貴里(サングィリ)  ファンダリクェ:風下へ行ってお座りなさいよ  p.390  (是非とも案内したい所だが、見つけるのは難しく、しかも、村人の雰囲気では、外部の者が入りこむことを嫌がりそうなので、少人数でないと難しそう。2回訪問したことがあるが、毎回、すごく強烈な印象)

上貴里本郷堂のファンダリクェの女神はその権能と霊験とで、今でも信仰民たちにその名をとどろかせている。堂へ通う信仰民のことをタンゴㇽと言う。1月に3回ほど堂を訪ねて掃除したり管理したりする場合を上タンゴル、2回ほどなら中タンゴㇽ、1月に1回または1年に1回程度なら下タンゴㇽである。タンゴㇽが何人かで、その堂の威勢が分かる。ファンダリクェには今でも定期的に堂を掃除するタンゴㇽがいるなど、タンゴㇽの往来が頻繁である。タンゴㇽがいるかぎり、その堂は生きている。
ファンダリクェには「風上様の宋氏夫人」と「風下様の姜氏令監」が別々に座定している。クェとは済州語で、あまり深くない浅い洞窟のことを言うが、ファンダリクェは絶壁に囲まれ、円形の部屋状になっている。頭上では木の枝が絡み合っているので日差しが入いらず、夏の盛りでも冷気が漂っている。
宋氏夫人と姜氏令監は夫婦神で、名前の前についたファーストネームが、それぞれの位相を明瞭に語っている。「風上様」とは風上側の神という意味である。変な臭いや声が入らないところ、だから、最上の場所を占めている神という意味でもあり、気勢が強いという意味も含んでいる。「風下様」は、風下側で、すべての悪い臭い、悪いものが押し寄せてくる低いところにいる神という意味である。すなわち、女神は内側に座定しているので風上様であり、夫神は玄関脇で気を使いながら居候生活をしている境遇なので、風下様なのである。
この夫婦がそのように別々に座定して信仰民を迎えていることについては、臥屹本郷堂と同様にそれぞれの食性に絡んだ面白いエピソードがある。宋氏夫人は淡白な飲食物を好んでいたが、姜氏令監は漁夫と海女を見回るために頻繁に海辺に通い、豚肉を好んだ。ある日、豚肉を肴に酒をひっかけて帰ってきた令監に向かって、宋氏夫人はつれなく言い放った。
「なんてことなの、この生臭さは・・・、あっちの風下にいって暮らしなさいよ。あんたなんかとは一緒に暮らしておれないわ」
その後、姜氏令監は玄関脇の小部屋で暮らすようになったが、そのおかげで自分の思いのままに豚肉を食べながら楽しく暮らした。高尚な妻の食性に合わせなくてはならないような、気まずい暮らしも、こうして終わった。
しかし、だからといって夫婦生活にはたいして問題などなかったらしく、娘を4人も授かり、きちんと近くに分家させた。長女は召吉里のヨンポンナン下に、二番目はファンダリクェに、三番目はチャンジョン(長田)ヨンポンナンに、4番目はサㇺオㇺ(三つの厳、つまり旧厳、中厳、新厳)オダンビㇽレに座定するなど、娘たちはすべてがそれぞれの村の本郷堂になった。済州の巫俗信仰は息子よりもむしろ娘によって伝承されてきた。4人の娘を、10人の息子を持つ人でさえも羨むほどにしっかりと育てあげた宋氏夫人の威勢は、夫の食性に難癖をつけて追いだした神話でも、十分にうかがえる。

95.光令〈クァンニョン〉2里  コウㇰデムㇽ(水):子牛が発見した生命水  p.394

済州の典型的な中山間村である光令2里には、水に関してなかなか面白い物語が伝わっている。水が貴重なこの村では水は生命水だから、牛や馬もまた水を探して喉を嗄らしていた時代のことである。
ある日、山から下りてきた子牛が森で水を飲んでいたので、村の人々が不思議に思ってそこに集まってきたところ、不思議なほどにたくさんの水が出ていた。水がすごく貴重な村なので、村人たちは子牛が飲んでいる泉水の辺りをさらに掘ってみた。そのようにして見つけだした泉水が、その村人たちの生命水となるコウㇰデムㇽ(水)なのである。
泉水の名前に関しては、周辺にコウㇰデ(村の厄除け)があったからと言う人もいるし、その水池の南側の石垣にコウㇰデが立てられていたからと言う人もいる。
コウㇰデは村に邪悪な気運が入ってくるのを防いだり、村の中でも地形が虚しいところに立てる石塔のことで、コワㇰ、タㇷ゚(塔)ダニ、タㇷ゚(塔)、タㇷ゚テ(塔台)などと多様な呼び名がある。
水道ができるまでは、この村の人々はこのコウㇰデムㇽに頼って暮らしていた。中山間では1980年代に水道が設置されてはじめて水の心配から解放された。
ここの水は冷たくておいしい。大人たちが畑仕事から帰宅してくると、子供たちはヤカンを持って泉水池に走った。水が冷たいのでヤカンには水滴が噴き出ていた。
この泉水は村人の生命水であり、汗疹の特効薬でもあった。汗疹ができた人々に30分ほどこの水を浴びせると、心臓がちじんで汗疹もさっと引いたと言う。
今でも汗疹の治療や夏の暑さをしのぐために、この泉水を利用している。今では飲料水としては飲んだりはしないが、野菜を洗ったり、洗濯に使用する。夏の夜、沐浴のためにこの泉水池を訪ねたりもする。
この水池は保存状態が非常に良好である。東側と西側にはかつては洗濯ものや野菜を置いていた広い台が残っている。一番上側が飲料水用で、次が野菜洗い用、そして洗濯用の水池である。洗濯に便利なように、洗濯板代わりに使える平たい洗濯岩が左右に置かれている。
表善面の民俗村には、ここの泉水池の模型が展示がされている。コウㇰデムㇽの水だけで足りなければ、済州観光大学の南側10余キロも離れたジョンヨンにある水を運んできて飲料用に用いた。
コウㇰデムㇽはこの村の人々の暮らしを支えてきた生命水である。生の根源を保ってきた村の神聖な空間であり、その水によって村の脈が引き継がれてきた。

島嶼地域

96.元祖・イシモチの干物(チャㇺグㇽピ)の本場である楸子島(楸子とはマンシュウグルミのことで、その群落に肖った島名)  p.398

楸子島はかつて全羅南道に属していたが、1914年に済州島に属すようになった島で、住民たちは大部分が漁業に従事している〈但し、それ以前にもなんどか行政区画の変更があった〉。2008年からチャㇺグㇽピ(元祖・イシモチの干物)が名産品として浮上し、2009年にはその特区に指定された(第2回楸子島チャㇺグㇽピ:元祖イシモチの干物祝祭、2009年8月14日~16日開催)。
楸子島には、済州旅客船ターミナルから一日で往復可能な、楸子島経由木浦・莞島行きの快速船に乗らねばならない。済州海峡を過ぎて楸子島に行く途中には有名な島が幾つかある。済州港と楸子島の中間点の左側にはカンタル島が、右側にはサス島がある。
楸子島のあちこちに泉水があって、村人たちの生命水の役割を十分にはたし、上水道施設ができてからでも、その泉水をしっかり管理しながら生活用水として使用している。上楸子の代表的な泉水を下楸子の青年女性団が女性空間としてどのように活用してきたかをのぞいて見る。

96-1 大西里(デソリ)  クンセㇺ(大きな泉):将軍祭に使用されていた神聖な湧泉水  p.400
楸子面大西里にあるクンセミ(大きな泉)は、水量が最大という意味でつけられた。約10年前にはその泉水を保護するために、雨を防ぐ屋根をつくり、水池を整備・保存している。
クンセㇺは湧泉水で、とても冷たくて水質がよく、大西里の人々にとっては、冷蔵庫がなかった時代の忘れられない空間である。
楸子島では大小の儀式がある時には隣近所同士で水の相互扶助を行っていた。主に契のメンバー同士で水を運んでやったり飲食物を作ってやったりなどの「プマシ(相互扶助)」を行っていたのである。男性たちは水が必要になった時にヤカンですくってくる程度だったが、女性たちはムㇽドンイ(水甕)で水を大量に運んできて毎日の暮らしを維持するなど、主導的な役割を果たしていた。女性たちは明け方に個人用のつるべを下げて、泉池に行って水をすくったが、水量が少なければ一杯になるまで待って夜中に持ち帰った。その際にはムㇽドンイを頭に乗せたが、いつの頃からかそれが陶器甕からブリキ甕に変わった。(玄:頭に載せて物を運ぶという習慣は済州島にはなく、この事実一つをもってしても、楸子島が元来、済州とは別の文化圏、地域だったことが分る)
大西里には7箇所の泉水池があるが、一箇所の水量が限られているので、あちこちを回りながら水を運んだ。すなわち、クンセㇺで既に列をなしておれば、他の水池に行って水を運んできた。
クンセㇺは崔蛍将軍祭の時には浄水として使用され、他の泉水よりも水質がよく最も有名な泉池である。将軍祭を行う時には、祭日に選んだ日の数日前からクンセㇺを清潔に掃除する。水池内に入って内部をしっかり磨いて蓋をして、金糸を張り、それから約5日間は、誰もクンセㇺの水を持ち帰ることができなかった。祭の際には、祭官役の家の女性だけがそこの水を運んでいくことができた。将軍祭の時にはクンセㇺがお供え(餅を作るときなど)を作るために使われた。その時にはすべてに先んじて、子牛の頭をクンセㇺの水で茹でて捧げた。
淡水施設ができてからはクンセㇺの価値はなくなったが、村人は崔蛍将軍祭に使用されていた神聖な泉水と認識している。

96-2 大西里  チェッセㇺ(祭泉水):峠の向こうの森に隠れた泉水  p.403
崔蛍将軍祠堂(楸子初等学校裏の丘に位置する)から西側に行けば、チェッセㇺ(祭泉水)(ボンゴㇽレ山の背後にある)がある。祭場の向こうにある、という意味の名前なのである。今ではその周辺をきちんと整備して、軽い運動もできる共用施設になっている。チェッセムは一年中澄んだ湧泉水で冷たく、そこに通う人々を憂いから解放してくれる。
かつては崔蛍将軍祭を執り行うときにはクンセㇺだけを利用していたが、水質が悪くなってきたので、4年前からはチェッセㇺを使用している。祭日が定まるとチェッセㇺを整備して、不浄よけの綱をわたして、15日間はだれも入れなくなる。
チェッセㇺは水深が浅いのでバケツですくう。大西里の人々はチェッセㇺを飲料水として使用しないようになった1998年頃に、周辺整備などを行って保存に努めている。
崔蛍将軍祭は楸子面の定期的儀礼であり、大西里の漁村契が中心となって行う。祭日は主に陰暦2月初めで、祭官などを準備する。祭の際には、チェッセㇺの水を女性が運んでくる。
祭の主催者側でお供え担当の女性を選んで依頼する。依頼を受けた女性儀礼者は約半月間、不浄にならないように斎戒沐浴に努める。毎年のことなので、規則をよく知っている女性を選ぶ。お供えをつくるために、他に2名の女性が手伝う。
お供え担当の女性たちは漁村契で決めるが、その女性は葬主になったことがあってはならず、出産後であれば、産んだ子供が初誕生を迎えて以降でないといけない。
祭官は当日、将軍祭に加えて龍王祭も執り行う。将軍祭を終えてから龍王祭を行う。龍王祭は、崔蛍将軍祠堂から東側の海辺の岩(堂の向こうの岩)の下で執り行うが、女性がお供えを頭に載せ、祭官が先導し、プンムㇽ集団(農楽隊)がケンガリを叩きながらその後に従う。
楸子の人々は主に漁業に従事しているので、龍王祭は豊漁を祈願し、操業中に事故死した霊魂を慰めるための儀式である。崔蛍将軍は楸子の人々から、漁を教え、島が発展するようにしてくれた偉大な将軍として崇められている。
クンセㇺ(大泉)とチェッセㇺ(祭泉)の水は、祭の神聖な浄水として大事にされている。楸子島にはところどころに湧泉水があるが、水量が豊富ではないので、ことさらに水を節約する気持ちが強い。村人たちは雨が降って泉の水があふれる時に限って、水池の周辺で野菜を洗ったり洗濯したりするが、それ以外の時には水をすくって家に持ち帰り、大事に使用した。今から約25年前頃には雨水のたまり場(奉天水)を作り、軒から流れ落ちる水も集めて利用するなど工夫を重ねていた。島に上陸すれば、今でも残されているそれらの青い水池を見ることができる。

96-3 黙里(ムンニ)  チョニョダン(処女堂):男性たちが祭官として参加する空間   p.407
楸子大橋を過ぎると黙里で、済州島側の丘の上の瓦葺きの建物が処女堂である。2008年9月に堂家を改・補修したので、屋根と女神の肖像画が鮮やかである。堂家の正門が海側に向かっており、玄関を開くと壁面に長髪の堂神の肖像画がかけてある。
黙里処女堂の堂祭は2月1日である。黙里では陰暦2月1日をハルタㇽと言い、その日にはコㇽグン(乞粒、集落で募金をする際に、僧やムーダンの格好で農楽隊を組み、鐘などを鳴らしてお金を集める行事)も行っていた(尹ジェサンの話)。堂祭の際には、村人たちで構成されたコㇽグン隊が参加する。堂祭は、旧正月のコㇽグンをする際には、堂に対して「これから堂祭を行う」旨を告げる。
楸子島では大晦日の夜に名節の儀式を行う。女性たちは名節の飲食物を作る際に、堂のお供えを別途に準備する。木製の祭器に飲食物を載せて籠に入れ、それを頭に載せて行き、祭を行う。堂に捧げたお供えは家に持ち帰らない。祭が終わってから、少しずつ紙に包み、龍王飯を投げる場所に行って、捧げる。その場所は?スィヨンヨ?一帯であり、そを「龍王飯を捧げるところ」と言う。
年初に祭官が決まると、新年からはじめて、2月1日の堂祭、秋夕の堂祭、そして大晦日に至るまでの1年間、その祭官が堂祭を主管する。黙里では男性が堂祭を運営し、女性はお供えの担当である。
堂祭の費用は黙里の住民が共同負担する。名節には各自が家で飲食物を用意し、2月1日の堂祭は共同経費でまかなう。堂祭は村祭の性格を帯びており、祭官は男性で、祭官の妻がお供え担当なので、その女性だけが参加する。黙里処女堂の信仰民は村人である。

参考資料
李泳采「韓国済州島におけるイワシ漁業と住民の生活変化:楸子(チュジャ)島のフィールド調査を中心に」、『大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報』第13号、2016年、 57-63頁。




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