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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の13

2025-08-18 09:50:06 | 触れ合った人々
塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の13

43.ようやく気づいた大失態ー男たちの「ええ格好しい」の「ボス交」的処理に対する女性たちの批判を受けてー
 実は、その後もしばらくは、僕はS研究会に中途半端な気持ちで参加していた。特に、数か月先に研究発表の約束まで既にしていたので、その間に不快なことがあったからと、それをすっぽかすなんて、僕にはできない。「踏ん切りが悪く、ええ格好しい」が僕の取柄なのか、大きな弱点なのか、その両方が表裏一体なのだろう。
 ところが、その間に、拙稿の処理に関する僕の愚痴が漏れ伝わったらしく、S研究会で知り合って親しくなっていた幾人かの女性から、それぞれ別々に、しかし、同じような批判を突きつけられた。
「何かすごくおかしい話じゃないですか。いい年の男たちが、「ボス交」で穏便にことを収めたなどと、悦に入っているのでは?いくら小さな集まりでも、社会に開かれた研究会を謡っているからには、そこで生じた問題は、玄さん個人の気持ちで済ますわけにはいきません。きちんと公的な問題化として、研究会の関係者すべてが関われる形で議論して解決すべきものでしょう!」
 異論と言うより、何よりも僕に対する厳しい批判だったが、その反面、僕を支え、擁護する側面もあるので、僕としては有難いことでもあった。しかし、それだけに僕の決定的な失態に気付かないわけにはいかなかった。
 そもそも僕自身も、真っ当な対応としてはそれしかないと思いながらも、人間関係のしがらみや面倒さなどに対する懸念が優先して、自分の中に兆していた正論を抑えつけてしまった。それだけに、起こるべくして起こった女性たちの批判に、僕ら一人前を気取った男たちの「いやらしさ」が射抜かれた気分だった。
 人生も最終段階を控えて、自分の生き方を改めて試そうとして通っていた現場で、その目的を台無しにして、有耶無耶な浪花節的対応に終始したことが恥ずかしかった。
 だからこそ、せめて、その責任を取らねばならないと思った。それこそが、20年弱にわたって自分にとって貴重な場であったS研究会への参加その他の関係の一切を、自らに禁じることだった。
投稿論文のリジェクトという形での僕の排除に対して、自発的な投稿取り下げでむしろ迎合したことの犯罪性を自己懲罰で担おうというわけだった。
 それは女性たちの真っ当な批判を、真っ向から引き受ける形のものにはなりえなかった。拙稿は既に取り下げ、その原稿を中核とした書籍の刊行作業が進行しているのに、拙稿の投稿時点にまで問題を差し戻すなんて、僕にはできなかったからである。

 関係を断つのは、その研究会の中心メンバーたちと僕自身の考え方の差異を確認しての選択であり、彼らを断罪するわけではない。互いに別の道を歩めばよい。お世話になってきたからと勝手に同一性を信じて入れ込んできた自分の誤りを糺して、僕は僕の正しさを別の場と形で求めればよい。
 そうした自己懲罰は、誰も知らないし記憶しないであろう事実があったことを、その研究会における僕の不在が物語ることにもなる。これがなんともアクロバティックな僕の理屈だった。
 C研究会もS研究会のどちらの責任者も、自分たちが担う研究組織、そして社会的運動体を守り、維持する責任があると考えて僕を排除した。
 そう考えた僕は、そうした行動を彼ら個々人の責任として追及したくなかった。僕もまたそれらの研究組織の活動の意義を認めていたし、今なお、認めている。それでいながら、僕くらいのノイズも受け入れないような硬直、それを是認すると、僕が気持ちよく息ができる場所がなくなってしまいかねないという危機感を僕は持った。
 そういうところに、僕の生来の曖昧さ、浪花節、その他、対人関係の滑稽さがあるのだろうが、それは人生で学んで自分の指標とするようになった生きる知恵でもあり、それを捨てるわけにはいかない。
 ずいぶんとお世話になってきた人や人たちに、ない物ねだりをして、相手を、そし自分自身をスポイルするのは、僕に相応しい生き方ではない。そのように僕は判断した。現に僕は、その研究会などと関係を断っても、自分の生き方を他の場や形で追及できる。彼らの理屈が支配する場と関係を断てば、いつまでもうじうじと愚痴を垂れ流すなんてことから免れて、少しはまともな余生を送ることができる。互いになんとか生きのびようと、いうわけである。
 僕の「跳ね飛ばし」は僕にとって不名誉なことであるばかりか、それら研究会の中核をなす人々にとっても不名誉なことであるという判断が、僕には強くあった。
 しかし、彼らとしてはそれしか選択肢はなかった。そのように僕は考えた。そこで、僕は自分が一番、納得しやすい理屈として採用したのが、「自己懲罰」だった。
 最大の責任者は僕である。それ以外の人は、むしろ巻き込まれたに過ぎない。或いは、研究会における自分の役割を果たしたに過ぎず、いわば、当人の意志よりは、立場上の状況判断を優先したに過ぎず、言わば端役である。このように、僕はいろんな関係者を僕の描く物語にキャスティングすることで、誰かを、或いは何かを非難する方向で話を組み立てることを避けた。
 以上、僕のなんとも訳が分からない自己懲罰という屁理屈で、この長い文章も落ちとなりました。

 今回で、とりあえずは、塚崎さんに対する別れとしての本シリーズを終えることにします。
またいつか、寂しくなったら、続編を企てるかも知れませんが、その時にはまた、懲りずにお相手のほどを、よろしくお願いします。      

「塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の12

2025-08-17 10:53:04 | 触れ合った人々

「塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の12

41.「暗黙の禁忌コード」の運用-僕の研究発表と投稿に対する研究誌の責任者たちの対応と、それに対する僕の対応

 以下では、先の引用でも繰り返された「暗黙の禁忌コード」の、具体的運用の実態について記す。
 僕が若かりし頃に抱いた在日詩人の金時鐘に対する違和感、とりわけ、在日と彼自身に関する語り、それに対しての歳を取るにつれて深刻になった違和感を、30年以上もかけてようやく文章で表現するに至った。そこで、その成果は他のどんな媒体よりも、その直近の20年弱にシンパシーを抱いて通い、常にお世話になってきたS研究会に還元したいと願った。その間にも何度も多様なテーマで研究発表もどきをさせてもらってきたが、おそらくは最後になるだろうからと、それをせめてもの恩返しにしたかった。それだけに、僕としてはそれまでの努力の成果をすべて反映させるべく、格闘した
 先ずは、月例研究会で口頭発表を行ったところ、普段の倍くらいの参加者が参集し、椅子を他から調達するほどの盛況で、しかも、質問やコメントなどの反響も、予想以上に良くて、僕自身が驚くほどだった。とりわけ、厳しい反論を覚悟していた旧知の研究者までもが、「玄さんの議論に全面的に同意します」などと意外なことを言うので面食らうほどだった。
 そして、そんな反響にも強く背中を押される気分で、研究会の機関誌とされ、以前からせめて一度は投稿してから、研究もどきの店じまいをするつもりでいた研究誌に投稿した。
ところが、その投稿の受付役を引き受け、関西におけるその研究会の主宰者であるHさんから、受領の返信メールが届かなかった。
 Hさんは職務全般にわたって、とりわけ、事務処理その他においては極めて有能かつ几帳面で、それまでにメールを送ったのに、翌日になっても返信がないなんてことは、一度もなかった。そこで、やはり何かが起こっているのではないかと、不吉な予感がした。そしてもちろん、投稿以前から既に僕の胸の中に兆していた一抹の不安も膨れ上がったが、とりあえずは待つことにした。
 僕には長年の在日二世としての生活経験によって培われたものなのか、或いは、生来のものなのか、差別や排除めいたことについては、「下種の勘繰り」と言われても仕方がないほどの猜疑心が生じ、しかも、その精度に自信があった。それだけに、「玄さんの投稿論文の雑誌掲載に何か問題が生じるなんて、全く考えられません」との、塚崎さんの太鼓判を喜ぶ一方で、在日の、とりわけ何かと評判が悪いらしい僕の場合は、そのように能天気ではおれなかった。
 例え、研究会の中心的メンバーが僕自身にシンパシーを持っていたとしても、僕のような斜に構えたはぐれ者タイプの思考と言動の在日には、警戒心を抱いても致し方ない。そんな覚悟が僕にはあった。在日二世の先輩筋の人からも、「何を偉そうに一匹狼を気取って、今に痛い目にあうぞ」と脅迫めいた言葉をかけられることもあったが、相手にしなかった。そして、在日はともかく、日本人はそんな剥き出しで責任を負う羽目になりそうなことは決して言わないことも、経験で承知していた。
 だからこそ、拙稿に対しても、何らかのクレームが生じる可能性を十分に想定したうえで、その際には先方の要望に出来る限り沿って修正に努めるための、時間的余裕まで見積もって、投稿締め切り期日のずいぶん以前に投稿を済ませるなど、僕としては稀なほどに、用意周到にことを進めているつもりだった。
 ところが、拙稿の受領の連絡が届いたのは、予め周知されていた締め切り期日が過ぎてからのことで、いくら何でも遅すぎるからと、こちらから確認メールを送ってようやくのことだった。
 その間に、他の要件で塚崎さんと会った際に、何か問題が生じているのではと、僕が不安を漏らしたところ、塚崎さんは相変わらず、次のように言って僕の不安を一笑に付した。
「そんな馬鹿なことは絶対にありません。口頭発表の際にもあれほど好評だったし、あの場には、Hさんも司会として参加して、発表とその後の反響をすべて聞きながら、何も異論を唱えていなかったのに、今さら、投稿論文をボツにするとか、改稿の要求など、常識では考えられません。因みに、僕なんかは過去に何度も、締め切りを一か月以上も過ぎて投稿し、雑誌の刊行期日に間に合わせるために、自ら印刷・製本所に出向いて校正なんてことまで許してもらっていたし、原稿の分量にしても、募集要項の制限の二倍以上になっても、何らクレームなしに掲載してもらったほどだから、玄さんの場合も、多少の問題など簡単にスルーしますよ」

 しかし、僕は塚崎さんと僕とでは、研究会との関係が異なり、当然、扱いが違って当然と、かえって心配を募らせていた。ともかく、すごく不気味だった。
そして案の定、ようやく届いた投稿受領の返信メールには、僕が危惧していたのに近い、文面が続いていた。
「投稿論文の雑誌掲載については、東京の方(ほう)で異論があって恋待っています。そこで、玄さんはきっと受け入れなさそうな条件をとりあえず提示しますので、敢えてそれを受け入れていただけるなら、掲載の方向で調整しようと考えているのですが、いかがでしょうか」
 それを見て、一瞬、苦笑いが浮かんだ。「東京の方(ほう)で」というのが、責任の所在を曖昧にする技と感心した。次いでは、僕が受け入れるはずがないと分かりながら、そんな条件を提示するというのも、なかなかの交渉術と感じ入った。さすがに長い社会運動歴を備えたHさんらしいと、僕は降参した。
 ところで、僕には到底受け入れられないことを弁えた上で差し出された条件とは、以下の三項目だった。
「玄さんの独特の文体では、一般には分かりにくいので、もっと誰にでも分かる平易な文体に書き改める。」
「金時鐘さんに対するアイロニカルな筆致はすべて ニュートラルな表現に書き改める。」
「玄さんが最も力を入れたと思える後半部のテクスト解釈の冒険の部分は、実証性を重んじる雑誌の趣旨に合わないので、すべて削除する。そうすれば原稿量も半減するので、掲載しやすい。」
要するに、僕からすれば、全否定であり、それも承知の上で、妥協の努力を衒っているにすぎない。僕はもちろん、受け入れられるわけがなかった。僕のその研究会へのお礼の徴に対する侮蔑とまで思った。
 結論はすぐに下したが、それをどのような形で提示するかで少し悩んだ。
 通常のレフリー性の場合、詳細な問題点の指摘を総論と各論に分けて提示して、それに沿っての改稿と再投稿にあたっての要望なども、相当にこまかく記された査読意見と掲載の可否、その後の予定の提示がなされ、それに具体的に対応することも、それほど難しいことではない。ところが、Hさんの提案はまったくそれとは違った。だれにも責任が及ばないように組み立てられ、実際には何ら具体性を欠いた提案もどきに過ぎず、それに対して最も理に会った対応は、レフリー性などに倣っての、問題の具体的で詳細な提示を求めることだった。
 しかし、僕はHさんの文面を読んだ瞬間に、僕のそれまでの長い誤解にようやく気付いて、そんなことは何もかも無意味と判断した。
 僕が嬉々として参加して議論を交わしているつもりだったのは、僕が思っていたような自由な研究の場ではなく、それなりに厳しい党派性を備えた場であり、その党派と僕の風来坊気質の真剣さとは折り合いがつくはずがないことに気付いた。
 その党派性とは、文章の趣味、依拠する論理、事柄を処理するにあたっての責任のぼかし方などシステマティックなものであり、それを知らずに、そこに足しげく通って議論しているつもりだった僕の誤解が、このような悲喜劇を生み出したのだと納得した。実りある議論も糞も、何もかもなかったことにするしかないと考えた。原稿を取り下げて、その後はそうした集団であるという前提で、付き合うか付き合わないかを決めるしかなかった。
 ところで、研究会ではHさんは司会、その他の関西の中心メンバーの多くも参加して、僕が配布したレジュメという名の完成原稿を読みながら、発表とその後の質疑応答を聞いていた。そしてその場で、僕の議論に否定的な質問その他は全くなかった。したがって、なるほど拙稿に関するクレームの出所は、そこで発表を聞いた人たちではなく、「東京の方(ほう)」とぼやかされた匿名の主体もしくは権力であるのは、嘘ではなかったと合点した。
 その名無しの東京の方(ほう)を、集団めいた匿名にすることが、相手には重要で、僕とその名無しの権兵衛さんの間に挟まれて、Hさんは苦労しているのかもしれず、そうであれば、申し訳ないと思った。
 だからこそ、僕はそのHさんが最も望んでいそうな道を選んだ。著者自らが投稿を取り下げて、すべてなかったことにした。
 すっかり納得してのことだったわけではないが、自分さえ我慢すれば八方が収まると考えた。もちろん、僕一人の我慢で済む問題ではないとも考えたし、多様な不満が僕の心の中で渦巻いていた。極端な言い方をすれば、「だまされた」とか「ひっかけられた」というのが本音だった。
 それでも、この歳になって、そんなことを口実にして、恨み節を垂れ流すわけにもいかないので、僕にとっての実質的な解決策を探った。
 馴染みの出版社に投稿原稿とその他の原稿をまとめて送り、刊行の可否について問い合わせた。すると殆ど日を置かないで、快諾の返答を頂いた。
 但し、条件があった。なにしろ在日の大立者である金時鐘に対する真っ向からの批判を内容とするものなので、二つの盾を準備したいと言うのだった。一つは、肩書と実力を備えた専門家に特別寄稿を収録して、議論の場を設定すること。もう一つは、金時鐘ファンでベテラン編集者として定評のある方に、校閲を依頼し、僕と二人で最後の校正作業をすることで、誰にも読めるものに仕立て上げることで、その両方共に、僕はまったく異論なしに受け入れた。
 僕の「研究もどき」の総決算である原稿が死産になりさえしなければ、僕の第一の目的は達せられる。投稿の実質的リジェクトのことは忘れるように心がけた。それは決して容易なことではなかったし、コロナ禍の閉塞感、金時鐘に対する批判を公表することに対する得体の知れない重圧感なども重なって、精神的に参っていた。
 そんな事情もあって、塚崎さんと酒席を共にするといつでも、その話になった。しかし、投稿の取り下げについて彼に相談したわけではなかった。それについては僕がHさんに対するそれまでの恩義なども勘案しながら、僕ひとりで決めた。
 ところが、すべてが解決したつもりになってから、抑えきれない不満が愚痴となって塚崎さんにむかって垂れ流された。

42.「研究誌」の責任者たちの拙稿の取り扱いに関する塚崎さんとの対話

 塚崎さんは僕が愚痴る前から、拙稿の処理に関する詳細をどこで知ったのか、すごく困っていた。
 そして、僕にいろいろと内輪の話をしてくれた。彼が僕に語ったことのうちで何が事実なのか、何が彼の推察なのか、僕には判断できなかっただが、ともかく、彼から聞いたと僕が記憶していることを記すことにしたい。
 誰もその正誤を証明することなどできない故人の証言を公表するのは、慎みを欠いているが、そもそも本文は僕と塚崎さんの交友に関しての、もっぱら僕の記憶だけで成り立っているものなので、今さら、その種の慎みを云々しても仕方ないだろう。本文はすべて、僕の責任で書いていることを改めて念押しすることで、ご理解、ご寛恕をお願いしたい。
 拙稿に関して神戸のHさんが持ち出した、「東京の方(ほう)」といった匿名の存在は、集団ではなく個人であり、東京の特定の人物、つまり、レフリー性を取らない学術誌の編集をすべて一人で長年にわたって行ってきた(東京の)Hさんのことであると、塚崎さんは断言した。そして、その人の判断と意思を尊重して、拙稿の雑誌掲載を拒否(リジェクト)することに同意したのは神戸のHさん、そして京都のMさんであると、これまた塚崎さんは断言した。僕に対する妥協策になりえない妥協策を作り、僕にそれを提案するなど、矢面に立った神戸のHさんについては、「神戸のHさんもなんて馬鹿なことを、そこまで東京のHさんに気を遣う必要なんてないのに」と塚崎さんは付け足した。
 但し、そんな塚崎さんの言葉には、僕を宥めるために、僕の前では僕の側に立たねばならないという配慮が強く働いたものに違いなく、塚崎さんのその種の厳しい言葉が、そのまま彼の本心であると鵜呑みになどできない。
 僕には塚崎さんの説明の真偽など分かりようがなかったが、大筋において、塚崎さんの説明と判断は間違っていないと推察していたが、そうした塚崎さんの判断には、塚崎さん当人と東京のHさんとの長い因縁もあってのことであると、これまた僕なりに推測していた。
 その二人の長いく微妙な因縁については、本文でも相当に初期の段階で既に触れているので、ここでは繰り返さないが、塚崎さんはその東京のHさんとの絡みでは、確実に僕に側についた。
しかし、神戸のHさんと京都のMさんに関しては、そんな単純なことで済まず、僕とその二人の間に挟まれて、苦しんでいそうに見えた。酒を酌み交わしながら、そんな話になると、塚崎さんには珍しく、悪酔いする気配があった。
 それはともかく、僕のような中途半端なはぐれ者でも受け入れる開放的で良心的で民主的な研究会と信じ、喜び勇んで通い続けていた僕なのだが、ようやくその研究会が、僕が知らなかった側面を持った人々の集団であることを知ったわけで、あまりにも遅すぎたとしても、知らないままでいるよりはよかったと今では思っている。また、その人たちとの良いことも悪いこともすべて、僕の人生において貴重なことだったと、今でも心底、思うからこそ、こんなことを書いている。
 それはともかく、党派性を確信的に備えて、その党派性が必須とする暗黙の禁忌コード、それに抵触すれば、明示的な理由などなしに排除されるという、考えてみればごく当たり前の集団、そんなところで僕は能天気に戯れていた。そのことにようやく気付いたわけである。
 因みに、くれぐれも誤解のないようにしていただきたいのは、本文はその関係者に対する告発を意図したものではない。僕とその人たちのどちらが正しいかを証明するためのものでもない。
 むしろ僕自身の弱さと限界を明らかにしながら、僕がよく知らないままに選んだつもりだった生き方、その問題性を自分に対して明確にしておきたかった。それに加えて、そんな僕のことで一緒に苦しんでくれた塚崎さんに、あまりにも遅まきながら、お詫びとお礼を述べたかった。
 塚崎さんが以上についてどのように考えていたにせよ、塚崎さんがその件を契機に、それを理由として、そのグループ(東京のHさん、神戸のHさん、京都のMさんたち)と袂を分かつという選択肢はありえなかった。その仲間は塚崎さんにとって、甚だ貴重なものだった。したがって、僕が拙稿の件には目をつむって、従来と同じようにその研究会に塚崎さんと一緒に参加して、議論を交わして、酒も飲むことを塚崎さんは望んでいたに違いない。
 塚崎さんのそんな望みを僕も知っていたが、そうはしなかった。
 僕はそれほど立派な、言い方を変えれば、政治的に正しい人間ではないし、そうありたいと願っている人間でもない。そんな自覚が、その判断の最終的な決め手だった。
 僕は塚崎さんその他が望むように、「大同についた」としても、酒が入るとその話を蒸し返して周囲を白けさせて、自分自身に対する嫌気も募らせかねない。そんな自分のことを想像し、そんな自分を許せないから、きっぱり身を引くことで、ことを終わらせようとした。
 ところが、そうはいかなかった。伏兵というか、「僕たち」の誤りを指摘して自省する機会を提供するといった、なんとも頼りがいのある「仲間」が、僕らの周囲にはいた。
(「塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の13に続く」


「塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の11」

2025-08-15 11:38:54 | 触れ合った人々
「塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の11」

40.S研究会による「僕の跳ね飛ばし」と僕の揺れの1―「暗黙の禁忌コード」に関する拙著からの引用―

 次いでは、S研究会から僕が「跳ね飛ばされた」経緯について述べるが、その「跳ね飛ばされた」というのは、あくまで僕の感じにすぎず、「僕を跳ね飛ばした」と僕が思っている人々は、僕のことで余計な神経を遣う羽目になるなど、無用な苦労をさせられたと思っているのかもしれない。そして、その延長で、とんでもないお邪魔虫がいなくなって、せいせいしているかもしれない。それなら、なんとも申し訳ないことだった。
 それはともかく、以下は相当に長くなりそうなので、どうか予め覚悟して読み進めて頂けるように、くれぐれもお願いしておきたい。
 実は以下で詳細にたどるつもりの、S研究会からの僕の「跳ね飛ばし」については、甚だ婉曲的ながらも、拙著『金時鐘は「在日」をどう語ったか』(同時代社、2021年刊)の「はじめに―本書についてー」の、(5)在日による在日批判、(6)相互批判を通しての協働、(7)暗黙の禁忌コードを越えて(16頁から20頁)で、その僕自身の事情などを執拗に記述している、そこで、先ずはそれを引用し、その後では「婉曲性」を拭い去った「生の」事実経過を記したい。以下は拙著からの引用である。

(5)日本の知識人は在日を持て余しているが、その一方で在日を必要ともしている。というのも、在日に対する批判は日本人には許されず、在日にしか許されないとすれば(そんな馬鹿なことなどあってはならないが、それが現実であるとしたら)、そしてその批判が必須のものならば、在日を批判する役を在日が引き受けねばならない。
 そして筆者は、在日の一員に他ならないのだから、それを引き受けなくてはならない、などと柄にもないことを、僕は本気で考えるようになった。
 因みに、在日による在日のとりわけ知識人に対する批判、或いは、在日の自己批判というアイデア自体は、それ以前から長く筆者の胸の内にあったし、そもそも金時鐘に対するアンビバレントな印象も、当時はまだそれほど明確に意識されていなかったが、それと無関係ではなかった。そして筆者は今から10年以上も前に、拙著『「在日」との対話』(同時代社、2008年刊)でそれに類することを試みていた。
 ところがそこでは、やり遂げる決意と自信、そしてそれらと表裏一体の責任感を欠いたままに、具体的な人物名やテクストなどを捨象し、甚だしく抽象的でもっぱらレトリックに頼った議論に終始したので、筆者の意図が読者に理解されるはずもなかった。
 そんな経緯もあったので、今度こそはもっと大胆に、しかしそれと同時に徹底的に細部にこだわって書いてみようと覚悟を決めた。
 金時鐘についての初めての拙文「詩はメシか?」(本書第一章)は、諸種の研究会に参加しながら、次第に形を成すようになってきた方法論、つまり、政治や文学その他の何であれ集団的、運動的なテクストにおける戦略性への着眼といった、それ自体としては何の変哲もないアイデアに基づいて、集団を統率するための金時鐘の様々なテクスト戦略を析出する試みだったが、それを曲がりなりにも書き終えたことで、金時鐘のテクストの分析を通して在日による在日批判へと至る手立てを見つけ出した感触があった。
 本書の第2章以降もまた、その「詩はメシか?」で試した方法論を援用して、それとは異なる時代と現実における金時鐘の言動の戦略性にこだわった。たったそれだけのために第1章と第2章以降との間にずいぶんと長い歳月を要したことなど自慢にもならないのだが、ともかく、筆者にとっての在日観の検証の一環としての金時鐘論の大まかな輪郭くらいは描いたつもりでいる。

(6)相互批判を通しての協働
  いくら優れた人物でも人生の長い道のりにおいては、少なくとも一度や二度は取り返しがつきそうにないミスや罪を犯すものであり、いくら知的な人にでも死角というものがあって、とんでもない思い込みにしがみついてしまっている場合もあるだろう。そして例えそうだとしても、それがもっぱら私的なことであれば、そんなことに他人がくちばしを挟む必要も権利もあるはずがなく、当人がその責任を取るように、内面的葛藤も経て努めればよいのだろう。
 しかし、それが公的なレベルとなると、そうはいくまい。公的な責任が伴い、それについて云々する義務はともかく権利くらいは他人にもあるだろう。例えば、文章を公刊したり、社会的に発言したりすれば、その内容についての責任が生じ、当人がその責任を明らかにして、それを担う努力をすることで、社会は何とかそれなりの体裁を保って人間が生きるに値するものになる。
 ところが、そのような修復作業は当人だけでは難しい。同じ社会に生きている者同士の相互批判があれば、それを担保にした協働作業によって、個々人の、さらには集団の「過ち」が修復され社会的な絆も強くなる。
 しかしながら、そうした相互批判にあたって厄介なものがある。誠意や善意や良識や礼儀、さらには、民族的責任などのまっとうな倫理観が、むしろそうした相互批判を妨げる場合も少なくない。配慮や慎みが絡み合った結果として、誰一人として責任を取れないし、取るつもりもない暗黙の禁忌コードのようなものが形成されて、それが相互批判を妨げ、やがては忖度のようなものがはびこり、社会全体が委縮する。

(7)暗黙の禁忌コードを越えて
 本書の出版も、その一角をなす拙文が、そうした暗黙の禁忌コードのようなもののせいで、予定していた雑誌に掲載されなくなったので、当初の予定が大幅に狂いそうになり、その結果として逆に刊行を急ぐという、なんとも奇妙な経緯をたどった。
 当初は、金時鐘については詩に関する論をあと一篇、金石範に関しては既に公表している二篇に加えて、あと一篇(『火山島』の人物について)を完成し、さらには20年ほど前に書いた立原正秋に関する評論なども合わせて、筆者なりの「在日文学論」を刊行することを夢見ていた。しかし、それにはまだこの先、2、3年の歳月を要するものと見込んでいた。
 因みに、そうした3人の在日作家の組み合わせを異様に感じる向きもあるかもしれないが、筆者は本書とほぼ同じテーマでそれを構想し楽しみにしていた。
 ところが、その予定を前倒しに、しかも、内容もずいぶんと縮小して、金時鐘に関するこれまでに完成した文章だけをまとめて出版することになった。先に触れた暗黙の禁忌コードの不気味さと、折からのコロナ禍と連動した政治と国民の大政翼賛的な雰囲気に対する怯え、加えて老化がらみの体調不調なども相まって、切迫感が増幅した。危機がさらに深刻化しそうな冬を迎える前にと出版を急いだ。
 以上のような経緯で刊行に漕ぎつけたのだが、金時鐘を批判しているというだけで反発する方が多くいそうな気配である。しかし、そうした予想される反発や批判もまた、本書に不可欠な構成要素と筆者は考えている。いろんな見方があるだろうし、それをぶつけ合う契機になればと思って、本書を構成する文章を書いてきたし、刊行も決断した。(以下省略)

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塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の10

2025-08-15 10:39:40 | 触れ合った人々
塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の10

38.二つの研究会の性格の異同と僕との関係(2)
 C研究会はアカデミックな学術研究団体である。その組織運営も一般の学術研究団体とあまり変わらないだろう。会員組織となっており、会費を払ってこそ会員になれる。そして、その執行、或いは、運営機関としての、会長その他の役職者、運営実務に携わる委員などは互選される。刊行物として折々のニュースレターの他に、紀要としての学会誌もあり、編集委員会が編集を担当し、投稿原稿の掲載の可否などに関してはレフリー性が採用される。
 以上のような何の変哲もなさそうなことを敢えて記しているのは、後に紹介するS研究会の場合との対照性を理解していただきたいためなので、その趣旨をご理解の上、ご寛恕のほどをお願いしたい。
 様々な役員その他に関しては、代替わりや持ち回りで、会員全体がバランスよく責任を分担できるように配慮され、特定の人物やグループが独裁的権力を振るう余地などなさそうである。月例研究会や総会などの司会も、いつでも特定の人物に独占されているなんてこともない。
 会員は主に大学など研究機関に籍を置く研究者を自任する人びとであるが、非会員でも月例研究会や全国大会での研究発表や聴衆としての参加が可能など、制限は緩やかである。
 しかし、全国大会や機関誌への投稿に関して、非会員は何らかの出費その他の条件を求められそうに思うが、僕はその種の経験がないので、詳しくは知らない。
 先にも触れたが、僕は外様で、その他大勢の一員として、会費も払わずに、研究会に参加し、口頭発表をすることも許されていた。ニュースレターにも二回ほど、求められて投稿したことがある。一回は口頭で行った書評、もう一回は口頭で行った研究発表、それぞれのレジュメ原稿だった。
 数多くの学会の中でも、日本では比較的にマイナーな研究対象の研究会なので、可能な限り、外部に開いた形で裾野を広げ、将来の研究者育成などに努めるなど、社会還元や、社会運動的側面も、相当に意識した学会運営を積み重ねてきたのだろう。
 他方のS研究会は、学術団体というよりも、在野性を強調し、市民と研究者の両方を対象として、その間に橋を架けることを目標とする。
 そうしたアカデミズムの鎧を持たない社会運動的組織なので、日本社会に根強いレイシズムその他の社会運動体組織や個人からの攻撃や妨害の懸念もあってか、のことか、例えば、組織防衛のためにも、運営方法が最初は驚くほど、、運営が閉鎖的に見えた。選挙や運営に関する討議などの話聞いたことがなく、司会その他の運営の世話役も殆ど常に不変である。それほどに相互信頼が確固としているからなのか、或いは、中心メンバーを確固と不動にして安定を維持しないと、何か妨害や不祥事でも発生するに対処しにくいといった危惧があってのことだろうかか。。ひょっとしたら、それに類した忌まわしい経験などがあったのかもしれない
 機関誌らしきものを刊行しているが、それと月例の研究会との関係も、定かでなかった。そもそも、今や学術誌では普通のレフリー性も採用せず、編集委員会などの話も聞いた覚えがない。それでは、投稿原稿の掲載の可否の決定はどうなっているのかと言えば、長年にわたって特定の人物が決定し、しかも、それがあたかも終身制のようである。それを見ると、その人物が主宰する個人誌の趣がある。
 但し、何か問題でも生じたら、関東と関西それぞれの責任者が合議して決めるようになっていて、その中心メンバーの間では開放的で自由で民主的な運営がなされているのかもしれない。しかし、投稿論文がリジェクトされ、その経緯が公にされたという話など聞いたことがない。
因みに、塚崎さんの話によると、これまでに投稿してリジェクトされた例が一つだけあったと言う。だから、数年前に僕が投稿しながらも、関係者の要望も受けて、それを取り下げる体裁をとったせいで、雑誌が公的には責任を取らない形で見事にリジェクトされた拙稿は、その雑誌の長い歴史の中での二番目の事例となるわけである。
 しかし、それが名誉なのか不名誉なのか、しかも、それが誰にとってそうなのかも、何もかもが藪の中に埋もれてしまった。
 しかし、その最大の責任は、僕以外の誰かにあったから、その人たちを告発するという方向には、本文は向かわない。すべての責任は僕にあり、その責任を僕はどのようにして担うことにしたのか、その経緯と結論を提示するつもりで書いているので、どうか最後まで辛抱強く読んでいただくことを、お願いしておきたい。
 それはともかく、機関誌への投稿については、関東か関西の部会の研究会で口頭発表を行い、その際の質疑応答を経た上での投稿が基本となっていそうな話だったので、研究会での口頭発表後の討議が、編集委員会の査読代わりといった暗黙の了解でもありそうに思っていた。しかし、実際に投稿してみた結果、それは僕の勝手な思い込みに過ぎなかった。鶴の一声を中心メンバーが追認する形でことが決するようになっていそうだった。口頭発表に参加した人々の評価はその最終結論には全く関与していそうになかった。
 僕は関西部会の研究会で口頭発表する際に配布したレジュメという名の、実際には完成原稿に、研究会でのやりとりを受けてほんの少しだけ手直しを施して投稿したところ、少しは予想していたことだが、ことはうまく運ばなかった。
 誰に責任があるのか甚だ曖昧なままに、最終的には僕から投稿を取り下げることになった。その結果、僕が投稿したという事実さえも、歴史の表舞台から消えてしまった。それが僕の言うところの「僕に対する跳ね飛ばし」ということになるのだが、以下では先ず、そうした二つの研究会による、「僕に対する跳ね飛ばし」の具体的な経緯を事細かに記述する。但し、もちろん、僕が見たり記憶したりしているものであって、それが真実だったなどと言い張るつもりなどない。拙文の読者は、まさか、そんな主張を僕がするなどと思っていないだろうが、あえて念をおしておきたい。僕にとっての事実を僕はいつも書いている。客観的事実など僕には書けるわけがない。
 それはともかく、先ずはC研究会の場合である。

39.酒席という「密室的」空間での警告―「研究会での発言を慎むように」ー
 C研究会に楽しく通っていたが、そのうちに、中心メンバーに疎んじられていそうな感じが強まってきた。しかし、僕は何らかの会に新たに参加すると、中心グループにあまり喜ばれないのは毎度のことだった。そして、そんなところがむしろ僕の持ち味だからと、ひどく迷惑にならない限りは、公共空間で許される範囲のお邪魔虫と自己認識して、それなりに適度な距離を意識しながら、なんとか人との付き合いを大事に暮らしてきた。
 ところが、それはあくまで僕のような「変な奴」の理屈に過ぎず、たとえ自由や民主を標榜していても、それぞれの集団内で長年にわたって形成されてきた暗黙の了解といったものがどこにでもあり、新参者がそれに抵触でもすると、排除・追放の圧力が強まり、それに耐える意味がこちらになければ、自ら退散するしかなくなる。そんなことが幼い頃から、僕には少なからずあった。
 そんな経験に加えて、在日二世的な「下種の勘繰り」がひどい僕は、無言の排除の圧力に甚だ敏感で、しかも、その精度にも自信を持っていた。下種の勘ぐりが正しかったことを痛感するといった、僕としては喜べるわけがない「無残な成功体験」を重ねてきたからである。
 しかし、すっかり歳をとってから通い始めた研究会で、その種のことが雰囲気や無言の圧力のレベルにとどまらず、言葉で突きつけられるなんて、予想もできなかったことなので、さすがの僕も驚いた。
 研究会終了後の懇親会、つまり飲み屋でのことだった。その日はいつもの馴染みの店ではなく、少しお洒落な初めての店だったからか、落ち着かなかった。いつも一緒の塚崎さんがその日は珍しくいなかったことが僕の心理に大きく作用していたのだろう。
 それでも、塚崎さんの紹介で仲良くなった若手の研究者を相手に、ほろ酔い気分で能天気なおしゃべりに熱中していたところ、研究会の顧問格で隠然たる影響力を行使しているMさんと、運営その他の実務を取り仕切り、研究会など司会も担当し、僕ともそれなりに親しかったAさんとが、いかにも改まった言葉と態度で、僕を別席へと導いた。そして、何事かと当惑している僕に、「今後は研究会での発言を慎んでいただきたい」と深々と頭を下げた。
 その他にも多少の言葉のやりとりがあったはずだが、今の僕はそんなことは何一つ覚えておらず、覚えている短い言葉にしても、最初は、何のことか訳が分からないほどだった。不意を衝かれたわけであるが、やがては、「やっぱりそうだったのか」と、研究会での最近の僕に対する、とりわけ、僕の発言への対応の不可解さが思いあたった。
 そもそも、そんなお願いの形を取りながらも、相当に厳しい「警告の類」を、議論の現場ではなく、酒席で、それも酒癖が良くない定評のある僕に突きつけるなんて、危険きわまりない。現に僕は自分が抑えきれないのではないかと心配になったからこそ、なんとか穏便にすますためにも、余計なことはを言わない方がよいと判断した。不承不承ながらも「なるほど、そのお話はひとまず承っておきます」とだけ言って、席を立った。
 しかし、そのまま店から出ていくのは、角が立ちかねないと心配になって、先ほどまでお喋りの相手をしてくれていた若い研究者の席に戻り、1,2杯だけ盃を交わすなどしてから、急用を思い出したのでまたの機会に、と挨拶してからを、店を後にした。
 帰路では、僕をその研究会に引き込んでくれた塚崎さんのことを改めて考えた。このことは断じて塚崎さんに知られないようにしなくてはと、自分に言い聞かせ、そのためにも、断じて、ことを荒立ててはならないと決意した。
 さらには、研究会、とりわけ二次会ではいつも一緒だった塚崎さんが、その日は欠席していることと、その「警告」との関係についても思いを巡らせた。
 そんな予定があることを事前に知って、塚崎さんもそれに同意しながらも、自分がその場にいない方が良いと考えて、欠席したのだろうか。或いは、彼が欠席するという連絡を受けて、絶好の機会だからと、責任者たちはいつか実行するつもりだったアクションを、急遽、決行することにしたのだろうか。
 その二人が、自分たちの個人的な好悪に基づいてそんなことをしたわけではないと、僕は何故か信じていた。そのような声が他の参加者にもあったから、彼らは責任者として、なすべきことをせずにおれなかったのだろうと。
 そして、それほど自分が忌避されていることを承知しながら、僕が今後も、そこに足を運ぶわけにはいかないと思った。
 しかし、塚崎さんが不在だからとそれを決行したならば、その人たちは、僕がその事実を後に塚崎さんに訴える可能性を考えなかったのだろうか。それが不思議だった。しかし、が僕はそんなことを塚崎さんには伝えまいと予測したのかもしれない。或いは、後にその事実を塚崎さんが知ったとしても、既成事実として済ますつもりだったのだろうか。そんなことを考えるにつれて不快さが募ったが、仕方ない。その研究会との縁を切るしかなかった。
 繰り返しになるが、そのことについて塚崎さんに僕は一言も話さなかった。しかし、塚崎さんがやがてはそのことを知ったのかもしれない。その後にはいくら誘っても僕が明快な理由もなしに参加しなくなったので、韓国語で言う「ヌンチがある」(目ざとい、或いは、勘が働く)人なら、何かがあったのではと勘繰るだろう。しかし、塚崎さんは僕と違って、そんな「ヌンチ」が働かない人、つまり、下種の勘繰りとは縁遠い人だったから、きっと知らないままだったのだろう。それこそまさに、善人としての塚崎昌之の面目躍如たるところであり、そういうところこそは、僕が塚崎さんを信頼する一方で、物足りなさも感じるといった、「ないものねだり」を時にはする理由だった。
 因みに、僕に対してそんな警告を敢行したお二人は、塚崎さんの信頼がとりわけ厚い人たちだったので、塚崎さんがもしそんなことを知ったら、お二人はともかく、塚崎さんはすごく困ったに違いない。
 それだけに、そういう塚崎さんの立場や性格も計算に入れて、二人は塚崎さんがいない酒席で、しかも、他の誰の耳にも入らないように僕を別席に導くなど、慎重に事を運んだのだろう。それが研究会に責任がある人の義務と考えてのことだろう。
 因みに、塚崎さんが亡くなってからの話だが、その研究会の参加者の中では、僕とフランクに話せる数少ない人でありながらも、僕に警告を発したお二人とも親交が深かった人と酒席を共にした際に、その二人と僕の警告のエピソードを漏らした。すると、「まさになるほど、ありそうな話話ですね。だって、あの二人は、玄さんががすごく苦手で、もっと正直に言えばに言えば、玄さんみたいな人は嫌いであることは自分の勘では確実だから」、となんとも率直なことを話してくれたので、ふたりして大笑いした。
 先にも触れたことだが、その通告を契機に、それまでになんとなく不可解だったことの謎が解けた。研究会で研究発表者に対する僕の質問やコメントを受けつけてくれることが目立って少なくなっていた。しかも、珍しく僕が発言を許されても、その後には必ず、僕に警告したMさんが、僕の二倍三倍もの時間をかけて、僕の発言内容を暗に帳消しにするような議論を執拗に展開し、僕を除く参加者全員がそれを神妙に傾聴するような雰囲気になるので、それが奇妙な上にすごく不快になりながらも、「この研究会の人たちが、まさかそこまで行うことに対する不信感もあったのでするはずが」とむしろ自分の中に兆す疑惑を打ち消していたのだが、そんな僕の方が、実に滑稽な努力をしていたことが証明された気分だった。
 そこまでされて通う必要もないからと、僕はその研究会に参加しなくなった。それこそは、あのお二人が究極的に意図していたことだっただろうから、僕はその思惑通りに行動したわけである。
 ところが、なんとも有難いことに、それから数年後のことだが、その研究会の運営を新たに担当するようになった人々の尽力で、僕はその研究会で、人生最後の研究発表もどきを行う機会を得た。僕があの「警告」を受けながらも、僕には珍しく穏便に、しかも、相手が望んでいたように、参加を取りやめた従順さが、認められたのだろうか。或いは、それとはまったく関係はなくて、偶然のことだったのかもしれない。
 因みに、これまた繰り返しになるが、僕に対する警告は、僕に対する個人的な好悪の結果ではなかったと僕は信じていた。
 僕は30歳代の半ばまでは、仏文研究を熱心にしているつもりだったが、アルバイトまみれの苦学生、しかも、権威や目上の人に対する礼儀に欠けるばかりか、むしろ、研究に関しては、権威や長幼の秩序などには意識的に逆らうべきという、奇妙に肩ひじ張った思い込みもあって、指導教授その他のお覚えがいたって悪く、もちろん、実力不足もあってのことだろうが、定職に恵まれなかった。そして、そうなるとますます、大学の職階に基づくピラミッド体制に対する違和感が募り、それにつれて、ますます疎外されるようになった。
 そのうちに、大学人とその集団の人間関係に対する嫌悪感が高じて、すっかり関係を断ち、そのあげくには、研究そのものも嫌悪し放棄した。そして、弱犬の遠吠えのような雑文を書き、酒の肴として研究者を衒う人々をあざ笑って、憂さを晴らしていた。
 ところが、50歳の半ばになって、共通の知人の再三の推薦と紹介を受けて、塚崎さんと付き合うようになると、彼の媒介で信頼に値する少なからずの研究者と親交を深めるようになった。そしてようやく、僕の出自と経験に密接に関連する在日の歴史や済州学に手を染めるようになった。
 そんな僕が持ちあわせていたのは、在日としての生活経験と意識形成に関する僕なりの分析と、エスニシティに関する経験的信憑に基づく論理以外の何ものもなく、そうしたいかにもアマチュア的自己認識をベースにして、いわゆる研究者の多様で幅広い研究成果と照合しながらの「研究もどき」に懸命という個人的事情もあって、すごく焦っていた。
 だからこそ、いわゆる研究者への階段を順調に駆け上って来た優秀な研究者たちにとっては、無知丸出しの乱暴な議論、例えば、文学評論臭が芬々で、実証性に欠け、レトリックが目立つアイロニカルな文体が言動などのすべてが、不愉快きわまるものだったのだろう。それでも、さすがに相当の年配で、しかも「在日二世」の経験に根差した議論と言い張るものだから、日本人研究者は「君子危うきに近寄らず」、慇懃無礼に徹することになりがちである。そんなこともあって、まともな研究者の間では、僕とその発言や主張に対するフラストレーションが募っていたに違いない。
 だからこそ、研究会の運営に関して責任感を持った人たちが、研究者の立場を代表して、僕に対して、他の人にはなかなか難しい警告を発せざるを得なかったのだろう。
 僕としてもそれくらいのことなら、理解できないわけではなかった。しかし、研究会での議論については、あくまで研究会の現場で処理すべきで、真剣勝負であるというのが、内心での僕の言い分だった。
 僕は自分が門外漢であることを十二分に承知しながら研究会に楽しく通っていたのは、そこで立派な研究報告に耳を傾けて知識をえることだけが目的でなかった。その話を自分がどのように理解し、それが自分の知識や経験や感じ方とどのように関係するかを、自分なりの言葉にして、しかも、議論したかったからである。
 それなのに、何が問題なのかを明示することなく、まるで裏交渉みたいに、彼らの立場からすれば「紳士的な忠告、あるいは、下交渉」を行うなんて、不明朗の極みではないかという思いが否めなかった。
 それでも僕は、その一切を塚崎さんには秘密にして、「穏便」に身を引いた。彼らが思っていたほどには、がちがちの筋金入りのトラブルメーカーではないことを証明いたかったのかもしれない。
そしてそのように穏便に済ませたおかげなのか、先にも述べたように、その後には、その研究会で人生最後の研究発表の機会を与えられた。研究会の企画や司会の担当者がすっかり代わっていたので、直接的な因果関係はなかっただろうが、僕の穏便な対応に対するご褒美と勝手に意味付けて、何につけ穏便さというものが、それなりに大事なものだと、僕にしては珍しく素直に感謝した。
 ところが、その一方で、僕に対する「仕打ち」に関して、改めてその不明朗さが気になった。普段のそもそも、研究会での僕の発言が、会の進行の妨害になったはずがないしないと、改めて僕は自分の行いの僕なりの正当性を確認して、不当な対応に不満になった。
 僕は質問でもコメントでも、一回につき3分を心掛けて、例え長くなっても5分を超えなかった。そのつもりだった。質疑応答が繰り返された場合には、トータルで自分が決めた制限をオーバーすることがあったとしても、公的な場で延々と話し続けるほど自分勝手ではないと信じているが、そんな言い方自体が、僕の言葉の信憑性を大きく棄損しているのかもしれないが、そこまでくると、もう僕の手に負えない。人徳のあるなしが問題で、僕にそれがないことは自分でも知っているので、これ以上の弁解はしないでおく。
 僕も時には礼儀を弁えないと映る場合がはあるあっただろうが、実はそれは意図してのことも多かった。議論を分かり易くするための極論も行ったし、相手の慇懃無礼には、慇懃さを取り払ったむき出しの無礼で対することも、義務として自分に課す場合もあった。
 その研究会でも、僕なんかよりも無礼な態度で、内容的にもひどい話を延々と続ける人もいたのに、僕への警告に類したことはなされなかったのではないだろうか。その無礼きわまる研究者が、大学や学会で一定の地位を占めていたからである。
 他方、僕にはそんな「飾り」など何一つなかった。研究者崩れの一介の三文外国語教師の老人だからこそ、塚崎さんの不在という好機を活用して、研究会を守るためにと、責任感にかられた中心メンバーが、口頭による追放通告に等しい警告を敢行することを辞さなかった。
 それははたして理事会や事務局会議で公式に決定されたものだったのだろうか。そんな可能性をこれまでに僕は一度も考えたことがなかった。そんなことにも、今になってようやく気づく、僕なのである。
 それが公式決定に基づく警告で、その旨を明らかにして通告されたとしたら、僕はそれに対して、どのように対応したのだろうか。たぶん、公的な、つまり公開で質問書でも送り付けたにちがいない。
 しかし、何故かしら、公式に決定されたことではないという想定に基づいて対応したし、その後もそんな推測に基づいて生きてきた。しかし、それ自体が僕の誤解だったとしたら、当時もそれ以降も、僕は自分の置かれた状況を全く把握しないまま生きてきたことになる。
 本来なら、その警告を受けた際に、そのあたりの事実関係だけでも問いただすべきだったのに、そんなことにまで踏み込めば、酒の勢いもあって、自分を抑制できなくなった挙句に、事をひどく荒立ててしまいかねないと、自分自身のことが怖くなった。だからこそ、「ことなかれ主義」に引きこもって、もっぱら塚崎さんに迷惑をかけないためという口実で、相手の言うことを受けいれてしまった。そんな情けなく軟弱な性根は、死ぬまで治りそうにない。

(カテゴリー:触れ合った人々、「塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の11」に続く」


塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の9

2025-08-15 10:36:02 | 触れ合った人々
塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の9

35.最晩年の塚崎さんを苦しめた僕-関係の不幸―

 前回8の末尾で、僕は概ね次のようなことを書いた。

 塚崎さんの結果的には晩年となった頃に、塚崎さんに大きな心理的負担をかけていた者がいるとしたら、責められても当然だろう。実は、その筆頭に僕がいた。僕にはそれが確かなことのように感じられるので、甚だ厄介である。
 必ずしも意図してのことではなかったが、「知らぬ存ぜぬ」と、無垢も主張できない。塚崎さんと僕の関係がそんな事態をもたらした。それは否定できない。

 以上だけでは、何のことやら、さっぱり理解できない読者が多いだろう。それだけに、それを書いた当人としては、誰にでも少しは分かるように説明する義務がある。その義務を少しでも果たしたい。
 僕は塚崎さんの最晩年の数年間、彼を少なからず苦しめたが、それは必ずしも僕一人の意志でも責任でもなかった。塚崎さんにとって僕はそれほど重要な存在ではなく、そんな僕が何をしたからと言って、塚崎さんがたいして苦しむわけがない。一緒に盃でも傾けながら愚痴りあったとしても、「玄さんはそんな人なのはとっくの昔から承知しているので、それしきのことを、今さら気にしないでください」などと、軽くあしらって、見過ごしてくれたに違いない。
 したがって上掲の拙文は、僕お得意の誇大妄想のきらいが強いが、それを十二分に承知の上で、僕が時として頼る「関係の不幸」という理屈を援用して説明を試みたい。
 塚崎さんは「関係の不幸」のせいで苦しんだ。そして、その関係の中には僕もいたので、僕は塚崎さんを苦しめた一人である。そのように僕は確信している。そして、その「関係の不幸」とはこの場合、下世話に言えば、「三角関係」のようなものだった。二つの研究会。その両方で世話人役を買って出ていた塚崎さん。そしてその塚崎さんの仲介でその二つの研究会の常連になりながら、やがてはその二つの研究会から排除された僕。
 その三者の関係によって、塚崎さんはその研究会を取るか僕をとるかの選択を強いられたといった三角関係のことである。
 実際にはそんな単純な図式で、世界や人間関係は動かないし、塚崎さんにはそんな選択を強いられたとしても、それに応ずるつもりなどなかっただろうし、実際にも、応じなかった。しかし、それだけに、相当に苦しんだように、僕には見えた。

36.塚崎さんが大事にしていた二つの研究会―C研究とS研究会―
 僕は塚崎さんの紹介と再三の勧誘もあって、50歳代中盤から70歳代初盤までの20年弱の間、在日や朝鮮半島を研究対象とする上記の二つの研究会に足しげく通い、その例会における研究発表と質疑応答を含む議論はもとより、懇親会での雑談などで、多くの人々のお世話になった。そしてそのおかげで、それ以前とはずいぶんと異なる知的環境と人間関係を楽しむうちに、生き方まで変わった。当時にはそんな実感があったし、そこから離脱して久しい今でも、その感触が確かなものとして残っている。
 例えば、それ以前の20年間は殆ど嫌悪していた学問研究だったのに、そんなものに改めて関心を持つようになったあげくに、相当に遅ればせながらも、初老の初学者としての恥を忍びながら、研究や調査もどきに挑戦した。そうした僕の変貌の契機、そしてその根源にも、塚崎さんとの酒気芬々の交友があった。
 ところが、今から数年前に、つまりは塚崎さんの死の数年前に、僕はその二つの研究会のそれぞれから、次々に「はじき出され」、その結果として、必ずしも望んだことではなかったが、その二つの研究会との敵対関係に追いやられた。それ当時の僕の感触だった。それだけに、その後の僕は、それら研究会を筆頭にした集団や個人や思想に対する、自分の新たな立ち位置をどのように設定し、どのように生きるかを考え直さざるをえなくなった。二つの研究会はそれほどに僕の後半生にとって重要なものだった。そんな事実を今なお、痛感しながら余生の過ごし方を考えている。
他方、その二つの研究会に僕を紹介するばかりか、僕がそこで存分に楽しめるように、何かと助力を惜しまなかった塚崎さんは、亡くなるまで、さらには亡くなってからも、その二つの研究会の功労者であり続けた。それだけに、塚崎さんが亡きあとに、その遺稿を書籍化したり、追悼文集をまとめたり、追悼の催しを開いたり、彼が遺した資料に導かれてのフィールドワークを継続したりと、彼の遺志を継ぐ企画や作業も、その二つの研究会関係者の協力があってこそスムーズに続行してきたし、今後もそれは変わらないだろう。
 そうした三者の関係、つまり、先にも述べたことだが、二つの研究会、塚崎さん、そして僕の三者の関係について、単純論理で言えば、それぞれの当事者の意志とは必ずしも関係なく、僕と塚崎さんも敵対する羽目に陥りかねなかった。
 実際には、そうはならなくて幸いだったが、そうなるまで、塚崎さんには気苦労が少なくなかった。そして、僕は塚崎さんのそんな心中を承知しながらも、つまり、塚崎さんに迷惑をかけながらも、揺れ動く自分の立ち位置を、自分に納得できる形で定めようと懸命だった。そんな渦中に、塚崎さんは亡くなった。

37.二つの研究会の性格の異同と僕との関係(1)
 それぞれから僕が「跳ね飛ばされた」という点で、こと僕にとってはよく似ていたが、その二つの研究会はそれぞれに独立した別組織なので、僕に対する「跳ね飛ばし」の理由や方法などには差異があり、それに対する僕の態度も同じではなく、その結果も勿論、微妙に異なった。そのあたりを明らかにするためにも、二つの研究会の性格の異同と相互関係を、僕が知る範囲で確認してみる。
 どちらも研究会を名乗り、研究対象が在日や朝鮮半島の歴史を主としている点でも似ていたし、両方の研究会に継続的に参加する人も少なくなかった。塚崎さんはその典型だったし、その塚崎さんに誘われた僕も、会の中心にいた塚崎さんとは異なり、外様の一般参加者のひとりに過ぎなかったが、それぞれの研究会にシンパシーを持ち、月例研究会とその後の懇親会にも、殆どもれなく参加する常連という点では似ていた。
 しかし、そのうちのどちらを重視するかは人によって異なり、それはそれぞれの研究会の性格の違いと密接に関係していた。
 C研究会は主に職業的研究者もしくはその予備軍の集まりであるのに対し、S研究会は市井の研究者や、多様な差別や民族に関する社会運動の実践者や経験者、そしてその研究者などが参加した。つまり、職業的研究者か否かといった社会的ステイタスが違った。
 そんな事情もあって、参加者はその二つを個々の都合に合わせて使い分けたりもした。
 例えば、大学院生やポスドクなどの若手研究者は、ほぼ同時期にほぼ同じテーマの研究発表を両方の研究会で順次に行った。内容が殆ど変わらない研究発表でも、それに対する反響は、その二つの研究会では相当に異なったりもする。したがって、両者のそれぞれに特色のある質問やコメントを受けて、論文内容の再精査など改稿して、研究論文としての完成度を高めようとした。
 S研究会での研究発表では、プロの研究者の研究論文としての水準、例えば、先行研究との関係、論文構成、研究方法、論理展開、用語の適切さなど詳細にわたる問題点の指摘が多い。他方、青丘文庫研究会では在日も含めた様々な社会運動の実践者や経験者の経験に基づいての、文献資料に基づく研究報告に対する助言や違和感の表明など、ともすれば「頭でっかち」になりがちなプロ、もしくはプロ志望の研究者の、死角を浮かび上がらせたり、発表内容の一般市民に対する説得力の有無などに関しての率直な意見、感想が多かった。
 ところで、もっぱら学術業績だけが目的の研究発表なら、C研究会を筆頭にした数多くの学問的に定評のある学術組織での発表で十分である。それだけに、S研究会での研究発表はそうしたものとは目的が少し異なり、在野の市民や体験者の経験談や意見を聞くなど、調査研究の死角を補ったり、その延長もしくは一環としての調査研究の性格も帯びた。
 研究会後の懇親会での話題も異なる趣があった。C研究会の懇親会などでは、若手研究者が就職口や人脈を広めるためのリクルート活動の一環という趣が、露骨になったり、その種の事柄に一定の影響力を備えた中核グループやリクルートなど関心と目的を同じくするグループなどが集まっていわゆる大学人事の話で盛り上がったりもするが、S研究会では人生談義や、互い或いは共通の知人たちの近況話、その他、社会情勢などに関する話題が目立った。
 以上のような事情は参加者の世代にも影響した。C研究会には、若手の研究者が研究発表の他に学会活動の一環、いわば大学人としての職務の一環として参加する場合もあるので、世代構成のバランスがとれるが、S研究会の方は、自らが研究発表してコメントや助言を求める場合を除いては、若手の研究者が他の研究者の発表を聞くために参加して議論を挑むようなことは殆どなかった。しかも、職務として義務もないので参加はごく限られ、ある程度の年配の多様な社会活動の経験者が、発表者にはならずに、もっぱら発表を聞き、それぞれの経験と対照した感想や意見を述べる形で議論が盛り上がったが、世代間の交流はあまりなされなかった。

38. 僕の特異性がもたらした「お邪魔虫的存在」
 僕がその二つの研究会に通いだしたのは、第二次大戦末期の済州における日本軍軍事施設のフィールドワークに塚崎さんに誘われたのがきっかけだった。塚崎さんたちが精力的に韓国、とりわけ済州の研究者たちと協力して推進していた研究成果を、自分の目と耳と身体で体験して、済州に本籍を持ちながら、済州について何も知らない自分が恥ずかしくなった。そこで遅まきながらも、済州と僕が生まれ育った大阪の関係の勉強を始めた。そして、その延長で、若い時から抱いていた僕固有の関心事である、在日二世としての僕の自己批判を中核にした「在日による在日批判」にまつわる方法論と論理化に没入するようになった。
 その過程で、塚崎さんの紹介と勧誘もあって、アクセスその他で僕には格好と思える、二つの研究会に足しげく通うようになった。
 明確な輪郭を描けないでいた「在日による在日批判」というアイデアを、少しでも明解に提示するための僕自身の努力を前提にしながらも、刺激と助言、とりわけ、僕の独りよがりな論理に対する批判を僕は切実に求めていた。だからこそ、全くの門外漢でありながらも、在日や朝鮮半島に関しての研究成果の蓄積と人材を擁する研究会に参加して、そこでの情報と議論を、僕自身の経験や自分なりの論理と対照させ、僕のテーマを論理的に構成する基盤を創り上げようと考えていた。
 ところが、そうした僕の相当に特異な目的意識や、既に初老に達した年齢、さらには在日二世という出自と経験に拘った僕の立論は、いわゆる学会や研究会の参加者のそれとは触れ合うどころか、大きな齟齬をきたしていたのだろう。その結果、嵩高くて扱いにくい存在と見なされるようになっていたのだろう。
 例えば、僕のテーマは、日朝あるいは日韓友好を建前とする研究会や社会的運動の方向性とは相いれないものと見なされ、歓迎されないどころか、そうした発想自体が殆ど理解されなかったらしい。僕と同じ在日にも理解されないものが、日本人に理解されるはずもないのかもしれない。
 そういう事情もあって、研究会の場でも懇親会でも、僕なんか相手にして議論を楽しむのは、塚崎さん以外には、甚だ奇特な人に限られていた。特にC研究会の中心メンバーとは、盃を交わしながら議論するなんてことは、その20年近くの間に殆どなかった。
 僕にとっての終生のテーマだからと、僕がついつい話題にしてしまう議論、例えば、在日の既存の大組織とその思想潮流、さらには、殆ど抑圧的な制度と化したメンタリティや行動類型に対する僕の厳しい批判などについては関心がないのだろうか、或いは、それなりに意見を持っていても、公言しないのが良識ある研究者の立場といった、暗黙の了解のようなものもあったのだろう。要するに、僕は何重にも歓迎されない外部からの参加者だった。
 そのうえ、まともな社会的ステイタスも持たない身なのに、我が物顔で面倒な議論を吹っ掛ける風来坊老人なので、疎まれ、警戒されるような雰囲気が徐々に広がっていた。ところが、その当事者である僕は、そんな状況に少しは気づきながらも、僕の言動が許容範囲を超えているわけなどないと信じ、能天気に研究会を楽しんでいた。
 しかも、僕は焦っていた。自分のテーマについて話し、多様な人々から忌憚のない批判を受けることで、死ぬまでには、多様な人々と共通の基盤を創り上げて、議論したいと、自分勝手ながらも、すごく真剣に研究会に通い、相手がだれであれ、真剣に議論を心がけていた。要するに、ひどいボタンの掛け違いによって、既に軋轢が深刻化しておかしくない状況を、僕の真剣さがさらに悪化させていたのだろう。
 そのうえ、僕とそれら研究会の人々が依拠する研究手法の差異もあった。歴史研究が依拠する実証性と僕が依拠する文学批評的な解釈の冒険との乖離、軋轢、齟齬も甚だしかった。僕には彼らの文章はなんとか読めるし、語りも理解できるが、彼らには僕の文章も語りもチンプンカンプンで、無知で傲慢な在日のはぐれ者のペテン師のように思えていたのだろう

(カテゴリー:触れ合った人々、「塚崎昌之さんとの20年-在日二世と日本人の交友のひとつの形-の10」)に続く)