『済州女性文化遺跡100」の紹介9 97-100・2
97 済州海女を集約するような牛島 p.410
済州島の地図を見ると東側の海に、牛が横たわっているように見える島がある。それがウド(牛島)である。牛島と城山日出峰は済州でも特に有名な観光地である。新年の初日の出を見るために大晦日に牛島行きの船に乗る旅行客が多い。牛島灯台、先史遺跡地、映画撮影現場、洞窟音楽会、黒砂ビーチ、落花生、海産物(サザエ、鮑、若布、天草など)など、牛島の名物は多様である。出稼ぎ海女を数多く輩出したところでもあり、その女性たちこそが牛島を「今も生きている故郷」にした。
海の畑を仕事場、そして遊び場として暮らしてきた牛島女性の遺跡の現状を確認するために、各洞が所有するプㇽトㇰ(焚き火場)文化をのぞいてみる。
97-1 牛島、プㇽトㇰ:海女たちのアゴラ〔談論の広場〕 p.411
牛島の女性たちは10代で海女仕事を学び、海と体が許す限り、プロの海女として生きていく。彼女たちの生涯が刻まれたアゴラが4つの里(12の自然村)の随所に残っている。
済州の海岸村にはたいてい石垣造りのプㇽトㇰの痕跡が残っているものだが、特に牛島には今でも昔の趣が失われていないプㇽトㇰがある。
牛島のプㇽトㇰの文化的価値が高いのは、今でも幾つかの類型のプㇽトㇰが共存し、海女の労働、休息空間として使用されているからである。海女の仕事を新たに選択するような若い女性は殆どいないので、絶滅危惧種の職業目録に載せられそうなのだが、牛島では今でも海女たちの息遣いが生命力を維持している。
牛島では村ごとに海の境界があって、海女仕事をする際には自分たちのプㇽトㇰを利用するので、プㇽトㇰの数も多い。1970年代中盤まで使用されていた石垣造りのプㇽトㇰ、中盤以降に使用されていたセメント造りのプㇽトㇰ、1990年代に現代式に建築された海女脱衣場(石油を利用したボイラーやシャワー室を備える)がある。2009年6月には村単位で「海女の家」の表示板を製作して掲げるようになった。造られてから20年未満にしかならない海女脱衣場も、これからさらに歳月を経れば考古建築物になるのだから、それまた女性海洋文化資源に他ならない。
牛島のプㇽトㇰを見ようと思えば、チョンジンリ(天津里)から牛島峰を経て出発地へ戻っていく路の途中で「海女の家」という表示板を掲げた建物があり、その周辺に石垣造りのプㇽトㇰがあるので見つけるのは容易である。
チョンジンニ(天津里)トンチョンジン(東天津)プㇽトㇰの西側にはトンジ(冬至)堂があって、石垣造りのプㇽトㇰはすっかり崩れてしまって、痕跡も見出せないが、セメント造りのほうは3つに分かれ、区画のそれぞれを海女15人ほどが使用できる。中を見ると、薪が積んであり、ドラム缶を利用した暖炉が中央に置かれている。さらには、道端の「海女の家」はシャワー室も備えている。
ジョイㇽリ(朝日里)にはビヤンドン(飛陽洞)にひとつ、ヨンイㇽドン(迎日洞)に二つのプㇽトㇰがある。ピヤンドン(飛陽洞)のセメント造りのプㇽトㇰは使用されなくなって随分経ったこともあって、処理に困っている。ヨンイㇽドン(迎日洞)のプㇽトㇰは、昔は3~8名の海女が集まって火に当たっていたが、今では石垣造りのプㇽトㇰを壊して、そこに現代式の脱衣場が建てられている。
オボンリ(五逢里)の石垣造りのプㇽトㇰは1970年代中盤まで使用していた。サミャンドン(三陽洞)のプㇽトㇰは石垣造り、セメント造り、そして現代式のものが共存している。二つのセメント造りのプㇽトㇰには海女の道具を保管している。チョンフルドン(銭屹洞)のプㇽトㇰはと言えば、3つの類型が道端に残っていて、なかなか立派な女性遺跡である。
チユフンドン(周興洞)は昔から1班がチョンフㇽ(銭屹洞)の海を利用し、2班はサミャン(三陽)洞の海を利用してきたので、プㇽトㇰもその村の海女たちのそれを共同利用している。
ソグァンリ(西光里)サンウモㇰドン(上牛目洞)のプㇽトㇰは、石垣造りのプㇽトㇰをそのまま利用しているが、雨風を防ぐためにスレートの屋根を設置し、1990年代には今のようにスラブ?葺きにしたのだが、それが保存されている。路の向こう側には現代式の脱衣場もある。
海女たちが石垣造りのプㇽトㇰを利用していた頃には、大籠に海女服などを入れて通った。大籠には、水着、海中眼鏡、手ぬぐいなどを入れて、その上に浮きを置いた。大籠の置き場といったものは特になく、プㇽトㇰに入ってから大籠をおろし、水着に着替えて海に入っていった。若布を採取する際には、鎌を携えて行った。布の水着を着ていた時代には水の状況に合わせて1日に3~5回程度、海女作業をした。村の近くで海女仕事をする時には、昼の弁当は準備しなかったが、他の村に海女仕事に出かけるときには、弁当を持っていき、仕事の合間にプㇽトㇰで簡単にその弁当を食べた。家に子守をしてくれる人(おばあさん、亭主)がおれば、プㇽトㇰまで連れて来てもらって乳を飲ませたが、そんな人がいなければ、赤ん坊よりも少しでも年上の兄や姉がその役割をした。
プㇽトㇰは海辺で大きな岩を探して作った。家族(夫たち)も作業に参加して、日向に作った。特別な技術を要しないが、石垣をきちんと積む術を知っている者が中心になり、海女たちが座っている姿が外から見えないように、そして風が入らないように石を高く積んだ。
牛島では木など、火にくべる材料が十分でなかったので、カジメや海辺に上がってくる木の枝などを拾って火をおこした。そんな火にあたっていると、カジメの臭いが体にしみこむ。
ゴムの潜水着が出現すると、商人たちが販売のために村々を回った。最初は村で一人か二人がゴムの潜水着を利用しはじめて、そうでない海女達は赤く火照った体をあらわにして下着〔昔の潜水着〕を着て海に入っていき、さすがに長時間は我慢できずに海から上がってきたものだった。ところがゴムの潜水着を着た海女達はひとたび海に入ると3、4時間も継続して作業をするようになった。そんな状態が続けば、近いうちに海産物の種が絶えかねないので、ゴム潜水着を着ないように申し合わせたが、そんな約束など守れるはずもなかった。誰もが先を競ってそれを買うようになった。
ゴムの潜水着で海女仕事をする時には、腰と背中に鉛の塊をつけなければならないのだが、歳をとって力がなくなるにつれて鉛の数が多くなり、その結果として仕事中に事故が発生する。若い海女は鉛が1~2個で十分なのだが、年をとるにつれて力がなくなるので、5~6個の鉛の重しを身に着ける。鉛をたくさん身に着けて仕事をしていると、その重さのせいで動けなくなって人命事故が発生する。
現在、牛島のプㇽトㇰは海岸道路脇にあって、歩いて回っても鑑賞できるという利点がある。ところが、村の整備が進行するにつれて、美観上よくないという口実で、壊して痕跡をなくしてしまいそうで心配である。牛島は観光地として脚光を浴び、「海女の家」の表示板をデザインして建物の入口に掲げたり、何かと村の整備をしている最中である。
オボンリ(五逢里)サミャンドン(三陽洞)の海辺では、人工のプㇽトㇰをつくり、人魚の彫刻像を建てて写真撮影地として衆目を集めている。しかし、そんなものよりも、昔の姿を守っている女性のアゴラ(広場)のほうがはるかに価値があることを認めて、管理と保存に愛情を注ぐように望みたい。すなわち、もっぱら都市型イメージを要求する無自覚な観光客の好みに合わせて、村の文化遺産を整備してはならない。女性遺跡を通して、文化的価値を人々に知らせることのほうが重要である。
97-2 チュフンドン(周興洞)サン・ムㇽトン(山水池):水甕と女性たちの専用空間 p.418
牛島では村ごとに大地を掘ってつくった奉天水がよく保存されている。たくさんあるわけではないが、オボンリ(五逢里)チュフンドン(周興洞)にあるサン・ムㇽトン(山・水池)や、ケッムㇽトン(海辺水池)は昔のままに残っている。円筒形の水池はとても深いが、今では水がたまらなくなって、底が見える。牛島では異色の円筒形の水池を間に挟んで、南側を石垣で丸く取り囲み、水平な水台が整備されている。この水池は淡水と海水が混ざり、日照りで牛島の他の水池がすべて乾ききった際に使用された。当時はたとえ塩辛くても、なにしろ日照りなので選択の余地がなく、最後にはこの水をすくって飲んだ。そのすぐ前にはセメント造りのプㇽトㇰがあって、冬には火を焚いていた。西側には汚水終末処理場があるが、芝生がきちんと敷き詰められているので、目に入ってもあまり気にならない。
98 コインドㇽ群落地、加波島(カパド) p.420
済州島の西側にある加波島は、馬羅島と兄弟のように並んで海上に浮かんでいる。摹瑟浦(モスㇽポ)から連絡船に乗って20分ほど海と戯れているうちに到着する。
加波島は馬羅島へ向かう途中にあって、韓国最南端の土地として脚光を浴びている馬羅島と比べれば、静かな漁村として知られており、素敵なコインドㇽの群落地としても有名である。2009年3月には第1回青麦祭を開催するなど、村民の愛郷心もうかがえる。
加波島には女性の魂が宿る生活空間が何カ所もあり、その中でも永遠の心の安息所としてのハㇽマン堂と生命水の役割を誠実に果たしているトンハンケムㇽがよく保存されている。それらが村民たちにとって、どのような意味を持って残っているのかをうかがってみる。
98-1 サンドン(上洞)ハㇽマンダン(女神堂)、ハドン(下洞)ハㇽマンダン(女神堂):女神たちの神殿 p.421
摹瑟浦港から正面に見える側が上洞、その上洞浦口から南に向かって歩いていくと下洞に出る。どちらの村にもハㇽマン堂(女神本郷堂)があって、上洞ハㇽマン堂がクンハㇽマン(大ハルマン)として座定し、島の根源神として祀られている。上洞ハㇽマン堂は摹瑟浦方向に、下洞ハㇽマン堂は馬羅島方向に向かって祭壇が設けられ、それが石垣で取り囲まれた村の守護神である。
加波島の人々は漁業に従事していることもあって、ハㇽマン堂に頼って一生を過ごす。今でも海女達は定期的な儀礼(陰暦1月と6月)と不定期儀礼(個人の事情に応じて随時)には、ハㇽマン堂に参って致誠を捧げる。その他にもそこを訪れて、自分たちの命を管掌している海の神に祈り、家庭の安寧を願う。
父母の代から上洞ハㇽマン堂(ウッ・トンネ・ハルマンダン)に通っていた場合には、今は下洞に住んでいても、先ずは上洞ハㇽマン堂に参ってから下洞ハルマン堂(ハンゲハㇽマン堂)に行く。しかし、そうした因縁がない場合には、上洞の人々は上洞ハㇽマン堂へ、下洞の人々は下洞ハㇽマン堂に通う。
毎年正月の15日以前に村祭を終えてから個別に堂に通う。すなわち、村祭が終わらないうちはハㇽマン堂に行かない。個別に参る場合には、個々の女性たちが日を選ぶのだが、心をこめて良い日を選ぶ。主に兎の日、戌の日を選ぶが、家の主人の干支の日は避ける。
本郷堂へ参るのは明け方がよく、一人で行って口伝えでビニョㇺをする。信仰民が堂へ行く時に持って行くお供えの容器をカヌンデドㇰ(堂籠)と言う。堂へ行くときにはその堂籠を背負い、祭を終えると抱えて戻る。その堂籠や風呂敷は特別に保管し、堂へ行く時だけに使用する。信仰民は神とは謹み深く接したいので、線香を持って明け方に行く。堂へ行く際には、特別な服というよりも、身なりをきちんと整えるほうが大事である。
最初に作ったお供えは上洞ハㇽマン堂に、次は下洞ハㇽマン堂へ持って行くお供え籠に、といった具合にまとめて入れてから、龍王祭のお供えを用意する。お供えはご飯4食分(最初のものは龍王用に1食分、次いでは本郷堂用に3食分)、生米1鉢、鶏卵、酒、果物、魚(龍王祭には使用しない)を準備する。お供えを捧げた後で、礼をしてから祝願を告げ、そして飲福をする。その後に、コルミョン(お供えを投げやすい形にすること)にして、ばらまく。龍王神に捧げたお供えは白紙に生米、鶏卵を包んで結び、海に(龍王に)投げる。お供えに生米を準備するのは、生食するという意味で、それを海に投げる。酒も1瓶携えて、海に振りまく。堂に捧げたお供えが残れば家に持ち帰り、家族たちで飲福する。その際の特別な禁忌事項はない。
正月には色布3種類(白、黄、青)をハㇽマンに捧げる。6月は一年の中間月にあたる特別な月なので、定期的に堂に通う。ハㇽマンは信仰民の安寧を考え、信仰民を待ってくれていると信じているのである。だから、信仰民は白い糸1巻きと白紙、紙幣1000円を準備して堂に行き、それらを紙銭に包んで捧げてから、その後にようやくご飯を捧げる。
加波島では2年ごとにクンクッ(大祭)を3日間にわたって行う。クンクッは陰暦2月か3月に日を選んで行う。2月に行う場合には、ヨンドゥン(龍登)神用のご飯をもう一食分付け加える。3月に行うならば、花の3月なのだから、最も望ましい。
今でも海女達は自分たちの守護神がいるハㇽマン堂に通うが、80歳を超えると通うのを止める。歳をとると、心をこめて通うのは骨が折れるので、ご飯とチェスㇰ(魚類)を準備したうえで、いつものように堂へ行って、「歳をとってしまいましたので、もう来ることができません。どうかお待ちにならないように」と神に最後の別れの挨拶をする。加波島の海女達はほとんどがハㇽマン堂の信仰民であり、堂へ行く日でなくても、夢見が悪かったり、家に憂いごとがあったりした時には、心の平安を求めて堂に参る。
98-2 トンハン・ケムㇽ(海辺水):干潮時だけに使っていた貴重な水 p.425
加波島の海辺には湧泉水が数箇所(10余箇所)あり、その周辺にはプㇽトㇰもあって、かつては海女たちが利用していた。上水道施設ができる以前に加波島の下洞の人々が喜んで使用していた湧泉水としてトンハン・ケムㇽがある。これは下洞浦口から東側の海辺に正方形で保存されている。水が湧き出す穴には小さな枠が設置されている。
トンハン・ケムㇽは海辺の湧泉水で、満潮時には塩辛いので、干潮時を待つ。飲料水用にすくったり、洗濯をする場合には、明け方の4時頃でも通っていた。飲料水用の水池の周辺には、洗濯板として使える石もあり、流れる水を集めて洗濯した。数名が洗濯するときには、ひとりが下洗いに使った水を棄てずに、他の人もそれを使用するといったように、水を節約した。また、潜水服を着て海女仕事をした後は、ここで簡単に体をゆすぐ程度にとどめるなどの節約に努めた貴重な水である。
トンハン・ケムㇽは下洞の人々の生命水であった。個々の家に保管する水が不足すれば、トンハン・ケムルやコマン・ムルを利用した。トンハン・ケムㇽが海水に浸って飲めない時には、その東側にあるコマン・ムㇽを使用した。
トンハン・ケムルを利用するにあたっては順番がある。そこで先ずは水池に行って誰が最後かを確認して、自分の水瓶をその後ろに置く。しかし、長時間待たねばならないようであれば、家に戻って簡単な仕事を済ませてから戻ってきたりもした。
村に大きな行事があれば、ドラム缶10個ほどをトンハン・ケムルの横に置いて、数日間にわたって水を運んだ。女性たちは水バケツで水甕に水を入れ、それをさらにドラム缶に集めて、大きな行事がある家に運んだ。1980年代中盤に地下水が開発されて(2005年淡水施設)以降にはトンハン・ケムㇽは使用されなくなったが、村ではその水池を保存している。加波島の代表的な水池であるトンハン・ケムㇽとコマン・ムㇽのことなら、村民ならだれでも詳しく説明してくれるし、実物がよく理解できる形で保存・管理されている。
加波島女性海洋遺跡地としては、下洞浦口東側にトンハン・ケ・ムㇽがあり、その東側約50mのところにコマン・ムㇽがあって、標示板も建っている。浦口から海側に行けば下洞ハㇽマン堂があり、馬羅島が目に入ってくる。下洞浦口から村の中心を突っ切る路をたどって北側に歩けば、上洞浦口に到着する。
99 飛んで来た島、飛揚島(ピヤンド) p.429
済州市から西側に30余㎞進んだ翰林港には、ぎっしりと漁船が碇泊しており、正面〔北側〕を眺めると、海上にオルㇺ(寄生火山)が浮かび、そのオルㇺが位置する飛揚島が見張らせる。翰林港から連絡船に乗って15分くらいでその島の浦口に着く。浦口側には家が建っており、飛揚峰を越えた北側には誰が住んでいるのか気になって歩いて行っても、見えるのは海だけである。
飛揚島の人々は海を仕事場として生計を立てている。そんなところに女性たちの特別な空間があるのかどうか疑わしく思ったが、さすがに海岸村なので、本郷堂とプㇽトㇰがやはり生きている。女性遺跡はそれぞれの村の因縁を宿した共同体空間であり、飛揚島でも女性たちが主導して利用していた場所が残っている。
99-1 スリㇽダン(戌の日男神堂):祖先神よりも先に訪ねていく場所 p.430
飛揚島のスリㇽダン(戌の日男神堂)・トチェビダン(おばけ堂))は、浦口から東側に回って、うっそうとした神木と石垣で囲まれたところにある。飛揚峰の向かい側であり、その間には人工の散策路がきちんと整備されている。
この堂は2年に1回、堂祭を行い、神の存在を体感する。それ以外に、個人によっては戌の日に行き、漁船を持っている人は船告辞に先立って訪ねて、それらの行事の開催を告げてから船告辞の行事を始める。
信仰民は沐浴斎戒したうえで明け方に堂に参ってから、自宅で名節の儀式を行う。先ずは堂神に挨拶してから祖先神に礼を捧げるというわけである。正月の名節には、先ずは堂神に新年の挨拶をすべきと考えて明け方に行き、秋夕には家で名節を行う時間を見計らって、その前後に各自が時間を割いて堂に通う。
この堂は金陵里から枝分かれしたものであり、戌の日ハルバン堂とかトチェビダン(おばけ堂)と呼ぶ。ずいぶん昔のことだが、金氏ハㇽモニは金陵里ソワン水で飛揚島の守護神として仕えていた。その当時から飛揚島の人々はそのハルモニのためにご飯1食分を別に準備して、ビニョㇺをしていた。したがって元来はハルバン堂(男神堂)でありながらも、ハㇽモニも祀っているのでハルマンダン(女神堂)として知られるようになった。また、堂祭の際には、「金氏ハㇽマンがお連れした本郷大神さま、どうかご降臨のほどを」と言いながら神の降臨を請うこともあって、まるでハㇽマン堂のように誤解されている。
信仰民は堂神のために、心を込めてご馳走を準備する。名節の食べ物を作るのと同時に、名節のお供え、本郷堂のお供え、船告辞のお供えといったように、3神のためのお供えを準備する。準備するお供えのうちで最初のものは家の祭祀用、その次はハルバン用、そして船告辞用といったように分けておく。
堂のお供えを準備する際には、格別に気を遣い、買い物の際にも心をこめる。お供えは、ご飯2食分(堂神用に1食、金氏ハㇽマン用に1食)、ジェスㇰ(魚類)2皿、スープ1鉢、果物3種類(みかん、梨、りんごなど)を準備して、箸と匙はご飯の上に置く。スープは魚と若布でつくる。野菜1皿、肉串など名節式に準備したものを、すべて少しずつ持っていく。女性が堂に持っていって、自分で陳列したうえで、ビニョムをしながら祭を行う。ハルバン堂に参るのは女性だけで、男性は行かない。
堂のお供えはデクドㇰ(ダン・クドㇰ、堂籠)に入れて、その上に風呂敷(ボジャギ)をかぶせる。船告辞用の容器は特別に指定されておらず、大きな器に入れて持って行く。戌の日堂へ行く時に使用する道具(デ・クドㇰ、風呂敷、チムベ)は特別に作って保管しておき、堂に行く時に限って使用し、その日には服を端整に着て、お供えを背負って行く。堂で祭を終えてから飲福をして、残った飲食物は家に持ち帰って家族が飲福する。その飲食に関しては特別な決まりはない。
龍王祭の際のチドゥリム(紙捧げ)用のものは信仰民それぞれが作るが、白紙に紙幣とゆで卵や生卵をおいて糸で3回くくり、家族の名前を書いてから、海に行ってビニョㇺをしながら捧げる。この時に、信仰民によっては鶏卵を包む代わりに小さな石ころをつるして投げることもあるが、それは鶏卵では海に浮かびかねないからである。チドゥリㇺの後で、お供えが海中に沈めば、龍王様がその捧げられた飲食物を受け入れてくれたものと信じ、浮かび上がれば逆に、受け取ってくれなかったと考えて、再び日を決めてチドゥリㇺを行った。チドゥリㇺ用のお供えがまたしても浮かびあがるならば、よくないことなので、早く沈むように石ころを吊るすのである。
戌の日(スリㇽ)堂へは、正月の名節、秋夕、堂祭(2年に1回はクンクッ)には必ず、そのほかには各自の必要にあわせて参るが、自分の干支と戌の日には行かない。主に朝に、普通はご飯2食分、祭酒1瓶をもって堂に赴き、ひとりでビニョㇺをして帰る。歳をとってお供えの準備などに心をこめて訪れるのが難しくなってくると、それとは別途に訪れて、二度と来ることはできませんと、本郷神に最後の挨拶を捧げる。それでも夢見が悪かったりすると、焼酎1瓶を携えて行き、本郷神にビニョㇺをする。ここは宗教的な場所、祈祷所であり、いつでも慰めを受けることができる安息所と考えているからこそ、信仰民たちは心の平安を求めて神に会いに行くのである。
どんな儀礼でも、人々はそれに先立ってここを訪れ、事情を述べて許しを求める。こうした儀礼は母を通して伝承されるので、何か特別な理由でもなければ、幼い頃から通っていた堂へ通うようになる。
99-2 アギ(子供)ベンドㇽ(岩):誰を待っているのだろうか p.434
戌の日堂からさらに海岸道路を進むと、アギベンドㇽがにゅっと聳え立っている。この飛揚島溶岩記念物(天然記念物439号、2004年指定)は、見る人と方向によって、子供を負ぶっていたり、妊娠した女性のようにも見えるが、飛揚島の人々は昔から「子どもを負ぶった岩(アギベンドㇽ)」と呼ぶ。中心柱はお腹あたりがふっくらとしており、両横には童子形の石がたくさんひっついており、自然の力によるものなのか、或いは、人間の力によるものなのか定かでなく、はっきりしているのは、中心柱の形だけである。飛揚島の人々はこの石造物のことを、妊娠と出産のお祈りの対象などとは考えないが、他所の土地から菩薩たちがやってきて、祈祷所として利用している。
この石の周辺は「気」が強いので、村人たちは夜にはむやみに行かなかった。小さい円から大きな円の丘に至るまで、恐ろしいほどの「気」がこもっていると信じているのである。そのせいか、波がそれほど強くない所なのに、難破した船は必ずこちらの方に流されてくる。
99-3 テメヌン(箍に嵌める) ガイボンドㇰ:波と風を背にする(背負う)所 p.436
一般に済州の海岸村では海女たちの休息所のことをプㇽトㇰと呼ぶが、飛揚島ではそのプㇽトㇰのことをボントㇰと呼ぶ。テメヌンガイ・ボンドㇰ(箍をはめるプㇽトㇰ)はアギベンドㇽの西側にある。この辺りははるか昔から、飛揚島近隣からの漁船がホンダワラを採取したり、魚を取っていたところである。その当時にテウ(済州の伝統筏)をつないでいたところにボントㇰがある。地形を見ると船が入ってきて碇泊することができるように細長く、風を避けることができ、海女たちが作業のために出入りするのに都合がよいところである。波も防げるように、海女達が石垣を積んで、そのボンドㇰを利用していた。
ポンドㇰを見ると、他の村のプㇽトㇰとは異なり、岩盤の上にトㇽムドㇰ(石山)を正方形に高く積み上げ、その上に籠や服を置いたり、夏にはそこに上って休み、冬にはその下で火を焚いた。
テメヌン(箍に嵌める) ガイボンドㇰとアギベンドㇽの間には兎岩があって、その一帯ではボマㇽ(巻貝)とクンボッを採取する女性たちを見かける。海女達はゴムの潜水着を着て、海女道具を持って海中に入っていき、ボマㇽを取る。夏には近隣地域の女性たちもボマㇽとクンボッ(どちらも貝の種類)を取りに飛揚島に出入りする。
100 大韓民国最南端、馬羅島(マラド) p.438
馬羅島は摹瑟浦(モスㇽポ)から南1キロ地点にぽっかりと浮かぶ楕円形の島である。韓国最南端の地に足を踏みいれたいと思う人々の訪問が増えている。最南端に来れば何を見て、どのように感じるかといった類のことは、その種の訪問者の領分であり、その材料を提供するのが村の仕事の領分である。
この島の女性たちは海女仕事で生計を立ててきた。彼女たちが使用し、彼女たちの息遣いが宿る代表的な女性遺跡としては神堂、プㇽトㇰ、ハㇽマン堂があり、それが今はどうなっているのかを確かめてみよう。
100-1 馬羅島ハㇽマン堂:子守娘の魂を慰める所 p.439
馬羅島ハㇽマン堂は子守娘の悲劇的な伝説が昇華され、本郷神として座定しているところで、海辺の絶壁上で、石垣に取り囲まれている。
この島の女性たちにとって、海は仕事場であり遊びの場でもあるので、海の神にはとことん誠意を尽くす。ハㇽマン堂はこの島の人々が険しい海の仕事をきちんとできるように見守ってくれている。
定期的な儀礼としては、正月は新年を始める月なので、15日に家庭の安寧を念願する。陰暦2月には神堂へ行かない。それ以外では、家で憂いの種があれば随時に通う。正月15日に堂に行く時には龍王祭のお供えも一緒に準備する。
龍王祭のお供えでは、白紙が海中にしっかり沈むように、10円硬貨やきれいな小石をひとつ、ゆで卵半分と食べ物を白紙に入れ、糸で7回くくり、その上に家族の名前を書いておく。各人が祈りを捧げながらそれを投げるのだが、その年の運が悪い方角は避ける。
正月15日祭のためにお供えを準備しておく。そのお供えは、ハㇽマン堂用にはご飯3食分、龍王神用にご飯1食分を準備して、ジェスク(魚類)は米飯の数の分だけ準備する。但し、龍王は海神なので魚は捧げない。果物を三種類(りんご、柿、梨など)、牛肉の串焼き、豚肉の串焼き、魚の串焼きなども準備する。蝋燭に火を灯し、線香をたく。魚貝類の串焼きとしてはトコブシやサザエなど、その時々に入手できるものを準備する。スープは捧げない。
この島の人々はよその土地で暮らしていても、正月15日祭にははるばる訪ねてくる。信仰民は主に明け方に行くが、そのとき、近所の人とすれ違っても声をかけない。相手も、堂籠を下げていくのを見れば堂へ行くことが分かっているので、言葉をかけない。ハㇽマン堂からの帰路には声をかけてもかまわない。ハㇽマン堂で祭を終えると、必ず飲福をして(全員がたとえご飯ひと匙でも、食べなくてはならない)、残ったものは家に持ち帰り、家族で分けて食べる。特に正月15日祭を終えて堂から出てくるときには、準備していった小豆を振りまいて(皮膚病予防のために)、「また来ます」と別れの挨拶をする。
ハㇽマン堂はいつだって必要に応じて参っていいところなのだが、月の初旬に行くのは間違いと信じられている。だからといって、中旬以降に行けば神の効験がなくなるので、主に毎月10日~20日の間に通う。自分で日を選ぶが、戌の日、蛇の日、申の日は避けて、午の日と羊の日がよい。海女仕事をする前に夢見が悪ければ、ハㇽマン堂に行ってくる。そのときにまともなお供えがなければ、家にある食べ物とゆで卵を準備して行く。ここは聖所であり、海女たちにとって、そこへ参るのは宗教的実践なのである。
今でもこの島の人々はハㇽマン堂が自分たちを守り、保護してくれているものと信じている。この島の人々が海で事故死することなく、この島周辺では死体が浮かんだりしないのは、ハㇽマン神の威力だと信じている。
100-2 馬羅島、プㇽトㇰ、ハㇽマン・バダン(海):海に向かう前進基地 p.442
馬羅島の船着場で船を降り、階段を上っていくと休息所があり、その東側にチャㇰチックップㇽトㇰがある。ハㇽマン堂の下にはソンビムㇽ(雨水がたまる奉天水)があり、その一帯がソンビムㇽプㇽトㇰである。最南端碑が建っている所をチャンシドㇰと言い、その下にチャンシプㇽトㇰがある。水場の周辺にプㇽトㇰがあるが、それは海女仕事の後で体をすすぐ所である。
ソジュンイ(昔の潜水服)の時代には、石垣造りのプㇽトㇰを使用していたが、馬羅島は絶壁で構成されており、済州の他の村のような石垣造りのプㇽトㇰは造れなかった。それでも人間の環境適応力はすごいもので、絶壁に近くても平坦で風を避けることができる所にプㇽトㇰを造っており、それがチャㇰチックップㇽトㇰであり、サㇽレドㇰ船着場とハㇽマン堂の間にある。
チャㇰチクップㇽトㇰは絶壁から少し離れ、ひどくへこんだところに石垣を作って利用されていた。今ではトㇽムドギ(石山)と雑草に覆われているが、昔の様子が推測できる。しかし、ここがこの島の人々の生存に非常に大きく寄与した空間であることは、説明でもしてもらわなければ分かるはずもない。
チャㇰチクッ周辺の海は潮流が強く、そこで育つ若布は最上級品であり、それを採取して売っていた頃は収入がよくて、混食(小豆+米+麦)も食べることができた。
チャㇰチクップㇽトㇰはチャンシドㇰという大きな岩の下にあって、底に赤い色が少し残っており、プㇽトㇰとして使用していた場所だと推測がつく。冬に西風が吹くときに主に利用した。今ではその前に、サザエの貯蔵所をつくって使用している。
馬羅島のプㇽトㇰはすべて規模が似ている。海女達が囲んで座れる程度のもので、広すぎるとプㇽトㇰ全体を暖かくするための薪が多く必要になるが、それだけの分量の薪を調達することができなかったのである。この島では牛糞を岩上に置いて乾かして、薪として使用するほど燃料が不足していたので、海女たちがプㇽトㇰに座る場合も、火のそばに上着をかけて座り、辛うじて寒さに耐える程度だった。10名くらいの海女たちが集まって、風を背にして利用した。
馬羅島の海女達は作業着である海女服を着るときには、石垣造りのプㇽトㇰを利用した。ゴム潜水服を着始めてからも3年ほどは、着替え場所としてプㇽトㇰを利用したが、やがては面倒だからと家でゴム潜水服を着てそのまま仕事場に直行して、石垣造りのプㇽトㇰを利用しなくなった。
馬羅島では珍しく、ハㇽマンバダンという海洋言語が登場する。これはチャㇰチクッとハㇽマン堂の間にあるソンビムㇽ一帯を指す。この島は海中に浮かんでいるかのように見えて、周囲は絶壁になっている。ところが、ハㇽマンバダンは出入りが楽な海なので、高齢の海女達が海女仕事をするのに適した立地条件を備えている。若い頃には上軍の技量を誇っていても、歳をとったり、病弱になって技量が落ちると、海女仕事が難しくなる。だからといって生涯働いてきた仕事場から顔を背けることなどできずに、ついつい葛藤を抱えてしまいかねない年老いた海女たちのために、村の共同体が配慮している空間なのである。
ハㇽマンバダンは水深が浅く、海苔、若布などを容易に採取することができるので、後輩たちが先輩海女たちに所得源を提供しているわけである。このような女性空間は、まだそれほど資本主義化が進んでおらず、海女作業における共同体意識が強かった時代の文化であり、今ではそれも死語と化してしまった。
馬羅島郷約を見れば、65歳を越えると男女すべてが、海産物を採取することができる浅瀬の共同労働空間を、規約で制度化して老人を礼遇していたことが分る。それこそがハㇽマンバダンの存在理由なのである。
97 済州海女を集約するような牛島 p.410
済州島の地図を見ると東側の海に、牛が横たわっているように見える島がある。それがウド(牛島)である。牛島と城山日出峰は済州でも特に有名な観光地である。新年の初日の出を見るために大晦日に牛島行きの船に乗る旅行客が多い。牛島灯台、先史遺跡地、映画撮影現場、洞窟音楽会、黒砂ビーチ、落花生、海産物(サザエ、鮑、若布、天草など)など、牛島の名物は多様である。出稼ぎ海女を数多く輩出したところでもあり、その女性たちこそが牛島を「今も生きている故郷」にした。
海の畑を仕事場、そして遊び場として暮らしてきた牛島女性の遺跡の現状を確認するために、各洞が所有するプㇽトㇰ(焚き火場)文化をのぞいてみる。
97-1 牛島、プㇽトㇰ:海女たちのアゴラ〔談論の広場〕 p.411
牛島の女性たちは10代で海女仕事を学び、海と体が許す限り、プロの海女として生きていく。彼女たちの生涯が刻まれたアゴラが4つの里(12の自然村)の随所に残っている。
済州の海岸村にはたいてい石垣造りのプㇽトㇰの痕跡が残っているものだが、特に牛島には今でも昔の趣が失われていないプㇽトㇰがある。
牛島のプㇽトㇰの文化的価値が高いのは、今でも幾つかの類型のプㇽトㇰが共存し、海女の労働、休息空間として使用されているからである。海女の仕事を新たに選択するような若い女性は殆どいないので、絶滅危惧種の職業目録に載せられそうなのだが、牛島では今でも海女たちの息遣いが生命力を維持している。
牛島では村ごとに海の境界があって、海女仕事をする際には自分たちのプㇽトㇰを利用するので、プㇽトㇰの数も多い。1970年代中盤まで使用されていた石垣造りのプㇽトㇰ、中盤以降に使用されていたセメント造りのプㇽトㇰ、1990年代に現代式に建築された海女脱衣場(石油を利用したボイラーやシャワー室を備える)がある。2009年6月には村単位で「海女の家」の表示板を製作して掲げるようになった。造られてから20年未満にしかならない海女脱衣場も、これからさらに歳月を経れば考古建築物になるのだから、それまた女性海洋文化資源に他ならない。
牛島のプㇽトㇰを見ようと思えば、チョンジンリ(天津里)から牛島峰を経て出発地へ戻っていく路の途中で「海女の家」という表示板を掲げた建物があり、その周辺に石垣造りのプㇽトㇰがあるので見つけるのは容易である。
チョンジンニ(天津里)トンチョンジン(東天津)プㇽトㇰの西側にはトンジ(冬至)堂があって、石垣造りのプㇽトㇰはすっかり崩れてしまって、痕跡も見出せないが、セメント造りのほうは3つに分かれ、区画のそれぞれを海女15人ほどが使用できる。中を見ると、薪が積んであり、ドラム缶を利用した暖炉が中央に置かれている。さらには、道端の「海女の家」はシャワー室も備えている。
ジョイㇽリ(朝日里)にはビヤンドン(飛陽洞)にひとつ、ヨンイㇽドン(迎日洞)に二つのプㇽトㇰがある。ピヤンドン(飛陽洞)のセメント造りのプㇽトㇰは使用されなくなって随分経ったこともあって、処理に困っている。ヨンイㇽドン(迎日洞)のプㇽトㇰは、昔は3~8名の海女が集まって火に当たっていたが、今では石垣造りのプㇽトㇰを壊して、そこに現代式の脱衣場が建てられている。
オボンリ(五逢里)の石垣造りのプㇽトㇰは1970年代中盤まで使用していた。サミャンドン(三陽洞)のプㇽトㇰは石垣造り、セメント造り、そして現代式のものが共存している。二つのセメント造りのプㇽトㇰには海女の道具を保管している。チョンフルドン(銭屹洞)のプㇽトㇰはと言えば、3つの類型が道端に残っていて、なかなか立派な女性遺跡である。
チユフンドン(周興洞)は昔から1班がチョンフㇽ(銭屹洞)の海を利用し、2班はサミャン(三陽)洞の海を利用してきたので、プㇽトㇰもその村の海女たちのそれを共同利用している。
ソグァンリ(西光里)サンウモㇰドン(上牛目洞)のプㇽトㇰは、石垣造りのプㇽトㇰをそのまま利用しているが、雨風を防ぐためにスレートの屋根を設置し、1990年代には今のようにスラブ?葺きにしたのだが、それが保存されている。路の向こう側には現代式の脱衣場もある。
海女たちが石垣造りのプㇽトㇰを利用していた頃には、大籠に海女服などを入れて通った。大籠には、水着、海中眼鏡、手ぬぐいなどを入れて、その上に浮きを置いた。大籠の置き場といったものは特になく、プㇽトㇰに入ってから大籠をおろし、水着に着替えて海に入っていった。若布を採取する際には、鎌を携えて行った。布の水着を着ていた時代には水の状況に合わせて1日に3~5回程度、海女作業をした。村の近くで海女仕事をする時には、昼の弁当は準備しなかったが、他の村に海女仕事に出かけるときには、弁当を持っていき、仕事の合間にプㇽトㇰで簡単にその弁当を食べた。家に子守をしてくれる人(おばあさん、亭主)がおれば、プㇽトㇰまで連れて来てもらって乳を飲ませたが、そんな人がいなければ、赤ん坊よりも少しでも年上の兄や姉がその役割をした。
プㇽトㇰは海辺で大きな岩を探して作った。家族(夫たち)も作業に参加して、日向に作った。特別な技術を要しないが、石垣をきちんと積む術を知っている者が中心になり、海女たちが座っている姿が外から見えないように、そして風が入らないように石を高く積んだ。
牛島では木など、火にくべる材料が十分でなかったので、カジメや海辺に上がってくる木の枝などを拾って火をおこした。そんな火にあたっていると、カジメの臭いが体にしみこむ。
ゴムの潜水着が出現すると、商人たちが販売のために村々を回った。最初は村で一人か二人がゴムの潜水着を利用しはじめて、そうでない海女達は赤く火照った体をあらわにして下着〔昔の潜水着〕を着て海に入っていき、さすがに長時間は我慢できずに海から上がってきたものだった。ところがゴムの潜水着を着た海女達はひとたび海に入ると3、4時間も継続して作業をするようになった。そんな状態が続けば、近いうちに海産物の種が絶えかねないので、ゴム潜水着を着ないように申し合わせたが、そんな約束など守れるはずもなかった。誰もが先を競ってそれを買うようになった。
ゴムの潜水着で海女仕事をする時には、腰と背中に鉛の塊をつけなければならないのだが、歳をとって力がなくなるにつれて鉛の数が多くなり、その結果として仕事中に事故が発生する。若い海女は鉛が1~2個で十分なのだが、年をとるにつれて力がなくなるので、5~6個の鉛の重しを身に着ける。鉛をたくさん身に着けて仕事をしていると、その重さのせいで動けなくなって人命事故が発生する。
現在、牛島のプㇽトㇰは海岸道路脇にあって、歩いて回っても鑑賞できるという利点がある。ところが、村の整備が進行するにつれて、美観上よくないという口実で、壊して痕跡をなくしてしまいそうで心配である。牛島は観光地として脚光を浴び、「海女の家」の表示板をデザインして建物の入口に掲げたり、何かと村の整備をしている最中である。
オボンリ(五逢里)サミャンドン(三陽洞)の海辺では、人工のプㇽトㇰをつくり、人魚の彫刻像を建てて写真撮影地として衆目を集めている。しかし、そんなものよりも、昔の姿を守っている女性のアゴラ(広場)のほうがはるかに価値があることを認めて、管理と保存に愛情を注ぐように望みたい。すなわち、もっぱら都市型イメージを要求する無自覚な観光客の好みに合わせて、村の文化遺産を整備してはならない。女性遺跡を通して、文化的価値を人々に知らせることのほうが重要である。
97-2 チュフンドン(周興洞)サン・ムㇽトン(山水池):水甕と女性たちの専用空間 p.418
牛島では村ごとに大地を掘ってつくった奉天水がよく保存されている。たくさんあるわけではないが、オボンリ(五逢里)チュフンドン(周興洞)にあるサン・ムㇽトン(山・水池)や、ケッムㇽトン(海辺水池)は昔のままに残っている。円筒形の水池はとても深いが、今では水がたまらなくなって、底が見える。牛島では異色の円筒形の水池を間に挟んで、南側を石垣で丸く取り囲み、水平な水台が整備されている。この水池は淡水と海水が混ざり、日照りで牛島の他の水池がすべて乾ききった際に使用された。当時はたとえ塩辛くても、なにしろ日照りなので選択の余地がなく、最後にはこの水をすくって飲んだ。そのすぐ前にはセメント造りのプㇽトㇰがあって、冬には火を焚いていた。西側には汚水終末処理場があるが、芝生がきちんと敷き詰められているので、目に入ってもあまり気にならない。
98 コインドㇽ群落地、加波島(カパド) p.420
済州島の西側にある加波島は、馬羅島と兄弟のように並んで海上に浮かんでいる。摹瑟浦(モスㇽポ)から連絡船に乗って20分ほど海と戯れているうちに到着する。
加波島は馬羅島へ向かう途中にあって、韓国最南端の土地として脚光を浴びている馬羅島と比べれば、静かな漁村として知られており、素敵なコインドㇽの群落地としても有名である。2009年3月には第1回青麦祭を開催するなど、村民の愛郷心もうかがえる。
加波島には女性の魂が宿る生活空間が何カ所もあり、その中でも永遠の心の安息所としてのハㇽマン堂と生命水の役割を誠実に果たしているトンハンケムㇽがよく保存されている。それらが村民たちにとって、どのような意味を持って残っているのかをうかがってみる。
98-1 サンドン(上洞)ハㇽマンダン(女神堂)、ハドン(下洞)ハㇽマンダン(女神堂):女神たちの神殿 p.421
摹瑟浦港から正面に見える側が上洞、その上洞浦口から南に向かって歩いていくと下洞に出る。どちらの村にもハㇽマン堂(女神本郷堂)があって、上洞ハㇽマン堂がクンハㇽマン(大ハルマン)として座定し、島の根源神として祀られている。上洞ハㇽマン堂は摹瑟浦方向に、下洞ハㇽマン堂は馬羅島方向に向かって祭壇が設けられ、それが石垣で取り囲まれた村の守護神である。
加波島の人々は漁業に従事していることもあって、ハㇽマン堂に頼って一生を過ごす。今でも海女達は定期的な儀礼(陰暦1月と6月)と不定期儀礼(個人の事情に応じて随時)には、ハㇽマン堂に参って致誠を捧げる。その他にもそこを訪れて、自分たちの命を管掌している海の神に祈り、家庭の安寧を願う。
父母の代から上洞ハㇽマン堂(ウッ・トンネ・ハルマンダン)に通っていた場合には、今は下洞に住んでいても、先ずは上洞ハㇽマン堂に参ってから下洞ハルマン堂(ハンゲハㇽマン堂)に行く。しかし、そうした因縁がない場合には、上洞の人々は上洞ハㇽマン堂へ、下洞の人々は下洞ハㇽマン堂に通う。
毎年正月の15日以前に村祭を終えてから個別に堂に通う。すなわち、村祭が終わらないうちはハㇽマン堂に行かない。個別に参る場合には、個々の女性たちが日を選ぶのだが、心をこめて良い日を選ぶ。主に兎の日、戌の日を選ぶが、家の主人の干支の日は避ける。
本郷堂へ参るのは明け方がよく、一人で行って口伝えでビニョㇺをする。信仰民が堂へ行く時に持って行くお供えの容器をカヌンデドㇰ(堂籠)と言う。堂へ行くときにはその堂籠を背負い、祭を終えると抱えて戻る。その堂籠や風呂敷は特別に保管し、堂へ行く時だけに使用する。信仰民は神とは謹み深く接したいので、線香を持って明け方に行く。堂へ行く際には、特別な服というよりも、身なりをきちんと整えるほうが大事である。
最初に作ったお供えは上洞ハㇽマン堂に、次は下洞ハㇽマン堂へ持って行くお供え籠に、といった具合にまとめて入れてから、龍王祭のお供えを用意する。お供えはご飯4食分(最初のものは龍王用に1食分、次いでは本郷堂用に3食分)、生米1鉢、鶏卵、酒、果物、魚(龍王祭には使用しない)を準備する。お供えを捧げた後で、礼をしてから祝願を告げ、そして飲福をする。その後に、コルミョン(お供えを投げやすい形にすること)にして、ばらまく。龍王神に捧げたお供えは白紙に生米、鶏卵を包んで結び、海に(龍王に)投げる。お供えに生米を準備するのは、生食するという意味で、それを海に投げる。酒も1瓶携えて、海に振りまく。堂に捧げたお供えが残れば家に持ち帰り、家族たちで飲福する。その際の特別な禁忌事項はない。
正月には色布3種類(白、黄、青)をハㇽマンに捧げる。6月は一年の中間月にあたる特別な月なので、定期的に堂に通う。ハㇽマンは信仰民の安寧を考え、信仰民を待ってくれていると信じているのである。だから、信仰民は白い糸1巻きと白紙、紙幣1000円を準備して堂に行き、それらを紙銭に包んで捧げてから、その後にようやくご飯を捧げる。
加波島では2年ごとにクンクッ(大祭)を3日間にわたって行う。クンクッは陰暦2月か3月に日を選んで行う。2月に行う場合には、ヨンドゥン(龍登)神用のご飯をもう一食分付け加える。3月に行うならば、花の3月なのだから、最も望ましい。
今でも海女達は自分たちの守護神がいるハㇽマン堂に通うが、80歳を超えると通うのを止める。歳をとると、心をこめて通うのは骨が折れるので、ご飯とチェスㇰ(魚類)を準備したうえで、いつものように堂へ行って、「歳をとってしまいましたので、もう来ることができません。どうかお待ちにならないように」と神に最後の別れの挨拶をする。加波島の海女達はほとんどがハㇽマン堂の信仰民であり、堂へ行く日でなくても、夢見が悪かったり、家に憂いごとがあったりした時には、心の平安を求めて堂に参る。
98-2 トンハン・ケムㇽ(海辺水):干潮時だけに使っていた貴重な水 p.425
加波島の海辺には湧泉水が数箇所(10余箇所)あり、その周辺にはプㇽトㇰもあって、かつては海女たちが利用していた。上水道施設ができる以前に加波島の下洞の人々が喜んで使用していた湧泉水としてトンハン・ケムㇽがある。これは下洞浦口から東側の海辺に正方形で保存されている。水が湧き出す穴には小さな枠が設置されている。
トンハン・ケムㇽは海辺の湧泉水で、満潮時には塩辛いので、干潮時を待つ。飲料水用にすくったり、洗濯をする場合には、明け方の4時頃でも通っていた。飲料水用の水池の周辺には、洗濯板として使える石もあり、流れる水を集めて洗濯した。数名が洗濯するときには、ひとりが下洗いに使った水を棄てずに、他の人もそれを使用するといったように、水を節約した。また、潜水服を着て海女仕事をした後は、ここで簡単に体をゆすぐ程度にとどめるなどの節約に努めた貴重な水である。
トンハン・ケムㇽは下洞の人々の生命水であった。個々の家に保管する水が不足すれば、トンハン・ケムルやコマン・ムルを利用した。トンハン・ケムㇽが海水に浸って飲めない時には、その東側にあるコマン・ムㇽを使用した。
トンハン・ケムルを利用するにあたっては順番がある。そこで先ずは水池に行って誰が最後かを確認して、自分の水瓶をその後ろに置く。しかし、長時間待たねばならないようであれば、家に戻って簡単な仕事を済ませてから戻ってきたりもした。
村に大きな行事があれば、ドラム缶10個ほどをトンハン・ケムルの横に置いて、数日間にわたって水を運んだ。女性たちは水バケツで水甕に水を入れ、それをさらにドラム缶に集めて、大きな行事がある家に運んだ。1980年代中盤に地下水が開発されて(2005年淡水施設)以降にはトンハン・ケムㇽは使用されなくなったが、村ではその水池を保存している。加波島の代表的な水池であるトンハン・ケムㇽとコマン・ムㇽのことなら、村民ならだれでも詳しく説明してくれるし、実物がよく理解できる形で保存・管理されている。
加波島女性海洋遺跡地としては、下洞浦口東側にトンハン・ケ・ムㇽがあり、その東側約50mのところにコマン・ムㇽがあって、標示板も建っている。浦口から海側に行けば下洞ハㇽマン堂があり、馬羅島が目に入ってくる。下洞浦口から村の中心を突っ切る路をたどって北側に歩けば、上洞浦口に到着する。
99 飛んで来た島、飛揚島(ピヤンド) p.429
済州市から西側に30余㎞進んだ翰林港には、ぎっしりと漁船が碇泊しており、正面〔北側〕を眺めると、海上にオルㇺ(寄生火山)が浮かび、そのオルㇺが位置する飛揚島が見張らせる。翰林港から連絡船に乗って15分くらいでその島の浦口に着く。浦口側には家が建っており、飛揚峰を越えた北側には誰が住んでいるのか気になって歩いて行っても、見えるのは海だけである。
飛揚島の人々は海を仕事場として生計を立てている。そんなところに女性たちの特別な空間があるのかどうか疑わしく思ったが、さすがに海岸村なので、本郷堂とプㇽトㇰがやはり生きている。女性遺跡はそれぞれの村の因縁を宿した共同体空間であり、飛揚島でも女性たちが主導して利用していた場所が残っている。
99-1 スリㇽダン(戌の日男神堂):祖先神よりも先に訪ねていく場所 p.430
飛揚島のスリㇽダン(戌の日男神堂)・トチェビダン(おばけ堂))は、浦口から東側に回って、うっそうとした神木と石垣で囲まれたところにある。飛揚峰の向かい側であり、その間には人工の散策路がきちんと整備されている。
この堂は2年に1回、堂祭を行い、神の存在を体感する。それ以外に、個人によっては戌の日に行き、漁船を持っている人は船告辞に先立って訪ねて、それらの行事の開催を告げてから船告辞の行事を始める。
信仰民は沐浴斎戒したうえで明け方に堂に参ってから、自宅で名節の儀式を行う。先ずは堂神に挨拶してから祖先神に礼を捧げるというわけである。正月の名節には、先ずは堂神に新年の挨拶をすべきと考えて明け方に行き、秋夕には家で名節を行う時間を見計らって、その前後に各自が時間を割いて堂に通う。
この堂は金陵里から枝分かれしたものであり、戌の日ハルバン堂とかトチェビダン(おばけ堂)と呼ぶ。ずいぶん昔のことだが、金氏ハㇽモニは金陵里ソワン水で飛揚島の守護神として仕えていた。その当時から飛揚島の人々はそのハルモニのためにご飯1食分を別に準備して、ビニョㇺをしていた。したがって元来はハルバン堂(男神堂)でありながらも、ハㇽモニも祀っているのでハルマンダン(女神堂)として知られるようになった。また、堂祭の際には、「金氏ハㇽマンがお連れした本郷大神さま、どうかご降臨のほどを」と言いながら神の降臨を請うこともあって、まるでハㇽマン堂のように誤解されている。
信仰民は堂神のために、心を込めてご馳走を準備する。名節の食べ物を作るのと同時に、名節のお供え、本郷堂のお供え、船告辞のお供えといったように、3神のためのお供えを準備する。準備するお供えのうちで最初のものは家の祭祀用、その次はハルバン用、そして船告辞用といったように分けておく。
堂のお供えを準備する際には、格別に気を遣い、買い物の際にも心をこめる。お供えは、ご飯2食分(堂神用に1食、金氏ハㇽマン用に1食)、ジェスㇰ(魚類)2皿、スープ1鉢、果物3種類(みかん、梨、りんごなど)を準備して、箸と匙はご飯の上に置く。スープは魚と若布でつくる。野菜1皿、肉串など名節式に準備したものを、すべて少しずつ持っていく。女性が堂に持っていって、自分で陳列したうえで、ビニョムをしながら祭を行う。ハルバン堂に参るのは女性だけで、男性は行かない。
堂のお供えはデクドㇰ(ダン・クドㇰ、堂籠)に入れて、その上に風呂敷(ボジャギ)をかぶせる。船告辞用の容器は特別に指定されておらず、大きな器に入れて持って行く。戌の日堂へ行く時に使用する道具(デ・クドㇰ、風呂敷、チムベ)は特別に作って保管しておき、堂に行く時に限って使用し、その日には服を端整に着て、お供えを背負って行く。堂で祭を終えてから飲福をして、残った飲食物は家に持ち帰って家族が飲福する。その飲食に関しては特別な決まりはない。
龍王祭の際のチドゥリム(紙捧げ)用のものは信仰民それぞれが作るが、白紙に紙幣とゆで卵や生卵をおいて糸で3回くくり、家族の名前を書いてから、海に行ってビニョㇺをしながら捧げる。この時に、信仰民によっては鶏卵を包む代わりに小さな石ころをつるして投げることもあるが、それは鶏卵では海に浮かびかねないからである。チドゥリㇺの後で、お供えが海中に沈めば、龍王様がその捧げられた飲食物を受け入れてくれたものと信じ、浮かび上がれば逆に、受け取ってくれなかったと考えて、再び日を決めてチドゥリㇺを行った。チドゥリㇺ用のお供えがまたしても浮かびあがるならば、よくないことなので、早く沈むように石ころを吊るすのである。
戌の日(スリㇽ)堂へは、正月の名節、秋夕、堂祭(2年に1回はクンクッ)には必ず、そのほかには各自の必要にあわせて参るが、自分の干支と戌の日には行かない。主に朝に、普通はご飯2食分、祭酒1瓶をもって堂に赴き、ひとりでビニョㇺをして帰る。歳をとってお供えの準備などに心をこめて訪れるのが難しくなってくると、それとは別途に訪れて、二度と来ることはできませんと、本郷神に最後の挨拶を捧げる。それでも夢見が悪かったりすると、焼酎1瓶を携えて行き、本郷神にビニョㇺをする。ここは宗教的な場所、祈祷所であり、いつでも慰めを受けることができる安息所と考えているからこそ、信仰民たちは心の平安を求めて神に会いに行くのである。
どんな儀礼でも、人々はそれに先立ってここを訪れ、事情を述べて許しを求める。こうした儀礼は母を通して伝承されるので、何か特別な理由でもなければ、幼い頃から通っていた堂へ通うようになる。
99-2 アギ(子供)ベンドㇽ(岩):誰を待っているのだろうか p.434
戌の日堂からさらに海岸道路を進むと、アギベンドㇽがにゅっと聳え立っている。この飛揚島溶岩記念物(天然記念物439号、2004年指定)は、見る人と方向によって、子供を負ぶっていたり、妊娠した女性のようにも見えるが、飛揚島の人々は昔から「子どもを負ぶった岩(アギベンドㇽ)」と呼ぶ。中心柱はお腹あたりがふっくらとしており、両横には童子形の石がたくさんひっついており、自然の力によるものなのか、或いは、人間の力によるものなのか定かでなく、はっきりしているのは、中心柱の形だけである。飛揚島の人々はこの石造物のことを、妊娠と出産のお祈りの対象などとは考えないが、他所の土地から菩薩たちがやってきて、祈祷所として利用している。
この石の周辺は「気」が強いので、村人たちは夜にはむやみに行かなかった。小さい円から大きな円の丘に至るまで、恐ろしいほどの「気」がこもっていると信じているのである。そのせいか、波がそれほど強くない所なのに、難破した船は必ずこちらの方に流されてくる。
99-3 テメヌン(箍に嵌める) ガイボンドㇰ:波と風を背にする(背負う)所 p.436
一般に済州の海岸村では海女たちの休息所のことをプㇽトㇰと呼ぶが、飛揚島ではそのプㇽトㇰのことをボントㇰと呼ぶ。テメヌンガイ・ボンドㇰ(箍をはめるプㇽトㇰ)はアギベンドㇽの西側にある。この辺りははるか昔から、飛揚島近隣からの漁船がホンダワラを採取したり、魚を取っていたところである。その当時にテウ(済州の伝統筏)をつないでいたところにボントㇰがある。地形を見ると船が入ってきて碇泊することができるように細長く、風を避けることができ、海女たちが作業のために出入りするのに都合がよいところである。波も防げるように、海女達が石垣を積んで、そのボンドㇰを利用していた。
ポンドㇰを見ると、他の村のプㇽトㇰとは異なり、岩盤の上にトㇽムドㇰ(石山)を正方形に高く積み上げ、その上に籠や服を置いたり、夏にはそこに上って休み、冬にはその下で火を焚いた。
テメヌン(箍に嵌める) ガイボンドㇰとアギベンドㇽの間には兎岩があって、その一帯ではボマㇽ(巻貝)とクンボッを採取する女性たちを見かける。海女達はゴムの潜水着を着て、海女道具を持って海中に入っていき、ボマㇽを取る。夏には近隣地域の女性たちもボマㇽとクンボッ(どちらも貝の種類)を取りに飛揚島に出入りする。
100 大韓民国最南端、馬羅島(マラド) p.438
馬羅島は摹瑟浦(モスㇽポ)から南1キロ地点にぽっかりと浮かぶ楕円形の島である。韓国最南端の地に足を踏みいれたいと思う人々の訪問が増えている。最南端に来れば何を見て、どのように感じるかといった類のことは、その種の訪問者の領分であり、その材料を提供するのが村の仕事の領分である。
この島の女性たちは海女仕事で生計を立ててきた。彼女たちが使用し、彼女たちの息遣いが宿る代表的な女性遺跡としては神堂、プㇽトㇰ、ハㇽマン堂があり、それが今はどうなっているのかを確かめてみよう。
100-1 馬羅島ハㇽマン堂:子守娘の魂を慰める所 p.439
馬羅島ハㇽマン堂は子守娘の悲劇的な伝説が昇華され、本郷神として座定しているところで、海辺の絶壁上で、石垣に取り囲まれている。
この島の女性たちにとって、海は仕事場であり遊びの場でもあるので、海の神にはとことん誠意を尽くす。ハㇽマン堂はこの島の人々が険しい海の仕事をきちんとできるように見守ってくれている。
定期的な儀礼としては、正月は新年を始める月なので、15日に家庭の安寧を念願する。陰暦2月には神堂へ行かない。それ以外では、家で憂いの種があれば随時に通う。正月15日に堂に行く時には龍王祭のお供えも一緒に準備する。
龍王祭のお供えでは、白紙が海中にしっかり沈むように、10円硬貨やきれいな小石をひとつ、ゆで卵半分と食べ物を白紙に入れ、糸で7回くくり、その上に家族の名前を書いておく。各人が祈りを捧げながらそれを投げるのだが、その年の運が悪い方角は避ける。
正月15日祭のためにお供えを準備しておく。そのお供えは、ハㇽマン堂用にはご飯3食分、龍王神用にご飯1食分を準備して、ジェスク(魚類)は米飯の数の分だけ準備する。但し、龍王は海神なので魚は捧げない。果物を三種類(りんご、柿、梨など)、牛肉の串焼き、豚肉の串焼き、魚の串焼きなども準備する。蝋燭に火を灯し、線香をたく。魚貝類の串焼きとしてはトコブシやサザエなど、その時々に入手できるものを準備する。スープは捧げない。
この島の人々はよその土地で暮らしていても、正月15日祭にははるばる訪ねてくる。信仰民は主に明け方に行くが、そのとき、近所の人とすれ違っても声をかけない。相手も、堂籠を下げていくのを見れば堂へ行くことが分かっているので、言葉をかけない。ハㇽマン堂からの帰路には声をかけてもかまわない。ハㇽマン堂で祭を終えると、必ず飲福をして(全員がたとえご飯ひと匙でも、食べなくてはならない)、残ったものは家に持ち帰り、家族で分けて食べる。特に正月15日祭を終えて堂から出てくるときには、準備していった小豆を振りまいて(皮膚病予防のために)、「また来ます」と別れの挨拶をする。
ハㇽマン堂はいつだって必要に応じて参っていいところなのだが、月の初旬に行くのは間違いと信じられている。だからといって、中旬以降に行けば神の効験がなくなるので、主に毎月10日~20日の間に通う。自分で日を選ぶが、戌の日、蛇の日、申の日は避けて、午の日と羊の日がよい。海女仕事をする前に夢見が悪ければ、ハㇽマン堂に行ってくる。そのときにまともなお供えがなければ、家にある食べ物とゆで卵を準備して行く。ここは聖所であり、海女たちにとって、そこへ参るのは宗教的実践なのである。
今でもこの島の人々はハㇽマン堂が自分たちを守り、保護してくれているものと信じている。この島の人々が海で事故死することなく、この島周辺では死体が浮かんだりしないのは、ハㇽマン神の威力だと信じている。
100-2 馬羅島、プㇽトㇰ、ハㇽマン・バダン(海):海に向かう前進基地 p.442
馬羅島の船着場で船を降り、階段を上っていくと休息所があり、その東側にチャㇰチックップㇽトㇰがある。ハㇽマン堂の下にはソンビムㇽ(雨水がたまる奉天水)があり、その一帯がソンビムㇽプㇽトㇰである。最南端碑が建っている所をチャンシドㇰと言い、その下にチャンシプㇽトㇰがある。水場の周辺にプㇽトㇰがあるが、それは海女仕事の後で体をすすぐ所である。
ソジュンイ(昔の潜水服)の時代には、石垣造りのプㇽトㇰを使用していたが、馬羅島は絶壁で構成されており、済州の他の村のような石垣造りのプㇽトㇰは造れなかった。それでも人間の環境適応力はすごいもので、絶壁に近くても平坦で風を避けることができる所にプㇽトㇰを造っており、それがチャㇰチックップㇽトㇰであり、サㇽレドㇰ船着場とハㇽマン堂の間にある。
チャㇰチクップㇽトㇰは絶壁から少し離れ、ひどくへこんだところに石垣を作って利用されていた。今ではトㇽムドギ(石山)と雑草に覆われているが、昔の様子が推測できる。しかし、ここがこの島の人々の生存に非常に大きく寄与した空間であることは、説明でもしてもらわなければ分かるはずもない。
チャㇰチクッ周辺の海は潮流が強く、そこで育つ若布は最上級品であり、それを採取して売っていた頃は収入がよくて、混食(小豆+米+麦)も食べることができた。
チャㇰチクップㇽトㇰはチャンシドㇰという大きな岩の下にあって、底に赤い色が少し残っており、プㇽトㇰとして使用していた場所だと推測がつく。冬に西風が吹くときに主に利用した。今ではその前に、サザエの貯蔵所をつくって使用している。
馬羅島のプㇽトㇰはすべて規模が似ている。海女達が囲んで座れる程度のもので、広すぎるとプㇽトㇰ全体を暖かくするための薪が多く必要になるが、それだけの分量の薪を調達することができなかったのである。この島では牛糞を岩上に置いて乾かして、薪として使用するほど燃料が不足していたので、海女たちがプㇽトㇰに座る場合も、火のそばに上着をかけて座り、辛うじて寒さに耐える程度だった。10名くらいの海女たちが集まって、風を背にして利用した。
馬羅島の海女達は作業着である海女服を着るときには、石垣造りのプㇽトㇰを利用した。ゴム潜水服を着始めてからも3年ほどは、着替え場所としてプㇽトㇰを利用したが、やがては面倒だからと家でゴム潜水服を着てそのまま仕事場に直行して、石垣造りのプㇽトㇰを利用しなくなった。
馬羅島では珍しく、ハㇽマンバダンという海洋言語が登場する。これはチャㇰチクッとハㇽマン堂の間にあるソンビムㇽ一帯を指す。この島は海中に浮かんでいるかのように見えて、周囲は絶壁になっている。ところが、ハㇽマンバダンは出入りが楽な海なので、高齢の海女達が海女仕事をするのに適した立地条件を備えている。若い頃には上軍の技量を誇っていても、歳をとったり、病弱になって技量が落ちると、海女仕事が難しくなる。だからといって生涯働いてきた仕事場から顔を背けることなどできずに、ついつい葛藤を抱えてしまいかねない年老いた海女たちのために、村の共同体が配慮している空間なのである。
ハㇽマンバダンは水深が浅く、海苔、若布などを容易に採取することができるので、後輩たちが先輩海女たちに所得源を提供しているわけである。このような女性空間は、まだそれほど資本主義化が進んでおらず、海女作業における共同体意識が強かった時代の文化であり、今ではそれも死語と化してしまった。
馬羅島郷約を見れば、65歳を越えると男女すべてが、海産物を採取することができる浅瀬の共同労働空間を、規約で制度化して老人を礼遇していたことが分る。それこそがハㇽマンバダンの存在理由なのである。
2年前にとある大学でフランス語の再履修で半年だけ教えていただいた者です。先生に優しくしていただいたのでずっとお礼が言いたかったのですが、退職なさったと知り、なんとかこのブログを見つけました。最近は更新なさっていないようなので、このコメントを見ていただけないかも知らないのですが…お元気ですか?