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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

折々のメモ27、広島の「加納実紀代資料室サゴリ(以下ではサゴリ資料室と略記)」訪問と 宇部の長生炭鉱のフィールドワーク

2025-05-10 09:08:04 | 折々のメモ

折々のメモ27
広島の「加納実紀代資料室サゴリ(以下ではサゴリ資料室と略記)」訪問と
宇部の長生炭鉱のフィールドワーク
断り書き
1.はじめに
2.予定
3.実際の行程:初日の広島・サゴリ資料室
4.宿泊:広島駅近くの東横イン
5.二日目の実際の行程:宇部の長生炭鉱付近

断り書き
タイトルの「折々のメモ27」は次の事情による。
「折々のメモ26」がブログ会社の規定で公開されなくなったので、ブログでは見ることはできないが、関心のある人は連絡を頂ければ、メール添付でお送りする。
ブログ上の「折々のメモ」のカテゴリーでは、前回の記事が「折々のメモ2」5、今回が「27」なのは、僕の立場から言えば、間違いではない。何が何だか分からないことがいろいろとあって、柔軟に対応しないと、生きていけないと自分に言い聞かせている。

1.はじめに
 2025年2月末には神戸から東へ向かった。南信州の満蒙開拓平和記念館と東村山市のハンセン病資料館を訪問後には、東京で長女を含めて旧知の人々7名とそれぞれ個別に、別の場所で会って長々と話し合って、一か月分くらい話した気がするほどで、既に咽喉がおかしくなっていたのに、帰路にはさらに名古屋に立ち寄って、旧知のご夫婦と近況も含めた貴重な話も聞きながらの会食を終えてようやく、今度こそ正真正銘の帰路についた。
 ところが、帰宅してすぐに、3月の初旬には神戸から西に向かう計画を立てた。広島市内を歩き回ってから、駅北の山腹に位置するサゴリ資料室を訪問して、資料室の旧知の関係者と懇談し、その翌日の午前中には宇部の長生炭鉱を初訪問、午後には下関市内再訪という計画だった。しかし、その間にはいろいろと私的事情もあったし、事前準備の意外な進捗もあって、計画を大幅に変更したが、ともかく実行して、無事に、堪能して終えることができた。
 以上の旅のすべてが、実は数年前に終わってているはずの公的研究補助金による調査活動の一環で、期限がコロナ禍のせいで延期に延期を重ねることを余議なくされていたが、それもようやく完了となった。予算の完全執行を果たしたのである。
 そして、それを最後に、僕はそうした公的研究資金による調査旅行とは縁が切れて、やれやれといった気持ちと、長らくお世話になったと感謝の気持ちとがないまぜだった。
 実は、これが最後だからと、その間にできそうなこと、しなくてはならないことはすべて終えたいという焦りもあっての、年寄りの冷や水と言われかねない東奔西走だったが、その甲斐は十分にあった。それになんとか無事に、しかも、満足して終えることができたのは、本当に幸いだった。
 それも含めて、実に多様な形で、まさしく余生に入ったことを痛感しながら、以前よりも自由なはずの時間をどのように活用するか、そのヒントも今回の旅で得た。
 計画からは大きく変更を余儀なくされたが、かえってそのおかげで、これまでになんとなく培ってきた人々とのつながりが、僕にとって占める意味の大きさを改めて思い知った。余生でもそれも糧にして、生きる喜びをさらに発掘する方向でのんびり毎日を送りたい。
そんな心境になっているので、今回の報告は、公的報告では無視されて当然の、まさに僕に相応しい私的な事柄に比重を置いて書くことにする。

2.当初の計画
 既に触れたように、事前の計画と実際の旅とでは大きな変化があったので、それがよく分かるように、先ずは、当初の計画を明らかにしておく。
日時:2025年3月6日~7日
目的地:広島・宇部(長生炭鉱)・下関
初日は自宅から広島へ。以下の記述における、➡の後は、その前に記した目的などの事情や理由をその後に記しているという意味である。
① 広島平和公園周辺のかつての在日集住地区及び平和公園内の韓国人被爆者の慰霊塔とその周辺、さらには、在日少年少女たちの「祖国帰国」を記念して建てられた時計塔などの現況の確認➡前回は韓国人被爆者の慰霊塔周辺で、韓国の統一教会の女性が待機して、しつこく勧誘するので、僕は珍しく不愉快になって、すごく邪険にしてしまった。そんな情けない経験の記憶を振り払うためにも、何としても再訪して、慰霊塔を見つめたかった。既に、4,5回は訪れたが、その間の僕の印象の変化なども確認したかった。その他、民族学校の生徒たちが北に帰国する際に記念に建てたという時計塔の時計が、前回はすっかり廃れて時計も止まっていたので、それがその後にはどうなったかが気になっていたので、それもぜひとも確認して在日の歴史の一齣として自分の記憶に刻みこんでおきたかった。
 
② 女性史研究と在日研究とが交差する研究拠点、及び、多様なジャンルの活動の出会いの場として創立された「サゴリ(交差点)資料室」の現況を確認すると共に、主宰者の高雄氏とその協力者である安氏と面談。➡旧知の二人と旧交を温めると同時に、絶景が自慢の資料室の雰囲気を楽しみながら、その整備の進展と利用状況の変化などを確認したかった。

③ 広島駅近くで宿泊➡昔馴染みのホテルチェーンである東横インがアクセスなどでも恰好と勧められたので、久しぶりにそのホテルに泊まって、昔とどのような変化があるかも確認したかった。他にも数多くのビジネスホテルのチェーンがあるが、その先頭を切っていた東横チェーンの現状はどうかというのである。

二日目の午前中は広島から宇部に、午後は宇部から下関に、そして、下関から神戸の自宅に。
④ 宇部炭鉱群の中でも特に、朝鮮半島出身者が多数、1942年に水没した長生炭鉱の発掘調査の現況の確認と関係者(「長生炭鉱の<水非常>を歴史に刻む会」など)のインタビュー➡以前に済州で会食した方が、その長生炭鉱に関する市民運動に関係していらしたことを、ふと思い出してのことだった。その後、10年以上も経つのに、僕はその間にその運動に全く関心を示さなかったことに対して罪悪感も覚えて、遅まきながら勉強を始める契機になりはしまいかという気持ちもあっての訪問。

⑤ 下関駅近くに位置し、かつては日韓交流の中心となっていた商店街、そして港湾周辺のかつての遊興街などの現況を確認➡コロナ禍が始まった頃に、筑豊、下関、そして広島を巡った際に、雨の中を下関駅近くのかつての歓楽街その他を一人で歩き回りながら、これは是非とも、再訪すべきと思っていた。しかも、その後には大阪や神戸の在日二世や三世の様々な運動の活動家には何故かしら下関の出身者が多いことに気付いて、それが一体どうしてかなど、下関と関西との関係、特に人的交流に関心を持つようになったので、そうした関心を念頭に再訪してみると、どのような印象になるかを確認したかった。
 
3.計画変更の事情について
 以上の計画は以下で細かく記すように、実際には大きく変わった。それには二つの理由があった。一つは悪いこと、他方は良いことだった。
1)格好のガイド、トモダチの環
 先ずは良いことから始めよう。
10年以上も前、僕が遅ればせに、本籍地である済州に関する勉強を始め、そのために春と夏の長期休暇を利用して済州滞在を繰り返していた頃のことである。日本の知人であるAさんから、知人の紹介とその人たちに関しての依頼のメールを受け取った。日本の学校で在日の子どものために何かと尽力している教員ネットワークのSさんとUさんの二人が、ちょうど済州を訪問しているので是非とも会って、済州についていろいろと教えてあげて欲しいと言う。
 僕には教えられそうなことなど何一つないが、一人で食事するのにうんざりしていたので、食事と酒の相手、それも日本語で話せる相手はすごくありがたいので、当時、済州で人気を博していた少し変わり種の焼き肉屋に案内して、酒と済州の豚肉と会話を楽しんだ。
 その1人であるSさんは筑豊の方で、その後には僕が特にお願いして筑豊のフィールドワーク案内をしていただいたし、そのお返しというわけでもないのだが、Sさんは僕が主宰した「済州の歴史と生活文化のフィールドワーク」に参加していただいた。そしてその後は、僕とSさんはそのライングループのメンバーになっているので、互いの近況が分かり、その他の要件でも連絡を取り合ったりもしてきた。
 もう一人のUさんは、長生炭鉱に関わる活動を長年にわたってなさっているような話を少しお聞きしたが、その後、せっかく長生炭鉱のことを教えていただきながら、その長生炭鉱に関する勉強をすっかり怠っていたことが恥ずかしくて、連絡も取れないでいた。そうした記憶もあって、今回の旅のコースに入れたわけだが、実際には一人で行ったとしても何一つまともことなどできそうにない、とあくまで次回の訪問のための感触を得る程度のことを想定していた。ところが、折角の機会だからと、筑豊のSさんに連絡して、Uさんとの中継ぎをお願いしたところ、翌日にはUさんご自身からメールが届いて、こちらの都合に合わせて、終日の案内が可能という、思ってもいなかった有難い話、しかも、終日のコースの候補まで丁寧に作成して送って頂いた。さらには、今回のフィールドワークの事前学習用の文章も作成してくださると言い、翌日にはその事前学習用の文章も届いた。
 お願いした時点では詳しくは知らなかったが、Uさんは宇部の長生炭鉱地域の案内人としては、他に匹敵する人などいそうにないほどの方(「長生炭鉱の水非常の歴史を刻む会顧問」)で、自宅は北九州なのに、当日はその自宅からかはるばる車で新山口まで迎えに来て、その車に載せて宇部に向かい、長生炭鉱周辺を終日にわたって案内し、さらに夕刻には新山口まで送ってから、北九州の自宅にお帰りになるという。そんなことになるなんて、すっかり感激する一方で、ますます申し訳なくなった。当然、予定していた下関訪問は次回に期すことにした。
 そうした長生炭鉱関連の僕の予定を、広島で会うことになっているお二人に伝えたところ、彼女たちも是非とも同行したいと言うので、Uさんに同行者が二人いても不都合がないかを確認したところ、すぐさま、了解とのことで、ますます長生炭鉱一帯のフィールドワークへの期待が膨らんだ。

2)僕の体調の変調
 次いでは悪い事情である。
僕は2月の東への旅で次々に旧知の人々に会って長時間にわたって話し込んだせいなのか、帰宅してからは咽喉の痛みと微熱に苦しんでいた。そして次の旅が近づくにつれて、咳き込みと発熱がひどくなるので不安になった。自分の体調の心配はもちろん、西への旅で約束している人々に迷惑を及ぼす懸念が募った。しかし、断念でもしたら、せっかくのご好意を無駄にすることになりかねないので、計画を断念すべきかどうかさんざん迷ったあげくに、当日の朝にはともかく決行するつもりで、旅の荷物を抱えて家を出て、最寄り駅の近くの、馴染みの医院に立ち寄り、診察に加えて、コロナとインフルエンザの検査も受けて、協力者に感染などの迷惑をかけない保証を得ることに決めた。
 検査結果はどちらも陰性だったし、肺のレントゲンも異常はなさそうだった。熱は最近の僕には珍しく39度近くの高熱だったが、動けないほどではないからと、とりあえずは解熱剤と咳止めを含めた数種類の処方を受けて、旅を敢行することにした。
 電車内でも発熱による悪寒は消えず、せき込みはいったん始まるとなかなか止まらない。新幹線ではそれが始まりそうな予感がすると、同じ車両の乗客に迷惑をかけるかと、口元をティッシュで抑えながら席を立ち、車両間のデッキに身を避けてようやく、心置きなく?咳こむといった状態で、なかなかに苦しかった。
 そうした事情もあって到着が予定よりも2時間以上も遅れたので、広島での僕のお得意の定点観測と銘打った、センチメンタルジャーニーめいた街歩きは、時間と体力不安で断念せざるをえなかった。

4.実際の旅1―広島のサゴリ資料室訪問(3月5日午後)
 広島のサゴリ資料館には今回で3回目、しかも、その主宰者の高雄さんとその仲間の安さんとは、コロナ禍が始まった頃に広島で、その後のコロナ禍が終わった頃には済州で落ち合い、同じホテルで泊まるなどもして、お酒を飲みながらたっぷりと話し続けた仲である。 
 広島駅の北側の山腹のサゴリの窓から、広島の絶景も眺めながら資料室の充実ぶりを確認しながら、楽しい時間を過ごしてから、場所を換えてお酒でもと気楽に考えていたが、体調が体調だけに酒は普段より慎しんだ。しかし、それなりの話はできた。
 ジェンダー問題と在日問題を交差させるというテーマを掲げて開室された資料室は来るたびに、見るからに充実し、アーティストや研究者や運動家その他の多様な人々が集う、一種の文化センターに成長している。
 必要なら泊まり込んでの合宿も可能だし、今回は高雄さんのパステル画のミニ展覧会もしていて、絵を楽しませてもらった。
 所蔵資料の活用の至便性を高める努力が実を結んでいそうなことを確認して、広島や中国地方を越えて、その試みの成果をさらに高め、輪を広げる一翼を担いたいと、僕には珍しいことも思った。
 翌日の宇部の長生炭鉱周辺のフィールドワークにはそのお二人も参加することになったので、案内してくださるUさんと4人の弥次喜多道中を楽しみに、普段よりはずいぶんと早めに別れた。
 安さんからは鳥取県の在日に関する論文の抜き刷りを頂いて、ホテルに戻るとすぐに拝読して、僕の在日に関する知識がすごく偏っていて、中国地方、とりわけ島根や鳥取などの在日史に関してはまるで無知であることを今更のように痛感させられた。ありがたいことである。

5.宿泊先
 広島駅から山側に徒歩5分の東横イン、20年前からは日本でも韓国でも旅の際には定宿にしていたが、10年ほど前からは中国人その他の団体客がワンフロア―をすっかり占領して、まるでわが家のように部屋間を往来しながらの騒がしさに耐えられなくなって、使わなくなっていた。
 しかし、駅と資料室の中間に位置するなどアクセス至便だからと高雄さんに勧められたので、久しぶりに利用したところ、さすがに歳月を経たので、変化がいろいろあって面白かった。
 とりわけ、経費節約の徹底ぶりには驚いた。備品その他に関しては、どこのビジネスホテルでもその種の努力と言うか簡素化が進んでいるが、東横インはその中でも、突出した印象だった。
 例えば、朝食サービスでは、10種類ほどのおにぎりと5種類ほどのスープと3種類くらいのジュース(スムージー)に統一して、それ以外には何もなくしてしまったが、客の様子を見ると、不満そうな気配はなかった。
 僕は朝食にはたっぷりのサラダが必須なので、少し不満だったが、スープとジュースで代用した。アクセスの便利さを考えれば、最近によくみられるホテルチェーンのように、牢獄に閉じ込められたみたいな圧迫感は免れる広さだったので、8000円は高くないと思った。

5.二日目:広島から新幹線で新山口まで
 午前8時に新山口駅まで「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」顧問のUさんが、住まいのある北九州からわざわざ迎えに来て、17時には新山口駅まで僕らを送っていただいてから、北九州に帰宅されるなど、終日にわたって懇切な案内の他に、上記の会のこれまでの活動の紆余曲折について詳細に話していただけた。
 車中はもちろん、長生炭鉱周辺を歩き回りながら、実に多種多様な話を伺うことができた。
広島から同行したお二人も、予想以上の経験と感動の様子だった。これに味をしめて、いつか広く呼び掛けて、山陽と筑豊の炭鉱などに関わる在日の歴史のフィールドワークの実施まで夢見る気分だった。そんな形でも先人の労苦の一翼を担いたいと思ったが、それが果たして僕に可能かどうか?

 Uさんが提案してくれた行程は以下の通りで、そのすべてを順番には異同があったが、予定通りに巡った。
① ピーヤ(海中炭鉱の排気。排水筒)の見える海岸。長生炭鉱の歴史を語る象徴的な光景で、その光景が慰霊碑にも見事に表現されていて、あらゆることに長年の取り組みの底力を感じさせられた。しかも、その慰霊碑の造形などには、韓国の遺族たちの主張も摂り入れられたとのことで、その詳細はまたどこかで書いてみたい。Uさんは、「刻む会」発行の証言・資料集(2011年から現在までに6号まで発行で、僕は1号と6号を頂いた)で、ひたすら関係者の証言を収集している。どれもこれも、すごい。
② 浄土真宗西光寺本堂(犠牲者の位牌が安置されている)位牌の安置という話だけでも、その現場で窺うと、さすがにリアリティがあって、僕には珍しく厳粛な気持ちになって、そこを行程に繰り込んでいただいた配慮に感謝した。
③ 源山墓地の東見初炭鉱遭難者之墓(1915年に603名が入坑、そのうち235名が犠牲者。ほぼ日本人)➡長生炭鉱との比較、富裕な炭鉱の場合、手厚い慰霊がなされていることが立派な墓碑から一目瞭然。長生炭鉱は中小の炭鉱として無理が重なった結果としての事故、つまり殆ど人災だったことが一目瞭然である。


④ 常磐公園記念館(1969年竣工)、炭鉱博物館もあって宇部の炭鉱の歴史などがよく分かる。
⑤ 公園内のボンボンレストランで昼食、少しお洒落な焼き肉レストランで、クッパを食べたが、給仕をしてくれた若い女性と話が通じず、困った。桂文珍の得意芸に、ファーストフード店の店員たちのマニュアル通りの言葉遣いの真似があって、いつも笑ってしまうが、そんな落語の前振りで声帯模写される女店員そのままで、僕ら4人の一行は大いにとまどって苦笑いするしかなかった。丁寧だけれども、予め想定されたやり取り以外の状況には全く対応できない様子だった。悪気はないのにそうなのだろう。料理の味はまずまずだった。
⑥ 長生炭鉱追悼広場➡やっと確保した敷地だったが、周囲では慰霊碑などを建てることに反対の雰囲気だったのに対して、その敷地の隣の家の主人が、「構わんじゃないか」との一声で、了承されたと言う。周辺で何かと発言力を持っていたその家の主人の娘さんが、韓国に嫁いでいるという偶然もあってのことらしい。人間やその集団の面白さである。

⑦ 抗口広場(地下5メートルに隠された抗口を発見してそれを可視化したのは2024年9月25日)
 発見までの苦労がしのばれた。さすがに現場に行かないと分からない感慨があった。その入り口近くに、昔からあった慰霊碑では、強制連行の歴史はもちろん、事故被害者の多くが、強制連行されてきた朝鮮人であることなどは一切ひた隠しにしながら、「受難者」を湛える文言で、歴史を歪曲して資本と国家に迎合する人たちの姿を眼前にする思いだった。そのような人々が支配する地域で、ここまでの成果を上げるに至った「刻む会」を中心にした運動のすごさ!。

⑧ 地域全体における地元民の、「刻む会」の活動に対する反応の濃淡に関わる事情なども、そこを実際に歩きながら聞くことができた。
 その炭鉱のかつての経営者一族の広大な土地屋敷が今でもその一帯に広がり、隠然たる影響力を行使していることが窺われた。豪邸の周囲の鬱蒼とした森林は、まるで屋敷を守る城壁、そしてそれは日本人の岩盤保守層と言われるようなものと類似した何かを象徴しているようにも感じられた。

6.個人的総括とその他
① 地域を何度も歩き回って聞き取り調査なども繰り返してきたUさんのような専門家と現場を歩きながら話を聞いていると、なんでもなさそうなことにも、歴史の重層性が窺われる。

② 川を一つ渡ることで、長生炭鉱に関する地域ごとの利害関係が変わり、調査に入った際の対応が正反対というような話もあった。

③ 今もなお<歴史の争奪戦>が続いている。公共の長生炭鉱事故に関する案内パネルがようやく建ったが、その文言の細部に関しての実に微妙で根本的な強制連行や多数の朝鮮人の死の意味についての沈黙を固守しようとする行政の抵抗などの攻防の話もあった。

④ 上でも触れたことだが、ひどい噓に基づく戦争礼賛の文言が刻まれた碑のすぐ近くで、長年にわたって埋められ、隠匿されてきた坑口を、ようやく見つけ出した人々の長年の努力には、本当に頭が下がる。

⑤ この地域には墓地がすごく多くて、それがことごとく立派なことに驚かされた。地方ではまだそんなことが一般的なのだろうか?或いは、この地域が裕福で、祖先崇拝が今なお盛んだからなのか、不思議な感じがした。

⑥ 長生炭鉱以外の大規模炭鉱の事故で亡くなった人々(ほぼ日本人)の慰霊碑はすごく立派で、それと比べると、歴史的に隠蔽されてきた長生炭鉱の犠牲者たち(その多くが朝鮮人)たちに対する沈黙と隠蔽が連綿と続いてきたことのひどさがよく分かる。

⑦ 出自も経歴も年齢も性も、何もかもが異なる僕ら3人が専門家のUさんと歩きながら、それぞれが繰り出す質問とUさんの説明に対する反応の多様性など、さすがにひとそれぞれであることを今更ながらに痛感し、他者と共に学びあうこと、教えあうことの貴重さを今更ながらに痛感して、その意味でも今回の旅は成功だった。

⑧ 下関にはいけなかったが、Uさんは実は下関の出身で松田勇作の家族とは親しく付き合っていたとのことだった。その他、僕の知人の中でも意外な方々がUさんのことを御存知ということを、何か話のついでに知らされて、それこそ世間は狭いのだが、それは世間というより、在日に関しての何らかの取り組みをしている人々の環があって、僕はの環の一部と知り合いというに過ぎない。しかし、その環の存在が、こんなになってしまった日本の、歴史改ざんと排外主義の中でもそれなりの抑止力になっているのだから、立派なものだと思う。日本の小中学校での在日の生徒に関する様々な取り組み、とりわけ、高校における朝文研活動に尽力した教員たちの今に続く粘り強い運動のおかげで、僕も少しはいろんなことに刺激されている。

⑨ 上でほんの少しだけ触れたが、広島、下関、宇部、そして筑豊をコースとしたフィールドワークという思いつき、いつか実現できれば、僕にとって大きな記念になりそうなのだが、はたして・・・

長生炭鉱からUさんの車で新山口に戻って別れ、僕ら3人は新幹線で帰路についた。広島で下車の二人と別れて、僕は塩屋の自宅に戻った。帰宅した時は既に20時を過ぎていた。解熱剤のおかげでなんとか無事に、しかも、相当な満足感を持って旅を終えることができたことは幸いだったが、さすがに疲れた。
          

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