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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

連作エッセイ『金時鐘とは何者か』2(第一部 金時鐘の年譜)

2022-09-14 14:58:08 | 拙著関連
『金時鐘とは何者か』2
本文
第一部 金時鐘の年譜
第一章 はじめにー在日の物書きの年譜
第二章 『済州北初等学校同窓会誌』所収の卒業生名簿の写真撮影の経緯
第三章 『同窓会誌』の卒業生名簿上の金時鐘と思しき人物
第四章 野口豊子作)年譜における金時鐘の名前と学校卒業と中等学校入学年度
第五章 金時鐘の二つの日本名
第六章 金時鐘の日本名の一つである<光原姓>とその謎

第一章 はじめにー在日の物書きの年譜-
1)立原正秋に関する評伝の年譜
 在日の作家や詩人の年譜を見ていると、不可解なところが多くて、それはひょっとして、在日知識人と日本の出版界などメディア、とりわけそこで活躍する編集者や物書きの一部の<良心的文化人>との<相互依存関係>に由来しているのではないかと思い始めて久しい。
 その契機として記憶に最も残っているのは、20年以上も前に武田勝彦『立原正秋伝』(創林社、1981年)、とりわけ、そこに収録された年譜(立原の自筆年譜を著者の武田が加筆修正したもの)を読んだことだった。一読して、あまりのひどさに呆れてしまった。武田という人物は英米文学を主な専門とする大学教員だが、その傍ら、川端康成や立原正秋など日本の作家についても論じるとの触れ込みだったが、その歴史認識のひどさに加えて、ものを書く際の倫理(とりわけ評伝の対象と書き手の関係についての基本的な省察とそれに基づく責任)についても、おおいに首を傾げた。
 そこで、当時は大変な流行作家だった立原正秋の大量の小説を、うんざりしながらもなんとか読み、関連文献なども調べた上で、評論めいた文章「評伝のこと、或いは、立原正秋について」(『樹林』1989年6月289号、18~35頁、大阪文学学校)を書いた。それは、小説家の高井有一が、立原正秋の虚像を暴き、その虚像に託された何ものかを、立原に寄り添って読み解く書物を刊行して注目を浴びる10年以上も前のことだった。
 高井有一『立原正秋』(新潮社2001年)は、僕も含めた様々な人々が既に、立原正秋の実人生と、立原自身が創り上げた<フィクションとしての彼の人生>との矛盾に関する多様な調査結果とを、巧みに総合したうえで、そこに自分なりの立原像を打ち立ててはいた。しかし、僕からすれば、立原に関して新しい発見を付け加えるものとは思えなかった。それにしては大変な評判になったあげくに、有名な文学賞まで授賞したのだが、その理由としては、生前の立原と高井との師弟関係、もしくは文学的同志関係にも関わらず、或いは、それがあったからこそ、高井が立原の虚像を暴くと、骨肉の争いめいていて、野次馬根性を刺激して、メディアや読者などがそれに過剰同調した結果の趣もあった。
 それはともかく、僕が前掲の拙文で問題にしたのは、立原の実人生と当人が創り上げた立原像との齟齬に留まらなかった。
立原による自分の人生の虚構化がどのような構成になっており、その奥に一体何があったのかという点はもちろん重要で、高井の書物と拙論も、その点に関心を抱いた点ではあまり変わりがなかった。しかし、その一方で、拙論はそうした立原個人の問題にとどまらず、むしろその先に現れる現象、例えば、高井の立原論が絶賛される現象の方にむしろ着目していた。
 立原の虚構に多様な読者(編集者、評論家、メディア、そしてファン)が過剰に同調するばかりか、そこに自分自身の偏見なども密かに忍び込ませることによって、立原の個人的虚構をまるで集合的信憑のようなものに仕立て上げてしまうといった、書き手と読み手との危うい協力関係にこそ、拙論は大きな問題を見出すなど、それに究極的な焦点を当てていた。
 そしてもちろん、その協力関係のような現象に対しての洞察を、立原自身が生前に既に備えていたからこそ、そうした集団的信憑への誘いを、自らの小説作品と自らの実人生の虚構化というこれまた立原の作品であるものとを重ね合わせることによって、見事に行っていた点、それこそが僕の究極の論点のつもりだった。その意味では、僕が拙論を書いた時点ではまだ現れてもいなかった高井の書物も、拙論の批判の対象となりうるものだった。
 但し、以上のことを当時の僕は今ほどには明確に意識していたわけではなかったので、そこにまできちんと踏み込んだうえで、腰の据わった議論を展開できたはずもなく、後に多くの課題を残していた。

2)拙著『金時鐘は在日について何を語ったか』
 その拙文の発表から約30年後の拙著『金時鐘は在日について何を語ったか』も、実はその延長上に位置していたのに、なんとも迂闊なことに、そのことに著者である僕自身がはっきりと気づいたのは、その書物の完成・刊行後のことだった。
 つまり、先に触れた問題意識、在日作家が自ら読者その他に差し出す自画像に垣間見られる虚構の側面、敢えて言えば<嘘>に関する問題意識は、必ずしも僕の意識の中で明確な位置を占めていたわけではなく、むしろ無意識の片隅に潜んでいるに過ぎなかった。そして、拙著を構成する文章と格闘しているうちに、その種のことが意識の層にまで浮上してきていたのに、折からのコロナ禍と僕自身の体調不良とが相まって焦りを募らせた結果、それをむしろ抑圧してなかったことのように無視するような方向性で、論の完成を急いでしまった。
 だからこそ、拙著を刊行して肩の荷が下りたと思った途端に、そうした自己抑圧の反動もあって、自らの問題意識に対するそうした性急な処理の仕方にフラストレーションが募ったあげくには、拙著を改めてそうした問題意識と密接に関連付ける形で再検討する必要を痛感するようになった。

3)写真に収めた卒業生名簿
 しかも、それとほぼ時期を同じくして、僕の記憶の底にすっかり沈んでしまっていたある事実、つまり、過去に入手した金時鐘の年譜関連の資料のことなども思い出した。それまでも折に触れて、探してみたのに見つからず、ついには見つけ出すことを諦めるばかりか、そんな資料など端から存在していなかったのではないかと、自分の記憶に不信を抱く契機にまでなっていた代物のことを、である。
 ところが、加齢も絡んだ体調不安に加えて、折からのコロナ禍による閉塞感が相まったあげくに、重い腰を上げて開始した断捨離の過程で、その存在自体をすっかり忘れてしまっていた資料や思い出の品々が次々に姿を現してきて、その中には金時鐘に関する資料も含まれていた。
 その一つが、金時鐘が卒業した『済州北初等学校(植民地下の済州における最初の<公立北普通学校>)総同窓会誌』所収の卒業生名簿の写真だった。
そこで、今後も老化の進展につれて増大するに違いない記憶の消失や記憶違いなどに備えて、少なくとも自分の記憶が妄想に過ぎなかったと自己不信に陥るような機会は少しでも減らして、自分を叱咤・激励しながら余生を生きるためにも、その資料の内容とそれについて考えてきたことなどを書き留めておこうと思いたった。
 以上のように、拙著に対する事後的な責任感、そして、僕自身の断捨離の一環としての記憶の確認作業、その両者が重なり合って、本文を書き始めることになった。
さて、断捨離の過程で見つかったのは、デジタルカメラで撮った写真をプリントアウトしたうえで資料番号付きのクリアーファイルに収めたものである。そのデジタルデータ自体はどこにいったのか行方が分からない。その写真を撮ってしばらく後には、デジタルカメラは御用済みにして、その代わりにアイパッドを愛用するようになったので、そのデジタルカメラも今やどこにあるのか分からないし、パソコンに貯蔵したデジタルカメラのデータは、その後にパソコンを何度か買い替えるうちに、所在が分からなくなってしまった。
 しかし、今の僕にとって必要なのは、その写真が内蔵するテクスト情報であり、その情報に関しては、デジタルデータとそれをプリントアウトしたものとの間に遜色などあるはずもないので、以下はその写真のデジタルデータをプリントアウトしたもの(以下では、写真コピー)に基づいている。

2.『済州北初等学校同窓会誌』所収の卒業生名簿の写真撮影の経緯
 先ずはその卒業生名簿をカメラに収めた経緯を紹介する。既に14,5年も前のこと、僕がまだ60歳を目前に控えていた頃である。当時でもあまりにも遅きに失していることを十二分に承知の上で、敢えて<済州学事始め>に着手しようと思い立った。一度も暮らしたこともない土地なのに、書類上では故郷(本籍地)となっている済州について本気になって学び、その<故郷>との間に長年にわたって積もりに積もった心理的距離や独りよがりの気配も濃厚な葛藤を、自分なりに整理して<和解>に励むことで、人生のけじめをつけようとしてのことだった。
 済州を始めて訪問したのは、高校三年(1968年)の夏だった。在日僑胞高校野球団の一員としてソウルを中心とした本土各地での、韓国の野球の名門高校チームとの親善試合を終えると、一か月の韓国滞在を締めくくるようにと、主催者である韓国の大新聞社から、故郷への旅の経費や小遣いなども支給されたので、それを幸いと初の<故郷>訪問となった。そして、2泊3日の滞在中、思ってもみなかった数々の体験を通じて、その故郷とそこに暮らす我が一族の人々と自分とのあまりにも大きな距離に圧倒されながらも、それなりの故郷であることに間違いないなどと実感的に故郷が生まれたような気もしたのだった。
 ところが、その後は20年以上に亘って、主に政治的障害が立ちはだかって、僕は韓国どころか日本から一歩も外に出られない籠の鳥生活を強いられることになった。そしてそのうちには、韓国、そして故郷の済州は自分とは縁のない名目だけの祖国そして故郷と思うしかなくなっていった。ところが、その一方で、両親が日本で懸命に働いて得たお金を済州に持ちこみ、親戚にばらまくと同時に、いつかはそこに帰って余生を過ごすために確保した不動産などを巡って、親戚や地元の多様な人々との間で深刻な争いが生じ、それを父の生前に解決しない限り、将来に亘って解決不能な問題を抱えかねない状況に追い込まれ、母からその解決のために、済州に同行するようにしきりに頼まれるようにもなっていた。
 そんな頃に韓国の民主化の進展の成果もあって、ようやく韓国政府から旅券の発給を受けることができるようになった。高校時代からは既に20年以上も経っていた。僕はその後、済州の懸案の問題を解決するために、先ずは状況を自分の目で確認して、その後の方策を探るために、しきりに足を運ぶようになった。
 しかし、その目的はもっぱら我が一族の懸案の問題の解決のためであり、滞在中は<針の筵>に置かれながら、為す術もない状態で、神経性の下痢症状に苦しめられるほどになっていた。
 だからこそ、その心身に刻み込まれた傷を少しでも中和させてくれるような喜びを得ようと、やがては同じ在日二世である友人たちと10年も続けることになる済州一周サイクリング旅行で、友情と済州の自然と料理を堪能するようになったが、その間には、済州の歴史、社会、そして習俗などについて学ぶつもりなど殆どなかった。むしろ、それを意識的に忌避しているくらいだった。
 それと言うのも、懸案の解決のためには、肉親や地元の関係者との交渉が必須なのに、僕には現地の言葉があまりできないという決定的な弱みがあった。そこで、少しは対等に話を進めるためには、それ以上のハンディを抱え込まないようにすることが最低限の条件だった。つまり、本籍地が済州でありながら済州のことを知らない半日本人として自分を位置付けて、相手の同情や好意を期待するなんてことは、自ら進んでないがしろにされる道を選ぶのに等しい。だから、済州人から見れば、生まれも育ちも外地人である自分の主体性、つまり、在日流、日本流に、頑なにこだわる必要があると考えて、済州の事情についてはあらゆることについては無知を押し通したのである。しかも、それは決して無知を装ったのではなく、実際に無知だったから、それほど難しいことではなかった。
 他方、サイクリングの際には、もっぱら一介の旅行者に徹して、親戚や知人とも接触しないように努め、済州に関する複雑な事情の一切うぃ忘れることに決めていたのである。
 そのおかげなのかどうか、10年以上もの歳月を費やしながらも、なんとか財産問題のすべてがほぼ解決した時には、60歳を目前に控えていた。そして、その段階になってようやく僕は、損得勘定などとは関係なく、済州と向き合うことに決めた。その間に多様な形で関係を持ってきた済州の親戚ともそれなりの信頼関係ができていたこともあって、機が熟したように思えたのである。
 それまでは意識的に避けていた<お勉強もどき>など、年寄りの冷や水と嗤われることを覚悟しながら、誰に何を恥じることもなく、本気で取り組むことにした。自分の心身を済州のすべてに曝して、再生の契機にしようと、僕の唯一の武器である居直りを決め込んだのである。
 そうするうちに不思議なことに、いろんな人の手助けもあってのことだが、様々な機関から研究名目の滞在費や交通費の支給を受けるようになり、僕には過分としか思われないそうした厚遇とその裏にあるはずの期待に応えようと、夏季と春季の長期休暇を利用して、ひと月ほどの現地滞在を繰り返すようになった。
 ところが、現地の言葉、つまり僕にとって<母国語>とされる韓国語どころか、その辺境の地方語である済州語に至ってはまったく太刀打ちできないばかりか、調査に必須の人的ネットワークも甚だ頼りないなどと、まさに<ないもの尽くし>だった。
 当然、何から手をつけていいのかも分からず、伝手を頼って、自由に出入りすることを許してもらえた済州大学内の研究所や図書館に日参して、資料や書物を漁る傍ら、人的ネットワークの構築にも励んだ。しかし、何もかも思っていたようには捗らず、焦りが募るばかりだった。
 そこで、気分転換も兼ねて、ともかく足を動かして現地を歩いてみることにした。風にあたっているうちに、何かよいアイデアでも浮かんでくるかもしれないなど、偶然の僥倖に賭ける思いだった。
 訪問を試みたのは、少しは土地勘ができていた<観徳亭>界隈、つまり昔の済州の政治、行政、文化等の中心地域であり、とりわけ、観徳亭の裏手に位置する済州最初の公立学校である済州北初等学校だった。
 その周辺には、我が一族の懸案解決のための奔走の際にも、またサイクリングの際にも定宿にして馴染になっていたモーテルもあるなど、僕としては済州で最も寛げるところでもあった。
 ところが、いざその北初等学校を訪問してみると、夏季休暇中で教員はひとりもおらず、見事に無駄足になりそうだった。誰にでも分かり切った夏季休暇という学校事情にも頭が回っていなかったのである。しかし、そんな体たらくの僕なので、たとえ教師が在校していたとしても、何が目的かと問われても、まともな返答などできないで、恥ずかしくていたたまれなくなっていたに違いなく、誰もいなかったことで、むしろ助かったようなものだった。
 それはともかく、せっかくそこにまで足を伸ばしたからには、すごすごと帰るわけにはいかないと、気持ちを立て直した。そして、たまたま学校の留守番をしていた警備員の方から、校庭隅の二階建ての建物の階上にあると聞いた、済州北初等学校総同窓会に立ち寄ってみることにした。
 すると何とも幸いなことに、ふだん常駐しているわけではない世話役の方が、たまたま用事を思いついて立ち寄ったところだとのことで、過分なほどに親切に対応してもらえた。
 そのおかげで、書架の本や資料の中でも特に目を惹いた『済州北初等学校100年史』(2009年5月19日発行)などを閲覧し、その第Ⅱ巻末尾に収録されていた卒業者名簿の一部を、来訪記念にでもしようかと、携行していたデジタルカメラに収めることにした。名簿中の金時鐘らしき人物が目を惹き、筆者が以前に読んだことがある野口豊子作の金時鐘年譜の記述とは齟齬がありそうに思ったからでもある。
 そして、何であれ、きちんと整理が出来ない自分のことが心配だったので、済州滞在中に数多く撮った写真の中でも、その写真に限ってはプリントアウトしたうえで、資料番号を付してファイリングしておいた。
 しかも、数年前から面識があり時にはメール交換もしていた金時鐘の年譜作者の野口氏に、メールでその学校訪問の際のことをかいつまんでお知らせした。少なくとも僕の記憶ではそうなのだが、その間の記憶が相当に曖昧なので、「メールをお送りした」というのも、僕の記憶違いか妄想だったのかもしれない。
その後、そのことを思い出すたびに、写真コピーのファイルを探してみたが見つからず、ついには、その写真のファイリングにまつわる一連のことなど僕の妄想にすぎず、見つけ出すことなんてこともありえないと諦めていた。
 ところが、既に触れたことだが、断捨離の過程で、この機会にまとめて捨てることに決めた資料の束の中に、なんとその写真のコピーが入っていた。机のすぐ横の本立てに番号順に並べたファイル群の中に見つかったのだから、まさに<灯台下暗し>だった。
 実は、北初等学校には、その初訪問の約2年後に再訪した。その間には、金時鐘とほぼ同じ時期に北小学校を卒業し、光州西中学を経てソウル大学へと進み、卒業後は済州大学で長く教鞭をとっていた方に、観徳亭周辺のムグンソン(かつての済州城内の中心的な住宅地)のお宅(観徳亭の真横)で2回にわたってインタビューさせていただいた。その際にその方は、金時鐘と思しき人物など、小学校時代にも、そして卒業して現在に至るまで、見たことも聞いたこともないとおっしゃっていた。そこで、以前に写真に収めた同窓会名簿その他の資料を改めて確認するなど、詳しく調べ直して見なければと考えてのことだった。
 ところが、その時点では韓国でも個人情報の保護・秘匿に関する法律や規則がはるかに厳格化しており、北初等学校総同窓会の所蔵資料も、関係者(卒業生自身もしくはその直系親族であることを証明できる者)以外はアクセスできなくなっていた。だから、その時こそ正真正銘の無駄足だった。
 しかし、その結果として、初訪問時に写真に収めた卒業生名簿の写真の価値が増大したような気がして喜ぶなど、いかにも僕らしい心の動きに気づいて思わず苦笑いした。
 そんな経緯も絡んで、偶然がおおいに作用していたにしても、自分の足を使って入手したものなのに、その後には行方不明で、その挙句には、写真を撮ったという事実までもが妄想にすぎなかったかのように思えてくる体たらく、情けないことこの上ない。何であれ、その時、その場の思い付きだけで、蓄積なんてありえず、刹那的で浅薄な行動の繰り返しの僕の人生を、この写真コピーの再発見のエピソードは見事に証している。
 そんなわけなので、例えその写真のコピーがいつか何かの役に立つようなことがあったとしても、それは僕の怪我の功名、或いは、恥と引き換えにということになりそうである。

3.『同窓会誌』の卒業生名簿上の金時鐘と思しき人物
 ようやく見つかった写真コピーのテクスト情報は以下の通りである。ようやく本題の始まりである。いつだってこんな風に、前振りが長すぎて、それだけで書く方も読む方もすっかり疲れきってしまう。僕の方は自業自得だとしても、読者の皆さんには、本当に申し訳ないことである。
 『同窓会誌』に付された歴代の卒業生名簿の内、33期(1943年3月25日卒業)の欄では、総116名の卒業生の名前と、番地はないが町名までの住所は記載されており、その中で金時鐘らしい人物として目に付いたのが、姓名は「金山時鐘」、住所は「済州二徒」の卒業生である。
 その年度にもその前後の年度にも、ファーストネームが<時鐘>と記された人物は他には見あたらなかったから、ほぼ間違いように思った。
 しかも、その推測の精度を高めるために、当時、金時鐘一家が居住し、母親がそこで呑み屋も兼ねた食堂も営んでいたと、金時鐘自身が書いている七星通り(日本各地に<銀座通り>があるように、韓国各地にもソウルの代表的繁華街の<明洞>に肖って、その地方を代表する繁華街のことを<~の明洞>と呼び慣わしているのだが、<済州の明洞>と呼ばれる済州最先端の流行の発信地だった繁華街)が、その「二徒(元来はハングル表記なのだが、ここでは玄が漢字に変換)」に間違いないかを、済州で僕が最も信頼する知人に問い合わせてみたところ、「その通りで、間違いない」との回答を得た。これで先の推測の精度はさらに高まった。
 以上のように、学校の公式記録に劣らぬ信憑性がありそうな総同窓会の卒業生名簿では、金時鐘の卒業時の姓名は「金山時鐘」、住所は「済州二徒」、済州北初等学校の前身である済州北公立普通学校を「1943年3月25日に卒業」したとされている。

4.(野口豊子作)年譜における金時鐘の名前と学校卒業と中等学校入学年度

 ところが、僕が知る限りでは日本で公刊されている唯一の金時鐘年譜では、そうはなっていない。
『原野の詩』(立風書房刊、1990年)は、それが刊行される以前に発表された金時鐘の詩をほぼ全て収め、当時における<金時鐘全詩集>を謳ったものなのだが、その末尾に付された野口豊子作の金時鐘年譜(以下では野口作年譜)では、金時鐘の当時の名前と卒業年度(彼が進学したはずの光州師範学校の名前は挙げないで、中学校とのみ記された学校への入学年度)が、次のように記されている。下線は特に重要と思われたので、強調の意味で僕が付した。

1941年 遠足に行った・・・すでに詩作をしていた幼な友だちに話すと、「光原!(当時の金時鐘の日本名)それが詩なんだ!おまえの詩はそれなんだ」と言われた。後年、金時鐘は・・・ (括弧内も野口作年譜のまま)

1942年 この年、中学校へ進学したはずだが、詳細はたぐれない(こちらの括弧内は玄が付した。たぐれないは「たどれない」の誤記なのか、或いは、その意味での「たぐれない」かもしれない)。

 以上は野口作年譜のそれぞれ11番目と12番目の項目なのだが、そのように年譜全体からするとほんの一部にすぎない記述に限っても、上で紹介した同窓会名簿との目立った差異が少なくとも二点ある。
 金時鐘と思しき人物の姓と卒業年度(或いは上級学校への進学年度)である。同窓会誌では姓は「金山」、年譜では「光原」とされている。他方の卒業年度は、同窓会誌では「1943年」と記されているが、年譜では卒業年度は記されないで、卒業後に進学したはずの中学校(学校名は記されていない)への入学年度が1942年とされている。
 同窓会名簿の卒業年度に則れば、中等学校への入学は「1943年以降」のはずなのに、逆に「その一年前」とされており、明らかにおかしい。
但し、卒業年度(中学校入学年度)の不可解さについては、次のような可能性が考えられる。
 野口作年譜では金時鐘の小学校(当時は普通学校)の入学年度が1937年とされており、当時の普通学校は一般に6年制だったので、在学中に何らかの理由で落第などしない限り、単純計算で卒業年度は1943年となり、1942年の卒業はあり得ない。但し、地域事情によっては4年制の場合もあったので、その場合には1941年の卒業となり、その場合でも1942年の卒業はありえない。
 それなのに1942年に卒業後にすぐに中学に進学というように野口作年譜では記されているのは、金時鐘が幼少時から虚弱児でチフスにかかったこともあり、一時は父方の祖父母のところ(現在の北朝鮮域内の元山)に預けられてもいたことなどが、野口作年譜でも記されているので、そうした体調不良による休学、そして留年などで、卒業年度にもずれが生じた可能性に想像をめぐらした結果なのかもしれない。
 その程度なら、単なるケアレスミスとして見過ごしてもよさそうに思える。ところが、そのなんでもなさそうなミスが、実は野口作年譜が抱えている深刻な問題を露呈していそうなのである。
 野口氏は金時鐘と親しい関係にあったらしく、そのことは野口作年譜の随所で十分に想像がつくどころか、それは親近と言うよりも尊崇の域に至っているからこそ、野口氏は金時鐘年譜の作成を企てたようである。だから当然のこと、相当な努力を重ねたことが、年譜の記述には一目瞭然である。しかし、それでいながら、文書資料では明らかになりそうにない事項について、当事者である金時鐘に問い合わせるという実に簡単な労をとらなかったのが、僕などからすれば実に不思議だし、残念である。
それと言うのも、その結果として、小学校卒業年度、そして中学校入学年度、その進学先の中学名、更には、その中学での金時鐘の経験などに関しては、上でも引用したように、「中学校に入学したはずだが、詳細はたぐれない」などと、ほぼ完全にスルーするようなことになり、それこそは野口作年譜の記述の歪みの象徴的事例のように思えるからである。
 その中学とは光州師範学校のことであり、師範学校は一般に帝国主義日本の皇国臣民教育の先端の実働部隊の養成機関だった。それだけに、皇国臣民の申し子だった金時鐘はともかく、植民地帝国日本に対して頑なに抵抗していたように金時鐘が描く父親が、一人息子をそんなところに何故に送り込んだのか、そして、金時鐘がその学校で何を学び、そのことについてどんなことを考えていたのかについて、考える材料を欠いた年譜になってしまっている。年譜作者としては、そのあたりに少しは想像を巡らせ、さらには、本人に質問し、その返事も合わせて考えてみるべきではなかったのか。
 但し、以上のような野口作年譜が孕む根本的問題については後に詳述することにして、ここではこれ以上は立ち入らないで前に進む。

5.金時鐘の二つの日本名
 卒業年度の差異・齟齬については既に触れたので、以下ではもう一つの姓の差異・齟齬の問題について考える。異なった記述になっている二つの文書情報のどちらかが間違っているのか、それともどちらも正しいのか。つまり、金時鐘は初等学校時代に二つの日本名を同時に、或いは、時期によって使い分けていたのか。或いは、同窓会誌に記載された言わば公的情報以外の金時鐘のテクストに一回だけ顔を覗かせる光原という姓など、フィクションや誤記に過ぎなかったのだろうか。
 それについて考えてみるにあたっては、先ず、その二つの情報(同窓会誌と金時鐘のテクスト)の信憑性をそれぞれ確認してみなくてはならない。
『同窓会誌』の記述なのだが、それはおそらく、その学校の所蔵資料などの公式資料に加えて、卒業生たちの全面的な協力で作成されたもののはずなので、その内容に疑いをさし挟むには、よほどに信憑性の高い反証が必須だろう。ところが、そんなものは何一つ持ち合わせていない僕なので、とりあえずはそのまま受け入れるしかない。つまり、金時鐘は<金山時鐘>という姓名で卒業したものと考えることにする。しかし、入学時にも、そして在学中にも一貫してその姓名を名乗っていたのかどうかについては、留保の必要がある。入学以前と以降の、とりわけ卒業以前には、他の姓名だった可能性も否定できない。
 他方の野口作年譜における<光原>姓はどうだろうか。先ずは、その出典探しの必要がある。野口作年譜が依拠していそうな金時鐘によるテクストを探し出し、両者を照合してみれば、何かが分かるかもしれない。
 ところが、少し困ったことに、野口作年譜では各項の記述の出典が次のような扱いになっている。
記述部分に鍵括弧の引用符を付したうえで、出典も明記された事項もあれば、そうでない事項もあるなど、一貫性を欠いている。例えば、上で挙げた項目の前後の項目では、ほとんどが「 」(鉤括弧)で括られたうえで、その出典が『在日のはざま』所収のエッセイであるとして、そのエッセイ名も明示されている。
 ところが、少なくとも上掲の二つの事項(中学校の入学年度と姓名)に関しては、「 」(鉤括弧)も出典の記載もない。
 但し、その事項の前後の出典の記述から、その二つの事項も金時鐘の書き物に基づいているとの推測が可能なので、例えば他の事項の出典と同じように『在日のはざま』所収のエッセイ群のうちのどれかが出典だろうと推測して、実際にそのエッセイ群にあたってみたところ、その年譜記述とほぼ同じ箇所がみつかった。
『在日の狭間』の二番目のエッセイ「私の出会った人々」(28-65頁)の49頁である。これで懸案の問題は解決したのも同然である。
 因みに「ほぼ同じ」と留保を施したのは、文面では些細な違いが確認できるからである。金時鐘のテクストでは「光原!(これが私の「日本名」でした!)」なのに対して、野口作年譜では「光原!(当時の金時鐘の日本名)」といったように、( )付の説明の文言に違いが些細な違いがあるからである。但し、それは、当事者の文とそれを他者が説明のために用いる際に、いわば翻訳(通訳)した結果に過ぎず、それらの情報が意味するところに差異はない。したがって、姓名の情報について、野口作年譜にはまったく咎などないことが明らかなのである。
 但し、そのことをもってして、野口作の年譜に問題がないわけではないことは既に触れたとおりであり、それについては後に章を改めて詳しく論じるので、ここではさておいて、そのまま前に進むことにする。

6.金時鐘の日本名の一つである<光原姓>とその謎

 以上から、姓に関する金時鐘関連の同窓会誌の記述と野口作年譜との差異・齟齬については、どちらかが誤りでどちらかが正しいということではなくて、どちらも正しくて、金時鐘は一時期、「光原時鐘」を名乗っていたものと考えるべきだろう。金時鐘は自分が書いたテクストにおいて、友人から呼ばれた名前である光原姓に感嘆符を2回も付加するなど、相当な思い入れを込めて「当時の自分の姓」と念押ししてもいる。
 そうだとすれば、金時鐘の父親は、短期間に自分の一家の姓を二度も改めたことになる。その息子の金時鐘を例にとると、生まれた際に金時鐘と命名され、初等学校に通っていたある時期からは光原時鐘と名乗り、その後には金山時鐘と改名して卒業し、中等学校である光州師範学校時代はその名前で過ごした。
そして解放(日本の植民地支配からのそれの)後には、金時鐘という生まれた際に命名された姓名に戻り、1948年頃に日本に密入国して以降は、外国人登録を譲り受けた(或いは、購入した)人物である<林大造>の姓名を自分の正式名にする一方で、ペンネーム(或いは、仲間内での通称)として、生まれた際の名前である金時鐘を名乗り続けて現在に至る。
 以上のように、金時鐘の生涯における姓名、特に姓の変遷の過程の一時期に「光原」という姓が挿入されていたらしいのである。そのように金時鐘自身が、少年時代を回想するテクストで書いている。そして、本当にそうだったならば、よほどの事情があったのではなかろうかと、金時鐘のエッセイのわりと熱心な読者である僕としては思わずにおれない。
 しかも、<光原>以外の姓については、僕でもすんなりと合点がいくからこそ、光原姓に限っての異様さが引き立つ。なにしろ金時鐘のことだから、自分の少年期の二つの日本名を持つなんてことは一般の朝鮮人にはさそうなことなので、何か劇的な説明でも交えて読者を唸らせるような物語に仕上げていそうなのに、<金>から<光原>、さらには、その<光原>から<金山>への再びの改姓について語った形跡など、まったくなさそうなので、不思議で仕方がない。
そこで、以下では次々と沸き起こる疑問を列挙しながら、想像を逞しくしてみる。
 その二つの姓、つまり、金山姓と光原姓の両方共に、日本の創氏改名という植民地政策によって強制されたものなのだろうか。もしそうだったならば、短期間に二回も創氏改名を行うなんてことが、当時には一般にあったのだろうか。もしそういうことが一般にあったのならば、それはどんな場合だったのだろうか。或いは逆に、そんなことなど普通にはなかったならば、金時鐘の家族だけがそんなことをしたのは何故か。
 さらには、3・1運動に関わり、その後も一貫して植民地支配に屈従することなく孤高の放浪生活を送り、その果てに晩婚で得た一人息子がしだいに皇国臣民化していくことに対して甚だ微妙な態度を示していた父親が、一回は強制的な創氏改名のために致し方なかったにしても、強制的か自発的か分からないのだが、その日本的な姓をまたもや別の日本的な姓に変えるなんてことを敢えてしたのだろうか。もし、敢えてそうしたとするならば、それはどんな理由によるものだったのか。
以上のように次々と生まれる疑問に対して、まともな説明ができそうな材料など僕は持ち合わせていないし、ましてやそうした疑問への回答を見つけるなんてことは、少なくとも現時点の僕には望めない。しかし、僕のように想像力が乏しい人間には想像できないからと言って、そんな事実などありえなかったと、断言できるはずもない。光原姓の方は、ほかならぬ金時鐘が当時の自分の日本名だったと念押しするように書いているし、他方、金村姓の方は、公式文書に等しい同窓会誌の名簿にきちんと記されて残っているからである。
 だからこそ、その二つ、とりわけ光原姓はいったい何だったのかとますます謎めいてくる。
 そこでとりあえずは、金時鐘が時期によって、ふたつの日本的な姓のどちらかを使用していたという可能性を受け入れたうえで、友人に呼びかけられる形で「光原」姓を自分のかつての日本名であったと紹介している金時鐘のテクスト「私が出会った人々」に立ち入って、そこに登場する人びとの姓名の表記その他、そのエッセイ全体のテクストとしての性格や言葉遣いの特殊性なども考えあわせながら、光原姓の意味、そしてそれと密接に関係していそうな人物描写、さらにはそこに刻印された金時鐘の話法などへと話を広げていくことにしたい。(2020年9月14日15時)

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金時鐘さんの創氏改名は「金谷光原」 (辻本武)
2025-06-03 03:36:43
こんにちは

 金時鐘さんは著作では日本名を「光原」としておられます。 また玄善允先生は「金山時鐘」という資料を見つけられました。

 それ以外に、2018年5月27日付けの神戸新聞インタビューで、金時鐘さんが「創氏改名で名前も金谷光原(かなやみつはら)に」と語っているいるものを見つけました。

http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/koubeshinnbunn.pdf
 
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/koubeshinnbunn2.pdf

 参考になるかと思い、お知らせする次第です。

 金時鐘さんの日本名は、「光原」「金山時鐘」「金谷光原」の三つということになりそうです。
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