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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

死に行くものであれ、よく死なしめよ―在日朝鮮人文学に対する現在の視座の現在-

2025-05-07 10:07:26 | 玄善允の落穂ひろい
カテゴリー:玄善允の落穂ひろい
死に行くものであれ、よく死なしめよ―在日朝鮮人文学に対する現在の視座の現在-

前書き
 またしても30年近く前に書いて、どこかの定期刊行物に発表したが、その雑誌も廃刊されて久しく、そのバックナンバーなど今や入手できなくなった。しかも、僕がその雑誌を保持していない。そんな雑誌に投稿した拙稿の草稿が、断捨離の過程で見つかったので、それも可哀そうだからという口実で、紹介したい、
 その内容は今やすっかり古臭くなった遺物と考える向きが多いだろうが、僕自身には郷愁だけでなく、そこで課題と記したことを、僕自身がどのようにして引き受けながら生きてきたかを確認する機会になるかもと、かすかな期待も込めてのブログへのアップである。
在日朝鮮人文学についての当時、そしてそれ以来、殆ど変わらない僕の基本的立場が記されている。
 以下では、プリントアウトされた形で残っていた草稿を改めて僕がPCに入力した全文を紹介したうえで、僕の現在の立場からの簡単なコメントを後で付け加える。

死に行くものであれ、よく死なしめよ―在日朝鮮人文学に対する視座の現在-

1.はじめに
 在日朝鮮人文学なる言葉が自明の言葉として語られていた時代があった。しかし、何にでも旬があるらしく、その果実としての作品どころか、その名称すら輪郭を失いつつある。そもそも、在日といった集団を指し示す言葉も今やすっかり色あせてしまった感があるほどだから、それを冠した呼称自体が本体と運命を共にするのは当然なことなのだろう。
 そんな潮流を加速せんとしてか、或いは逆に、それをせき止めようとしてのことなのか、在日朝鮮人の文学活動を歴史的に検証したうえで将来を展望しようと、精力的な評論活動を展開する人物がいる。林浩治である。『在日朝鮮人日本語文学論』(新幹社)『非日文学論』(新幹社)の二巻が現在までに陽の目を見ている。
 青春期から永らく、自らが「在日朝鮮人二世」であることを指標として生き、「在日朝鮮人文学」もまた準指標として暮らしてきた僕としては、頼もしいと喝采を送りたいところのはずが、実は、微妙な気分である。そこで、書評の体裁をとって、林の議論に対する共感と違和感を振り分け、その果てに在日朝鮮人、さらには在日朝鮮人文学に関する視座の確認と更新を図ろうとしている。

2.呼称の変更による脱構築
 林の議論の要諦は書物のタイトルに明示されている。「在日朝鮮人の日本語文学」という耳慣れない上に、冗漫という懸念を敢えて振り払って、事実を事実として述べる愚直さには、一種の戦略が想定される。使い古され、それ故に起源が見えにくくなった言葉の脱構築を目論んでいそうなのである。
 在日朝鮮人の作家・詩人・評論家の中には。朝鮮語で創作する者もおれば日本語で活動する者もいる。自らの出自をひたすら隠蔽したまま活動する帰化日本人の文学者もいる。或いは、実際の国籍を問わず、朝鮮にまつわる一切を自らの文学的活動と切り離す作家もいる。そうした中に、在日朝鮮人文学者と自認したり、そう呼ばれる作家もいる。主に在日朝鮮人に固有の問題を日本語で表現することを自らの課題と見定めた人たちである。
 従って、在日朝鮮人文学という名称は、一般に信じられているほどには「自明」なものではなく、サム・オブ・ゼムなのである。
 ついつい見落とされがちなそうした事実を確認することは重要なことである。例えば、視野が拡大する。在日朝鮮人文学ではなく、「在日朝鮮人日本語文学」の作家として、例えば、「つかこうへい」が視野に飛び込んで来る。また、林は言及していないが、自らの履歴を捏造し、それに合わせた作品を量産して人気を博したあの立原正秋もまた対象となり、彼のような例を切り捨てるには、論拠が必須となる。日本に帰化した作家を在日朝鮮人と呼ばないのは、どのような理由によるのか、といった案配である。そしてその延長では、「在日朝鮮人」なるものの定義もが問い直されざるを得ないだろう。
 このように、在日朝鮮人の文学の多様性を視野に取り込むという俯瞰的可能性があるとすれば、他方では、「日本文学」なるものの純粋性にも疑いの目が向けられる。日本文学の雑種性、ひいては「日本及び日本人」の雑種性が射程に入って来る。そこから「非日文学」という、これまた耳慣れない領域が打ち立てられ、称揚される。
 要するに、「在日」にこだわることで、かえってそれを突き抜ける。つまりは、日本も挑戦も相対化された世界、民族なるものを止揚した文学を未来の理想形として打ち立てる。
 そうした論理は、ナショナリズムを徹底することで逆にインターナショナルな領野に到達するという、あの昔懐かしい謡い文句の焼き直しの嫌疑もなくはないが、だからと言って難癖をつけることもない。その後塵を拝することを臆する必要などない。林の言葉に対するこだわりとその裏にある眼差しの鋭さと持続力を評価すべきだろう。
 さて、林の二つの書物を個別にその内容を吟味する余裕はないので、特徴的な議論をいくつか挙げて、それについて考えることにしたい。
 林は在日の文学的営為に関する文学史的見取り図を描き、金石範と金泰生を最も高く評価する。金石範を否定的に論じるような人は在日朝鮮人文学を論じる人には稀で、それ自体には何の変哲もないが、金泰生に対する入れ込みは尋常ではないので、その金泰生に関する林の議論を、ここでの導きの糸にしたい。

3.小さな文学
 林は金泰生の「小さな文学」を称揚する。金泰生の世界は祈りにも似た思いに裏付けられる小さな出来事への執着によって成立している。小さな人間の小さな生活である。因習的な私小説という批判もあるだろうが、「個」の営みとしての文学という、文学の核心に目を届かせようとする眼差しが林の議論の担保になっている。そこを起点に、作家たちの薄暗がりに触手を伸ばす。例えば、金達寿の先駆的な業績に関して、政治的志向と絡み合った危険性と可能性とを腑分けする。また、民族を相対化する梁石日の眼差しに大きな可能性を見る。或いはまた、理念や志向や慣習的な倫理が崩壊した現実を孤独に生きる柳美里、というより、その作品を高く評価して、叱咤激励する。
 そのあたりの大筋については僕も頷く。異論がないわけでもないが、数ある見方の一つとして説得的な部分があり、教示されるところもある。にもかかわらず、僕は林の論述の随所で躓く。言葉遣いの曖昧さと恣意性、論理展開の不透明性、そして、裁断的論法にもどかしさ、あげくには苛立ちまで生じてくる。
 しかも、そうした違和感は、僕自身、さらには、僕たち(その射程がどこまで広がるのか、定かではないのだが)の何かに通じる硬直もしくは惰性に由来しそうな感触もある。今や、実作のレベルでは、次々と若手の作家たちが登場するなど、林的議論とは次元の異なる世界が創出される気配もあるのに、僕が敢えて林の著作、林の批評、或いは、林の研究に拘泥する理由はそこにある。時代遅れのように映ろうとも、おそらくは今後も長く繰り返されそうな何か、それを僕は問題にしようとしている。
 例えば、作品の作者からの独立性に対する不感症もその一つである。

4.作品と作家
 林にあっては、作品と作家との間に次元の区別がない。作品によって作家が説明されるかと思えば、作家によって作品が解釈される。そんなところに僕はうさん臭さをかぎつける。大げさないいかたをすれば、ペテンのように思ったりもする。もちろん、作品を書くのは作家だから、作品を読んで作家の何事かを知ることはできるだろう。また逆に、作家を知ればその作家の作品が理解しやすいということも一般的に言える。しかし、その場合においても、その利点はその種の切り口の問題性によって相殺されるばかりか、作品理解に関する不利益が生じる危惧がある。
 初めに思考があって、後に作品が生まれるのではない。作品が完成して初めて、作家の思想が形を取る。そしてその思想は必ずしも、いわゆる作家の思想そのものではない。作家の思想と作品とが完全に重なるわけではない。その過剰部分、或いは、欠落部分と、作家の意図との絶妙な絡み合いこそ作品であり、作品の価値である。
 俗物が傑作を書くかもしれず、反動が革命的な文学作品を創出することだってある。むしろ、文学の歴史とはそういうものである。そうして現実に関する知識や想像力を欠いた評論は不毛である。
 林の議論で最も瑕瑾が少なそうな金泰生に関しても、その種の「癖」が顔を覗かせる。生前の金泰生との親交が林の議論の護符とされそうな気配もある。しかも、林が愛着を抱かない作家に対する論難に関しては、その癖や好悪、或いは、それを含む読解の方法が今一つの問題と重なって増幅する。まさに政治主義的かつ教条的な裁断に堕する。

5.無自覚な党派性
 林が政治的に何に依拠し、何を理想としているのかは僕にはよく分からないし、知りたいとも思わない。しかし、数々の作家やその作品に対する彼の論難の背景には、彼が言及を回避する何かがある。それを僕は「政治的な囲い」とひとまず呼ぶ。
 例えば、彼は「つかこうへい」を商業主義的として切り捨てる。読者は、そして僕は何が商業主義的で、それが何が悪いのかよく分からないのだが、林の口ぶりはすこぶる威勢が良い。それは、そうした裁断を共有する空間を前提として林の論が組み立てられていることを示唆する。そしてその仲間内の一体感を高める「党派的戦略」が殆ど無意識裡に展開されている感が強い。
 林の軍部独裁政権下の韓国や金日成独裁政権下の北朝鮮に対する嫌悪と断罪も、その<商業主義>という断罪とよく似ている。彼の好悪が問題なのではない。文芸批評の根拠がその種の好悪にあり、それが基準になっていそうなことを、問題にしているのである。韓国に対してシンパシーを表明する作家はそれだけで作家としての自殺行為であり、資格喪失と論難される。デビュー当時の金鶴泳を評価しながら、後の彼の韓国への入れ込みは堕落として断罪される。「韓国系日本文学に成り下が」ったと宣う。また、李良枝は韓国のプチブルの家庭での下宿生活にも耐えきれず日本に逃げ帰った主人公を描いたから、甘えん坊のお嬢さんの行状を深刻ぶって売り物にする「甘ちゃん作家」として、作品もろともに作家まで貶められる。そのついでに、作家が日本の肉親ないしはパトロンの庇護のもとに韓国留学したなどという「実話」を、作家並びに作品の低劣さの証拠として言あげする。<階級的正義>という理屈らしい。
 そうした林の政治主義的眼差しは、僕のようなものからすれば、若かりし頃に齧った左翼急進主義に似たものとして懐かしい反面、うんざりする。そうした政治的眼差しが文学的評価の根拠にされることに、大きな気恥ずかしさを覚える。己が立てこもる「囲い」に無自覚な言葉たちが、いかに専制的な裁断と命令的な言語に陥るか、その例証を目にする思いがする。
 現在から過去を見れば、見えることが多々ある。しかし、逆に見えなくなってしまったことも多々あることを覚悟しないわけにはいくまい。ある歴史時点での当時の人々に対する拘束を問題視するならば、現在の僕たちを拘束しているものも意識して、論じる必要がある。それが論理的必然というものだろうし、批評にあたっての最低限の倫理でもある。
 それを欠いた批評には文学的眼差しなどない。作家の政治性を論難しながら、実はその批判者自身が政治性の罠にはまり、そのことを恥じるどころか、誇るような倒錯現象は見るに堪えない
以上、林の企ての意義をそれなりに認めた上で、その危険性を指摘してきた。その危険性についてありきたりの能書きを執拗に行ったことには理由がある。林的論理もしくは視線に、僕が「問題がもたらす関係の不幸」と呼ぶものが絡んでいそうに思われたのである。
 以下では相当に乱暴な<勘>もしくは<体験的信憑>に身を預けることになりそうなので、予めご容赦をお願いしておきたい

6.問題と関係の不幸
 在日的問題というものがある。或いは、より広げて、「エスニックマイノリティの問題」がある。その厳しい状況に義憤や同情や使命感を覚えて、何かをしようとする人がいる。その中に在日の文学に関心をもち、あげくには批評を書くような人もいる。そしてそれは、<問題>を広く社会に知らしめたり、是正要求の一助となることもある。当然、そうした善意や正義感や使命感は称えられるべきである。ところが、その半面では倒錯的な兆候を伴うこともある。マジョリティに属しながらマイノリティの問題を理解して、そこに肩入れする「善意の正義の人」を自任してしまうといった問題である。マジョリティに向かってマイノリティの正義を主張するのだが、そのうちに自らを先験的な「善意で正義の人」と自認するようになる。そればかりか、打って返す刀でマイノリティの非を論難する。両側に足をかけた横断的正義の人として自らを位置づける。
 そうした勝手な信憑をマジョリティの多数が正しいものと認めるわけがない。むしろ無視したり、逆に論難したりする。しかし、そうした逆境もまた、自らの正当性の証と見なすらしい。誤れる多数に対して、正義の少数者というのは、元来のその正義の人の根拠でもあったから、必然的なことでもある。
 そのような自己誇大に囚われると、もはや論理は不要である。言語の明晰さ、論理の開放性の検証は免じられる。
 そんなわけで、文学作品の個々は個の立場から社会的帳を突き破るべく遂行された行為であったはずが、そうした代弁者によって、閉鎖的な空間に送り返される。林の議論にはそうした経路が透けて見える。しかも、それは林一人の問題ではない。善意や正義にころりと参る習性をもつ僕らが、往々にして陥る隘路なのである。
 そして、そうした隘路を回避する道を示唆するばかりか、現にその道を突き進んでいる先達がいる。

7.求められる言語
 在日朝鮮人文学を評価したうえで、それを止揚する、あるいは、それを葬るベクトルで企てた人という意味でなら、ある点までは林と近似した問題設定をしながらも、実際には林と対蹠な軌跡を描いているのが、竹田青嗣である。彼の『在日の根拠』をはじめとする一連の著作は、在日朝鮮人文学どころか、在日朝鮮人の思考を考える際に大きな示唆を与える。 
 但し、竹田はその後、在日朝鮮人文学に関して体系的な批評を展開する方向に進まず、そこを突き抜けて、文学一般、思想一般という広い地平に躍り出て疾走している。
 竹田の魅力は、心情的一体化を前提としたり、それを強制するような言葉を回避する不断の努力にある。それが言葉と論理の明晰さとなって現れる。
 仲間として語り出すと、根拠は自明のものとなり、その自明の内実を問うことは禁じられる。タブーとなった暗がりが人を誘い込み、酔わせる。あの忌まわしいからこそ欲望を掻き立てる<血>と同様に、<追放>の脅迫を常にちらつかせる閉鎖的な言語空間である。
 竹田においては同胞として語ることに対する厳しい禁欲がある。そのことによって、僕らにとっての不可避な拘束の実態を浮かび上がらせる。この世界に縛られ、一回性を生きる定めにある個人が、孤独を糧として紡ぎ出す言葉によってつながる文学の世界が創出される。
 ひとたび創出された言葉もやがては惰性化し、そのあげくは閉じられたものになることも不可避である。しかし、それを避ける努力は常に可能である。自分の論理や言葉の根拠を常に、そして徹底的に問おうとすることで、開放の契機が生じる。在日の根拠とは在日という問題に拘束されながらも、そこに潜む孤独な個人が繰り返し自らに対して突きつける問いのことでもある。
 孤独な場所で個人が継続し反復する<問い>を、「問題」を越えて表現すること、それこそが文学の領域だろう。そういうものとしての在日朝鮮人文学を、竹田の切り開いた線上でさらに推し進めることができればと思う。そうして初めて、在日朝鮮人文学に死に水を取ってやれる。
よく死なしめ、その滋養を受け継いで、僕らはよりよく生きることができるかもしれない。(完)

現時点での僕のコメント
さすがに、特に最後の部分に関しては、問題が山積というのが、一読した際の僕自身の感想である。<謡い>にとどまって、具体性がほぼ完全に欠落している。僕の悪癖であり、いつまでたっても治りそうにないのだが、今となっては仕方がないと、許すことにした。そもそも、」そのような<謡い>もあってこそ、それが推進力となって、改めて書いてみようという積極的な気持ちになる。そうなりさえすれば、僕にとっては大きな力になる。但し、書くたびにその<謡い>を<謡い>にとどまらないものにするための努力くらいは、これからもしようとは思っている。
その他に、上掲の拙文で課題としたことを、その後の約30年間に、あくまで<僕なりに>という留保付きだが、その解決に向けての努力をしてきた。在日詩人・作家の金時鐘については批評的な書物を刊行しただけでなく、関係する論文或いはエッセイを研究会で口頭発表したり、雑誌に拙稿を投稿したり、このブログでも試論や論文形式の文章を掲載したり、てきた。
また、金石範については、そのほぼ全作品、とりわけ、『火山島』全巻を日本語で、さらには韓国語への翻訳版を完読し、その結果を論文もどきに仕立てた文章も発表した。その他、金時鐘や金石範、さらには日本と韓国の多様な研究者や読者も含めての済州4・3に関する動向についても拙稿を発表してきた。そうしたものを研究成果とか文学的成果と誇るわけにはいかないが、在日の立場から、在日の文学に関する日本と韓国の議論に対する批判的議論を敢行した蛮勇と気概だけは、自分でもほめてやりたいと思っている。馬鹿な話と思われるだろうが、残された寿命もあまりなくなったので、少しは正直でありたいので、記しておく。
ただ、惜しむらくは、僕のそうした蛮勇に対して、まともな議論が殆どないし、将来にも起こりそうな気配がない。しかし、その分だけ、拙論の希少価値が高まるという側面もあるかもしれないなどと、本当に馬鹿なことを考えては自分を宥めている。
因みに、上の文章で提示した課題はこの30年近い間の僕の書き物のすべてに関係してきたと、この文章をパソコンで打ち込みながら、いまさらながらに痛感した。僕にとって書くことは、それがどのようなジャンルのものでも、ぼくの文学観、文章感、人生観と関係のないものなどひとつもない。それを確認する機会にもなったので、僕としては幸いである。
僕の林浩治に対する本文のような議論は金時鐘や金石範の作品その他に対する議論と同じ視座や方法に基づいているので、もし関心が少しでも生じたら、拙論を参照願いたい。僕は在日二世というステイタスを自己認識の基盤に置いているので、それをしばしば強調するが、だからといって<在日派>というわけではない。在日には僕のような議論を全く認めない人の方が多いだろうし、それは僕自身が望んだ結果でもある。僕は党派性を一概に全面否定しはしないが、党派性に無自覚なあらゆる活動が、むしろその党派に対するダメージになると考えている。それだけに、<贔屓の引き倒し>を在日に関して行うことは、なんとかして避けたいと念じている。

<晩年学フォーラム>での質疑応答1

2025-05-03 10:23:03 | 玄善允の落穂ひろい
ブログ:<晩年学フォーラム>での質疑応答1
カテゴリー:玄善允の落ち葉拾い

前置き
 タイトルにある<晩年学フォーラム>とは、その昔、僕がまだ30歳代後半の数年間、毎月の例会に殆ど欠かさず足を運び、楽しませてもらった市民の集まりである。主宰者の方々がほぼ同志社の学生時代の友人で、同志社や同志社女子大で教鞭をとっていたこともあって、月井に一回の土曜日午後の月例会の会場は、御所近くの女子大のゆったりとした大教室を借りていた。
 その人たちの学生時代からの旧友の一人が亡くなったことを契機に、常に死を念頭に今後を生きるという趣旨で広く市民に呼び掛け、実に多様な人々が参加していた。主宰者たちの元・現の教え子である大学生(院生、ポスドク)から退職者、実の両親や義両親の介護の真っ最中や、それをようやく終えた中年、高年の人もいた。男女別で言えば、主宰者グループは全員が男性で、その教え子たちで世話役を引き受けていた若者たちも男性が目立った。しかし、一般参加者は女性が半分以上、時には7割を超え、質疑応答での発言も女性が目立った。
 月一回の例会では、主宰者が順番に、その他に大学教師などのゲストスピーカーを招いたり、一般参加者からも一人もしくは数人がグループ、もしくはリレーによる1時間から1時間半くらいの話を聞き、その後には質疑応答もかねて全員で討論する形で、2時間から3時間、その後は場所を換えて、懇親会という名の酒席となった。
 そしていつからか、郵送費を安くするために縮小コピーを巧みに用いてB6版で手作りの会報(月報)も発行され、参加者の多様な投稿、例会の話の要約もあり、連載エッセイその他、挿絵などもなかなかにお洒落なミニ誌だった。そこで連載された文章が後に一巻の本になったものがいくつもあり、僕の処女作である『在日の言葉』(同時代社刊)もその一つだった。
 僕は仏語の非常勤講師として通っていた京田辺の同志社女子大の講師控室、それも狭くて(4.5人が何とか座れるくらい)暗い喫煙室で知り合った主宰者の1人で児童文学者の上野遼さんに誘われて参加するようになった。そしてこれまた上野さんの勧めを受けて、月報にエッセイを連続して投稿するようになった。それがやがては東京のわりと著名な出版社の編集者の目に留まり出版の話を持ち掛けられて快諾した。ところがその出版話が二転三転して頓挫、次いでは別のもっと大きな出版社での企画も結局は頓挫するなど、なんとか刊行に漕ぎつけたのが最初に話があってから3年も経過してからだった。
 その産婆役は上でも紹介した上野遼さんであり、<晩年学フォーラム>の参加者たち、とりわけ連載中から何かと励ましてくださった読者の皆さんだった。
 その間のことは、上掲の拙著の後書きで詳しく書いているので、もし関心がある方は、そちらを参照していただければ幸いである。但し、その入手が難しければ、遠慮なく僕に連絡してくだされば。何らかの形で拙文をお届けするようにするつもりでいます。
 そんなフォーラムの例会で、僕も「五つの名前で生きています」という人気があった流行歌をもじったタイトルで、在日二世のアイデンティティの混乱について、つまりは、上掲の連載中だったエッセイの一部をかいつまんで、相当に意識的に戯作調で話したところ、随所で笑い声があがるなど、楽しい時間を過ごせた。会が終了してから、そこにたまたま参加していた在日三世の教え子から、「あんなに辛そうな話を、どうしてあれほど楽しそうに話せるのか、すごく不思議でした」という感想をもらって、「楽しそうに見えていたのか」と我が意を得たりの気分だった。
 僕にその会で話す機会を作ってくれた上野さんは、二次会で杯を交わしていた時に、「玄さん、長年の教師修行の成果だったね」とほめてくれているのか批判しているのか、よく分からない微妙な感想を漏らしていらした。僕としてはともかく、日本人の罪責感を刺激して背筋をたてさせるような話にはせず、一人の子どもの意識形成の面白さを気楽に理解してもらいたいという願いがそれなりに実現したような気もして満足だった。
 質疑応答の際には数名の方から質問を受け、それを僕なりに二つのテーマに集約したうえで応答し、そのように僕が集約した質問項目と応答した内容を文章化したものを月報に投稿するつもりだった。しかし、実際に投稿したのかどうか定かでない。たぶん、うまく書けなかったからと、断念したように思う。だからか、そんな原稿を書いたことすら、すっかり忘れていた。
 ところが、そのように30年近くも前に書こうとして完成できなかった草稿が、最近になって見つかった。パソコンはその間に何度も変えたし、その度にまともにバックアップもとっていなかったので、データが残っているわけがない。
 ところが、この数年、懸命に取り組んできた断捨離の過程で、プリントアウトされた草稿が見つかった。懐かしいしありがたいことと喜んで、ブログで紹介してはどうかと思いついた。しかし、いざ目を通してみると、既に四半世紀以上も昔に書こうとしたが、一応の完成にも至らなかった代物だけに、躊躇いも大きかった。
 読者も一見してお分かりになるだろうが、書き手である僕が見ても、意図が不明確で論理性を甚だしく欠いている。それがあまりにもひどくて恥ずかしいし、読者に申し訳ない。
 ところが、である。そんなことを言いだすと、僕の書き物でその種の欠点を免れているものなど一つもない。拙文にはいつだってその種の欠点がつきまとう。もちろん、それぞれに<出来の良しあし>はある。しかし、それはその種の欠点が目立つか目立たないかの違いに過ぎない。
 そのように考えたあげくに、欠点が目立つ典型的な代物であることを前提にしたうえで、恥さらしをしたくなった。僕はまさに変な老人なのである。自虐趣味と嗤われそうだが、僕には、そんなつもりはない。
 もちろん、曲がりなりにも僕自身が書いたものだから、生みの親としての身びいきや、未練や懐かしさのようなものもある。できの悪い子供ほど気になり、可愛がるといったことが一般にもあるらしいが、僕としてはそんなこともない。やはり、懸命に書いて、それなりに書けたと思えるものは、なけなしの集中力が発揮できたからこそで、愛おしい。しかし、その一方で、親不孝なほどに出来の悪いものでも、その当時の自分の格闘、或いは自分の至らなさが裸形で窺えるものもまた、愛おしい。自分しか愛おしむ人などいるはずがないと思うと、愛着もひとしお、となる。今回のメモの公開にまつわる恥さらしは、どちらかと言えば、後者にあたる。
 僕の思考や書き物の生成過程や、いまでも殆ど克服できていない課題などが垣間見えるので、残された短い時間内で、考えてみる際のヒントになるかもしれない。
 その他、言葉足らずで、もっと立ちいらないと大きな誤解を生じかねないこともある。そうしたことについては、現時点の僕が言えそうなことは、僕なりに書いておきたい。
 以上が前置きで、以下では先ず、僕が四半世紀ぶりに発見したメモの内容を改めて自分で入力して、お披露目する。そのうえで、現時点の僕が言えそうなコメントを付け加える。

2.四半世紀ぶりに再会したメモ書きの1―帰化と帰属や社会イメージー

質問1:帰化についてどのように考えていますか?
応答1:僕はずっと昔から、その問題に何とかケリをつけられないかと考えてきましたが、ごく最近になって、ああ、そういうことだったのか、と朧気ながら感じるようになりました。
 在日朝鮮人には<帰化>は裏切りであるという常識もしくは了解がありましたし、今なお、その残滓はあります。日本での民族差別が就職などの面で相当に改善されたとしても、僕らの実感からすれば、やはり差別は深刻です。データではうかがい知れない具体的な現場でそれを思い知らされる。そうした実感からすれば、帰化は差別される側から差別する側への<寝返り>であり、敵という感じ方は、ごく自然なものでしょう。或いは、そうした非難にまではならなくても、この差別状況を是認し、加担することになるのではという疑問なり危惧、そのあげくに批判、非難となる。
 それに対して、個々人がよりよい人生を求めて新たな可能性に向かって挑戦することがどうして悪いのかといった、もっともそうな反駁もあります。さらには、日本国籍を取得した日本人として、この社会の改善に努力する方が現実的といった提言や主張もある。その延長上では、いつまで国籍に拘って差別を云々するのは、社会の一員としては、サボタージュになりはしまいかといった議論まである。
 そうした中で、いろんな感情的なコダワリを解して議論の土台が築けるか、それこそを問題にしたい。そんなことを口では言うのは容易でも、僕自身にもそれがなどできない。そこで、それに先立って、コダワリの正体を明らかにしないと始まらない。
 僕の周囲にも帰化の事例がいろいろあって、それを二つに大別すると、<許せる>場合と<許せない>場合とがある。しかし、この「許す」という言葉がすごくおかしい。他人の人生の選択に対して、何を傲慢なことをと思うので、問題の立て方を変える必要がありそうで、それがまた難しい。
 僕は在日朝鮮人であることは恥ずかしい。そういう感じ方をベースに意識形成を強いられましたが、青春期に民族集団と出会って、<民族的覚醒>の経験をします。そして、それを契機に知り合い、一定の期間、同じく空気を呼吸し、同じような言葉を用い、共有感情を確信していた友人たちがいます。そんな人たちが帰化したと聞くと、平常心でおれない。批判しても致し方ないとは思いながらも、僕の心身は硬直する。一緒の空気を吸っていたのは、既に数十年以前のことで、それもそれほど長期間のことではなく、せいぜい4年、或いは、その延長も含めて10年ほどに過ぎなかったのに、そうなってしまう。
 人が変わるのは当たり前のことだし、他人の変化にくちばしを挟む権利なんて僕にはない。そんなことは百も承知しながら、そんなかつての友人に偶然に出くわしでもすれば、顔をまともに見ることができずに、目を落としてしまう。僕自身が何か悪いことでもしたように項垂れてしまう
 それに対して、幼い頃から知っていて、上で述べたような<民族的枠組み>とは関係なく、一緒に時間を過ごしたことのある在日の同世代者の場合、そんなことはない。親戚の子ども、親戚でなくても親がかりで、つまり僕の家も含む地域の在日のコミュニティで自然と付き合うようになっていた人々のことですから、民族的同質性とは関係ないわけではないのですが、ともかく<思想的な盟約>を交わしたという感じがなく、なんとなく一緒にいた人々なら、帰化したと聞いても、「致し方ない。なんとか気楽に生き延びて欲しい」と口には出さなくても、心の中で思ってしまう。寂しいけれど、それはそれで仕方ないと。
 こういった違いは何なのでしょうか。生活と思想の違いでしょうか。後者が絡むと民族的当為とか正義とかが僕を硬直させる。それが絡まない実生活のレベルでは、各人が生活の現実に沿って生きざるを得ず、それについて他人のことをとやかく言えるわけがないと納得している。
 行き詰まってきましたので、一般的な話に飛躍してみます。
 帰化というのは、帰属イメージの問題ではないかと。自らが生きている、或いは、これから生きる場所を、つまり帰属する時空をどのようにイメージするか。こうした領域ではおそらく、民族的正義という理屈はフィットしにくい。
 各人が己の帰属イメージ、そしてその延長上での社会イメージの中に自らを位置づけて、自分の生き方を選ぶ。そういう選択の一つとして帰化もあり、帰化しない選択もある。
 世の中はそうした帰属イメージの争奪戦が行われている場所のようです。ですから、こうしたイメージの分化や軋轢や争闘をある程度は把握したうえで、緩やかであっても全体社会のイメージを共有しないでは、議論がかみ合わない。あげくは、正義云々で自らの選択や感情や怨恨を盾にして、他を非難するしかなくなる・・・
 何ひとつまともなことを言えないままですが、この問題についてはここまでにします。

3.四半世紀ぶりに再会したメモ書きの2―僕にとっての日本人ー
質問2;日本人と何か、についてどう思っていますか?
応答2:僕は生まれて50年以上をこの日本で暮らしてきておりながら、日本人は何かと尋ねられると、よく分からないと答えてしまう。日本人の良い友人が沢山いるし、彼らにどれほど救われて生きてきたかと想いながらも、日本人のことが分からない。しかし、その分からなさには、二つの側面があります。
 個々の日本人と集団としての日本人(あるいは集団に身をひそめる時の日本人)を分けてみると、個々の日本人とは良い関係が作れても、僕が在日朝鮮人であるが故の具体的な問題生じると、個々の日本人は姿を潜め、集団としての日本人が姿を現す。つまりは、個々の人間の姿が見えなくなり、狡猾で信用ならない、という感じ方を僕はするわけです。
 さらには、これは僕だけのことなのかもしれませんが、そうした事態を致し方ないものと考えて、諦めてしまう。僕は生まれてこの方、そういうことに馴れてしまって、そうした集団としての日本人とはつきあわないように努める。その集団の中には自分の場所はない。僕は、日本の社会の一員ではない。
 そしてもちろん、その集団の中に身を潜めた「日本人」個々や集団が一体、何を考えているのか、分からない。だから時として、すごく恐ろしくなったりもする。
 因みに、僕には権利意識が希薄です。いろんな権利がないことが自然、当然であるかのようにして生きてきた。もちろん理屈としては、僕には様々な市民的権利があってしかるべきと分かっているのですが、どこかに引け目がある。だから時にはヒステリックに権利を主張したりもしますが、それは日本人一般にとっても、その主張が好ましく作用するという信憑がある場合に限ってのことです。
 そういう信憑があってこそ、僕の口も足も動く。しかし、そうした信憑がない場合は、僕は自分の正義を主張することは慎む。
 だから、一般の日本人、僕のような歪みなど持たない日本人が社会を、或いは、日本人をどのようにイメージしているのか、僕にはよく分からない。
 そんなわけで、僕は在日朝鮮人と日本人の間にどのようにしたら共通の土台を築けるのかをずっと考えてきた気がします。互いに分かっていない。そもそも自分が何かも分かっていないのだから、それも当然かと。
 日本人であれ朝鮮人であれ、分かったふりをして、号令を、或いは、アドバイスを発する人が数多くいるけれど、そういうものなど僕としては願い下げにしたい。
 誰にでも、リアルな社会や自身に関するイメージがあって、それをうまく表現できないから、伝わらない。うまく表現できてうまく伝わりさえすれば、民族の垣根なんてあってないに等しくなるかもしれない。それが僕の夢ですが・・・

4.現時点で言えそうなこと
 続いて以下は、上記のメモ書きの内容に関しての、現時点における僕のコメントです。

1)先ずは、質問1に対する応答1に関する現時点でのコメント
前書きでも触れたことですが、今から読み返すと、支離滅裂で自分でも呆れかえりますが、そんなことを言い出すと、僕の書くことはもちろん、なすことのすべても同じことになりそうなので、ここではそれは言わないことにします。
 そんな代物を今になって敢えてブログに掲載して恥をさらす理由は何か。僕自身がその必要性を感じたからです。その支離滅裂さの理由について考えてみたいと思ったのです。そしてその支離滅裂の僕自身における系譜も確認したい。
 晩年学フォーラムに通っていた頃の僕の状況を振り返ってみます。その頃、僕は中年の危機に差し掛かっていました。40歳を過ぎて、僕はようやく韓国政府から旅券を交付されるようになりました。22歳の頃に在日の学生組織の責任者の一人として、在日組織の民団から除名処分を受け、それ以来20年も、旅券を持てないので、日本から一歩も出ることができない駕籠の鳥生活をしながら、フランス語・文学で生計を立てていましたが、その生活にも行き詰っていました。
 ところが、40歳を過ぎて、韓国の政治状況の大変化のおかげで、いきなり旅券を交付されることになりました。僕は日本から外に出ることができるようになったのです。しかし、反政府運動のレッテルを貼られた僕には、韓国は恐ろしい国で行けるわけがなく、次善の策として、僕は初めてフランスへの1か月の旅を企てました。そして、その旅の過程で、それまでの僕のフランスに関する勉強の無意味さに気付き、フランス文学研究もどきを断念する決心をしました。
 それ以降は研究とはすっぱり縁を切って、生計を立てることを何よりも優先する。しかしそれだけは心身が保たない。そこで、ものを書くことにしました。先ずは、自分の現実の一つとしての非常勤講師生活における自分の立ち位置を確認するために書いて、雑誌に発表しながら、自分の方向性を探し求めていました。そんな時なのです。上野さんに出会ったのは。上野さんは大学の非常勤講師に関する僕の戯作調の雑文を読んで、僕に関心を抱いたのか、晩年学フォーラムに僕を誘い、次いでは、在日について書くように勧めてくださったのです。上野さんの励ましを受けて、僕は月報に「在日の言葉」というエッセイを連載し、それが後に『在日の言葉』として刊行されることになったのですが、フォーラムで僕は話をしたのは、既にその連載を終えた頃のことでしたから、話の内容は既に前書きで記したように、処女作の一部でしたが、その連載を終えることができたことで、なんとか自分の生き方ができるという感触を得て、次の連載のテーマを探し求めている頃でした。

 その連載が僕の第二作である『在日との対話』(同時代社)、それも後に刊行されるのですが、フォーラムでの僕の話には、その『在日との対話』で本格的に展開することになるテーマや書き方の萌芽が確実に見られることに、今回の発見で、僕は気付いたのです。用語としての帰属イメージや社会イメージ、そして帰化の問題、さらに言えば、在日と在日、在日と日本人の間に架橋する言葉を懸命に探し求めていたことが、その草稿を見ればよく分かります。日本人の在日観を批判するなら、それと同時に在日による在日批判が不可欠だという考え方も明確に分かります。

 但し、それが読者に分かりやすい形で展開できているかは、大いに疑問でした。もっぱらレトリックと僕の私的イメージにもたれかかった記述の連続で、理解されるはずがなかったのですが、ともかくその方向での模索は続けていたことが、草稿でも明らかです。『在日との対話』の一部を著書で何度も引用してくれるような人もいましたが、誤解に基づく理解が少なくなく、しかも、その誤解の責任がむしろ僕の記述の曖昧さに由来するように思ったりもしました。
 そしてそうした曖昧な記述という問題はこの歳になってもまだ解決に至っていません。それでも、それから30年の間に僕が書いてきたことの多くが、その問題に関連していることが明らかです。例えば、在日による在日批判という志向性は、金時鐘さんや金石範さんなど在日知識人に関する拙著『金時鐘は在日についてどう語ったか』(同時代社)などで継続的に追及しています。   
 さらに言えば、それらの在日知識人の書き物や議論への反措定として、『人生の同伴者―ある在日家族の精神史―』(同時代社)も完成しました。その他、書き物だけでなく僕のその間の生き方も、今回に披露した誠に拙い草稿の延長上にあると、少なくとも、草稿を見ながら再確認しました。逆に言えば、それが多くの人には理解できない形でしか、達成できていないことの証左にもなっています。つまり、僕が四半世紀前に自分に提示した課題は何ひとつ解決していないわけです。

2)質問2に対する応答2に関する現時点のコメント
 二つ目の質問に対する応答としての、「日本人とは僕にとってはどのような存在なのか」については、一点の指摘にとどめます。
 個人としての日本人と集団としての日本人を区分けして対立的に書いているのですが、その内容は必ずしも日本人だけのことではないことを、まるで日本人の特性のように書いているという大きな問題点があります。
 個人はいいが集団となると個人の顔は消えて、敵対者として<在日の僕>その他を排除するという図式は甚だ危険なものです。
 問題の立て方を変える必要があります。個人と集団の関係という大問題があって、どんなナショナリティー、エスニシティであっても、殆ど同じようにして、個人を或いは特定の集団を排除する。そうしたものごくありふれた例として日本人もいる。そして日本で生まれ育ったエスニックマイノリティである僕にとって、最も恐ろしくイメージできる個人と集団が日本人であると言うあまりにも当然なことを、あたかも日本人だけにあてはまるような書き方になっている。
 これこそ偏見の温床であり、誰でも思考と心身が硬直すると、その罠にはまってそこから出られなくなる。自戒しなくてはならない。



玄善允の落穂ひろい5-2〈パワハラ、セクハラ、大学の内部2)

2018-03-14 18:03:29 | 玄善允の落穂ひろい
〈前回の続きである)

                 キャンパスハラスメント研修講演会の顛末

「何かしゃべってくれません」という依頼に、おそらくは酒も入っていたし、それが他ならぬ昔の教え子でその後も親交のある教員だったということもあって、安請け合い。ところが後になって、対象が教員中心であること、テーマが上記のようなものであることを知って、仰天、あたふたしても、後の祭り。今更、断るわけにもいかない。そこで、お得意の居直り。

よくは知らないテーマであっても、僕が永らく生息してきた大学に関係していることに変わりはない。自分が知っていること、感じてきたことに引き寄せて、考えを整理してみる機会にしても悪くはないか、と。

とはいえ、ついつい舌が滑ってしまいがちな僕のしゃべくりでは、誤解を生じかねない。それに、一定のプライドを備えていそうな教員・院生を前に啓蒙的な話というのは、いかにも面映くて自信がない。

そこで、話せそうな内容をことごとく書き留めておかねばと思い立ったわけです。そうして出来上がった草稿は相当の量に達し、それを一時間程度で話すのはどだい無理な相談ですから、当日は相当にはしょらねばなりませんでした。

講演そのものは、それなりにうまくいったような気もするのですが、その一方で、これを契機に考え直してみなければと思うことも多々生じてきました。そこで、その顛末を書き留めて、考えの整理の一助にというのが以下の文です。まずは二つの反響から。

メール1.

講演会は好評だったと思いますよ。啓蒙的な人権の催しそのものに嫌悪感を抱いている人にも、自然と聞けたのではないでしょうか。でも、残念なのは、その嫌悪感を抱いている人たちの多くは会場に来ていないということです。これは仕方のないことですが。
アンケートは、アンケート箱に入れてくれた人が4人、あとで私のメールボックスに入れてくれた人が今のところ5人で、講演会に関しては次のようなコメントがありました。

・話を聞けてよかったと思う。

・ものの見方を固定してしまわない様、毎回この研修会に参加していますが、今回も個性的な講演を聞くことができ、非常に有意義であったと思います。

・資料など準備が行き届いていると思いました。講師のお話も具体性に富み、興味深くかつ有益でした。

・講演者が、力を抜いた(余裕のある)話し振りだったので、楽しく、また、無理なく聞くことができた。これは、最後の部分でおっしゃっていた、「逃げ道」を作るということにも通ずるようにも思える。

・「職員の立場」からの発言が参考になった。

・説教調でないスタンスがよかった。

・質問にあった「話をきかない人、理解しない人をどうすればよいか」というのは大きな問題である。「自分はやっていない。自分のことではないのではないか」と思う者がいくら研修講演を受けても、変化はおこらないのではないかと感じる。

・もう少し具体的な話がおききしたかった。人間の関係をつくっていくのがいかにむずかしいかわかった。

・大学で事務職員をしていました。何度か話の例えに出た大学です。内部事情が理解できますので、興味深かったです。実際は本日の話よりもひどいものだと思いますが。女性職員のいじめなど、気になる発言もありました。本当に中年女性職員だけの話でしょうか。

わざわざ後でメールボックスにアンケートを入れてくれるということ自体、あまりないことかと思うので、反応があったということだと思います。

メール2.
キャンパスハラスメントの正確な意味は玄さんの書いているとおりと思います。でも、わたしは、キャンパスで起こっているセクシャルハラスメントの具体的な事例を、教員は、男性は、知るべきであり、受け止めてほしいと思います。

確かに、世の中には、女性上司による男性へのセクハラやパワーハラスメントもあるだろう。
男性から男性へのセクハラもあるだろう。しかし、女性差別は日本における(特に)大きな問題であり、大学独特の事件もあります。教員から、女性の大学院生へのセクハラが圧倒的に多いとデータもあり、事実そう思います。

それは、性的な露骨な事件ばかりでなく大学の日常に蔓延している。最近は西欧の外国人による女子学生への事件が多い。
この、簡単な、分かりやすい、未だに学んでいない大学の体制の中で起こるセクハラ・・・。これを重大に捉えたら、システムを整えることによってかなりなくなるのに。マスコミに取り上げられるような大きな事件が起こらない限り、大したことはないと思っている。

世の多くの男性。その中でも、大学男性教員の多くは、優性グループだから、正当化するのがとても上手。自分は関わりないと思っている。関わらないことがセクハラに荷担していることすら分かっていない。ひどい人になると、加害者をかばっている。甘いわたしの経験によると、本当に頭でも分かっている人は、大学には1%くらいでしょう。

ちょっと熱くなってしましましたが、玄さんの文章は、学問的?深いけどオブラートに包んでいる?差別全般の話と結びつけようとしている?
セクハラ・・・ということで言えば、女の道はけっこう厳しいと、この方向だけを見てほしい。


前者は、先にも触れた昔の教え子からのメールです。当日は司会を務めてくれました。後者は長く親交のある女性の大学職員、講演草稿を読んでの感想のメールです。

私信を勝手に用いるのは信義にもとる懸念もありましたが、その内容は必ずしも私的とは言えまいと判断し、無理やりご当人たちに了解を得て、僕の考えを整理するために使わせてもらうことにしました。

先にも述べたように、今回の講演は僕個人の発意によるものではありません。一定の条件があり、それに沿わせるべく努めながら、僕の考えを整理して書いたのが、あの草稿でした。

そこで、あの草稿を再考するには、その成立の経緯を具体的にたどってみなければなりません。
1)研修講演会の歴史、
2)今回の講演会の位置づけ、
3)その準備体制。

以上を受けての、
4)僕の意図、講演草稿、そして実際の講演、更には、
5)その事後の感想、つまりは、これを契機に僕が考えるべきと思ったテーマ。

こうした一連の過程の中にあの講演草稿を位置づけないと、一面的に読まれたあげく、誤解が生じかねないということになります。
また、現場では、配布された草稿と委員会が準備した資料を読みながら聞いていただいているという前提で、草稿をかいつまんだり多いに端折ったり、聴衆を退屈させない為に笑いをとることを狙ったり、聴衆に阿たりといったことが繰り込まれています。脱線なども多くありました。

従って、講演を耳で聞いただけであれば、これまた誤解を生み出しかねません。話を聞いた後であれ草稿を読んで頂ければ、僕の実際の発言と書かれた内容とを総合的に理解していただくこともできるのでしょうが、はたしてあの聴衆のうちの何人があの長い草稿を読んでくださるか。書き手が期待するほどには、人は他人の書いたものを読みはしない、とりわけ大学教師もしくは研究者というものは、自分の利害に関係しない、つまり専門外の書き物を読むというのは予想以上に少ないような気がします。

そういうわけですから、講演の冒頭で是非とも、あの講演会の成立の過程、とりわけ配布物と僕の話の関係などを明確に説明した上で、話を展開すべきだったのではと、後悔しています。勝手に分かってくれるだろうと思い込んで、ついつい基本的な確認を怠るというのは僕の悪癖なのですが、それは言い換えると、公的なことをそれとして対応する厳しさを欠いて、前提となっているわけでもない「暗黙の了解」に頼ったり、曖昧な共同意識を押し付ける、言わば「日本的」関係術、あるいは日本的場の詐術が、僕の行動様式にはっきり刻印されているということなのでしょう。
がともかく、先に提示した流れにそって、考えて見ます。

1)今回の講演会は当該大学のある部局の人権委員会が主催する研修会で、全学的に行うことが奨励されて(或いは義務づけられて)いるようです。対象は教員、大学院生が中心で、もちろん、他にも学生や事務職員なども参加できるようなのですが、学生や事務局からの参加は実際上、少なかったようです。

 二年前(それ以前がどうであったか僕は聞いていません)はこの学部の教員が、学生を対象にしたアンケートの結果を材料に、大学における被害の実情や学生たちの感じ方、そしてこの問題に関する様々な情報を網羅的に話したようです。昨年は、アカデミックハラスメントの被害者で裁判を戦い、その過程で、組織を立ち上げた女性の講演がなされ、生々しい被害者の話は衝撃的だったようです。しかし僕は自分の経験に照らして、当事者、とりわけ被害者が第三者にその「痛み」を伝えるのはすごく難しいだろうし、第三者もそうした話を聞くのは圧迫感を否めなく、ついつい受け身になって思考が停止してしまい、あげくは反発が生じたりと、証言によって与えられた衝撃を真に生かすのはなかなか難しかったのではと想像してしまいます。

そしてなるほど、今回のアンケート結果にはその間の事情が少し反映していそうな兆候も見られます。僕の講演は「無理なく聞けた」の類です。

2)そこで、今回は少々趣を変えて、必ずしもこの問題に詳しくなくても、別の視点から話題を提供できそうな人ということで、僕にお鉢が回ってきたようなのです。

つまり、話者も聴衆も同じような立場で、気楽に、ものを考える空間になるように、いわば「だし」として僕の話が位置づけられていたということになります。但し、以上はあくまで僕の「勘」あるいは想像の色が濃厚なのですが、少なくとも僕はそのように考えて準備をしました。

そして、アンケートに見られるようにそれが成功したふしもあります。ところで、企画者の最初の心積もりでは、複数の話し手が意見を交換するような形が考えられていたようなのですが、それがいろいろな理由で難しいということで、最終的には僕一人で話す形になりました。ともかく、意見交換できるのが望ましいというのが、先方の希望でした。ですから僕は断定調、告発調はできる限り避け、例えば、僕の限られた世界から見た大学等など、といったように、何重にも留保をつけるべく努めました。

尤もそれは、優柔不断でいつまでたっても核心にたどり着かない僕の書き物や僕の思考のスタイルそのものなのですから、普段と異なることをしたというわけではなかったのですが。

3)委員会のメンバーは、かなり真剣に「実りある空間」にするための工夫をしていました。既にこの学部にはキャンパスハラスメントに関する相当に綿密な冊子があって(このパンフを見た際には、よくできていることに驚かされて、これなら僕の付け焼刃的な話など不要じゃないかと思うほどでした)、問題点や学内での問題解決の手順も懇切丁寧に記されており、被害者が気軽に相談できるように工夫されています。しかも、実際に起こった事件を粘り強く解決した事例などもあるとのことでした。

僕はそうした事情をある程度把握したうえで、話せそうな内容を素描した文章を送りました。すると、先方から、その内容で差し支えないだろうとの返事があり、それを受けて、さらに考えを練りながら最終的な草稿を作成し、事前に送りました。その草稿を委員会のメンバーが読んだうえで、僕の議論の要点に関連しそうな本を手分けして読み、それに基づいて詳細なハンドアウトを用意してくれていました。

アンケートを見れば、そうした努力が正当に評価されているようで、僕がそれを準備したわけでもないのに、嬉しくなりました。こうした裏方の努力が認められることは少ないという印象があるからですし、そういうものが正当な評価を受けるようになれば、この社会も少しは風通しがよくなるのではと思っているからです。

ともかく、そんなわけですから、日本の大学におけるハラスメントの具体的な事例や、当事者や社会運動家や識者の主張や議論はそのハンドアウトで網羅的にカバーされていました。それに加えて、僕の大部な講演草稿が用意されていたわけで、その全てに目を通してもらえば、僕の話は不要と言っても過言ではない状況でした。

4)僕が草稿で最も留意したのは、問題を大学総体の問題、さらには、大学と社会との関わりという大きな背景に置きなおすこと。いまひとつは、被疑者になりうる己というものを意識して、そうならない為の意識のあり方のヒントらしきものを差し出せればということでした。

そして、口頭での講演は、ハンドアウト、講演草稿が配布されていることを前提にして、それに少しばかりの味付けをする程度でした。先にも記したように、とりわけ意を用いたのは、参加者が告発されているような感じを持つことなく、僕の「体験」「感じ」「理屈」を聞きながら、大学の現状、個々人のそこにおける位置について、再考する契機を差し出すということにつきました。個人や集団が自律的に考えるためのたたき台というわけです。

5)したがって、僕の草稿に対する「メール2」のような批判は、僕からすれば的外れと言いたいところなのですが、批判者に責があるなどとは到底言えません。草稿だけを読んでいただいた必然的な結果だといわねばなりません。

そればかりか、当日の参加者の「批判的な」コメントとも合わせて、じっくり考えてみなければと思っています。そういうわけですから、この文章の意図は、そうした批判に対して向き合うことにあるのですが、それは決して単純なことではなく、僕の思考スタイルの根幹にも絡んできそうな気もします。がともかく、感じるところを書き記しながら、批判に向き合うべく努めてみます。

① 先ずは、「当事者」の感じ方と、「部外者」或いは「評論家」との距離、齟齬の問題がありそうです。僕は決して評論家のつもりなどなく、自分が生きてきた大学について考えてものを書き、そして話しましたが、その際に自分の内部と外部から「己」に二重の光をあてるように心がけました。つまり、個人的な体験を特権化することなく、「主観を通しての客観化」を目指しているということがありました。それに、今回の中心的な問題であるハラスメントに関しては、やはり当事者とは言いにくい。

但し、この非・当事者意識というものには相当に気をつけないといけません。僕はこれでも一応教師なのですから、ハラスメントの潜在的加害者であるはずです。また、非常勤講師、嘱託職員として、大学で相当に嫌な目 、執拗な敵意にあっているわけですから、被害者という側面も持ちあわせています。なのに、その僕がハラスメントについては当事者意識を持っていない。これにはなかなかに微妙な問題が絡んでいるようです。

教師としての当事者という件については、草稿で相当に論じたので、ここでは、被害者としての当事者意識の欠如が何によってもたらされているのか、とりわけ、男性(職員であれ教員であれ学生であれ)がハラスメントの潜在的被害者という形で自らを認識することが少ないのは何故か、その点に限定して触れてみたいと思います。

集団の中での「いじめ」というのは男女を問わずどこにでもあるでしょうが、この社会では男性と女性とではその「いじめ」を受ける頻度や程度が異なるということが先ずあるのでしょう。したがって、男性の場合は実際に「許せる」範囲であったり、あるいは、実態はともかく当人はそのように捉えるのかもしれません。しかし、それだけではないはずです。男性だって時には相当に執拗でひどい「いじめ」を受けます。なのにその場合でも、稀な例を除いて、それも冗談めかして口にする以外には、それを当人が「ハラスメント」とは呼ばないような気がします。

それはおそらく、関係の流動性がもたらすのではないでしょうか。男性はたとえ「いじめ」にあっても、いつの日かそれを転倒する可能性があります。「出世」すれば、立場が変わり、逆にいじめる側にまわることができます。それはいかに僅かな可能性であれ、可能性としてあるということが、彼らの意識に大きく影響します。

男性はそうした職場文化を内面化していそうな気がします。しかも、その男性の下には女性がいて、その女性が男性相互の競争を支えているわけで、意識してであれ無意識であれ、共同利益を守るためにはそうした階層構造を破壊するわけにはいかず、いわば、「いじめ」の加害者と被害者とが同じ土俵に立ち、その土俵を守っているというわけなのでしょう。

そういうこともあって、男性は自らを「問題化」することを忌避するのでしょう。被害者となれば、徴付きになる。つまり普通でなくなるわけです。それは、自らの才覚の欠如の証明とも見なされかねず、上昇の可能性を塞いでしまいかねない。そこで、たとえ相当に厳しいハラスメントを受けても、その被害をその名で呼ぶことを避ける。つまり、「いじめ」の被害者であっても、「ハラスメント」の被害者ではないという自己認識を保持するのでしょう。

もちろん、ただただ耐えるというわけにいかず、いつか何倍かにして返してやるというわけで、権力志向になったり、或いはまた、夜の屋台で仲間内だけでほらを吹きあったり、愚痴をこぼしたりでなんとか済ますということになりがちなのでしょう。つまり、問題を公的なものでなく、個人的なものに限定するわけです。

個人的な怨恨は累積しても、男性優位という階層構造を保持するために、それを公的なもの、システムの問題として意識することを避けることになるのでしょう。

おそらくは、そういう一人としての僕は、少なくともハラスメントの被害者としての当事者意識というのは持ち合わせてはいないわけです。

それに対して、ハラスメントという名で呼ばれる行為の被害を受ける当事者、或いはその可能性を強いられた当事者、とりわけ関係の流動性(つまりは転倒の可能性)を奪われている「女性」職員や大学院学生の感じ方というものがあって、僕のスタンスとは相容れない。

そこで当然のごとく、「当事者」は、僕の草稿に対して手厳しい。客観をてらったり、問題をできる限り広げようとする書き方は、当事者からすれば、逃げ、ごまかし、と見えるようです。あげくは、男の「腰を引いた」ええかっこ、問題の歪曲、アリバイ証明などと続きそうです。

② 次いでは、僕の書き方の幅、あるいは揺れという問題もあります。
先ずは、僕自身における草稿の位置づけの揺れの問題があります。先にも記したように、僕は講演会にまつわる一連の過程に位置づけて草稿を書いたことは確かなのですが、その一方で、この草稿をこの講演会に限定して書いたわけではなかったようなのです。だからこそ、実際に講演会に参加されない友人知己にもその草稿をお送りしてご一読をお願いするなんてこともしたわけです。

そこに過誤が、或いは少なくとも、一貫性の欠如があったといわねばなりません。もし草稿をそれ自体として自立したものにするつもりであれば、少なくとも、その位置づけを草稿自体で明らかにすべきでした。例えば、ハンドアウトの内容について簡略にでも触れるべきだったし、草稿(あるいは講演会)の準備過程についても記すべきでした。

そうすれば、僕の視野に入っている問題の全体の中で、草稿が取り扱っている内容の部分性が明らかになったでしょうし、僕が取り扱うことを意識的、無意識的に避けている部分も明らかになったかもしれません。

何よりも、「懲りない人たち」とでも呼びうる人々がいること、そして、そうした「懲りない」人々に対していかなる対処の可能性があるのかについても、一言あってしかるべきであった、と遅まきながら思います。それが看過されている、少なくとも明示的には語られていないことは大きな欠落といわねばなりません。そのあたり、批判メールやアンケートの一部が触れている通りだと思います。

③ というわけで、僕の草稿と語りの対象は相当に限られていたわけです。なのに、それが明示的には語られていない。
僕は何よりも、教員、それも男の教員で、しかも僕もそこに含まれるであろう「下手をすれば罠に落ち込むかもしれない」けれども「更正可能であるだろう教員」に向けて草稿を書いたようです。

僕にはこれまで対人関係において数々の決定的なミスをして他人を傷つけてきたという悔いがあり、そうした己を参照対象として草稿を書いたのだと、後になってつくづく思い至りました。つまり、僕は「被疑者候補」であり、さらに言えば、「前科持ち」なので、ついつい被疑者、つまり己に対して甘くなっているかもしれません。「確かに僕は前科持ちでいまだに被疑者でしょうが、そんなに悪い人間ではありませんよ」といったところでしょうか。

その一方で、僕は非常勤講師、あるいは嘱託職員として教員に対して、告発者的位置に身を置いてものを書いたり話をしたりもすることが多く、オブラートに包んでいるものの、大学の制度、とりわけ教員に対しては相当に批判的なのですが、但しその批判対象は自分と無縁ではありえません。僕がまだ若かりし頃に専任の教員になっておればそうなっていたであろう己の可能態というものもそこに含まれていて、僕の批判は他者にだけ向けられたものではありえません。いつだって、批判は自分に返ってくる、そうした自覚を僕は大事にしているつもりなのですから、草稿はそうした自分に対する自戒の意味合いが強いし、自己と自己との対話的な要素もあり、告発とは相当に距離があります。

従って、そこに腰を引いた「微温性」、あげくは、容疑者弁護の色を読みとる人がいても不思議ではなさそうです。

④ しかも、観点のこうした揺れもしくは二重性というものは、僕の視点の核心的な部分にも孕まれていたものなのでしょう。あらゆる人が権力の網の目に絡め取られており、それを自覚すべきである、というのが決して珍しいわけではないのでしょうが、僕の主張の核心の一つでした。

 しかし、それはあくまで僕固有の生き方を検証したうえでの、一種の「覚悟としての認識」に他ならず相当に個人的な色合いが強いものですから、そうした個人的な「心情なり願望」を無限定に一般化して「普遍的な事実」と見なすのは甚だ危険です。ですから、そのあたりの危険性については草稿でも触れているはずなのですが、しかし読者がそれを意識にしっかりと刻印できるほどの強い線で表現されていないようです。書くこと、表現することの難しさということもあるのでしょうが、実はむしろそういうところに、公私の弁別ができないという、僕の書き物のみならず生き方の特徴が反映していそうなのです。

それこそは僕のスタイルの強みであると強弁したい気持ちもないわけではありませんが、ともかく、そうした僕の本質的な曖昧性、弱味のひとつが露呈してしまったことは否定しがたいところです。

  ついでに言えば、僕のいまひとつの問題も垣間見られます。事物や事件の直接性、その暴力性というものを忌避しようとする傾きが僕には強くあるようなのです。問題や事件というものは実際の現場では、恐ろしい暴力性を発揮する。それを事後的にいろんな角度から分析して問題の要因、さらには解決への方策を指摘することは可能だとしても、それでもって、既に生じた現場の「裂け目」を埋めたり、癒したりすることはできそうにない。そうした事件の現場で生じるのは、怒号であったり、泣き叫びであったりで、分析などとは全くの別物であるにちがいありません。

そういう事態に僕は怯え、回避しようと努めているようなのです。その代わりに、それを心理的に分析したり、システムの問題が引き起こしたものだと理解することで納得しようとする。それは必ずしも他人の事件に限られず、僕自身の事件、つまり僕が被害者の場合であれ、僕は同じような対応をしがちです。それは僕が在日朝鮮人として生まれ育ったことにも大いに関係していると僕は考えています。

というのも、僕のような出自であれば、成長する過程で本音を出せば、しょっちゅう泣き叫んだりしなければならず、そんなことをしておれば人格崩壊に至るであろうことをまだ幼い頃に既に薄々感じ取って、逃げを打つ「術」を身につけてしまったのではないか、というのが僕の理解なのですが、実のところは専ら僕の生まれつきの性格なのかもしれず、それを弁別することは僕には難しいのです。
ともかくだからこそ、僕は幼い頃から心理的な代償行為をいろんな形で継続してきたようで、その延長で、ものを書いたり、話したりでもって己の精神安定を図っているのですが、しかし、それはあくまで代償行為にすぎず、僕はそのことを重々承知しながら、それが惰性でもあり、意志でもあるというようになってしまっている。

そうした生きる術あるいは心理的な詐術をあくまで自分にとどめておけばなんてことはないのですが、それを理屈で固めて、普遍的に有効であるかのように話したり書いたりということは、ある意味で「現実」や「事件」や「事物」の歪曲ということになりかねません。

 僕のような議論では決して救われない人々が実際にいるのに、それを無視して僕の議論が組み立てられているようにみえかねないのです。

世の中には絶えず被害者の立場に追いやられるような人がいるし、ある事件で一生の傷を負って、それ以降はその傷と格闘することが人生それ自体になってしまう人もいます。或いは、ある局面に限れば全くの被害者という場合もあって、その局面においては、「権力の網の目」と言う言葉自体が無効だし、下手をすれば被害者への攻撃とさえなるでしょう。そこまでいかなくとも、そうした言葉は、たとえば「みんなトントン」といった具合の価値判断停止を称揚しかねず、それ自体は一種の生きる知恵なのでしょうが、被害者に対しては、第三者的なアリバイ証明に堕してしまう可能性を孕んでいることを否めません。

そういうところを草稿の批判者や、講演参加者のコメントが突いているのではないでしょうか。「具体性を欠く」のは、その具体を書いたりしゃべったりすると、自分が「はしたなくなる」のではなどと、よく言えば「慎み」、悪く言えば、「自分を曝すことに対する怯え」が作用した結果であり、そうした剥き出しの己を差し出して、その責任を負うことを回避しようとする弱腰、無責任ということなのかもしれません。

したがって、僕の講演草稿や講演そのものに対する批判は、おそらくは一部の誤解を含んでいるのでしょうが、その一方で大きな正しさを備えているようです。少なくとも、草稿の書き手、講演者としては、そのように受け止めなければと思います。では実際にどのように受け止めることが可能か、ということになるのですが、ここでもそれを僕個人の問題に引き寄せてしか語れそうにありません。

⑤ 自分がいまだに解決をつけるに至っていない問題に連結して考え、僕にとっての長年の問題解決への手がかりにできるのでは、というわけです。

それは、「被害者の声」が非・被害者に届くかという問題です。具体的には、被害者の声が第三者たる僕に届くかという問題であると同時に、僕の言葉が他者に届くかという問題でもあります。これは、僕にとって躓きの石とも言うべき問題です。

例えば、さまざまな事件によって、人生に決定的な傷を負った人々の証言、あるいはそういう人々自体を前にすると、僕は殆ど途方にくれます。そうした事件、そうした存在をそのまま受け入れてものを考えたり生きたりできるか、或いはまた、そういう人々の「傷」を担えるか、その「癒し」に関わることができるか、次々と自問が続きます。

もちろん、僕は現実に苦しんでいる人、それがいかに身近であっても救ったり、少なくとも、その苦しみを共に担ったというような経験があるわけでもありませんから、そうした自問には端から答えが出ています。アウシュビッツの生き残りの人々、或いはそこで惨殺された人々といった極端な例を引くまでもなく、そうした人々はこの世の中に数多くおり、僕は何もできないわけです。

そこで、そんな「ええ格好」言っている暇があったら、お金を稼ぐ算段でもつけろ、という声が僕の奥から出てきます。その通り、僕は生きねばなりません。平々凡々の日常を生きねばなりませんから、僕はそうした事例を括弧に入れて生きざるをえないと思い、生きようとしています。括弧に入れるというのは必ずしも、それを意識から排除することではないのですが、しかし往々にして惰性の力もあって、次第にその影は薄くなり、ついには、まるでそんなことは「なかった、ない」かのように生きることになってしまう。

諦念などという言葉を反復しつつ、それを怠惰のカードにしたりもします。それが楽だからなのでしょう。そして、その惰性の助けを借りて、自分の日常の行動や思考に安定感を保持しようとする。普通人の健全な常識というのが頼りの綱です。しかし、その一方で、不安を抱え持たざるをえません。常識人というのは、必ずしも安定した人間とは言えません。

抑圧した何かが、心の奥底で蠢いていて、それを少しでも刺激するような事態が生じれば、むしろ攻撃的になります。「自分の平凡な人生だけでも手一杯なのに、「異常」な事件まで頭も手も回るわけがない」といったように、あげくは、そうした事件を「蒸し返す」人々への「嫌悪感」まで抱くようになるわけです。このように、押し隠した不安は他者への攻撃によって、かろうじて抑えられる。そういう存在の一人として僕がいるわけです。

しかも、そうした関係の断絶の可能性は、僕自身にも跳ね返ってこざるをえない。そうした「疑惑」は僕自身の語りかけのスタイルにも影響を及ぼすのです。自分の声が他人に届くかという疑心にもつながるのです。例えば、僕が自分の置かれた条件での僕の思考や心情について書いたり話したりしたとして、そういう条件に置かれたことのない人たちに、僕の言葉が届くのだろうか。そればかりか、「被害者の声」を消去して生きている僕に、はたして僕の「不遇」を云々する資格があるのか。さらに言えば、僕が不幸な人の声を聞く耳を持たないとすれば、僕の声が他人によって聞かれないとしてもそれは当然のことではないか、ということにもなります。

そのあたり、僕には確たる答えがない。ないのに、自分の感じ方、自分の生き方を表現したいという気持ちを捨て去ることができない。書くことでもって自分を救いたい、自分の人生を全うしたい、それがなければ、僕の人生はついつい閉塞感に包まれるし、やせ細るのではなどと殆ど恐れている始末なのです

そこで、己の「不遇」なるものを解きほぐす為に書き、自らが納得しようと努める。少なくともそうした努力の過程を自分の人生の喜びに転化しようというわけで、書き続けているのですが、それはいかにも腰の据わらないものにならざるを得ない。

事件の直接性を回避しながら、曖昧な「自己肯定の欲望」を実践するという狭い隘路をぼちぼち歩んでいるといったところでしょうか。逆に言えば、僕の自己肯定の欲望、納得の仕方の道はいつだって、事件の直接性に脅かされているということにもなるでしょう。両者の間に橋を架けることができればいいのでしょうが、難しい。

そういう感じかたもあって、僕は「正しそうな」ことを言うのに恥ずかしさを覚える。その結果、ついつい安手のギャグに頼る。それで恥を紛らわしているつもりのようです。「笑い」を入れないと書いた気がしない。嘘をいってしまったような後ろめたさがつきまとう。であるのにその一方で、肝心なところでは、とりわけ、とことん突き詰めてはいない問題に関しては、ついつい「出来合いの正義」に頼ってしまう。

これは僕個人にとっては大きな問題です。なんとか、けりをつけたいと思っているのですが、今のところ、それは望み薄な感じが強く、何を書いても話しても、他人にとっては迷惑なだけの独白のリフレインになっていそうなのです。

実はここから、事件とそれを語ること、体験と体験を語ること、証言と作品の相違へと話を展開することで、僕の草稿に対する批判に向き合うことを考えていたのですが、その素描を試みたところ、今のところではとうていまともなものは書けそうにないのが明々白々な体たらくで、問題を先送りして、このあたりでこの話は一旦ストップするしかありません。

⑥ ついでは、いわゆる啓蒙的な事業、イベントや書き物に関する問題です。乱暴な言い方をすれば、僕は「人権を云々する人は胡散臭い」と思ってしまいがちで、そうしたイベントに足を運ぶのは苦手だし、告発ものを読むのも苦手です。尤も、それは決して僕だけのことではないようで、若い人はもっとそうした傾向が強くなっているふしがあります。

おそらくは学校教育制度の中で、義務的にそのようなイベントに参加させられてきた結果、つまりは、人権教育の果実が「人権アレルギー」というような皮肉なことになっていそうなのです。

というように、僕は決して「人権派」とは言えないのですが、その一方では、やはり人権尊重なるスローガンの路線上でものを考えたり、話したり、書いたりしている。

何故そうした矛盾が生じているのでしょうか。少なくとも、二つの問題があります。一つは、若い頃に「社会運動」的なものに関わったことのある人間の一人として、その「運動」の弱点を、とりわけ、それを担っている人(当然、僕をも含めてですが)の人間的欠陥を目にせずにはおれなかったことがあります。日常的に他人の人権を著しくスポイルして恥じない人間が人権を語るという戯画、それに辟易してきたということがあります。当然、そうした運動の「虚妄」を取りざたしたくなってしまうわけです。

人権はなんとしても尊重されるべきという気持ちと裏腹に、人権を語りたくないという気分もあって、人権を云々する人には警戒心を抱くというわけです。その一方で、「運動」としてではなく、日常の中で、人を尊重することが可能か、ということを細々と実験しているつもりではいるのですが、そんなささやかな意図が効力を発することなどなく、僕のサボタージュのアリバイ証明と言われても返す言葉がなさそうです。さてどうすればいいのか、と途方にくれているわけです。

いまひとつの問題は、人権一般の語りと当事者の不幸との関係の問題です。一般化された語りというものは、当事者からすれば、「私固有の不遇感」をオミットして語られているように感じてしまうということがあるような気がします。個々の事件での被害の内容はなるほど人権侵害といった言葉に帰着するにしても、個々の被害者の経験はそういう言葉で言い尽くすことなどできはしない。

彼、彼女は加害者の具体的な声、顔つき、あるいは周囲の「空気」で苦しむ。それは当人にとっては個別的なもので、苦しみもまた掛け替えのないものである。そうした苦しみが心身に刻印された被害者にとって、人権云々は他人事である。少なくとも「己の苦しみ」を表現したものではありえないし、それを癒すものなどではさらさらない。そこで、「僕の不幸」を「僕」以外のものが語ることは許されない、僕の不幸は僕固有のものである、といった傾きが強く出てくる。不幸な人間の狭量さとでも呼べばいいのでしょう。

これは例えば、僕がハラスメントについて大学が抱える一般的な問題の一環として話すと、「当事者」が違和感を持つのとよく似た事情がありそうな気がします。つまりは、僕の草稿に対する批判者とよく似た感じ方が僕にもあるわけで、その点に関して僕は潔白を主張する資格はないということになります。

ともかく、人権を口にする人、耳にする人、そのどちらにも、人権とは、自分の人権のことであり、他人の、それも匿名の他人の人権など糞食らえ、といった感じ方が居座っているのではないでしょうか。こうした事態に対して、啓蒙的人権運動が対処できるか、僕は甚だ疑問ということになってしまうわけです。

とはいえ、今回の講演で少しは感じ方に変化が生じそうな気がしています。「人権」が流行していた時期には、その種のスローガンに背を向けても、それはそれで個人的には何らかの意味があったとしても、現今のように人権なるスローガンが廃れてくると、その流れに身を任せているわけにはいくまい、などと思わせられました。僕は僕なりに、かつての人権なるスローガンをリニューアルして新しい発想、行動の仕方、或いは考え方を工夫していけないと危険だなあ、それぐらいの事は世代的な責任でもあるだろうというわけです。その際に人権なるものをもう一度解体して考え直さなければならず、それはおそらく「自分」を考え直すことと別物ではないはずです。

というわけで、人権に関する啓蒙的な催しなど「軽蔑」している人間がそういう催しで「偉そうなことをしゃべる」という経験、それはやはり何かの契機になるはずで、有難いことだと言いたいと思います。何だってやって見るものです。但し、それが他人の迷惑にならないという条件付なのですが、それがいたって難しいようです。

⑦ ついでに余談。この大学の構内に足を踏み入れるのはすごく久しぶりでした。僕は大学生時代、すごい劣等生だったので、この歳になって言うのは憚られることですが、そのことがいまだに弱みになっているようです。大学生時代の経験は僕の人生を決めたという思いがあって、それは僕にとって掛け替えのない時期なのですが、それと現実の特定の大学とは殆ど関係がありません。

学生としては大学から何も学ばなかったし、学生らしいことは何もしないままに、形だけ卒業したといった感じがあって、そのせいで、僕が通っていた大学は、僕が足を踏み入れる場所ではないといった感じがあるようなのです。二年前に下の娘がその大学を受験し、入試の合格発表の際にも、娘二人と一緒に出かけておきながら、門前で自動車の乗り入れを拒まれたこともありましたが、娘達だけを発表現場に行かせて門前で待つことにしたのも、そういう弱みが作用していたような気がします。

しかし、今回は一応は招かれたという大義名分があったわけですから、そうした心理的な重荷を少しは免れることができました。堂々となどとは到底言えませんが、それなりに懐旧の情に浸る機会を得ました。

普段なら、大学から大学へと走り回らねばならず、落ち着く暇などありません。とりわけ木曜日は忙しい。ある大学で午前中2コマ、その後車を走らせて別の大学へ。車を走らせながら弁当を口に放り込んで、到着するや否や、立て続けに3コマの授業、つまり一日に5コマの授業をこなしているのです。

しかし、この講演会当日は、午前はともかく、午後は休講にせざるをえず、そのおかげで、時間に相当の余裕が出来ました。時間の余裕というのは本当にいいものなのですが、僕はそういう余裕に慣れていないから、不思議なことに不安にもなったりもします。心がざわめくのです。その感じが新鮮でもあるのですが。

朝から、その恩恵に浴しました。徒歩で1時間足らず、歩いて通勤しました。秋の朝の散歩は実にいいものです。とりわけこの秋の季節には、木々を眺め、少しひんやりする空気が心身に刺激を与えてくれます。ここ数年、そういうことにすごく感激するようになっています。自然の恵みを僕でも味わうことを許されている、という大げさに感激までしたりするほどなのです。それに、朝歩くと、胃腸も動き出すし、体に空気が入ってくる感じがいい。そしてその空気でたまりに溜まった疲労が外に出て、心身が洗われていくような感じまで。

午前中の授業を終えて、昼食も珍しくゆっくり食べて、講演会の会場の大学へ。たっぷり2時間くらいの余裕がある。構内はすっかり様変わり。新しい建物が立て込んで空間が狭くなったような印象が圧倒的でしたが、それでも、昔の土地勘はそれなりに有効で、文学部の建物も昔と変わらず、安心しました。それに勇気を得て、学生時代に劣等性の僕にでも不思議なほどに親切にしてくれていた先輩で、現在仏文科の主任教授をしている方を訪問する気になりました。

実はその方には、先日もひょんな拍子にお会いして言葉を交わしていたということもあったのです。おずおずと向かうと、その研究室はまさに昔の主任教授の部屋でした。昔は随分と敷居の高い部屋でした。

あいにくと留守で会えなかったけど、それはそれでかまわない。ぼけっとしながら、時間を過ごしました。次第に少し緊張してきたから、口を動かして準備運動とばかり、当該学部の教授をしている後輩の研究室を訪れることに。彼とは学生時代には面識がなかったけれど、何回か会って言葉を交わしたことがあり、僕は好感を持っていて、邪険にされはしないだろうと思ってのことです。予想通りに彼は親切にもてなしてくれて、四方山話に花を咲かせて舌の回転の準備は完了。

講演会が終わってからも彼を含めて5人で居酒屋へ。大いに飲み、その後にはカラオケまで。すっかり酔っ払って、翌日は早朝サイクリング通勤の予定が目を覚ますと既に6時。それに二日酔いもあって、自転車通勤は断念。電車から見る外の天気は見事ですごく残念だけど、愉しい事をいくつも同時になどと欲張ってはならない、と自分を戒めながら、二日酔いに苦しみながら授業をこなしたというわけでした。

以上、ここでもやはり問題は棚上げ状態にとどまっていますが、まあ、現時点での総括というわけで、ご報告まで。読了、ご苦労さまでした。


玄善允の落穂ひろい5-1〈パワハラ、セクハラ、大学の内部1)

2018-03-14 17:48:16 | 玄善允の落穂ひろい
 7,8年前(現在からすれば15年以上も前)に昔の教え子の教員に依頼された講演会であらかじめ配布した講演草稿と、その後の反響と総括めいたメモをあわせて掲載している。

 できの悪い学生として在籍していた大学での講演ということで、少なからず緊張し、あらかじめ草稿を用意していたのだが、まあ、気楽に話せたし、反響もそれなりにあった。しかし、納得のいくほど突き詰めた議論が展開できたわけではなかった。

 ついつい聴衆に阿てしまうという僕の性格的な欠陥もあるだろうし、言葉が他人に通じるものなのかと、常に疑心暗鬼が付きまとう僕の言葉の弱さが歴然としているような気がする。

 ぼくにとっての生涯の問題なのだろう。僕が持ち合わせていることと言えば、ほとんど言葉しかないのに、それさえも十分に信じられないというのは、何とも情けないのだが。


               大学の構成員の多様化と権力関係の細分化
                            
 

 以下の文章は、今回の講演草稿です。この種の話をたくさんの人の前でするのに慣れないこともあって、大いに不安なので、書き下ろしてみました。要するに、私にとっての覚書にすぎません。

 従って、繰り返しがあったり、文体の安定性を欠いたり、量が嵩んだりと、文章として完成したものではありません。しかし、おそらくは脱線が多くなるに違いない私の話の筋を理解して頂くには、多少の助けになるだろうと、レジュメ代わりに配布していただくことにしました。ご理解のほどをお願いします。

1.はじめに

幾つかの留保

 私は今回の催しが主要な対象としている「キャンパスハラスメント」について特に詳しいということは一つもない。しかし、私の大学との関わりには少し特殊なものがあって、大学の現状について、他の人々とは趣を異にした視点を提示できるかもしれない、といった甚だ頼りない実感に頼ってお話をしたいのだが、それに先立って、お断りしておきたいことがある。

 私の話は、もっぱら経験に多少の想像と理屈をまぶしたくらいのもので、そうした「実話」が往々にして陥る欠陥を免れていそうにない。おいおい理解して頂けるだろうが、私の大学との関わりは決して日の当たるものではなかったという「感じ」があるから、いきおい私の話の基調はその後遺症、つまり僻みや妬み、さらには怨恨の色に染まっていそうである。そのあたりを斟酌して、多少割り引いて聞いていただいたほうがよさそうである。

 さらに今ひとつのお断り。私は、これまでに私の目に入いってきた数々の問題が制度やシステム全体に通底しているものと見なして話す。問題に焦点を当て、否定的側面に重点を置いて話さざるを得ない。但し、それは他人事としてではない。相当に薄汚れた中年かつ三文教師の私としては、私自身がこれから問題にするはずの様々な危険因子が自分のどこかに潜んでいて、いつの日か本性を現して、他人に迷惑をかけるかもしれないと、少々不安で、警戒したいと思っている。しかしながら、これは生来のダラシナサに加えて、歳とともにますますメリハリをなくしつつある己を痛感している私一個の覚悟に過ぎず、そうした問題が、誰にでも、また、どこにでも露呈しているなどと主張するつもりは毛頭ない。

 従って「教員だから、男だから、私は被疑者なのか、とんでもない」といった反応が起こるとしたら、それは私の本意ではないし、それは私の目の偏向に加えて、私の話し方の拙劣さがもたらしたものであるに違いない。予めご容赦をお願いすると共に、忌憚のないご批判や、質問を頂いて、私の「実感」なるものの修正を試みるのに吝かではない。

 システムや制度、そしてそれによって形成された集団的なメンタリティーの弱点が土台になって、必ずしもそうした性向を持たない個人でさえも、ついつい「穴」に嵌る。こうして被害者と加害者が発生する。

 前者は泣き寝入りするか、或いは、逡巡の果てに声をあげる。すると、後者は、驚き、時には、間違いを認めたり、或いは、事を収めるために不承不承ながらも謝罪して、表面的には一件落着となる。しかしたいていは、居直り、あげくは、反攻に出て、被害者はさらに苦しみに突き落とされる。その怒りが、ついには加害者を窮地に落とし込むこともあるが、被害者がだからといって癒されることは希であろう。

 そうした誠に人間くさいドラマを生み出す問題のひとつとして、大学の制度やシステムやメンタリティーがある、それについて話したいのである。

自己紹介

 さて、私は在日朝鮮人二世(そのことと今回のテーマとの関わりは後に触れる)で、大学と大学院を終えてからは、長らくフランス語そして時には文学の非常勤講師として生計を立ててきた。これまでに教えたことのある大学は、国立1、公立1、私立10であり、そのほかに塾や予備校でも英語を長年教えたことがある。ある時期には、週に大学で26コマ、それに加えて、塾で一日に2時間半を3コマ、都合7時間半をぶっ通しで教えるという馬鹿げたことをしていたこともある。

 そういうハードさに苦しんでいたところへ誘いが舞い込み、これ幸いと飛びついて、数年前からは、相変わらず非常勤講師を続けながらも、その傍ら、ある私立大学付属の研究所で嘱託職員(事務長代理という肩書き)としても働いている。

 中途半端だけど、その分組織の拘束がない気楽なフリーター稼業を長年にわたって気取ってきた私にすれば、こうした中途半端な転職はなかなかストレスフルである。それに何しろ中年の手習いというわけで、事務仕事や先生方との様々な調整、さらには、学内の組織的手順といったことになかなか習熟できず、周囲に大いに迷惑をかけてしまう。ところが、世の中には奇特な人もいて、その方達の過分な助力を得てなんとか務めている。

 呼称も、時には先生(その大学でも講師として長年教えている)、事務長、そしてひょんな拍子に怒りに駆られた大先生には、「事務員ごときが、生意気な。黙っとけ」などとお叱りを受けることもある。

 大学関係者の中でも、こうしたステイタスの複数性、曖昧性は珍しいことではなかろうか。こうした境遇が故に、一般の方には見えないはずのことが見えたりするような気がするが、それでもやはり、見えないことも多々ある。

 例えば、私は教授会メンバーになったことがないから、「大学の自治の砦」の内実を知らない。また私はこの35年間、文科系、とりわけ、外国語・外国文学研究の学生の後に、専ら初級程度の外国語教員(昔でいう教養語学)として生きてきており、その他の領域の世界については間接的にしか知らない。例えば、キャンパスハラスメントが最も云々されやすそうな薄暗がり(例えば、大学院生と教員との関係)については当然のごとく甚だ疎い。また、大学院を卒業後に私が生息してきたのは殆ど私立大学であって、国公立の大学とはずいぶん疎遠になっていて、その変貌ぶり、或いは旧態依然ぶりについても、間接的な情報にとどまる。

 したがって、私の大学観は相当に偏向しているかもしれず、ここでも重ねて、御了解、ご寛恕をお願いしておかねばならない。しかし、外観や細部が異なろうと、私の経験はやはり日本の大学でのものに他ならず、日本の大学一般のそれとある程度の共通性は備えているはずである。その程度の信憑でもなければ話せそうにないから、そう自分に言い聞かせつつ本題に入ることにする。

2.大学の変化

大学と社会の関係

 私が大学に入ったのはあの大学紛争が華やかなりし頃、ちょうど東大で入試が行われなかったあの年、1969年のことである。それから既に35年が経過している。その間、社会は大きく変化した。それに加えて私のステイタスの変化もあれば、馬齢を重ねたということもある。というわけで、私に見える大学は多くの面で甚だしく変貌している。もちろん、第一には社会の変化があり、その社会と大学との関係の変化がある。

 社会と大学、大学教員相互の関係、さらには、教員と学生の関係の変化のわかりやすそうな例を挙げてみる。60年安保の際には、教員達が学生達と共に街頭デモに参加したり学内での共闘体制があったという。70年にも少しはそういう形が残っていたが、その時代にはむしろ教員と学生は対立し、教員は学生に責められる立場にあった。

 私が入学式で眼にしたのは、学生に追いかけられて逃げまどう教員の姿であり、しかもその直後には、今度は攻守ところを変え、機動隊の援護を受けた教員が懸命に学生を追いかけている姿であった。深刻な茶番劇で私の大学生活は始まったわけだが、今だって形は変わろうとも、よく似た茶番を演じながら生きているという感触が私にはある。いろんな経験を積み重ねても、私を初めとして人間や社会はさほど賢くならないものだ、というのが私の掛け値なしの実感なのだが、だからといって、それを粉飾したり、或いは逆に諦観を気取っても、生きる助けにはならない。

 そうした現実の中でもがきながら、少しでも風通しよくする努力をしながら、生きたいと願っている。何よりも、淀んだ私の内部に外部の爽やかな風を導きいれながら、この人生を楽しみたいと願っている。

 それはともかく、現在では、大学は社会に対して、とりわけ政治状況に対して殆ど声をもたなくなった。そして教員と学生、或いは教員同士の関係は、無関心ということで特徴づけられるのではないだろうか。一般に大学教員の教育への取り組みの改善が云々され、実際そうした努力が数々重ねられているにもかかわらず、そうした事実と内部にいるものの実感とにはずれがありそうである。相互に孤立している、これが私の実感に近い。学生と教員が共同行動を取るなんてことは殆ど考えられないし、教員が共同して社会に何かを働きかけるということもよほどに稀な例を除いて考えにくい。

 但し、こうした事態を専ら否定的に見なければならないという謂われはない。大学人も群れを成さず、個人として、あるいは一個の市民として社会に対するようになった、といった言い方も出来なくはないし、そこから、社会と大学人との新しい関係が創られるかも、と期待できなくもないのである。ただ、そうした事態、つまり、大学構成員個々の孤立化という事態が、否定的に働いていると思えるような側面については正確な認識が必要であるということにすぎない。

大学内の変化

 他方、大学内部に限って言えば、変化のひとつは構成員の多様化であろう。教員と学生だけで大学が成り立っているというのはよほどに昔の話であり、今や大学の構成員の多様化は著しい。学生の中には、学部生、大学院生、研究生、オーバードクターがいるというのは大して変わらないかもしれないが、開放講座など大学内で一般の人姿が頻繁に見られるようになったし、留学生や社会人学生の甚だしい増加という変化がある。とりわけ私立の場合は入試の著しい多様化もあって、学生の多様化は殆ど絶頂に達した観がある。

 例えば、大学紛争であれだけ批判され廃止の動きが出ていたスポーツ推薦どころかスカウト制度が今や競われている。というわけで、同じ試験に合格した学生、その意味では一定の同質性を備えた学生達だけが同じ時空で学ぶというわけではなくなっている。当然、彼らの大学像は相互に異なっているに違いない。

 また、教員の中でも、そのステイタスの多様化、或いは序列の細分化が生じつつある。特に私立大学では、従来の教授、助教授、講師、助手、非常勤講師に加えて、特別専任教授、客員教授、契約講師その他さまざまな名称があって、その名称の実態は各大学によって異なるほどである。

 他方、職員に至っては、今や、そのステイタスの多様化は前二者をはるかに凌いでいる。例えば、正職員、嘱託職員、パート職員、派遣社員、契約社員、その他。アウトソーシングの波は大学を、とりわけ職員を浚いそうな勢いである。雇用条件、雇用形態が異なるだけでなく、雇用主が異なる。こうした状況は労働問題の観点から言って、深刻な問題をはらんでいそうである。

 大学の危機、とりわけ財政的危機が叫ばれており、人件費を圧縮しようとすれば、先ずは出入りの業者の経費、もちろんその人件費、そして本体の非常勤教職員の人件費削減が最も手っ取り早く、抵抗が少ない。少なくとも大学本体の労働争議という形にはなりにくく、責任を逃れることができそうである。当然、そこが集中的に狙われて、そのおかげもあって、本体の教職員は一次的に安穏を享受できる。しかし、例えそうしたことが実際に起こらなくても、可能性は常に潜在しており、両者の関係に大きな影を落としている。そればかりか、同じ空間で共に働いている人々の分断という現実は、大学総体の人間関係にも波及して当然であろう。

 尤も、その一方で、昔と比べれば教員、とりわけ専門が近接している研究者たちの共同研究などの活動は遙かに活発になっている。研究とは一人ですべきもの、といった考え方は古くさくなっているようである。この事実に眼を遣れば、彼らの人間関係は密度を濃くしているとも言えそうなのだが、先の分断とこの共同性の強化は、おそらく観点とステイタスの差異に由来しているのだろう。共に働く場という意味での共同性は薄れ、専ら限られた人々の志向のレベルでの集団性が強まっている、ということになろうか。

 そういうわけだから、そうした野心に燃えた「特権的」な人々にはよけいに下でうごめく存在が見えにくくなっているというようなことはなかろうか。或いは、見えはしても空気のような存在にすぎなくなっている。

 というように、この多様化は序列化とも絡まっており、権力の問題が大きく関わっている。そして実は、この権力問題こそは、細分化、序列化の進行によって、一層深刻化している。

3.大学像の多様化と権力関係

学生の多様化とは

 ところで、大学像の多様性について、手近なところで、私個人を例に出したい。在日朝鮮人である私にとって、大学は職業機会を得る場所ではなかった。そうした可能性は一部の学部(具体的には、医学部のみ。工学部は技術は国境を越えるという幻想がついえてからは人気がなくなったし、私の学生の頃には法曹界に入る資格もなかった)を除いて皆無だった。

 幼い頃から、大学を出て、それなりのステイタスの職種へという経路が塞がれていることを知っていた。そして現に、大学卒業年度には、学友たちには多数のダイレクトメールが殺到しているのに、私にはわずか一通だけが何かの手違いで舞い込んだくらいで、幼い頃から育まれた勘の正しさに驚いたものだった。そうした四方山話は拙著『「在日」の言葉』(同時代社刊)で詳しく記述しているが、私にとって大学とは、幼い頃から植え付けられた劣等感と帳尻を合わせる程度の自負を確認する為の場所であり、厳しいはずの世間に出るまでの猶予期間であった。そういう私にとっての大学像は、一般日本人学生と異なる部分が多々あったような気がする。

 そうした個人的事例を強引に一般化して言えば、学生の多様化とは、彼らにとっての大学像、つまりは彼らが大学に求めるものの差異となって現れ、少なくとも従来のようの形で、彼らを学生として一括することを難しくしているのではないだろうか。

 尤も、他方では、近頃、学生の均質化という感じもないわけではない。それもまた当たっているとすれば、多様化と均質化が、同時に進行していることになる。このあたり説明が難しいが、ぼんやりながら性向なり志向なりを共にした数々のグループがあり、そのグループ内では均質化が、他方、グループ間では、異質性が進行している、ということになろうか。例えば、大学によっては、学校教育制度が殆ど破綻してしまったことを証明するかのような学生が大量に群れをなしているし、大学にはそれなりに通う一方、重点は大学以外の専門学校であるといったダブルスクール組もまた近年目立っている。また、学生総数の1割に近い留学生がおり、彼らと一般学生との交わりは少なく、孤立した「異邦人集団」として存在しているかに見える大学もある。

 さらに言えば、外から見れば以上のような分類が可能だし、実際、彼らは群れているかに見えるが、実際には、グループ化した個々の集団の中では、彼らは群れてはいてもつながってはいないのでは、というのが私の印象である。つまり、学生達は、殆どばらばらでありながら、そのばらばらという意味で均質化している、というようなことになる。

教員間の序列

 私事をさらに続ければ、大学を終えて大学院に進むことになったのも、出自による就職機会の欠如に由来する側面が多々あるのだが、それはさておいて、大学院在学中に始まり現在に至るおよそ25年にわたる非常勤講師生活は、大学内の教員間の序列、そしてそれにまつわる意識構造について多くを教えてくれた。序列によって大学像が異なることばかりか、将来的に己が位置するはずの序列をいかに設定するかに応じて、大学像が実に見事に変化する。

 その間の事情についても、拙著『大学はバイ菌の住処か?』(同時代社刊)に詳しく記しているのだが、専任教員になる希望を持っている間は、自己を、そして大学を専任教員の目で見、それと合致しない現実を抑圧するが、その夢がついえて以降は、自己や大学を、まったく別の目で見るようになった。最終的には、大学とは私にとって、辛うじて生計をつなぐ場所となった。しかも、可能な限りその労働の中で喜びを見出すべく努めねばならない場にもなった。

 私にとって、生計を維持するには甚だ長時間学生を相手にしなければならず、その時間が殆ど私の人生の大半であるのだから、その時間が専ら苦行だとすれば、私の人生は無きに等しいことになる。そこで、今の私には、学生諸君に対する阿ねりを厭わず、こちらが励ましを求めて教壇に立っているといった気配まである。幸い、今の学生諸君、こういう教師と名乗るには気恥ずかしい軽薄中年男に対しては、気楽なせいか、なかなかに優しいので、大いに救われている。

 老いさらばえた非常勤講師、そして嘱託職員から見える大学像に少しでも関心を抱かれる方には是非とも、拙著を一読願いたい。
ついでに言えば、その非常勤時代には、同じ研究者の世界でも、専任職を獲得した者と、そうでない者に対する扱いが甚だしく異なり、後者は一人前には扱ってもらえない事実に遭遇した。専任教員になった者は、研究者の仲間入りを果たした一人前、そうでない者は、落ちこぼれというわけである。

「なりあがった」人々の言葉の端々に、軽視と裏表の同情が窺えた。これには著しく自尊心を傷つけられたものである。そして同時に、そうした研究者という「徒党」の中での社会的ステイタスを基準とした序列化には隠微なものが潜んでいるような気もした。早く「仲間」に成り上がらねば、さらにはその徒党の中で一段高い位置に駆け上らねばといった強迫観念、それが研究者の世界に歪つな何かをもたらすのでは、などと妬み半分で考えた記憶があり、それが私が半人前研究者を廃業するに至った理由の一つでもあった。
 
 そうした「徒党」への仲間入りを目標として生きているうちに、私の何かが潰れてしまうのでは、といったところだった。その廃業と共に、論理的には一貫しているはずの転職ということになっていれば、こんなことをここでお話しする羽目にはなっていないはずなのだが、人間、一度親しんだ職、それで生計を立てているものを変えるのは難しく、その上、かつての夢に対する未練もあって、この体たらくというわけである。

 尤も、だからといって責任を誰かに擦り付けるつもりもなければ、後悔しているというわけでもない。酒とサイクリングと「駄文書き」という、私にとっては実に有難い「セラピー」の助けを借りて、この人生を楽しんでいるのである。

教員と職員の位階秩序
 
 ついで、中年の半ばに始まった嘱託の事務職員としての経験は、たとえ非常勤であれあくまで教員としてのそれであった私の大学像にさらに大きな変化をもたらした。個々の大学によって多少の差はあろうが、大学は序列社会であり、専任教員と非常勤講師といった教員間のそれだけでなく、教員と学生との関係におけるそれだけでもなく、職員と教員との序列意識が大学関係者の思考・行動に染みついていることであった。

 専ら非常勤講師だった頃には、教員間での、職員に対する不満に付随しての、職員の「無知」や横暴のあげつらいに加担していた私なのだが、一旦職員として仕事を始めると、教員の横暴、そして無責任に対して驚き、殆ど呆れかえるようになった。それは私ひとりのことではないようで、職員の研修会などで最も盛り上がるのは、激烈な教員批判であって、その怨恨の根強さには圧倒されるほどなのだが、現場を振り返ると、それもむべなるかなと思わせられる事例がたんとある。これは特定の私立大学に限られた話ではなく、大学横断的に催される様々な研修会でも同様であるらしく、「教員に任せておけば、大学はもたない」、これが職員の間では完全に合意を見た結論であるようなのである。

 今や私立大学は理事会とその意を受けた職員主導による、生き残りをかけた「改革」に邁進しており、教員の自己変革の試みが腰を引きながら後を追うといった構図が色濃く、「職員は硬軟織り交ぜて、つまりは飴と鞭を用いて、教員を使いこなせ」といった号令が、ひそかに飛び交っているようである。

 こうした雰囲気や状況は教員にとって厄介であるに違いない。次々と繰り出される改革の号令は、教員の既得権を大きく侵害しかねない。教員に課せられる仕事の内容が激変すると共に、その量もまた激増しているのだから、教員にとって、脅威である。しかも、教員の自己変革や教育変革を主張する教員達もおり、彼らは旧来の教員イメージの刷新を図りつつある。そこで、旧来型の教員の反撃は、そうした改革路線に向けられるかと思えば、必ずしもそうではないようである。「正論」と「世の勢い」には抗しがたく、しかし、不安や憤懣はくすぶる。そこで、ガス抜きというわけで、攻撃はそれに対して反撃しない者、できない者、例えば職員に向けられる。職員は教員に対して従であるという考え方が根強く、反論できにくいし、大学の顔は教員とされているから、職員は様々な業務で教員を前面に押し立てざるをえないという事情もあり、無用な軋轢は避けたいという配慮も働くのであろう。そうした弱みに「つけいる」わけである。

 それはともかく、「上」や社会から発せられる正論或いは号令に対する反撃に際してしばしば拠り所とされるのが、学生の為、大学の為、さらには真理の為、といった錦の御旗なのだが、そうした先生方の日常を目にしている職員からすれば、それはサボタージュの為の、或いは既得権擁護のアリバイに過ぎないと映ることが往々にしてある。「そうした立派なことを吹聴される貴方が、学生や大学の為に日常的に何をしているの」、といったところが職員達の内心の呟きであるようだ。

 さらに言えば、とりわけ私立大学では理事側と教員側、或いは組合との軋轢や、党派や派閥の対立などがあったりして、そうした権力闘争的な状況にあっては、自らの正当性を訴え、「敵」の非を告発する為にこそ、「大学のため」、「学生の為」、「学問の為」といった言葉が頻出する。本来、地道で具体的な努力の積み重ねによって追及されるべき目標が、党派的我田引水競争で失墜してしまったような気がして、うんざりすることが多いのである。

教員の自己認識

 一般に職員は、大学の権力機構によって、相当に厳しく縛られ、それに無意識であることを許されない。職員の世界はまさしく組織社会(つまりは階級社会)なのであり、個人的に反対であれ、上司の「業務命令」の一言には逆らえない。だからこそ、一刻も早く序列を駆け上がって命令を下す位置に立とうと懸命の者もいるし、その反対に、賃金に恥ずかしくない程度に働けばそれで十分と達観している者もいるようなのだが、いずれにせよ、彼らは「階級社会」に生きていることを忘れてはいない。

 ところが、教員はしばしば自らの生計が何によって支えられているかに無自覚な気がする。給料をもらって労働している当事者といった意識が希薄なのではないだろうか。

 そのベースには知識人意識というものがあるようで、自らの意に沿わない決定に対して反対し、権力や体制の横暴を云々する。そうすることで、知識人としての責任を全うしているに違いない。しかし、それを別の角度から見れば、決定の結果責任を免れると同時に、自らの潔白を保持するための「アリバイ」と見えなくもない。彼らの反権力という自己認識とは逆に、そうした意見表明が可能であるという事実、決定に参与できるという事実が、その人のステイタスを示しているのに、その側面を無視しているかに見える。要するに、自らが行使している権力には鈍感、或いはその振りを装う。そしてそれが許されている。

 例えば、「私だってシステムの歯車の一つに過ぎない。それどころか、貴重な研究の時間を奪われて、意味もない会議その他の雑用に振り回されている。その私がどうして権力者だなどと。」といった台詞が密かに呟かれていそうな気がする。研究に生涯をかけるおつもりの方にとっては、それはなるほど実感なのであろうが、それは問題を過度に単純化することによって、本来担うべき限定的責任を免れようとする心理的メカニズムの露呈では、と思えないこともない。どんな問題であれ、その底流、或いは背景には常に大問題があるとしても、具体的な現場で個人が担えるのは、限定的な権力であり、限定的な責任である場合が多い。

 そもそも、大学教員相互には個人商店主同士のような関係があり、相互に干渉しないという不文律もあるらしく、集団的に、或いは共同して問題の発生を防いだり、たとえ、問題が発生した後でも、それに対して、同僚としての忠告や援助などが機能しにくいという側面もありそうなのである。

 更には、長年それなりに学校教育の中で「秀才」として生きてきた経歴の賜物なのか、何らかの事件に直面した場合、とりわけ自らが矢面に立たされた場合、プライドに拘束されて硬直しがちということはないだろうか。

 誰だって、ふとした隙に限度を超えてしまいかねない。受けを狙うがあまり、言うべきでないようなことを口にしたり、学生に対する過剰な思い入れや気安さから、公私のけじめを忘れるような場合だってある。よほどに訓練を経ていなければ、或いは、よほどの監視が機能していなければ、誰だってそういう穴に嵌る可能性がある。

 その種の警戒、つまり自己懐疑を忘れると、問題が起こりやすいばかりか解決は困難になる。個人としてそういう懐疑が育っていなくても、そばの誰か、それも信頼に値する誰かがそれに気づかせてくれれば、事態は変わる。そういう関係なり自己省察が、大学教員個々や集団には欠けていそうなのである。

 教壇は権力の場であり、長年そこで立ち続けていると、そのステイタスが人格を形成してしまう。単純な言い方をすれば、ミスをした際に、その事後の対応が拙劣なあまり、事態を複雑にするといったこともありそうなのである。たとえ、謝罪してであれ、それによって共同の場を創出する度量、或いは開放性といったものがなんとしても必要な気がする。

 卑近な例で言えば、教師根性という言葉がある。相手はただただ同意を求めたり、話の糸口にするための挨拶言葉を発しただけのつもりなのに、ついつい教えを請われたような気になって、やたらと説明に懸命になったり、或いはその逆に、そのくらい自分で考えたら、などと口に出したり、態度に出したりして、鼻白ませたりする。そこで終わればまだいいのだが、相手から意外な反応、例えば、反発が生じたとしても、己の言動は善意から発しているという線は崩せなくて、かえって話をややこしくしたりする。

 これが、相手が対等な立場なら、鼻つまみ者になるのを覚悟しなくてはならず、慎みを自らに言い聞かしたり、謝罪したりということも生じるのであろうが、それ以外の場合、とりわけ地位の上下などが絡んでおれば、修正が効かず、居直りを決め込んだりする。そしてあげくは、心中では「私は教授様だ。その私に何を失礼な」と憤り、かえって攻撃に出たりということもあるのではなかろうか。

 私など、幸いに「事件」には至らなくとも、身に染みついた教師根性の結果、後で密かに赤面して冷や汗を流したり、それとなく忠告やお叱りを頂いたりすることがあるのだが、私の例が特殊なのだろうか。

 教員と学生の権力的関係。

 教室では、学生は集団であり、学生の集団性が備える力は教員の権力と拮抗しているという側面がある。ところが、その集団の中の個人を抽出して、教員が教員の資格で対峙するとすれば、その力関係は明瞭である。だからこそ私たち教員は、教室で手に負えない学生がいれば、個人的に呼び出して、彼らに反省を求めるようなことがある。周囲に学友がいなければ、彼らが素直になって、一対一の話ができるという理屈もあるし、実際、それによって事態が好転する場合もある。やれやれ、よかった、と言いたいところだけれど、それは教員の権力に学生が丸裸で対した結果であり、学生が教員の権力にねじ伏せられたに過ぎないとも言えそうである。

 尤も、教育とはそもそもが権力装置の一部という側面を否めず、その権力を相互の利害のために行使することは、自らが職務として一時的に与えられた権力の効果的行使と言わねばなるまい。従って、要は、自らの権力的ステイタスを自覚したうえで、その力を限定的に行使しなければならないということなのだろう。その限界を超えて、裸の教師と裸の学生との対話などという幻想に捕らわれたり、そこで示された男女を問わない「コケットリー」を誤解したり、或いはまた、いたずらに自らの権力に陶酔でもすれば、事件の準備は十分以上に整ったと言わねばなるまい。

 とは言っても、教師と学生との様々な関係には様々な距離のバリエーションがあり、いつだって教員の権力が事件性を帯びるというわけではなかろう。教員と学生とが必ずしも同じ夢を生きているわけではない。それどころか、教員は学生を軽蔑し、学生もまた教員を軽蔑するという例も決して特殊ではない。

 と言ったように、一時的に時空を共にすることがあっても、適度の距離さえ保たれれば、教員の権力が学生の人権を甚だしく蹂躙するには至らない。あの学生は気に食わない、断じて単位を与えない、とか、卒論の審査に際して執拗に難癖をつける、といった例もありそうで、それは学生に大きな困難をもたらしはするだろうが、学生の側に逃げ道が全くないわけではない。学生がその教員の授業を避けることができる場合もあるし、卒論の成績など彼らの将来にさほど大きな影響をもたらしはしないこともある。

 それどころか、学生は教員というものの「底意地の悪さ」或いは「狭量」を確認して、大学や学問や教員に対する軽蔑を糧に、実社会での夢を追い求める弾みになるかもしれない。それになんといっても、教員に対する学生の多数性があり、その多数の中に身を潜めれば、権力の行使に対して殆ど無傷で済む場合だってある。というわけで、問題が生じ、さらには大きくなるのは、教員と学生が恒常的に近接する場合、とりわけ、学生が個人として教員と接する場合であり、そういう事態が生じるのは例えば、大学院生と指導教員の場合ということになる。

 その場合、両者の利害関係は密接である。個人的指導、さらには就職、人事に関しての教員の影響力行使という事態が生じる。
 こうした局面における教員の裁量権は、当事者の目には、絶対的に映る。なるほど、指導するもしないも教員の気持ち次第という側面は否めず、意識するとしないとに関わらず、そこには好悪といった個人的な感情がつきまとう。しかも、指導するとすれば、それも熱心に指導するとすれば、教員は己の時間を相当に割かねばならないのだから、「教員である私は、職務の範囲を越えて、個人的恩恵を施している。少しはお返しをもらっても当然である」などと無意識ながら思ったとしても、それは人情というものだろう。

 それに教員が育てられ内面化するに至った「学者文化」というものもある。一種の徒弟奉公的要素が色濃くあった時代に、自尊心を殺し、言いたいことを言わず、耐え忍んできたということもあるかもしれない。その頃と比べれば、「今の学生はよほどに幸福である。少しは苦労も学ばねば。それが研究のイニシエーションでもある」、なんて心境になってもこれまた不思議ではない。

 しかも、こうした状況にあっては、学生は教員に依存していることを否定しようがなく、例え、教師の言動が尋常の域を超えていると思えても、それなりの礼儀や媚も必要だろうし、咄嗟の反論や拒否もできないままに、ついつい教員の恣意に翻弄されてしまって、後になって悔し涙を流すといったこともありそうである。

 とはいっても、そうした事態があったとしても、それがよほどに深刻にならないと、それも、一方の圧倒的な被害の形にならないと、問題「化」しない。相応のギブアンドテイクの成果がもたらされれば、「損得」が精算されて、問題「化」には至らない、というのが実情ではないのだろうか。

 しかも、たとえ問題化した場合でも、教員の反応は往々にして、指導の範囲だとか、個人的な問題、という居直りとも本音とも区別のつかないものになりがちである。そもそもが、大学教員の職務とは何かが曖昧という問題があるのだろうが、その件については後に詳述する。

 同じようなことが教員と職員間にもありうるだろう。しかし、一般的に言って、教員と職員とでは指揮系統が異なり、職員が教員の裁量権に支配されている場合は多くない。そうした垣根が防御壁となって、事件が生じにくいのではなかろうか。

 しかし、職員が職員と教員との先験的な「身分秩序意識」に縛られていたり、或いは、専ら業務を円滑に進める為に、ついつい教員に追従を習い性にしてしまった結果、本来的には異常な事態を「常識」として永続化してしまうといった場合もありそうなのである。

 とりわけ、役職者教員と職員との間では、指揮系統の混線が生じるし、関係は相当に密になる。さらに言えば、専任職員でない場合(とりわけ、個人的な伝手で一時雇用されていたり、契約社員や、派遣社員で、大学の諸事情に疎く免疫を備えていなかったり、大学教員に対する幻想が残存していたりすると)、彼ら、彼女らは自己を守るものを何も備えないままに、裸で二重の意味での権力者(役職者かつ教員)の恣意に曝されかねない。

 不安定で曖昧な地位が故の、無防備、或いは、ある意味では防御の一手段としてのコケットリーを、教員が誤解して、或いは強引に曲解して、事件が起こるということもありそうな気がする。

4.処方箋はあるか。

問題「化」の意味

 いつの時代、どんな社会であれ、意識するとしないとに関わらず、強者が弱者に「つけこむ」ようなことが起こるが、それが問題「化」するとは限らない。問題化するのは、一般に思われそうなのとは逆に、そういう事態が普通ではなくなったからと言う場合もありそうである。あまり適切な例えではないことを重々承知の上であえて言えば、全身に慢性的な痛みがあれば、各部位の痛みは個別化されず、個々の痛みは沈んでいる。ところが全身の痛みが引いてくると、それまで意識されなかった局部の痛みが「浮き上がって」きて、ついつい意識がそこに集中して、ますます痛く感じるようになる。

 私が言いたいのは、私が非常勤講師を始めた頃、さらには近年に至るまで、セクハラ的言動が大学では頻繁になされていたということ、それが公衆(つまり、教員、職員)の裁可を得ていると思えるほどだったということなのである。満員電車内の痴漢や、様々な差別がそうであったように。

 今やそれが少なくとも公衆の面前では少なくなった。世論の力もあるだろうし、それは、文化の変化の結果というべきなのであろう。喜ぶべきことである。ところが数が減った反面、影に隠れて、密室的になった。そして、権力関係を背景にして、密室的なシチュエーションとなれば、何だって許されるような気にもなりそうなのである。

 それにまた、禁止命令のもたらす抑圧感の反動というものもあるかもしれない。「つい先だってまでは容認されていたことが、何故今になって犯罪なのだ、そんな窮屈なことを言っていると社会は窒息する、まるで自由を奪われた監獄じゃないか」といった台詞が仲間内では囁かれ、同意を得たりする。なるほど、その種の呟きは周囲をはばかりながらもれ出る愚痴にすぎないが、長年親しんできた文化の変容に直面した際の困難、抵抗感、抑圧感を示しており、密室的な状況においては、攻撃的な言動に転化することになりかねない。空間的に拡散していたものが、小さな空間に押し込められて密度を濃くするということが、個々の人物の心理や行動において生じるのではなかろうか。

公私の境界の曖昧さ

 さて「不幸にして」事件「化」した場合でも、厄介なのは、それはあくまで私事にすぎないとの強弁も可能であるばかりか、なるほど私的空間、私的関係であるとの理解も可能なことである。先にも触れたが、大学教員の公私の曖昧さにも由来している。

 公私のけじめということがよく言われるが、その公私の境界というのはそれほど明確でない場合がある。とりわけ、大学教員の場合がそれにあたるのではなかろうか。

 教員は研究と教育とで給料を受け取っており、その二つは、教員にとって給与の対価としての労働であるはずなのだが、教員の意識ではそれほど単純明確ではなさそうな気がする。

 今時、教師聖職論を奉ったりするような人はそうはいないだろうが、その残滓なり、変形が生き残っていそうなのである。研究や教育をお金に換算しにくいということもあるのだろう。

 例えば、大学教員は研究職と呼ばれているのだが、その呼称をあまりにもまともに信じたりすると、教育や学内行政その他は苦行と感じられるに違いない。必然的に、学生とりわけ「学生らしくない」学生、教員の研究に敬意を払わない学生は、重荷に感じられるばかりか嫌悪の対象にもなるだろうし、社会の変化に対応すべく取り組まれている大学の諸々の努力もまた、「無用」かつ重荷以外の何ものでもないであろう。そこで無関心を決め込むことが許されればまだしも、そうはいかない。不承不承であれ、駆り出される。そうなると不満が鬱積して、学生の挙動のあらゆるもの、或いは、学生に過剰に「阿ねて」いるかに見える現今の改革の取り組みまでも我慢ならない、というようなことになりかねず、そうしてたまりに溜まった不満はどこかで放出されるだろう。もちろん、自分よりは弱いもの、面と向かっては声を上げると不利なことになりかねない存在に対してであろう。

 それに、研究というのは、それに従事する当事者にとっては、趣味から生き甲斐までと実に幅広い捉え方もあり、仕事イコール趣味イコール生き甲斐というように、その三つが重なっている場合もあって、当人にとっては誠に幸せなことなのだろうが、その反面、どこまでが公的で、どこまでが私的なのかを区別しようがない。つまり、研究者にすれば、生活の殆どすべてが私的かつ公的でもあるということになってしまう。

 さらに言えば、ただでさえ公私の曖昧な研究者なのだが、彼・彼女のなす研究といえども、しばしば教育と隣接し、時には殆ど重なる場合もある。例えば、大学院生の指導や共同研究といった場合、教員は教育者であり、同僚ということにもなり、先に述べたように研究が私的かつ公的であるという考え方を重ねれば、教育だって、私的かつ公的というように二重性を帯びることになる。
といったように、大学の教員の職務の範囲なり境界、言い換えれば、公私のけじめには甚だ難しいところがある。

市民感覚

 尤もこうした曖昧さを盾に何だって許されるというわけにはいかず、たいていの人たちは、個々にそれなりの限界や原則を定めたり、境界を日々習い覚えては自己の言動に修正を施しながら、教育や研究に携わっているに違いない。

 それは個人的な倫理や対他関係における柔軟性によること大なのであろうが、それが由来するのは、市民倫理であり、その拘束なり実践ということなのではなかろうか。

 しかし、この市民倫理自体が相当に流動的であり、若い人たちの文化と既に齢を重ねた人々の文化とが同一のものとは言えなくなっている。言葉や表情に託された意味だけでなく、立ち居振る舞いのコードだって異なっており、意思疎通でさえ困難になりつつある。それだけでも十分にストレスフルなのだが、そればかりか、私達の倫理の基準で言えば、非倫理、反倫理の烙印を押したくなるような学生たちもいないわけではない。なのにそうした学生をも許容するばかりか、その彼らの「文化ならざる文化」に寄り添うことを要請されでもしたら、「学識も経験も備えたわれわれが何故に若造たちの勝手な言い分にひれ伏さねばならないのか」といった不満が高まるだろう。そしていつかそれが許される状況になれば、一挙に暴発となるかもしれないし、私的な時空で囁かれ続けることで、「現代」や「若者」や「非文化・野蛮」に対する恒常的な蔑視や敵意の源泉ともなるのだろう。

 しかしながら、少しばかり距離を置いてこうした状況を考えて見れば、大学ばかりか社会のいたるところで同じようなことが生起している。とりわけ、個々人にとって最も身近でおそらくは最も大切な領域、つまり家庭などで日常的に生じていることであるに違いない。親や伴侶や子弟との関係で、異性間のギャップ、世代間のギャップがないのはよほどに幸せな場合か、或いは、当事者がよほどに鈍感な場合であって、私達はむしろそうしたギャップに由来する様々な軋轢を通じて、微調整に努めたり、外科手術的な痛みに耐えることを余儀なくされている。

 家庭やカップルの関係は専ら私的な領域であり、断じて他人や社会的常識の容喙を許さない、などと言えない場合も多々ある。そこにもまた、「普通」の市民感覚が要請されており、例え不承不承であれ、それを受け入れつつ私達は日々の生活を営んでいる。でなければ、いつの日か反乱が起きるかもしれないということを計算に繰り込んでおかねばならなくなっている。

 強いられたものであろうと、或いは自ら進んでのことであろうと、ともかくそうした努力を大学という公共空間で行って悪いはずはないのである。例えば、対他関係の調整と言う意味でなら、自分の子供たち、自分のパートナーとの軋轢とよく似た性質の問題なのに、家庭でなら為さねばならず、為すであろう努力を他人に対しては向けない、なんてことが許されるはずもなければ、無傷で機能するはずもない。

 それにむしろ、他人のほうがお互いに思い入れがない分、つまり心理的距離がある分、互いが相手を個人、つまりは他者と見なしやすく、もしその気さえあれば、相互理解が容易だとも言えそうなのである。尤も、その反面、親子やカップルの「絆」なり「情愛」を担保にした「やり直し」がこの場合には「効かない」であろうことに十分に留意して、細心の注意が必要とされるのだろうが。

密室と被害者

 そうした市民感覚、なかんずく対他関係の中でも最も重要なことは、ことが起こった場合には立ち止まり、声を発している人、或いは、声をうまく発せない人の心中の沈黙に声に耳を傾けることなのであろうが、これが難しい。

 とりわけ、教師は言葉で解き明かし、説き伏せることが習い性になっていて、沈黙に耐えることになれていない。しかし、苦しんでいる者がいるということは何かがあったということに他ならない。それが誤解に基づくものならその誤解は解されねばならず、実際に問題が生じたのであれば、何が問題なのかが解明され、何よりも当事者が癒されねばならない。

 そうでなければ、ノイズが残存し、さらに大きくなり人を不安に落とし込むことになりかねない。しかも実は、必ずしも大きな音を発していない微視的な変化に耳を傾け、目を向けて、そこに大きな変化を発見することこそ、研究者が目標とし、習い覚えてきたことで、お得意のはずなのである。ところが、実際には研究と実生活との間には、大きな壁が聳え立っていることが多く、自らが備えているそうした能力を十分に活かしきれているわけではないようである。

 そこで、何か事件が起きでもしたら、関係者としては「不毛な」仕事が増えて、やりきれないという思いになるだろう。また、直接には無関係ながら、自分のどこかに同じような嫌疑がかけられる可能性があると思う人なら、反発が生じる。「些細なことに難癖をつけて問題を大きくする。生き難い時代になったものだ」といった感じ方をしがちである。情けないことであるが、私達は慣れ親しんできた何か、例えば既得権を脅かされそうな不安を覚えると、そのように感じたり考えたりすることを免れがたいようなのである。

 しかし、そこでしっかり踏みとどまらねばなるまい。ノイズは快くなくても、研究にとって発見の契機であり、自らの好みに合わないからと言って、そうしたノイズを消去してデータを捏造すれば、それは研究者としての自殺行為ということにもなりかねない。そうした研究者としての規範を日常生活、とりわけ他者関係に転用すれば、様々なことが明瞭な輪郭を帯びて、解決を容易にしてくれそうなのである。

 もし、当事者が何にでも即座に対応し、問題を公的に指摘することができるようならば、事件化することはないのである。時宜に叶った問題の公的な指摘、それはその「社会」の開放性が保証されていることの証左であり、事件の拡大深化への防波堤になるだろう。

 一般に事件化するのは、「手遅れ」になってからに違いなく、おそらくはその「社会」が「手遅れ」にさせる要素を備えているからなのだろう。

 被害者が声を発するのは、往々にして、我慢に我慢を重ねたあげくのことで、我慢が切れたわけだから、爆発となりやすい。そしてその爆発は当然、「加害者」の硬直、さらには爆発を引き起こしやすい。両者共に硬直し、怨恨、居直りの応酬となりかねない。こうなると、問題解決は難しい。

 従って、問題は、その前段階で協同的に、一つの大学という公共空間で何が準備できるかということになりそうなのだが、急ぎすぎた観がある。

 個人から見て、この世には許せないことが多々ある。しかし、それを告発することはさほど容易なことではない。例え、不利益を被っているのが多数であれ、告発の声が実際に多数者になるかどうかは別問題のようである。不利益にも程度や質の差がつきまとい、その程度がひどくない、許せる範囲、あるいは許さねばならない範囲と考える者の場合、告発者に対してかえって冷淡になったりすることさえある。

 とりわけ、閉じた社会、閉じた集団の中で、権力関係が前提となっておれば、告発者は、本来ならばこちら側に立つべきはずなのに、実際には向こう側に身をすり寄らせていく人々を含めた圧倒的な他者の群れ、つまり匿名的で全体的な権力に対峙することを余儀なくされる。こうして告発は個人的な病、一種の社会的不適合として処理される。

 そうした集団というものは、例え多数者で構成されていても、絶対的な多数派である集団と孤立した個人が対峙する、いわば密室であって、そこで声を発したとしても虚空に消えていく。少なくとも、密室に閉じ込められた人は、そのように思い、絶望感にかられる。

 そうした密室が、いたるところに現出している。雑踏の中の密室、雑踏の中の孤独。満員電車やラッシュアワー時に倒れている人が、自分を横目に出勤に急ぐ人々を絶望的な眼差しで見つめている。その彼・彼女には、自分の心の声は誰にも届かないように思えるのではなかろうか。

 満員電車内の痴漢的行為の被害者、様々な差別の被害者、職場やその他の集団の中でのセクシャルハラスメント的言動の被害者。そして今、企業その他での、リストラ対象とされた人々の孤独。つまりは、いたるところが密室化しており、そこでは堂々と「不正」がまかり通る。声が届きそうになく、例え声が届いたとしても、黙殺される、或いは歪曲がなされる、そうした孤独の中に被害者は追いやられる。

社会一般と具体的現場

 そこで、その「密室」に穴を開けて風を通さねばなるまい。そのためには先ず、社会一般に「限界」についての了解があるかどうかが問題となるだろう。違法、社会的倫理に悖る、礼を失している、といった様々なレベルがあるだろうが、社会一般に、その各段階についての了解が共有されていれば、被害者はほぼ全員に共有されている何かに促され、自らの孤独を脱して、声を発することが可能だと、ひとまずは言える。

 ところが、人間が生きているのは、必ずしも社会一般といったものではない。生きている現場というのは、常に一般からの偏差を持っており、そこでは一般社会の通年とは多少異なる通念が機能している。したがって、そのような場で、社会通念に悖る言動が誰かを貶め苦しめた時、社会通念なり一般の社会的倫理がその人を支えることができるだろうか。その具体的な場で、具体的な言動に非を鳴らす個人なり集団の存在の徴、その目と、出来ようことなら、その声があって、初めて、当事者の苦しみの声が発話され、理解され、彼、彼女が癒される条件が生まれる。そうして始めて、その具体的な現場が密室ではなくなる。

 さらに言えば、こちら側ばかりか、向こう側からの発話の促しが必要だろう。例えば、教員と学生との関係で言えば、学生を学生が支えるだけであれば、教員対学生の対峙関係という構図は崩れない。そして学生と教員との間には、権力的上下関係があるのだから、複数の学生が声を発したとしても、それは単声的なものとなりかねず、複数の声ですら、孤立した「変わり者」の声として葬られかねない。向こう側、つまり、教員の側からの促しの声、耳を傾ける顔つきがあって始めて、その場は真の意味で密室でなくなる。しかも、当事者である教員もまた、向こう側から強いられた「限界」ではなく、自分の側と向こう側とに共通した規範があることを理解する契機になるかもしれない。それはまさしく対話を促すだろう。

 こうしたことを、私は在日朝鮮人二世として生まれ育ってきたこと、そして非常勤講師として大学に関わってきた経験から学んだような気がする。個人を孤立させてはならないし、集団自体が、密室となって、一般社会から孤立してはならない。言い換えれば、個人が蛸壺になってはならず、集団もまた蛸壺になってはならない。だが、それが具体的に今の大学でどのようにすれば可能なのだろうか。

終わりに(様々な文化)

 人間が苦しむのは、人間が持っている弱点が故で、社会が持っている弱点が故である。弱点をもたない人間などありえず、弱点を持たない社会はありえないのだから、いくら禁止命令を積み重ねても、それで問題が解消するわけもない。だからといって、そうした努力が無効だというわけではもちろんないのだが、禁止命令と監視が決定的に事態を転覆するわけでもないし、さらに言えば、反動が起こる。これは忘れてはなるまい。

 繰り返しになるが、先ずは、個人であれ、集団であれ、開放性が必要である。既に述べたことなのだが、この世には様々な文化、様々な集団的メンタリティーが混在している。かつては、その各々が閉じることで、自らの独自性を誇示することが許されていた。新参者はそれが異様に思えても、その囲いの中で生きるためにはそれを内面化することを余儀なくされ、あげくは、その閉鎖性を誇るに至る。例え、それが故に問題が生じたとしても、それは努力の欠如や不適格性を持つ個人の問題、つまり例外として処理されてきた。

 ところがそれが今や許されなくなっている。今や喫煙文化を誇ることはできにくいのと同じように、一部の人々の我慢と努力と引き換えに成立してきた「囲い」を解体することを余儀なくされている。それは、多くの痛みを必要とするだろうけれども、きっとよいことなのである。

 「囲い」を解体して、或いは少なくとも外の風が吹き込むようになれば、誰もが楽になる。軽くなる。サラリーマン稼業の末に、サラリーマンとしてしか自らの人生を楽しめないのは不幸なことであろう。むしろ、複数の文化を楽しみ、数々の「囲い」の両側を往来しながら、その「囲い」自体を無化することが、その個人とその社会にとって有益ではないだろうか。大学の文化、研究者の文化、教員の文化だって同じ事であるに違いない。

 次いでの問題は、加害者の芽を摘むことであると同時に、被害者になる芽を摘むことである。要するに学生と教員、さらには職員が共に育つことなのである。大学教員の職務の大きな柱であるはずの、教育の質が問われることになるし、労働者としての、或いは市民としての、共同作業、あるいは連帯の可能性が模索されねばなるまい。

 個人的尊厳に対する厳しい感覚、そういうものが大学の文化として育てられねばならず、そのためにも、どのような社会であれ、そこには権力の横暴の問題が可能性としては存在していることを前提にして、その力が限界を超えそうな場合には、その現場で警報を発することができるような個人を、そして集団を育成していかねばならない。

 さらに言えば、誰であれ、その思考や身体は権力の網の目に絡め取られており、そうした現実を看過して抽象的な自由を云々することは無責任に堕しかねない。にもかかわらず、そうした網の目に絡め取られた己を解き放つための努力こそが、社会を、そして自己を生きやすくするはずである。

 第三に、どのような社会でも問題は必ず生じ、変化には必ず反動が生じるのだから、その対応が必須であろう。社会や集団や個人の弱点が限界を超え、外化して人を苦しめた場合に、それをその社会が補強するようなことがあってはなるまい。私達が備えている弱点が故に苦しんでいる人を生み出した場合、己が、そしてその社会があたかもそうした弱点を備えていない人間や社会であるような振りを装って、それを特異な例として処理するようなことは、被害者にさらに大きな傷を負わせかねないし、その「弱点」の攻撃性を導き出しかねない。被害者を出さないための工夫はもちろんのこと、一旦ことが生じた場合に、せめて二次被害をもたらさないような対応が求められる。

 そのためには先にも述べたように、複数の文化が同じ時空に共存しているという事実にまずは目を向けて、それを前提として問題解決を図ることではなかろうか。ある「正義」を前面に押し出して他者をねじ伏せるのではなく、まずは限界の認識を共通化させる過程こそが重要なのではなかろうか。問題解決とは、相互理解の過程でなくてはならない。そうでなくては、この社会、禁止命令と、それに対する鬱憤の蓄積と爆発とが、永遠に拮抗する世界になりはてるであろう。
 
 以上のようなことを現実から研究に、研究から現実へと往還を反復すること、その努力は人文諸科学や社会科学にとってすこぶる有益なはずで、実際に生きている現場で、文化の変容を受け止め、それを生きることは、研究者にとって決して他人事ではないにちがいない。

 そのためにも大学の現実に対する洞察がますます必要とされる。
何よりもその構成員が、社会における大学の位置ばかりか、大学における自己の位置を見定める必要があるのではなかろうか。それも昇っていく先を仰ぎ見るだけでなく、己の下で蠢く存在たちの上で、自らの日常が営まれていることに自覚的になるべきだと、私は思う。

 そうした自覚こそが、自らの言動の限界を明瞭にさせる。してはならないこと、すべきこと、を考える契機を与えてくれる。
経済の論理ですべてが押し切られているかの観がある昨今なのだが、こうした状況にあってこそ、むしろその変化を大学文化、そして私たちそこで生きている人間達の変革の契機と捉えることもできはしないだろうか。


玄善允の落穂ひろい4(在日関連シンポジウムについて2篇)

2018-03-14 17:24:27 | 玄善允の落穂ひろい
 今回はあるシンポジウムに参加して、考えたことなどに関するメモである。

 僕はある時期から、「在日」に関するあらゆる組織などとは距離を置いて長らく生きてきた。関心がなかったわけではない。むしろ僕の人生のほとんどが在日に関する諸々で占められている、なのに・・・

 そんな僕に、いきなり在日に関するシンポジウムでのコメンテーターの誘いがあって、僕はためらった。

 それまでの頑なに貝殻の内部に閉じこもろうとする姿勢にひびが入いり、気持ちが動いたわけである。

 中年も盛りを過ぎて、自分の矛盾に何らかの折り合いをつける契機にしようとでも思ったのだろう。

 そしてなるほど、それ以降、僕は在日関連の様々な催しに足を運ぶようになり、現在もその延長にある。

 その過程で、改めて思い知ることも多かった。言葉の通じにくさ、それにも関わらず、人々は言葉を介して生きている。


在日論シンポジウム(立命館大学コリア研究センター主催、2008年11月15日)

第5セッション「グローバル化のなかの在日コリアン―植民地・帝国・民族・国民・市民権―」

に関するコメントと事後的で全体的な感想

              

 以下は標記のシンポジウムのセッションでのコメンテーターとして招かれた際に、予め用意していたメモを基に、当日の現場での経験を加味して、書き記したものです。僕自身の紹介のような部分が多いのですが、これは、僕の言葉がどこから出ているのか、その出所を明らかにしないと、誤解が生じかねないという僕の長年の経験的信憑に基づきます。
 
 また以下のメモだけでは、当日参加されていない方には状況が分かりにくいことも多かろうとは思いますが、僕としては「在日」に関する議論にとって大事な要素が数多く露呈しているといった感触があり、その輪郭だけでも書きとめておきたいと思ってのことです。

1.玄善允です。のっけから弁解じみたことになりますが、自己紹介を兼ねて、きわめて私的なことを。随分長くなりそうですが、これを先ずは申し上げておかないと、僕の話は大きな誤解をもたらしかねないので、どうかご容赦のほどを。

 僕は1950年に大阪で生まれその後も大阪を離れずに、というよりむしろ、大阪にほとんど閉じこめられ、そして自ら閉じこもって生きてきた在日二世です。大学院以降は、あちこちの大学や塾を駆けずり回って、英語とフランス語を教えながら、さらには昨年までは大学の事務職員などもして、この歳までなんとか生きながらえてきました。

 ある時期まではフランス文学の研究を目指していましたが、なにしろ生計を立てる為には体力と時間を切り売りしなければならないフリーター稼業ですから、そんな「暢気なこと」に時間を割く余裕があるわけもなく、すっかり断念して既に15年以上になります。研究者志望の落ちこぼれの成れの果てといったわけです。

 そんな生活は、体は言うまでもなく精神衛生にとってもすこぶる悪く、そういうこともあって、いつの頃からか、自分がどうしてこんな人間になったのかなどを考え始め、その一つとして、在日朝鮮人である己について考えたり、書いたりしてきました。それは決して楽しいことではないし、ただでさえ時間の余裕がない状況でのやりくりなのでかえって自分を苛めることになります。

 しかし、他律的なフラストレーションを自立的なフラストレーションによってバランスを保とうといった戦略に基づく「自前のセラピー」というわけです。自分がどういう体験をし、その結果としてどのような感情の処理をしてきたのか、どんな思考方法を身につけるようになってきたのかを考えてきたというに過ぎません。

 ですから、世のさまざまな「在日」に関する議論を恒常的に追跡してきたわけでもなければ、「在日」に関する実態調査や本格的な理論研究をしてきたわけでもなく、僕の書く作業は、独りよがりを絵に描いたような代物で、その成果が僕の現在の奇妙な人格ということになります。事務職員の仕事の一環として関係を持つようになった数々の「在日」の先達には、そんな僕の言動は異様に映るばかりか、腹立たしいのでしょう。

「お前は在日の恥さらし」だとか、「事務員の癖に生意気だ。研究者の自由を束縛するのか」とか、「お前のような人間に教えられる学生たちが可哀想だとか」、はたまた、「お前、外へ出ろ、一発かましたろか」などと既に50代の半ばを過ぎた僕よりさらに年長の方々から喧嘩を売られたりといった茶番劇が生じたりするほどです。

 すべて僕の「人徳」のしからしめたことなのでしょう。

 そんな僕なのですから、長年地道な研究を続けてこられた研究者の集まりであるこうした場所で何かを言う資格があろうはずもなく、お誘いを受けた際にも、大いに躊躇いました。見当違いのことを言って白けさせたり、あげくは冷や水をふっかけるようなことになりはしまいか、などと腰が引けたのです。

 とはいえ、僕が僕を取り巻く小さな世界で、「在日」について、また、その一人に違いない自分についてそれなりに考え続けてきて、その結果を文章の形で既に公表していることは間違いないことなのですから、そんなことは自分とは関係ないなどと言えるわけもありません。

 僕の書きものの対象であるきわめて小さい私的な世界と、皆さんの公的で、大所高所に立った研究成果とをなんとかつなぎ合わせたり、照らし合わせたりする機会にはなるでしょうし、それを利用して、僕のいびつな自己認識、その延長での僕の独りよがりの色合いの濃い「在日」に対する考え方を批判に晒してみるくらいの責任はあるのではないかと、参加させていただくことにしたわけです。

 繰り返しになりますが、ここで僕に出来そうなことはと言えば、僕の狭い経験と心情の世界に立脚した上で、皆さんの発表に関する意見を率直にお話する程度の事に過ぎないのですが、誤解を最小限にするためにも、そうした僕の言葉の基盤になっている生き方、考え方を予め提示しておいたほうがよかろうと思います。

① 僕は青年期を過ぎて以降は朝鮮半島と殆ど無関係に生きてきたという感じがあります。学生時代に祖国への憧憬のようなものが一時的に芽生えたこともあったのですが、当時の「在日」社会、さらには祖国の厳しい政治状況のあおりを食らって、日本の外に出ることができなくなって20年以上、籠の鳥状態で生きることを余儀なくされたこともあって、僕が生きる世界はここ日本以外にはないと見なし、「在日」の諸機関、さらには「在日」の組織や運動体とは距離を置くことをまるで原則のようにして生きてきました。

 当時の心情を大げさに言えば、「朝鮮人が集まればろくなことはない」といったテーゼになります。ですから、一時「在日」社会を揺るがせた指紋押捺拒否運動や差別撤廃運動、さらには「在日」の統一運動、さらには、祖国でのさまざまな事件や問題に対する運動などとも無縁に生きてきました。

② 「在日」の生活条件を規定する要因が祖国との関連にあることはいくら僕でも重々承知していますし、個人的にも僕はここ10年以上に亘って家庭の問題などもあって、両親の生まれ故郷である済州島へは頻繁に往来を繰り返したりしたりする過程で、「在日」があの地、その社会と、政治状況、さらには、あの国と日本との関係、さらには、アメリカの国際戦略などと連関していることをつくづく感じたりもしてきました。

 それでもなお、僕はそれをひとまず括弧に入れて生きようとしてきたわけです。「大きなことを考えるとついつい足元はおろそかになる」といった俗諺を信じていきているわけです。また、極めて個人的な問題の処理で祖国の人々と渡り合うことで、僕は「在日」である僕と、祖国の人々との対話をしてきたとも思ってはいるのですが。

③ 言い換えれば、僕の生きる場所は、日本の社会であると思いなして、その場で、「在日」二世として、その存在与件を忘れることなく、「共生」がどのようにして可能か、そればかり考えてきました。もっと大きな視野も必要なのでしょうが、それはそれが得意な方々にお任せしようというわけです。

 それにまた、後続世代のために何をなすか、といったことにも殆ど関心はありません。僕らは僕らがしなくてはならないことをしっかりやればいい。後続世代は彼らなりに僕らのやせ細った背中を少しは見たりして、自分で判断し生きていくでしょう、といったわけです。それだけでも無責任の謗りは甘んじて受けなくてはなりません。

④ とはいえ、祖国や「在日」の方々に対する「同胞意識?」のかけらのようなものはどこかに残っているようです。しかし、それが困ったことに、積極的なベクトルを持たないのです。僕は祖国の方々、「在日」の方々、とりわけその集団や組織、はたまたそこで位置を占める個々人の否定的側面にばかり目が向いて、それに耐えられないといった少々いびつな心情、思考の形を身につけてしまっているようなのです。

⑤ さらには、その延長で、民族主義そのもの、そしてそれを語る人々の公私の混同、人権を主張する人々の日常的言動と公式的なそれとの乖離、分裂、矛盾といったものについつい目が向き、それに対する嫌悪感を増幅させては、それを自分の相対的な「善」のアリバイ証明にしてきたようなのです。

 また、日本その他に対して、対抗的に生きることによって生じる硬直に対して、非常に違和感が強いわけで、そうした自らの心情に閉じこもるような生き方は、ついつい日本の社会体制や権力に対して融和的な様相を帯びてしまうわけで、それを批判されても仕方ないわけです。そもそも、僕が「在日」のさまざまな運動に距離を置くようになった原因は、自分のどうしようもない弱さの自覚であったわけで、その弱さは殆ど必然的に、対立の隠蔽そして融和へと通じます。

 僕にはとうてい祖国を担うことも、「在日」を担うこともできないといったことを、学生時代、そしてその後の数年間にとことん思い知ったわけで、そんな人間が今になって、「在日」を云々することがはたして許されることなのか、と改めて思ったりもしています。(注記。「祖国や在日を担うことなど自分には無理だ」などと書き、事実、当時はそのような感じを抱いたことは確かなのですが、このあたりは、考え直してみるべきところだと、今になって思い返したりもします。ともかく逃げるために、話を大きくして自己防御を図る、一種の自己欺瞞であったのではと。)

⑥ というわけで、本日の数々の発表には、それがすごく全うだと感心するばかりか圧倒されるような気持ちにならざるを得なく、僕もまたそうした方向で何かをなすべきだと思いはするのです。ところがその反面、日本社会を批判する切れ味のよい議論を前にすると、そうした「他者」への批判を、自らに向けても生きておられるのだろうか、そんなことが可能なのだろうか、そんな生き方ができる人がはたしてどれほどいるのだろうか、といったような言わば下種の勘ぐりをしてしまいがちなのです。

 そのあげくには、この社会の権力関係が転倒されて、現在の批判勢力が権力を掌握したりでもしたら、今以上に生き難い世界になるのではないか、と怯えたりもするわけです。

⑦ といったように甚だ小市民的であることを重々承知の上で、そこに居直って何が見えるか、何が出来るかといったように、腰を引きながらの一種の退却戦を継続してきているわけです。ある時期までは、そうした退却戦、それこそが必要なのだと本気で思っていたのですが、今になってみれば、それが何を生み出したのか、生み出しうるのかにはすこぶる懐疑的で、それは大きな過誤であったのではと悔やんだりもしています。

 しかし、おそらく僕にはそれ以外のことをこれからもできそうになく、だとしたら、その敗北主義的退却戦の内容と、その根源をゆっくり検証するしかないわけです。なんともはや・・・

 概ね以上が僕のこれまでの生き方の基本ラインなのですが、いかにも狭くて、窮屈なものです。因みに、僕の世界の小ささ、窮屈さは、例えば、次のような事実でも明らかです。次の第六セッションの問題設定としてプログラムに記載されている以下の文章は、ここに参加されている皆さんにとっては自明のことなのかもしれませんが、僕の場合、最初に拝読した際には、その内実どころか大まかな輪郭さえも捉えられないほどでした。

「かつて自らの生き方とそれを規定する構造要因とをそれぞれが、それぞれの見方・立場をぶつけながら論じられてきた在日朝鮮人論から「論争」が消えて久しく、在日コリアンは心地よい「在日」言説にどっぷり浸かっているように見える。かつての論客は今、何をどのように考えているのだろうか。」

「論客」とは誰のことなのか、「論争」というのはどういうものなのか、はたまた、「心地よい在日言説」とはどういうものなのか、というわけです。ひょっとすると、僕なりに懸命にひねくりだしてきた文章も、その「心地よい言説」に入っているのではないかなどと、この場に参加することを想像するだけで、身がすくみそうな不安まで兆したり。

 しかし、不思議なことにその文章を読んで一週間ほどすると、その間ずっと気にかかっていたせいなのか、次第に記憶が戻ってきて、ぼんやりながら、それが何を指しているのかの輪郭が浮かび上がってきたりもして、今更ながらに自分の記憶の減退を思い知らされたりしています。

2.以上は掛け値なしの僕の現実なのです。そのことを明らかにしたうえで、コメンテーターとしての責任を少しは果たさなくてはなりません。僕のアンテナに辛うじてひっかかったことは以下の5点です。

① 原尻さんのご報告に関して。ある作品の作者、作品、受容者、受容者の反応、この4者の関係について。

② 金泰明さんの「在日」史の要約における「本国志向」という言葉について。

③ 李誠さんの言われる「在日のニヒリズム」批判と韓国の参政権。

④ このシンポジウムのテーマとしてあげられた「浮遊する在日」の意味するところ、言い換えれば、何が浮遊しているのか、生きている人々とその人々について研究する方々の関係について。

⑤ 「同胞」という言葉について、となります。

 そうした多岐な内容を限られた時間内で分かっていただけるようにお話できるかどうか自信はありませんが。尚、このセッションのいまおひとりの報告者である近藤さんのご発表「入管法制の基本的性格と在日コリアン」については、緻密な研究発表をお聞きしながら、僕のような人間でも、今後少しは勉強しなくてはと今更ながらに自分の無知を思い知り、改めて少しは勉強を始めたいということしか言えません。ご容赦のほどを。

 さて、
①原尻さんのご報告「映画『ウリハッキョ』への対応にみる、自己表象と他者表象のdis-communicationn」について。僕はその映画『ウリハッキョ』を見ていません。ですから、コメントする資格はないということになるのでしょうが、しかし、それにまつわって感じたりしたことがないわけでなく、そのあたりを少々。

 映画の評判を聞いて、「僕もそれを見れば感動するだろうなあ、でも、その一方で困ってしまうだろうなあ」といった変な感じ方をした覚えがありました。そのあたりについては、原尻さんは僕が直感的に思っていたことと重なる見方を見事に明快に整理してお話されたように思うのですが、僕としては無理難題の危惧を持ちながらも、話を少し広げて考えてみたいと思います。

 作者、作品、受容者、そして受容者の意見表明、これらの関係の話です。ある作品を論ずる際に、作者自身が語る製作意図がよく引き合いに出されます。その意図に沿って作品を解読するといったことが普通になされるようです。しかし、たいていの作品は、作者の意図通りに実現しているわけではなく、むしろ作品に露呈してしまうノイズ、これこそが作品の現実ではないか、というのが僕の考えなのです。

 作者のメッセージといった問題の立て方をして作品を解読すると、そうしたノイズが無視、あげくは隠蔽されてしまいかねません。もしも作者の意図通りに作品が成立しているなら、それはあまり面白くないし、あげくは、プロパガンダにすぎないということになりかねません。

 原尻さんのお話を聞く限りは、そうした理解をされているように聞き取れました。但し、そのあたりの正誤については、既に申し上げたように僕は現物を見ていないので、なんともいえません。

 その一方でもう一つの側面である受容者の問題、原尻さんのお話は、こちらに重点があるような気がしましたし、そちらのほうなら、僕自身も潜在的な受容者という意味で語る資格がないわけではありません。

 受容者にもいろいろあって、先に申し上げたように僕自身がその一員であるような潜在的な受容者というものも考えられます。噂を聞いて、端から見ることを拒否する人。実際に見ても、意見を表明される人もいれば、表明されない人もいるのではないかと。

 原尻さんはその映画を見て肯定的な評価を表明された方々だけを取り上げて、見る必要はないと考えた人、見て感動しつつも怖じけた人などの意見は対象とされていないようですが、そのあたりも含めないと、拙いことになるのではないかと。見た人、それもそれに感動し、意見表明をした人たちだけに限り、それを基にして韓国人や日本人や「在日」の各々の集団的なイデオロギーを同定するというのは無理ではないのかと思うわけです。

 ご発表では詳しくは言及できないとしても、触れられなかった存在がいるということ、つまり余白の存在にせめて一言なりとも言及する必要があるのではと思うわけです。そうしてこそ、原尻さんの主張の限界、そして意味が一層浮かび上がってくるのではと。

 実はこの夏にソウルで、その映画の出来栄えとは別に、それに感動する韓国人の反応に対して厳しい違和感を表明される方に出会い、「さもありなん」という感じを持ったことがありました。一人は日本の研究者と協力して共同研究を組織している韓国人、もうひとりはソウルで長期に研究なさっている日本人でした。つまり。原尻さんが言及された国民的イデオロギーの類型には収まらない人が現にいるわけです。

 因みに言えば、あの映画に対する韓国人の反応をビデオで記録している研究機関があるようです。ひょっとしたらご存知なのかも。

 ついでにもう一つ。もう随分昔の話になりますが、「プライベートライアン」というものすごい当たりを取ったアメリカ映画がありましたが、その映画とアメリカ人との関係についてのフランス人の批評を思い出しました。

 朝鮮戦争、ベトナム戦争で自信を喪失していたアメリカ人に、その昔には正義の戦争を担ったということを確認させて祖父母、両親、そして現代の若者が和解し、祖国に一体化する為の神話形成のプロパガンダ映画という趣旨だったように記憶しています。その前後に、アメリカは湾岸戦争、アフガニスタン侵攻、イラク戦争へとなだれ込むわけで。このあたり、原尻さんの映画分析と受容者との関係分析につながるような気がしますが・・・

② 次いでは、金泰明さんの「グローバリゼーションと在日コリアン―開かれた共生社会に向けて―」について。金さんは現場のご発表では、個人史的な事柄に時間を割かれて、配布されていたレジュメについては急いでエッセンスだけを読みあげる程度で済まされたのですが、僕はそのレジュメに記された文面だけについて少々。

 そこに記された在日朝鮮人の通史的な整理、これは殆ど一般的に言われていることをなぞっていて金さん独自のご意見ではなさそうなのですが、たとえそうであったとしても、その「常識」を踏襲されているのはやはり金さんであることは間違いがないわけで、全く責任がないなどともいえないはずです。

 さて、上記の通史の中での「1980年以前の在日の本国志向」といった定義なのですが、僕自身もまたそのような理解をして、実際に書いたりしてきたこともあります。しかし、現在の僕はそうした解釈に相当に疑問を抱きつつあります。というより、僕はそうした解釈に随分以前から違和感を抱きながら、それを突き詰めないままに、一般的な「常識」に安住してきたような気がします。

 主に「在日」一世の話になりますが、彼らに本国志向、或いは民族主義というものがどの程度、そしてどのような形であったのか、といった点です。植民地下に日本に流れてきた人々、とりわけ、解放直後に帰国を急がなかった人々のことです。彼らに祖国への郷愁がなかったわけはないでしょうが、それが本国志向だとか、祖国回帰といった言葉で理解されていいものなのかどうか。

 国境を越えた移住者(在日朝鮮人を植民地下で国境を越えた移住者とするのにも異論があるでしょうが)というものは、ある程度、移住地での定住の可能性を無意識にでも持っているのではないでしょうか。彼らには故郷に錦を飾るとか、一時の出稼ぎという気持ちで故郷を離れたとしても、ひとたび、現地である程度の経済生活の基盤を築いた時点では、さらには結婚し、子どもを産んだ時点では、相当の部分が、次第に定住を前提に生活を、そして意識を組み立てていくものではないのかと。

 更に言えば、人生の過程での変化ということも考える必要があるのではないかと。若くて単身の場合、移動は容易ですが、ある場所で、一定の生活基盤を築く、あるいはその可能性が見えてきたとき、その安定を捨てて更に移動するといったことは難しいのではないでしょうか。その移動がたとえ、故郷に戻る、つまりは祖国に戻るといった場合でも、です。

 因みに、1930 年代に既に、定住意識が在日朝鮮人にはある程度あったのでは、といった研究も最近ではあるようです。また解放以後に、日本に残った人たちの多くは、望郷の思いはあったとしても、「この移住先で生きのびよう」という気持ちを相当程度持っていたのではないかと。もちろん、当時の政治情勢(日本と朝鮮半島、そしてアメリカの世界戦略なども大いに関係するでしょうが)がそれを強いたという側面は否めませんが、そういう状況のなかで、彼らは生活が可能な「ここ」、そしてそれを築き上げてきた「ここ」で生きるのだという思いを募らせていったのでは。

 ただ、さまざまな条件もあってそれを明確な言葉にできなかった、できるほどの余裕がなかったとか、当時の主流言語の枠の中で、それを抑圧するというような側面があったのではないかと、僕は思っているわけです。

 定住志向と祖国志向とが完全に背反しているわけではないでしょうから、それらが共存しないなどと言っているわけではありません。そうではなくて、彼らのそうした生活や意識の状況を祖国志向といった言葉で表現可能なのか、それについて僕は次第に懐疑を募らせているわけです。

 彼らのコミュニティの中で、共通の話題があるとすれば。それは祖国の話題であり、望郷の思いであった。それは間違いがないところでしょう。田舎から都会に出てきた同郷人が集まれば、故郷のことを問題にするでしょうし、いつかは故郷に戻って余生を過ごすという夢が語られるでしょう。

 それにまた、テレビが普及し始めるまでは、彼らの情報媒体は、殆ど同郷人の口コミや、同胞組織のメディアに限られ、そこでは当時圧倒的に主流であった理論、そしてそれに収斂しそうな心情だけが語られていて、彼らは自らの生活意識をついついそうした言語に収斂する「癖」をつけたのでしょうが、その生活と意識の実態が祖国志向ということに本当に収斂していたものなのかどうか。

 そうした生活者の生活や意識をもっぱら、政治情勢や運動に還元したり、或いは運動史の側からだけ理解すると、実態とかけ離れてしまうのではないかと僕は懸念するわけです。記録として残るのは社会運動の記録や、オピニオンを主導した方々の言説、或いは、それに指導された方々の体験談といったことになりがちです。

 しかし、ただただ生活に専心し生きながらえようとしながらも、時には動員をかけられて、同郷人の誼や、一体感を確認するためにさまざまな集会に参加したりしていた人々、そういう人々が、生きている場で考え感じていたことを表現する言葉を持たなかっただけではないのかと。

 この話をさらに広げると、在日朝鮮人問題を研究したり、運動を組織したりといった方々と、「在日」の条件をただただ生きている人々の心の中とは相当にずれがあるのではないかといったことにまで想像が広がるのですが。

 要するに、余儀なく移動する人間の現実に対する想像力の問題であって、それを当時の、そして現在の主流的言語の束縛から脱して見ようとする姿勢、それを確保すれば、「在日」の歴史と現在に対する視点も大きく変更を余儀なくされるはずです。そんなわけで、本国志向といった言葉に代わるものはないのかと、僕は自分に問うているのです。
 
 その延長上で言えば、そうした「在日」の条件の中でそれを殆ど運命のように受け入れて、ともかく生きよう、生き抜こうとしてきた人々であっても、具体的な問題でこの社会の壁にぶつからざるをえず、それが限度を超えると、異議申し立てをしないわけではありません。

 それは何よりも生きる必要にかられてのことでしょうし、それは人間の権利に他ならないわけですから、祖国とあまり関係を持たない、いわば「意味のない国籍、空洞の国籍保持」といった側面からものを考える必要があるのでは、と僕は考えるわけです。

 「空洞の国籍」を保持すること自体が一つの意思表明であり、それは、国民国家論への異議申し立てといった大げさなものでなくとも、それに通じる何かを孕んでいたのではないでしょうか。人間はある程度の経済的不利益など、(但し、限度を越えればどうなるか、分かったものではないし、その限度自体も人によって様々なのでしょうが)それを敢えて引き受けて、意地を通す、或いは、自分が強いられてきた境遇がもたらしたものに対しての異議申し立てをするといった場合が多々あって、さらには、それこそが自分の生きる意味だと考えるに至るということもあるような気がします。
 
 そういうものとして、「空洞の国籍」の意味というものがあるのではないでしょうか。一定の国籍を持っていても、それ自体が空洞であること、それを重々承知しながらその空洞にみずからの思考や心情をこめるとすれば、その空洞らしきものも十分に意味を持つのでは。その意味が次第に色あせてきているということもあるのかもしれませんが。このあたりは相当に曖昧なままに留まった話ですが、既に李さんのお話にも関連しています。 

 ③ そこで、李さんの「在日コリアンと国籍の意味」と題された発表の中で取りざたされている「祖国に背を向けた「ニヒリズム」」について。韓国で「在日」の参政権が認められるようになりそうなので、その方向で主体的に生きることによって「半難民」状態から主権者として生きることが可能になるのだから、そのラインでの投票行動を称揚する、といった李さんのお話については、僕は賛同します。

 いつだって選択の幅が広がるということは歓迎すべき事柄です。その方向にどれほどの現実性があるのか、といった点については少々懐疑的なのですが、そうした方向での運動についても、反対するつもりは全くありません。

 しかし、そこに至る過程の議論には躓いてしまいます。「在日の祖国ニヒリズム」と命名されているものです。その昔、先輩達、或いは、敵対する組織の人々、さらには、「在日」の民族運動、人権運動を担った方々が僕などに投げつけてきた「脅迫」を思い起こすのです。自分の意見に賛同しない人間は民族ニヒリズムに陥っている、あげくは民族の敵であるといったわけです。

 人間の個々にはさまざまな条件があり、解決すべき問題にも個々に優先順位がありますから、意見の違いは当然のことです。なのに、その違いを認めることなく、他を否定するといったことが往々にしてあり、とりわけ、「在日」にはそれが強いような感触が僕にはあります。

 僕としてはむしろ、他人をもっぱらオルグ或いは説伏の対象として扱い、あげくは自分や自分の党派の意見に与しない人間をニヒリスト呼ばわりする人々の方に、根深いニヒリズムを認めます。さしあたり自分の、或いは「在日」の具体的な問題に集中してその問題の解消に努める人々を祖国に対するニヒリズムなどと呼ぶ必要はないのではと僕は思います。

 具体的な問題が多々あるから、「在日」の問題を本国の「本質的な矛盾」なるものに収斂させることなく、ひとまずは「祖国」なるものを括弧に入れて、問題解決に努めようという立場、これを「ニヒリズム」などと呼ぶ必要がはたしてあるのか、と。もっとも、当初は括弧に入れたつもりにすぎなかったのに、それが次第にすっかり忘れ去られてしまったということならそういう側面も否みがたいのですが、それでも、すこぶる否定的な含意の強そうなレッテル貼りは不要ではないかと。

 それにそもそもが、李誠さんのバランスの取れた論旨においては、そうしたレッテルなどなくてもなんら不都合はないのではと僕は思ったりもします。ただし、これはいつでも対立を回避しようとする甘い人間の逃げ口上なのかもしれません。

④ 次いで、このセッションとは直接には関係ないのですが、このシンポ全体のテーマ設定「浮遊する在日」について。

「浮遊する」ことについて、否定的な含意があるようなのですが、それをどう考えるかという問題です。

 僕は「在日が浮遊している」と言われればそうかなと思いはするものの、それはむしろいい事ではないかなどと天邪鬼を発揮して考えたりもします。ようやく浮遊する余裕ができたのか、よいことではないのかと。

 ところが、少し考えてみると、「在日」のなかで浮遊する余裕を持っている層は限られているのではとも思い返したりします。「在日」的職種、つまり自営業種の落ち込みは一般日本人と比べて更に激しいような感触があるからです。

 階層分化がますます激しくなっており、富裕層は日本人の富裕層と、知識人は日本人の知識人と、中間層は日本人のそれと共に生きており、その一方で、貧困層は、日本人のそれと前者たちのように共に生きているわけではなくて、孤立化が激しく、それに対して、「在日」のコミュニティや親戚といったセーフティネットが以前と比べれば届きにくくなっていると感じているわけです。
 
 そうした不安を浮遊状態と名付けておられるわけではないのでしょうが、そうした層では、不安が蔓延しているという事実はおさえておいたほうがよいのかもしれません。

 しかし、その一方で「在日」が浮遊していると見えてしまうような視点があるかもしれませんが、それは実態と言うよりは、心理的なものではないかと。多様化のなかで、心理的に揺れ動いていると。民族主義的な縛りが希薄になって、というより、その表層が剥落して、その内部で常にあった不安が露呈しつつあると。これについては一定の妥当性もあるような気がします。但し、それはあくまでそういう側面もあるかなあ、と言った程度です。

 それより、むしろ次のようなことの可能性が高いような気がします。「浮遊する在日」、それはひょっとして、「在日」を研究している方々、「在日」を先導しようと考えている方々、これを少々嫌味な言い方をすれば、「在日専従」の方々と名付ければ、そうした「在日専従」の視点に映る「在日」像ではないのかと。

 多様化が進んだ結果、従来のように図式的に把握することが出来なくなっており、図式を成立させてくれるような基準自体が多様化した結果、分かりやすく人をリードするような何かを言いにくくなっているというように。つまり実態とそれに対する像との乖離。それが「浮遊」という言葉に集約されていると。

 もしそうした僕の思い付きに少しでも理があるとするならば、「在日の浮遊」といった視点の根拠そのものに自己言及するという方向性が求められます。つまり、その視点を成立させている思考や心情の基盤自体に立ち戻って、それを考える必要があるということになります。

⑤ ついで、「同胞」という言葉について。僕は若かりし頃に、民族団体などでこの言葉を習得し、次第に当然のこととしてそれを使い慣れるようになりました。それは「美しく、僕を酔わせる」言葉でした。異化の眼差しに囲まれて生きてきた人間にとっては、それはしばしの憩いの時空を与えてくれました。しかし、それはあくまで「同族」だけの時空で使われるはずでした。ところが今や、そして、「同胞だけの世界」ではなく開かれたはずのこうした空間においても、それが当然のごとくに使われていることに少々唖然としています。

 日本人がこの地には日本人以外には存在していないかのように、「われわれ日本人は」などと話すのと同じように、「われわれ在日同胞は」といったわけです。これは不思議だし、敢えて言えばすごく危険なことではないかと思ったりもします。

 今や多様化を増し、何をもって一括りするのかが問われている在日朝鮮人の世界を指して、同質性をアプリオリに設定したそういう言葉で語られること、これは民族的主体性なる言葉もよく似たことなのですが、同質性の強要や脅迫の疑いが濃くなっている言葉を、在日朝鮮人ばかりか、日本人研究者も用いることの鈍感さ、これは驚くべき事態だと僕は思ったりするわけです。他者の存在に対する鈍感さ、そして言葉に対する鈍感さと二重の問題を露呈しているような気がします。

 曖昧な話の積み重ねに留まっていますが、このあたりで切り上げます。ありがとうございました。

3. 次いでは、僕のコメントに対する報告者の皆さんの反応を聞いて、事後的に感じたり考えたりしたこと。

① 李誠さんは、僕のコメントに対して、「ニヒリズム云々については、言いすぎだったので、考え直したい」と、僕が想定していた以上に真っ向から僕の意見を受け止めてくださって、僕のほうがかえって恐縮するような気分になりました。そこで、改めて僕の方から釈明の必要を感じました。

 李さんの論文を丁寧に読んでみると、僕の指摘したような誤解の余地は少なくて、僕の意見は僕の個人的な体験にあまりに引き寄せすぎた過剰反応という気配も否めません。さらに言えば、将来を展望し、新たな道を模索するために、過去を乗り越えられるべきものとして設定し、必然的に否定的な言辞を用いるといったことも致し方ないのではと思い返しました。

 ただ、繰り返しになりそうですが、乗り越えるべき過去を矮小化してしまうと、乗り越える必要のないものになってしまったり、乗り越えの成果そのものが極めて卑小なことになってしまいかねない。このことだけは忘れないでいたい、といったところが僕の最終的な意見となります。

② 金泰明さんは、僕の疑問表明に対して、「本国志向という言葉に換えて相応しい言葉があれば、それに換えることに吝かではない」とお答えになられました。それにまた、「そうした解釈は自分が考えだしたことでもないし、自分にとっては大きな意味はもたない」といった口吻でした。

 これについては僕の意図的なやわらかい物言いが災いして、誤解を与えてしまったのかも、と反省の必要を感じました。既に述べたことではありますが、言葉を変えること、それは視点を変えることでもあります。過去のある時代の「在日」の実態に関する定義を変えること、それによって、現在、未来に対する「在日」像の可能性が更新されるかもしれないといったことを、僕はあまりにも微温的に言ってしまい、その言葉面を意図的にか或いは無意識にか、金さんは矮小化してお答えになったような気がしました。

 もちろん、責は僕にあります。研究といったものは最終的に言語化されるわけで、その言語はきわめて重要であるということ、関係や立場などといったことにあまりにも捕らわれるとまともな対話はかえって難しくなるという事実を改めて思い知らされた気がしました。

 かつての「在日」の生活や意識を「本国回帰」といった言葉に収斂させないとすれば、改めてその生活や意識の現実にこれまでとは異なった視点が探られねばならず、そこで捜し求められるべき複数の視点は、現在、未来の「在日」にも重なってくるはずのもので、その探求はこのシンポジウム全体に関わっているはずです。

 これについては、先に「浮遊」や「同胞」といった言葉に関して述べたことや、後述する「民族主体性」などといった言葉とも大いに関連しているはずです。

③ 原尻さんは、僕のコメントに対して、2つの答え方をされました。

 あの映画の作者の意図は完全に映画全体を支配しているということ。これについては僕には何も付け加えるべきことはありません。第二に、「潜在的な読者、視聴者などというものは、具体的な資料としては探索不能で、研究対象にならない」とおっしゃったようですが、それについては、僕もある意味では予想していたことでありますし、その意味では僕のコメントは無理難題といった側面もあるかなあ、と思いました。

 しかし、日本人、「在日」、そして韓国の視聴者を取り上げ、あたかも、そのすべてに規範的なものの見方を想定した分析の仕方はやはり問題が残るのでは、と僕は思います。科学的な研究の対象として探索不能であっても、少なくともそれを視野に入れてこそ、科学的に探索可能な意思表明の幅や限界が浮かび上がるのではないかと。そのほうが実は科学的な研究ではないのかと。

 以上で、今回のシンポジウムでの僕に与えられた役割を終えたことになりそうなのですが、最後に、このシンポジウムの総まとめとして設定されたはずの第6セッションの議論を聞いていて、特に気にかかったことについて少々触れておきたいと思います。

④ このセッションは実に多彩なパネラーが揃い、うまくいけば実りある議論がなどと期待していたのですが、フロアーにいた僕などのその期待は大きく裏切られましたし、壇上の皆さんそれぞれも不満を多く抱えたまま終わってしまったのではないかと推察いたします。

 その責が何処にあるのか、誰にあるのか、といった犯人探しをするつもりなど僕には毛頭ないのですが、他者理解の困難は、自らの言葉の出所を知らない人が一人でも加わると増進されるといったことをしきりに考えさせられました。

 どんな言葉も、たとえそれがある局面では積極的な働きをしたとしても、別の局面では抑圧的に働くという殆ど普遍的な事実に対する理解、さらに言えば、自らが依拠する言葉に対する懐疑、そういうものを内在させてものを言うかどうかに尽きそうな気がします。とはいえ、そのことを総括的にここで展開するつもりなどなくて、その一つとして、僕が久しぶりに耳にした「民族的主体性」という言葉についてだけ少々思うところを述べたいと思います。

 その言葉を僕は学生時代に「在日」の先輩達から学び、後輩達にも伝えました。それはまあ、自らの解放の契機になるものと考えもしていたのです。今尚、そこに含まれた意志といったものは手放しているつもりはないのですが、しかし、僕はもはやそうした言葉を使いません。それは死語であるというわけではないのですが、現状では抑圧的にしか作用しないと考えているからです。

 僕の感じでは、そうした僕の考えは決して特異なものではなく、一般に共有されているつもりでしたから、シンポジウムでその言葉が繰り返されるのを見て、正直驚きました。これは一体どういうことだ、まるで30年も40年も時代が後戻りしているような感じでした。

 その昔、そうした言葉をまるで呪文のように繰り返していた僕らの世代、但し、僕が付き合いを続けている数少ない「在日」が現在それを使わないのは、必ずしも、僕と同じ判断に基づくと言うより、今になってまでそんな言葉を使うのは気恥ずかしいといった感じからでしょうが、その気恥ずかしさには、僕と同じように、僕らの生活の言語ではないといった判断も含まれているのではないかと僕は推察しています。

 但し、それを用いていた当時もそれが生活の言語であったのかどうかも大いに疑わしいところがあります。そもそもそういう言葉を生活実感と照らし合わせることが無理なのかもしれませんが。がともかく、それは自己肯定をするために必要であったということだったのでしょう。

 朝鮮人であることを恥ずかしく思う必要などない、そこに先ずは力点があり、その上に、歴史的な使命だとか、その他もろもろの理屈が上乗せされていたはずです。しかし、その第一点とそこに上乗せされたさまざまな「正しい理屈」との間にはやはり大きな飛躍があって、各人が個別に生活に立ち戻っていくと、その飛躍が飛躍として意識されてくるという経路があったのではと思うのです。そもそも同じ民族的主体性なる言葉を使いながらも、個々がそこに別の思いをこめていたのかもしれないのです。

 僕らにとって、そうした自己肯定は必要だったこと、これは疑いを容れません。その先でどのように生きるか、何を第一の問題として引き受けて生きるかというレベルに達すると、各人に驚くべき多様性が生まれます。そもそも「民族的主体性」なる言葉にも多様性が含まれているのですが、その多様性よりも、ある政治的な主張や政治的路線が暗黙の了解とされ、それに従わないと主体性の喪失と言ったレッテルを貼り付けて攻撃するという時代的な含意が付き纏っていたのではないでしょうか。

 劇薬の比喩を利用して考えることができるかもしれません。数々の病気を抱えていても、先ずは焦眉の病気を治癒させること、少なくともその悪化を食い止めて病人を生かすためには、劇薬を用いざるを得ない場合があります。その劇薬が副作用を伴うことを承知のうえで、そうせざるを得ない場合もあるわけです。

 そうしたものとしての「対抗的民族主義」を考えることができるのではないでしょうか。

① 世界の問題をことごとく民族間の軋轢としてのみ捉えるという立場もあるのでしょうし、
② 世界はともかくとして、朝鮮人に限ってはとか、
③ 或いは「在日」に限っては、といった立論も可能かもしれません。

 ①の立場に立つ方が多いとは思えません。民族問題、階級問題、性差別の問題、世界経済の問題、環境問題、その他、数多くの問題をすべて民族問題に帰着させるような乱暴な議論を認める方は今や少ないでしょう。では②はどうか。南北の対立は列強による朝鮮半島支配の結果なのだから、ある程度は民族問題に帰着させることは可能かもしれませんが、その一方で具体的な問題を矮小化することになりかねません。

 南北の対立は、体制の生き残り、一族の生き残り、の問題が大きく関わっているし、南に限れば、今や民族の問題よりも、階級の問題や、性差の問題などが大きくクローズアップされてくるはずです。では③はどうか。「在日」は日本にあって、何よりも民族的に抑圧されているのだから、少なくとも「在日」に限っては、根本的問題は民族問題であると。これを全面的に否定することはできません。民族差別は歴然としてあります。しかし、それと同時に階級の闘争もあり、男女の闘争もあり、その他、数え上げていけばキリがありません。だからこそ多様化が取りざたされているのでしょう。なのに「在日」の民族的な集まりでは、「我らが民族」という形で同質性を前提にして何もかもが論じられがちなわけで、それ自体がすでに多くの問題を孕んでいます。

 これは、何でも「根本問題」なるものに収斂させて敵と味方を設定するという危険な単純化にすぎなくて、実はさまざまな問題の隠蔽、さらには、抑圧にもなりうるという側面、これをないがしろには出来ません。

 民族的主体性という言葉が孕んでいたさまざまな要素を一度解体して、そこに何が含まれていたのか、そしてそれを現在の状況や個々人の生活と照らし合わせて、何を生かせるか。そうした検討をしながら、新たな切り口、つまりは、新たな言葉を編み出していく必要があるのではないでしょうか。

 問題を放り投げている部分も多々あるようですが、とりあえず、以上で終えます。
 
 シンポジウムの主催者には報告集を刊行する計画があるとのことですが、僕の以上のような文章はそこにうまく納まりそうにないような気がして、それでも自分なりに何かを記憶に残しておきたいと、記憶がまだ残っているうちにと、慌てて書いてみました。

 ここで論じきれていない部分は、長年に亘って僕の前にそびえている障壁そのものであって、今後も繰り返し繰り返し、僕の前に立ちはだかりそうです。いつかクリアーに語る日が来るのかどうか。そうするには何が必要なのかを考えあぐねているところです。
ありがとうございました。