初めての「洋行」に至るまで(1)
前回に引き続きスポーツの話を、悦びに焦点をあてて書くつもりでいたが、散々頭を悩ましても、その「悦び」なるものが見つけられなかった。しかもその間に、僕には相当に目新しい出来事があって、そのために時間を取られたり、浮気心も起こったせいでもある。そこで今回は、その浮気心を呼び起こした旅について書いてみたい。
年末に急きょ、仕事でハワイへ行く羽目になった。アメリカの領土に足を踏みいれたのは生まれて初めてのことだから、珍しさと嬉しさの余りにその土産話で悦にいろうというわけでもない。そもそも、たかが3泊5日の慌ただしい仕事の旅だから、楽しそうな趣がある旅行などと呼びうるものなどではないと言いたいところだが、そんな書きかたをすれば、かえって照れ隠しのようで嫌味な話になってしまいかねない。正直なところ、嬉しさ3分、情けなさ3分、腹立ち3分、そしてあとの1分は?といった微妙な気分の旅だった。
その微妙、複雑な心の襞に入り込んでその詳細を書きたいのだけれども、仕事絡みということもあって何かと差し障りがある。それに、いくら自虐趣味がある僕でも、さすがに程度が問題で、自分の恥を晒すのには限界がある。優れた私小説家が、自己検閲を破ろうとする衝迫によって、私生活の些事を芸術的に昇華して作品を創りだすといった場合とは、そもそも器と志が違う。
そこで、恥をちょい出しにしながら自己防御を図り、さらには精神的余裕を取り戻すために、のっけから少しばかり迂回する。
今の学生諸君ばかりか一般にも、洋行経験のない人は少数派というイメージがある。なるほど、以前と比べれば「洋行」(なんとも古臭い言葉遣いなのだが、僕の心境に限ってはそれが相応しく思えるから、苔生した言葉だとは思いながらも、わりと自然に用いている)する人は飛躍的に増えているが、それはあくまで過去と比べてという比較相対的な話にすぎず、今だって外国旅行などとは全く縁のないままに一生を終える人がたくさんいるはずである。
しかし、大学の外国語(それも西洋語、或いは西洋文学の)教師という職に就きながら西洋に行ったことのないような人は今ではすごく少なくなっているのは確かなことだろう。現地に行かなくても「文学」や「言語学」の研究は可能だと言い張る人もいないわけではないが、その種の人は、よほどに腰が坐っていたり、自分の業績に自信がある人だろう。
したがって、そうした数少ない大?学者を除けば、「落ちこぼれ」か、特殊な事情があるからこそ洋行の機会がなかった不運な人か、或いはまた、機会があっても怯えからそれを固辞してしまったような人であるに違いない。そしてそのうちの前の二つ、つまり「落ちこぼれ」かつ「特殊事情」を持つという条件を兼ね備えた一人が、僕というわけである。
その僕は、非常勤講師という「日陰の身」ではあっても、大学に入学して以来、大学という名の象牙の塔もしくはレジャーランドでの生息歴30年に及ぶ。
ところが、以前の「私の言葉」シリーズ(『在日の言葉』として公刊されている)でも思わせぶりに少し触れたことなのだが、長い間、日本の外には一歩たりとも足を伸ばせない境遇だった。「若気の過ち」というやつで、学生時代に在日の学生運動まがいをしたせいで、その懲罰として韓国政府からパスポートの発給を拒まれるなど、一種の無国籍状態に陥っていたのである。
そしてそれにまつわる様々な不便、不利益をしのいで20年、40の歳になってようやく海外への門戸が開かれた。つまり、高校時代に特別に臨時パスポートをいただいて韓国を訪問して以来、20年以上もの間、外国へ、といっても僕は生まれてこのかた「外国」である日本に住んでいるのだから話が厄介なのだが、ともかく日本の国境の外へは足を踏み出せなかったのである。
一般にはそれくらいのことは大した不都合にならないのだろうが、先に触れた僕のような立場では、いささか具合が悪い。なにしろ一応は「大学の先生」である。いくら地に墜ちたとは言え、大学の先生なるものに対する先入観がある。フランス語の教師はフランス語がぺらぺら、といったそれである。
そうだからこそ「まとも」にフランス語が話せない教師がフランス語を教えるのは言語道断などとのたまい、そんな「贋者」が教える外国語教育など無効だなどとけたたましく言い募る教師や学生がおり、社会がある。それに、たとえ世間がそこまで素朴に大学教師への信頼と、それと裏腹の不信を云々しなくとも、当の外国語教師はついつい後ろめたさを覚え、外見はそんな素振りは見せないようにしていても、内心では肩身を狭くしているものである。
但し、こうしたことはすべて無知と偏見の賜である。誰もが気軽に「洋行」できるようになってまだそれほど時間が経ったわけではない。それも長期滞在となると、かなりに特権的な幸運である。しかも運良く長期滞在と言っても、せいぜい一年くらいで、その運に恵まれた人達であっても、それくらいの期間で「ぺらぺら」話せるようになるはずもない。
一年ほど現地に行けばその土地の言葉を不自由なく操れるようになるなんてとんでもない誤解だし、たとえ他人からはそのように見えるくらいの言語の運用力を持っていたとしても、よほどに言葉のセンスに恵まれている人や自信過剰な人を除けば、当人自身はいつまでも己の無能さ、浅学ぶりに忸怩たる思いをしているものである。
それに、年齢もある。30歳代ならまだしも、40、50歳を越えて初めて海外に行き、ほんの数カ月ないしはせいぜい1年ほど暮らしたからと言って、十分な聞き話す能力を身につけるなんてことにはなかなかなりはしない。
しかも、大学教師の場合、目的は学問研究と一応なっているのだから、その間には図書館通いなどで本や資料とにらめっこで、日本にいるのとたいして変わりなく、生身の言葉に触れる機会など高が知れている。
「まとも」と「贋者」の基準はなんとも多様なのだろうが、人を貶めたり己を責めたりするために用いられる「まとも」という基準で想定されているレベルに到達するのは、至難の業といったほうがよいだろう。
そんなわけで、ある程度は恵まれた人でさえ後ろめたさを拭えないのだから、ましてや、現地に行ったこともない不幸者ないしは「落ちこぼれ」は、尋常ならざる後ろめたさを抱え持たねばならない。
尤も、これがまだ30、40年前までのことなら、「俺は西洋になんか行ったことなどねえし、そのつもりもねえ」などとのたまう偉い「西洋文学者」もいた。
当時はまだ、西洋文学の紹介程度で十分に研究者を誇ることができたし、恥になりかねないことを堂々と広言なさる先生方はなんと言っても、「文学」を研究しているという自信に揺らぎがないように見えた。だから、許せるばかりか、やたらと外国語を小出しに使って悦に入っている軽佻浮薄な「教師」よりは、はるかに真摯で深い人格を備えているように見えたものだった。幸せな時代があったのである。
ともかくだから、日本の「国際化」への過渡期にいあわせた外国語教師にとって、西洋経験がないと広言するのはなかなかに勇気が要る。「どれくらい行ってはったんですか」などと憧れの色がにじむ口調で質問されて、「行ったことなどない」とは言いにくい。だからと言って、嘘も言えない。そこで、「むにゃむにゃ」。すると、学生のほうではこちらの気配を感じ取って、まずいことを聞いてしまったと後悔の色をにじませながらも、内心ではかすかにどころか多いに教師に不審を抱く。
こうして、学生からすれば、ただでさえ面倒で嫌な語学の授業の不毛性が実感される。教師であるこちらとしても、そうした懸念があるものだから、過剰に防衛的になる。知ったかぶりをほどほどに抑えて、その種の質問を封ずる工夫を凝らしたりというわけである。
他人様の話ではない。先にも述べたが、僕は教壇に立つようになって約15年間ほどは、そんないらぬ気苦労をしなければならず、ようやく40歳になって初めての洋行の機会を持ったからと言っても、長年の夢が実現して感謝感激などとは程遠い。
ほんの一月程の短期間、フランスを歩き回って、それを担保にせめて嘘にならないぎりぎりの知ったかぶりをする馬鹿さ加減が、それまでの「むにゃむにゃ」とどちらがましかを考えると、恥ずかしくて居たたまれなくなる。
いずれにしても、外国語教師というのは因果な商売といった類の愚痴になってしまいそうなのだが、もう20年ほど前の僕の初めての洋行、それに至るまでの長い長い道のりを辿ろうとしているのである。
今更何をと思わないわけでもないのだが、この海外(国籍がある韓国も含めて日本から外)への禁足こそが、その後の僕の人生の大枠を決めた感がある。そもそもそれがなければ、勉強がさして好きでもなく、フランス文学の魅力に憑りつかれたわけでもない僕が大学院へ進むなんてこともなかっただろうし、その延長で、しがない非常勤稼業をしながら、この種の文章で精神安定を計っているはずもないのである。
だからこそ、そうした人生の「躓き」の数ある中のひとつを改めて整理することで、現在の生の意味をもう少し鮮明に把握して、やがてやってくる老年期を楽しく生きる糧にできはしまいかという魂胆なのである。
尤も、僕の人生、大半が偶然の連鎖のようなものだから、因果を求めたいという僕の気持ちだけが、因果関係を捏造している気配がなきにしもあらずなのだが。
30年近く前、僕が大学4年の時に、朝鮮半島に暮らしていたり、その事情に何らかの思い入れを持った人々を小躍りさせる出来事があった。7・4南北共同声明である。悲願である統一の可能性が開けたと人々は狂喜したのである。
それから50年近くが経った今でも「南北統一なんて、いつの、どこの話?」と言わせるほどに冷厳な現実があるから、あれはやはり虚妄もしくは夢幻だったと言うべきだろう。あるいは、それでも長いスパンで見れば、やはり歴史の進歩であり、その原動力は民衆の戦いであったなどと、あくまで未来に夢をかけた執拗な戦いの過程としてあの狂乱の時期を位置づけることもできるかもしれない。
しかし、僕がその種の立派な議論をするはずもないし、その資格があろうはずもない。僕の話題は常に「私事」、そしてそれと連なる小さな世界に限られる。
とは言え、その私事においても、それはやはり大きな事件であり、この僕にもその余波があった。但し、何もしないでじっとしていたのに、その余波を受けたということではない。自らが望んでといえるかどうか微妙だけれども、やはりそれなりに自らの意志で、分不相応なことを承知しながらついつい首をつっこんだ結果として痛い目にあったのである。
自分には責任がないといったほうが楽と考える人もいるだろうが、僕は自分に責任を求めたほうが納得できるから、自己責任を自らに言い聞かしている。それでこそ「わが人生」と引き受けて耐えることができそうに思い込んでいるのである。
僕は当時、ある民族的な学生団体で責任のある地位についていた。もともと人員が限られているうえに、理科系の学生は上級生になると特に学校が忙しいからというわけで、文科系の4年生に責任ある地位のお鉢が回る慣例だったのである。そしてそうした言わば役回りという実情にあわせて、その責任も軽いものであればいいのだが、世の中、たいていそうはいかない。
下手をすれば組織メンバーのみならず、その家族をも巻き添えにする決定を下すことになりかねない。だからこそ、自分たちのしていることは大層なことだと思って力が入り、力が入るからいきおい、己の能力不足を痛感しては苦しむ。
その一方で、身丈に合わない責任を負った経験はいろんな意味で人を鍛えるようである。力に余ることが分かっていながら、それをこなそうと思えば、背伸びをして、いっぱしのはったりを覚えたり、人を活用する術を知るようにもなる。そして、その経験は社会に出て役に立つ。
若い頃に政治運動を経験した人々は、その後、往々にして辣腕を振るう。すかしたりなだめたりで集団を動かしたり、責任逃れの理屈を予め周到に用意していて、周囲を驚かせたりもする。人を動かす秘訣は、大義を盾にとり、個人の野心や利害とその大義を密通させることのようであり、その種の知恵を学ぶには政治運動は格好のもののようである。
それとは逆の経験の生かし方もあるだろう。力に余ることに手を出して火傷をした経験を糧に、慎ましさを自らに常に言い聞かせて、こつこつと生きる。社会とか政治とか、あるいはさらに、耳に快い言葉には警戒を怠らずに日常を生きようと努める人もいるだろう。
僕の場合はおそらく後者に属するのだろうが、昔取った杵柄というわけで、ロマンチシズムもしくは安手の正義感がなかなか抜けず、時には暴発する。その結果、周囲に迷惑をかけたり、自らも痛い目にあったりすることには、不思議なほどに変わりがない。学ばないし、学べないのである。いまだに、正義感やロマンチシズムがまるで安酒のように僕を酔わせて、ひどいことになってしまう。
繰り返しになるし、酒に酔っての大言壮語と思われかねないが、7・4声明は、大きな出来事であり、僕はその事件に襲われたという印象が強い。自分の想いや能力などとは関係なく、ひたすら追い詰められて、大きな傷を負った。人生で数ある危機のなかでも、他人に吹聴できそうな危機の一つだった。
尤も、本当はもっと個人的で恥ずかしく、にっちもさっちもいかない危機が数多くあったけれども、その種の内密な経験は僕自身の本質的な弱点に関わっているからなのか、なかなか整理できない。そこで、少しは大層ぶって吹聴できそうなその事件に頼るわけである。
さて、その学生団体での経験の話に戻りたいのだが、在日とは関係ない人、また在日でも若い人には実感するのは難しいから、退屈なはずである。しかし、それをある程度は話さないと始まらないので、ご容赦をお願いしておく。
在日朝鮮人を束ねる大組織が二つある。60万に及ぶ在日朝鮮人を二分し、反目し敵対している。一方は南を、他方は北を支持している。その構成員たちの個々が実際にどのように考えているのかを括弧にいれれば、そうなっている。そして僕は物心ついた頃には、既に南の側に所属していた。もちろん、両親の判断でそうであった。
少なくとも成人に達するまでは、南か北か、自らの所属団体を選択できない。国籍の場合と似ている。この両団体は、言わば「国」の代用物であった。国なのだから、当然、国境がある。南と北の団体の間には、見えない国境線が敷かれていた。その線を越えようとすると、激しい妨害があり、懲罰があった。たった60万の朝鮮人が日本に散在し、そこに国境線などと何を寝言を、という向きもあるかもしれないが、実際そうであった。
ところが、そうした反目対立が打ち破られる可能性が兆した。先に述べた7・4共同声明である。南の政権の中枢が北に赴き、北のトップと握手した。仇敵同士の笑顔の握手だから、まさに晴天の霹靂というやつである。これで冷戦的論理は崩壊し、国境もなくなるはず、喜ばずにはおれようかというわけで、統一や民主を標榜する人々や組織が、これ幸いと攻勢に出る。
とりわけ、北サイドから南サイドには、南北の境界を越えて手を結び、反動の息の根を止めよう、といった類の呼びかけが一斉になされた。南北の統一を阻んでいるのは南の「傀儡政権」とその背後のアメリカ帝国主義、この種の見方が圧倒的な主流であり、それを主張するのが正義ということになっていた。
僕自身もご多分にもれず、南サイドに位置しながらも「南悪玉論」の影響下にあったから、その種の「正しい」呼びかけに、まともに反論などできるはずもない。それになにしろ若かった。今こそ立ち上がる時、といった台詞には抗いがたい。
しかし、と二の足を踏んだ。僕の状況認識からすれば、声明そのものが眉唾ものだった。専制的政権が外交で民主を気取れば、内部ではそれに反比例して抑圧が強まる、といった常識を知らないはずもなかった。それでも敢えて前に進まねばならないという使命感もなくはないし、その種の主体意識が歴史を変える原動力だと教えられ、そのように考えようともしていた。
しかし、その使命感とは裏腹に、政権の反撃に耐えられる力を、自分のみならず、団体の個々人と団体自体が備えているなどとはとうてい思えなかった。独裁政権の悪あがきなどと能天気に言い放ち、近い将来の勝利を自信たっぷりに吹聴する声が大きくなっていたが、その種の政権の末端と日々接触している身からすれば、その悪あがきはしたたかに、しかも長期に亘って猛威を奮うだろうし、その間、そこに身をおく人間はそのとばっちりで痛い目にあい続ける、という確信に近い展望もあった。
それにまた、正義を居丈高に主張する口吻に、胡散臭さを感じないではおれなかった。生来の天の邪鬼なのである。その頃に僕が接触した在日の北サイドの研究者や学生や組織の代表たちは口を揃えて、民族統一がなった暁には、高級幹部として民族に奉仕することができるように、日夜研究に励んでいるなどと、恥ずかし気もなく宣っていた。その表情、そして口吻が僕には耐えがたかった。
しかし、先にも言ったように、多少の危惧や違和感があっても、「南悪玉論」を論破する能力も意志も持ち合わせていなかった。もしこちらの考えを少しでも言おうものなら、返ってきそうな非難、そしてレッテル張りは察しがついていた。
だからといって一方的に受け身でいるわけにもいかない。なんとか一矢を報いたいというわけで、サルトルをかじっていた僕は、格好をつけたつもりで「反吐がでる」とだけ言って、だんまりを決め込んだ。
その「反吐」は二つのものに向けられていた。南北の政権のご都合主義と、在日の正義を気取る能天気にである。自分の馬鹿げた正義感ぶりは許せるのに、他人のそれは許せないというなんとも「嫌な奴」なのである、この僕は。
もちろん、駄々を捏ねるようなその種の台詞で、追い詰められた僕の状況に変化が起こるはずもない。「反民族的」とか「敗北主義」とか「だら幹」とか、いろんな蔑称で指弾を受けそうな気配に、内心、おどおどじたばた、となる。
その結果、歴史に遅れを取ってはなるまいという使命感に衝き動かされる。こうして右往なのか左往なのか、ともかく確信もなく「ぶれる」ままに開催することになった南北学生青年の集会、それを口実に僕が所属していた学生団体は親団体から追放され、僕を含む数名が除名という最大級の処分を受けた。
ただの自主的な大衆団体ごときから除名されたくらいなんだという向きもあるだろうが、先にも述べたように、この団体はいわば「国」なのだから、これはなかなか大変なことであった。しかも、それだけならまだしも、もう一つ大きなパンチを背後から食らうことになる。
同じく処分を受けた「同志」が僕の全く知らぬ所で、僕とは正反対の方向で、北系の組織と連絡を取り、共同行動を行う手はずを整えていたのである。そのことを知らされて、僕はショックだった。
先ずは、裏切られたと思った。耐えられない思いだった。ところが、よくよく考えてみれば、その「友人」或いは「同志」のほうが、僕よりはるかに自らの置かれた位置に関する厳しい自覚を持っていることに気づかないわけにはおれなかった。僕なんかとは比べものにならないほどに、主体的に組織を動かす覚悟を決めてのことだったのだろうと思った。いろんなレベルで僕は負けたことを悟った。
しかも、その「負けた」という感じ方自体が僕の密かな現実を露呈していることにも思い至った。背信と言っても、僕はその友人を競争相手に見立て、ライバル意識を自らに隠して友人を気取っていたにすぎず、僕の方がむしろ背信を日常的に犯していたのではないか。人格的にも、組織を担う責任感や状況認識にしても、僕には政治的行為を担う資格がありそうになく、当然、その種の組織活動など僕の居場所ではありえないと結論づけざるをえなかった。僕はこうして収縮を迫られた。
自分をその最たる対象としての人間不信などと言えば格好がつきそうなのだけれども、なによりうんざりしていた。組織なんて金輪際やめた、解放されたい、といったところだろうか。要するに逃げを打つことに決めたわけである。
ところが、それで話が片づけばいいのだが、そうは問屋が卸さない。公的責任の観念が、まだまだ僕を束縛する。僕は組織の責任者として罰せられたのだから、僕の一存で、そして僕自身の主張で、その懲罰の撤回を求めるわけにはいかないという理屈にがんじがらめになった。個人的に処分の撤回を求めれば、僕は組織とその大義に対して許すべからざる背信を犯すことになる。
ところが、である。その組織なるものは学生団体だから、責任者は毎年変わり、過去の責任者がどうであれ、その面倒を見る余裕があるはずもない。放置され、忘れられる。なのに、僕の方では自分勝手にその組織に義理立てを続ける。
こうして、僕は組織や責任という言葉を使いながらも、実は義理とか節操とかといった古臭い理屈を後生大事に抱えこんで、佇むしかなかった。つまり、一種の無国籍状態に甘んじて、自分が生きる世界をできる限り収縮して、世間の片隅で生きるなどという、滑稽なセンチメンタリズム。
ところが、それでもなお、世間は放っておいてくれなかった。「古傷」を突かれる。
今では少しは変化があるようなのだが、当時は在日朝鮮人には就職の可能性がきわめて限られていた。僕のような者が卒業後に就職するとすれば、同胞系企業を除いてはほとんどなかった。そして職種も、韓国や在日相手の貿易商社やサービス産業に限られていた。そしてそんなことは幼い頃から承知のうえだから、親父の跡を継いで家内工業の親父になることを運命と諦めていた。
しかし、まだ若い。少しは世間の波にもまれるまでの猶予をというわけで、たまたま紹介を受けた小さな新聞社を訪問したところ、直ちに試験を受けるように勧められ、即座に合格が決まった。僕ごときを大歓迎するのだから、ひどく人材が不足していたのだろう。
こちらとしては、それは有り難いことなのだが、説明を受けてみると、韓国への往来や同胞系企業を回って広告集めもしなければならないようである。そうなれば、僕の「傷」は決定的な障害になる。そんなところで僕のような傷者が働けるわけがないのである。
尤も、その傷を消すことが不可能だったわけではない。始末書、当時の僕の言葉ならば転向書を書いて、謝罪すれば、処分の撤回などの可能性もなくはなかった。
しかし、僕としては、節操という言葉がそれを許さなかったし、それ以上に、あのややこしい世界で改めて苛められるのはなんとしても避けたかった。
「ややこしい」というのはこういうことだ。日本の中の民族社会といっても日本人にはよくわからないだろうし、たとえ在日朝鮮人といっても、僕の子供あたりの世代になると全く実感がないだろう。
でも僕の世代では、それは相当に大きな力を奮っていた。たかだか20万から30万人程度の団体が、地域毎に支部を持ち、その支部の下にはまた分団が、というように「行政」の網が張り巡らされている。
事務所もあれば、人員もいる。当然、経費もかかる。その経費はどこからかと言えば、民族の為ならというわけで、お金を惜しみなく供出する人々がいた。金のある人はたくさん、ない人は少し、分に応じてというわけである。
つまり、そこには紛れもない一つの濃厚な共同体が成立していた。役員を選ぶには、出身地域、血縁、お金の総動員。当然、その集団の情報ネットワークはなかなかのものだった。
だからこそ、誰それの息子はどうだこうだといった情報が集まり、伝搬する。昔の村の寄り合い所といったところか。但し、その「寄り合い所」が「在日朝鮮人の村」の行政機構でもあれば、警察機構でもあると言えば、少しは事情が伝わるだろうか。
ともかく、そこで一旦話題になれば、本当のことかどうかなど関係なく、真実として登録され、しかも、それは思わぬ所まで伝わる。なんと日本の警察機構の奧にまで。日本の警察は在日朝鮮人を敵対集団として規定し、日々監視している。隠密に情報収集しているだけではない。在日の世界に深く入りこんでいる。
とりわけ、南の「村」には。政権同士の友好はもちろん波及する。その「南の村」の行政機構と日本の警察は、警戒しながらも「仲良し」なのであり、機構の手助けもあってのことか、「南の村」の個々の住民の家にまで公然と入り込んでくる。
たとえば、外事課の刑事が日常的に朝鮮人の家庭に足を踏み入れる。強権的に管理するというのではない。忍び入るとういうのでもない。
家に帰ると、見慣れない顔が座り、父親と言葉をかわしながら、テレビを見ている。知らない親戚か、父の知人だろうと推測をつける。しかし、父親が気乗りしていないことくらいは、それとなく分かる。だから余計に気になって、その人が姿を消した後に、「誰?」と母親にたずねると、嫌な顔をして相手にしない。そこで父親に問いを向けると、「警察や」という。なんでそんな奴、と不満をこぼすと、「気にするな」と宥める口調が戻ってくる、といった按配。
そんなおっさんが、結婚式などにはお祝いを持ってひょっこり現れる。まさに親戚付き合いなのである。警察と南は北に対しては友好団体で、しかも警察は実際にはその南さえも不穏団体として警戒を怠らない。三つどもえということになる。そして、そこにさらに南の情報機関が絡む。
因みに、僕がまだ学生だった頃、友人のそのまた友人が日本の国会議員の息子で、学生をしながら形式的には父親の秘書として俸給を貰い、豪勢な学生生活を送っていた。住まいは四谷の議員宿舎だった。話題は車と麻雀その他の遊びに限られていたその息子、いたって気が好く、頭の回転も速く、金回りもいい。
そんな彼や僕の友人などが、デモや何やで僕が上京する度に、何かと相手をして遊んでくれた。僕がピッツァなるものを始めて食べたのは、彼らが連れて行ってくれた市ヶ谷の「ラ・サラ・マンジェ」という瀟洒なレストランだった。
そんなある時に、その議員秘書氏がなんとも軽い乗りで、しかし、何か曰くありげに、漏らしたことがある。「玄君て、なかなかの大物らしいねえ、公安のブラックリストに載ってるよ」。
「僕の傷」はどこをどう通ってのことか、なんと日本の国会議員、それも野党議員の「秘書」にまで伝わっていたことになる。
このように日本の警察と南の情報機関と在日の村的な社会に包囲された私が、「傷もの」となると、ことは僕だけの問題ではない。父親までもがパスポートの発給を拒まれ、しかも、その村での居心地が悪くなった。
これは大事件である。というのも、父親にとって仕事以外では日本の友人は皆無だから、社会は「民族の村」しかなかった。それに加えて、ある程度生活が楽になってからは里心が強くなり、まるでこちらの生活は仮の生活と思えるほどに足繁く韓国滞在を繰り返していた。そんな父から大事な二つの世界が僕のせいで奪われてしまったのである。
そんな父にとっての社会への切符であるパスポートと在日の社会とをはく奪させた張本人である僕は、ひどい親不孝者ということになり、父は僕に「転向」を迫った。 あの時の父親の顔ほど、親子と言えども他人どころか敵になりうることを実感したことはない。へ理屈をこねていても、僕は「甘ちゃん」であったわけだし、今でもどれだけ変わったのやら。
さてともかく、その団体の下部組織はたいていが父親と友人関係なのだから、そこのおっさん連中は親父に同情したり、また反対に、僕をネタにして父を虐めたりする者も出てくる。
イジメと同情の一環で、僕を呼びつけては諭しにかかる。大人の理屈を開陳し、「情」に訴える。上が決めたことは、たとえ間違っていても、ひとまず立てて受け入れて、謝ればすむことじゃないか、というわけである。そもそも、組織なんてものもいい加減なものだから、適当に相手をしておいたらいい、と言うのである。
子供の頃から知っているおっちゃん連中に、若者の理屈をまくしたてるわけにもいかない。ましてや喧嘩するわけにもいかない。親の体面もあれば、それらおっちゃんたちとの「幸福なコミュニティ」への郷愁が僕には確実にある。僕は「在日朝鮮人の村の子供」なのである。
だからこそ、このおっちゃんたちに囲まれて、言葉を無くして白けさせるのはなかなか辛いことであった。当然の如く、次第に情にほだされて辛い。
そうしたことは、そういう場所に呼ばれて、親の顔を立てるという理屈でのこのこ顔を出すことに応じた時点で既に決まったも同然。親を立てながらこちらの節操もなんてことは、とうてい無理な相談なのである。それでも僕も僕なりにしつこい。理屈はいつだってある。
なるほど僕が悪い、とまずは考えた。だって、僕は自分の「思想」のせいで、何の関係もない親たちに大きな不利益を与えてしまったのだから。いくら親と言っても、それを盾に迷惑をかけてもいいというのは「子供」の理屈である。もちろん、一番悪いのは、子供のことで親にまで累を及ぼす馬鹿げた政治や「村」の体制ということになるのだろうが、僕としては、そういう正論に閉じこもるわけにはいかず、「一人前の大人」として結果責任を負わねばならない。
しかし、だからといって、節操を曲げるわけにはいかない。そこで、一工夫。親父への罪滅ぼしのつもりで、「社会」は諦めよう。しかし、内部では己を守るんだ、と。
尤も、この「社会」が何を意味しているのか、誰にもよく分からないに違いない。今の僕にだってよく分からない。ただなんとなく言えば、自分が信じることを公にして、その責任を引き受けるために行動すること、当時の言葉で言えば、社会参加ということであったはずで、それを断念するということだった。
もちろん、この「社会からの隠退」にはそういう事情に加えて、先にも述べた僕の敗北感と倦怠感も作用していた。自分の世界を小さくして、責任のとれる範囲で生きるしかない。家族や地元や友人のレベルならなんとか責任を持って充実した生活を送ることができるかもしれない。
その範囲を越えた「社会」に関しては、行動は諦めて認識にとどめよう。行動のない認識だけのことであれば、僕は大きく自由な世界に生きることが許される。それこそが本の世界ということになる。大学院へ進んだのは、そうした脈絡の考えもあってのことだった。密かに「私の真実」に生きよう、といったところ。
しかし、それが徹底されていればまだしも、その道さえも中途半端でついには失敗に帰して、今の僕がいるということになる。右往左往を繰り返しながらの退却戦なのだが、それで満足している気配の自分がいるのは、一体、どうなっているのやら。これがあれほど嫌悪していた「大人」になったということなのだろうか。
前回に引き続きスポーツの話を、悦びに焦点をあてて書くつもりでいたが、散々頭を悩ましても、その「悦び」なるものが見つけられなかった。しかもその間に、僕には相当に目新しい出来事があって、そのために時間を取られたり、浮気心も起こったせいでもある。そこで今回は、その浮気心を呼び起こした旅について書いてみたい。
年末に急きょ、仕事でハワイへ行く羽目になった。アメリカの領土に足を踏みいれたのは生まれて初めてのことだから、珍しさと嬉しさの余りにその土産話で悦にいろうというわけでもない。そもそも、たかが3泊5日の慌ただしい仕事の旅だから、楽しそうな趣がある旅行などと呼びうるものなどではないと言いたいところだが、そんな書きかたをすれば、かえって照れ隠しのようで嫌味な話になってしまいかねない。正直なところ、嬉しさ3分、情けなさ3分、腹立ち3分、そしてあとの1分は?といった微妙な気分の旅だった。
その微妙、複雑な心の襞に入り込んでその詳細を書きたいのだけれども、仕事絡みということもあって何かと差し障りがある。それに、いくら自虐趣味がある僕でも、さすがに程度が問題で、自分の恥を晒すのには限界がある。優れた私小説家が、自己検閲を破ろうとする衝迫によって、私生活の些事を芸術的に昇華して作品を創りだすといった場合とは、そもそも器と志が違う。
そこで、恥をちょい出しにしながら自己防御を図り、さらには精神的余裕を取り戻すために、のっけから少しばかり迂回する。
今の学生諸君ばかりか一般にも、洋行経験のない人は少数派というイメージがある。なるほど、以前と比べれば「洋行」(なんとも古臭い言葉遣いなのだが、僕の心境に限ってはそれが相応しく思えるから、苔生した言葉だとは思いながらも、わりと自然に用いている)する人は飛躍的に増えているが、それはあくまで過去と比べてという比較相対的な話にすぎず、今だって外国旅行などとは全く縁のないままに一生を終える人がたくさんいるはずである。
しかし、大学の外国語(それも西洋語、或いは西洋文学の)教師という職に就きながら西洋に行ったことのないような人は今ではすごく少なくなっているのは確かなことだろう。現地に行かなくても「文学」や「言語学」の研究は可能だと言い張る人もいないわけではないが、その種の人は、よほどに腰が坐っていたり、自分の業績に自信がある人だろう。
したがって、そうした数少ない大?学者を除けば、「落ちこぼれ」か、特殊な事情があるからこそ洋行の機会がなかった不運な人か、或いはまた、機会があっても怯えからそれを固辞してしまったような人であるに違いない。そしてそのうちの前の二つ、つまり「落ちこぼれ」かつ「特殊事情」を持つという条件を兼ね備えた一人が、僕というわけである。
その僕は、非常勤講師という「日陰の身」ではあっても、大学に入学して以来、大学という名の象牙の塔もしくはレジャーランドでの生息歴30年に及ぶ。
ところが、以前の「私の言葉」シリーズ(『在日の言葉』として公刊されている)でも思わせぶりに少し触れたことなのだが、長い間、日本の外には一歩たりとも足を伸ばせない境遇だった。「若気の過ち」というやつで、学生時代に在日の学生運動まがいをしたせいで、その懲罰として韓国政府からパスポートの発給を拒まれるなど、一種の無国籍状態に陥っていたのである。
そしてそれにまつわる様々な不便、不利益をしのいで20年、40の歳になってようやく海外への門戸が開かれた。つまり、高校時代に特別に臨時パスポートをいただいて韓国を訪問して以来、20年以上もの間、外国へ、といっても僕は生まれてこのかた「外国」である日本に住んでいるのだから話が厄介なのだが、ともかく日本の国境の外へは足を踏み出せなかったのである。
一般にはそれくらいのことは大した不都合にならないのだろうが、先に触れた僕のような立場では、いささか具合が悪い。なにしろ一応は「大学の先生」である。いくら地に墜ちたとは言え、大学の先生なるものに対する先入観がある。フランス語の教師はフランス語がぺらぺら、といったそれである。
そうだからこそ「まとも」にフランス語が話せない教師がフランス語を教えるのは言語道断などとのたまい、そんな「贋者」が教える外国語教育など無効だなどとけたたましく言い募る教師や学生がおり、社会がある。それに、たとえ世間がそこまで素朴に大学教師への信頼と、それと裏腹の不信を云々しなくとも、当の外国語教師はついつい後ろめたさを覚え、外見はそんな素振りは見せないようにしていても、内心では肩身を狭くしているものである。
但し、こうしたことはすべて無知と偏見の賜である。誰もが気軽に「洋行」できるようになってまだそれほど時間が経ったわけではない。それも長期滞在となると、かなりに特権的な幸運である。しかも運良く長期滞在と言っても、せいぜい一年くらいで、その運に恵まれた人達であっても、それくらいの期間で「ぺらぺら」話せるようになるはずもない。
一年ほど現地に行けばその土地の言葉を不自由なく操れるようになるなんてとんでもない誤解だし、たとえ他人からはそのように見えるくらいの言語の運用力を持っていたとしても、よほどに言葉のセンスに恵まれている人や自信過剰な人を除けば、当人自身はいつまでも己の無能さ、浅学ぶりに忸怩たる思いをしているものである。
それに、年齢もある。30歳代ならまだしも、40、50歳を越えて初めて海外に行き、ほんの数カ月ないしはせいぜい1年ほど暮らしたからと言って、十分な聞き話す能力を身につけるなんてことにはなかなかなりはしない。
しかも、大学教師の場合、目的は学問研究と一応なっているのだから、その間には図書館通いなどで本や資料とにらめっこで、日本にいるのとたいして変わりなく、生身の言葉に触れる機会など高が知れている。
「まとも」と「贋者」の基準はなんとも多様なのだろうが、人を貶めたり己を責めたりするために用いられる「まとも」という基準で想定されているレベルに到達するのは、至難の業といったほうがよいだろう。
そんなわけで、ある程度は恵まれた人でさえ後ろめたさを拭えないのだから、ましてや、現地に行ったこともない不幸者ないしは「落ちこぼれ」は、尋常ならざる後ろめたさを抱え持たねばならない。
尤も、これがまだ30、40年前までのことなら、「俺は西洋になんか行ったことなどねえし、そのつもりもねえ」などとのたまう偉い「西洋文学者」もいた。
当時はまだ、西洋文学の紹介程度で十分に研究者を誇ることができたし、恥になりかねないことを堂々と広言なさる先生方はなんと言っても、「文学」を研究しているという自信に揺らぎがないように見えた。だから、許せるばかりか、やたらと外国語を小出しに使って悦に入っている軽佻浮薄な「教師」よりは、はるかに真摯で深い人格を備えているように見えたものだった。幸せな時代があったのである。
ともかくだから、日本の「国際化」への過渡期にいあわせた外国語教師にとって、西洋経験がないと広言するのはなかなかに勇気が要る。「どれくらい行ってはったんですか」などと憧れの色がにじむ口調で質問されて、「行ったことなどない」とは言いにくい。だからと言って、嘘も言えない。そこで、「むにゃむにゃ」。すると、学生のほうではこちらの気配を感じ取って、まずいことを聞いてしまったと後悔の色をにじませながらも、内心ではかすかにどころか多いに教師に不審を抱く。
こうして、学生からすれば、ただでさえ面倒で嫌な語学の授業の不毛性が実感される。教師であるこちらとしても、そうした懸念があるものだから、過剰に防衛的になる。知ったかぶりをほどほどに抑えて、その種の質問を封ずる工夫を凝らしたりというわけである。
他人様の話ではない。先にも述べたが、僕は教壇に立つようになって約15年間ほどは、そんないらぬ気苦労をしなければならず、ようやく40歳になって初めての洋行の機会を持ったからと言っても、長年の夢が実現して感謝感激などとは程遠い。
ほんの一月程の短期間、フランスを歩き回って、それを担保にせめて嘘にならないぎりぎりの知ったかぶりをする馬鹿さ加減が、それまでの「むにゃむにゃ」とどちらがましかを考えると、恥ずかしくて居たたまれなくなる。
いずれにしても、外国語教師というのは因果な商売といった類の愚痴になってしまいそうなのだが、もう20年ほど前の僕の初めての洋行、それに至るまでの長い長い道のりを辿ろうとしているのである。
今更何をと思わないわけでもないのだが、この海外(国籍がある韓国も含めて日本から外)への禁足こそが、その後の僕の人生の大枠を決めた感がある。そもそもそれがなければ、勉強がさして好きでもなく、フランス文学の魅力に憑りつかれたわけでもない僕が大学院へ進むなんてこともなかっただろうし、その延長で、しがない非常勤稼業をしながら、この種の文章で精神安定を計っているはずもないのである。
だからこそ、そうした人生の「躓き」の数ある中のひとつを改めて整理することで、現在の生の意味をもう少し鮮明に把握して、やがてやってくる老年期を楽しく生きる糧にできはしまいかという魂胆なのである。
尤も、僕の人生、大半が偶然の連鎖のようなものだから、因果を求めたいという僕の気持ちだけが、因果関係を捏造している気配がなきにしもあらずなのだが。
30年近く前、僕が大学4年の時に、朝鮮半島に暮らしていたり、その事情に何らかの思い入れを持った人々を小躍りさせる出来事があった。7・4南北共同声明である。悲願である統一の可能性が開けたと人々は狂喜したのである。
それから50年近くが経った今でも「南北統一なんて、いつの、どこの話?」と言わせるほどに冷厳な現実があるから、あれはやはり虚妄もしくは夢幻だったと言うべきだろう。あるいは、それでも長いスパンで見れば、やはり歴史の進歩であり、その原動力は民衆の戦いであったなどと、あくまで未来に夢をかけた執拗な戦いの過程としてあの狂乱の時期を位置づけることもできるかもしれない。
しかし、僕がその種の立派な議論をするはずもないし、その資格があろうはずもない。僕の話題は常に「私事」、そしてそれと連なる小さな世界に限られる。
とは言え、その私事においても、それはやはり大きな事件であり、この僕にもその余波があった。但し、何もしないでじっとしていたのに、その余波を受けたということではない。自らが望んでといえるかどうか微妙だけれども、やはりそれなりに自らの意志で、分不相応なことを承知しながらついつい首をつっこんだ結果として痛い目にあったのである。
自分には責任がないといったほうが楽と考える人もいるだろうが、僕は自分に責任を求めたほうが納得できるから、自己責任を自らに言い聞かしている。それでこそ「わが人生」と引き受けて耐えることができそうに思い込んでいるのである。
僕は当時、ある民族的な学生団体で責任のある地位についていた。もともと人員が限られているうえに、理科系の学生は上級生になると特に学校が忙しいからというわけで、文科系の4年生に責任ある地位のお鉢が回る慣例だったのである。そしてそうした言わば役回りという実情にあわせて、その責任も軽いものであればいいのだが、世の中、たいていそうはいかない。
下手をすれば組織メンバーのみならず、その家族をも巻き添えにする決定を下すことになりかねない。だからこそ、自分たちのしていることは大層なことだと思って力が入り、力が入るからいきおい、己の能力不足を痛感しては苦しむ。
その一方で、身丈に合わない責任を負った経験はいろんな意味で人を鍛えるようである。力に余ることが分かっていながら、それをこなそうと思えば、背伸びをして、いっぱしのはったりを覚えたり、人を活用する術を知るようにもなる。そして、その経験は社会に出て役に立つ。
若い頃に政治運動を経験した人々は、その後、往々にして辣腕を振るう。すかしたりなだめたりで集団を動かしたり、責任逃れの理屈を予め周到に用意していて、周囲を驚かせたりもする。人を動かす秘訣は、大義を盾にとり、個人の野心や利害とその大義を密通させることのようであり、その種の知恵を学ぶには政治運動は格好のもののようである。
それとは逆の経験の生かし方もあるだろう。力に余ることに手を出して火傷をした経験を糧に、慎ましさを自らに常に言い聞かせて、こつこつと生きる。社会とか政治とか、あるいはさらに、耳に快い言葉には警戒を怠らずに日常を生きようと努める人もいるだろう。
僕の場合はおそらく後者に属するのだろうが、昔取った杵柄というわけで、ロマンチシズムもしくは安手の正義感がなかなか抜けず、時には暴発する。その結果、周囲に迷惑をかけたり、自らも痛い目にあったりすることには、不思議なほどに変わりがない。学ばないし、学べないのである。いまだに、正義感やロマンチシズムがまるで安酒のように僕を酔わせて、ひどいことになってしまう。
繰り返しになるし、酒に酔っての大言壮語と思われかねないが、7・4声明は、大きな出来事であり、僕はその事件に襲われたという印象が強い。自分の想いや能力などとは関係なく、ひたすら追い詰められて、大きな傷を負った。人生で数ある危機のなかでも、他人に吹聴できそうな危機の一つだった。
尤も、本当はもっと個人的で恥ずかしく、にっちもさっちもいかない危機が数多くあったけれども、その種の内密な経験は僕自身の本質的な弱点に関わっているからなのか、なかなか整理できない。そこで、少しは大層ぶって吹聴できそうなその事件に頼るわけである。
さて、その学生団体での経験の話に戻りたいのだが、在日とは関係ない人、また在日でも若い人には実感するのは難しいから、退屈なはずである。しかし、それをある程度は話さないと始まらないので、ご容赦をお願いしておく。
在日朝鮮人を束ねる大組織が二つある。60万に及ぶ在日朝鮮人を二分し、反目し敵対している。一方は南を、他方は北を支持している。その構成員たちの個々が実際にどのように考えているのかを括弧にいれれば、そうなっている。そして僕は物心ついた頃には、既に南の側に所属していた。もちろん、両親の判断でそうであった。
少なくとも成人に達するまでは、南か北か、自らの所属団体を選択できない。国籍の場合と似ている。この両団体は、言わば「国」の代用物であった。国なのだから、当然、国境がある。南と北の団体の間には、見えない国境線が敷かれていた。その線を越えようとすると、激しい妨害があり、懲罰があった。たった60万の朝鮮人が日本に散在し、そこに国境線などと何を寝言を、という向きもあるかもしれないが、実際そうであった。
ところが、そうした反目対立が打ち破られる可能性が兆した。先に述べた7・4共同声明である。南の政権の中枢が北に赴き、北のトップと握手した。仇敵同士の笑顔の握手だから、まさに晴天の霹靂というやつである。これで冷戦的論理は崩壊し、国境もなくなるはず、喜ばずにはおれようかというわけで、統一や民主を標榜する人々や組織が、これ幸いと攻勢に出る。
とりわけ、北サイドから南サイドには、南北の境界を越えて手を結び、反動の息の根を止めよう、といった類の呼びかけが一斉になされた。南北の統一を阻んでいるのは南の「傀儡政権」とその背後のアメリカ帝国主義、この種の見方が圧倒的な主流であり、それを主張するのが正義ということになっていた。
僕自身もご多分にもれず、南サイドに位置しながらも「南悪玉論」の影響下にあったから、その種の「正しい」呼びかけに、まともに反論などできるはずもない。それになにしろ若かった。今こそ立ち上がる時、といった台詞には抗いがたい。
しかし、と二の足を踏んだ。僕の状況認識からすれば、声明そのものが眉唾ものだった。専制的政権が外交で民主を気取れば、内部ではそれに反比例して抑圧が強まる、といった常識を知らないはずもなかった。それでも敢えて前に進まねばならないという使命感もなくはないし、その種の主体意識が歴史を変える原動力だと教えられ、そのように考えようともしていた。
しかし、その使命感とは裏腹に、政権の反撃に耐えられる力を、自分のみならず、団体の個々人と団体自体が備えているなどとはとうてい思えなかった。独裁政権の悪あがきなどと能天気に言い放ち、近い将来の勝利を自信たっぷりに吹聴する声が大きくなっていたが、その種の政権の末端と日々接触している身からすれば、その悪あがきはしたたかに、しかも長期に亘って猛威を奮うだろうし、その間、そこに身をおく人間はそのとばっちりで痛い目にあい続ける、という確信に近い展望もあった。
それにまた、正義を居丈高に主張する口吻に、胡散臭さを感じないではおれなかった。生来の天の邪鬼なのである。その頃に僕が接触した在日の北サイドの研究者や学生や組織の代表たちは口を揃えて、民族統一がなった暁には、高級幹部として民族に奉仕することができるように、日夜研究に励んでいるなどと、恥ずかし気もなく宣っていた。その表情、そして口吻が僕には耐えがたかった。
しかし、先にも言ったように、多少の危惧や違和感があっても、「南悪玉論」を論破する能力も意志も持ち合わせていなかった。もしこちらの考えを少しでも言おうものなら、返ってきそうな非難、そしてレッテル張りは察しがついていた。
だからといって一方的に受け身でいるわけにもいかない。なんとか一矢を報いたいというわけで、サルトルをかじっていた僕は、格好をつけたつもりで「反吐がでる」とだけ言って、だんまりを決め込んだ。
その「反吐」は二つのものに向けられていた。南北の政権のご都合主義と、在日の正義を気取る能天気にである。自分の馬鹿げた正義感ぶりは許せるのに、他人のそれは許せないというなんとも「嫌な奴」なのである、この僕は。
もちろん、駄々を捏ねるようなその種の台詞で、追い詰められた僕の状況に変化が起こるはずもない。「反民族的」とか「敗北主義」とか「だら幹」とか、いろんな蔑称で指弾を受けそうな気配に、内心、おどおどじたばた、となる。
その結果、歴史に遅れを取ってはなるまいという使命感に衝き動かされる。こうして右往なのか左往なのか、ともかく確信もなく「ぶれる」ままに開催することになった南北学生青年の集会、それを口実に僕が所属していた学生団体は親団体から追放され、僕を含む数名が除名という最大級の処分を受けた。
ただの自主的な大衆団体ごときから除名されたくらいなんだという向きもあるだろうが、先にも述べたように、この団体はいわば「国」なのだから、これはなかなか大変なことであった。しかも、それだけならまだしも、もう一つ大きなパンチを背後から食らうことになる。
同じく処分を受けた「同志」が僕の全く知らぬ所で、僕とは正反対の方向で、北系の組織と連絡を取り、共同行動を行う手はずを整えていたのである。そのことを知らされて、僕はショックだった。
先ずは、裏切られたと思った。耐えられない思いだった。ところが、よくよく考えてみれば、その「友人」或いは「同志」のほうが、僕よりはるかに自らの置かれた位置に関する厳しい自覚を持っていることに気づかないわけにはおれなかった。僕なんかとは比べものにならないほどに、主体的に組織を動かす覚悟を決めてのことだったのだろうと思った。いろんなレベルで僕は負けたことを悟った。
しかも、その「負けた」という感じ方自体が僕の密かな現実を露呈していることにも思い至った。背信と言っても、僕はその友人を競争相手に見立て、ライバル意識を自らに隠して友人を気取っていたにすぎず、僕の方がむしろ背信を日常的に犯していたのではないか。人格的にも、組織を担う責任感や状況認識にしても、僕には政治的行為を担う資格がありそうになく、当然、その種の組織活動など僕の居場所ではありえないと結論づけざるをえなかった。僕はこうして収縮を迫られた。
自分をその最たる対象としての人間不信などと言えば格好がつきそうなのだけれども、なによりうんざりしていた。組織なんて金輪際やめた、解放されたい、といったところだろうか。要するに逃げを打つことに決めたわけである。
ところが、それで話が片づけばいいのだが、そうは問屋が卸さない。公的責任の観念が、まだまだ僕を束縛する。僕は組織の責任者として罰せられたのだから、僕の一存で、そして僕自身の主張で、その懲罰の撤回を求めるわけにはいかないという理屈にがんじがらめになった。個人的に処分の撤回を求めれば、僕は組織とその大義に対して許すべからざる背信を犯すことになる。
ところが、である。その組織なるものは学生団体だから、責任者は毎年変わり、過去の責任者がどうであれ、その面倒を見る余裕があるはずもない。放置され、忘れられる。なのに、僕の方では自分勝手にその組織に義理立てを続ける。
こうして、僕は組織や責任という言葉を使いながらも、実は義理とか節操とかといった古臭い理屈を後生大事に抱えこんで、佇むしかなかった。つまり、一種の無国籍状態に甘んじて、自分が生きる世界をできる限り収縮して、世間の片隅で生きるなどという、滑稽なセンチメンタリズム。
ところが、それでもなお、世間は放っておいてくれなかった。「古傷」を突かれる。
今では少しは変化があるようなのだが、当時は在日朝鮮人には就職の可能性がきわめて限られていた。僕のような者が卒業後に就職するとすれば、同胞系企業を除いてはほとんどなかった。そして職種も、韓国や在日相手の貿易商社やサービス産業に限られていた。そしてそんなことは幼い頃から承知のうえだから、親父の跡を継いで家内工業の親父になることを運命と諦めていた。
しかし、まだ若い。少しは世間の波にもまれるまでの猶予をというわけで、たまたま紹介を受けた小さな新聞社を訪問したところ、直ちに試験を受けるように勧められ、即座に合格が決まった。僕ごときを大歓迎するのだから、ひどく人材が不足していたのだろう。
こちらとしては、それは有り難いことなのだが、説明を受けてみると、韓国への往来や同胞系企業を回って広告集めもしなければならないようである。そうなれば、僕の「傷」は決定的な障害になる。そんなところで僕のような傷者が働けるわけがないのである。
尤も、その傷を消すことが不可能だったわけではない。始末書、当時の僕の言葉ならば転向書を書いて、謝罪すれば、処分の撤回などの可能性もなくはなかった。
しかし、僕としては、節操という言葉がそれを許さなかったし、それ以上に、あのややこしい世界で改めて苛められるのはなんとしても避けたかった。
「ややこしい」というのはこういうことだ。日本の中の民族社会といっても日本人にはよくわからないだろうし、たとえ在日朝鮮人といっても、僕の子供あたりの世代になると全く実感がないだろう。
でも僕の世代では、それは相当に大きな力を奮っていた。たかだか20万から30万人程度の団体が、地域毎に支部を持ち、その支部の下にはまた分団が、というように「行政」の網が張り巡らされている。
事務所もあれば、人員もいる。当然、経費もかかる。その経費はどこからかと言えば、民族の為ならというわけで、お金を惜しみなく供出する人々がいた。金のある人はたくさん、ない人は少し、分に応じてというわけである。
つまり、そこには紛れもない一つの濃厚な共同体が成立していた。役員を選ぶには、出身地域、血縁、お金の総動員。当然、その集団の情報ネットワークはなかなかのものだった。
だからこそ、誰それの息子はどうだこうだといった情報が集まり、伝搬する。昔の村の寄り合い所といったところか。但し、その「寄り合い所」が「在日朝鮮人の村」の行政機構でもあれば、警察機構でもあると言えば、少しは事情が伝わるだろうか。
ともかく、そこで一旦話題になれば、本当のことかどうかなど関係なく、真実として登録され、しかも、それは思わぬ所まで伝わる。なんと日本の警察機構の奧にまで。日本の警察は在日朝鮮人を敵対集団として規定し、日々監視している。隠密に情報収集しているだけではない。在日の世界に深く入りこんでいる。
とりわけ、南の「村」には。政権同士の友好はもちろん波及する。その「南の村」の行政機構と日本の警察は、警戒しながらも「仲良し」なのであり、機構の手助けもあってのことか、「南の村」の個々の住民の家にまで公然と入り込んでくる。
たとえば、外事課の刑事が日常的に朝鮮人の家庭に足を踏み入れる。強権的に管理するというのではない。忍び入るとういうのでもない。
家に帰ると、見慣れない顔が座り、父親と言葉をかわしながら、テレビを見ている。知らない親戚か、父の知人だろうと推測をつける。しかし、父親が気乗りしていないことくらいは、それとなく分かる。だから余計に気になって、その人が姿を消した後に、「誰?」と母親にたずねると、嫌な顔をして相手にしない。そこで父親に問いを向けると、「警察や」という。なんでそんな奴、と不満をこぼすと、「気にするな」と宥める口調が戻ってくる、といった按配。
そんなおっさんが、結婚式などにはお祝いを持ってひょっこり現れる。まさに親戚付き合いなのである。警察と南は北に対しては友好団体で、しかも警察は実際にはその南さえも不穏団体として警戒を怠らない。三つどもえということになる。そして、そこにさらに南の情報機関が絡む。
因みに、僕がまだ学生だった頃、友人のそのまた友人が日本の国会議員の息子で、学生をしながら形式的には父親の秘書として俸給を貰い、豪勢な学生生活を送っていた。住まいは四谷の議員宿舎だった。話題は車と麻雀その他の遊びに限られていたその息子、いたって気が好く、頭の回転も速く、金回りもいい。
そんな彼や僕の友人などが、デモや何やで僕が上京する度に、何かと相手をして遊んでくれた。僕がピッツァなるものを始めて食べたのは、彼らが連れて行ってくれた市ヶ谷の「ラ・サラ・マンジェ」という瀟洒なレストランだった。
そんなある時に、その議員秘書氏がなんとも軽い乗りで、しかし、何か曰くありげに、漏らしたことがある。「玄君て、なかなかの大物らしいねえ、公安のブラックリストに載ってるよ」。
「僕の傷」はどこをどう通ってのことか、なんと日本の国会議員、それも野党議員の「秘書」にまで伝わっていたことになる。
このように日本の警察と南の情報機関と在日の村的な社会に包囲された私が、「傷もの」となると、ことは僕だけの問題ではない。父親までもがパスポートの発給を拒まれ、しかも、その村での居心地が悪くなった。
これは大事件である。というのも、父親にとって仕事以外では日本の友人は皆無だから、社会は「民族の村」しかなかった。それに加えて、ある程度生活が楽になってからは里心が強くなり、まるでこちらの生活は仮の生活と思えるほどに足繁く韓国滞在を繰り返していた。そんな父から大事な二つの世界が僕のせいで奪われてしまったのである。
そんな父にとっての社会への切符であるパスポートと在日の社会とをはく奪させた張本人である僕は、ひどい親不孝者ということになり、父は僕に「転向」を迫った。 あの時の父親の顔ほど、親子と言えども他人どころか敵になりうることを実感したことはない。へ理屈をこねていても、僕は「甘ちゃん」であったわけだし、今でもどれだけ変わったのやら。
さてともかく、その団体の下部組織はたいていが父親と友人関係なのだから、そこのおっさん連中は親父に同情したり、また反対に、僕をネタにして父を虐めたりする者も出てくる。
イジメと同情の一環で、僕を呼びつけては諭しにかかる。大人の理屈を開陳し、「情」に訴える。上が決めたことは、たとえ間違っていても、ひとまず立てて受け入れて、謝ればすむことじゃないか、というわけである。そもそも、組織なんてものもいい加減なものだから、適当に相手をしておいたらいい、と言うのである。
子供の頃から知っているおっちゃん連中に、若者の理屈をまくしたてるわけにもいかない。ましてや喧嘩するわけにもいかない。親の体面もあれば、それらおっちゃんたちとの「幸福なコミュニティ」への郷愁が僕には確実にある。僕は「在日朝鮮人の村の子供」なのである。
だからこそ、このおっちゃんたちに囲まれて、言葉を無くして白けさせるのはなかなか辛いことであった。当然の如く、次第に情にほだされて辛い。
そうしたことは、そういう場所に呼ばれて、親の顔を立てるという理屈でのこのこ顔を出すことに応じた時点で既に決まったも同然。親を立てながらこちらの節操もなんてことは、とうてい無理な相談なのである。それでも僕も僕なりにしつこい。理屈はいつだってある。
なるほど僕が悪い、とまずは考えた。だって、僕は自分の「思想」のせいで、何の関係もない親たちに大きな不利益を与えてしまったのだから。いくら親と言っても、それを盾に迷惑をかけてもいいというのは「子供」の理屈である。もちろん、一番悪いのは、子供のことで親にまで累を及ぼす馬鹿げた政治や「村」の体制ということになるのだろうが、僕としては、そういう正論に閉じこもるわけにはいかず、「一人前の大人」として結果責任を負わねばならない。
しかし、だからといって、節操を曲げるわけにはいかない。そこで、一工夫。親父への罪滅ぼしのつもりで、「社会」は諦めよう。しかし、内部では己を守るんだ、と。
尤も、この「社会」が何を意味しているのか、誰にもよく分からないに違いない。今の僕にだってよく分からない。ただなんとなく言えば、自分が信じることを公にして、その責任を引き受けるために行動すること、当時の言葉で言えば、社会参加ということであったはずで、それを断念するということだった。
もちろん、この「社会からの隠退」にはそういう事情に加えて、先にも述べた僕の敗北感と倦怠感も作用していた。自分の世界を小さくして、責任のとれる範囲で生きるしかない。家族や地元や友人のレベルならなんとか責任を持って充実した生活を送ることができるかもしれない。
その範囲を越えた「社会」に関しては、行動は諦めて認識にとどめよう。行動のない認識だけのことであれば、僕は大きく自由な世界に生きることが許される。それこそが本の世界ということになる。大学院へ進んだのは、そうした脈絡の考えもあってのことだった。密かに「私の真実」に生きよう、といったところ。
しかし、それが徹底されていればまだしも、その道さえも中途半端でついには失敗に帰して、今の僕がいるということになる。右往左往を繰り返しながらの退却戦なのだが、それで満足している気配の自分がいるのは、一体、どうなっているのやら。これがあれほど嫌悪していた「大人」になったということなのだろうか。