塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の13
43.ようやく気づいた大失態ー男たちの「ええ格好しい」の「ボス交」的処理に対する女性たちの批判を受けてー
実は、その後もしばらくは、僕はS研究会に中途半端な気持ちで参加していた。特に、数か月先に研究発表の約束まで既にしていたので、その間に不快なことがあったからと、それをすっぽかすなんて、僕にはできない。「踏ん切りが悪く、ええ格好しい」が僕の取柄なのか、大きな弱点なのか、その両方が表裏一体なのだろう。
ところが、その間に、拙稿の処理に関する僕の愚痴が漏れ伝わったらしく、S研究会で知り合って親しくなっていた幾人かの女性から、それぞれ別々に、しかし、同じような批判を突きつけられた。
「何かすごくおかしい話じゃないですか。いい年の男たちが、「ボス交」で穏便にことを収めたなどと、悦に入っているのでは?いくら小さな集まりでも、社会に開かれた研究会を謡っているからには、そこで生じた問題は、玄さん個人の気持ちで済ますわけにはいきません。きちんと公的な問題化として、研究会の関係者すべてが関われる形で議論して解決すべきものでしょう!」
異論と言うより、何よりも僕に対する厳しい批判だったが、その反面、僕を支え、擁護する側面もあるので、僕としては有難いことでもあった。しかし、それだけに僕の決定的な失態に気付かないわけにはいかなかった。
そもそも僕自身も、真っ当な対応としてはそれしかないと思いながらも、人間関係のしがらみや面倒さなどに対する懸念が優先して、自分の中に兆していた正論を抑えつけてしまった。それだけに、起こるべくして起こった女性たちの批判に、僕ら一人前を気取った男たちの「いやらしさ」が射抜かれた気分だった。
人生も最終段階を控えて、自分の生き方を改めて試そうとして通っていた現場で、その目的を台無しにして、有耶無耶な浪花節的対応に終始したことが恥ずかしかった。
だからこそ、せめて、その責任を取らねばならないと思った。それこそが、20年弱にわたって自分にとって貴重な場であったS研究会への参加その他の関係の一切を、自らに禁じることだった。
投稿論文のリジェクトという形での僕の排除に対して、自発的な投稿取り下げでむしろ迎合したことの犯罪性を自己懲罰で担おうというわけだった。
それは女性たちの真っ当な批判を、真っ向から引き受ける形のものにはなりえなかった。拙稿は既に取り下げ、その原稿を中核とした書籍の刊行作業が進行しているのに、拙稿の投稿時点にまで問題を差し戻すなんて、僕にはできなかったからである。
関係を断つのは、その研究会の中心メンバーたちと僕自身の考え方の差異を確認しての選択であり、彼らを断罪するわけではない。互いに別の道を歩めばよい。お世話になってきたからと勝手に同一性を信じて入れ込んできた自分の誤りを糺して、僕は僕の正しさを別の場と形で求めればよい。
そうした自己懲罰は、誰も知らないし記憶しないであろう事実があったことを、その研究会における僕の不在が物語ることにもなる。これがなんともアクロバティックな僕の理屈だった。
C研究会もS研究会のどちらの責任者も、自分たちが担う研究組織、そして社会的運動体を守り、維持する責任があると考えて僕を排除した。
そう考えた僕は、そうした行動を彼ら個々人の責任として追及したくなかった。僕もまたそれらの研究組織の活動の意義を認めていたし、今なお、認めている。それでいながら、僕くらいのノイズも受け入れないような硬直、それを是認すると、僕が気持ちよく息ができる場所がなくなってしまいかねないという危機感を僕は持った。
そういうところに、僕の生来の曖昧さ、浪花節、その他、対人関係の滑稽さがあるのだろうが、それは人生で学んで自分の指標とするようになった生きる知恵でもあり、それを捨てるわけにはいかない。
ずいぶんとお世話になってきた人や人たちに、ない物ねだりをして、相手を、そし自分自身をスポイルするのは、僕に相応しい生き方ではない。そのように僕は判断した。現に僕は、その研究会などと関係を断っても、自分の生き方を他の場や形で追及できる。彼らの理屈が支配する場と関係を断てば、いつまでもうじうじと愚痴を垂れ流すなんてことから免れて、少しはまともな余生を送ることができる。互いになんとか生きのびようと、いうわけである。
僕の「跳ね飛ばし」は僕にとって不名誉なことであるばかりか、それら研究会の中核をなす人々にとっても不名誉なことであるという判断が、僕には強くあった。
しかし、彼らとしてはそれしか選択肢はなかった。そのように僕は考えた。そこで、僕は自分が一番、納得しやすい理屈として採用したのが、「自己懲罰」だった。
最大の責任者は僕である。それ以外の人は、むしろ巻き込まれたに過ぎない。或いは、研究会における自分の役割を果たしたに過ぎず、いわば、当人の意志よりは、立場上の状況判断を優先したに過ぎず、言わば端役である。このように、僕はいろんな関係者を僕の描く物語にキャスティングすることで、誰かを、或いは何かを非難する方向で話を組み立てることを避けた。
以上、僕のなんとも訳が分からない自己懲罰という屁理屈で、この長い文章も落ちとなりました。
今回で、とりあえずは、塚崎さんに対する別れとしての本シリーズを終えることにします。
またいつか、寂しくなったら、続編を企てるかも知れませんが、その時にはまた、懲りずにお相手のほどを、よろしくお願いします。
43.ようやく気づいた大失態ー男たちの「ええ格好しい」の「ボス交」的処理に対する女性たちの批判を受けてー
実は、その後もしばらくは、僕はS研究会に中途半端な気持ちで参加していた。特に、数か月先に研究発表の約束まで既にしていたので、その間に不快なことがあったからと、それをすっぽかすなんて、僕にはできない。「踏ん切りが悪く、ええ格好しい」が僕の取柄なのか、大きな弱点なのか、その両方が表裏一体なのだろう。
ところが、その間に、拙稿の処理に関する僕の愚痴が漏れ伝わったらしく、S研究会で知り合って親しくなっていた幾人かの女性から、それぞれ別々に、しかし、同じような批判を突きつけられた。
「何かすごくおかしい話じゃないですか。いい年の男たちが、「ボス交」で穏便にことを収めたなどと、悦に入っているのでは?いくら小さな集まりでも、社会に開かれた研究会を謡っているからには、そこで生じた問題は、玄さん個人の気持ちで済ますわけにはいきません。きちんと公的な問題化として、研究会の関係者すべてが関われる形で議論して解決すべきものでしょう!」
異論と言うより、何よりも僕に対する厳しい批判だったが、その反面、僕を支え、擁護する側面もあるので、僕としては有難いことでもあった。しかし、それだけに僕の決定的な失態に気付かないわけにはいかなかった。
そもそも僕自身も、真っ当な対応としてはそれしかないと思いながらも、人間関係のしがらみや面倒さなどに対する懸念が優先して、自分の中に兆していた正論を抑えつけてしまった。それだけに、起こるべくして起こった女性たちの批判に、僕ら一人前を気取った男たちの「いやらしさ」が射抜かれた気分だった。
人生も最終段階を控えて、自分の生き方を改めて試そうとして通っていた現場で、その目的を台無しにして、有耶無耶な浪花節的対応に終始したことが恥ずかしかった。
だからこそ、せめて、その責任を取らねばならないと思った。それこそが、20年弱にわたって自分にとって貴重な場であったS研究会への参加その他の関係の一切を、自らに禁じることだった。
投稿論文のリジェクトという形での僕の排除に対して、自発的な投稿取り下げでむしろ迎合したことの犯罪性を自己懲罰で担おうというわけだった。
それは女性たちの真っ当な批判を、真っ向から引き受ける形のものにはなりえなかった。拙稿は既に取り下げ、その原稿を中核とした書籍の刊行作業が進行しているのに、拙稿の投稿時点にまで問題を差し戻すなんて、僕にはできなかったからである。
関係を断つのは、その研究会の中心メンバーたちと僕自身の考え方の差異を確認しての選択であり、彼らを断罪するわけではない。互いに別の道を歩めばよい。お世話になってきたからと勝手に同一性を信じて入れ込んできた自分の誤りを糺して、僕は僕の正しさを別の場と形で求めればよい。
そうした自己懲罰は、誰も知らないし記憶しないであろう事実があったことを、その研究会における僕の不在が物語ることにもなる。これがなんともアクロバティックな僕の理屈だった。
C研究会もS研究会のどちらの責任者も、自分たちが担う研究組織、そして社会的運動体を守り、維持する責任があると考えて僕を排除した。
そう考えた僕は、そうした行動を彼ら個々人の責任として追及したくなかった。僕もまたそれらの研究組織の活動の意義を認めていたし、今なお、認めている。それでいながら、僕くらいのノイズも受け入れないような硬直、それを是認すると、僕が気持ちよく息ができる場所がなくなってしまいかねないという危機感を僕は持った。
そういうところに、僕の生来の曖昧さ、浪花節、その他、対人関係の滑稽さがあるのだろうが、それは人生で学んで自分の指標とするようになった生きる知恵でもあり、それを捨てるわけにはいかない。
ずいぶんとお世話になってきた人や人たちに、ない物ねだりをして、相手を、そし自分自身をスポイルするのは、僕に相応しい生き方ではない。そのように僕は判断した。現に僕は、その研究会などと関係を断っても、自分の生き方を他の場や形で追及できる。彼らの理屈が支配する場と関係を断てば、いつまでもうじうじと愚痴を垂れ流すなんてことから免れて、少しはまともな余生を送ることができる。互いになんとか生きのびようと、いうわけである。
僕の「跳ね飛ばし」は僕にとって不名誉なことであるばかりか、それら研究会の中核をなす人々にとっても不名誉なことであるという判断が、僕には強くあった。
しかし、彼らとしてはそれしか選択肢はなかった。そのように僕は考えた。そこで、僕は自分が一番、納得しやすい理屈として採用したのが、「自己懲罰」だった。
最大の責任者は僕である。それ以外の人は、むしろ巻き込まれたに過ぎない。或いは、研究会における自分の役割を果たしたに過ぎず、いわば、当人の意志よりは、立場上の状況判断を優先したに過ぎず、言わば端役である。このように、僕はいろんな関係者を僕の描く物語にキャスティングすることで、誰かを、或いは何かを非難する方向で話を組み立てることを避けた。
以上、僕のなんとも訳が分からない自己懲罰という屁理屈で、この長い文章も落ちとなりました。
今回で、とりあえずは、塚崎さんに対する別れとしての本シリーズを終えることにします。
またいつか、寂しくなったら、続編を企てるかも知れませんが、その時にはまた、懲りずにお相手のほどを、よろしくお願いします。