玄吉彦著『漢拏山』第二部星条旗時代第6章「共和国の夢」5-6
5.
秋の夕立でもあったのか、湿った木の葉が道端にうす汚く舞っていた。時折、プラタナスの枝を揺する風の音が聞こえた。仁擇とソンスは討論会を終えて、キョンウン洞の天道教会館から出てきながら、今更のように大股で近づいてくる秋を思った。季節が変化にもすっかり疎くなっていた。
「本当に朝鮮は独立するのだろうか?」
仁寺洞の路地に入ると、仁擇はいきなりそう言った。
「どうしてだい?」
ソンスはそんな質問が意外だった。
「いろんな話があるものだから、ついついそう思うんだ。さっきあそこで聞いた話も、一つだって頭に残ってないんだ」
「腹が減って、そうなんだろ」
ソンスは道端の安食堂に入りながら、仁擇にニッと笑いかけた。いつも昼食は5円ぽっきりの手打ち麺(カルグッス)だった。
「一度、故郷に行って来いよ。郷愁病にでもかかってるからだ。それだから確信が持てず、討論だって言葉遊びのようにしか聞こえないんだ」
手打ち麺が来ると、ソンスは先ず、汁を一口啜ってから、箸を使って麺を食べ始めた。しかし、仁擇は食べたくなりもしなかった。90頁
二人は今、<督促中協>に参与する共産党の戦略に関する討論会から出てきたところである。朝の9時から12時まで予定されていた討論会は、ずいぶん遅く1時20分になってようやく終わった。
10月16日にマッカーサーが手配した飛行機に乗った李承晩は、全国民に団結を訴え、25日には独立促成中央協議会を結成し、乱立している政党や社会団体の統合を目論んだ。
そこで共産党側でも、李承晩を無視するわけにもいかなくて、参加することになった。そして、11月2日に開かれる督促中協の第2回大会に先立って、党の戦略を点検するための青年党員意志統合討論会が、天道教会館小会議室で開かれた。主催は朝鮮政治社会研究会という学術団体だが、仁擇も先週から裵ソンスに案内されて、何度か参席した。京城帝大の地下サークルで知った顔も何人か見えた。
「なあ、朝政社研(朝鮮政治社会研究会)の実態はいったい何なんだ?討論会の方向を参与反対の方に持っていくつもりらしいが、党でも参与について意思統合ができていないんじゃないか。だからおそらく、青年党員の意思という名分を掲げて、参与派を攻撃しようとしていそうなんだが・・・」
仁擇は討論会の感想を正直にぶちまけた。討論の場では仁擇は見学するだけだったが、いざ会議場から出てくると、虚脱感が強かった。今日の討論会では3名が発題し、それに続いて30余名全員が討論に参与するといった、意思統合のための自由討論会だった。仁擇はすでに言葉の威力の恐ろしさを知っているので、その威力を消費財のように浪費しないために、しっかり口を噤んでいた。軍政学校当時、同僚の死の直前に党性を標榜する言語術で、彼らを救いだしたことを記憶していた。組織部長を感動させた言葉の遊戯、その魔力を痛感した。ところが、その魔力が強ければ強いほど、その濃度が濃くなることも知った。だからこそ、最近では公式の席上では、言葉をできる限り出し惜しみしていた。91頁
ソンスは麺を食べつくして時計を見た。仁擇は気分も憂鬱で体も疲れ切っていた。反共主義者であることを自他共に認める李承晩の督促中協に、参与する党の本意が気に入らなかった。李承晩を是が非でも人民共和国の主席に据えるべきなのか、討論会ではそんな指導部の施策を戦略などと呼んでいるのが、納得できなかった。
「事務室に寄らなくてはならないんだ」
食堂を出ると、ソンスは楽園会館側を指さした。ソンスは帰国するとすぐに忠清道への帰省から戻ってくると、学徒兵同盟の仕事にかかりっきりだった。企画局が新設されて以降はその一員として活動していた。
「俺はもう、渡日して復学するわけにもいかないし、だからといって、こっちで専門学校に通うわけにもいかないのだから、軍人になる道しかないんだ。そこで・・・」
学徒兵同盟の仕事に熱心に関わっている理由を彼はそのように説明した。
「なるほどな、俺の方は、学校にでも行ってみるか」
仁擇は鐘路2街の市電停留所の方に向かいながら、全く考えてもいなかったことを口に出してしまった。帰国後、学校には一回も立ち寄ったことなどなかった。すっかり空っぽの講義室、汚い檄文が貼られた掲示板、知った顔に会うこともできず、教授の研究室もほとんど空だった。民法を教えていた柳教授だけが、まるでこの時代の人ではないように部屋にいた。教授は仁擇だと分かると、
「生きて戻ってきたのか?」
意外とでも言わんばかりに、呟いた。その顔には虚無がべっとりとねばりついていた。
その日から学校がはっきりと嫌いになった。しかし、今日は気持ちが違った。92頁
勉強を継続しようか、父の期待に沿うために高等文官試験の準備をして・・・
風に飛ばされた湿った木の葉が、しきりに足に絡みついた。何度も腰を屈めて、下半身にまとわりつく落葉を取り除いた。
仁擇は恵化洞行きの市電を2回も乗り逃した。そうしてみると、行くあてがなかった。キェ洞の趙女史に会って、済州の消息でも聞いてみるか。帰国して数日後に昌徳女子中での政治集会で偶然に趙ジョンヨンに会った。顔を背けようとしたが、向こうが先に人の波をかき分けて近寄ってきた。
「あれまあ、仁擇氏、生きて帰ったのね」
金尚球夫人は涙まみれで喜んでくれた。しかし、趙女史の相手をするのは気が重いだけだった。ソウルで学校に通う二人の息子であるヒョンソクとヒョンミンのためにソウルで暮していたが、済州の消息も教えてくれた。
「今はどこにいるの?」
曖昧に返事した。もしかして、自分の立場を悟られるかと恐れた。
「済州への船便を確保するのは難しくなったわ。それでも木浦や釜山で待っていれば、なんとかできるそうよ。郷里では、今か今かと首を長くして待っているんだから・・・」
趙女史は仁擇が今でもソウルに滞在しているのは、もっぱら交通便のせいと思いこんでいた。国境を越えてソウルに戻ってくるまで、仁擇はどれほど帰郷したかったことか。ところが、ソウルの事情を知るために幾日か滞在しているうちに、思ってもいなかったことに、ソウルに捕まったみたいに居座ってしまうようになってしまった。
仁擇は3週目にもなったソウル生活が他人事のように思われた。ソウル駅で降りると直ちに市電に乗って、当然のこととして向かうべき家のように、数年間にわたって下宿していた明倫洞の家を訪れた。93頁 大学予科時代から入隊前までの3年間、そこに下宿していた。海を越えてはるばる上京してきた身なので、その家の主人も格別に優遇してくれていたので、足が向かった。
下宿先では、息子が生きて戻ってきたかのように、喜んでくれた。彼がかつて暮らしていた部屋は空いていた。解放以降、いつか戻って来るものと信じて待っていたと、殖産銀行に勤めている亭主は語った。そのうえ、その日の夕食では、彼の帰還を喜んでくれるもう一人の人物にも再会した。ソウル女子商業を出て朝鮮銀行に勤務する柳スンフィだった。仁擇が入営した時には、女商を卒業後に入行して何カ月も経っていなかったからか、まだ女学生臭さが抜けていなかった。ところが今では、すっかり成熟した女として彼の前に現れた。仁擇は彼女が送別のプレゼントとしてくれた、青い糸でバラの刺繍が施されたハンカチを思い出した。それはおそらく妻の仁子にプレゼントしてやったはずだ。
「仁擇君、まずは嫁を娶らないといけないね。跡継ぎ息子なんだから親御さんたちがどれほどご心配のことか」
下宿先では彼の結婚のことは知らなかった。仁擇は喜んで迎えてくれる下宿先の主人の優しい待遇もあって、すっかり寛げた。
「済州への船便は途切れていそうだから、ここでしっかりと休んで体調を回復して、世の中の事情が少しは分かってから、帰郷すればいいじゃないか。今後、しなくてはならないことが沢山あるだろうから」
下宿の主人のそんな勧めが有難かった。船便が困難になったことが格好の口実になって、帰郷した気分で、手厚い世話を受けながら日々を過ごし始めた。
しかし、休めば休むほど疲れを感じ、意識ももうろうとしていた。政治集会に出て、興奮して浮かれて騒いでも、下宿に戻れば、頭の中は空っぽで体は疲れた。だからほとんど眠りの中にうもれてしまっていた。下宿の主人夫婦はまるで実の息子のように接してくれた。仁擇はそんな彼らの気持ちを、まったく負担に感じないで受け入れた。94頁
日曜日だった。昨夜はひどく飲んだ。集会で大学時代の友人に出会った。党の青年組織を主導しているその友人は、どうして躊躇っているのかと、仁擇を急き立てた。躊躇っているのではなく、待っているのだと答えた。独立同盟の指導部の期待を、彼は大切に心の中で忘れないでいた。ソンスは学徒兵同盟に入ったが、仁擇はまだ道を見つけ出せないでいた。ところが、どこにも所属しないのは孤独なことだった。自分の党性の実体は何なのか。本当に自分は共産主義者なのだろうか。そんな懐疑が時折、心をかき乱した。
「共産主義が政治的ヘゲモニーを確保するための方便になってはダメだ。唯物論的世界観が自分の生の中に溶解されて、具体的な生活の指標として現れなくてはならない。その世界観から醸し出される政治意識こそが、新しい世界を建設する力になる。その点で僕なんかはまだ熟していないリンゴなのだと思っている」
仁擇は友人の前で久しぶりに自分の姿を隠さなかった。
「リンゴは時間を食べながら、自らが陽光と風を受けて熟していく。理論は生を通じて形成される。先ずは参与するんだ。君のそんな懐疑など、自分についての正直な省察ではなく、安逸な生を合理化しようとするものに過ぎない」
友人は彼を嗜めるように反駁した。討論は継続し、酒席の話は面白かった。どのようにして下宿屋に戻ったのかも覚えていなかった。
朝になったが、家の中は静かだった。喉が渇いた。その時、戸が開き、スンフィが入ってきた。
「両親は郷里に行ってしまいました。今日は祖父の祭祀の日なので・・・ちょうど、日曜日だし」
彼女は家に誰もいないことを強調しながら、白い磁器を差し出した。95頁
「これを召し上がって、体の中をさっぱりなさって。そして食事を済ませてから、改めてしっかりとお休みに」
彼女が差し出した鉢を受け取った瞬間、彼女の手と顔がその鉢のようにすべすべで白いように思った。そして、鼻に入って来る女の濃厚な臭いが、胸にまでしみ込んできた。女は彼の眼差しに怯え、直ちに引き返そうとした。彼女に対面していないことが彼の勇気に火をつけた。彼は女の肩を後ろから荒々しく抱きしめた。きらきらした彼女の怯えた顔からは目をそらして、女を布団の上に押し倒した。簡単に倒れた女に、彼は自分の力を激しくぶちまけた。
久しぶりに濃く甘い女の体を味わった。その瞬間、妻の顔が彼の脳裡をかすめたが、それもすぐに通り過ぎてしまった。
それは沼だった。いくら落ち込んでも底が現れなかった。そのうえ、沼は気楽だった。女は両親の黙認の下で、夜ごとに彼のところにやってきた。
無気力な毎日がもたらす倦怠感の中にあって、彼女の肉体は毎晩、彼に微かな緊張を維持させてくれた。そして朝になって巡ってくるあの浅い自責の念も、彼の緊張を維持するにあたって必須のものとなった。だから彼は飽き飽きすることもなく、その生活を楽しむことができた。
「今夜は下宿に戻ってはならない」
そんなことを考える自分に驚いた。緊張をつくれば、自分の倦怠も少しはましになるだろう。学徒兵同盟の合宿所にでも行って幾日か過ごそうか。
ところがそれから少しの時間が経つと、学校を訪れるのはやめにして、市電の停留所から離れて、気が付いていると昌徳女子中の方に向かっていた。96頁
「そうだ、梨花女子中に通っていた任淳瑛に会ってみたのかしら?この学校にいるんだけど」
あの日、趙女史は校門近くまで来た時、ふと思いついたように、任淳瑛のことを持ち出した。彼が首を振ると、しばらく間をおいてから、職員室の方に歩いて行った。その間に、仁擇は学校から去ってしまった。あの時、彼女に会いたかったのに、会わなかった。どうしてなのか分からない。
ところが今日、趙女史のことを思い出すと、あの日には避けた任淳暎に会いたくなった。授業中なので、学校の玄関前の銀杏の木陰で、淳暎を待った。
「仁擇氏!」
鐘の音がしてからも少し待っていると、彼女が小走りで飛び出してきて、大声で呼んだ。授業を終えた女学生たちがどやどやと運動場に出て来て、その中に彼女も交じっていた。
仁擇は待っている間に、変化した彼女を想像してみた。分からないほどに変わっていたらいい。しかし、いざ会ってみると、パーマ頭に黒いチマと白いチョゴリ姿で、以前とまったく変わっていなかった。
「死なないで生きて帰ってきたのね!」
彼女は生徒たちのことなど構わずに、仁擇の手を掴んでゆすった。生徒たちはむしろ照れている彼の表情が面白いといった様子で、じろじろと横眼で見ていた。
「歳月が経っても任淳瑛先生は変わってないなあ!」
仁擇は待ちながら思っていた内心を打ち明けた。
「そんなことだろうと思っていたわ。結婚でもしていたらと、期待していたんでしょ。そうだったら、仁擇氏の前でも、少しはおとなしくなっているだろうし、平凡な主婦に転落するのを望んでいたのでしょ?そうでしょ?」
彼女ははしゃいでいた。97頁
始業の鐘が鳴ると、彼女は別館にある学校図書館に彼を案内した。3階の図書館司書の部屋の片隅の小部屋の前に立った。そこには「ソウル市女性教員同盟」というハングルの看板がかかっていた。
彼女が全く変わっていないことを確認した。
「実は趙女史から仁擇氏の消息は聞いていたんだけど・・・」
あの日、趙女史と一緒に校門近くまで出てきたら、仁擇はいなかった。その時に淳暎は初めて、彼の結婚のことを聞いた。
「おそらく崔君は任先生に会い辛いので、避けたのでしょう」
趙女史は姿を消した仁擇の立場を説明した。しかし淳暎がよくよく考えてみると、それとは別の事情がありそうに思えた。だから彼女は毎日、仁擇が姿を現すのを待っていた。ある時には、昔の下宿を訪ねてみようかとも思った。彼女もその下宿を知っていた。ところが、今日、しょげかえって現れた様子を見ると、直感的に何かが起こっていると感じた。
「今、もしかしてあの下宿で丁重にもてなされているんじゃないの?」
「もてなしだって?」
仁擇はにやにや笑ってしまった。しかし、彼女の驚くべき直観力は相変わらずだと思った。淳瑛もそれ以上は何も尋ねなかった。
「早く故郷に帰りなさいよ。夜も寝ずに待っている家族の人たち、特に奥さんのことも考えてあげないと。男が女を寂しくさせるのは罪の中でも最大の罪だわ」
淳瑛はさらに何か話そうとしたが、それまでにした。崔仁擇、この男は曲がることはないけど、その分、簡単に壊れてしまうのが欠点だわ。長男のせいなのか。苦労を知らず、不可能なんてことを考えたこともなく生きてきた彼のことを、彼女は良く知っていた。仁擇については本人が知らない部分まで知っている。そんな点が軍隊生活で少しは変わっていればと期待していた。98頁
「どのようにして生きて戻れたの?」
「実は、すぐに帰郷できないのは・・・」
彼は自分がこの女友達に余りにも情けない人間のように映りそうに思って、日本軍からの脱出と独立同盟で教育を受けたことを説明した。
「上からの指示を待っているところなんだ。実際に抗日運動を行っていた軍隊を率いて帰国したんだ。それは単なる軍隊と言うよりも、一つの政治勢力にもなるものなんだ。僕はソウルでしなくてはならないことが沢山あるんだ。だからこそ、帰郷しないでいるんだ」
彼は裵ソンスが学徒兵同盟に参与していることまで、弁明の中に含めていた。
「それでも早く帰郷して、改めて上京すればいいじゃない。仁擇氏の前途には本当にたくさんのことが待ちかまえているのよ。それに・・・」
彼女は下宿先の話をしようとしたが、それは思いとどまった。
「一緒に済州へ行こうか。あちらでやることがあるの。女性の教育もしないといけないし、いつか学校の休みを利用して、行ってこようと思っていたんだけど、だからといって、仁擇氏の新婚生活に迷惑をかけたりはしないわよ」
淳瑛は実に堂々とした女性として、仁擇の前に現れたのである。その日、二人は夕食を一緒にしながら、長時間、話し合った。そして、下宿に戻りながら帰郷する決心をした。木浦か釜山へ行って、待ってみることにしよう。なんたって帰還男子じゃないか。
下宿の部屋には、いつものように女が待っていた。
「ちょうど、済州へ向かう船便があるという連絡を受け取ったんだ。すぐに帰郷して、両親に会ってから、改めて上京してくるよ」
彼は女の顔から眼を反らして、そう言った、女は目を大きく開いて頷いた。99頁
「いつ頃、戻ってこられるのかしら。復学もしないと。私が代わりに手続きをしておきましょうか?」
女は彼の胸に崩れ落ち、すすり泣きながら、そう言った。
「そんな必要はないよ」
仁擇は曖昧に答えながらも、女が泣いていることは分かった。だからこそ、女をますます力強く抱きしめた。
6.
「トルトルドンコドク、トルドルコドンドントン」
埃を包みこんだ風が運動場を掃きながら通りすぎ、ガラス窓を揺すぶった。低学年を担当する先生たちは授業を終えて、いろんな仲間が集まって腰を下ろし、雑談を交わしていた。そして時折は、白い埃が立つ運動場を見下ろした。
「日本軍はほぼ撤収したのかな?」
「山地埠頭で、上半身を裸にして検査を受けている姿は一見の価値があるって」
「ほぼ撤収を終えただろうよ」
「それを考えると、済州人の心映えが立派なことがよく分かる。日本人の時代にはあれほどコケにされたのに、そんな憎い連中を静かに送り出すんだから」
「そうじゃなくて、おとなしくしている以外に何ができるんだよ。方法があるとでも?」
「僕らだって、日本人校長、教頭、さらに幾人かの日本人の先生たちが去って行った時には、むしろ寂しかっていたくらいだし」100頁
「建準が人共に変わったからって、何か変わったことでもあるのだろうか?」
校長職務代理の梁ソンジュンが、休憩時間に職員室に立ち寄った権ヒョンスに尋ねた。
「人共は元来、朝鮮人民共和国という公式の国家権力機関を意味するものですが、ハージがそれを公的に認定しなかったので、こんなことになってしまっているんです。最近は鼻の大きな連中が、やりたい放題ですから」
権ヒョンスは米国のことを話題にする時には、「鼻の大きな若者たち」或いは「ヤンキー」といった言葉をしきりに用いた。
「それでも済州島のそれぞれの邑や面では、人共や治安隊がそれなりの役を果たしているらしいのだが・・・」
他の先生が関心を示した。
「それはもう、地域によって事情が違うようです。少し力や権勢がある人が地域の人共の責任者であれば、そうもなりますが、そうじゃない場合には、人共だなんだと言っても有名無実で・・・」
その時だった。玄関の戸がガラッと開き、新聞がポンと投げこまれた。戸の近くに座っていた小使いの鄭君が、すぐにそれを拾いあげて、急いで一面の記事を読んでから、梁先生の机の上に持って行った。それぞれが自分の席に座っていた先生たちだが、欠伸をしながらも梁先生の机の周囲に集まってきた。
「済州新報でもできたから助かるよ。近頃のように世の中が目まぐるしく変わっていく時代には・・・」
梁先生は先月に創刊されたばかりの済州新報があって、幸いだと思った。
「済州軍政実施。島司代理に金文フぃ任命。軍政官はスタウト大領」
大きな活字が眼前を覆った。そして、行を変えて、少し小さな活字で軍政担当者のリストが載っていた。101頁
「法務官ジョンソン大尉。情報官チャールズ大尉。広報官ラクウド大尉。財産管理官マーティン大尉。医務官シュミット大尉」
記事を覗き込んでいた先生たちの目がしだいに大きくなっていった。貴順も運動場側の窓際の席から立ちあがり、男の先生たちのところに近寄ってきた。肩越しに記事を覗き見ながら、父のことを考えた。またしても興奮してしまうんじゃないかしら。朝食前に呉太碩が少し立ち寄って帰ってからは、すっかり沈鬱になっていた。そして食事の直前には、朴世翊が訪れたので、一緒に朝食を摂りながら、
「あくまで臨時措置なので、あまり気を悪くなさらないでください。裵ジョンギュを通して、軍政は人共に関心を持つべきという雰囲気を醸成しているところなのです。済州という地理的特殊性を考慮するように主張しているのです」
朴世翊の話を聞くと、父の機嫌も少しはよくなった。朴世翊は帰郷もしないで、米軍の軍属として働きながら、時折、仁厚の裏の部屋で泊った。家族は彼がフミ子と早く結ばれたらと思っていた。
「これでは米軍の思いのままだ。銃剣を持っているにしても、あまりにも済州人を無視しすぎじゃないか?島司代理に金ムンフぃなんか。人共の委員長や人共で推戴する人物に任すのが筋なのに」
権ヒョンス先生が不平をこぼしながら、仁厚の席である貴順先生の横に近寄っていった。6年生の担任である仁厚は最近、教室に閉じこもって、職員室の席はいつも空いていた。
「金尚球先生はこの頃、お元気ですか?」
貴順は少し当惑した。権先生の言葉には何か棘がありそうだった。
「別に、いつもと変わりないわ。一度、遊びにいらしたら」
以前には彼も家によく出入りしていたことを思い出した。
「金芝勲先生の中学院はうまくいっているのかなあ?」
貴順はにっこり笑うだけだった。彼女もそのことはよく知らない。102頁
「尚球先生が芝勲先輩を相当に信頼なさっている様子で。経済的にもずいぶんと支援なさっているらしいし」
貴順はまったくあずかり知らないことだった。だから、もっぱら聞いているだけだった。
貴順は最近、朝鮮語を教えながら、随分と侘しい思いをしていた。4年の子どもたちにアボジ、オモニ、ウリナラ(我が国)、エグッカ(愛国歌)、ムグンファ(無窮花、槿)、ハッキョ(学校)など、朝鮮語の基本単語を練習させていると、気持ちが滅入ってきた。長い間、朝鮮語を教えられないようにしていた日本のことが、今更のように恨めしかった。
「解放にはなったけど、日本人の代わりにやってきたのは西洋人たちで、今ではその連中と親しい連中が羽をひときわ大きく広げて、・・・今度は英語を教えろなどと騒ぎ出すのでは」
権ヒョンスは愚痴を続けた。すべての物事の根源が米国にあるように話していた。彼は貴順よりも光州師範の2年後輩で、彼女を年長者として礼儀を守ることもあったが、わざとぞんざいな言葉を使うこともしばしばあった。そのうえ、最近は古参の先生方を皮肉ったりまでした。日本の臣民化教育の先頭に立っていたというのである。彼は師範学校を出てまだ2年目にしかならず、そんなことを言えるような立場ではない。
先生たちが一人二人と退勤の準備を急いだ。この頃は授業が終わると、学校に居残る先生は稀だった。退勤する振りをして、それぞれがばらばらに学校を後にした。それまで久しくもてなかった余裕を探し求めている。
権ヒョンスが廊下に出てしまうと、最後に梁ソンジュン校長代理も席から去った。職賃室は貴順一人になった。日直なので宿直の先生が来るまでは待たねばならなかった。103頁
職員室は静かだった。時折、風で窓ガラスが、ガタガタ音を立てるだけだった。その時、廊下東端の6年の教室から、足音が聞こえてきた。貴順は自分以外の誰かがこの建物内にいることを知って、嬉しかった。足音が次第に近づいてきた。
「一人だったんだね?」
仁厚先生が意外そうに、笑いながら入ってきた。
「まだお帰りになっていなかったのですか?」
同じ学校で働きながらも、職員室内で二人になることはあまりなかった。家では 同じ家族のように暮していても、学校に来るといつも距離を保って過ごしてきた。
「6年の生徒たちに朝鮮語を少し教えようと思って」
仁厚は本とチョーク箱を持って、窓際の自分の席に向かった。
「卒業しても朝鮮語もまともに知らないようでは、教えた教師の体面が立たないじゃないか。子どもたちも可哀そうだし、実は自分も可哀そうに思えて」
仁厚は独りごとを言いながら、運動場の方に顔を向けた。運動場の片隅に仁厚のクラスの生徒たちが溢れるように出て行くところだった。」
最近になって仁厚はすごく変わった。終戦直後には洪南杓や梁ソンジュンと親しく過ごし、時局の話にも加わっていた。ところが最近は、もっぱら子供たちと教室で過ごし、放課後も朝鮮語を教えていた。ある時など、家にまで黒板を提げて行き、教材に用いる朝鮮語の読本を原紙に書いた。フミ子を通じて漢拏商事で黒板と原紙とたくさんの更紙を個人的に確保してもいた。
「一人でいないで帰ればいいのに。鄭君と権先生もおそらくどこかにいるだろうし」
仁厚が帰る準備を終えても、貴順はやはり座っていた。仁厚は立ち上がって出て行こうとしたが、貴順の机の上に積まれたノートなどを見て、座りなおした。104頁
「僕が少し手伝ってあげようか?」
「生徒たちが書いた朝鮮語を見ていると、私自身が恥ずかしくなってきて・・・これはともかく、教師である私たちの責任でしょうから」
仁厚は自分が思っていたことを彼女が代わりに言ってくれたような気がして、鼻がジーンとした。彼女を慰められそうな言葉を探した。それは自分への憐憫とも重なっていた。終戦になって、浮ついた雰囲気の中で自分がすべきことを探そうと努めてきた彼は、数週間前に米軍が進駐してきた頃になってやっと、気持ちの整理がついた。先ずは自分が担当していることに最善を尽くそう。それは具体的には何だろうか。先ずは朝鮮語を徹底して教えよう。卒業の前日まで、自分ひとりでもそれに努めてみようと思った。
貴順は手伝ってもらうのは申し訳なくて、まだ読めていない分は明日に回すことにして、机上を整理した。
「なんて意地悪な天気なんだろう」
仁厚は運動場に敷かれた砂が風に吹き飛ばされてガラス窓を打ち付ける音を聞きながら、そう言った。その言葉で貴順も、塔洞の海辺で砂をさらっていく波の音を聞いた。
「お兄さんの消息は?」
貴順は仁厚の反応を注意深く窺いながら、尋ねた。仁厚は貴順の顔を見つめてから、風が立つ運動場に顔を向けてしまった。
「生きていることは間違いないでしょう。お兄さんは家のことよりも他のことに気を遣うような方だから、帰郷も遅れているのでしょう」
貴順は仁厚を慰めるように言った。仁厚はそんなことを言う貴順の気持ちを考えてみた。105頁
「そうだ、金芝勲先生の中学院の仕事、うまくいっているのでしょうか。一度、行ってみなくては・・・」
「そうだね、一回、行ってみなくては。喜ぶだろうし」
芝勲に対する貴順の並々ならない関心も、仁厚はそれほど気にしていなかった。この頃の彼は、自分のことだけに専念し、気持ちも落ち着いていた。
「お母さんから何か話はなかったのかい?」
仁厚は結婚の問題をそれとなく探ってみた。自分は貴順のどんな反応にも動揺しないでおれるという自信をもって、いつか話そうと思っていた言葉を取り出した。
二人はこれまで兄妹のようにして暮らしてきたので、言葉や感情の処理にも、あまり気を遣わなかった。貴順にしても、仁厚は2歳年長だから兄さんのように考えて、異性として接したことなどなかった。学校では先輩で、家に戻れば長い因縁を持つ二つの家族の橋渡しの役目を果たし、父親も手伝うなど信頼に値する青年として尊敬してきた。だからかえって、それ以上は近い関係にならなかった。時折、妻になれるかと思うことはあったが、だからといってそれが気持ちの負担になることもなかった。
「ご両親は僕らふたりのことで何か特別な考えを持っていらっしゃるようなんだが、それについてどう思う?」
仁厚は数日前に趙女史から結婚の話を聞き、それを今日になって、ようやく打ち明けた。貴順は風でガタガタとガラス窓が立てる音のせいで、仁厚の声がきちんと聞こえなかった。それでも、普段にはない輝きを発している瞳を見ると胸がどきどきし、顔が火照った。初めて彼のことを異性と感じた。その瞬間だった。仁厚の顔の上に彼の兄の顔が重なった。106頁
貴順は小学校時代にはまるで先生に対するように、仁擇には気がねなく、言われるままに従っていた。京城への往来のついでに家に一泊して行く彼を待っているのが楽しかった。生まれついての容貌だけでなく、彼のあらゆることが魔力を持っていて、彼女を魅了した。師範学校に通っていた女学生時代にも、時には頭に手を当てて、まるで幼い子供を扱うように可愛がってくれた時も、異性ではなく叔父や歳の差が大きい兄のように見なして、ひたすら彼のことが好きだった。ややもすれば自分ごときは眼中になさそうな傲慢な笑い方と、大人らしい態度が時には憎らしくもなったが、それでも会えたら嬉しかった。だから親たちの口から彼の話が出てくるようになると、自分のことのように訳もなく得意になった。だから、彼に召集令状が来たので結婚することになったと知らされた時には、何日も寝られなかった。しかも、死への道に旅立つにあたって結婚式をあげなければならない彼の立場を知った時には、彼に対する気持ちはますます募った。
仁厚は彼女の顔をよぎった微妙な感情をすぐさま読み取った。兄に対する気持ちが今だに整理されていないことを感じた瞬間、それ以上には言葉を継げなかった。
「兄が戻ってきて、僕が妻を娶れば、我が家では心配の種がなくなるんだ。両親はこれまでひと時も心安らかに過ごせたことがないから」
仁厚はわざと家の事情を話して、話題を変えてしまった。
「いつも決まって、長男のようにお話になりますね」
これまで父親を助けて、家のことを見守ってきた彼のことを、貴順はよく知っていた。金尚球も仁厚をすごく頼りにしていた。
「兄さんは家のことよりも世の中のことの方に気持ちがあるので、ご両親もその点は理解してあげないと」
「お嫂さんだけが気遣いで大変でしょうね」
その時に戸が開いて、小使いの鄭君がプリントを持って入ってきた。107頁 二人は話を中断した。
プリントをたっぷりと抱えた鄭君は、仁厚を見ると緊張した。
「どうしてプリントがそんなに多いんだい?」
「あの、権先生のもので」
鄭君はすぐに廊下に出て行こうとした。
「おい、どこへ行くんだ。僕らも今から退勤するから」
仁厚は貴順と一緒に、すぐさま職員室から出て行きたかった。
「教室に生徒たちがたくさんいますよ」
東側の出入り口から子どもたちの一団が運動場へあふれるように出ていった。
「6年の4組です」
権先生が担当するクラスの子どもたちである。
「6年の先生方は熱心ですね」
貴順は仁厚を見て笑った。その時だった。運動場内にジープが1台入ってきた。子どもたちがその周りに一気に押し寄せた。
「米軍のジープだ」
二人は玄関から出ていった。ジープがゆっくりと職員室の玄関の方に近づいてきて、停車した。子どもたちもジープの後ろについて、職員室の前に集まってきた。米軍兵二人が降りてきた。一人は階級章がなく軍服を着ているだけで、もう一人は背が高い青年将校だった。階級章のない米軍兵が正確な朝鮮語で挨拶した。
「米軍政官室から参りました」
裵ジョンギュは仁厚と貴順に、この学校の先生なのかと尋ねた。
「私たちは本校の教師ですが、今から退勤しようと・・・」
仁厚も礼儀を守って、言った。朝鮮語を話す米軍の横に立っていた大尉は、学校周辺を見回してから貴順の顔に目をとめた。108頁 貴順は背中に鳥肌が立ち、顔が火照った。両手で顔を覆いながら、仁厚の後ろに隠れてしまった。大尉は微笑を浮かべながら、こっくりと頷いた。パーマ頭に洋装で、靴を履いた彼女の様子に米軍は驚いたようだった。
子どもたちがジープの周囲に円を描くように集まり、米軍と二人の先生を好奇心に満ちた目でかわるがわる見つめた。その時だった。子どもたちの中から、
「ヘロー、ユーアーナンバーワン、ギブミーチョコレート」
つかえつかえしながらも英語の声が弾けた。子どもたちが「ワァ」と笑った。大尉がにっこりと笑みを浮かべた。
「さ、これでも食べろ」
ひとりの子どもが左拳を右手のひらに掃き下ろす、奇妙な仕種をした。貴順は顔が真っ赤になった。
「さあ、後へ下がるんだ」
仁厚も、米軍が子どもたちの悪戯の意味に気づくのではと、きまり悪かった。
「明後日、ここで集会を開くという申請があったので、事前に点検しに来たのです」
裵ジョンギュが仁厚に事情を話し、続いて大尉に英語で囁いた。仁厚は耳慣れたいくつかの単語で、場所が広くて大丈夫という意味だと分かった。
「おい、鼻の高い西洋人野郎め、お前らは我が家の子犬たちだ」
その時、もう一人の生徒が他の生徒たちの前に現れて、米軍を揶揄し、にやにや笑いながら、ひっひと声を出した。
「さあ、あの運転士を見ろ、黒んぼじゃないか。我が家の豚みたいに真っ黒だ」
ひとりがまたしても前に出てきて、運転席に座っている黒人兵士に向かって、さっきと同じ拳の仕種を見せた。運転兵はどういう意味なのか分からないままに、白い歯を見せてひひひと笑うと、
「本当に可愛い豚を飼っているもんだ」
と裵ジョンギュが子どもたちに、にっこり笑いかけた。その言葉に子どもたちの幾人かは恐れをなして逃げ出した。他の子どもたちも、のそのそと引き下がった。仁厚と貴順も不安になった。貴順は相変わらず仁厚の背後にぴたりと隠れて米軍の視線を避け、仁厚も顔を玄関側に向けて彼らから目をそらした。その時に、権ヒョンスが玄関から現れた。
「さようなら。またお会いできる機会があるはずです」
裵ジョンギュが仁厚に手を差し出した。続いて、大尉も仁厚と握手してから、貴順に手を差し出した。貴順は蒼白になって怯え、手を後ろに隠して、後ろを向いてしまった。裵ジョンギュが大尉に何か言うと、大尉は手を挙げて笑いながら、車に乗り込んだ。貴順はいたずらに過ぎないのに、融通をきかすことができずに、挨拶を拒絶してしまったと思った。
車が始動した。
「ユーアーナンバーワン、ギブミーガム、ワンワン」
子どもたちがまたしても、あの奇妙な拳の仕種をしながら声をあげると、運転兵がガムを数個、ばらまいた。
車を追っていた子どもたちが運動場に落ちたガムを追いかけた。車は埃を飛ばしながら、悠々と滑るようにして走り去っていった。
「ヘ―イ」
黒人が左手を車の外に出してふりながら、声を上げた。
ガムを追いかけていた子どもたちが突然、立ち止まって、消えていく車を茫然と見つめていた。
「何をしに来たんですか?」110頁
玄関前でその光景を眺めていた権ヒョンスが仁厚に近づいてきた。ガムを拾っていた子どもたちは担任の先生を見ると、ガムを背中に隠してすごすごと後ずさりした。
「明後日にこの運動場で何か集会があるので、場所の確認しに来たと言っていたが」
「連中が場所の確認だなんて。済州人が済州の土地ですることなのに」
権ヒョンスが唾を吐き出すように呟いた。
「なんの大会なんだい?」
「人民委員会の全島大会を開催する計画だそうです。そうだ、先輩、最近、お忙しいのでしょうか?すっかりお顔を出されないので」
権ヒョンスは幾分、皮肉な口調で言った。仁厚は彼の言葉には関心がなく、目をぱちくりするだけだった。彼の情熱が羨ましくもあり、その一方では無謀にも思った。最近、教員たちは時局について話を交わす集まりを何度か持った。仁厚も最初の2,3回は参加したが、このごろは出て行かなくなっていた。
「貴順先輩、どうしてヤンキーたちの前に顔を見せたのですか?奴らは女であれば見境なしですよ。陸地の方で婦女子がひどい目にあったことをご存知知ないのですか?」
彼はにやにや笑いながらそう言ったが、貴順はその言葉を聞くだけでも恥ずかしくて、胸がドキドキした。
「何を言ってるんだ?」
仁厚がとうてい黙っておれなくなって、怒った。
「事実ですよ」
貴順は急いで校門の方へ歩いて行った。
「君のクラスの子どもたちはすごいらしいが、なるほど、先生の教え方がすごいからだな」111頁
仁厚は貴順の恥のお返しにと、皮肉って言った。
「先生の教えの結果なんかじゃなくて、生理的にため込んできたヤンキーに対する拒否感情ですよ」
権ヒョンスもシニカルに受け流した。
「生理的だって?」
「終戦直前にヤンキーたちが済州人をどれほど苦しめたことか?」
「あの時の米軍の攻撃に対する憎悪を、子供たちが今も持っているなどと?」
「そうではないんですが、子どもたちの意識に、そんな感情が隠れているのは間違いありません」
「そうじゃなくて、君や僕は、日本人が仕向けたように、米国に対する憎悪の感情を排泄して、子どもたちの耳に非難の言葉を刻み込んだからではないのか?」
子どもたちの意識の中に場所を占めていそうな反米感情が、いったい何に由来するかを考えながら、いつからか考えていたことを口に出してみた。すると権ヒョンスは黙り込んだ。
二人は校門を出て観徳亭の前に来るまで、どちらも口を開かなかった。
「さようなら」
権ヒョンスは七星通りの方に体を向けて、手を挙げた。仁厚は彼が路地裏に姿を消すまで、立ちつくしていた。漢拏商事の建物内の人民委員会の事務室に寄ってみようかと思ったが、後から「パンパン」という自動車のクラクションの音が聞こえた。道を空けて後ろを振り返ってみると、さっき学校へ来たジープが横を通りすぎようとして停車した。
車が後進して、仁厚の横に来た。
「どこまで行かれるんでしょうか?お送りしましょうか?」112頁
ジョンギュが頭を出して、そう言った。仁厚は笑いながら、たいした距離ではないからと、手で家の方を示した。ジープが動き出すと大尉と通訳が手を振って見せた。
南門通りに入った仁厚はふと、七星通りの漢拏商事の建物内にある島の人民委員会の事務室に寄ってみたくなった。以前には2,3回立ち寄ってみたことがあるが、最近は足が遠のいていた。尚球先生のことを考えても、それではあまりに愛想がないのではと思った。
七星通りの路地裏に入ると、仁厚は変な気分になった。主に日本人たちが商圏を握り、大きな商店が集まる通りだったのに、今では見慣れない米国の商品が陳列台に広がっている。以前には見られなかった商品だけに、見ているだけでも面白かった。多様な色彩が美しい紙に、英字が大きく刻まれた菓子の包装紙が目につき、青みがかった缶詰とコーヒー、チョコレートなど、各種の食品がガラス窓内に陳列されていた。時折、米兵たちがぶらぶらと通り過ぎながら、通りの両端の商店内を覗いたりしていた。仁厚はそのまま引き返そうかと思ったが、中に入って行った。人々が一斉に彼を見つめた。知っている顔はなかった。何故かしら、恥をかいているような気分で、すぐに外に出ようとしたところ、
「崔先生、どうして帰ろうとなさるなんて?」
力強い声に聞き覚えがあって、思わず頭をあげた。宋春湜が笑いながら、近づいてきた。仁厚は人々の視線を痛いほど感じた。
「どうしたんだ?」113頁
ここで春湜に会うなんて意外だった。しかし、それもそのはず、集まっているのはたいていが邑内の青年ではなさそうだった。
「訳があってのことだよ。久しぶりだな」
仁厚は春湜の顔つきが明るく見えて、気が楽になった。
二人は中腰のままで立っていたが、やがて外に出てきた。
「どうして家に立ち寄らなかったんだ?」
仁厚は彼が城内に来ながら、家に寄らなかったことを寂しく思った。
「うーん、ちょっと仕事があって。仕事が終われば訪れるつもりだったんだ」
「芝勲先生の仕事の方はうまくいっているのか?」
「うーん、僕も少し勉強をしようとしたけど、そのままこっちへ来たせいで」
「長くいるのかい?」
「そうだな」
曖昧な返答に、仁厚は春湜の相手をするのが面倒に感じて、困った。
「そうだ、金尚球先生は裏の部屋にいらっしゃるはずだ。さっき委員長とご一緒だったのを見かけたんだ。ついでに会っていけよ」
仁厚は自分よりも春湜がこの事務所とは関係が近いことが分かった。何故かしら、自分だけが疎外されているような気分だった。
「毎日、家でお会いしているから、何もわざわざ」
仁厚はすぐにその場を去りたかった。
「それでもここでお会いするのはまた別だから」
春湜が先導して横の路地に入った。竹田社長が住居として使っていた母屋の木の門が開いて、男が二人出てきた。
「あれ、これは仁厚先生じゃないですか」
朴世翊と権ヒョンスが出てきて、二人を見ると意外そうに目を大きく開いた。
「通りがかりに立ち寄ったところ、たまたま故郷の友人と会ったので」114頁
仁厚は彼らに春湜を紹介した。
「仁厚先輩のお友達ということは知りませんでした。あれもこれもすべてが先輩のせいですよ。足しげく顔を覗かせて、一緒に活動すべきなのに」
権ヒョンスが気まずい雰囲気を免れようと、大げさな物言いをした。そんな中にあって仁厚は疎外されている気分が募った。
「金先生はいらっしゃらなくて、副委員長だけですが、入って挨拶しますか?」
ヒョンスが仁厚の意向を尋ねたが、別にそれを望んでいそうでもなかった。仁厚は頭を振った。
「数日内に軍政関係者たちと人共執行部との間で、簡単な結納式のような集まりが必要だからと、僕が間に立って使い走りをしているんだよ」
朴世翊が仁厚の横について路地から出てくる途中で、呟いた。彼は人共の事務室に出入りしている自分が誤解を受けかねないと懸念して、事実通りに話した。そのまま引き返しながら、仁厚はおかしな気分になった。
7.
人民委員会執行部たちと済州の米軍政関係者たちとの会合は、なんら得るものがなく終わった。
済州北小学校の運動場で人民委員会の全島大会を開き、済州建準を実質的に人民政府の権限を行使できる人民委員会に改編した。軍政による行政と警察の体系が形をなしていく時期なので、人民委員会執行部と軍政関係者の会合は意味あるものだった。だから、朴世翊と裵ジョンギュが斡旋して、会合の準備が整った。かつては島司の執務室だった軍政官室で、両側の関係者が一堂に会した。115頁
スタウト少領は、軍政当局者は地域の実情に疎いので、人民委員会には多大な協力をお願いしたいと儀礼的な挨拶をした。
「済州人民委員会は済州の人民を代表する機関として、住民の代表としての性格を備えて唯一の機関である。この点に留意して、島の行政権の行使にあたっては、人民委員会が参与する方案を講究していただきたい」
呉大進委員長は要求事項をはっきりと語った。
軍政官は頭を傾げながら、
「我々は貴団体を任意の社会団体の一つとしてのみ認定する。その点はハージ司令官の軍政方針と一致する。人民共和国は国家ではなく、ひとつの政党にすぎないと考えている」
「たとえそうであっても、米軍政は地域の実情に昏いので、我々と協力してこそ、適切な行政を繰り広げることができる」
「その点には同意する。しかし、それだけのことだ」
「我々が要求しているのは、最小限度、済州の行政と警察権を行使する責任者だけでも、我々と協議して任命してもらいたいということである」
「それはあり得ない」
軍政官は露骨に不快な感情を示した。
「誤解しないでいただきたい。我々に協力してもらいたいというのは、我々が軍政に干渉したり、軍政の権威を意図的に縮小しようというのではなく、円満な軍政のために我々と協力しあうべきということである」
金尚球は自ら英語でそう言った。軍政官は尚球の拙くない英語に好感を示した。116頁
「了解した。しかし、人民委員会は一つの社会団体にすぎない。その点をよく理解してもらいたい。今後、いろいろと協力してもらいたい」
会合はたった20分で終わった。
人民委員会側が米軍から被った2回目の侮辱だった。しかし、軍政の性格と彼らの行政方向がどこにあるかが、おぼろげながらも分かった。
事務室に戻ってきた執行部の要員たちは急いで会合を持って、今後の人民委員会の方向性に関する具体的な方案を論議して、下のように決定した。
1) 邑・面の人民委員会は可能な限り、地域の行政権を最大限に行使するように、邑・面長と協力する。
2) 治安隊の組織を活性化し、地域の治安問題に万全を期しながら、日本警察出身の警察官によって惹起される治安不在の状態を急速に回復するようにする。
3) まだ改編大会を行っていない地域は、早期に改編大会を開催し、できる限り清潔で斬新な人民主体の行政を展開できる人物を委員長に選出して、各村に至るまで人民委員会を組織して、村の秩序を回復することに最善を尽くす。
4) 邑・面の人民委員会の事務室は、邑・面の事務所に置き、各村の人民委員会の事務室は郷舎や公会堂を利用する。必ず看板を掲げ、住民たちに人民委員会の位相を認識させる。
『漢拏山』第2部 「星条旗時代」 第6章「共和国の夢」完 原著がこれを最後に執筆を断念したままで、未完の小説です。これでこの小説ともお別れですが、
これについて僕なりの意見がまとまれば、いつかアップするでしょう。
5.
秋の夕立でもあったのか、湿った木の葉が道端にうす汚く舞っていた。時折、プラタナスの枝を揺する風の音が聞こえた。仁擇とソンスは討論会を終えて、キョンウン洞の天道教会館から出てきながら、今更のように大股で近づいてくる秋を思った。季節が変化にもすっかり疎くなっていた。
「本当に朝鮮は独立するのだろうか?」
仁寺洞の路地に入ると、仁擇はいきなりそう言った。
「どうしてだい?」
ソンスはそんな質問が意外だった。
「いろんな話があるものだから、ついついそう思うんだ。さっきあそこで聞いた話も、一つだって頭に残ってないんだ」
「腹が減って、そうなんだろ」
ソンスは道端の安食堂に入りながら、仁擇にニッと笑いかけた。いつも昼食は5円ぽっきりの手打ち麺(カルグッス)だった。
「一度、故郷に行って来いよ。郷愁病にでもかかってるからだ。それだから確信が持てず、討論だって言葉遊びのようにしか聞こえないんだ」
手打ち麺が来ると、ソンスは先ず、汁を一口啜ってから、箸を使って麺を食べ始めた。しかし、仁擇は食べたくなりもしなかった。90頁
二人は今、<督促中協>に参与する共産党の戦略に関する討論会から出てきたところである。朝の9時から12時まで予定されていた討論会は、ずいぶん遅く1時20分になってようやく終わった。
10月16日にマッカーサーが手配した飛行機に乗った李承晩は、全国民に団結を訴え、25日には独立促成中央協議会を結成し、乱立している政党や社会団体の統合を目論んだ。
そこで共産党側でも、李承晩を無視するわけにもいかなくて、参加することになった。そして、11月2日に開かれる督促中協の第2回大会に先立って、党の戦略を点検するための青年党員意志統合討論会が、天道教会館小会議室で開かれた。主催は朝鮮政治社会研究会という学術団体だが、仁擇も先週から裵ソンスに案内されて、何度か参席した。京城帝大の地下サークルで知った顔も何人か見えた。
「なあ、朝政社研(朝鮮政治社会研究会)の実態はいったい何なんだ?討論会の方向を参与反対の方に持っていくつもりらしいが、党でも参与について意思統合ができていないんじゃないか。だからおそらく、青年党員の意思という名分を掲げて、参与派を攻撃しようとしていそうなんだが・・・」
仁擇は討論会の感想を正直にぶちまけた。討論の場では仁擇は見学するだけだったが、いざ会議場から出てくると、虚脱感が強かった。今日の討論会では3名が発題し、それに続いて30余名全員が討論に参与するといった、意思統合のための自由討論会だった。仁擇はすでに言葉の威力の恐ろしさを知っているので、その威力を消費財のように浪費しないために、しっかり口を噤んでいた。軍政学校当時、同僚の死の直前に党性を標榜する言語術で、彼らを救いだしたことを記憶していた。組織部長を感動させた言葉の遊戯、その魔力を痛感した。ところが、その魔力が強ければ強いほど、その濃度が濃くなることも知った。だからこそ、最近では公式の席上では、言葉をできる限り出し惜しみしていた。91頁
ソンスは麺を食べつくして時計を見た。仁擇は気分も憂鬱で体も疲れ切っていた。反共主義者であることを自他共に認める李承晩の督促中協に、参与する党の本意が気に入らなかった。李承晩を是が非でも人民共和国の主席に据えるべきなのか、討論会ではそんな指導部の施策を戦略などと呼んでいるのが、納得できなかった。
「事務室に寄らなくてはならないんだ」
食堂を出ると、ソンスは楽園会館側を指さした。ソンスは帰国するとすぐに忠清道への帰省から戻ってくると、学徒兵同盟の仕事にかかりっきりだった。企画局が新設されて以降はその一員として活動していた。
「俺はもう、渡日して復学するわけにもいかないし、だからといって、こっちで専門学校に通うわけにもいかないのだから、軍人になる道しかないんだ。そこで・・・」
学徒兵同盟の仕事に熱心に関わっている理由を彼はそのように説明した。
「なるほどな、俺の方は、学校にでも行ってみるか」
仁擇は鐘路2街の市電停留所の方に向かいながら、全く考えてもいなかったことを口に出してしまった。帰国後、学校には一回も立ち寄ったことなどなかった。すっかり空っぽの講義室、汚い檄文が貼られた掲示板、知った顔に会うこともできず、教授の研究室もほとんど空だった。民法を教えていた柳教授だけが、まるでこの時代の人ではないように部屋にいた。教授は仁擇だと分かると、
「生きて戻ってきたのか?」
意外とでも言わんばかりに、呟いた。その顔には虚無がべっとりとねばりついていた。
その日から学校がはっきりと嫌いになった。しかし、今日は気持ちが違った。92頁
勉強を継続しようか、父の期待に沿うために高等文官試験の準備をして・・・
風に飛ばされた湿った木の葉が、しきりに足に絡みついた。何度も腰を屈めて、下半身にまとわりつく落葉を取り除いた。
仁擇は恵化洞行きの市電を2回も乗り逃した。そうしてみると、行くあてがなかった。キェ洞の趙女史に会って、済州の消息でも聞いてみるか。帰国して数日後に昌徳女子中での政治集会で偶然に趙ジョンヨンに会った。顔を背けようとしたが、向こうが先に人の波をかき分けて近寄ってきた。
「あれまあ、仁擇氏、生きて帰ったのね」
金尚球夫人は涙まみれで喜んでくれた。しかし、趙女史の相手をするのは気が重いだけだった。ソウルで学校に通う二人の息子であるヒョンソクとヒョンミンのためにソウルで暮していたが、済州の消息も教えてくれた。
「今はどこにいるの?」
曖昧に返事した。もしかして、自分の立場を悟られるかと恐れた。
「済州への船便を確保するのは難しくなったわ。それでも木浦や釜山で待っていれば、なんとかできるそうよ。郷里では、今か今かと首を長くして待っているんだから・・・」
趙女史は仁擇が今でもソウルに滞在しているのは、もっぱら交通便のせいと思いこんでいた。国境を越えてソウルに戻ってくるまで、仁擇はどれほど帰郷したかったことか。ところが、ソウルの事情を知るために幾日か滞在しているうちに、思ってもいなかったことに、ソウルに捕まったみたいに居座ってしまうようになってしまった。
仁擇は3週目にもなったソウル生活が他人事のように思われた。ソウル駅で降りると直ちに市電に乗って、当然のこととして向かうべき家のように、数年間にわたって下宿していた明倫洞の家を訪れた。93頁 大学予科時代から入隊前までの3年間、そこに下宿していた。海を越えてはるばる上京してきた身なので、その家の主人も格別に優遇してくれていたので、足が向かった。
下宿先では、息子が生きて戻ってきたかのように、喜んでくれた。彼がかつて暮らしていた部屋は空いていた。解放以降、いつか戻って来るものと信じて待っていたと、殖産銀行に勤めている亭主は語った。そのうえ、その日の夕食では、彼の帰還を喜んでくれるもう一人の人物にも再会した。ソウル女子商業を出て朝鮮銀行に勤務する柳スンフィだった。仁擇が入営した時には、女商を卒業後に入行して何カ月も経っていなかったからか、まだ女学生臭さが抜けていなかった。ところが今では、すっかり成熟した女として彼の前に現れた。仁擇は彼女が送別のプレゼントとしてくれた、青い糸でバラの刺繍が施されたハンカチを思い出した。それはおそらく妻の仁子にプレゼントしてやったはずだ。
「仁擇君、まずは嫁を娶らないといけないね。跡継ぎ息子なんだから親御さんたちがどれほどご心配のことか」
下宿先では彼の結婚のことは知らなかった。仁擇は喜んで迎えてくれる下宿先の主人の優しい待遇もあって、すっかり寛げた。
「済州への船便は途切れていそうだから、ここでしっかりと休んで体調を回復して、世の中の事情が少しは分かってから、帰郷すればいいじゃないか。今後、しなくてはならないことが沢山あるだろうから」
下宿の主人のそんな勧めが有難かった。船便が困難になったことが格好の口実になって、帰郷した気分で、手厚い世話を受けながら日々を過ごし始めた。
しかし、休めば休むほど疲れを感じ、意識ももうろうとしていた。政治集会に出て、興奮して浮かれて騒いでも、下宿に戻れば、頭の中は空っぽで体は疲れた。だからほとんど眠りの中にうもれてしまっていた。下宿の主人夫婦はまるで実の息子のように接してくれた。仁擇はそんな彼らの気持ちを、まったく負担に感じないで受け入れた。94頁
日曜日だった。昨夜はひどく飲んだ。集会で大学時代の友人に出会った。党の青年組織を主導しているその友人は、どうして躊躇っているのかと、仁擇を急き立てた。躊躇っているのではなく、待っているのだと答えた。独立同盟の指導部の期待を、彼は大切に心の中で忘れないでいた。ソンスは学徒兵同盟に入ったが、仁擇はまだ道を見つけ出せないでいた。ところが、どこにも所属しないのは孤独なことだった。自分の党性の実体は何なのか。本当に自分は共産主義者なのだろうか。そんな懐疑が時折、心をかき乱した。
「共産主義が政治的ヘゲモニーを確保するための方便になってはダメだ。唯物論的世界観が自分の生の中に溶解されて、具体的な生活の指標として現れなくてはならない。その世界観から醸し出される政治意識こそが、新しい世界を建設する力になる。その点で僕なんかはまだ熟していないリンゴなのだと思っている」
仁擇は友人の前で久しぶりに自分の姿を隠さなかった。
「リンゴは時間を食べながら、自らが陽光と風を受けて熟していく。理論は生を通じて形成される。先ずは参与するんだ。君のそんな懐疑など、自分についての正直な省察ではなく、安逸な生を合理化しようとするものに過ぎない」
友人は彼を嗜めるように反駁した。討論は継続し、酒席の話は面白かった。どのようにして下宿屋に戻ったのかも覚えていなかった。
朝になったが、家の中は静かだった。喉が渇いた。その時、戸が開き、スンフィが入ってきた。
「両親は郷里に行ってしまいました。今日は祖父の祭祀の日なので・・・ちょうど、日曜日だし」
彼女は家に誰もいないことを強調しながら、白い磁器を差し出した。95頁
「これを召し上がって、体の中をさっぱりなさって。そして食事を済ませてから、改めてしっかりとお休みに」
彼女が差し出した鉢を受け取った瞬間、彼女の手と顔がその鉢のようにすべすべで白いように思った。そして、鼻に入って来る女の濃厚な臭いが、胸にまでしみ込んできた。女は彼の眼差しに怯え、直ちに引き返そうとした。彼女に対面していないことが彼の勇気に火をつけた。彼は女の肩を後ろから荒々しく抱きしめた。きらきらした彼女の怯えた顔からは目をそらして、女を布団の上に押し倒した。簡単に倒れた女に、彼は自分の力を激しくぶちまけた。
久しぶりに濃く甘い女の体を味わった。その瞬間、妻の顔が彼の脳裡をかすめたが、それもすぐに通り過ぎてしまった。
それは沼だった。いくら落ち込んでも底が現れなかった。そのうえ、沼は気楽だった。女は両親の黙認の下で、夜ごとに彼のところにやってきた。
無気力な毎日がもたらす倦怠感の中にあって、彼女の肉体は毎晩、彼に微かな緊張を維持させてくれた。そして朝になって巡ってくるあの浅い自責の念も、彼の緊張を維持するにあたって必須のものとなった。だから彼は飽き飽きすることもなく、その生活を楽しむことができた。
「今夜は下宿に戻ってはならない」
そんなことを考える自分に驚いた。緊張をつくれば、自分の倦怠も少しはましになるだろう。学徒兵同盟の合宿所にでも行って幾日か過ごそうか。
ところがそれから少しの時間が経つと、学校を訪れるのはやめにして、市電の停留所から離れて、気が付いていると昌徳女子中の方に向かっていた。96頁
「そうだ、梨花女子中に通っていた任淳瑛に会ってみたのかしら?この学校にいるんだけど」
あの日、趙女史は校門近くまで来た時、ふと思いついたように、任淳瑛のことを持ち出した。彼が首を振ると、しばらく間をおいてから、職員室の方に歩いて行った。その間に、仁擇は学校から去ってしまった。あの時、彼女に会いたかったのに、会わなかった。どうしてなのか分からない。
ところが今日、趙女史のことを思い出すと、あの日には避けた任淳暎に会いたくなった。授業中なので、学校の玄関前の銀杏の木陰で、淳暎を待った。
「仁擇氏!」
鐘の音がしてからも少し待っていると、彼女が小走りで飛び出してきて、大声で呼んだ。授業を終えた女学生たちがどやどやと運動場に出て来て、その中に彼女も交じっていた。
仁擇は待っている間に、変化した彼女を想像してみた。分からないほどに変わっていたらいい。しかし、いざ会ってみると、パーマ頭に黒いチマと白いチョゴリ姿で、以前とまったく変わっていなかった。
「死なないで生きて帰ってきたのね!」
彼女は生徒たちのことなど構わずに、仁擇の手を掴んでゆすった。生徒たちはむしろ照れている彼の表情が面白いといった様子で、じろじろと横眼で見ていた。
「歳月が経っても任淳瑛先生は変わってないなあ!」
仁擇は待ちながら思っていた内心を打ち明けた。
「そんなことだろうと思っていたわ。結婚でもしていたらと、期待していたんでしょ。そうだったら、仁擇氏の前でも、少しはおとなしくなっているだろうし、平凡な主婦に転落するのを望んでいたのでしょ?そうでしょ?」
彼女ははしゃいでいた。97頁
始業の鐘が鳴ると、彼女は別館にある学校図書館に彼を案内した。3階の図書館司書の部屋の片隅の小部屋の前に立った。そこには「ソウル市女性教員同盟」というハングルの看板がかかっていた。
彼女が全く変わっていないことを確認した。
「実は趙女史から仁擇氏の消息は聞いていたんだけど・・・」
あの日、趙女史と一緒に校門近くまで出てきたら、仁擇はいなかった。その時に淳暎は初めて、彼の結婚のことを聞いた。
「おそらく崔君は任先生に会い辛いので、避けたのでしょう」
趙女史は姿を消した仁擇の立場を説明した。しかし淳暎がよくよく考えてみると、それとは別の事情がありそうに思えた。だから彼女は毎日、仁擇が姿を現すのを待っていた。ある時には、昔の下宿を訪ねてみようかとも思った。彼女もその下宿を知っていた。ところが、今日、しょげかえって現れた様子を見ると、直感的に何かが起こっていると感じた。
「今、もしかしてあの下宿で丁重にもてなされているんじゃないの?」
「もてなしだって?」
仁擇はにやにや笑ってしまった。しかし、彼女の驚くべき直観力は相変わらずだと思った。淳瑛もそれ以上は何も尋ねなかった。
「早く故郷に帰りなさいよ。夜も寝ずに待っている家族の人たち、特に奥さんのことも考えてあげないと。男が女を寂しくさせるのは罪の中でも最大の罪だわ」
淳瑛はさらに何か話そうとしたが、それまでにした。崔仁擇、この男は曲がることはないけど、その分、簡単に壊れてしまうのが欠点だわ。長男のせいなのか。苦労を知らず、不可能なんてことを考えたこともなく生きてきた彼のことを、彼女は良く知っていた。仁擇については本人が知らない部分まで知っている。そんな点が軍隊生活で少しは変わっていればと期待していた。98頁
「どのようにして生きて戻れたの?」
「実は、すぐに帰郷できないのは・・・」
彼は自分がこの女友達に余りにも情けない人間のように映りそうに思って、日本軍からの脱出と独立同盟で教育を受けたことを説明した。
「上からの指示を待っているところなんだ。実際に抗日運動を行っていた軍隊を率いて帰国したんだ。それは単なる軍隊と言うよりも、一つの政治勢力にもなるものなんだ。僕はソウルでしなくてはならないことが沢山あるんだ。だからこそ、帰郷しないでいるんだ」
彼は裵ソンスが学徒兵同盟に参与していることまで、弁明の中に含めていた。
「それでも早く帰郷して、改めて上京すればいいじゃない。仁擇氏の前途には本当にたくさんのことが待ちかまえているのよ。それに・・・」
彼女は下宿先の話をしようとしたが、それは思いとどまった。
「一緒に済州へ行こうか。あちらでやることがあるの。女性の教育もしないといけないし、いつか学校の休みを利用して、行ってこようと思っていたんだけど、だからといって、仁擇氏の新婚生活に迷惑をかけたりはしないわよ」
淳瑛は実に堂々とした女性として、仁擇の前に現れたのである。その日、二人は夕食を一緒にしながら、長時間、話し合った。そして、下宿に戻りながら帰郷する決心をした。木浦か釜山へ行って、待ってみることにしよう。なんたって帰還男子じゃないか。
下宿の部屋には、いつものように女が待っていた。
「ちょうど、済州へ向かう船便があるという連絡を受け取ったんだ。すぐに帰郷して、両親に会ってから、改めて上京してくるよ」
彼は女の顔から眼を反らして、そう言った、女は目を大きく開いて頷いた。99頁
「いつ頃、戻ってこられるのかしら。復学もしないと。私が代わりに手続きをしておきましょうか?」
女は彼の胸に崩れ落ち、すすり泣きながら、そう言った。
「そんな必要はないよ」
仁擇は曖昧に答えながらも、女が泣いていることは分かった。だからこそ、女をますます力強く抱きしめた。
6.
「トルトルドンコドク、トルドルコドンドントン」
埃を包みこんだ風が運動場を掃きながら通りすぎ、ガラス窓を揺すぶった。低学年を担当する先生たちは授業を終えて、いろんな仲間が集まって腰を下ろし、雑談を交わしていた。そして時折は、白い埃が立つ運動場を見下ろした。
「日本軍はほぼ撤収したのかな?」
「山地埠頭で、上半身を裸にして検査を受けている姿は一見の価値があるって」
「ほぼ撤収を終えただろうよ」
「それを考えると、済州人の心映えが立派なことがよく分かる。日本人の時代にはあれほどコケにされたのに、そんな憎い連中を静かに送り出すんだから」
「そうじゃなくて、おとなしくしている以外に何ができるんだよ。方法があるとでも?」
「僕らだって、日本人校長、教頭、さらに幾人かの日本人の先生たちが去って行った時には、むしろ寂しかっていたくらいだし」100頁
「建準が人共に変わったからって、何か変わったことでもあるのだろうか?」
校長職務代理の梁ソンジュンが、休憩時間に職員室に立ち寄った権ヒョンスに尋ねた。
「人共は元来、朝鮮人民共和国という公式の国家権力機関を意味するものですが、ハージがそれを公的に認定しなかったので、こんなことになってしまっているんです。最近は鼻の大きな連中が、やりたい放題ですから」
権ヒョンスは米国のことを話題にする時には、「鼻の大きな若者たち」或いは「ヤンキー」といった言葉をしきりに用いた。
「それでも済州島のそれぞれの邑や面では、人共や治安隊がそれなりの役を果たしているらしいのだが・・・」
他の先生が関心を示した。
「それはもう、地域によって事情が違うようです。少し力や権勢がある人が地域の人共の責任者であれば、そうもなりますが、そうじゃない場合には、人共だなんだと言っても有名無実で・・・」
その時だった。玄関の戸がガラッと開き、新聞がポンと投げこまれた。戸の近くに座っていた小使いの鄭君が、すぐにそれを拾いあげて、急いで一面の記事を読んでから、梁先生の机の上に持って行った。それぞれが自分の席に座っていた先生たちだが、欠伸をしながらも梁先生の机の周囲に集まってきた。
「済州新報でもできたから助かるよ。近頃のように世の中が目まぐるしく変わっていく時代には・・・」
梁先生は先月に創刊されたばかりの済州新報があって、幸いだと思った。
「済州軍政実施。島司代理に金文フぃ任命。軍政官はスタウト大領」
大きな活字が眼前を覆った。そして、行を変えて、少し小さな活字で軍政担当者のリストが載っていた。101頁
「法務官ジョンソン大尉。情報官チャールズ大尉。広報官ラクウド大尉。財産管理官マーティン大尉。医務官シュミット大尉」
記事を覗き込んでいた先生たちの目がしだいに大きくなっていった。貴順も運動場側の窓際の席から立ちあがり、男の先生たちのところに近寄ってきた。肩越しに記事を覗き見ながら、父のことを考えた。またしても興奮してしまうんじゃないかしら。朝食前に呉太碩が少し立ち寄って帰ってからは、すっかり沈鬱になっていた。そして食事の直前には、朴世翊が訪れたので、一緒に朝食を摂りながら、
「あくまで臨時措置なので、あまり気を悪くなさらないでください。裵ジョンギュを通して、軍政は人共に関心を持つべきという雰囲気を醸成しているところなのです。済州という地理的特殊性を考慮するように主張しているのです」
朴世翊の話を聞くと、父の機嫌も少しはよくなった。朴世翊は帰郷もしないで、米軍の軍属として働きながら、時折、仁厚の裏の部屋で泊った。家族は彼がフミ子と早く結ばれたらと思っていた。
「これでは米軍の思いのままだ。銃剣を持っているにしても、あまりにも済州人を無視しすぎじゃないか?島司代理に金ムンフぃなんか。人共の委員長や人共で推戴する人物に任すのが筋なのに」
権ヒョンス先生が不平をこぼしながら、仁厚の席である貴順先生の横に近寄っていった。6年生の担任である仁厚は最近、教室に閉じこもって、職員室の席はいつも空いていた。
「金尚球先生はこの頃、お元気ですか?」
貴順は少し当惑した。権先生の言葉には何か棘がありそうだった。
「別に、いつもと変わりないわ。一度、遊びにいらしたら」
以前には彼も家によく出入りしていたことを思い出した。
「金芝勲先生の中学院はうまくいっているのかなあ?」
貴順はにっこり笑うだけだった。彼女もそのことはよく知らない。102頁
「尚球先生が芝勲先輩を相当に信頼なさっている様子で。経済的にもずいぶんと支援なさっているらしいし」
貴順はまったくあずかり知らないことだった。だから、もっぱら聞いているだけだった。
貴順は最近、朝鮮語を教えながら、随分と侘しい思いをしていた。4年の子どもたちにアボジ、オモニ、ウリナラ(我が国)、エグッカ(愛国歌)、ムグンファ(無窮花、槿)、ハッキョ(学校)など、朝鮮語の基本単語を練習させていると、気持ちが滅入ってきた。長い間、朝鮮語を教えられないようにしていた日本のことが、今更のように恨めしかった。
「解放にはなったけど、日本人の代わりにやってきたのは西洋人たちで、今ではその連中と親しい連中が羽をひときわ大きく広げて、・・・今度は英語を教えろなどと騒ぎ出すのでは」
権ヒョンスは愚痴を続けた。すべての物事の根源が米国にあるように話していた。彼は貴順よりも光州師範の2年後輩で、彼女を年長者として礼儀を守ることもあったが、わざとぞんざいな言葉を使うこともしばしばあった。そのうえ、最近は古参の先生方を皮肉ったりまでした。日本の臣民化教育の先頭に立っていたというのである。彼は師範学校を出てまだ2年目にしかならず、そんなことを言えるような立場ではない。
先生たちが一人二人と退勤の準備を急いだ。この頃は授業が終わると、学校に居残る先生は稀だった。退勤する振りをして、それぞれがばらばらに学校を後にした。それまで久しくもてなかった余裕を探し求めている。
権ヒョンスが廊下に出てしまうと、最後に梁ソンジュン校長代理も席から去った。職賃室は貴順一人になった。日直なので宿直の先生が来るまでは待たねばならなかった。103頁
職員室は静かだった。時折、風で窓ガラスが、ガタガタ音を立てるだけだった。その時、廊下東端の6年の教室から、足音が聞こえてきた。貴順は自分以外の誰かがこの建物内にいることを知って、嬉しかった。足音が次第に近づいてきた。
「一人だったんだね?」
仁厚先生が意外そうに、笑いながら入ってきた。
「まだお帰りになっていなかったのですか?」
同じ学校で働きながらも、職員室内で二人になることはあまりなかった。家では 同じ家族のように暮していても、学校に来るといつも距離を保って過ごしてきた。
「6年の生徒たちに朝鮮語を少し教えようと思って」
仁厚は本とチョーク箱を持って、窓際の自分の席に向かった。
「卒業しても朝鮮語もまともに知らないようでは、教えた教師の体面が立たないじゃないか。子どもたちも可哀そうだし、実は自分も可哀そうに思えて」
仁厚は独りごとを言いながら、運動場の方に顔を向けた。運動場の片隅に仁厚のクラスの生徒たちが溢れるように出て行くところだった。」
最近になって仁厚はすごく変わった。終戦直後には洪南杓や梁ソンジュンと親しく過ごし、時局の話にも加わっていた。ところが最近は、もっぱら子供たちと教室で過ごし、放課後も朝鮮語を教えていた。ある時など、家にまで黒板を提げて行き、教材に用いる朝鮮語の読本を原紙に書いた。フミ子を通じて漢拏商事で黒板と原紙とたくさんの更紙を個人的に確保してもいた。
「一人でいないで帰ればいいのに。鄭君と権先生もおそらくどこかにいるだろうし」
仁厚が帰る準備を終えても、貴順はやはり座っていた。仁厚は立ち上がって出て行こうとしたが、貴順の机の上に積まれたノートなどを見て、座りなおした。104頁
「僕が少し手伝ってあげようか?」
「生徒たちが書いた朝鮮語を見ていると、私自身が恥ずかしくなってきて・・・これはともかく、教師である私たちの責任でしょうから」
仁厚は自分が思っていたことを彼女が代わりに言ってくれたような気がして、鼻がジーンとした。彼女を慰められそうな言葉を探した。それは自分への憐憫とも重なっていた。終戦になって、浮ついた雰囲気の中で自分がすべきことを探そうと努めてきた彼は、数週間前に米軍が進駐してきた頃になってやっと、気持ちの整理がついた。先ずは自分が担当していることに最善を尽くそう。それは具体的には何だろうか。先ずは朝鮮語を徹底して教えよう。卒業の前日まで、自分ひとりでもそれに努めてみようと思った。
貴順は手伝ってもらうのは申し訳なくて、まだ読めていない分は明日に回すことにして、机上を整理した。
「なんて意地悪な天気なんだろう」
仁厚は運動場に敷かれた砂が風に吹き飛ばされてガラス窓を打ち付ける音を聞きながら、そう言った。その言葉で貴順も、塔洞の海辺で砂をさらっていく波の音を聞いた。
「お兄さんの消息は?」
貴順は仁厚の反応を注意深く窺いながら、尋ねた。仁厚は貴順の顔を見つめてから、風が立つ運動場に顔を向けてしまった。
「生きていることは間違いないでしょう。お兄さんは家のことよりも他のことに気を遣うような方だから、帰郷も遅れているのでしょう」
貴順は仁厚を慰めるように言った。仁厚はそんなことを言う貴順の気持ちを考えてみた。105頁
「そうだ、金芝勲先生の中学院の仕事、うまくいっているのでしょうか。一度、行ってみなくては・・・」
「そうだね、一回、行ってみなくては。喜ぶだろうし」
芝勲に対する貴順の並々ならない関心も、仁厚はそれほど気にしていなかった。この頃の彼は、自分のことだけに専念し、気持ちも落ち着いていた。
「お母さんから何か話はなかったのかい?」
仁厚は結婚の問題をそれとなく探ってみた。自分は貴順のどんな反応にも動揺しないでおれるという自信をもって、いつか話そうと思っていた言葉を取り出した。
二人はこれまで兄妹のようにして暮らしてきたので、言葉や感情の処理にも、あまり気を遣わなかった。貴順にしても、仁厚は2歳年長だから兄さんのように考えて、異性として接したことなどなかった。学校では先輩で、家に戻れば長い因縁を持つ二つの家族の橋渡しの役目を果たし、父親も手伝うなど信頼に値する青年として尊敬してきた。だからかえって、それ以上は近い関係にならなかった。時折、妻になれるかと思うことはあったが、だからといってそれが気持ちの負担になることもなかった。
「ご両親は僕らふたりのことで何か特別な考えを持っていらっしゃるようなんだが、それについてどう思う?」
仁厚は数日前に趙女史から結婚の話を聞き、それを今日になって、ようやく打ち明けた。貴順は風でガタガタとガラス窓が立てる音のせいで、仁厚の声がきちんと聞こえなかった。それでも、普段にはない輝きを発している瞳を見ると胸がどきどきし、顔が火照った。初めて彼のことを異性と感じた。その瞬間だった。仁厚の顔の上に彼の兄の顔が重なった。106頁
貴順は小学校時代にはまるで先生に対するように、仁擇には気がねなく、言われるままに従っていた。京城への往来のついでに家に一泊して行く彼を待っているのが楽しかった。生まれついての容貌だけでなく、彼のあらゆることが魔力を持っていて、彼女を魅了した。師範学校に通っていた女学生時代にも、時には頭に手を当てて、まるで幼い子供を扱うように可愛がってくれた時も、異性ではなく叔父や歳の差が大きい兄のように見なして、ひたすら彼のことが好きだった。ややもすれば自分ごときは眼中になさそうな傲慢な笑い方と、大人らしい態度が時には憎らしくもなったが、それでも会えたら嬉しかった。だから親たちの口から彼の話が出てくるようになると、自分のことのように訳もなく得意になった。だから、彼に召集令状が来たので結婚することになったと知らされた時には、何日も寝られなかった。しかも、死への道に旅立つにあたって結婚式をあげなければならない彼の立場を知った時には、彼に対する気持ちはますます募った。
仁厚は彼女の顔をよぎった微妙な感情をすぐさま読み取った。兄に対する気持ちが今だに整理されていないことを感じた瞬間、それ以上には言葉を継げなかった。
「兄が戻ってきて、僕が妻を娶れば、我が家では心配の種がなくなるんだ。両親はこれまでひと時も心安らかに過ごせたことがないから」
仁厚はわざと家の事情を話して、話題を変えてしまった。
「いつも決まって、長男のようにお話になりますね」
これまで父親を助けて、家のことを見守ってきた彼のことを、貴順はよく知っていた。金尚球も仁厚をすごく頼りにしていた。
「兄さんは家のことよりも世の中のことの方に気持ちがあるので、ご両親もその点は理解してあげないと」
「お嫂さんだけが気遣いで大変でしょうね」
その時に戸が開いて、小使いの鄭君がプリントを持って入ってきた。107頁 二人は話を中断した。
プリントをたっぷりと抱えた鄭君は、仁厚を見ると緊張した。
「どうしてプリントがそんなに多いんだい?」
「あの、権先生のもので」
鄭君はすぐに廊下に出て行こうとした。
「おい、どこへ行くんだ。僕らも今から退勤するから」
仁厚は貴順と一緒に、すぐさま職員室から出て行きたかった。
「教室に生徒たちがたくさんいますよ」
東側の出入り口から子どもたちの一団が運動場へあふれるように出ていった。
「6年の4組です」
権先生が担当するクラスの子どもたちである。
「6年の先生方は熱心ですね」
貴順は仁厚を見て笑った。その時だった。運動場内にジープが1台入ってきた。子どもたちがその周りに一気に押し寄せた。
「米軍のジープだ」
二人は玄関から出ていった。ジープがゆっくりと職員室の玄関の方に近づいてきて、停車した。子どもたちもジープの後ろについて、職員室の前に集まってきた。米軍兵二人が降りてきた。一人は階級章がなく軍服を着ているだけで、もう一人は背が高い青年将校だった。階級章のない米軍兵が正確な朝鮮語で挨拶した。
「米軍政官室から参りました」
裵ジョンギュは仁厚と貴順に、この学校の先生なのかと尋ねた。
「私たちは本校の教師ですが、今から退勤しようと・・・」
仁厚も礼儀を守って、言った。朝鮮語を話す米軍の横に立っていた大尉は、学校周辺を見回してから貴順の顔に目をとめた。108頁 貴順は背中に鳥肌が立ち、顔が火照った。両手で顔を覆いながら、仁厚の後ろに隠れてしまった。大尉は微笑を浮かべながら、こっくりと頷いた。パーマ頭に洋装で、靴を履いた彼女の様子に米軍は驚いたようだった。
子どもたちがジープの周囲に円を描くように集まり、米軍と二人の先生を好奇心に満ちた目でかわるがわる見つめた。その時だった。子どもたちの中から、
「ヘロー、ユーアーナンバーワン、ギブミーチョコレート」
つかえつかえしながらも英語の声が弾けた。子どもたちが「ワァ」と笑った。大尉がにっこりと笑みを浮かべた。
「さ、これでも食べろ」
ひとりの子どもが左拳を右手のひらに掃き下ろす、奇妙な仕種をした。貴順は顔が真っ赤になった。
「さあ、後へ下がるんだ」
仁厚も、米軍が子どもたちの悪戯の意味に気づくのではと、きまり悪かった。
「明後日、ここで集会を開くという申請があったので、事前に点検しに来たのです」
裵ジョンギュが仁厚に事情を話し、続いて大尉に英語で囁いた。仁厚は耳慣れたいくつかの単語で、場所が広くて大丈夫という意味だと分かった。
「おい、鼻の高い西洋人野郎め、お前らは我が家の子犬たちだ」
その時、もう一人の生徒が他の生徒たちの前に現れて、米軍を揶揄し、にやにや笑いながら、ひっひと声を出した。
「さあ、あの運転士を見ろ、黒んぼじゃないか。我が家の豚みたいに真っ黒だ」
ひとりがまたしても前に出てきて、運転席に座っている黒人兵士に向かって、さっきと同じ拳の仕種を見せた。運転兵はどういう意味なのか分からないままに、白い歯を見せてひひひと笑うと、
「本当に可愛い豚を飼っているもんだ」
と裵ジョンギュが子どもたちに、にっこり笑いかけた。その言葉に子どもたちの幾人かは恐れをなして逃げ出した。他の子どもたちも、のそのそと引き下がった。仁厚と貴順も不安になった。貴順は相変わらず仁厚の背後にぴたりと隠れて米軍の視線を避け、仁厚も顔を玄関側に向けて彼らから目をそらした。その時に、権ヒョンスが玄関から現れた。
「さようなら。またお会いできる機会があるはずです」
裵ジョンギュが仁厚に手を差し出した。続いて、大尉も仁厚と握手してから、貴順に手を差し出した。貴順は蒼白になって怯え、手を後ろに隠して、後ろを向いてしまった。裵ジョンギュが大尉に何か言うと、大尉は手を挙げて笑いながら、車に乗り込んだ。貴順はいたずらに過ぎないのに、融通をきかすことができずに、挨拶を拒絶してしまったと思った。
車が始動した。
「ユーアーナンバーワン、ギブミーガム、ワンワン」
子どもたちがまたしても、あの奇妙な拳の仕種をしながら声をあげると、運転兵がガムを数個、ばらまいた。
車を追っていた子どもたちが運動場に落ちたガムを追いかけた。車は埃を飛ばしながら、悠々と滑るようにして走り去っていった。
「ヘ―イ」
黒人が左手を車の外に出してふりながら、声を上げた。
ガムを追いかけていた子どもたちが突然、立ち止まって、消えていく車を茫然と見つめていた。
「何をしに来たんですか?」110頁
玄関前でその光景を眺めていた権ヒョンスが仁厚に近づいてきた。ガムを拾っていた子どもたちは担任の先生を見ると、ガムを背中に隠してすごすごと後ずさりした。
「明後日にこの運動場で何か集会があるので、場所の確認しに来たと言っていたが」
「連中が場所の確認だなんて。済州人が済州の土地ですることなのに」
権ヒョンスが唾を吐き出すように呟いた。
「なんの大会なんだい?」
「人民委員会の全島大会を開催する計画だそうです。そうだ、先輩、最近、お忙しいのでしょうか?すっかりお顔を出されないので」
権ヒョンスは幾分、皮肉な口調で言った。仁厚は彼の言葉には関心がなく、目をぱちくりするだけだった。彼の情熱が羨ましくもあり、その一方では無謀にも思った。最近、教員たちは時局について話を交わす集まりを何度か持った。仁厚も最初の2,3回は参加したが、このごろは出て行かなくなっていた。
「貴順先輩、どうしてヤンキーたちの前に顔を見せたのですか?奴らは女であれば見境なしですよ。陸地の方で婦女子がひどい目にあったことをご存知知ないのですか?」
彼はにやにや笑いながらそう言ったが、貴順はその言葉を聞くだけでも恥ずかしくて、胸がドキドキした。
「何を言ってるんだ?」
仁厚がとうてい黙っておれなくなって、怒った。
「事実ですよ」
貴順は急いで校門の方へ歩いて行った。
「君のクラスの子どもたちはすごいらしいが、なるほど、先生の教え方がすごいからだな」111頁
仁厚は貴順の恥のお返しにと、皮肉って言った。
「先生の教えの結果なんかじゃなくて、生理的にため込んできたヤンキーに対する拒否感情ですよ」
権ヒョンスもシニカルに受け流した。
「生理的だって?」
「終戦直前にヤンキーたちが済州人をどれほど苦しめたことか?」
「あの時の米軍の攻撃に対する憎悪を、子供たちが今も持っているなどと?」
「そうではないんですが、子どもたちの意識に、そんな感情が隠れているのは間違いありません」
「そうじゃなくて、君や僕は、日本人が仕向けたように、米国に対する憎悪の感情を排泄して、子どもたちの耳に非難の言葉を刻み込んだからではないのか?」
子どもたちの意識の中に場所を占めていそうな反米感情が、いったい何に由来するかを考えながら、いつからか考えていたことを口に出してみた。すると権ヒョンスは黙り込んだ。
二人は校門を出て観徳亭の前に来るまで、どちらも口を開かなかった。
「さようなら」
権ヒョンスは七星通りの方に体を向けて、手を挙げた。仁厚は彼が路地裏に姿を消すまで、立ちつくしていた。漢拏商事の建物内の人民委員会の事務室に寄ってみようかと思ったが、後から「パンパン」という自動車のクラクションの音が聞こえた。道を空けて後ろを振り返ってみると、さっき学校へ来たジープが横を通りすぎようとして停車した。
車が後進して、仁厚の横に来た。
「どこまで行かれるんでしょうか?お送りしましょうか?」112頁
ジョンギュが頭を出して、そう言った。仁厚は笑いながら、たいした距離ではないからと、手で家の方を示した。ジープが動き出すと大尉と通訳が手を振って見せた。
南門通りに入った仁厚はふと、七星通りの漢拏商事の建物内にある島の人民委員会の事務室に寄ってみたくなった。以前には2,3回立ち寄ってみたことがあるが、最近は足が遠のいていた。尚球先生のことを考えても、それではあまりに愛想がないのではと思った。
七星通りの路地裏に入ると、仁厚は変な気分になった。主に日本人たちが商圏を握り、大きな商店が集まる通りだったのに、今では見慣れない米国の商品が陳列台に広がっている。以前には見られなかった商品だけに、見ているだけでも面白かった。多様な色彩が美しい紙に、英字が大きく刻まれた菓子の包装紙が目につき、青みがかった缶詰とコーヒー、チョコレートなど、各種の食品がガラス窓内に陳列されていた。時折、米兵たちがぶらぶらと通り過ぎながら、通りの両端の商店内を覗いたりしていた。仁厚はそのまま引き返そうかと思ったが、中に入って行った。人々が一斉に彼を見つめた。知っている顔はなかった。何故かしら、恥をかいているような気分で、すぐに外に出ようとしたところ、
「崔先生、どうして帰ろうとなさるなんて?」
力強い声に聞き覚えがあって、思わず頭をあげた。宋春湜が笑いながら、近づいてきた。仁厚は人々の視線を痛いほど感じた。
「どうしたんだ?」113頁
ここで春湜に会うなんて意外だった。しかし、それもそのはず、集まっているのはたいていが邑内の青年ではなさそうだった。
「訳があってのことだよ。久しぶりだな」
仁厚は春湜の顔つきが明るく見えて、気が楽になった。
二人は中腰のままで立っていたが、やがて外に出てきた。
「どうして家に立ち寄らなかったんだ?」
仁厚は彼が城内に来ながら、家に寄らなかったことを寂しく思った。
「うーん、ちょっと仕事があって。仕事が終われば訪れるつもりだったんだ」
「芝勲先生の仕事の方はうまくいっているのか?」
「うーん、僕も少し勉強をしようとしたけど、そのままこっちへ来たせいで」
「長くいるのかい?」
「そうだな」
曖昧な返答に、仁厚は春湜の相手をするのが面倒に感じて、困った。
「そうだ、金尚球先生は裏の部屋にいらっしゃるはずだ。さっき委員長とご一緒だったのを見かけたんだ。ついでに会っていけよ」
仁厚は自分よりも春湜がこの事務所とは関係が近いことが分かった。何故かしら、自分だけが疎外されているような気分だった。
「毎日、家でお会いしているから、何もわざわざ」
仁厚はすぐにその場を去りたかった。
「それでもここでお会いするのはまた別だから」
春湜が先導して横の路地に入った。竹田社長が住居として使っていた母屋の木の門が開いて、男が二人出てきた。
「あれ、これは仁厚先生じゃないですか」
朴世翊と権ヒョンスが出てきて、二人を見ると意外そうに目を大きく開いた。
「通りがかりに立ち寄ったところ、たまたま故郷の友人と会ったので」114頁
仁厚は彼らに春湜を紹介した。
「仁厚先輩のお友達ということは知りませんでした。あれもこれもすべてが先輩のせいですよ。足しげく顔を覗かせて、一緒に活動すべきなのに」
権ヒョンスが気まずい雰囲気を免れようと、大げさな物言いをした。そんな中にあって仁厚は疎外されている気分が募った。
「金先生はいらっしゃらなくて、副委員長だけですが、入って挨拶しますか?」
ヒョンスが仁厚の意向を尋ねたが、別にそれを望んでいそうでもなかった。仁厚は頭を振った。
「数日内に軍政関係者たちと人共執行部との間で、簡単な結納式のような集まりが必要だからと、僕が間に立って使い走りをしているんだよ」
朴世翊が仁厚の横について路地から出てくる途中で、呟いた。彼は人共の事務室に出入りしている自分が誤解を受けかねないと懸念して、事実通りに話した。そのまま引き返しながら、仁厚はおかしな気分になった。
7.
人民委員会執行部たちと済州の米軍政関係者たちとの会合は、なんら得るものがなく終わった。
済州北小学校の運動場で人民委員会の全島大会を開き、済州建準を実質的に人民政府の権限を行使できる人民委員会に改編した。軍政による行政と警察の体系が形をなしていく時期なので、人民委員会執行部と軍政関係者の会合は意味あるものだった。だから、朴世翊と裵ジョンギュが斡旋して、会合の準備が整った。かつては島司の執務室だった軍政官室で、両側の関係者が一堂に会した。115頁
スタウト少領は、軍政当局者は地域の実情に疎いので、人民委員会には多大な協力をお願いしたいと儀礼的な挨拶をした。
「済州人民委員会は済州の人民を代表する機関として、住民の代表としての性格を備えて唯一の機関である。この点に留意して、島の行政権の行使にあたっては、人民委員会が参与する方案を講究していただきたい」
呉大進委員長は要求事項をはっきりと語った。
軍政官は頭を傾げながら、
「我々は貴団体を任意の社会団体の一つとしてのみ認定する。その点はハージ司令官の軍政方針と一致する。人民共和国は国家ではなく、ひとつの政党にすぎないと考えている」
「たとえそうであっても、米軍政は地域の実情に昏いので、我々と協力してこそ、適切な行政を繰り広げることができる」
「その点には同意する。しかし、それだけのことだ」
「我々が要求しているのは、最小限度、済州の行政と警察権を行使する責任者だけでも、我々と協議して任命してもらいたいということである」
「それはあり得ない」
軍政官は露骨に不快な感情を示した。
「誤解しないでいただきたい。我々に協力してもらいたいというのは、我々が軍政に干渉したり、軍政の権威を意図的に縮小しようというのではなく、円満な軍政のために我々と協力しあうべきということである」
金尚球は自ら英語でそう言った。軍政官は尚球の拙くない英語に好感を示した。116頁
「了解した。しかし、人民委員会は一つの社会団体にすぎない。その点をよく理解してもらいたい。今後、いろいろと協力してもらいたい」
会合はたった20分で終わった。
人民委員会側が米軍から被った2回目の侮辱だった。しかし、軍政の性格と彼らの行政方向がどこにあるかが、おぼろげながらも分かった。
事務室に戻ってきた執行部の要員たちは急いで会合を持って、今後の人民委員会の方向性に関する具体的な方案を論議して、下のように決定した。
1) 邑・面の人民委員会は可能な限り、地域の行政権を最大限に行使するように、邑・面長と協力する。
2) 治安隊の組織を活性化し、地域の治安問題に万全を期しながら、日本警察出身の警察官によって惹起される治安不在の状態を急速に回復するようにする。
3) まだ改編大会を行っていない地域は、早期に改編大会を開催し、できる限り清潔で斬新な人民主体の行政を展開できる人物を委員長に選出して、各村に至るまで人民委員会を組織して、村の秩序を回復することに最善を尽くす。
4) 邑・面の人民委員会の事務室は、邑・面の事務所に置き、各村の人民委員会の事務室は郷舎や公会堂を利用する。必ず看板を掲げ、住民たちに人民委員会の位相を認識させる。
『漢拏山』第2部 「星条旗時代」 第6章「共和国の夢」完 原著がこれを最後に執筆を断念したままで、未完の小説です。これでこの小説ともお別れですが、
これについて僕なりの意見がまとまれば、いつかアップするでしょう。