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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

初めての「洋行」に至るまで(1)

2018-03-30 11:00:04 | 中高年の屈託と社会
    初めての「洋行」に至るまで(1)
                                     

前回に引き続きスポーツの話を、悦びに焦点をあてて書くつもりでいたが、散々頭を悩ましても、その「悦び」なるものが見つけられなかった。しかもその間に、僕には相当に目新しい出来事があって、そのために時間を取られたり、浮気心も起こったせいでもある。そこで今回は、その浮気心を呼び起こした旅について書いてみたい。

 年末に急きょ、仕事でハワイへ行く羽目になった。アメリカの領土に足を踏みいれたのは生まれて初めてのことだから、珍しさと嬉しさの余りにその土産話で悦にいろうというわけでもない。そもそも、たかが3泊5日の慌ただしい仕事の旅だから、楽しそうな趣がある旅行などと呼びうるものなどではないと言いたいところだが、そんな書きかたをすれば、かえって照れ隠しのようで嫌味な話になってしまいかねない。正直なところ、嬉しさ3分、情けなさ3分、腹立ち3分、そしてあとの1分は?といった微妙な気分の旅だった。
 
 その微妙、複雑な心の襞に入り込んでその詳細を書きたいのだけれども、仕事絡みということもあって何かと差し障りがある。それに、いくら自虐趣味がある僕でも、さすがに程度が問題で、自分の恥を晒すのには限界がある。優れた私小説家が、自己検閲を破ろうとする衝迫によって、私生活の些事を芸術的に昇華して作品を創りだすといった場合とは、そもそも器と志が違う。
 
 そこで、恥をちょい出しにしながら自己防御を図り、さらには精神的余裕を取り戻すために、のっけから少しばかり迂回する。
 
 今の学生諸君ばかりか一般にも、洋行経験のない人は少数派というイメージがある。なるほど、以前と比べれば「洋行」(なんとも古臭い言葉遣いなのだが、僕の心境に限ってはそれが相応しく思えるから、苔生した言葉だとは思いながらも、わりと自然に用いている)する人は飛躍的に増えているが、それはあくまで過去と比べてという比較相対的な話にすぎず、今だって外国旅行などとは全く縁のないままに一生を終える人がたくさんいるはずである。

 しかし、大学の外国語(それも西洋語、或いは西洋文学の)教師という職に就きながら西洋に行ったことのないような人は今ではすごく少なくなっているのは確かなことだろう。現地に行かなくても「文学」や「言語学」の研究は可能だと言い張る人もいないわけではないが、その種の人は、よほどに腰が坐っていたり、自分の業績に自信がある人だろう。

 したがって、そうした数少ない大?学者を除けば、「落ちこぼれ」か、特殊な事情があるからこそ洋行の機会がなかった不運な人か、或いはまた、機会があっても怯えからそれを固辞してしまったような人であるに違いない。そしてそのうちの前の二つ、つまり「落ちこぼれ」かつ「特殊事情」を持つという条件を兼ね備えた一人が、僕というわけである。
 
 その僕は、非常勤講師という「日陰の身」ではあっても、大学に入学して以来、大学という名の象牙の塔もしくはレジャーランドでの生息歴30年に及ぶ。

ところが、以前の「私の言葉」シリーズ(『在日の言葉』として公刊されている)でも思わせぶりに少し触れたことなのだが、長い間、日本の外には一歩たりとも足を伸ばせない境遇だった。「若気の過ち」というやつで、学生時代に在日の学生運動まがいをしたせいで、その懲罰として韓国政府からパスポートの発給を拒まれるなど、一種の無国籍状態に陥っていたのである。

 そしてそれにまつわる様々な不便、不利益をしのいで20年、40の歳になってようやく海外への門戸が開かれた。つまり、高校時代に特別に臨時パスポートをいただいて韓国を訪問して以来、20年以上もの間、外国へ、といっても僕は生まれてこのかた「外国」である日本に住んでいるのだから話が厄介なのだが、ともかく日本の国境の外へは足を踏み出せなかったのである。
 
 一般にはそれくらいのことは大した不都合にならないのだろうが、先に触れた僕のような立場では、いささか具合が悪い。なにしろ一応は「大学の先生」である。いくら地に墜ちたとは言え、大学の先生なるものに対する先入観がある。フランス語の教師はフランス語がぺらぺら、といったそれである。

 そうだからこそ「まとも」にフランス語が話せない教師がフランス語を教えるのは言語道断などとのたまい、そんな「贋者」が教える外国語教育など無効だなどとけたたましく言い募る教師や学生がおり、社会がある。それに、たとえ世間がそこまで素朴に大学教師への信頼と、それと裏腹の不信を云々しなくとも、当の外国語教師はついつい後ろめたさを覚え、外見はそんな素振りは見せないようにしていても、内心では肩身を狭くしているものである。

 但し、こうしたことはすべて無知と偏見の賜である。誰もが気軽に「洋行」できるようになってまだそれほど時間が経ったわけではない。それも長期滞在となると、かなりに特権的な幸運である。しかも運良く長期滞在と言っても、せいぜい一年くらいで、その運に恵まれた人達であっても、それくらいの期間で「ぺらぺら」話せるようになるはずもない。

 一年ほど現地に行けばその土地の言葉を不自由なく操れるようになるなんてとんでもない誤解だし、たとえ他人からはそのように見えるくらいの言語の運用力を持っていたとしても、よほどに言葉のセンスに恵まれている人や自信過剰な人を除けば、当人自身はいつまでも己の無能さ、浅学ぶりに忸怩たる思いをしているものである。

 それに、年齢もある。30歳代ならまだしも、40、50歳を越えて初めて海外に行き、ほんの数カ月ないしはせいぜい1年ほど暮らしたからと言って、十分な聞き話す能力を身につけるなんてことにはなかなかなりはしない。

 しかも、大学教師の場合、目的は学問研究と一応なっているのだから、その間には図書館通いなどで本や資料とにらめっこで、日本にいるのとたいして変わりなく、生身の言葉に触れる機会など高が知れている。

 「まとも」と「贋者」の基準はなんとも多様なのだろうが、人を貶めたり己を責めたりするために用いられる「まとも」という基準で想定されているレベルに到達するのは、至難の業といったほうがよいだろう。
 
 そんなわけで、ある程度は恵まれた人でさえ後ろめたさを拭えないのだから、ましてや、現地に行ったこともない不幸者ないしは「落ちこぼれ」は、尋常ならざる後ろめたさを抱え持たねばならない。

 尤も、これがまだ30、40年前までのことなら、「俺は西洋になんか行ったことなどねえし、そのつもりもねえ」などとのたまう偉い「西洋文学者」もいた。

 当時はまだ、西洋文学の紹介程度で十分に研究者を誇ることができたし、恥になりかねないことを堂々と広言なさる先生方はなんと言っても、「文学」を研究しているという自信に揺らぎがないように見えた。だから、許せるばかりか、やたらと外国語を小出しに使って悦に入っている軽佻浮薄な「教師」よりは、はるかに真摯で深い人格を備えているように見えたものだった。幸せな時代があったのである。
 
 ともかくだから、日本の「国際化」への過渡期にいあわせた外国語教師にとって、西洋経験がないと広言するのはなかなかに勇気が要る。「どれくらい行ってはったんですか」などと憧れの色がにじむ口調で質問されて、「行ったことなどない」とは言いにくい。だからと言って、嘘も言えない。そこで、「むにゃむにゃ」。すると、学生のほうではこちらの気配を感じ取って、まずいことを聞いてしまったと後悔の色をにじませながらも、内心ではかすかにどころか多いに教師に不審を抱く。

こうして、学生からすれば、ただでさえ面倒で嫌な語学の授業の不毛性が実感される。教師であるこちらとしても、そうした懸念があるものだから、過剰に防衛的になる。知ったかぶりをほどほどに抑えて、その種の質問を封ずる工夫を凝らしたりというわけである。
 
 他人様の話ではない。先にも述べたが、僕は教壇に立つようになって約15年間ほどは、そんないらぬ気苦労をしなければならず、ようやく40歳になって初めての洋行の機会を持ったからと言っても、長年の夢が実現して感謝感激などとは程遠い。

 ほんの一月程の短期間、フランスを歩き回って、それを担保にせめて嘘にならないぎりぎりの知ったかぶりをする馬鹿さ加減が、それまでの「むにゃむにゃ」とどちらがましかを考えると、恥ずかしくて居たたまれなくなる。
 
 いずれにしても、外国語教師というのは因果な商売といった類の愚痴になってしまいそうなのだが、もう20年ほど前の僕の初めての洋行、それに至るまでの長い長い道のりを辿ろうとしているのである。

 今更何をと思わないわけでもないのだが、この海外(国籍がある韓国も含めて日本から外)への禁足こそが、その後の僕の人生の大枠を決めた感がある。そもそもそれがなければ、勉強がさして好きでもなく、フランス文学の魅力に憑りつかれたわけでもない僕が大学院へ進むなんてこともなかっただろうし、その延長で、しがない非常勤稼業をしながら、この種の文章で精神安定を計っているはずもないのである。

だからこそ、そうした人生の「躓き」の数ある中のひとつを改めて整理することで、現在の生の意味をもう少し鮮明に把握して、やがてやってくる老年期を楽しく生きる糧にできはしまいかという魂胆なのである。

 尤も、僕の人生、大半が偶然の連鎖のようなものだから、因果を求めたいという僕の気持ちだけが、因果関係を捏造している気配がなきにしもあらずなのだが。

 30年近く前、僕が大学4年の時に、朝鮮半島に暮らしていたり、その事情に何らかの思い入れを持った人々を小躍りさせる出来事があった。7・4南北共同声明である。悲願である統一の可能性が開けたと人々は狂喜したのである。

 それから50年近くが経った今でも「南北統一なんて、いつの、どこの話?」と言わせるほどに冷厳な現実があるから、あれはやはり虚妄もしくは夢幻だったと言うべきだろう。あるいは、それでも長いスパンで見れば、やはり歴史の進歩であり、その原動力は民衆の戦いであったなどと、あくまで未来に夢をかけた執拗な戦いの過程としてあの狂乱の時期を位置づけることもできるかもしれない。
 
 しかし、僕がその種の立派な議論をするはずもないし、その資格があろうはずもない。僕の話題は常に「私事」、そしてそれと連なる小さな世界に限られる。

 とは言え、その私事においても、それはやはり大きな事件であり、この僕にもその余波があった。但し、何もしないでじっとしていたのに、その余波を受けたということではない。自らが望んでといえるかどうか微妙だけれども、やはりそれなりに自らの意志で、分不相応なことを承知しながらついつい首をつっこんだ結果として痛い目にあったのである。

 自分には責任がないといったほうが楽と考える人もいるだろうが、僕は自分に責任を求めたほうが納得できるから、自己責任を自らに言い聞かしている。それでこそ「わが人生」と引き受けて耐えることができそうに思い込んでいるのである。
 
 僕は当時、ある民族的な学生団体で責任のある地位についていた。もともと人員が限られているうえに、理科系の学生は上級生になると特に学校が忙しいからというわけで、文科系の4年生に責任ある地位のお鉢が回る慣例だったのである。そしてそうした言わば役回りという実情にあわせて、その責任も軽いものであればいいのだが、世の中、たいていそうはいかない。

下手をすれば組織メンバーのみならず、その家族をも巻き添えにする決定を下すことになりかねない。だからこそ、自分たちのしていることは大層なことだと思って力が入り、力が入るからいきおい、己の能力不足を痛感しては苦しむ。

 その一方で、身丈に合わない責任を負った経験はいろんな意味で人を鍛えるようである。力に余ることが分かっていながら、それをこなそうと思えば、背伸びをして、いっぱしのはったりを覚えたり、人を活用する術を知るようにもなる。そして、その経験は社会に出て役に立つ。

 若い頃に政治運動を経験した人々は、その後、往々にして辣腕を振るう。すかしたりなだめたりで集団を動かしたり、責任逃れの理屈を予め周到に用意していて、周囲を驚かせたりもする。人を動かす秘訣は、大義を盾にとり、個人の野心や利害とその大義を密通させることのようであり、その種の知恵を学ぶには政治運動は格好のもののようである。
 
 それとは逆の経験の生かし方もあるだろう。力に余ることに手を出して火傷をした経験を糧に、慎ましさを自らに常に言い聞かせて、こつこつと生きる。社会とか政治とか、あるいはさらに、耳に快い言葉には警戒を怠らずに日常を生きようと努める人もいるだろう。

 僕の場合はおそらく後者に属するのだろうが、昔取った杵柄というわけで、ロマンチシズムもしくは安手の正義感がなかなか抜けず、時には暴発する。その結果、周囲に迷惑をかけたり、自らも痛い目にあったりすることには、不思議なほどに変わりがない。学ばないし、学べないのである。いまだに、正義感やロマンチシズムがまるで安酒のように僕を酔わせて、ひどいことになってしまう。

繰り返しになるし、酒に酔っての大言壮語と思われかねないが、7・4声明は、大きな出来事であり、僕はその事件に襲われたという印象が強い。自分の想いや能力などとは関係なく、ひたすら追い詰められて、大きな傷を負った。人生で数ある危機のなかでも、他人に吹聴できそうな危機の一つだった。

 尤も、本当はもっと個人的で恥ずかしく、にっちもさっちもいかない危機が数多くあったけれども、その種の内密な経験は僕自身の本質的な弱点に関わっているからなのか、なかなか整理できない。そこで、少しは大層ぶって吹聴できそうなその事件に頼るわけである。

 さて、その学生団体での経験の話に戻りたいのだが、在日とは関係ない人、また在日でも若い人には実感するのは難しいから、退屈なはずである。しかし、それをある程度は話さないと始まらないので、ご容赦をお願いしておく。

 在日朝鮮人を束ねる大組織が二つある。60万に及ぶ在日朝鮮人を二分し、反目し敵対している。一方は南を、他方は北を支持している。その構成員たちの個々が実際にどのように考えているのかを括弧にいれれば、そうなっている。そして僕は物心ついた頃には、既に南の側に所属していた。もちろん、両親の判断でそうであった。

 少なくとも成人に達するまでは、南か北か、自らの所属団体を選択できない。国籍の場合と似ている。この両団体は、言わば「国」の代用物であった。国なのだから、当然、国境がある。南と北の団体の間には、見えない国境線が敷かれていた。その線を越えようとすると、激しい妨害があり、懲罰があった。たった60万の朝鮮人が日本に散在し、そこに国境線などと何を寝言を、という向きもあるかもしれないが、実際そうであった。
 
ところが、そうした反目対立が打ち破られる可能性が兆した。先に述べた7・4共同声明である。南の政権の中枢が北に赴き、北のトップと握手した。仇敵同士の笑顔の握手だから、まさに晴天の霹靂というやつである。これで冷戦的論理は崩壊し、国境もなくなるはず、喜ばずにはおれようかというわけで、統一や民主を標榜する人々や組織が、これ幸いと攻勢に出る。

 とりわけ、北サイドから南サイドには、南北の境界を越えて手を結び、反動の息の根を止めよう、といった類の呼びかけが一斉になされた。南北の統一を阻んでいるのは南の「傀儡政権」とその背後のアメリカ帝国主義、この種の見方が圧倒的な主流であり、それを主張するのが正義ということになっていた。
 
 僕自身もご多分にもれず、南サイドに位置しながらも「南悪玉論」の影響下にあったから、その種の「正しい」呼びかけに、まともに反論などできるはずもない。それになにしろ若かった。今こそ立ち上がる時、といった台詞には抗いがたい。

しかし、と二の足を踏んだ。僕の状況認識からすれば、声明そのものが眉唾ものだった。専制的政権が外交で民主を気取れば、内部ではそれに反比例して抑圧が強まる、といった常識を知らないはずもなかった。それでも敢えて前に進まねばならないという使命感もなくはないし、その種の主体意識が歴史を変える原動力だと教えられ、そのように考えようともしていた。

 しかし、その使命感とは裏腹に、政権の反撃に耐えられる力を、自分のみならず、団体の個々人と団体自体が備えているなどとはとうてい思えなかった。独裁政権の悪あがきなどと能天気に言い放ち、近い将来の勝利を自信たっぷりに吹聴する声が大きくなっていたが、その種の政権の末端と日々接触している身からすれば、その悪あがきはしたたかに、しかも長期に亘って猛威を奮うだろうし、その間、そこに身をおく人間はそのとばっちりで痛い目にあい続ける、という確信に近い展望もあった。

 それにまた、正義を居丈高に主張する口吻に、胡散臭さを感じないではおれなかった。生来の天の邪鬼なのである。その頃に僕が接触した在日の北サイドの研究者や学生や組織の代表たちは口を揃えて、民族統一がなった暁には、高級幹部として民族に奉仕することができるように、日夜研究に励んでいるなどと、恥ずかし気もなく宣っていた。その表情、そして口吻が僕には耐えがたかった。

 しかし、先にも言ったように、多少の危惧や違和感があっても、「南悪玉論」を論破する能力も意志も持ち合わせていなかった。もしこちらの考えを少しでも言おうものなら、返ってきそうな非難、そしてレッテル張りは察しがついていた。

 だからといって一方的に受け身でいるわけにもいかない。なんとか一矢を報いたいというわけで、サルトルをかじっていた僕は、格好をつけたつもりで「反吐がでる」とだけ言って、だんまりを決め込んだ。

 その「反吐」は二つのものに向けられていた。南北の政権のご都合主義と、在日の正義を気取る能天気にである。自分の馬鹿げた正義感ぶりは許せるのに、他人のそれは許せないというなんとも「嫌な奴」なのである、この僕は。
 
 もちろん、駄々を捏ねるようなその種の台詞で、追い詰められた僕の状況に変化が起こるはずもない。「反民族的」とか「敗北主義」とか「だら幹」とか、いろんな蔑称で指弾を受けそうな気配に、内心、おどおどじたばた、となる。

 その結果、歴史に遅れを取ってはなるまいという使命感に衝き動かされる。こうして右往なのか左往なのか、ともかく確信もなく「ぶれる」ままに開催することになった南北学生青年の集会、それを口実に僕が所属していた学生団体は親団体から追放され、僕を含む数名が除名という最大級の処分を受けた。

 ただの自主的な大衆団体ごときから除名されたくらいなんだという向きもあるだろうが、先にも述べたように、この団体はいわば「国」なのだから、これはなかなか大変なことであった。しかも、それだけならまだしも、もう一つ大きなパンチを背後から食らうことになる。

 同じく処分を受けた「同志」が僕の全く知らぬ所で、僕とは正反対の方向で、北系の組織と連絡を取り、共同行動を行う手はずを整えていたのである。そのことを知らされて、僕はショックだった。

 先ずは、裏切られたと思った。耐えられない思いだった。ところが、よくよく考えてみれば、その「友人」或いは「同志」のほうが、僕よりはるかに自らの置かれた位置に関する厳しい自覚を持っていることに気づかないわけにはおれなかった。僕なんかとは比べものにならないほどに、主体的に組織を動かす覚悟を決めてのことだったのだろうと思った。いろんなレベルで僕は負けたことを悟った。

 しかも、その「負けた」という感じ方自体が僕の密かな現実を露呈していることにも思い至った。背信と言っても、僕はその友人を競争相手に見立て、ライバル意識を自らに隠して友人を気取っていたにすぎず、僕の方がむしろ背信を日常的に犯していたのではないか。人格的にも、組織を担う責任感や状況認識にしても、僕には政治的行為を担う資格がありそうになく、当然、その種の組織活動など僕の居場所ではありえないと結論づけざるをえなかった。僕はこうして収縮を迫られた。

 自分をその最たる対象としての人間不信などと言えば格好がつきそうなのだけれども、なによりうんざりしていた。組織なんて金輪際やめた、解放されたい、といったところだろうか。要するに逃げを打つことに決めたわけである。

 ところが、それで話が片づけばいいのだが、そうは問屋が卸さない。公的責任の観念が、まだまだ僕を束縛する。僕は組織の責任者として罰せられたのだから、僕の一存で、そして僕自身の主張で、その懲罰の撤回を求めるわけにはいかないという理屈にがんじがらめになった。個人的に処分の撤回を求めれば、僕は組織とその大義に対して許すべからざる背信を犯すことになる。

ところが、である。その組織なるものは学生団体だから、責任者は毎年変わり、過去の責任者がどうであれ、その面倒を見る余裕があるはずもない。放置され、忘れられる。なのに、僕の方では自分勝手にその組織に義理立てを続ける。

 こうして、僕は組織や責任という言葉を使いながらも、実は義理とか節操とかといった古臭い理屈を後生大事に抱えこんで、佇むしかなかった。つまり、一種の無国籍状態に甘んじて、自分が生きる世界をできる限り収縮して、世間の片隅で生きるなどという、滑稽なセンチメンタリズム。

 ところが、それでもなお、世間は放っておいてくれなかった。「古傷」を突かれる。
 
 今では少しは変化があるようなのだが、当時は在日朝鮮人には就職の可能性がきわめて限られていた。僕のような者が卒業後に就職するとすれば、同胞系企業を除いてはほとんどなかった。そして職種も、韓国や在日相手の貿易商社やサービス産業に限られていた。そしてそんなことは幼い頃から承知のうえだから、親父の跡を継いで家内工業の親父になることを運命と諦めていた。

 しかし、まだ若い。少しは世間の波にもまれるまでの猶予をというわけで、たまたま紹介を受けた小さな新聞社を訪問したところ、直ちに試験を受けるように勧められ、即座に合格が決まった。僕ごときを大歓迎するのだから、ひどく人材が不足していたのだろう。

 こちらとしては、それは有り難いことなのだが、説明を受けてみると、韓国への往来や同胞系企業を回って広告集めもしなければならないようである。そうなれば、僕の「傷」は決定的な障害になる。そんなところで僕のような傷者が働けるわけがないのである。

 尤も、その傷を消すことが不可能だったわけではない。始末書、当時の僕の言葉ならば転向書を書いて、謝罪すれば、処分の撤回などの可能性もなくはなかった。

 しかし、僕としては、節操という言葉がそれを許さなかったし、それ以上に、あのややこしい世界で改めて苛められるのはなんとしても避けたかった。

 「ややこしい」というのはこういうことだ。日本の中の民族社会といっても日本人にはよくわからないだろうし、たとえ在日朝鮮人といっても、僕の子供あたりの世代になると全く実感がないだろう。

 でも僕の世代では、それは相当に大きな力を奮っていた。たかだか20万から30万人程度の団体が、地域毎に支部を持ち、その支部の下にはまた分団が、というように「行政」の網が張り巡らされている。

 事務所もあれば、人員もいる。当然、経費もかかる。その経費はどこからかと言えば、民族の為ならというわけで、お金を惜しみなく供出する人々がいた。金のある人はたくさん、ない人は少し、分に応じてというわけである。

 つまり、そこには紛れもない一つの濃厚な共同体が成立していた。役員を選ぶには、出身地域、血縁、お金の総動員。当然、その集団の情報ネットワークはなかなかのものだった。

 だからこそ、誰それの息子はどうだこうだといった情報が集まり、伝搬する。昔の村の寄り合い所といったところか。但し、その「寄り合い所」が「在日朝鮮人の村」の行政機構でもあれば、警察機構でもあると言えば、少しは事情が伝わるだろうか。

 ともかく、そこで一旦話題になれば、本当のことかどうかなど関係なく、真実として登録され、しかも、それは思わぬ所まで伝わる。なんと日本の警察機構の奧にまで。日本の警察は在日朝鮮人を敵対集団として規定し、日々監視している。隠密に情報収集しているだけではない。在日の世界に深く入りこんでいる。

 とりわけ、南の「村」には。政権同士の友好はもちろん波及する。その「南の村」の行政機構と日本の警察は、警戒しながらも「仲良し」なのであり、機構の手助けもあってのことか、「南の村」の個々の住民の家にまで公然と入り込んでくる。

 たとえば、外事課の刑事が日常的に朝鮮人の家庭に足を踏み入れる。強権的に管理するというのではない。忍び入るとういうのでもない。

 家に帰ると、見慣れない顔が座り、父親と言葉をかわしながら、テレビを見ている。知らない親戚か、父の知人だろうと推測をつける。しかし、父親が気乗りしていないことくらいは、それとなく分かる。だから余計に気になって、その人が姿を消した後に、「誰?」と母親にたずねると、嫌な顔をして相手にしない。そこで父親に問いを向けると、「警察や」という。なんでそんな奴、と不満をこぼすと、「気にするな」と宥める口調が戻ってくる、といった按配。

そんなおっさんが、結婚式などにはお祝いを持ってひょっこり現れる。まさに親戚付き合いなのである。警察と南は北に対しては友好団体で、しかも警察は実際にはその南さえも不穏団体として警戒を怠らない。三つどもえということになる。そして、そこにさらに南の情報機関が絡む。

  因みに、僕がまだ学生だった頃、友人のそのまた友人が日本の国会議員の息子で、学生をしながら形式的には父親の秘書として俸給を貰い、豪勢な学生生活を送っていた。住まいは四谷の議員宿舎だった。話題は車と麻雀その他の遊びに限られていたその息子、いたって気が好く、頭の回転も速く、金回りもいい。

 そんな彼や僕の友人などが、デモや何やで僕が上京する度に、何かと相手をして遊んでくれた。僕がピッツァなるものを始めて食べたのは、彼らが連れて行ってくれた市ヶ谷の「ラ・サラ・マンジェ」という瀟洒なレストランだった。

 そんなある時に、その議員秘書氏がなんとも軽い乗りで、しかし、何か曰くありげに、漏らしたことがある。「玄君て、なかなかの大物らしいねえ、公安のブラックリストに載ってるよ」。
「僕の傷」はどこをどう通ってのことか、なんと日本の国会議員、それも野党議員の「秘書」にまで伝わっていたことになる。
 
 このように日本の警察と南の情報機関と在日の村的な社会に包囲された私が、「傷もの」となると、ことは僕だけの問題ではない。父親までもがパスポートの発給を拒まれ、しかも、その村での居心地が悪くなった。

 これは大事件である。というのも、父親にとって仕事以外では日本の友人は皆無だから、社会は「民族の村」しかなかった。それに加えて、ある程度生活が楽になってからは里心が強くなり、まるでこちらの生活は仮の生活と思えるほどに足繁く韓国滞在を繰り返していた。そんな父から大事な二つの世界が僕のせいで奪われてしまったのである。

 そんな父にとっての社会への切符であるパスポートと在日の社会とをはく奪させた張本人である僕は、ひどい親不孝者ということになり、父は僕に「転向」を迫った。 あの時の父親の顔ほど、親子と言えども他人どころか敵になりうることを実感したことはない。へ理屈をこねていても、僕は「甘ちゃん」であったわけだし、今でもどれだけ変わったのやら。

 さてともかく、その団体の下部組織はたいていが父親と友人関係なのだから、そこのおっさん連中は親父に同情したり、また反対に、僕をネタにして父を虐めたりする者も出てくる。

 イジメと同情の一環で、僕を呼びつけては諭しにかかる。大人の理屈を開陳し、「情」に訴える。上が決めたことは、たとえ間違っていても、ひとまず立てて受け入れて、謝ればすむことじゃないか、というわけである。そもそも、組織なんてものもいい加減なものだから、適当に相手をしておいたらいい、と言うのである。

 子供の頃から知っているおっちゃん連中に、若者の理屈をまくしたてるわけにもいかない。ましてや喧嘩するわけにもいかない。親の体面もあれば、それらおっちゃんたちとの「幸福なコミュニティ」への郷愁が僕には確実にある。僕は「在日朝鮮人の村の子供」なのである。

 だからこそ、このおっちゃんたちに囲まれて、言葉を無くして白けさせるのはなかなか辛いことであった。当然の如く、次第に情にほだされて辛い。

 そうしたことは、そういう場所に呼ばれて、親の顔を立てるという理屈でのこのこ顔を出すことに応じた時点で既に決まったも同然。親を立てながらこちらの節操もなんてことは、とうてい無理な相談なのである。それでも僕も僕なりにしつこい。理屈はいつだってある。
 
 なるほど僕が悪い、とまずは考えた。だって、僕は自分の「思想」のせいで、何の関係もない親たちに大きな不利益を与えてしまったのだから。いくら親と言っても、それを盾に迷惑をかけてもいいというのは「子供」の理屈である。もちろん、一番悪いのは、子供のことで親にまで累を及ぼす馬鹿げた政治や「村」の体制ということになるのだろうが、僕としては、そういう正論に閉じこもるわけにはいかず、「一人前の大人」として結果責任を負わねばならない。

 しかし、だからといって、節操を曲げるわけにはいかない。そこで、一工夫。親父への罪滅ぼしのつもりで、「社会」は諦めよう。しかし、内部では己を守るんだ、と。

 尤も、この「社会」が何を意味しているのか、誰にもよく分からないに違いない。今の僕にだってよく分からない。ただなんとなく言えば、自分が信じることを公にして、その責任を引き受けるために行動すること、当時の言葉で言えば、社会参加ということであったはずで、それを断念するということだった。
 
 もちろん、この「社会からの隠退」にはそういう事情に加えて、先にも述べた僕の敗北感と倦怠感も作用していた。自分の世界を小さくして、責任のとれる範囲で生きるしかない。家族や地元や友人のレベルならなんとか責任を持って充実した生活を送ることができるかもしれない。

 その範囲を越えた「社会」に関しては、行動は諦めて認識にとどめよう。行動のない認識だけのことであれば、僕は大きく自由な世界に生きることが許される。それこそが本の世界ということになる。大学院へ進んだのは、そうした脈絡の考えもあってのことだった。密かに「私の真実」に生きよう、といったところ。

 しかし、それが徹底されていればまだしも、その道さえも中途半端でついには失敗に帰して、今の僕がいるということになる。右往左往を繰り返しながらの退却戦なのだが、それで満足している気配の自分がいるのは、一体、どうなっているのやら。これがあれほど嫌悪していた「大人」になったということなのだろうか。



スポーツの好き嫌い(2)

2018-03-25 10:01:03 | 中高年の屈託と社会
     スポーツの好き嫌い(2)
                                     

 前回にしつこく述べたように、僕は「サッカー的なもの」に違和感を抱いている。だから、ワールドカップ騒ぎに積極的な関心を持つはずがない。そのことに関するかぎり、特別にサッカーが好きな人を除けば、日本のみならず、世界の中年男の平均値なのに違いない。

 ところが、そんな僕が、多いに関心を持つことになってしまった。と言っても、これまたマスメディアに踊らされてという意味でなら、さして特別というわけでもない。

 ともかく僕は、ワールドカップの予選の過程に一喜一憂する羽目に陥った。だが、それは一般の気持ちの向きとは正反対で、日本が負けて予選落ちをすることを願うようになったのである。サッカー嫌いが高じてと言うだけならまだしも、それだけではないのである。また、僕が朝鮮人だから、俄かに祖国愛を発揮して身贔屓するようになったわけでもない。韓国も日本も予選落ちになればいいのに、という心持ちだった。そして、そのどちらにも後ろめたさがつきまとう。日本と韓国という二つの「母国」に義理を欠くことになりはしまいか、あげくは、両国の愛国者の方々から売国奴呼ばわりされるのではと怯えさえも頭をもたげて、なんとも困ったことになったのである。

 そこで、そうした心の機微に立ち入って、少しは気を晴らしたい。でないと、気に入らないものは何だって追放すべし、などと無粋極まりない議論に行き着きかねない。そんな専制的かつ馬鹿げた議論がこの太平の世の中に通用するはずもなく、だからこそかえって、名誉ある孤立というわけで、そういう気持ちを後生大事に抱え込んで己の潔癖の護符としながら、社会を冷笑するという僕お得意のパターンに陥りかねない。その種の隘路にしっかり柵を巡らしておきたいのである。

 さて、ゲームは一方に加担し、熱中しなければ成り立ちそうにない。スポーツももちろん、その最たるものである。熱狂を掻き立て、それが肉体の解放の悦びも加速する。少年時代の遊びとしてのスポーツは、その意味で健康的だった。体の解放感、技術の修得・進歩の達成感。成長する肉体と精神の悦び。個が共同性を獲得していく過程でありながらも、あくまで個的で瞬間的な悦びがあり、言わば無償性のようなものがあった。

 ところがそれが往々にして変容を被る。応援が加わると、主役は応援にあり、プレイは応援の為にあるような転倒が生じ、プレイする個体は主導権を奪われる。外在的な意味づけが、内在的な悦びを侵食し、意味の専制が始まる。「チームの伝統に恥じないように」に始まり、母校の栄誉とか郷土の栄誉を通過して、「母国の云々」にまで行き着く一連の修辞による個人の肉体と精神の圧殺。
 僕もそんな過程を経験した。日本の学校スポーツ、つまり体育会的特徴という意味でなら、その種の経験は僕一人だけではなくて普遍的だろうが、そこに少しばかり僕の特異性が加味された。日本の中の異分子である在日朝鮮人だからこその特殊性が。

 始まりは高校の時だった。何を間違ったのか、キャップテンに指名された。そして、「66代目の主将として恥ずかしくない云々」といった励ましもしくは訓示を、足繁く訪れて応援してくださる先輩方から、折に触れて聞かされた。その責任に身が引き締まり、さらに一層頑張ったと話が展開すればよいのだが、あいにくとそのように事は運ばなかった。

そもそもが、日本の「由緒ある」高校の、これまた「由緒正しき」伝統ある運動部の代表というのは、僕にはふさわしくないという在日的コンプレックスがあった。僕がその代表に収まるということだけで既にその伝統を汚している、といった後ろめたさ。その上ひどいことに、主将に選ばれた直後の合宿で、ひどい捻挫をしてしまって合宿練習にも参加できず、ただ見守るだけだったから、その「名誉ある」責任を全うできるはずもない。しかも、そんな僕の体たらくが伝染したのか、将来を嘱望されていた投手その他の主力も次々と脱落した。ケガもあるが、それに加えて、学業成績不振で、クラブを休部する羽目になる者もいた。

 当然、さんざんな戦績が続いて、さらには意気消沈のメンバーをうまく宥めてチアーアップする余裕もない僕のせいで、チームはバラバラ、スポーツの悦びどころではなくなった。しかも、気持ちを立て直して春の予選に備えていたはずが、大会の抽選日のことを忘れた僕のオオボケのせいで、大会にも参加できない羽目になって、ひどいブーイング。

 しかし、さすがに最後の夏の大会を控える頃には、なんとか気持ちを立て直し、故障者も少しは復帰して、練習試合でも連勝するなど恥ずかしくないような状態で大会を迎えた。そして、三回戦であえなく敗退して、またしても伝統ある高校の云々の訓示が続いたが、メンバー自体はそれなりによくやったと互いに慰めあうことはできたのだから、ラッキーだった。しかし、虚脱感は大きかった。体も心もへにゃへにゃ、もう二度とこんなことはやるまい、その資格もないと痛感した。

 ところが、そんな意味と責任の牢獄からやっと逃れたと思いきや、今度は別の方向から、また別のレベルの共同性の罠が追いかけてくる。

 突然やってきた誘いに乗って、「在日僑胞母国訪問野球団」の一員として韓国を訪れることになった。そのチームの名称から推察がつくだろうが、ただの野球好きのそれも民族的コンプレックスを抱え持った在日の腕白坊主たちが、「本国」と「在日」という集団のシンボルの役割を振りあてられる羽目に陥った。

 「同じ血」が流れている僑胞だからとちやほやされるかと思うと、その舌の根も乾かないうちに、「外の人間」として敵役を振りあてられるという案配。
 
 さらに、ずっと後の話になるのだが、そういう学校スポーツとは切れて、たんに健康の為に、あるいは、親睦の為の地域スポーツのグループに身を置いてまで、そういう忌まわしい集団性の力を思い知ることになる。
 なまった体を立て直そうと中年男が集まり、お金をかけず中年にお手ごろのスポーツの代表とも言うべきソフトボールのチームが結成された。

 はじめは体を動かす喜びだけで満足していたのに、次第に、練習だけではつまらないからと、対抗試合となる。さらには大会参加ともなって、そうなると勝つための工夫がいる。勝つことを求めて熱中するからゲームは面白くなる。そこで、勝つために必要な人材が優遇されるという傾向が出てくる。下手な中年は試合に出られない。当然、中年の二軍選手にはつまらない。足が遠のく。それで数字の辻褄が合えば文句ないのだが、そうはいかない。余分な人がいなければたちまちのうちに支障が生じる。

 よほどの公式戦以外には、試合をするチーム同士が審判を出し合わないと練習試合すらできない。しかも、上手な選手が所要でお休みの場合に備えて、常に余剰人員を確保しておかないとチームの体裁が立たない。そんんな事情があるものだから、余剰人員を無理にでも引き止めねばならない。そして、必要がありさえすれば、いつだって理屈は後についてくる。仲間じゃないか、チームの勝利はみんなの悦びではないか、というわけである。

 こうなると、健康の為にという当初の動機はほとんどかき消される。集団の紐帯を強め、不満なものは抑えつけるか排除するかといった集団の論理が前面に躍り出る。そして、そういう危機を背負ったチームはかえって強い。無理があるからこそ、勝負がますます大義となり、それに向けて己を殺してチームに尽くすという精神状態がチームに緊張をもたらし、思わぬ力を発揮させる。

 しかも、大人の世界である。このたんなる親睦の集まりがそれだけではすまなくなる。大人はなんだって利用し、利用される。相互依存の共同体というわけである。

 村的な絆が崩れた現代では、それに代わる結びつきは、労働組合や会社を除いては殆どない。地域住民の生活を守る自治的組織であるはずの自治会も、共同意識などなく、輪番制で仕方なく役所の下請け仕事を任せられるのが現状である。

 そんな中で、ボスになりたがるようなメンタリティがいたとする。或いは、地縁的共同体の夢に憩いを覚える善意の持ち主が。さらにはそれを商売や政治に利用しようとする人々も出てくる。

 そういう人士が、何を思ったか、拡散した住民の地域意識なり集団意識の不足に飽き足らず、地域の結び付き強めるべしなどと思いつき、自前のイヴェントなどを企画したりする。しかし、恒常的に手足となりうる部隊はない。

 そこで、「親睦の集まり」がのさばりだす。スポーツを通じて、集団意識の洗礼を受けたこの中年男たちとその配偶者たちは、献身的に働く。身銭と自前の体を差し出しているのだから、当然、見返りを求める。ふさwしい敬意、そして発言権を専守する。口先ばかりの「民主主義」、つまり彼らにすれば「外様」の議論を煙たがり、場合によっては、潰すことが使命といった雰囲気になる。

 そうなると「親睦団体」であったはずのチームとそのシンパは、素人の個人が形成する自治会のいわば組織内組織を形成する。そして、そういう集団とうまく結託した共同体信奉者、実はただの目立ちたがり、さらに言葉を換えれば、親分根性の年寄りや中年が自治会を我が物とする。

 というわけで、勝負は体を動かす喜びの方便という理屈などすっかり忘れられる。個々の喜びなどそっちのけ、権力と集団の規律の問題へと話はどんどん大きくなる。

 もっとも、その程度のことであればそこから離脱すれば済む。決断と選択の問題で、「一抜けた」が少しの軋轢と引き替えに許容される。少々居心地が悪くても、何だって時が経てば忘れられる。ところが、国なるものが関わると、身軽さが失われる。
 
 というわけで、ようやく「ワールド」の話に行きついて、つなぎができたようだ。改めてサッカーの話に戻る。
 
 ワールドカップ嫌いなのだが、どうも僕のわだかまりは、スポーツの範疇にとどまりそうになくて、ワールドという言葉とその内実に関わっていそうなのである。国際的な場でのゲームは国同士のゲームである。なるほど世界が一堂に会す。そして、国境を越えたスポーツの悦びを選手も観客も楽しんでいるという側面もないではない。肉体は美しい、選手の肉体と精神が輝いて見える、ということもある。

 ところが、いざ勝ち負けが問題となると、世界は一つという標語とは裏腹に、世界が競合しあう国家によって成り立つことを見せつける。意味が楽しみを覆い隠し、変質させる。そういうありきたりの現象に僕はつまづき、困っているのである。

 はたして僕はその競合する国家のどこに帰属するのか。帰属なんてなければいいのに、そうもいかない、困った困った、というわけである。旧いお話の蒸し返しで、恐縮だし、この僕にしてからがうんざりしているけれども、致し方ない。それが少なくとも「私」の現実なのである。

 「在日」は日本と韓国の架け橋という議論がある。またその源には、「在日」はこの小さな列島とあの小さな半島という二つの祖国を持っているという考え方もありそうだ。そういう議論を甘ちゃんの夢物語と笑う向きもあるかもしれないが、世の中、何だって選択肢が多い方がよい。

 しかも複数を選ぶことができればもっとよいに決まっている。しかし、この複数性や柔軟性は気楽に見える一方で、ふとした拍子に不安の陰が差す。それはどこにも帰属しないということでもあるからだ。だから、揺れ自体を生きる術を修得しないと、ついつい何物かの懐でまどろみたいという誘惑に屈することになる。

 要するに、単一の安定と強さか、複数の混乱と柔らかさか、の選択を迫られる。もちろん後者には尋常ならざる術が要るのだから、誰にでもできるということにはならない。

 日常的にはそういう選択などどうでもいいことのようだけれども、そこには選択が現にあるのだということを思い知らされる時がある。世の中は複数への帰属という欲張りを容易には許してくれないし、僕らの情動はそういう絶え間ない緊張に生きるにふさわしくできていないようである。
 
 僕にとっては、ワールドカップ騒ぎはこれまでにも何度も経験したその種の試金石の一つとして立ち現れたということのようなのである。
 
 さて、日韓共同開催が決定された翌日。「日本の敗北」と感じるのが一般的だった。尤も、一部には、その厳粛な事実を前向きに捉えて、今後のアジアにおける善隣友好の契機にすべしといった主張もあるにはあった。

 しかし、その主張は、大勢がそうした理性的な議論に同調しそうであるという判断よりも、危険な情動に翻弄されかねない風潮を危惧してのことだった。実際、民心は総じて不服な様子ばかりか、犯人探しの声もあった。そしてその不満の高まりを見越して、マスコミ一般はそういう風潮を助長することに自らの存在意義を見いだしている感があった。
 
 例えばこうである。ふと目にしたテレビの画面に、韓国のある新聞の第一面が大映しになる。そこには浮かれ騒ぐ群衆の写真と大きな文字が踊る。特派員はそういう「事実」を担保に、韓国が国を挙げて「勝利」に狂奔しているとコメントする。そして苦笑まじりに、韓国の頑なな民族主義をひとしきり揶揄する。

 そしてキャスターその他は「生身」の報告に悪のりする。未だ成熟した理性的な言語を所有できず、だだっ子を決め込む韓国というイメージが強調される。そして一方で、成熟した紳士たる「日本」は、そのだだっ子を持て余し、いまいましく思いながらも、それを広言するのは紳士の名にふさわしくない、と思いとどまる。そこで致し方なく、許してやるしかないか、といった口調になる。時流に茶々をいれ、軽いのりで社会批判を展開することで人気を博しているキャスターのやり口がまさにそういうものであった。
 
 僕はその種の紳士的態度をよしとする。しかし、その「紳士」、過分に胡散臭いところがある。朝鮮語が少しは読める僕の目は、先の新聞がスポーツ新聞であることを捉えていたのである。

 マス・メディア、とりわけスポーツ新聞的メディアは、あることないこと書きたてて読者にこびるばかりか、扇動することを存在理由にしている。それはどこの国でも同じなのではなかろうか。

 しかも、韓国のスポーツ新聞は日本のそれを真似て発達してきているに違いない。スポーツ新聞だけのことではない。日本に追い付き追い越せを標語に経済発展に猪突猛進してきた韓国は、過度な自負が作用して、なんでも独自なものだと強弁しはするが、いろんなところで日本の猿真似をしている。
 
 そういう事情をおそらく知悉しているはずの日本の大メディアのペテンの現場を、僕の目は捉えたというわけだ。もちろん、悲しく苦々しく思わないわけにはいかず、そうしたきっかけが僕に古い記憶を蘇えさせる。

 その昔、李ラインというものがあり、李ライン報道というものがあった。李ライン自体が国際法上、いかなる位置付けがなされているのか僕は知らない。おそらくは「違法」なのであろう。少なくとも李ライン「報道」を聞かされて育った僕にはそうした先入観がある。

 そして、その報道の口ぶりには、今回のワールドカップ騒ぎと同じものがあったことに思い至る。無知で乱暴な「朝鮮」に対して、大人で紳士の「日本」は我慢しているというスタイルである。幼なかった僕はそういう口振りに大いに傷ついたものだった。自分の中に汚い血が流れているのだといった具合に。それは単に報道の問題だけではない。日常的にそうしたイメージに傷ついていたからであり、その傷は、まわりにそういう事例を見るにつけ増幅していた。

 当時、在日朝鮮人は汚かった。少なくとも僕にはそう映っていた。そうした亡霊のようなイメージの再来を僕は危惧する。「我慢しすぎの日本人」、あるいは「自虐を乗り越えて正しい民族の歴史を」という論調は決して一部のものではなさそうなのである。
 
 ところで、僕のような在日朝鮮人が、自らはあずかり知らない日韓の対立に右往左往する感じ方を説明するために、例えば「万国旗」に対する当惑の体験を取り出してみる。
 
 運動会などのイベントには万国旗がお決まりだった。その旗を見て、これはどこの国の旗かを当てっこして、知識を競うような遊びが昔にはあった。そして僕は、学校の教科でいえば社会科に属する知識の習得には夢中になるようなところがあって、その種の知識を競うような遊びが断然好きだったのに、こと万国旗当てに限っては尻込みした。

 あの飾り付けを眼にしたとたんに、僕は何気ない振りを装いながら、懸命にある旗を探している。日の丸に似てはいるが、卍が4ヵ所に添えられ、真ん中の丸もまた、赤一色ではない、ちょっとまがまがしいあの旗。それを見つけると、悪いことをしている現場を押さえられたような気になって、周囲を見渡す。逆に、いくら探してもみつからないと、一面ほっとしながらも、その反面、何かすっきりしない。虚仮にされたような気になる。というようにどちらに転んでも、後味の悪い思いをしたものだった。

 あるシンボルがあって、そのシンボルによって、その社会に住む一部の人間が己を罪ありと思い込む。そのように強いる社会があり、人間たちがいる。人間とはそういうものだし、社会とはそういうものだと幼い頃から思い知らされて生きてきた気がする。
 
 ところで、国旗にまつわる情念に僕が生理的な嫌悪を覚えたと言えば潔いことになるのだが、話はそうは簡単ではない。
 
 僕は「日の丸」に執着し、それに同一化することを願った時期もあったのである。「旗日には日の丸を掲げましょう」という運動があった。町内会の回覧板にその勧めが掲載してあるのを目敏く見つけた僕は、両親にその旗の購入、つまり周囲の日本人への同調をせがんだことがある。

 まだ小学校3、4年の頃ではなかったか。あの卍いりの「日の丸まがい」に両義的な心理的負担を覚えずにはおれなかった時期と重なるはずだ。その頃の僕には、丁度お年寄りが暇つぶしにそうするように、新聞を隅から隅まで読むような習慣があった。その延長で、子供にはなんの面白味もなさそうな回覧板をもまた、という具合で、行政の後押しを受けた団体の様々な運動にはやたらと詳しかったのである。

 そういうところが、小学校の教師には「子供らしくない」という評価を受けた一因ではないのかと今になって思うのだが、ともかく僕の社会的関心はそうした形である程度、満たされていたのである。

 さてある日、回覧板に「旗日」云々を見つけて、これだと思ったのである。但し、それを両親に切り出すにあたって、ためらいがなくはなかった。なんで朝鮮人が日の丸を、といった返答を予想できないほどにうぶではなかった。だから、機会を窺い、おそるおそる切り出した。すると、予想に反した返事が戻ってきた。一瞬の当惑の後で、父親はそれを打ち消すように微笑を浮かべて、言った。「そやな、申し込もうか」。
 
 なんと、日の丸がわが家の軒先に翻ったのである。僕は狂喜した。たしかにそうだった。ところが、何故なのか、その喜びは急速に萎んだ。その後に急激に襲いかかってきた後ろめたさ。わが家のそれは周囲の勝ち誇ったそれと比べて、何故かしら、薄汚れて見えた。その資格がないのに、嘘をついているといったやましさ。
 
 それと同時に、両親に対して酷なことをしたのではないか、との後悔が身を苛んだ。それが年を経て「民族主義的」な意識を獲得する過程で理論に「成長」する。
 
 今ではどうだか知らないが、僕がまだ若い頃には、僕ら在日朝鮮人二世三世の団体では、一世たちの民族的な悲願を、彼ら彼女らに成り代わって実現するのだといった言い回しがあった。政治の力によって根を断ち切られ、この異郷の地で辛酸を嘗めねばならなかった一世たち。彼らは日本の差別状況の中で、外見は従順を装ったとしても、心の奥底では民族的精神を忘れはしなかったというお話である。そういう物語に則れば、僕は子供の無理難題を武器に、両親に対して実にひどい仕打ちをしたことになる。

 しかし、そんなもっともそうな反省も、今から考えてみると、おかしい所がある。僕は加害者意識に囚われて、それでもって自己責任を果たしたような気になっていたのだが、それは手前勝手な理屈ではなかったのかという疑惑が兆す。そもそも両親の心の動きはどうだったのだろう。
 
 彼らは当時、やっと経済的に周りの日本人に近い位置に追い付くようになっていた。もちろん安定とは程遠い。限られた職種に閉じ込められ、様々な社会保障からは排除されていた。肉体を酷使しながらの生き延びようとする意志が唯一の担保であるという事実には変化はなかった。しかし、人並みの生活を衒うことが可能な層もできあがりつつあった。

 そんな彼らの方でも、子供の無邪気さと平行して、大人としての無邪気さの発現の時と場所を見い出したということもあったのではないか。日の丸を翻させて、何かと意地悪をする周りの日本人に、「こっちも一人前ですがな」と見栄を切る側面もあったのではなかろうか。
 
 それは必ずしも日の丸をシンボルとする日本の意識構造に同一化するということではなかっただろう。日の丸は国家イメージとは別に、努力の成果として獲得された、一人前の所帯主という矜持として捉えられたのかもしれない。もしそうだとしたら、僕はいろんな意味で僕に染み着いている理屈を、その正否以前の段階、つまり事実と事実判断のレベルに遡及し、再構成してみなければならないことになる。

 ともあれ、無理をして何かに同一化しようとして果たせないから、同一化をこれ見よがしに見せ付ける連中を見ると、羨ましさもあるのだろうか、過敏な反応になる。しかも、その反応にもニュアンスがあって、日本のそれには憧れと反発、そして、怒り。他方、韓国のそれには、恥ずかしさを覚えるのだから、やはり僕の精神的なお里は後者ということになりそうなのだが、はたしてどうなのだろうか。
 
 気が付いてみるとスポーツから随分遠くへ来てしまったし、今やワールドカップの熱狂も一時的には落ち着いたようで、これ幸いなことだと一息ついていると、折しも歳末。一年を振り返る番組ではまたしてもあのワールドカップフィーバーの焼直し。こちらの憤りもまた再燃ということになって疲れる。


スポーツの好き嫌い(1)

2018-03-24 17:27:03 | 中高年の屈託と社会
              スポーツの好き嫌い(1)

                                     
 スポーツができない体になってしまった僕がその話を、というのは相当に奇妙なことになるのだが、今回はスポーツの好き嫌いの話を一席。

 これまでに拙文をお読みになったことのある方なら先刻ご承知のように、僕はスポーツ愛好家、より正直に言うと、野球愛好家である。今は観戦しかできなくなったし、身をいれて見ることもあまりなったが、かつては実践もして、のめり込んでいたことさえあった。
 
 野球だけではない。実にいろんなスポーツに親しんだ。相撲もやれば水泳も。また、体操競技に夢中だったこともある。「バクテン」(手をついての後方回転、つまりバックの回転)や「バクチュウ」(手をつかずに後方宙返り)や「クウテン」(手をつかずに前方宙返り)などの習得に躍起になったり、鉄棒に凝ってついには「大車輪」という大業をこなして大得意になったこともあった。それに学校の正課では剣道や柔道のてほどきを受け、竹刀の素振りを日課にしていたこともあった。実に「調子乗り」なのである。
 
 成人して運動とは疎遠になってからでも、健康の為にというわけで、合気道という変わり種に少しは手を染めたこともある。しかしこれは長く続かなかった。ご師匠筋の「能書き」が我慢ならなかったのである。お偉い師範が傘下の道場を巡回にやってくると、やたらと練習を止めて、独特の宇宙論をひとしきり拝聴させられる。その仰々しい口調がうさん臭くてたまらないし、一汗かいたあとに長々とやられると、やたらと風邪をひきやすくなってしまった体には辛くて、健康になりどころではない。くわばら、くわばら、と身を引く羽目になった。
 
 また冬のスポーツとしては、中学の頃には、正月のお年玉が続くかぎりは、アイススケート場に日参。当時はフランスの女性歌手、シルヴィーバルタンの「アイドルを探せ」が大流行。場内に響きわたるそのセクシーな調べを背に、「颯爽と」滑ったものだった。と言っても、「可愛い娘はいないかな」などと周囲に気をとられるとひっくり返ったりして、ばつの悪い思いをする程度の「颯爽」だったけれども。
 
 大学時代には手(足?)を染めた。「金持ちの遊び」なんかやるもんか、などといっぱしの学生運動家を気取って誘いを断っていたが、そんな「衒い」の薄皮ごしに透けて見える「尻軽」を引っぱりだしてやろうと、悪友たちは「あうん」の呼吸で攻め立てると、ひとたまりもない。そして、いったん始めてみると、白銀と格闘する喜びは格別。夜を徹した麻雀とのセットで、日常をすっかり忘れてスキー三昧の時期もあった。
 
 そのように、いっぱしの偉そうな口はきいても実はポリシーなどない僕なのだが、それでもなんとなく好き嫌いといったものがある。例えば、「中年ご用達」のゴルフは全くやらない。やらないのは己の勝手なのだから、他人は他人、自分は自分、を通せばいいようなものを、意地でもやるもんかなどと言い募る。今やゴルフ話なしには会話が成り立たなくなっている感のある我が旧友たちは、付き合いにくい奴だと、鼻白んでいるにちがいない。それを先刻承知の上で、嫌味な奴を気取り、しかも、それで悦に入っているのである。
 
 では何故にことさらに、そんな大人げないことをしているのかと言えば、僕お得意の理屈がある。例えば、環境汚染や自然破壊には出来る限り加担しまい、という「信条」がある。しかし、そんなことを吹聴すれば、非難がこちらに跳ね返ってきかねない。煙草や酒、そレに加えて、生来の口の悪さで、のべつまくなしに周囲に迷惑をかけていることに少しでも気づけば、そんなことを本気で盾にするわけにいくはずもない。
 
 それにそもそも、ゴルフ自体が悪かろうはずもない。少しはお金がかかるといってもそれさえクリアーできるなら、さして工夫もなく誰だってできるし、ほどほどの運動が可能なのだから、芸のない中年老年にはうってつけである。そのうえ、競争心をもやして子供に帰った気分になるのだから、精神の健康のためにも推奨に値する。短い人生、直接、他人に迷惑さえかけなければ、多いに楽しむべきだろうし、それによって本人は言わずもがな、周囲も明るくなるのだから、悪いことなど一つもない。それが分かっているのだから、いくら天の邪鬼の僕でも、ゴルフ嫌いのレッテルなんか返上したほうがよさそうと思いはするのである。

 なのに、そうはいかない。こだわりが消えない。何故かと言えば、少年期以来引きずってきた不快感が狭い了見の僕のシコリと化してしまっているからである。中学生の頃に毎日曜日には朝早くから郊外の山にあるゴルフ場に通ってキャディのアルバイトをしていたことがあり、そのときの「いやな感じ」が今なおすごく鮮明なのである。
 
 今のように誰だってその気になればゴルフができる時代ではなかったし、どこにでもゴルフ場が転がっているわけでもなかった。都市近郊の山の手に、数える程度のゴルフ場、そしてそういうところで遊べるのはよほどに恵まれた人達だった。もちろん中年以上の、それもお偉くて金持ちそうな「おっさんたち」の特権だった。
 
 それだけに、中学生のアルバイトとしては身入りがよかった。新聞配達を朝夕、一日の休みもなく続けてもらえた月給3、000円、つまり、朝夕それぞれ1時間半程度の配達で日給が100円だったのに対し、キャディの方は、最低でも一日で700円にはなった。それに、一人で二人分のバッグを担いだり、1ラウンドではなく、半ラウンド追加されればもちろん給料の加算があるし、バッグが規定以上に重ければ(8キロ以上、8キロ半以上の場合)また加算があったりで、いろいろ合わせると、一日で千円を越えることもあった。これは中学生の場合で、高校生の給料はもっとよかった。但し、運が悪くて8時まで待っても客がつかない場合に「あぶれ」になって、「あぶれ料」の200円を頂いて退散となって、これはすごく残念である。なにしろ、朝5時に起き、弁当持参で、交通費もかかるなど、無駄な時間と労力はなかなかのものだったが、。交通費を差し引いても少しの小遣い銭は残り、その額は中学生の一日の小遣いとしては十分だった。なにしろ、町の食堂で「うどん」が30円~40円程度の時代だった。
 
 身入りがよいから、少々のしんどさは苦にならないし、あの一面のグリーンの美しさを背景に、澄んだ空気を突っ切って飛んでいくボールのスピード感には格別のものがあった。なのにキャディの経験については不快感が後を引いているのである。客のおっさん、キャディのおばはん、つまり、中年男女からにじみ出てくるような「嫌らしさ」がまだ「純真だった僕」を汚し、傷を残したわけである。


 例えば、一組の客につくキャディ―のリーダー役は「おばはんキャディ」で、その人がお客に媚びる一方で自分が楽をするために、僕ら「子供の学生キャディ」を酷使する。「おっさん」の威を借りた「おばはん」の偉そうぶった口ぶりにはうんざりだった。それだけならまだしも、「おっさん」の「いやらしい」下ネタに同調したり、進んでその種の話題で受けを狙う際の「おばはん」の表情と口ぶりがたまらなかった。こちらに向ける管理者の顔つきと、お客に阿ねる歪んだ助平笑いが、交互に現われる。へどが出る思いだった。

 もちろん、お客の顔つきと口ぶりもそうであったはずなのだが、それよりむしろ、「おばはん」の阿ねりに虫酸が走ったものだった。今から振り返ると、権威や力はそのまま奉り、吐き出せない怨恨を下層の者同士がお互いに向けあい、蔑み、憎みあう実例とでも解釈がつきそうなのだが、あの頃に感じた嫌悪の残像が抜けないのである。

 但し、「紳士」もいれば、いやらしい「おっさん」でも、勝った上機嫌の勢いで、チップをはずんでくれたり、山の下まで車で送ってくれたりすることもあった。それにまた、親切なおばちゃんもいたが、そんな記憶は先の嫌な記憶の影に隠れてしまっている。

 ともかく、自分の父親や母親と同年齢かそれ以上のおっさんおばはんのにやけた助平話は、性に目覚め、興味はその一点に集中というほどなだけに、己が過剰な性欲を持っているのではなどと恐れたりしている年ごろの僕にはきつい。ある時には、親たちの隠された部分を白昼見せつけられる思いがしたり、またある時には、貧乏暇なしであくせく働く親と比べて何を金持ちぶりやがって、などとの反発もあった。

 そのような経験があるからこそ、いつか見返してやろう、同じ身分になってやるという風に、「うまく」作用することもあるのだろう。一昔前の有名なプロゴルフ選手たちはキャディ出身者が多かったようだしと、僕のキャディ仲間も今やいっぱしのおっさんになってゴルフ三昧というようなことを風の便りで耳にしたりもする。しかし僕には、その種の見返してやろうという気力が希薄なようで、それが私の弱さの一部になっていそうなのである。ともかく、他人がしようがしまいが、自分はゴルフなんかする気はないというだけのことに過ぎない話なのだが。

 ところで、こんなアルバイトでの嫌な記憶について書くと、貧しい中で健気に、といったように誤解を生みそうなので、言い足せば、アルバイトで家計の足しにといった立派な、そして場合によってはお涙ちょうだいにもなりそうな話ではなかった。僕のキャディ経験はもっぱら周囲の悪ガキの真似の結果にすぎなかった。

 不良を気取るには、いくつかの条件があって、その一つが、変形学生帽とラッパズボンの着用である。大阪の中心街である梅田の、当時「阪神裏」と呼んでいた衣料品問屋街までわざわざ出向いて、それらを「誂える」という贅沢が流行していて、その資金稼ぎだったのである。

 それに加えて、学校の帰りの買い食いの資金稼ぎ、そして当日の「労働」のご褒美として帰路に「力餅」という大衆食堂に立ち寄る楽しみがあった。働いた後の、それも自前のうどんやおはぎの味は格別というわけで、他愛ないお話なのだが、そういう癖は、仕事帰りの立ち呑み屋通いに形を変えて今に残っている。変わらないものだ。
 
 相当脱線してしまったが、要はスポーツの好き嫌いにはいろいろな理由があるというごく当り前のことを言っているにすぎない。
 因みに、熱愛する球技一般のなかでも、僕には好き嫌いがある。現代日本のポピュラースポーツの大立者二つを軸にして、親野球派と親サッカー派とに二分すれば、僕はもちろん前者に属する。

 先にも述べたことだが、それにはもちろん僕のスポーツ歴が作用している。幼い頃に主流だったスポーツはなんといっても野球だった。但し、野球とはいってもただのキャッチボールから、三角ベースを経て、四角ベースという「本式」の野球などとピンからキリまで実に多様。また使用する道具によっても分類があった。ゴムボールを使い、どこかで拾った棒切れや、或いは素手をバット代わりにするものから、ソフトボール、そして軟球へ。そうなると、もちろん、グローブは必須となる。というように、年齢や道具の装備や人数などの諸条件が絡まって、野球にも諸段階があった。しかし、誰にとっても本式の野球が憧れで、兄やその仲間の本式野球を羨望の目つきで眺めながら、いつの日か、あんなに格好よく打ち、走りたいと夢を膨らませていたものだった。

 しかし、グローブやバットを親から勝ってもらえる境遇の子どもは多くないから、それを所有している限られた子供が僕らの野球の主導権を握っていた。そんな子供はたとえ運動音痴であっても、煽てられ、崇め奉られもした。もし「おだて」にしくじって機嫌を損ねると、野球は終わりとなる。貧乏人の子倅の僕はだから、野球を通して世渡りの一部を覚えた。つい先だってまでは、一匹狼(一匹カマキリの間違いだろうが)を気取っていると言われることもあったこの僕なのだが、そうした衒いもしくは不器用さは、体質化した阿ねりを意識するがあまりに生じた強張り、或いは衒いに過ぎない。いざまともに対面すると、持てる者、力のある者にやたらと協調してしまいがちな己というものが後ろめたいものだから、反権力を気取って、大上段に否定を重ねて、権力筋には近寄らないようにする。

 そうすれば、自分の節操も守れるだろうというわけなのである。つまり阿ねりの一変種としての反権力の気取りに過ぎなかったのだと、自分自身がこの年になってようやく遅ればせに思い知っている
 
 ともかく、学校スポーツの花形は野球だったから、僕は時流を追いかけて、野球にのめり込んだ。今から顧みて、本当に野球が好きだったのか、はたしてどこが面白いのか、よく分からない。動きが少なく、ピッチャー一人に過度な主導権のあるなんともアンバランスなスポーツが、僕を、そして人々を惹き付けた理由が判然としないのである。なんとか理由をひね繰り出せば、時間制限がないから、9回ツーアウトからでも逆転の可能性があるという劇的さ。あるいは、投手と打者の心理的駆け引きといういかにも日本人(そして日本生まれでほとんど日本を出たことのない外国人であるこの僕)が好みそうな「心理劇」に奥の深さを見い出せるくらいなものか。但し、こんなことはすべて後知恵にすぎない。
 
 だから他のスポーツが主流であったならば、僕は(そしてもちろん、僕だけではなかろう)きっとそちらに飛びついていたに違いない。そもそもスポーツの流行というものは、必ずしもそのスポーツ自体の魅力とは関係などなさそうだ。野球があのブームをもたらしたのは、日本と欧米との関わりなど、歴史社会的条件の賜なのだろう。というわけで、僕の野球好きは時流に乗せられた結果という当り前のことになる。

 しかしその理由がなんにせよ、一度のめりこんだらそれは自分の分身のような心持ちになるもので、近年のサッカーブームには母屋を取られた年寄りの妬みを持ってしまう。新参者が偉そうな面をして「のさばってけつかる」といったところ。しかし、僕のサッカー嫌いはそうした僻みだけに発しているのではなさそうなのである。
 
 僕はサッカーを得意としない。よく似たスポーツで言えば、そこから派生したラグビーは好きなのである。高校時代には冬のスポーツとしてラグビーを多いに楽しんだし、今だって、ラグビーのテレビ観戦は僕にとって冬の大きな楽しみの一つだ。またアメフットも、ラグビーほどではなくても、見るのは好きなほうである。なのに、それらと元々は同じ根から出てきたサッカーに限って、駄目である。観戦を楽しめない。ましてや、自ら進んでやった覚えがない。

 やることはやった。経験がないわけではない。例えば、オフシーズンに野球部では様々なスポーツをトレーニングに取り込む。ハンドボール、ラグビー、そしてサッカー。実はサッカーは冬には頻繁にしたスポーツの一つなのである。野球が手を、それも過度に用いるスポーツだから、一時期そこから完全に離れることで、シーズンが始まると新鮮さを増すし技量の向上にも役立つという考え方があったし、冬場に不用意に肩を使って痛めるという危惧もあってのことだった。その意味ではサッカーは理想的だった。なのに、僕は苦手だし、好きになれなかった。苦手だから好きになれない。好きではないから苦手である。同じことなのだろう。
 
 理由は何か。サッカーの本質、つまり、蹴るという動作に関わっていると僕は思っている。僕は何だって蹴るのが苦手だし、嫌いなのである。「蹴り」はスポーツではなく暴力だという固定観念が僕にはあるからだろう。大層な言い方で我ながら腰が引けるが、これは正直な話である。そこには、僕が受けた教育、とりわけ家庭教育が大きく作用していそうである。足をどちらに向ければ失礼になるとか、座っている目上の人の前を歩いて通ってはならないとか、もちろん、横になっている人をまたぐなんてことはとんでもないといったこと。どこにでもありそうな話だろうが、とりわけ儒教倫理が根強い朝鮮人家庭で顕著なそうした禁則に、僕は反発しながらも概ね受け入れ、内面化したようだ。
 
 だからなのかどうか、幼い頃からいくら喧嘩しても、足を上げることなどなかった。もともと手を上げること自体が苦手だったから、足などもってのほかということになりそうなのだが、こういう言い方自体に価値の序列が組み込まれていそうである。人に対して手を上げるのも暴力に変わりはないはずなのに、それでも、両者が対等という認識が前提となっていそうな気がする。だから、それはなるほど暴力であっても、「スポーツ」と軒を接している。それに対し、足を上げるのは、「犬畜生」を相手にする場合に限られる、という信憑が僕にはある。そこには「平等」がない。「公平」がない、したがって、暴力以外のなにものでもないといった感じなのである。
 
 ともかく、僕は足を上げるようなことをした覚えがない。足を上げると、それでもう取り返しのつかない敵味方となって、とことん、敵であることを受け入れることになりかねないという感じ方があって、それを僕は恐れていたに違いない。そういうところに、僕が今だに抱え持っている対他関係の微温性というものが現れていそうなのである。
 
 尤も、暴力的だからこそ、「蹴り」は禁忌を打ち破る爽快感をもたらすのかもしれない。人間の本源的な暴力性でもって、社会的規範を突き破る解放感といったところか。僕はそうした爽快感を殆ど覚えたことはないけれども、想像くらいはできる。しかし、そうした爽快感を覚えるには技量がいるに違いない。殴る場合もそうだろうが、ものを蹴る場合にはよほど鍛錬を経ないと、むしろ自分の足を痛目兼ねず、僕はいろんな理由から、そういう鍛錬を苦手としただけのことに違いない。
 
 そういうわけだから、小さな子供でも、そしてそれがふざけ半分であったとしても、足を上げるのを見れば僕は不愉快になる。例えば、子供がまだ幼かった頃、保育園や学童保育に親は何かと狩り出される。無邪気に子供と遊ぶことが出来ない日常の罪滅ぼしのつもりで、足繁く出かけたものだった。しかし、大人に愛想を振りまくのは苦手だから、手持ち無沙汰になるので、いきおい他人の子供相手にふざける。それを見ている我が娘たちは、喜んでくれているようだった。

 しかし、ふざけるには自分を「落と」さねばならない。「けったいなおっさん」、「弱いおっさん」てな具合に。すると、子供たちはこちらが大人なのをこれ幸いに、「手加減」を忘れる。男の子供を持たない僕には、彼等の動きの予想がつかない。ついつい、彼らの蹴りをまともにくらう。相当に痛い。だが、怒るわけにもいかず、憤りを理屈に転化する。蹴ることが思わぬ破壊力をはらんでいるということを、親はきちんと教育したれよ、といった具合に。そしてその呟きは「今どきの子供は」に始まり「今どきの親は」へと心の中で果てしなく展開し、自分のことはさておいたいっぱしの教育論ないしは社会批判を展開した気持ちになって、憤りの処理にはそれなりの効力を持つ。
 
 サッカー嫌いの理由をさらに言えば、接触という点もありそうである。例えばラグビーと比べれば、サッカーの接触は生ぬるそうなのに、僕にはサッカーの接触プレーのほうが暴力的に映る。分明なルールが見えないからである。意地悪のしあい(仕合、試合)というような感じまでする。
 
 もちろんサッカーもスポーツなのだから、きちんとしたルールがあるに違いない。なのに、正当な技なのか、それとも反則七日の判断が恣意的に見えるのは、これまた僕の経験に由来しているのだろう。僕らが昔やっていたサッカーなどに、まともな審判がいたわけもないし、誰もがルールを弁えてやっているわけではないから、いきおい、乱暴なほうが得をするということになった。巧みな技にスポーツの醍醐味を見い出す僕には、そうした無秩序、或いは力の強い方が勝ちというジャングルの掟が耐えられないのである。いややなあ、ということになる。

 もっとも、スポーツは技量もさることながら、勝ちたい気持ちと力の勝負であることは周知の事実であるから、僕はサッカーに無理難題をふっかけて嫌悪感を募らせているに過ぎないのだろう。押しの強い奴への嫌悪感をサッカーにダブらせる。しかし、自分の押しの強さは自分では分からないのだから、自分は棚の上に置いたなんとも勝手な話ということになるだろう。
 ともかく、そうした先入観を既に持ってしまっている人間からすれば、サッカーブームは嫌悪の対象であると同時に、脅威なのである。「僕の倫理」への挑戦といった感じ。そしてそれが時代への違和感と重なる。今時の若者は、といったおきまりの台詞に落ちつくわけだ。
 
 ところで僕が知る限り、日本のサッカーブームは今回が最初ではない。丁度、30年ほど前、日本がメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した頃も、今と規模は異なるけれどもブームがあった。
 
 当時の僕は高校生で、野球部に属していたが、サッカー部の新入生が一挙に増え、グランドを席かんする状況に肩身を狭くした。狭いグランドに運動クラブが所狭しとひしめきあい、大きな事故が起こらないのが不思議という状態がさらに悪化した。直撃すれば人を殺しかねない硬式ボールを使うこちらとしては、練習どころではなくて、気分がよくない。もちろん、ひとつ間違えば被害を受けかねない相手もまた、というわけで、何かとトラブルが絶えなかった。相手の方が数が多いから、時にはバットで威嚇するようなこともあった。
 
 とは言っても、不思議と当時のテレビで見るサッカーそのものには嫌悪感を持たなかった。当時は、ヤンマーの釜本、三菱の杉山がスタープレーヤーの双璧で、僕はどちらかと言えば、ウイングで颯爽とボールを持ち込み、アシストに徹する杉山のプレーに喝采を送ったものだった。釜本のほうがスターであったが、杉山に僕の、いやむしろ僕に組み込まれた日本的スポーツの美意識の体現をみていたのであろう。「出しゃばり」「目立ちたがり屋」は嫌いで、床の下の力持ち的な選手に判官びいきというわけだろうか。

 打ち上げ花火のように瞬時にすぎなかったその第一次サッカーブームと今回のそれは、様々な意味で違いがありそうだ。
 昔のブームの時にも、スポーツの流行はファッションと共にあった。僕の印象では、いわゆる「バンルック」が当時のサッカー少年たちの特徴的なファッションだった。僕ら野球少年の、坊主頭とラッパズボンに象徴される番カラの薄汚なさと違って、「いいとこの坊ちゃん」を思わせる洒落たバンルック。つまり、社会階層や趣味の相違と重ねて僕のサッカー観が構成されている。これがはたしていかほどに現実に則しているのか疑わしく、むしろ、新参のメジャーであるサッカー少年たちへの違和感を、バンルックへの僕の違和感と重ねたふしが濃厚である。

 しかし、身近なサッカーファンに特徴的に思われたその種のファッションは、テレビに映るサッカー選手たちには関係がなさそうに見えた。彼らは昔風のスポーツ選手の風采だったような気がする。といっても、ユニホーム姿でしかお目にかかったことがないのだから、いい加減な話ではある。
 
 しかるに今回のブームは、若者の風俗を先取りした選手、そしてサポーターなるものが、いわば一体となって新たな立ち居振る舞いなり、美的感覚をこれみよがしに振りまいている。これはなかなか挑発的である。とりわけ、親野球派、それも古風な親野球派の生き残りには。
 
 茶髪、だぶだぶルック、そして傍若無人の態度。世間にもまれて、大人の世間に対して少しは物わかりがよくなったはずなのに、その分若者には点の辛くなった中年男である僕は、そうした事柄に過敏に反応する。甘えはいい加減にしろ、などと。
 因みに、「サッカー的」立ち居振る舞いは、今や野球選手やそのファンにも行き渡った感がある。長年の阪神ファンでありながら、今の阪神ファンに代表されるあの応援スタイルに和することができず、まるで主役はファンの方であるというあの傲岸不遜を苦々しく思う僕などは、内輪まで浸食されたような気持ちになって、実に居心地が悪い。

 しかし、プロスポーツは観客のためのものという当たり前のことを考えれば、むしろ僕のほうがおかしいのだろう。僕は日本のプロ野球ファン気質の化石のようなものなのかもしれない。選手たちの技量を味わい、心理を想像して楽しみたいと、玄人の口ぶりを衒う僕などはなんとも紳士ぶった嫌な奴か、と思わないでもないが、長年親しんだ楽しみ方は仕方がない。

 ところで、サッカーに関して僕を刺激するのはそうした事どもを含めて、また別の理由がありそうなのだ。サポーターたちのあのヒステリックな騒ぎ方、そこに透けて見えるあまりにも無邪気なナショナリズム、そしてそれにのっかったマスメディアの狂奔。近ごろのワールドカップ騒ぎに見受けられる、そういうもの総体に対して僕は嫌悪感を高じさせているようだ。

 というわけで、サッカーブームのシンボルとでも言うべきワールドカップの話にたどりついたところで、今回はおしまいにします。




市民社会?と酔っぱらいの夢

2018-03-23 17:39:32 | 中高年の屈託と社会
   市民」社会と酔っ払いの「夢」


 旧友と久しぶりに再会し、楽しい杯を傾けての帰路であった。幸いにも休日の夜遅くの電車ということもあって、車内は閑散としていた。なのに僕は、最後尾の車両の旅客室と車掌室とを隔てるドアーに背をもたせて立ったまま、ぼんやりと車内を見渡していた。「ほろ酔い」を愉しむという気分もあった。しかし、乗り込んで間もない時点から既に、何かが起こる予感を覚えて、その何かを待ち構えていたのかもしれない。

 繰り返しになるが、空席はたっぷりとあった。7人がけのシートにひとりふたりが腰を下ろしている程度であった。

 電車に乗り込んで先ず目を射たのは、携帯電話で話し込んでいる若者の姿だった。周囲の静けさの中で浮き上がっていた。そんな光景など今時珍しいことではないのだが、通話にのめりこんでいるその若者の挙動に、僕は何故かしら危うい臭いを嗅ぎつけた。だから、ぼんやりとはしていても、自然に目は彼の方へ向く。

 その若者、初めは長いシートの真ん中に腰を下ろしていたのに、話に興が乗り、じっとしておれなくなったのか、立ち上がった。そして、あちこち移動を繰り返していたが、ついには、選りによって、人が座っている真近の座席の端の鉄棒に尻を乗せてもたれかかり、ますます熱を入れて話し込みだした。

 そのすぐ脇には、同年輩、但し彼より少しばかり年上に見える若者が座っていた。もたれかかる若者の尻がその若者の顔や肩に触れそうな勢いであった。そ知らぬ振りをしていても、座っている若者の気分がよいはずもない。ひとつにはもちろん電車内で傍若無人に通話に没頭していることがあるのだが、それに加えて、場所を変えるのは甚だ容易で、その電話氏が何故にわざわざそこに身を預けているのか、訳が分からないということもあった。つまり、わざと特定の他人に迷惑をかけていると言われても返す言葉がないような状況だった。
 
 彼が苛立ちを募らせている気配が明らかであった。居眠りを装いながらも、時折、その尻に向かって、歪んだ顔を向けるまでになっていた。だがしかし、尻を向けて通話に熱中している電話氏にそれが伝わるはずもない。穏便に不快感を示しているのに、そのぎりぎりの礼儀が選りにも選って他人の尻によって受け流されるなんて相当な屈辱ではないだろうか。これは危ない、と僕は思った。

 案の定、座っていた若者、やおら立ち上がるや、叫び声をあげながら電話氏の胸倉を掴んだ。叫びの内容は定かではないが、そういう場合の台詞にさほどバリエーションがあるはずもなかろう。「なめとんのか、しばき倒したろうか!」といったものであったに違いない。立ち上がって相手を掴んだ勢いが余って、二人とも滑るように車両の真ん中へ移動した。
 
 電話氏、始めは何が起こったのか訳が分からず、為されるがままになっていたが、ようやく事態を把握するに至って、驚愕し懸命に謝罪を始めた。首元を締め上げられながら、「悪かった、許して」と苦しそうに繰り返すのだった。

 いざ立って相対しているのを見ると、二人の体格差は歴然としている。しかも、怒りに狂う人間がかもし出すエネルギーと、怯えて許しを請う人間の身を竦める姿勢がもたらす著しい対照もある。激昂氏が電話氏に襲い掛かっているという感じだった。
 
 それまで我慢に我慢を重ねていたのが、ついに切れてしまって、自制が効かないのであろう。謝罪を繰り返す電話氏に対する叫び声はさらに高くなり、胸倉を掴んだ腕の筋肉は見事な張りを見せていた。
 
 いつか落ち着きを取り戻すだろう、あるいは、近くの誰かが仲裁に入るだろうという見込みは誤っていた。両者ともに喧嘩慣れしている様子もなく、暴発の危惧が強まった。そろそろ出番だと僕は思った。
 
 おもむろに近寄って行った。酔いもあれば、動いている電車内ということもあって、少々ふらついていたかもしれないが、まあのんびりという様子だったはずだ。少なくとも、僕としてはそのつもりだった。声をかけた。

「兄ちゃん、あんたの気持ちも分かるけれど、もう許したりいな」

 するとこちらを振り向いた激昂氏、目を怒らせて私をにらみ付け、言葉を投げ返してきた。「やかましい。酔っ払いのおっさん、口だしするな」

 なるほど、私は酔ってはいたが、へべれけというほどでもなかった。尤も、酒飲みはいつだって自分は素面と思い込んでいるものだから、端から見れば、その激昂氏の言が正しいのかもしれない、と思った。その程度の想像をめぐらせることが可能なほどには素面だったようである。僕は努めてトーンを落とし、ゆっくりと応じた。

「確かに酔っ払いのおっさんやけど、それとこれは話が別やろ。ともかくその子は謝ってるやないの。それくらいにしといたりいーや」

 僕が腹を立てていなかったはずもないのだが、やはり、これまでの電車内での数々のトラブルの経験が肥やしになっていたのだろう。何が起ころうと沈着に対処しよう、といった心の構えが準備されていたようだ。さらに言えば、僕はこうしたトラブルを「大人の知恵」なるもので解決する機会を待ち望んでいたのかもしれない。

 トラブルの仲裁というのは、よほどにうまく立ち回らないと、火に油を注ぐことになりかねないし、下手をすれば、仲裁人がとばっちりをくらうことも往々にしてある。そんな愚を冒したくないし、冒しはしないだろうくらいの自信があったからこそ、僕は仲裁を買って出たはずなのである。但しこれまた、そのように思い込めるほどに酔っ払っていた、とも言える。

 激昂氏、平謝りの相手に一方的に怒鳴り続ける膠着状態を脱して、新たな憤懣の吐けどころを見つけたということなのか、僕に追い討ちをかけた。

「酔っ払いのおっさんは引っ込んどけ!つべこべ抜かすな!」
そこまで言われると、ますます引っ込みがつかない。ことここに至ってすごすごと引っ込む三枚目の役は断じて演じたくない。それに、本気に腹を立ててもおかしくない。だがそこでも、何故かしら自制が働いた。「そこまでいうことはないやろに」「やかましいわい、とっとっと、消えやがれ」

 これでは埒が明きそうにない、と覚悟が決まった。相当に滑稽に映るだろうなどと思いながらも、僕は端からその手を心の奥底で用意していたのかもしれない。奥の手というわけだが、それは手段というより、僕の本心だった。無関係を決め込んでいる車内の乗客を見渡して、呼びかけたのである。

 「乗客の皆さん、市民の皆さん、これは僕ら全員の問題です。これ以上放置すると、大きな禍根を残すことになりかねません。みんなで不幸を未然に防ぎましょうよ」

 この騒ぎが始まった時点から、ここで女性の2,3人、いや、たったひとりでもいいから、この騒動に反応し、介入すれば事態は収まるのに。いや、介入などでなくてもよい。その女性が「キャッ、助けを!」とでも叫んでくれれば、無事にことは終わるのに、と僕は淡い期待を抱いていた。いかに「切れてしまっても」、仲裁に入った女性に手を上げたり、罵倒したりできる男はそうはいない、というのが女性蔑視の嫌疑がなきにしもあらずなのだが、ともかく僕の信憑なのである。

 ところが、その種の最上の期待どころか最低限の願いさえ叶えられなかったからこそ、僕がしゃしゃり出る羽目になったのである。ところが、ことがここに至っても、車内は微動だにしない。まるで全員が申し合わせたかのうように、素知らぬ風を装っている。

 僕としては呆れかえるところなのだが、それでも諦めないのが、酔っ払いのしつこさ、あるいは中年のしたたかさというものなのか。動かぬ人々を見回しながら、自分が滑稽な役を買って出ていると改めて思いつつも、間を置いて、2度3度と同じ台詞を繰り返した。最後は殆ど哀願調になっていたかもしれない。

 すると、なんと動きが起こった。先ずは一人が、ついでそれに釣られるように今一人が、さらには、今一人と、3人の男性がおもむろに立ち上がり、近寄ってきた。

 僕の声が激昂している若者のそれより大きかったのか。あるいは、僕の介入がその二人の騒動自体よりも耳障りだったということなのかもしれない。がともかく、仕方なくであれ、僕の呼びかけは効き目を発したわけである。

 そして、新参者3人が、騒動の渦中にある僕を含めた3人を取り囲むような格好になった。つまり二重の同心円、いや、三角形が成立した。その中で一番年嵩らしく見える人物が、イニシアチブを取った。

「もういいやろ、そろそろやめにしたら」

 しかし、さすが怒り狂った若者、容易に引き下がりはしない。引っ込みがつかないのであろう。しかしだからといって、大の男4人を相手に悪態をついて敵に回すほどには常軌を逸しているというわけでもない。

 そこで、作戦変更ということなのだろう、目標をもっぱら電話氏に限定して、自分が主導する世界を確保しようとした。つまり、僕ら仲裁者の存在を無視したのである。しかしそれでいながら、早晩、引き離されるとの予測があってのことか、残された最後のチャンスというわけなのだろう、渾身の力を込めて、電話氏の襟首を引き上げる。

 電話氏、首元を締め上げられるばかりか、さらには引っ張り上げられて、悲鳴を上げている。

 もう猶予はならない。僕も含めた4人が間に入って、強引に引き離した。そう意識してのことではなかったが、状況の力もあって、攻撃している激昂氏を押さえ込むような格好になった。つまり、まるで激昂氏の方に非があるような風にならざるを得なかった。

 激昂氏、ますます収まりがつく筈もない。かと言って、多勢に無勢である。僕らの背後に隠れて身を竦める電話氏に向けての罵り声のトーンはさらに高くなり、抑え込んだ僕らの力が緩むと、その隙に電話氏に飛びかかろうとする。

 電車内でそうした鍔迫り合いをいつまでも続けておれない。折りよく、電車が停車したので、当事者二人をしっかり掴まえながら、仲裁者4人も共に降車せざるを得なかった。電車を降りると、激昂氏、心なしか落ち着きを取り戻した気配があったし、二人で電話氏を保護し、残りの二人で激昂氏を制するようにして当事者同士を遠ざけ、3人ずつの二つのグループの間に10メートルほどの距離ができた。

 ようやく安心した仲裁組は、激昂氏を押さえ込んでいた手の力を緩め、掴んでいた手を放した。一件落着のつもりだった。ところが、激昂氏、その隙をついて、電話氏を目掛けて走り出した。他方、電話氏は仲裁組の背後にとどまり、その庇護の下に身を寄せておればいいものを、殆ど反射的に、仲裁者つまりは庇護者の制止を振り切って逃亡を始めた。

 こうして、ホーム上でのイタチゴッコが始まった。電話氏は懸命に逃げる。激昂氏は叫びながら懸命に追いかける。そうなると成り行き上、僕ら仲裁組も放置するわけにはいかない。こうして、都合6人によるホーム上での珍妙なかけっこが展開することになった。
そのホームには階上の改札に通じる階段が二箇所あって、そのおかげで隠れることも可能なのである。だからこそ、さして広くもないホーム上での隠れん坊が続きえたのである。

 しかし、なにしろ僕は相当に酒を飲んだ後である。本気で走ると酔いが急速に回ってくる。かといって自分ひとりだけ座り込んで事態を静観というわけにもいかない。何しろ仲裁の言い出しっぺとしての責任というものもある。そこで、役割の分担という理屈を自分勝手に編み出した。かけっこは後発の仲裁者達に任せて、先発の僕としてはせめてもの責任を果たすべく、改札口へ赴き、駅員に加勢と助力を頼むことにしたのである。

ところが、駅員からは冷たい返事が戻ってきた。
「酔っ払いの相手でいちいち危険な目にあうわけには。警察を呼びますわ」
そんな悠長なことを言っておれる状況ではない。警察が到着するまでは、せめて職務として仲裁に入るべきという僕の主張も、酔っ払いの難癖とばかり、あしらおうとする。そこで、業を煮やした僕の口調がおそらくきつかったのだろう。その駅員が逆に私に食って掛かる始末。

 僕も僕で、予想に反する事態で不意をつかれたこともあったのだろう、職務怠慢云々と声を荒げる羽目になった。その声を聞きつけた年配の駅員が出てきて、二人の間に割って入った。そこで僕も少々反省しないわけにはいかない。だいいち、騒動の現場を離れて、埒が明きそうにないやり取りで時間を無駄にするのは目的に反する。「ともかく、早く警察を呼んでよ。事件にでもなったらお宅らの責任問題になるよ」と捨て台詞を残して、ホームに戻った。するとなんと、思わぬ光景が目に入った。
 
 先ほどまでは懸命に走りまわっていた仲裁組3人を間に挟んで、一方の端には激昂氏が、もう一方の端には電話氏が並び、その全員がホームの端に「うんこ座り」で、暗い線路の方を凝視している。何か探し物をしている気配。僕も訳が分からないままに、右へ倣えとばかり、中腰になって、同じ方向に目をやりながら、近くの仲裁組の一人に尋ねてみた。
「どうしたんですか?」すると返事はこうだった。「電話氏のメガネが無くなったらしい」。こうして僕も、それがあたかも当然な風に、メガネの捜索隊に加わることになった。

 どれくらい経ったのだろう。探し物は見つかりそうにないとの諦めが支配し、一人、続いて二人目がというように、仲裁組みの全員が立ち上がって周囲に目をやった。するとなんと、当事者であったはずの、激昂氏の姿が見えない。他方、電話氏はメガネを無くして、打ちひしがれている。声をかけてもはかばかしい返事が戻ってこない。そこへ、電車が到着した。電話氏は肩を落として、消えるようにその電車に乗り込んでしまった。

 というわけで、僕ら仲裁組だけが呆然と後に残されることになった。格好がつくはずもない。言葉を交わすこともなく、三々五々、家路につかざるを得なかった。

 しかし、仲裁の張本人である私としては、肩透かしをくらい、情けない気持ちをぬぐえない。そこで、腹いせに、あの鉄道員を懲らしめてやれ、悪たれのひとつでも投げてやるか、などと思いはするものの、改札を通過の際には、思わず知らず、伏目がちになっていた。警察が到着すればますます面倒であるばかりか、恥の上塗りになる。一刻も早く、この場を離れねば、などと計算していたのである。
しかも、そうした計算をしている自分を意識すると、激昂氏が音もなく姿を消した理由も分かるような気がした。激昂氏、落ち着いてみると、自分が起こした騒動に気後れが、とりわけ、眼鏡の損害賠償の問題が生じかねないといった実際的な懸念もあって、気づかれないうちに、と逃げ出したのだろう。

 ところで、この騒動、まさしく茶番であったのだが、私としてはそれだけで忘れ去るというわけにはいかない。年齢もあり、何だって考える種にして楽しまないと、人生はないといった感じなのである。そこで、反省がてら、少々思いを巡らして見る。

 常識のある人なら、僕の介入が間違っていたと言うだろう。他人の喧嘩など放って置くのが一番、あるいは、罵り程度であれば、たいしたことには至らず、時間がたてば何事もなかったように終わるもので、他人が介入する方がかえってことをややこしくするというのは、経験に裏打ちされた大人の知恵のようで、なかなかに説得力がある。

 そしてその理屈に則れば、僕の要らぬ独り相撲で激昂氏と電話氏を窮地に追い込んだし、仲裁組の市民達をも面倒に誘い込んだということになる。僕もまた、自己合理化の理屈を一旦保留すれば、その判断に同意せざるを得ない。

 しかし、この種の知恵は往々にして責任逃れに堕するのではないか。自分がアクションを起こさない限り、責任を取る必要もないのだから、静観したあげく、事態が最悪に終わった場合でも、知らぬ存ぜぬ、無関係を言い張ることができる。つまり、責任回避、かつ自己合理化の臭いまでする。

 それはたしかに「大人の知恵」であろうが、社会を構成する「市民」たちが備えるべき知恵ではありえない、などと成熟を希求しながらも、いつまでたってもそこに辿り着けず、永遠に「初心なおっさん」としては反論したくなる。

 では僕の一種の正義感、或いは、酒の力を借りた「市民」的責任感のなせる業は正しかったか。騒動を大きくした嫌疑もあるし、電話氏が眼鏡を失くすという実際的損失をも生じさせたのだから、決して褒められたものではないだろうが、少なくとも、結果として力の暴発や傷害沙汰には至らなかったのだから、許せる範囲の介入だったと言えるのではなかろうか。
 
 というわけで、可能性としては幾通りのシナリオがあったとしても、それはあくまで可能性にとどまり、現実は一つである。つまり、実際に起こったことだけであり、それと起こらなかった様々な可能性を同じ土俵で比較して判断するわけにはいかないことになる。

 しかしながら、明らかなことが幾つかある。一つは、なんらかのトラブルに対して時宜を得た介入が生じ、それでことが穏便に収まるシステムというか、人間関係がこの社会には欠けているという事実である。

 先ずは、電話氏が少しでも「常識」があれば、ということになる。或いは、もっと早く誰かが彼に注意していれば、と。ところが、この数々の「もし」を実際の可能性として思い描くことがすごく難しくなっている。もし注意でもしようものなら、逆恨みされて、傷を負ったり、ひどい場合には、殺されたりしかねない。そういう恐れを広範囲の人が共有しつつある。

 路上を占拠して座り込んでいる若者たちが、通行人に対して通路を譲るなんてことは殆ど考えられず、通行人としての権利を主張するより、彼らに遠慮して車道に身を避けるなんてことも普通に起こっている。

 個々人が突如として暴発する可能性、さらには、ことの良し悪しなど関係なく集団をなせば、つまりは物理的力が勝れば、なんだってまかり通る社会が現前している。そこで、暴発の危険性を秘めた他人たちに取り囲まれた自己、を不動の基本認識にして、身を守る術を駆使することが知恵となりつつある。君子危うきに近寄らず、何事もおこってはいないと、見ざる、聞かざる、言わざる、という例の三猿を決め込むことが、この社会の金科玉条というわけである。

 それに対して、例えば、同じアジアであっても、韓国や中国なら相当に異なった事態の展開があるのでは、などと僕などは思ってしまう。街中で何かが生じれば、必ず周囲の人間が関わってくる。たとえ、野次馬としてであれ、彼らが事件の一部始終の目撃者、あるいは善悪の判定者となる。しかも、適当な年長者が介入し、「古風」な訓戒を垂れるということも珍しくはない。そのうえ、訓戒を受けた者は、周囲の空気を読み解いて、その訓戒者に分があると見れば、公共道徳の体現者に対してそれなりの敬意を払って、事件は一件落着となる。

 訓戒を受けて、それを受け入れても、誰に対しても恥ずかしいことではない、そういう了解が行き渡っている。つまり、してはならないことの社会的な了解が成立していそうなのである。それと比べて、この社会は相当に危険な状態になっている、というのが、僕の印象なのである。尤も、先に例に挙げた国々でも、今後この社会と同じようなことにならない、などと言っているわけではない、念のために。

 ましてや、どちらが優れた社会であるかなどと価値判断をしているわけでもない。ただただ、暴発の危険が少ないことは確かではないか、というわけである。ともかく、そうした危機感が僕の介入をもたらした。言い換えれば、この騒動を大きくしたのは、僕が日々募らせている危機感であり、酔った勢いのせいではない、というのが酔っ払い中年としての言い分なのである。

 しかし、その危機感の根を探れば、それはやはり僕一個の条件に端を発した希求にたどり着く。一つは僕が在日朝鮮人として生きてきたことが関係している。この社会でひとりの市民として遇されることが少なく、いざとなれば、排除されるのではという怯えが体質化している。だからこそ、出自を問わず、互いが一個の個人として関係を創るような社会をひたすら願っているようなのである。そんなもの夢想の謗りを被るであろうことは承知しながらも、それを捨てきれない。

 たとえ、集団の中で差別的扱いを受けても、その集団の内部から、その差別を不当だと叫ぶ個人がひとりでもいれば、「私」はその差別が社会全体によるものと見なさずに済む。そして、たとえ様々な不利益があるとしても、原理的に「私」はこの社会の中で様々な個人と関係を結ぶことが可能であるという信憑を得ることができる。それは「私」を励まし、「私」を叱咤激励する。出自や社会的ステイタスや性別を問わず誰であれ他人をも励ますような「個人」として生きるべく、自らを律さねばなるまいと。

 今ひとつは、先の危機感はおそらく僕の中年の自覚とも関係していそうである。歳を重ねるにつれ、いろんな脅威に晒されているといった感触が強まっている。しかも、それは単に僕一個に限定されるものではない。様々な個人が、圧倒的な集団の力の脅迫に曝されている。

 しかも、それに抵抗し弱者を保護してくれる社会的な了解なり、連帯なりといったものがどんどん消えつつある。世に言う弱者だけではなく、世のありとあらゆる個人が、ひとたび集団から離れると、集団によって、極端に言えば、社会から脅迫を受けているような感じがする。

 それがいかに不正であろうと、まともにぶつかればつぶされる。力がないから脅威なのであって、もとより、力で対抗できるなら、脅威とはいえない。しかし、弱者が力に対抗するには、正義とか、真理とかに依拠する以外になく、この世の個々の現場でそうした大義が効力を持つことはそうは多くない。そこで後世の判断を待つというような話になるのだが、それはなるほど立派なことではあるが、「今の時点」では、甚だしい被害を被ることになる。正義や真理は弱犬の遠吠えになりかねない。それでも敢えて、というような人はヒーローなのだが、世の中に、しかも「太平のこの社会」にヒーローは希である。

 とすれば、現場で脅威と対抗するには、そうした脅威に晒されかねない人間同士の了解、あるいは連帯がなんとしても必要ということになる。日常の至る所で、そういう連帯の感触を、さらには、その連帯でもって、この社会や個人の暴力に対抗する実感を私は常々求めているのであろう。「市民の皆さん」などというのは今時、政党の宣伝くらいにしか聞かれなくなっているのだが、僕は個人としてそう叫ぶことに、僕の唯一とはいえまいが、ある救済の可能性を見ようというわけなのである。

 というわけで、僕の茶番の根には、在日朝鮮人として生まれ育った中年男である「私」の危機感といまだに捨てきれない「市民的夢想」が重なっていたということになる。

 だから、激昂氏の言い分が正しかった、ということにもなる。お節介なのである。問題はその事件の帰趨にあったというより、僕の「良き社会」への願望、もしくは自己救済にあったわけだから。なんとも人騒がせな一人相撲の一幕なのであった。



人質になっている気分

2018-03-23 17:22:15 | 中高年の屈託と社会
        人質になっている気分
                                  

1. はじめに
 
 このところ、人質に取られているといった強迫観念が居座って、意気が上がらない。きっかけは例の「北」の拉致及び核疑惑にまつわる報道なのだが、そういう感触は決して今に始まったものではない。随分以前から体の底に沈殿していて、折に触れ意識の表面に躍り出る。その来歴と輪郭を少しなりとも明瞭な言葉で語ることができれば、このブルーな気分、慢性的な病からも決別できるかもしれない。
 いつからこんな気分が始まったのだろうか。記憶をまさぐるまでもなく、まだ我が家にテレビのなかった時代、僕が小学校の低学年の頃だった。ラジオで相撲の実況放送にかじりつき、初代若乃花の優勝に沸き立っていた。ところがその直後のニュースに冷や水をかけられた。

 「李承晩ライン」にまつわるニュースが、アナウンサーの憤懣と憎悪とが確実に伝わる口調で報道されていた。「またしても日本の漁船が拿捕され・・・」と勢い込んだ声がひときわ高鳴り、幼い僕を圧迫した。指弾されているのは僕であり、僕の肉親であり、その同類である、といった感じがあった。

 李ラインばかりか、「第三国人」の横暴、悪逆といった報道も頻繁にあった。そしてなるほど、「在日のやくざ」の組が大阪では名高く、その幹部や配下が近隣にもたくさんいるということを、両親などの迷惑気でもあり自慢気でもある話などを通じて僕らは既に知っていたし、周囲にはその予備軍になりそうな連中がたんといたから、その種の報道の公平性について疑問を呈すことができるようにも思われなかった。
 日常的に体感している差別の眼差し、それを公器というお墨付きを備えて「真理」として駄目押ししたのがその種の報道であった。逃げ場のない宣告として受け取らざるを得なかった。

 この世界は大きく二つに分かれていて、「被害者で正しくて強い普通の人たち」と、そうした彼らに疎まれる「汚らしく、犯罪的な者たち」の類とがあり、その後者に私は所属しており、いろんな局面で帰属を鮮明にすることを強いられるばかりか、指弾される存在というふうに自分のことを認識していたわけである。

 その延長で、「普通の人たち」にとっては何でもないようなメディアの報道でも国際絡みとなると、僕を脅迫する声と聞こえるようになる。例えば、テレビでのボクシングの国際試合。或いは、日本が高度成長を謳歌したあの東京オリンピック、とりわけ、女子バレーの応援に代表される「ガンバレ、ニッポン、チャチャチャ」の無邪気な連呼。それが僕にとっては、帰属を迫る脅しの声と聞こえた。
 
 そして近年では何と言ってもサッカーのワールドカップ騒動である。
 日韓の新時代とか未来志向の関係といった標語が喧しいけれど、あの騒動には僕はほとほと参ってしまった。このあたり、日本人のみならず一般の韓国人、さらには「在日」の中でも僕は特殊かもしれないのだが、帰属を強いられる戸惑いと恐怖感が強迫観念になっているのである。

 そういう意味での際立った例外が一つあった。敵役であるアメリカ人レスラーを、その不法無法に耐え抜いたあげくついには「正義」の鉄拳で制裁する「日本のヒーロー」の姿とその応援であった。敗戦、占領の恨みを一気に晴らしたいという日本人の情動を見事に組織し解放したスペクタクル。

 力道山が朝鮮の血を引くという噂は僕ら在日の世界では相当に確度の高いものとして流布しており、僕らは後ろめたさを持つことなく、日本人に和して喝采することができた。それどころか、「身内」のつもりで応援している日本人に優越感さえも抱けたのだから、まさに希有の瞬間だった。しかし、日本人というシンボルを掲げないと、いかなるヒーローもその名に値しないという事実はやはり恐ろしいもので、興奮の後では、むしろその事実の重みがのしかかったりもした。

 ところが今翻って考えてみると、集団の攻撃性を発散する為なら「偽物」でも何でも利用することを躊躇わない集団の狡知、言い換えれば、日本のしたたかさの現れだったのかもしれない。

2. 人質感覚と責任の取り方

 それにしても、そうした圧迫感を「人質感覚」と捕らえたのはどういう理屈に基づいてのことなのだろうか。もちろん、帰属の問題に加えて、「民族的責任(国民的)」ということが絡んでいたのだろう。同類の悪の責任は同類が担うものであり、責任を担うべき同類の一人である僕は、圧倒的な多数者である「被害者」たちに囲まれ、いつその仕返しを受けても当然の報いである、という理屈の回路。これを人質感覚と僕は呼んでいるわけであり、そういう機会に事欠くことはなかった。

 不思議なもので、まだ年端もいかないその頃の僕が、もう既にそうした理解に達していたのである。周囲の空気の絶大な影響力というべきで、無力だから余計にそういう空気を嗅ぎ分けて生きるものなのだろう。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、そうした感触を反芻しながら僕は生きてきたことになる。もはや宿阿と言ってよかろう。
 
 そして、昨今の「北」関連の連日の報道であり、それに狂奔するこの社会の人たちの情動の噴出に日々立ち会わされている。アル中気味の僕などは、例えば居酒屋などで、メディアとこの社会の名も無き人々との見事な共鳴現象に出くわし、今更のごとくに驚き呆れる。あいつら、馬鹿たれめ、日本人が本気になったら、いちころじゃあ、といった話に居合わせた客たちが次々と和して、止め処がない。素知らぬふりを装って早々に退散を決め込まないと、暴力沙汰になりかねない。

 こうした事態に対して、僕は無罪を主張することができないわけではない。僕が朝鮮人だからといって、その名を名乗る国家が犯した罪に対して、恥ずかしさを覚え、その責任を負わねばならないのだろうか。その政権に対して全く関与してこなかったし、そうできるはずもなかった僕が。

 しかし、このラインで思考を組み立てると、気がついてみると戦前の軍部独裁体制に対して抗する可能性を見いだすことができなくなっていた一般の日本国民たち、さらには、戦後生まれの人たちが 、過去の日本の歴史的犯罪に対して無罪を主張するのと同じ論理に立つことになりはしまいか。問題の範疇が異なるという人もいるかもしれないが、その腑分けは決して容易いものではない。「民族的」責任を回避するわけにはいかない、と言わざるをえないのである。

 但し、そうした責任の自覚は必ずしも、メディアの「北悪玉論」にひれ伏し、同調することを要求するものではなかろう。それに、民族的責任という問題の建て方に固執すると、それは自閉して、二項対立をさらに激化させかねない。同時代人として、或いは、国家に対する市民、もしくは社会に対する個人としての責任と義務といった観点と連動させて、考えていくほかないように思える

 おそらくはこういう局面においてこそ、同じ社会に住む人間としての、差異の認識を土台にした相互理解が求められる。悪夢の再来を回避するだけでなく、その悪夢の絶滅の可能性が探る契機にだってできるかもしれない。そう努めなくてはなるまい。

3.在日の「無垢」と人権感覚

 民族的出自にまつわる責任論の呪縛はさておくとしても、それで「僕」の容疑が晴れるというわけにはいかない。僕を含めて多くの「在日」が「北」に共感してきた歴史がある。或いは、その民族的正義なる「正しさの脅迫」に負けて、それを勝利や成長と自認した経緯というものがあり、それがさまざまな局面での言葉や挙動に表現されていたはずである。その責任はどうなるのか。大層に言えば、思想的責任の問題がある。

 この種の責任論議が最もあてはまるのは「北」系の組織であり、その組織員であり、それを代表する知識人ということになるのであろうが、僕だって彼らに反感だけでなく一定の共感を持ったことがあるのだから、責任を免れるとは言いにくい。

 彼らの「正しさ」なるものに異議を申し立てると、「君は後世に顔向けができるのか」「歴史の進歩に反逆するのか」などといった「正論」が彼らの口から次々に繰り出された。彼らとは、「同胞」の知識人、或いは「北」を信奉するエリート達、それになにより、自らの生活を顧みることなく「同胞」のために献身している人々であった。

 そうした論理に抵抗しながらも、抵抗する己にいささかの疎ましさを覚え、彼らの言葉どおり「裏切り」の疑惑を自らにかけた僕は、おそらくは、彼らと思考方式を共有する部分があったに違いない。我知らずそうした論理を吹聴し、他の人に同様の脅迫をしていたであろうし、今尚、脱したとは言えないような気がする。

 尤も、弁解できる部分もないわけではない。僕は彼らに同調しはしなかった、と。しかし、それはあくまで現象面にとどまる。先にも述べたように、僕の思考の原基に、彼らと同じ何かが浸透している。そのことを隠蔽して、無垢を主張するわけにはいくまい。

 さらに言えば、僕にそうした言語で脅迫していた人々でさえも、いろんな弁解が可能である。若気の至りで、などではいくらなんでも済みそうになく、最も使われそうな責任回避の口実は、自らも騙されていたということであろうが、僕は僕自身の弁解をそのまま認めることが出来ないのと同様に、その種の弁解を受け入れるわけにはいかない。

 騙されてきたのは、騙されていたいという願望があったからに違いない。しかも、騙されてきたというその人自身がまた人を騙してきたに違いない。したがって、何故に騙されてきたのか、何故に騙されていたかったのか、そこに探索の碇を下ろさない限り、永遠に同じことが繰り返される。無垢な献身が何者かによって歪曲されたといったお話、「裏切られた青春」といった物語を護符に用いた退廃を、自他に許すわけにはいかない。

 ある観念に生き、それを吹聴することを義務とみなし精励努力したこと、それを恥じる必要などない。人間は多かれ少なかれ、そのようにして生きる。そもそもが、在日の生きがたさという条件があった。何かに希望を託し、その光で自らを立て直す必要があった。それにまた、時代の風潮もあった。
 
 観念の崩壊などと取りざたされている今だって、新たな観念(現在にはその姿が見えにくい)が人々の挙動や思考や感情を支配しているに違いない。しかし、自らが信じ、生きた観念なり心情が誤りであったとなれば、その責任を負わねばなるまい。負い方を考えなくてはなるまい。

 それは歴史的で具体的な検証を伴わねばならないことは言うまでもないのだが、それだけではない。人間と観念のダイナミックな関係が掘り下げられねばなるまい。権力、観念、そして個々の人間の自己肯定の欲望の絡み合いが解きほぐされなくてはならない。
 
 そのひとつとして、「在日の無垢」というものを改めて考えるべき時代が到来したようである。状況がそれを厳しく要求しており、いくら遅まきとは言え、その機会を活用しない手はない。生きている人間が、社会が、世界が無垢なんてことはない、それがものを考えるときの基本であろう。
 
例えば、僕ら在日の人権感覚はどうか。現在のように僕らが人質感覚に圧迫されるときにこそ、僕らが備えている人権感覚のある種の「歪」が露呈するような気がする。

 朝鮮・韓国或いはまた在日に対する日本人からの論難に対して、それが一理あると思ったりした場合でも、僕らは往々にして日本の歴史的犯罪を盾にして一蹴する傾向がある。人権をまともに享受せず、それに慣れてしまった「在日」は、日本人が在日や祖国の日本人に対する人権侵害を言い立てる議論に対して、「お前たちにそういうことを言う資格があるのか」と反論とまではいかなくても、白ける部分が少なからずある。

 そうした態度は必ずしも自己合理化だけに発しているとは言えまい。現実に根を持っている。しかしながら、それが鎧となり、もっぱら自己を原理的かつ現実的にも無垢と錯覚するようなことがありそうな気がする。そこにメスを入れる必要があるだろう。それなくして、僕らに成熟が訪れることはありえない。この鎧が党派性や権力至上主義と合体すると、強固な外観を呈しても、内部は腐食し、人間を滅ぼすことになる。

 それにまた、在日について言えば、生まれてこの方、複雑な状況を生きてきた人間に特有の政治感覚というものもある。日本人が知らないで済ますことのできた政治、とりわけ権力の恐ろしさについての、物心つき始めた頃以来の長年の経験がある。世の中、そうは簡単に正義が勝つわけはない。政治感覚を働かして、状況判断をすべし。その上で有効な手立てを考えねばならない、などなど。

 さらにはまた、「北」に対する殆ど絶望的な諦観もある。親類縁者や友人や同胞がかの地でいかに辛酸をなめているかを知って長年になる。いたずらに騒いでもことが解決されるはずもなく、むしろ、事態を悪化させることになりかねない、といった懸念も働く。さらにはもちろん、立場によって多少の差異はあっても、「同胞意識」がある。

 拉致問題についても、そうした要素が複雑に絡み合って、人権感覚呆けの外観を呈しかねない。しかし、僕らが被害者やその家族に対する共感を欠いているわけでは毛頭ない。僕らもまた国家犯罪の落とし子である。あらゆる犯罪は、責任を明確にして事態の解決が図られねばならない。犠牲者は癒されねばならない。苦しむ人には救いの手を差し出さねばなるまい。ただ何ができるか。民族対立、国家対立、党派抗争などに利用されることなく、彼らの解放、私たちの解放をどのようにして模索していくのか・・・


4.責任の取り方

 僕の人質感覚なるものを病的だと論難する向きもあるかもしれない。かつての李ライン問題、或いはまた、差別問題と、拉致問題や核疑惑とはそもそもが問題の範疇が異なる、との批判も覚悟しなければなるまい。
 
 しかしながら、この種の報道には近代日本の病弊が露呈している、と僕は思う。その病弊こそが、例えば僕に人質感覚を強いたものである、と。

 先ずは、時と場所を問わずマスメディアの病弊とも言うべき正邪のマニ教的図式がある。日本の一方的な無垢さとあの「半島」の極悪非道といった二項対立は、昔の李ライン報道から最近の北朝鮮極悪人報道まで殆ど瓜二つであって、かつては、あの半島全体に被せられていたイメージが、今や「北」に、あるいはその「政権」に局部化したにすぎないように思われる。これほどに悪役を振り当てられる国は戦後の日本ではあの半島しかない。

 中国はまかり間違ってもそうした役を振り当てられることはない。例え、中国脅威論が囁かれてもそこには相当の抑制がある。ところが、あの半島にまつわるものとなれば、殆ど野放図に日本の底部に蠢く情動が噴出する。

 失われた植民地への郷愁、かつての宗主国の意識といった根深い何かがそこには発動しているといった嫌疑さえある。中国には負けた、朝鮮は我らのものであったのに外からの横槍で致し方なく手放したにすぎない、といった感じ方がこの社会の奥深くで共有されている。こうした感じ方は例えば、同じ中国からの留学生であっても、朝鮮族の場合とそれ以外の場合とでは日本人の対応の仕方がおおいに異なるという現実の知見によって補強される。

 次いでは、罪責感と被害者意識の混濁という問題がありそうなのである。旧植民地に対する過剰な罪責感を云々する議論が喧しいが、なるほど一般にも、もう十分以上に謝ったではないか、いつまでも古証文を盾にして無理難題を突きつける恥知らずな奴ら、といった感情が鬱積していそうなのである。

 戦争は世の常、もし犠牲者を云々するなら、日本の普通の無辜の民こそがそれにあたるという、それ自体としては全面的に誤りとは言えない感じ方があり、それが「他者の不幸」への共感や想像力を阻んでいるのかもしれない。犠牲者は他の犠牲者への共感を持つとは限らず、犠牲者の資格競争或いは先陣競争という戯画に陥っており、それを識者が後押ししている。共に犠牲者であるとすれば、そのすべてが解放されるように手を携えることができるし、そうしなければなるまい。何の犠牲者か。それを癒す手立てはどこになるのか、といったように。もちろん、問題は国家と市民、組織と個人、そして権力の問題に行き着くであろう。 

 最後に今ひとつ、これまた日本の戦後処理と無縁ではないのだが、日本の平和ボケという問題があるのではなかろうか。アメリカの核の傘の中での能天気。それが歴史認識や国際関係における実証的な思考の成熟を妨げてきた。

 ほんの少しでも外交や政治の知識があれば、あるいは歴史感覚が少しでもあれば、次のようなことは常識に属すのではなかろうか。
 「北」は建国以来、戦時体制を免れたことがない。範囲を広げれば、韓国だって、中国だってそうである。戦時体制となればとりわけ、国家は、そして人間はなんだってやりかねない。
 
 そうした東アジアの多くの人々が常識としてきたはずの感覚を日本人だけが持てなかった。持たなかった。日本の戦後責任の曖昧化に由来している部分が多いに違いない。平和な日本、平和な世界という、誰もが望みはするが現実とは言いがたいのに、幸いにもいろんな条件が作用して、日本だけが享受できた「平和呆け」というものを改めて俎上にのせて、現在の事態を考えるべきであろう。解決をサボタージュして放置しておくと、そのお返しは高くつく。日本だけにとってのことではない。いまや一国の不幸は世界の不幸になりかねない。それが国際化のもたらす論理的必然というものであろう。

5.歴史的責任と国民或いは市民の責任

 僕は己が「在日」として生まれついたことから学んだことが多々ある。恥ずかしいことではあるが、僕がものを考えるときに最終的に依拠しうるのは、そこで学んだことぐらいしかない。それは何か。

 先ずは、人間を出自で判断し、序列付ける組織や社会は歪んでいるということである。その歪みは閉塞感とその延長上での暴発のタネを抱え持つ。その意味では日本も「北」も同列に論じることができる。その過酷さには大きな差異があり、量の差異は質の差異に転化するということもあるだろうが、原理的にそういう社会に抵抗しながら生きていきたいという点では、僕のスタンスは変わらない。変えようがない。

 それは僕の「在日経験」を否定することになるからである。この世には力関係もあり、非力な僕には出来ないことが多いが、それでも出自によって身分的に秩序つけられた世界を承認することは断じてしてはならない、それが僕の思考行動の原則の一つである。
 
 次いでは、組織や国家を中心にものを考えたり、生を営んでいる限り、権力の横暴を招来することを避けられないということである。先に、人間は無垢ではありえないと記したが、それは人間の生のあらゆる側面に当てはまる。組織も、またその最たるものである国家も無垢ではありえない。したがって、僕らは、組織や国家に帰属していたとしても、原理的にそこから身を解き放つ自由を少なくとも心情と論理の上で確保しておかねばならない。国家に対する市民という常套句しか思い浮かばないが、しかし、これは決定的なものだと思う。

 個をいかに打ち立て、育てることができるか、そこにこそ僕らの自由がある。その自由は、自分自身への眼差しを保障する。他を論難する刃は、自身に跳ね返ってくるという当然すぎることが思考に組み込まれることになる。

 最後に、正義や真理と個人の問題である。刻苦精励して、真理に到達することができる幸せな人がいる。或いは、ひたすら世界に襲いかかられ、生きるために懸命にそれにあらがっているうちに、気がつけば正義を具現したりしている場合もある。しかし、それはあくまで一過性のものである。人が一度正義を具現したということは、その人が正義だという護符にはならない。正義は人間が担い続けるには熱すぎて、自分の存在自体が正義だと錯覚させ、正常な感覚を燃え尽きさせる。そして退廃や権力至上主義の温床となる。正義や真理を人間や組織や国家といった個体に貼り付けてはならない。他者にとってばかりか、その個体にとっても不幸である。

 だからこそ、開放性と透明性が必要となる。それさえあれば、先の不幸への防波堤になる。これは組織や国家の問題だけではない。己自身のそれが常に求められなくてはなるまい。己を開放する努力なくして、他にそれを求めることはできない。閉鎖的な社会は腐敗するというのと同じ理屈で、自分の内部に対して開放を要求しない人間は腐敗する。

 というわけで、何一つ処方箋を提出するには至らない。端からそれが可能だとは思ってはいないのだが。しかし、誰にも明瞭なことの輪郭を確認するくらいのことはできる。大きな不幸をそれ自体として解決する方途が模索されなくてはならないのだが、それと同時に、個々が生きている場で、僕の言う市民原理を実現する努力をしなければなるまい。実はそここそが一番困難であるかもしれない。人間は自己合理化と自己隠蔽をすることを避けられないものであるようだから。
 
 もし、いくら困難であれそうした努力が続けられれば、テレビの前や居酒屋等で「敵」を罵倒することで日常を凌いでいる彼ら彼女らに、「日本」というレッテルを貼り付けて固定化するのではなく、多重な存在として復元しつつ見る眼も育つであろうし、協同する道も開けてくるかもしれない。彼、彼女らと共に、僕らは生きている。