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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の29

2025-02-09 11:18:23 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の29
第四章 
第3節 上級生から見たサークルと学外組織(1)
韓学同の活動(家)の三層構造
 僕の頭の中では、韓学同経験は三層で構成される。まずは、在日の新入生としてのイニシエーションである。集団としての同世代の学生集団、もしくは組織によるオルグ活動の成果として、民族主義的目覚めを経験し、それを内面化しようと努力する。
 次いでの第二層は、二年生になって新入生に対するオルグを、サークルや組織の一員としての民族的活動家としての自覚を持とうと努力する。こうして、在日のサークルもしくは学外組織の学生活動家が誕生する。以上のことは前回に述べた。
 それに続くのが第三層で、それは在日の学外組織の活動家として、親団体である民団や韓青同など関連組織、さらには、留学同その他の外部組織との折衝や競合の活動を経験する。例えば、組織運営の基盤を、人的にそして経済的に固めねばならない。それまでの自己、さらには、新入生の民族的目覚めも促進など、個人の内面に比重を置いた活動よりも、組織活動に比重がかかる。その段階でも内的葛藤は常に付きまとう。
 それまでに培ってきた日本人との関係、民族活動を心配・制止する家族との関係、さらには将来的な生き方、例えば、職業選択など、葛藤の種は尽きない。
 特に韓学同の執行部の一員にでもなれば、特に地元生まれの自宅通学で、韓学同の地方本部がある地域の民団所属の家庭の子弟の場合は、家庭を通じての民団の統制管理を受けかねない。
民団の傘下団体でありながらも、民団の方針に反旗を翻すことが多い青年学生組織に対する統制管理の手段として最も効果的なのが、地方本部から支部、そして親を通じての青年・学生の活動への干渉である。学生でも下宿生活の学生はそれを免れやすいが、親元で暮らしその府県の大学に通い、その府県の地方本部傘下の韓学同で活動する学生にとっては、大きな障害であり心理的負担になる。ひどい場合には、すべての民族的活動に対する禁止命令が親から下されかねない。エスニックグループは、例え大都市にあっても、村的な相互扶助。相互監視の濃密なコミュニティを構成している。
 その他、上級生ともなれば、自らが所属する大学以外の大学の在日学生に対するオルグやサークル活動の支援をすることも多い。
 民団はもちろん、関係組織との交渉その他もある。民団の役職者との面談、韓青同との会議、協力体制。その他、競合組織との交渉もある。留学同その他の学生団体との新入生の確保競争、運動の正当性に関する論争などもある。
 さらに言えば、非常に柔軟でメンバーシップが不明確な韓学同を草刈り場にするような秘密結社的なものの妨害活動にも対処しなくてはならなかったのだが、これは韓学同の大きな生来のアキレス腱だったので、後に詳論する。
 その他、韓学同は財政的な基盤が甚だ弱く、メンバーの会費などはなく、イベントによって、実際の費用の一部を参加者が負担することもあるが、その費用の大半を組織、つまり執行部の学生が何らかの方法であってかき集めなくてはならない。
 僕がいたころの韓学同大阪では、民団から月額3万円の定期(傘下団体として認められ、その騰勢を受けるのと引き換えに)補助金と、新入生歓迎会はサマーキャンプ、文化祭などのイベントの際には、その都度、臨時の補助金もしくは、韓学同の指導統制を担当する文教部長などのポケットマネーの名目で若干の補助もあるが、それだけでは到底、足りない。
 そこで、カンパ活動が必須で、その対象は大きく二つに分かれた。
 一つはOBたちである。しかし、韓学同の実際的な歴史は、1960年の韓国における4・19学生蜂起以降のことであり、僕ら先輩と言ってもたかだか10年間でその後も統一朝鮮新聞系の学生との分裂・争闘などもあって、ただでさえ少ない大学卒業者の中で、自らが韓学同のOBと自覚し、支援する人たちの数などしれたものだった。そのうえ、そのような意識を持つ人たちも学生団体に支援できる金銭的余裕を持っている人は限られている。さらに言えば、大学を卒業するとたちまちのうちに、自分が活動していた学生組織と距離を置くだけでなく、その活動を後悔した挙句に嫌悪するようになった人も少なからずいた。結局、カンパを気持ちよくしてくれるOBの数は、二けたに届かなかった。
 もう一つのスポンサー候補は、民団の中で学生にシンパシーを持ち、その活動に理解を示す企業人だが、その数も金額も大したことはなかった。しかも、訪問時には服装や礼儀に気をつけねばならないし、学生組織に対するアドバイスと言う名の説教なども慎んで拝聴しなくてはならない。すごく大きなビルを持ち、そこで諸種の事業を展開していそうなのに、少額の領収書を傘下の2つの会社名で書くように言われて、殺伐とした気持ちになったりもした。
 そのような限られた財政状況でもともかく活動できたことが、今から考えると不思議なくらいである。しかし、事務所を民団から無償で貸与されていたことはやはり大きかったし、1970年頃からは朝鮮奨学会関西支部の隣室に新設された図書室を、これまた無償で使用させてもらえたこと、さらには、学生個々人対する返還義務のない奨学金の支給がやはり大きな助けになった。
 僕は大学一年時に月額4千円で始まり、4年生時には6千円ほど支給されていたが、そのすべてを韓学同の活動費、但し、オルグや研究会後の二次会の飲み食いの費用として使っていた。韓学同の活動家の少なからずが受給していた。
 朝鮮奨学会の韓学同への支援・協力は、関西支部長の積極的な姿勢が決定的だったし、そうした人物の支援も受けて、奨学会の理事や職員に韓学同と韓青同の経験者が増えるにつれて、さらに手厚いものになった。
 韓学同中央の委員長や民団や韓青同で活躍した人物が奨学会の理事になったし、その人をロールモデルとする人が、奨学会の東京や関西支部で職員や役員となり、僕ら韓学同大阪の活動に対しても特別な配慮をしてもらえた。
 とりわけ僕は、韓学同を終えて後も、関西支部の図書室を自分の勉強部屋のように使わせてもらいながら昼食はもちろん、帰路での一杯などもご馳走になり、一度は職員の方の家に泊めてもらったりまでしながら、奨学会その他の民族組織関連の著名な人士などの裏話も数多く拝聴した。
 大学院生時代にも過分な奨学金に加えて、一度は研究奨励金などの名目で臨時の補助金までいただけて、学生結婚をしたばかりの苦学夫婦としてはすごく助かった。
 そんな関係の延長上で奨学会から派遣されて、高校奨学生への奨学金支給と課外活動の講師として韓国語講習や在日の渡航史の講演など業務の一部にも、臨時に関わり、報酬をいただいたし、結婚時には支部長に仲礼(人前結婚式における立会人)までしていただいた。
 ところが、僕は3年生4年生の頃の韓学同での活動については、あまり記憶がない。民団の役員の恫喝などへの対応その他、民団との関係がすごく難しくなってきたこともある。カンパ活動で、殺伐として気持ちになったと書いたが、実はそれはカンパだけのことではなく、韓学同内部の困難も絡んでいた。内部での意思統一どころか、意志疎通の困難に直面して苦しんだ際の心境が、まさに<殺伐>だった。
 今からでも執拗に努めれば、具体的な記憶を思い起こすこともできないわけではなさそうだが、そうしたい気になれない。いろいろな軋轢による別離を当時も、そしてすっかりそんなことを忘れたはずの後になって経験したせいである。
 上級生になるにつれ、家庭の事情、学業上の制限、就職など卒業後の進路その他、一緒に活動してきた仲間が次第に距離をとり、ついには関係が断絶したり、そこまでいかなくても殆ど顔を合わせる機会がなくなったりもした。そしてそれにつれて、残された者の負担は大きくなり、孤独感と下級生の、つまりは自分たちがオルグした学生に対する責任感の重圧も募り、ぎりぎりで堪えながら、大学の卒業などとは関係なく、韓学同からの引退の日を首を長くして待つようになり、日々のことなど意識の核になど届かなかったはずである。
 そこで、以下では、僕が上級生として活動しながら、韓学同について感じていたことを項目別に記してお茶を濁したい。項目別とは言っても、それらがすべてつながっているはずなのに、その繋がり具合をうまく書けそうにない。だからこそ、とりあえず項目別に試してみる。
 例えば、
①韓学同のメンバーシップの曖昧さ。
②様々な思惑を持った学生、或いはグループの草刈り場としての韓学同という僕の感触。
③大学内サークルと学外組織としての韓学同との関係の曖昧さ。大学別の学閥意識、或いは、大学ナショナリズムなどである

 先ずは①のメンバーシップの曖昧さなのだが、それが韓学同の長所でもあり短所でもあったので、それについて少し考えてみる。韓学同のメンバーシップとは何だったのか。
 民団の傘下団体だった時期には、正式の執行部の役員になると、その名と所属大学などの個人情報のリストが、民団、そしてその傘下団体に公文で周知されるので、そこに掲載される学生に関しては、民団が課す必須の資格条件があったはずである。例えば、韓国籍の大学生、そしてもちろん、民団に親が在籍している。僕自身はその種の規定を読んだことがあるわけでもなくて、あくまで推測に留まるが、その程度の規定、或いは、暗黙の了解が成立していたのではなかろうか。
 それと言うのも、僕の2年上で、親が総連組織の忠実なメンバーで、大学内の韓歴研と韓学同大阪でわりと熱心に活動しているように思えた学生は、執行部メンバーには名前がないのに気づいて、そんなことを推測を行ったことがあるからである。正式に公文に掲載される学生に関しては。韓学同でも相当に神経を遣い、必ずしもそのリストが実態を正確に反映していない場合も、なくはなかった。そしてそうした僕の推察が正しければ、少なくとも韓学同大阪地方本部の執行部のメンバーには、メンバーシップがあった。組織としても個人としても韓学同大阪の執行部の一員であり、当然、韓学同のメンバーであることが、公私両面で認知されていた。
 しかし、それ以外の一般の学生の場合には、そのようなものなど何一つなく、韓学同のメンバーか否かを決めるのは、もっぱら当人の意識だったということになる。韓学同の活動に参加した経験のある人に、あなたは韓学同の同盟員だったかどうかを聞くと、各人で相当に幅広い回答が返ってくるのではないだろうか。上でも記したように、地方本部の執行部経験者が、同盟員だったことはないなどと答える場合は殆どないだろうが、そうではない学生の場合、当人の認識とその周囲で一緒に活動していた学生の認識が異なることが往々にしてある。
 従って、韓学同のメンバーシップというものは、個々人の意識にしかなかった。自分は韓学同のメンバーであるという自覚だけがメンバーシップの必要条件だった。何かのイベントに参加したことがあっても、自分はただ誘われて参加しただけと考える者もいるだろう。それだけに、やがては誘いを受けても参加しなくなっても、手続きなど何もなかった。参加しなければそれで終わりだった。
 個人が定期的に会費を払うこともなかったし、経費が必要な催しも大抵、組織が費用を捻出し、そのごく一部を個人が支出するだけの場合が多かった。それは同盟員かどうかとはあまり関係なく、一回限りの参加費という名目だった。
 メンバーシップの曖昧性こそが、韓学同の弱みであり、また同時に、強みでもあった。明確な自覚などなくても、いわば<冷やかし>で参加して、その後は何も言わずに消えるのも普通のことだった。
 次いでは②の草刈り場としての韓学同である。
 メンバーシップの曖昧性の延長で、個人が、或いは、グループが、自分(たち)の仲間を勧誘するために、当人たちは<密かに>のつもりで韓学同組織の中で暗躍するのも実に簡単だった。そんな秘密めかした勧誘活動のせいで、声をかけられた方が怖くなって、韓学同の活動にも突如として参加しなくなり、その後は一切の関係を断つようなことも少なからずあった。
 その種の活動は、明らかな分派行動で、一種の組織分断、或いは、破壊工作なのだが、少なくとも僕らが現役時には、影に潜んで目立たないようにしているつもりのようだった。例えば、そのグループが学習会の後に酒でも飲みに出て、ある店に入ろうとして僕の姿を目に止めると、踵を返すようなこともあった。僕は「ああ、やっているなあ、秘密結社ごっこ」と苦笑いしていたのだが、それが後には大変なことになるとまでは、想像できなかった。だから、その活動に介入することは慎んでいたのだが、その結果として二つの事件が生じた。一つは韓国での大事件で、もう一つは、前者とは比べ物にならないほどに些細なことなのだが、僕らの韓学同組織のことである。
 但し、前者については、僕が確証を持っているわけではないので、それについて書くのは控えるが、後者に関しては、僕の心象に基づいて、僕が知る限りのことを書いておきたい。
 僕がまだ韓学同で現役の頃までは、韓学同の各地方本部の執行部のメンバーにはならないようにしていた彼らが、僕らが卒業後には、各地方本部の執行部のメンバーとして前面に姿を現すようになり、やがては主要な役を占有するようになった。韓学同を実質的に乗っ取ったわけである。少なくとも、僕はそんな印象を持つようになり、それからさらに時を重ねて、その乗っ取りの結果が明々白々に思えるようになってからは、僕は韓学同に対する支援を、精神的にも財政的にも、きっぱりとやめた。
 そんな印象とは、次のような事情があってのことだった。僕よりも既に10年以上も後の韓学同大阪の委員長がカンパの要請のために面会を求めてきた。そこで、例年のように多少のポケットマネーを渡すつもりもあって、いろいろと話を交わすうちに、何か変な感じがした。その学生は委員長でありながら、自分たちの活動の財政状況を全く知らなさそうに思えたのである。そこで僕は少し意地が悪いと思いながらも、組織としての財政についての質問をした。すると、「全く知りません。あるグループの方々が考えてやってくれています」と実にあっけらかんと答えたので、呆れかえってしまった。時代は変わった。彼らは彼らなりの活動をすればよくて、それは僕らのそれとは名前は同じでも、全く別の組織である。僕らはいかに拙劣でも、せめて学生団体としての自律性を最後の砦として活動しているつもりだった。それだけにそれとは全く違って、<ひも付き>の学生組織に対して、OBとして支援する必要どころか、資格もないと考えるようになった。
 僕はその学生にそのように述べて、その後は一切、彼らからの連絡には対応しないと伝えたので、それ以降には誰からも連絡が来なくなった。
 但し、以上のことは僕の韓学同経験が正しくて、それとは違う世代の人々のそれが邪道であるなどという話ではない。韓学同は時代や状況に合わせて変化する柔軟な組織体というのがその本質だと、その経験を通じて、僕はやっと考えられるようになったのだから、かえって感謝すべきと思っている。
 そんなわけで、本文で書いていることは、あくまで僕が在籍していたころに僕が経験した韓学同の物語に過ぎない。
(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の30に続く)

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の28

2025-01-31 11:33:50 | 在日韓国学生同盟

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の28
第四章 
第2節 オルグの具体的様相
 前回は、上級生になって最初の重要な活動としての新入生オルグでも、特に新入生との対面に至る詳細を紹介した。そのうえで、その活動を通して、在日の民族主義的学生運動家として誕生する、といった経験的信憑についても記した。
 それに対して今回は、僕が実際にどのような新入生を遭遇して、その結果がどうなったかについて、詳細に書いてみたい。
僕のオルグの対象は、最初はもっぱら僕らの大学の新入生だったが、その後は学外組織である韓学同の上級生として、他大学の新入生のオルグの応援もするようになった。特に3年生以降になると、むしろ自大学の新入生に関しては2年生に任せて、僕らはむしろ韓学同の執行部の一員として他大学の新入生のオルグばかりか、その延長上では他大学のサークルの学習会などにも関与することが多くなった。
 しかし、以下ではとりあえず、僕の大学の新入生に対するオルグに焦点を絞り、その詳細な記述を試みたい。
詳細とは、個々の学生の私的事情にも立ち入り、それによって大きく左右される彼らの僕らとの関係の選択、そしてその後の学生時代の交友、さらには、卒業後の関係についても敢えて触れてみるという意味である。
 新入生それぞれがどういう家庭環境で育ち、どのような民族や教育に関するバックグランドを持っていたか。その延長上でどのような将来的展望を持って大学に入学したか。大学時代の僕らとの関係がどうであったか。その後にどのような人生を辿るようになったかなど、今の僕だからこそ少しは分かる長いスパンの閲歴も含めた記述になるだろう。
 その結果として、個々の学生の家庭その他の事情に応じて、学内サークルに限って参加する学生と、学外組織にも積極的に関わる学生といった二種の学生群の両方を受け入れる僕らの活動の幅広さ、もしくは柔軟性も少しは理解していただけるだろう。
しかし、そうした新入生の個別性に立ち入るに先立って、僕が行ったオルグ総体においてアクセスした新入生たちの類型を概括的に紹介する。

在日学生の多様性
 先ず最も印象的だったのは、新入生の多くが、自分とは異質の在日であることだった。何よりも、僕とはずいぶんと異なる目的や希望を持って大学に入って来たように思えることだった。つまり、同世代の在日の学生の多様性に少なからず驚いた。
 それは、僕が新入生としてオルグされた際の印象とはまるで反対だった。僕をオルグした上級生たちもそれぞれ個性を持っていたが、基本的に僕が相手に対して抱くイメージが、在日の活動家として僕をオルグする集団の一人という側面が強かった。相手を「民族的学生」という枠組みの集団の一部、或いはむしろその代表としての上級生に対している感じが強かった。少し言い方を換えると、その個人が代表する在日の学生集団に新入生としての自分が個人として対応しているという感じだった。
 ところが、自分が上級生としてオルグした下級生たちの場合は、こちらが相手の個性に配慮する必要もあったからだろう。上級生である僕ら(たいていは、一人ではなく複数で一人の新入生をオルグする)が出会うのは、個人としての新入生であり、その新入生の個々と対面し、その個別性に留意しながら、民族集団の代表としての自分が<工作>に励むという感じだった。
 相手を在日の新入生という枠組みで捉えながらも、個別性に着目しない限り相手との関係を深めることは難しい。だからこそ、その個別性がクルーズアップされて、在日の多様性に今さらながらに驚くということだった。
 大まかに類型化すると次のようになる。
 まずはオルグに至らない新入生がいた。大学、次いでは出身高校に問い合わせて、ようやく連絡場所などの個人情報を確保して、直接に電話するところまではこぎつけても、「何かお間違いになったのでは、当方はれっきとした日本人で、非常に迷惑な電話はこれを最後に」と<けんもほろろ>の場合もあった。高校に「在日の生徒」であることを確認したうえで電話しているので、「まさか?!」と半信半疑なのだが、拒絶されていることは確かだから、深追いするわけにはいかない。
 同じように面談を拒絶されるケースでも、「なるほど韓国籍ですが、その種の民族云々には全く興味がありませんので、今後の連絡はお断りします」ときっぱりと断られる場合には少しは残念な気もしたが、これまた致し方ないこととあきらめざるを得なかった。
或いはまた、その家族の民族的所属を盾にしての拒絶もあった。
 電話或いは直接に会って、「わが家は総連組織に所属しているので、韓国関連のサークルや組織とは関係を作るつもりはないので、残念ですが」と説明付きの拒絶に対しても、引き下がらざるをえないが、その後に大学などで顔をあわせたりすると、会釈がてら挨拶言葉くらいは交わせるので、連絡や接触の努力の甲斐を少しは感じて、幸いだった。
 以上とは正反対が、思想的に既に固まっていて、こちらが逆にオルグされそうな危機感を抱くような新入生もいた。親や兄弟など家族一同が熱烈な総連の活動家なので、それに反発して、命をかけて勝共連合の活動に関わっていると言う。その確信的、或いは、狂信的な言葉と表情、とりわけ、眼の光と雄弁に、僕などはすっかり怖気づいて、二度と会いたくなくなった。なんとも気弱なオルグ!
 経済学部だったその学生とはその後、二度と大学で見かけたこともない。はたして大学を卒業したのだろうか。僕などは知らないところで、大活躍したのではないかと思うが、その狂信的な目つきでは、人が近寄りがたい、最近の神戸や韓国のネット絡みの人々の狂奔ぶりを見ていると、彼のことがついつい頭に浮かんでくる。
 その他、既に述べたような、僕らとの面談を拒絶した人々とつながりそうな、いわゆるノンポリの学生もいた。勉強のために大学に入ったのであって、そのような民族的な、或いは、政治的な活動に関わるつもりなど全くない。専門の研究に励み、その道で生計をたてるつもりである、と既に将来の生き方まで明確に決めている口ぶりの学生もいた。
 医歯薬系。そして理系一般にそのタイプの学生は多そうだと、ある程度は予想していて、僕とは違ってなんとも立派と思いながらも、そのような将来像を自信ありげに語れるのは何故か、僕には不可解だった。
 在日であっても専門の勉強を積めば、それなりに就職の門戸が開けていると確信していそうなのだが、医歯薬系の場合はさておいて、日本の企業社会がそんなに甘いものなどとは、僕にはとうてい思えなかった。うまい具合に入社しても、昇進などでハードルが高いはずなのに、とその人たちの先行きが心配になる一方で、そのような明るい、或いは。毅然とした将来像を描ける根拠が何なのかを教えてもらいたかった。
 理学系の学生の場合は、研究者として将来の路を切り開いていくつもりのようだったが、それまた広い門であるはずがないので、そんな茨の道を入学時点で選んでいる新入生は立派なのか、世間知らずなのか、僕には分からなかった。
 他方、文系の場合、理系よりもはるかに就職のハードルが高そうなのに、研究者の道を進むと決めている新入生もいて、頭を下げるしかなかった。
 当時は、まだ法曹資格の門戸は開かれていなかったし、中学や高校の教職の門戸もいたって狭い状況の中で、敢えて挑戦する意気は僕にはないものだったから、余計にそうだった。
 しかし、その意気軒昂ぶりは良いのだが、その後の生涯を見ると、2年下の経済学部の学生は卒業後に大学院に通っていたのに、やがてはそれを放棄して、医学部を再受験して開業医になった。3年下のこれまた経済学部の学生は、卒業後には法学部に学士入学して、司法試験に合格して弁護士をしている。やはり、理系の学生と同じように資格がものをいう世界に転向したわけである。但し、理系とは異なって、自営できるかどうかが決め手らしかった。
 ともかく、大学の4年間は厳しい社会に出るまでの猶予期間と考えて、もっぱら民族的コンプレックスから解放される糸口を見つけたいなどと思って大学に入った僕のように、なんとも悠長な在日とは全く異なる在日の多様な学生と出会えた経験は、今から考えると誠にありがたいものだった。

オルグ経験とその結果
 次いでは、僕が上級生として同じ大学の新入生に行ったオルグについて具体的に記す。
僕らの大学の僕より一年下の在日の学生は10名くらいだったが、そのうちの3名が僕らの誘いに応じ、研究会などへの参加はともかく、在学中、さらには、卒業後も僕(ら)と何らかの関係を保つようになる。
 そしてそれは、例年とあまり変わりなかった。僕らの民族サークル(韓歴研に限る)における僕の学年の前後は以下の通りだった。僕より2年上で僕らが知っていた上級生は3名(医、工、文)、1年上が4名(医、基礎工、工、経)、僕らの学年は3名(工2名、文1名)で、2年下が3名(工、経、歯)だったから、1年下の3名(理、工、経)というのは、まさに平均値で、しかも、毎年、文系が1名はいたことも、平均値だった。因みに、先ほど、「僕らが知っていた」というのは、字義通りの意味で、顔と名前を知っていただけで言葉も交わしたことがない場合も含んでいる。2年も上級生だと僕らが入学した時点で既に学部生だったので、教養部生が中心の研究会などには殆ど参加せず、顔を見せるのはもっぱら新入生歓迎会その他のイベントだけといった具合で、殆ど言葉も交わしたことがない人もいた。それは僕らよりも2年以上も下の下級生の場合も、逆の関係だが、よく似ていた。
 繰り返しになるが、一般に学部生、それも理系の学部生が学内サークルに関わることは殆どなかった。ましてや、学外組織に関わる理系の学部の上級生はもっと少なかった。
 話を僕の一年下の新入生に戻すと、僕らと交友を結ぶことになった3人のうちでも一人を除いては在日二世としても、少し特殊な事情を抱えていたこともあって、学外組織の韓学同には殆ど参加しなかった。或いは、しようとしても、そうはできなかった。だから、その3名のうちで学内サークルはもちろん、学外の韓学同にも恒常的に参加し、後には執行部の一員として中核的な活動をするようになったのは1人だけだった。
 このように学内サークルだけに参加して、友好的な関係を長らく維持する学生が、少数ながらも、殆どいつもおり、その主たる理由は家庭の事情と大学の専攻が強いる制限だった。
 家庭の事情とは、親が強烈な反共主義者、そして民団べったりだとか、或いは、その反対に、極端な政治嫌いとか、あるいはまた、在留資格の制限などであり、子どもが学内の文化サークルの一つとしての民族サークルならまだしも、学外組織で何かと政治が絡み、在日の二大組織である民団から色眼鏡で見られて、領事館筋からも警戒される韓学同に対しては、拒否反応が甚だ強くて、子供に対しても関係を持つことを厳しく禁じて、参加できない場合である。
 専攻が理由というのは、主に理科系の学生の場合である。授業に加えて実験などで拘束が強くて、学内の学習会(民族サークルの他に個々の専門的学問に関する同胞学生だけの学習会)や懇親会くらいならば、いろいろとやりくりして参加できても、学外組織の、とりわけ夜の活動ともなると物理的に無理な学生が多かった
 僕の一年下の二人は、以上の二つの制約があるだけでなく、その他にも、在日の学生としては少し特異な境遇だった。
二人とも物心ついたころから、自然科学系の研究者になることが父親の至上命令で、当人もその親の期待に背けないし、自分の能力を活かせる道であると納得して、専攻も自ら選んで大学に入学した。
 したがって、その将来設計に妨げになりかねない活動は慎んでいた。そこで、僕ら学内サークルのメンバーとの親交は維持したが、学外の韓学同の民族的活動、とりわけ政治絡みの活動とは厳然と一線を画していた。そのおかげもあってか、後には二人ともに志望通りに自然科学系の研究者として、大学で教鞭をとるようになり、定年まで勤め上げた。
 そうした専門性だけでなく、一般の在日二世以降とは違って、いわゆる民族的素養もある程度は備えていた。例えば、小学校時代には韓国系の同じ民族学校に通っていたこともあって、知り合いだったし、民族語や朝鮮半島の歴史などに関しても、在日としては十分以上の素養を身に着けていた。
 従って、いくら上級生と言っても、僕なんかが付け焼刃の民族云々などを偉そうに教えることができる立場ではなかった。
以上でも想像がつくだろうが、二人とも一般の在日の家庭よりも経済的にもはるかに上層の階層に属していた。
 つまり、僕などが在日二世として同質感を覚える対象ではなかった。しかし、だからこそ、適度な距離感を忘れることなく、互いが相手の立場を尊重しながら、大学時代はもちろん、卒業後もずいぶんと長く親交を継続してきた。
 しかし、その一方で、彼らのことを僕も含まれる在日二世として一括するのは相応しくないと思っていた。
しかし、それから随分と歳月が流れた今となっては、そうした僕の在日のカテゴリーの方が窮屈すぎたのではと反省している、彼らも僕らと同じ在日二世のカテゴリーに含めることによってこそ、本当の意味での在日の多様性が理解できるようになるかもしれない。そうした在日の多様性を見過ごしてきたことが、僕の在日観の偏狭性の少なくとも一部の原因だったと考え直している。
 ところで、実はそのうちの1人は、そもそも日本生まれではなかったから、在日二世ではなく、むしろ在日一世と呼ぶべき学生だった。
 父親が韓国の著名な学者で、政治的迫害から逃れるために、招聘外国人教授として日本の国立大学の教員として長らく務め、その弟子たちが日本や韓国で一流の学者として活躍しており、特にその人の没後には、韓国で数十巻に及ぶ全集の刊行のために、その末子が、韓国との往来を繰り返すなどしていると言う話も伝わってきた。
 ついでに言えば、その家族、つまり、彼の兄弟姉妹のことも僕らの在日の世界とは別世界である。
 その大学者の子どもたちは、韓国、アメリカ、そして日本では大阪、神戸、東京などの、在日のその地域において著名な財産家の家に嫁ぐか、或いは、そんな家から妻を娶っている。僕の一年下の末子のすぐ上の兄も、彼と似て中学時代に渡日して、後にが僕らの大学の工学部の大学院を卒業後には、大阪の在日の企業家の長女と結婚して、その家の跡継ぎに収まっていて、僕も韓学同のカンパの為に会ってお願いしたことがある。
 まるでユダヤ人のように、どこかで政治的迫害その他、何があっても、一族の根を絶やさないように、長くて広いスパンで考えた上での、現実的な対応の準備をしてきた一家なのである。 
 その末子として韓国で生まれ育ち、小学校の高学年になって日本に来たこともあって、根本的に僕が知る在日の学生とは違っていた。僕が見る限り、僕からすれば、ナントも古風な大人の感覚、大人としての処世術を身に着けていて、彼を前にすると、自分がどれほど非現実な夢想の中で生きているのかを痛感した。
 妻は大阪の在日の資産家で、知識人としても知られる方の娘さんを娶り、その後も見事なまでに現実主義的に生きて、夢をほぼ叶えたらしい。
 しかしながら、僕はそんな人生を羨ましく思ったことはなく、何から何まで僕とは違っていること、そのことを自然と感じさせられたことには、今でも驚くほどである。その家の子どもたちは末子が僕とほぼ同年齢だが、全体としては僕の兄弟たちより10年くらい上の世代になるが、その兄弟姉妹がすべて親がかりの結婚をしているのに対し、わが家はすべて親とは無関係で、しかも、韓学同や韓青同絡みの結婚をしている。その名家と済州の貧乏一族出身で出稼ぎで渡日した者が作り上げ、名分や門閥など糞くらえ式の僕らの家族と比較するのは申し訳ないのだが、僕の在日カテゴリーの特異性、そして名家とが相いれない理由が、少しは理解していただけるかと考えて、対照してみた。
 さて、その名家の末子と仲良く、同じような人生を送ることになったもう一人の方は、本来の故郷、つまり本籍地は済州だったが、父親はその済州のエリート官僚だった頃に<4・3事件>の前兆をかぎつけて、いち早く、知人などが多くいる地方都市に身を避け、その後にはさらに渡日して後には、在日知識人ネットワークと先を見る元行政マンとしての嗅覚と鋭敏な商才を活かして、不動産業と貸金業で財を成した。その間、一貫して政治から距離を置き、息子の運転で碁会所に通うのが趣味だった
 その一方で、早熟の才能を見抜いた息子にも、それが花開くようにというわけか、一種の英才教育の変種として、通常より一年早く小学校に通わせた。どのようにしてそれが可能だったのか、不思議だし、本人に尋ねても要領を得なかったが、最初に入ったのが民族学校の小学校だったから可能だったのかもしれない。そしてその後の転校、進学の際にも一年早い就学の履歴を盾に、常に一年早く大学、大学院まで進学、学位を取得すると、韓国の父親ゆかりの都市選出の国会議員の娘で、ソウルで生まれ育ち韓国最高の女子大と評判の大学を卒業した<才媛>と息子との縁を結び、その数年後にはその息子を韓国の大学の教員に就かせた。
 因みに、彼が就職した国立大学の位置する地方都市がその妻の本籍地でもあるからと、そこで暮らしてみたが、ソウルで生まれ育った妻が、そんな地方都市では暮らせないと言うので、仕方なく、ソウル江南にビラを購入して、週に数日は飛行機でその都市に移動ぢて仮住まいして、週末にはソウルに飛行機で戻るという暮らしで、後に僕は晴れて旅券を獲得してからは、その地方都市でもソウルでも彼との旧交を温めることが多かった。
 ともかく、そのように期待の息子は父親の用意周到な将来計画によって、世間の雨風から守られて生きることができた。
 ところが、他方、僕らの大学の経済学部に2年後に入学したその弟は、父親似の商才と野心を持っていたので、卒業後にはいち早くその事業を承継して青年実業家として華々しく事業を拡大していたが、やがて、あのバブル期の襲来で、すべての財産、親や兄弟名義の不動産などもすべて失くしてしまった。
 その結果、韓国の大学教員は、日本にあった財産をすべて失って、韓国の財産と教員としての給料、そして退職後は年金で暮らしとなった。しかも、一時は弟の債権者から追及を受ける懸念もあって、日本には近づかいないようにしていた。
 以上のような僕の一年下の2人とは対照的だったのが、もうひとりの下級生で、彼こそは僕が在日二世という言葉でイメージする典型的な人物である。神戸の在日集住地区で生まれ育ち、日本の学校教育を受けて大学に入り、僕らのオルグの成果の典型的な例となって、4年生になると、いかにも自然な形で韓学同大阪の主(あるじ)となった。しかも、卒業後も後輩たちの活動に、傍から見て驚くほどに、無償の援助の手を差し伸べていた。
 しかし、僕とは学生時代の一時期には相当に近づいて、僕の親戚のおばあさんのアパートを紹介するなどもしていたが、性格その他においての微妙な差異が違和感をどんどん大きくすることになって、ついには関係が切れた。
 同じように典型的な在日二世同士といった親近感、それもあって近づきすぎた結果としての絶縁という、僕が生涯にわたってさんざん繰り返してきた構図である。
 僕自身は彼のことを嫌っていたわけではなかったし、今でも嫌ってなどいない。性格や考え方はすごく違っていることは確かである。経済学徒の彼はリアリストとしてのプライドをかけて議論を仕掛けてくるので、僕はフランス文学かぶれに相応しく、ついつい軽口でシニカルに対応してしまう。
 僕の理屈で言えば、身近に感じるからこそだが、そんなシニックな軽い言葉が、彼の自尊心をいたく傷つける。そんなことが繰り返されたあげくに、彼の辛抱が切れて、僕を嫌悪するようになったらしい。そのように考えて、申し訳ない気持ちになるのだが、関係というものは相互的なものだから、僕にだけ非を認めるわけにもいかないし、そんなことしたらかえって彼を馬鹿にしていることになりかねないと、屁理屈を盾にする。
 因みに、そんな2人の関係には、上で述べた別の二人の異質な学生に対する僕の遠慮や気遣いとも無関係ではないような気もする。その2人と比べると、彼に対する僕の言動が、まるで彼を軽視しているかのように、彼には映ったのかもしれない。
 それにまた、彼は一年の浪人を経ての大学入学だったから、実年齢は僕と同じなのに、先輩風を吹かせる僕に対する不満も関係していたのかもしれない。
 それというのも僕と最も親しかった同期生が、彼と同じ高校の出身で、彼からすれば一年の後輩だからと呼び捨てにしていたのに対し、僕には「さん」付けで呼ばねばならないことに対する不満もあったのかもしれない。彼は律儀に長幼の秩序にこだわるところがあったから、それが僕との関係のネックになったのかもしれない。その他、もう一人、彼が敬愛していた僕と同学年の仲間と僕とが絶縁したことも、確実に関係していたのだろう。なんとも馬鹿げたことだが、僕などはそんな馬鹿げたところで生きてきた。
(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の29に続く)


ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の27

2025-01-20 15:31:56 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の27
目次 見出し
第4章
第1節 上級生としての活動
新入生の<オルグ>もしくは<勧誘>
オルグの第一ステージ―在日の新入生情報の入手―
オルグの第二ステージ―当事者へのアクセス
オルグの第三ステージ―在日の民族主義的学生活動家の誕生

本文
第四章 
第1節 上級生としての活動
新入生の<オルグ>もしくは<勧誘>
 1年生の終わりから2年生の初めにかけての僕の大学生活に関する記述の途中から、すっかり野放図な道草を繰り返してきた。しかし、今後は本筋に戻って、2年生、つまり晴れて上級生となった頃の僕の学内の民族サークルと学外の民族組織だった韓学同の活動について記す。
 2年生になって焦眉の活動は、新入生の勧誘だった。僕らはその活動のことを<勧誘>とも<オルグ>とも呼んだ。
 本シリーズの初めの頃にも、僕自身が1年生時に受けたその種の活動のことを、その二つ<勧誘>、そして<オルグ>と表記していた。
 そのことも思い出して、今になって少し気になりだした。そこで今さら何をと思いながらも、念のためにWikipediaを確認してみたところ、以下のように記されていた。

「オルグとは、主に左派系団体・政党が組織拡大のために、組織拡充などのために上部機関から現地派遣されて労働者・学生など大衆に対する宣伝・勧誘活動で構成員にしようとする行為、またはその勧誘者を指す。この言葉そのものはいわゆる既成左翼・新左翼の内部の肯定的利用、または外部による批判利用、カルト的宗教団体勧誘批判の意味で主に使われている。」(2024年12月9日15時に確認)

 以上の記述は実は僕にとって目新しいものではない。と言うよりも、僕らの世代であれば、むしろ常識的な語感だし、僕もさすがに同時代人として、<オルグ>を左翼用語と捉えていた。若かりし頃にプロレタリア文学も随分と沢山、読んでいたから当然のことである。  
 ところが、大学時代に僕が関係していた組織は、その左翼とは一般にじゃ考えられていなかったから、少し話がややこしい。僕らの学生組織は、自他ともに右翼団体と認められていた「在日大韓民国居留民団」の傘下団体であり、親団体から月々の定額の補助金の他にも、年間の恒例行事の度にいろんな名目で臨時の補助金なども運営経費としていたし、事務所も無償で貸与されるなどの便宜も与えられていた。
 それだけに、僕らの学生組織とそれと密接な関係のある大学内民族サークル、そしてその一員だった僕自身などは、その親団体による監視、警告、統制を受け、その組織の思想、原理、規則に背反することは許されなかった。
 したがって、用語その他のいろんな面で、組織内向けと組織外向けの両刀使いをするのが必須であり、現にそのようにしていた。
 例えば、僕ら在日組織の学生の大半は、当時の日本の、とりわけ学生の社会・政治運動において圧倒的に主流だった左翼的思潮の影響を受けるばかりか、そのように自認もしていた。だからこそ、<オルグ>という用語を普通に採用していたのだが、組織の公的立場ではそれを隠さねばならなかった。
 親団体である民団の関係者が相手、もしくはそれと関連した時と場所では、<オルグ>は避けて、もっぱら勧誘と呼んでいた。他方、左右を問わず学生が相手の場合は、少しは相手の思想的傾向も勘案しながら両者を使い分けたが、さすがに学生活動家としての<体裁>を重んじて、<オルグ>の頻度が高かった。
 そんな内情を少しは知っていた民団の人々、特に、学生青年団体を警戒し監視する役職者は、韓学同や韓青同をスイカに例えていた。殻は青くても割ってみれば、中は<真っ赤>と言うのである。つまり、実態は左翼と見なし、敵としながらも、まだ学生ということで少しは大目に見てやるが、それにも限度があるから、くれぐれも自重しないとひどい目にあわせるぞと警告、もしくは脅迫するのだった。
 そして、そうした見方は大きくは外れていなかったのだが、<真っ赤>というのは大げさすぎて、せいぜいピンク程度、それも各人によって色合いがいろいろで、全体として白から赤みがかったピンクまでのグラデーションを描いていた。もしも本当に真っ赤な学生ならば、僕らの学生サークルや韓学同なんかに長くとどまってなどおれなかった。
 僕らの仲間の殆どは右翼とは自認していなかったが、親が属する民族組織とその思想的傾向との兼ね合いで、反共民族主義を自認する学生も多くはなくても、現にいた。しかし、民族主義よりも反共を優先するような、例えば、勝共連合的な学生はいなかった。そんな学生も僕らの仲間としては甚だしく居心地が悪くて、すぐに離れて行った。
 それはともかく、勧誘という用語は、まるで無色透明な学生の文化サークルみたいで、何かだ気恥ずかしさが拭えないので、以下では、オルグを使用するが、それは競合する学生団体のことを気にした、左翼的<衒い>に過ぎない。そのあたりを予めご理解のほどをお願いしておきたい。

オルグの第一ステージ―新入生情報の入手―
 僕らが関わっていた学生組織の実態が赤か白か、或いはその狭間のピンクかの話はさておいて、新入生をオルグするには、新入生の姓名と連絡先などの基本情報を入手しないと始まらない。何故か?
 僕らのオルグ対象者は、新入生総体といった不特定多数ではなく、実績から見れば入学者の1%に満たない在日学生に限られ、しかも、そのほとんどは新入生の群れの中に身を隠していたからである。身を隠すというのは、民族名ではなく、植民地時代の創氏改名という民族抹殺政策の延長上にあった日本風の通名を名乗る形で、意識的か無意識的かを問わず、民族名、そして民族的帰属を公にせずに、生まれて以来、隠しながら暮らしてきた青年層だったからである。
 公開で呼びかけても、呼応してくれることなどあまり望めない。したがって、何らかの形で、その人たちの情報を予め入手して、いわばピンポイント、或いは、<一本釣り>で働きかけねばならなかった。
 とりわけ、僕らが大学生だった時期には、大学紛争の後遺症で学内のサークル活動が和気あいあいと新入生をサークルに勧誘する場は、すっかり消えていたという事情もあったし、民族サークルが学内でその存在を誇示もしくは露出する場、さらに言えば、学内の拠点となるサークル室なども持たないなど、学内に常設の根拠を持たない状態だったからでもある。
 学内のどこかに新入生に対する募集を貼っておけば、それに応じて訪ねてくる学生が対象ではなく、こちらが捕まえて離さず、話を聞いてもらって、個人的な関係を結べるように努力してようやく、相手もこちらに胸襟を開いてくれるかもしれない。正体を隠すことが殆ど本質のようになった<うぶでいて老獪>な在日学生を捕まえねばならなかった。
 例年の実績では、約2000名強の新入生のうちの約0,5%から1%くらいの在日学生、つまり10名から20名ほどの姓名と連絡先を入手するのがオルグ活動の第一歩だった。例年だとそのうちの3割から4割が、民族サークルと関係を持つようになっていたから、せいぜい、二つの民族サークルを合わせても、4人から6人くらいで、それを二つのサークルで等分に割って、2人から3人を確保できれば上出来だった。
 そうした必須の情報の入手方法にはいろいろとあったが、最も手っ取り早いのが、大学の事務局の学生部に、情報の提供を依頼(要請)することだった。個人情報の秘匿に関する規則や常識がすっかり厳しくなった現在では考えられないことだが、当時は大学の事務局がそんな情報を僕らに提供してくれることもあった。常にではなく、年度によって、さらには、担当者によって対応が変わることもあったが、不思議なほどに懇切丁寧な対応をしてくれる時もあった。
 但し、それは必ずしも喜ばしいことではない。大学側が特別に在日学生の管理のために、或いは他の外部機関(例えば、警察の外事課など)から在日学生の管理の資料を要求(依頼)されて、資料を作成していると考えられるからである。つまり、在日学生は他の学生一般とは異なって、一括して管理対象となっている証拠と見なすことができるからである
 しかし、学校側の意図がどうであれ、僕らが必要としている情報がそのように一気に得られるとすれば、それに飛びつかないわけにはいかない。そもそも、在日管理のために在日学生のリストが作られているからと言って、そのことを問題視して追及する力量なんか僕らにはなく、むしろそのリストがあることを勿怪の幸いと考えるしかなかった。
 そこで、僕らの目的、つまり、在日サークルの新入生を募って、民族差別などについての認識を深め、それに負けないで有意義な学生生活を送れるようなサポートをするのだと、事情を説明したうえで、朝鮮籍と韓国籍の新入生のリストの提供を依頼した。その具体的な内容は姓名、所属学部、出身高校、住所、電話番号などだった。
 しかし、先にも述べたことだが、大学側からそうした便宜供与が常になされていたわけではない。容易に入手できる年もあったが、文書で正式依頼を行ったうえで、指定日に出直すように指示される場合もあったし、<けんもほろろ>の対応をされる場合もあった。
 当時はなにしろ、大学紛争で学内の行政機構なども混乱して不安定で、大きな変動過程にあり、それ以前、或いは、その後のようには、一律の基準などなかったからという事情のおかげに過ぎず、そのような方法がその後も続いたとは思えないが、そんな時代もあったくらいに理解していただければ幸いである。
 その他では、時代とは関係なく最も確実な方法は次のようなものだった。
 特定の新聞や週刊誌に掲載されるのが恒例となっていた大学別の、出身高校名も記載された入試合格者リストの中から、それらしい学生をピックアップする。
 それらしいと判断するにあたっての根拠は、姓と名の両方である。姓については、漢字一字の民族名(と思しき姓)で掲載されていれば割と特定が容易なのだが、当時の在日の学生で民族名の漢字表記で合格者名簿に記載されているケースは非常に少なかった。大抵はいかにも在日らしい日本名(通名)による表記だが、それは創氏改名の際に、先祖代々の痕跡を残すべく、先祖ゆかりの本貫を反映させた日本風の氏であることを想起すれば、ある程度は民族姓が推察できるものだった。例えば、木下や新井なら朴姓ではないか。金田、金村、金山は金姓ではないかといった具合である。僕の姓は、朝鮮ではそれほど一般的ではないけど希少というほどでもなく、特に済州や、北半部では割と一般的で、<延州(本貫)玄氏>の我が一族の場合、創氏が延州をなんとか残そうと工夫した結果としての延山や延原だったが、植民地から解放されてからも、在日の場合はたいていがそのまま通名として使うようになった。
 他方、姓は日本式の通名表記であっても、ファーストネームは民族名の漢字表記が当時は多かったので、その人物も在日候補としてピックアップする。僕の<善允>などは、朝鮮風の名前とは断言しにくいが、一見して朝鮮風と思われる名を用いていた学生が当時はまだ割といた。但し、その名もまた、民族名と日本風の通名の二種類を使っている場合もあって、そんな場合は特定するのは至難の業だったが、さすがに在日的知識や勘が大いに役立った。。
 以上のようにして、姓と名の両方ともにそれらしいもの、次いでは、片方だけがそれらしいものを選び出して、オルグの優先順位を決める。
 その他には、地縁血縁も最大限に活用する。学内の民族サークルや学外の民族組織の在学生や卒業生などに、家族、親戚、友人知己や地域の在日コミュニティで、該当しそうな新入生がいる場合には、その姓名と住所と電話番号などの情報の入手を依頼する。
 実は以上の2番目の方法、つまり、大学合格者名簿に基づき、在日的知識と勘を働かせる方法は、僕自身が正反対の立場ではあるが、その2年ほど前に経験していたものだった。
 高校三年の夏に、韓国の新聞社主催の高校生親善野球大会のために、在日の野球協会の人たちが在日の高校選手だけでチームを構成して韓国に送るために依拠したのが、まさにその方法だった。
 朝日新聞社主催の夏の甲子園野球大会の各地方予選大会の開始にあたって、紙上で公開される参加チームの登録メンバーのリストから、殆どが通名で掲載された在日の生徒をごく短期間に見つけ出し、高校に電話で問い合わせた上で、連絡先を教えてもらって当人やその家族と交渉し、少なくとも20人前後を集めて韓国に派遣する。僕らの時が、その13回目だったらしく、初回のメンバーには張本勲がいたし、僕らと同行予定者には、後に巨人で活躍した新浦投手も含まれていた。しかし、その新浦投手は甲子園で決勝戦まで進んだせいで、ついに参加できなかった。その他に、甲子園本戦に出場したものの1回戦で敗退した長野県の高校チームの選手の場合は、少し遅れたが韓国で僕らに合流して、その後は試合に出場するようになった。張本選手はソウルの東大門運動場での僕らの試合の前に、元ミスコリアの夫人と二人で現れるなどで満員のスタジアムからの拍手喝采を浴びたが、彼が結婚したなどと言う話は、日本では聞いたことがなかったから、報道に関しても、玄界灘を境にした大きく執拗な障壁は、昔も今も変わらないということなのだろう。
 僕は当時としては珍しく、漢字一字の民族姓の表記だったので、何の苦もなく見つけ出したらしいが、韓国に同行した20名ばかりのチームメイトの殆どは日本式の通名表記だった。そんな在日の選手を予選が終わってからの短期間に集めてチームを構成するという面倒な作業を、10年以上も続けてきた在日の野球協会の方から、その苦労話を詳しく聞いていた僕なので、その2年後に、今度は僕が大学合格者リストから在日の新入生を見つけ出して交渉に漕ぎつけるために、同じような苦労をしていることに、不思議な因縁を感じたことを覚えている。

オルグの第二ステージ―当事者へのアクセス
 そのようにして、在日と想定される合格者については、出身校に電話で問い合わせる。事情を説明して、その卒業生が在日かどうか、もし在日ならば電話番号と住所を教えてもらえるように依頼する。すると、上司などと相談するので、数日後に改めて電話するようにとの返事が一般的だったが、その指示に従って改めて電話すると、親切に教えてもらえる場合が多かった。これまた今では考えられないことだろうが、当時は個人情報といった言葉すら殆ど聞いた覚えがないほどで、そんな<親切>による個人情報の漏洩(提供)が当たり前のこととしてなされていた。
 出身高校から聞き出した情報を受けて、ほぼ確実に在日とされた合格者の家に電話する。ところが、「間違いです。私はれっきとした日本人で、なんとも迷惑な話です。今後、この種の電話は一切お断りです!」と、本当か嘘か分からないが、相手にされない場合もあった。或いは、「なるほど韓国(朝鮮)籍ですが、自分(あるいは、うちの子ど)はそんなことにはまったく関心がないし、迷惑なので、二度と連絡しないでください」と家族や本人から冷たく言われることもあった。
 しかし、その割合は予想していたほどには高くなかった。子供が合格した大学の在籍者や関係者からの電話連絡ともなると、特に当時の在日の人たちは、相当に信頼していたのだろう。

オルグの第三ステージー在日の民族主義的学生活動家の誕生
 新入生に関する情報収集に続いて、実際に新入生にアクセスして、オルグ活動を重ねる。それにつれて、上級生になったばかりの学生でも、いっぱしの民族主義的学生の、少なくとも<衒い>は身に着ける。何かと分からないことだらけだし、自信などなくても、少しは知識や自信がある<振り>をしないわけにいかない。そして、それを繰り返すうちに、やがてはそれが板についてくる。ついには、そうなったと思いこむこともある。
 まだピカピカの二年生でも、一年前に自分が新入生だった時には、左右、南北、その中間、或いはその他の組織やサークルからの、度重なるオルグの大波に翻弄された。その記憶はまだ新しい。ほぼ同年齢の上級生(あるいは、浪人経験のある場合には、自分と同年齢、もしくは年下の上級生)から、30歳を越えるOBや専従活動家まで、実に多様な人々による実に多様な理屈や話し方に圧倒され、たじろぎ、悩み、改めて話を聞き、反論、抵抗なども試みるなど、あくまでオルグを受ける立場ではあるが、それなりの経験を積んでいる。
 それを今度は、以前とは逆に、上級生として新入生に対して行うという点が異なるだけである。そして、その際に活用できる手持ち材料の中心は、自らも在日二世の学生であることに加えて、入学後に様々な上級生から倣い覚えた理屈であり話術である。各人がそれを自分なりに加工しながら、自分なりのオルグのスタイル、つまりは、活動家としてのスタイルを創り上げていく。
 例えば、真っ正直に知識の優位を盾にした説法に励む者もいる。民族主義の論理もあれば革命の論理もあるだろうが、それがきちんと分かっているつもりの新二年生など多いはずはない。分かったつもりでも、あくまで<~もどき>程度にすぎず、そのことは重々承知している。しかしそれしかないのだから、それを盾にして新入生にぶつかるしかない。
 但し、上から目線の説法は、自分の経験に照らしてみれば、反発される危惧が十分にある。習い覚えたばかりの<正しそうな>理屈は、押し付けとか無理強いと見なされたあげくには、激しい抵抗、あげくは関係の断絶を招来するなど、往々にして逆効果になる。
 従って、柔軟性を前面に押し立てる。何よりも関係を培うことが肝要で、そのためには阿ねることすら辞さず、新入生にイニシアチブを委ねる格好もとる。相手に話すように促し、耳を傾ける。しかし、自分としてはそのつもりでも、せっかく習い覚えた知識もあるのだからと、それを吹聴したくてたまらないが、人の話に耳を傾ける訓練くらいにははなる。
 話の糸口としては、大学生活一般に関するアドバイスなど、大学生活の経験者としてのサービス供給が有効である。新入生の不安その他を聞きだし、それに丁寧に対応し、警戒心を取り除きながら、意志疎通に努める。そして頃合いを見て本題に入る。
 しかし、そこでも慌てると元の木阿弥どころか、逆効果になりかねない。そこで、別れる際に、改めて会う約束を取り付けることさえできれば、とりあえずは成功である。その他、新入生歓迎会などのイベントへの勧誘も、効果的である。その種のイベントに参加してもらえさえすれば、他の多くの新入生や在学生や卒業生など多種多様な<同胞>と対面し、少しは言葉も交わし、アルコールや食事を共にすれば、おのずと一体感も沸いてくる。
 そうなると、個々の在日経験や今後の生き方などに関する対話や議論への導入がスムーズに進む。その先には、民族サークルの活動の意義なども話しあえるかもしれない。相手の反応次第では、学外組織の紹介にも踏み込める。或いは、その反対に、その種の話は当分、ペンディングにする場合も少なくないが、せめて民族名で呼び合える関係にたどり着けば大成功である。
 実は、一年時にオルグを受けた経験だけでは、活動家の資格としては重要な要素が足りない。上級生として新人へのオルグを経験してこそ、在日の学生活動家として必須のイニシエーションが基本的に完了する。
 オルグを一方的に受けているだけでは、自分と在日という集団との関係が一面的にとどまっている。オルグの受け手は、自分に対してオルグを行う集団を、民族主義的当為性を体現するマスとして捉えがちで、その個別性にはあまり目が届かない。それに対して、上級生として新入生を個別にオルグすることを通じて、在日の個々の多様性と対面することになる。
 在日とされる集団は、自分自身も含めた多様な個人の集合であることが見えてくる。しかもまた、オルグ対象の新入生からは、民族主義的学生集団というマスの一員として見られることを通じて、自分がその集団に属し、それを代表する役割を果たしていることを、自覚する。自分がその集団を代表して他者に対し、その責任を負う存在として意識するようになる。
 こうして、民族主義を体現する集団としての側面と、その集団内部の多様な個人の集合性の両面に目を開き、自らを在日の民族組織の一員としての学生活動家として位置付ける。
 その後の卒業までの数年間にも、さらには卒業後の長い人生における紆余曲折を経て、<民族なんて大嫌い>、<学生時代の同胞仲間>なんて会いたくもないし、話もしたくないと変貌する者も少なくないが、大学入学以来の民族的成長の一つの達成としての活動家の誕生であることは間違いない。
(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の28に続く)

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の26

2024-12-09 09:17:48 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の26

 このシリーズの25回目をアップして以降、僕にしては長期間、続きをアップできなかった。書けなかったからだが、それは今後、どの方向に向かうか、何を書くか迷っていたからである。
 書き溜めた草稿はずいぶんと沢山あったが、僕が見ても、まったく統一性を欠いたカオス状態だった。それを、今の僕の精神状態で整理できそうにはなく、しかも、他にも原稿の推敲を急がねばならないという事情もあった。
 しかし、そろそろ続きをアップしないと、今後は書けなくなりそうな危惧も兆してきた。そこで、少しまとまったものを書いてアップしようと思い立った。ところが、ずいぶんと空きがあったので、これまでに何を書いていたのかもうろ覚えで、先の方向性の目途を立てられず、その上、重複が心配になったので、これまでにアップした拙文のせめて大筋だけでも把握する必要にかられた。
 そこで、初回から前回の第25回までを大雑把に辿ってみた。すると、途中からは最初の計画からは逸れてしまって、二進も三進もいかなくなっていたことが、よくわかった。
 例えば、第2回に提示した「現時点における全体の目次」とその後の展開を照合すると、当初の計画が頓挫していく様子が明らかだった。
 そもそも第5章以降については。初めから明確な展望がなかったこともあって、当初の計画では中間地点と想定していた第五章あたりからは、間に合わせの記述が多くなった。
 それだけに、当初から自分に許していた道草が、すっかり野放図になって、主たるテーマであったはずの、韓学同で僕がしていたこと、考えていたことに関する記述が後景に退いてしまった感すらある。
 そのあたりを、僕自身はもちろん読者の皆さんにも確認していただくために、前回の25回までの構成を、具体的には章分けと見出しの全体を改めて提示すると共に、必要と思われた場合には、【 】内に簡単な説明メモを書き加えて、書き続ける際の参考にしようと考えた。
 そういったわけで、今回は僕と読者の皆さんの頭と気持ちの整理、そして、本シリーズの今後の方向性を見定める準備の機会としたい。
さて、以下が初回から25回目までの内容一覧です。

1.「ある在日二世の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の1」(以下では、「在日の青春」と略記)の全体構成に関するメモ
・「在日の青春」のブログアップにあたって
・韓学同史編纂企画の波紋―「在日」の青春群像の記述という夢想―
(青丘文庫月報巻頭言の転載。発行日は不明で、原稿の執筆日は最後に)

2.「在日の青春」の2
現時点における全体の目次
第一章 大学入学前後
1節 当時の大学入試の概況
2節 1969年の入試戦線と一般的受験戦略
3節 <次男坊>の大学入試

第二章 大学紛争による長期の宙ぶらりん生活
1節 大学に入学したはずが、実際には町コウバの見習い 
2節 <同胞>を名乗る<学生集団>の出現
3節 大学との接触の失敗 

第三章 民族主義の洗礼
1節 <同胞>との接触(喫茶店文化) 
2節 接触した<同胞>の類型 
3節 学内サークルから学外組織へ
4節 <民族>と<酒>のイニシエーションによる陶酔
5節 政治的選択の裏面に押し隠した自己欺瞞

第四章 民族サークル・組織間の対立・軋轢
1節 民族組織間の鞘当て1―<同胞>という印籠
2節 民族組織間の鞘当て2―<われわれ(ウリキリ)>の威力
3節 イデオロギーに組み込まれた思考停止の強制
4節 <民族主義的成長>の自己欺瞞と虚飾 
5節 急ピッチな大学正常化に取り残された学生たち
6節 学内サークルの活動実態
7節 活動の軍資金稼ぎの肉体労働と韓青同との接触。

【以上までに限れば、ほぼ予定通りに進んだが、以下は相当に大きな修正、或いは、計画をなし崩しにしながら、書き続けてきたことが明らかである。しかも、これ以降については、そもそも明確な予定を立てられないまま。見切り発車したことが、メモ的記述や、???などからも良く分かる】

第五章 韓学同の地方組織ごとのローカル文化、とりわけ大阪の場合(支部協、女子部、そして韓学同大阪の寮)
多様なフラクション活動の草刈り場(勝共連合、統一朝鮮新聞系の複数の党派、救援団体に生まれ変わる<秘密結社もどき>その他)
民団大阪本部と韓学同事務所の様子

第六章 民団大阪傘下の青年・学生組織。
第七章 学生組織の中央と地方との関係
第八章 ???
第九章 最終学年生としての責任の引き受け方とその後
第十章 総まとめ

本文の開始
第一章 大学入学前後
第1節 当時の大学入試の概況
・1970年前後と現在の大学入試の相違
・僕の受験準備
・国公立か私学か

3.「在日の青春」の3
第一章第2節 入試状況と受験戦略 
・僕らの高校と大学入試
・文学部志望生

4.「在日の青春」の4
第一章第3節 家における<次男>の大学受験の位置 
・家庭事情
・受験会場と合格発表会場
・母の合格祝いプロジェクト

5.「在日の青春」の5
第二章 長い長い宙ぶらりん生活 
第1節 大学に入学したつもりが町工場の見習い

6.「在日の青春」の6
第二章第2節 (苦行に対する)助け舟としての同胞との接触

7.「在日の青春」の7
第二章第3節 大学とのしくじりの出会いの1
・吉本新喜劇ばりのドタバタ悲喜劇
・新入生の身体検査とクラス会
・脱線―<東京のサンチュン>と<東京のおじさん>
・文学部の学生―女子学生(他者)の目の遍在
・野球部伝統のマッチョ的心性の根深さと女子学生

8.「在日の青春」8
第二章第4節 大学とのしくじりの出会いの2
・クラス討論
・掛け違いの連続の大学(生)との接触

9.「在日の青春」の9
第三章 同胞集団との関係の進展 
第1節 同胞との接触場所―喫茶店文化の花盛り
・喫茶店文化の花盛り
・オルグの舞台としての喫茶店
・喫茶店と僕
第2節 <同胞>の類型
・オルグの<同胞の先輩>
・<生き下手>と<生き上手>

10.「在日の青春」の10
第三章 同胞集団との関係の進展 第3節 組織化の階梯―学内の民族サークルから学外の民族組織へー
・学内の民族サークルの新入生歓迎会
・国民性(民族性)論に対する警戒―歌が上手なのは朝鮮民族だからなのかー
・学外の民族的学生組織の新入生歓迎ハイキング
・学外組織の新入生歓迎の文化祭的イベントなどと二次会
・女子学生たち
・<歴史への背反という恫喝>と<甘い追憶>のダブルバインド?

11.「在日の青春」の11
第三章第4節の1 民族集団という<想像の共同体>への参入まで―民族と酒の重層的陶酔―
・お詫びと訂正
・民族サークルや組織の選択をめぐっての逡巡
・民族サークル同士の鞘当て1―民族(我々)という万能の印籠― 
・道草の1―学内に滞留する研究者たち―

12.「在日の青春」の12
第三章第4節の2 民族集団という<想像の共同体>への参入まで―民族と酒の重層的陶酔―1の続き
・民族サークル間の鞘当ての2―
・道草2-大学内の同胞学生の選別とリクルートの方法―
・道草の3―在日の大学志願者の学部選好の変化―

13.「在日の青春」の13
第三章第4節 <同胞集団>という<想像の共同体>への参入―民族と酒の重層的陶酔―の3
・旧高射砲台上で暮らす民族主義的活動家に垣間見えた政治的人間像
・政治的人間の政治的工作―人脈づくりとオルグの一石二鳥としてのアルバイト斡旋ー
・留学同の合宿学習会からの遁走―朝文研、留学同との中途半端な蜜月の終わりー

14.「在日の青春」の14
第三章 第4節 <同胞集団>という<想像の共同体>への参入―民族と酒の重層的陶酔―の4
・大学の授業が始まるまでの民族的活動
・韓学同大阪の事務所と民団大阪本部などの建物

15.「在日の青春」の15
第三章第4節 <同胞集団>という<想像の共同体>への参入―民族と酒の重層的陶酔―の5
・民族サークルや組織を選択する際の個人と家庭の事情、

16.「在日の青春」の16
第三章第4節 <同胞集団>という<想像の共同体>への参入―民族と酒の重層的陶酔―の6
・<通名の衣を纏った栄光>に対する<懲罰>としての<自己欺瞞の苦悶>と、そこからの遁走

17.「在日の青春」の17
第三章第4節 <同胞集団>という<想像の共同体>への参入―民族と酒の重層的陶酔―の7
・韓学同の地方色ー地方ごとの、そして、下宿生と自宅通学生の学生気質の濃淡など―
・韓学同メンバーの集団的<祝祭的才能>もしくは<在日的民族文化の伝統>

18.「在日の青春」の18
第3章第4節 しくじりの大学生活という物語

19.「在日の青春」の19
第三章第5節 奇妙な関係と奇妙な事件の絡み合い1
・周囲から浮き上がった学生と言う自意識
・不正入試の疑惑

20.「在日の青春」の20
第三章第5節 奇妙な関係と奇妙な事件の絡み合い2
・忽然と現れ、別れの言葉もなく消え去った学生たち
・純な魂の一瞬のきらめき

21.「在日の青春」の21
第三章第6節 大学内の民族サークル(韓歴研)の活動
・学内の民族サークル
・朝鮮半島や在日に関する歴史や時事問題の学習会
・個人的な学習と読書
・(再説)学内サークルの学習会と学外組織の活動について
・(再説)大学のクラスメイトたちとの関係

22.「在日の青春」の22
第三章第7節 本文の今後の予定の変更と釈明1
・一年から二年への進級前後の記述の欠落
・兵庫県の高校の一斉糾弾闘争との遭遇。
・一斉糾弾闘争と韓学同
・一斉糾弾闘争との遭遇の余韻の1―人物―

23.「在日の青春」の23
第三章第8節 本文の今後の予定の変更と釈明の2
1) 一斉糾弾闘争との遭遇の余韻(後日譚)の2―朝鮮奨学会と学校現場―
2) 僕が生まれ育った地元の労働青年たちとの交友 
3) 韓青同の支部レベルの活動家や参加者たち
4) 民団傘下の青年組織(韓青同)と学生組織(韓学同)
5)学生組織と青年組織における言語の比重とずれ

24.「在日の青春」の24
第三章第8節 本文の今後の予定の変更と釈明の3
・断り書きー前回の補充―
・学歴や社会的地位や活動を担保にした副業

25.「在日の青春」の25
第三章第8節 本文の今後の予定の変更と釈明の4
・前置き、もしくはお詫び
・キタへ去ったわが家のコウバと幼かった僕のヒーロー
・わが家のヒーローの二代目の独立
・夭折したヒーローに遺された姉ちゃん
・<へなちょこ学生>の自覚
・零細下請けコウバの配達員ー家業の社会的位置の再確認―
・ブローカーなどの中間業者の中抜きの現場
・姉ちゃんのコンプレックス
・ブローカ―の小間使い

【次回以降は、大学2年生以降の民族活動その他の記述の予定です。既にA4で毎回10頁×25回=250頁で、400字詰めの原稿用紙で言えば、その約3倍以上、つまり、少なくとも750枚と、あまりにも大量の駄文を書いて、それ自家中毒となって心身に滞留していそうな感じです。したがって、今後は無理は避けて、あと数回限りで終えるつもりです。面倒をおかけして申し訳ございませんが、もう少しのご辛抱とご寛恕のほどを切にお願いします。2024年12月9日9時15分】

ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の25

2024-10-17 10:35:46 | 在日韓国学生同盟
ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の25

前置き、もしくはお詫び
 今回も、僕が大学一年から二年への進級前後に経験したことなのに、前々回の23回目に書き落とし、さらに前回の24回でも触れられなかったことについて述べる予定なのだが、それに先立って、お断りしておかねばならないことがある。
 以下の記述の多くは、既にこのブログのカテゴリー「老後の日常と雑多な関心」内の、「余生の三題噺もどきーウォーキング篇の(5)の2」の記事の転載なのである。
 当初は新たに書き下ろすつもりで書き進めていたのだが、そのうちに、以前にどこかで同じようなことを書いた気がしてきたので、念のために、それに該当しそうな文章をブログ内で探してみたところ、上述の記事内に見つかった。
 そこで、その記事に若干の修正を加えたうえで、転載した方がよかろうと考えた。既に上記の記事も読んでくださった方々には、そうした重複などに関して、特にご容赦とご理解のほどをお願いしたい。
 年齢を弁解の口実にするのは情けなく潔ぎ良くない気もするが、この歳になると、以前に何を書いたのかも忘れたり、記憶があっても、それがやたらと曖昧なものになってしまっていることが多い。その結果として、このような断り書きもなしに、不注意な重複を何度もしてきたのかもしれない。もしそうであったとしたら、そんな場合のことも併せて、お詫びしておきたい。
 このように、お詫びの言葉を書いたり話したりすることが何かと増えている。自分なりにそんなことがないように努めてはいても、それもあまり効力がなさそうで、なんとも申し訳ないことである。そんな体たらくが限度を超えるようになれば、今や僕が頼っている気配が濃厚な書くことは仕方ないのだが、それを公表することについては、その資格の有無については、自分自身で厳しく検討する必要があるだろう。個人的には残念なことであっても、拙文の公開を自らに禁じるべき時も来るだろう。しかし、それまでは、どうかご寛恕のほどを、切にお願いしておきたい。
 さて、大学一年から二年への進級前後に僕が経験して、重要なことだと考えていたのに、このシリーズの文章では書き落としてきたことの中でも、特に重要と思えることが、少なくとも、まだ二つ残っている。
 一つはわが家のコウバではない別のコウバでの、一人前の肉体労働を経験したことである。その結果、僕が日頃に馬鹿にしてきた<へなちょこ学生>とは、自分自身のことに他ならないことを痛感した。
 もう一つは、その延長上で、その後の学生時代の大半にわたって続けることになったアルバイトで、在日のみならず零細自営業者一般とその発注会社の担当社員との間に立ったブローカーによる、殆ど公然の秘密になっていた<金銭や接待の供与>と、その見返りとしての発注価格の割り増しなどの実態を垣間見る機会を得た。
 そしてその経験によって、大学卒業後に家業を継ぐつもりだった僕自身の将来に、覚悟していた以上の困難を予見することになって、少なからず狼狽えた。
 以上の二つの経験について書いていくつもりなのだが、そうした二つのアルバイトをすることになった経緯、つまり、前史にまで遡ってみたい。<家の子>、あるいは<家を中心とした環境の子>としての僕の人生の幼児期の記憶から話を起こすことにしたい。
 そんな幼い僕の記憶に刻み込まれた僕や家族とその周囲の人々との関係が、その後に本題となる僕のアルバイトの経験と密接に関係しているからである。

<北の祖国>へ去った、わが家のコウバと幼かった僕のヒーロー
 僕がまだ学齢期に達せず、僕らの家族がまだ中二階建ての4軒長屋の一軒で暮らしていた頃に、わが家の集落に隣接した集落の奥に位置した長屋の一軒を借りて、家にあったプレス機その他の設備などの一切を移設すると同時に、新たに数台のプレス機も購入して設置するなど、従業員と設備を増強して、職住分離の一人前のコウバの操業を開始して間もなくのこと、移設や新規の労働力の導入などの大きな改変によって問題が頻出するようになったコウバで、父の右腕として大活躍すると同時に、わが家の中二階を間借りして新婚生活を始めた野山の兄ちゃん夫婦に、やがては待望の赤ちゃんが生まれ、その子が一歳を迎えると、親子三人は憧れの<祖国への帰還船>に乗りこむことを決めた。
 野山の兄ちゃんは元来、北系の青年組織の活動家であり、強力なリーダーシップと熱烈な雄弁と絶大な人望があった。その若奥さんもまた同じ組織の熱心な活動家だったので、そんな夫婦が<北へ帰る>ことは、当然のことでめでたいことだと誰もが考えた。北に対して必ずしも好意的な立場にあったわけではない我が家の両親でさえも、不安を抱えながらも、若夫婦の夢の実現を喜んだ。
 わが家とそのコウバの界隈、さらには、兄ちゃんが所属する青年同盟の事務所界隈の若者を中心にした多くの関係者が、3人も暮らすわが家を次々に訪れては、夫婦と赤ちゃんの3人の<帰国>を祝い、その前途を励ましながら、僕の母たち女性陣が準備した料理に舌鼓を打ち、酒の勢いもあって、浮かれ騒いだ。
 そんな会も終わる頃合いになると、兄ちゃんは家族3人を代表して、挨拶するために立ち上がったが、その時に、たまたまその横で赤ん坊をあやしていた僕を、いきなり両腕で天井に届かんばかりに高く掲げ、「朝鮮人は朝鮮で暮らすのがええんや。お前もいつかは<祖国>に帰って来なあかん。先に行って待ってるぞ!」と力強い言葉と希望に燃えた眼差しを僕に向けた。その数日後に一家は僕らの家とコウバから旅立った。
 その野山の兄ちゃんに代わって、父の右腕の二代目として奮闘してくれるようになったのが、野山の兄ちゃんの3人姉妹の長女である<春ちゃん姉ちゃん>の夫になっていた松本の兄ちゃんだった。
 松本の兄ちゃんは元来、大阪の在日集住地区として知られる東成区で、在日としては相当に裕福な家の長男として生まれ育った。ところが、中学卒業の頃に母親が亡くなり、その直後に父親が一人息子の気持ちも考えないで、ずいぶんと年下の女性を娶ったので、父子の仲がこじれたあげくに、兄ちゃんは家を飛び出し、わが家の近くの在日集住地区で暮らし始めた。そして、その集落に事務所があった在日青年組織のリーダー格だった野山の兄ちゃんの世話になるうちに、その紹介で我が家のコウバで働くようになった。そしてやがては、野山の兄ちゃんの一番上の妹と恋仲になって、ついには結婚に漕ぎつけた。それだけに、ふたりは珍しいほどに仲の良い義兄弟になった。
 いろんな点で好対照な2人だった。野山の兄ちゃんは短気で熱しやすく、特に政治の話となると、頬を紅潮させて熱弁を奮う。それに対し、松本の兄ちゃんは、普段から冷静さが際立ち、政治に関しては口が重く、その他のことでも、顔を紅潮させたり声を荒げたりすることなど殆どなかった。そんな好対照な2人だからこそ、互いが相手を補い合って、仲が良かったのかもしれない。
 その一方で、ふたりは優劣つけがたいほどの外貌と性格の良さで、人望を競いあうほどで、とりわけ女性は老若を問わずファンになった。僕の母もそのひとりだった。

わが家と僕のヒーローの二代目の独立
 そんなわけで、松本夫妻とわが家は、北へ去った野山一家に対する懐かしい記憶も相まって、強い絆で結ばれていた。松本の兄ちゃんはコウバでももちろん、野山の兄ちゃんの穴を埋めて、父を大いに助けてくれた。兄ちゃんがいると、たいていの諍いは収まった。
 そんな松本の兄ちゃん夫婦もそれから数年後には、わが家のコウバから独立して、自前のコウバを始めることになった。その時には、僕の両親はこの時とばかりに、物心両面にわたって積極的に二人を励まし、支援した。
 松本の兄ちゃんは、北系の組織の事務所近くの長屋の端の一軒を借りて、玄関に接する小部屋をつぶし、玄関ともども土間にしてコウバをしつらえて、その奥の台所と6畳の部屋で暮らすことにした。そして、表のコウバには、中古のプレス機2台を据えるなどして基本的な操業準備を整えたが、付帯設備については資金不足だったので、当座はわが家のコウバの設備を借りてしのいだ。仕事の受注についてもまだ得意先の確保には至らなかったので、父のコウバから仕事を回してもらうなどして、わが家との親密な関係が続いた。
 松本の姉ちゃんは僕の母のことを<姉ちゃん>とか<姉さん>、あるいは、父のことを名前の最初の漢字を冠して<文ちゃん兄ちゃん>と呼んでいたのを少し加工して、<文ちゃん兄ちゃん(とこ、所の意味)の姉ちゃん>などと呼んで、わが家に足しげく出入りした。そして、母を相手に愚痴や相談事などについて熱の入ったおしゃべりをひとしきり終えると、いつも変わらない快活な声と表情を残して帰って行った。
 その夫婦ともに、済州出身で大阪在住の両親の下で生まれ育った在日二世で、松本の姉ちゃんの家族とは、わが家の両親がその地域に住みついて以来の、つまり松本の姉ちゃんがまだ幼女の頃からの長い付き合いだった。母はある時、松本の姉ちゃんは子どもの時から、すごく可愛かったけど、それと同じくらいに利かん気が強い<じゃじゃ馬娘>で親を困らすことも多かったと、まったく悪意などなさそうな口ぶりで言うのを聞いた時には、即座に僕は<なるほど、さすが>と納得した。
 我が家のコウバから独立した松本夫妻のコウバはその後、周囲の予想をはるかに超える順調ぶりだった。二人とも大阪で生まれ育ち、日本の学校に通っていたから、我が家の両親のような一世とは違って、日本語はもちろん、大阪弁も大阪の文化や習慣も殆ど自分のものだったし、在日はもちろん、日本人の親しい知人、友人たちにも恵まれていた。
 とりわけ、美男美女のカップルであることに加えて、気さくで人付きあいが良く、仕事の手も早く、負けん気も相当のものだった。
 そんなこともあって、得意先の外注担当の社員などとの付き合いでも、やたらと腰を低くしての商売根性が丸見えの態度をとることなく、まるで昔からの友達のように自然だったから、いろんな人の受けもすこぶるよかった。しかも、時流に合わせるのも、すごく早かった。当時はまだ珍しかったゴルフにも、在日の零細自営業者の中では逸早く手を染めて、趣味も兼ねた接待に励むので、接待される方も気楽になって、喜ばれないはずがない。
 しかも、わが家の両親などは、実際の経済力よりも、むしろ古臭くて道徳臭芬々の倹約精神に縛られて、仕事で必須の車も軽自動車などで済ましていたのに、松本の兄ちゃんは高級感で人気だったスポーツカータイプの乗用車を購入して目を惹き、創業したコウバの好調さを示すからか、得意先の信用も募り、割の良い仕事が次々に回って来るようになった。もちろん、妬んで夫婦のことを悪く言う人がいないわけでもなかったが、夫婦の従来からの人望とさばけた気性のおかげか、地域での評判は悪くなるどころか、むしろ良くなった。
 そのあたりのことを、兄ちゃんが予め計算していたのか、或いは、たまたまそうなっただけのことなのか、ともかく、何をしても板についており、自然に見えた。
 松本の兄ちゃんにすれば、晴れて独立し、いかに小さなものでも事業主となったからには、誰も、そして何も憚ることなどないからと、裕福な家の跡取り息子として生まれ育った<地金>がそのまま出てきただけのことだったのかもしれない。それとなく余裕を感じさせる上品な語り口や立ち居振る舞いも、そうした出自と育ちに由来するものだったのだろう。
 コウバを開業して数年たつと、わが家のコウバと比べて、規模ははるかに小さいのに、羽振りは良く、順風満帆だった。
 ところが、「好事、魔多し」という諺通りに、そんな兄ちゃんだったのに、いきなり病魔に倒れて、そのまま長い入院生活となった。
 まだ幼なかった僕には、そんな気配など微塵も感じられなかったが、兄ちゃんは子どもの頃から腎臓病を抱えており、それがいつの間にか、悪化したらしい。人付き合いがよかっただけに、自営業を始めると、自分ではいくら気を付けているつもりでも、付き合いが増え、それにつれて酒量も増えたのだろう。それにプレス機と重い金型を相手にしての厳しい肉体労働に加えて、起業に伴う心労の蓄積もあったのだろう。
 ともかく、兄ちゃんに何が何でも生き延びてもらうために、姉ちゃんは巨額の費用を要した人工透析も受けさせるなど懸命の看病を続けたが、3年ほどの入院生活の果てに、兄ちゃんはまだ40歳代前半の若さで亡くなってしまった。

夭折したヒーローに遺された姉ちゃん
 中学一年生の長女を筆頭に、末っ子はまだ3歳の男の子と、2女3男の総計5人の子供を抱えた姉ちゃんは、他に生活の手立てなどあるはずもないから、夫が遺したコウバを引き継いだ。
成人男子でも相当に辛い肉体労働である。終日立ったままで、両側のプレスを交互に回して金型を締め付け、次いではプレスを逆回転させて、その下から重い金型を取り出す。焼けて熱くて重い金型を持ち上げて、型抜きに何度か叩きつけることで、金型を上下に割って、その中から完成品を取り出す。そしてまたしても、金型に原料を流し込み、プレスの下に滑り込ますと、プレスを回して力いっぱい締め付ける。
 そんな一連の動作を終日にわたって繰り返す。時には、椅子に腰を下ろして、流れる汗を手ぬぐいで拭って一息つく。そしておもむろに立ち上がると、またしても同じ動作を再開する。果てがなさそうに単純でも、まさに肉体労働である。
 しかも、一般には年輩の女性を一時雇いして任せる仕上げ作業も、プレス作業を終えてから自分で済ますなど、身を粉にして踏ん張った。
 いくら頑張ってもやはり中年女性である。金型が大きく重すぎる場合には、手に負えない。そこで、そんな金型の仕事はアルバイトの青年に、割増の出来高払いを約束して回した。
 自転車で10分足らずのところにあった、この地域で最大の工場で働く日本人青年が、定時の5時に退勤すると直ちに自転車で姉ちゃんのコウバに駆けつけて、パンと牛乳などで軽く腹を満たしてから、特に姉ちゃんが手に負えない大型の金型のプレス仕事を引き受けてくれた。
 その人は姉ちゃんへの同情だけでそんなことをしていたわけではなかったのだろう。勤務先の大会社の仕事は単調な軽作業で気楽だが、まだ若さを持て余す若者にとっては、物足りなく、それ相応に給料も知れている。そこでその安定した職場を手放さないで、もっと多くの稼ぎを得ることが最大の目的だったのだろう。
 週日は5時半から9時半まで、勤務先が半ドンの土曜日には、午後の1時から夕方7時頃まで、さらには、プレス仕事の納期の都合次第では日曜日も喜んで働いた。出来高払いなので、時間をこなすだけでは意味がなく、手抜きなどするわけもなく、勤務時間は本職の半分にも満たないが、本職に匹敵する稼ぎになった。

<へなちょこ学生>の自覚
 実は、そんな姉ちゃんの家やコウバの事情について、周囲が驚くほどに、僕はよく知っていた。子供のころから、母と姉ちゃんがお喋りする場面にそれとなく立ち会って耳を澄ますことが多かったし、それに加えて、ほんの偶然で、姉ちゃんのコウバで一か月ほどの間、本物の肉体労働を、アルバイトとしてすることになった。
 大学の一年も終わりかけの頃だった。姉ちゃんが例によって我が家に立ち寄って、母とよもやま話をするうちに、プレス職人を探していると漏らした。それを小耳に挟んだ僕は思わず、「僕が手伝ったろか?」と割って入った。
 すると姉ちゃんは、「よしみちゃんには無理やろ」と、まるでどこにでもゴロゴロ転がっている<へなちょこ学生>のように扱われた気がしたので、僕の方はすっかりムキになった。
「できるわいな。そのくらいのこと、大丈夫やて。試しに雇ってみたら?」と、本気半分、冗談半分の言葉が口から飛び出した。
 中学と高校の6年間に亘って野球部でそれなりに身体を鍛えてきたつもりだったし、コウバの手伝いも小学校の頃から相当な経験があった僕だから、引き下がるわけにはいかなかった。
 その時、母の表情が強張っているのが分かった。「また何を馬鹿なこと言うてるんや!そんな暇があったら家のコウバの仕事でも、もっとしたらええのに」という内心がその表情に露骨に読み取れたのに、僕は自分の意地を優先した。
 コウバの仕事を手伝っても、僕には一銭の足しにもならない。だからと言って、両親に文句を言える立場ではない。そこで直接行動で内心を示すことにもなる。両親が何かと気にかけていた姉ちゃんの為になることだから、面と向かって反対できるはずがない。そんな計算も働いていた。
 姉ちゃんは、僕ら母子それぞれの思惑などお構いなしに、少しは臨時の間に合わせになりそうな人手が現れたからと、すっかりその気になったのか、
「それやったら、試しにやってもらうことにするか?」と、思いのほかあっさりと、僕の申し出を受け容れて、母の顔色を見たところ、さすがの母も真っ向から反対できるわけがなく、了承した顔つきだった。
 因みに、幼い頃からの僕の呼称は一般には<よしみっちゃん>だったが、その姉さんだけは何故か、<っ>なしで<よしみちゃん>と呼んだ。僕の名前の漢字表記を知らないからだろうと僕は思っていたが、それなら僕の周囲の在日の、特に女性はたいていがそうだったから、姉ちゃんだけが特別ということにはならない、それなのにと、僕は不思議に思っていたのだが、その種明かしは先のお楽しみとしておこう。アルバイトの話に戻る。
 大学の一年から二年への進級前に設定された、時期遅れに加えて、例年よりは短い1か月ほどの春休みの間、日曜日を除いて週に6日を9時から5時まで、姉ちゃんのコウバで、重いプレスと、これまた重い金型を相手にしての、本物の肉体労働に生まれて初めて挑戦することになった。
 家のコウバの手伝いとは違って、れっきとしたアルバイトだから、それなりの報酬ももらえるはずなので、二年生になれば新入生を迎えての民族サークルの勧誘など、酒代が相当に嵩んだとしても、当座は間に合うだろうという算段もあった。
 ところが、いざ姉ちゃんのコウバに通い始めると、予想をはるかに超える厳しい肉体労働であることに、ようやく気付いた。僕は我が家のコウバの仕事には小学校時代からすっかり慣れていたが、プレスの経験は一度もなかった。僕の手伝い仕事は、納品の為の<仕上げ>という軽労働だけだった。大人の職人のプレス仕事を傍から見ていて、その大変さを想像はしていたが、実際に自分でやってみると、想像していたものとはまったく別物だった。
 そのプレスのアルバイトの時期が春だったからまだしも、それが真夏のことだったならば僕は、約束の一か月は、とうてい耐えられなかっただろう。
 ベークライト(プラスチックの一種)のプレス仕事は、姉ちゃんのように止むに止まれない事情を抱えた寡婦などは例外として、一般には成年男子だけの仕事で、男子でも一定の年齢を超えると、辞めていく人が多い。そんな遠縁のオジサン達を僕は何人も見てきたのだが、それも当然のことだったことを、ようやく了解できた。
 僕が中学校に入学してから高校三年の夏まで、野球部生活で鍛えたつもりの筋力や体力も、その後の一年に及ぶ<ふやけた>生活(機械化が進んだわが家のコウバに手伝いはプレスを扱う従来の重労働とは正反対の長時間の軽労働に代わって、肉体労働などと呼べそうにない軽労働になっていた)で、帳消しになってしまったことを痛感させられた。
8時から12時まで、そして1時から5時までの定時だけでも僕には精一杯だった。当初には、あわ よくば、自ら残業も志願して、姉さんを驚かせると同時に僕に対する評価を一変させようと意気込んでいたが、それどころの話ではなかった。
 しかも、僕は自分の仕事の速さと正確さに、相当の自信を持っていたのに、それもひどい過信だったことを思い知らされた。慣れない仕事だから仕方ないという弁解も、最初の1週間くらいしか、それも自分だけには役立ったが、その後になっても能率が上がらない実態に関しては、自己弁明にもならなくなった。
 それどころか、当初の張り切りは確実にすり減る一方で、疲れが重く蓄積するので、仕事の能率はむしろ落ちる気配があったから、内心では慌てていた。
 大会社の工場での定時の勤務後に自転車でコウバに駆け付けて9時過ぎまで、鼻歌まじりで手際よく作業を楽しんでいそうに見える日本人の兄ちゃん(30代前半くらい)の仕事ぶりには、改めて舌を巻いた。
 それどころか、既に中年も盛りで、子どもを5人も産んだ母親の身で、色白の顔を紅潮させながら、精力的に仕事をこなす姉ちゃんの気力と体力と意地のようなものに驚嘆すると同時に、何故かしら敗北感をかみしめた。<後家の踏ん張り>という言葉が頭に浮かんだが、そんな言葉で姉ちゃんの仕事ぶりを形容するのは憚られた。生意気な口を利いてはならない、と自分に言い聞かせた。
 自分ではすっかり一人前のつもりだったのに、実際にはひどい体力不足と手際の悪さに情けない思いをかみしめながらあえぐ僕を見守りながら、姉ちゃんは時には苦笑いを交えながら、「よしみちゃん、無理することないで。自分のペースでええねんから」と気を遣ってくれたが、その言葉を聞くたびに、ひどく恥ずかしかった。
 約束の4週間の務めが終わり、封筒に入った給料を受け取った時には、心底、ほっとした。帰路に封筒の中身を確認すると、僕が予想していたよりも少ない金額だったので、さすがに落胆した。しかし、自分の仕事ぶりを振り返ると、不満など消えて、今さらながらに自分が情けなかった。僕が嫌悪していた<へなちょこ学生>とは僕自身のことに他ならず、恥ずかしかった。

零細下請けコウバの配達員ー家業の社会的位置の再確認―
 本物の肉体労働の経験ですっかり鼻をへし折られた格好の僕だったのに、その後も姉ちゃんは僕に何かと簡単な用事を依頼した。僕はプレスの仕事で一人前の仕事ができなかったことで、姉ちゃんに借りができた気分だったので、姉ちゃんの頼みなら断れず、呼び出しがあるたびに、せっせと姉ちゃんのコウバか家に出向いて、用事を頼まれて、それを処理して、姉ちゃんに喜ばれた。その他、母と姉ちゃんが連れ立って結婚式やサウナに出かける際にも、その送迎の運転手にさせられることもあった。
 そのうちに持ち掛けられたのが、今度は本格的なアルバイトだった。一日に一回、完成した製品を発注会社に納品する運転手役で、期限の設定はなく、相当に長期になりそうな話だった。
 その仕事とは、一日に一回、姉ちゃんのコウバに出向いて、姉ちゃんの指示通りに納品書や請求書などの簡単な伝票を書いて、車で約15分の距離にあるA社に納品するといった、実に単純なことだった。だから誰にだって簡単にできそうなものだが、商売をしていると、むやみに人に知られては困ることがあるので、よほどの信頼関係でもなければ任せにくいから、「なあ、よしみちゃんやったら、うってつけやん。お願い、頼むわ!」と言われると、断れるはずがなかった。それにそもそも、姉ちゃんが僕に頼みを断られるなど、まったく思っていそうになかった。
 姉ちゃんには、自分の事情を何よりも優先して突っ走る押しの強さがあって、それは状況のせいと言うよりも、彼女が持って生まれた性格であり、厳しい世界を生き抜くにあたっての大きな武器だった。
 僕が春休みの一か月のアルバイト以降に、姉ちゃんはそれまでのコウバから徒歩約5分のところに、まだ新しそうな二階建ての中古住宅を購入した。二階の4LDKは家族の居住空間に、1階の殆どはコウバに、そしてそのコウバ脇には、カウンターだけの小さな喫茶店を作り、一番上の妹に任せた。
 その妹は毎日、その喫茶店に朝から夜遅くまで詰めて、昼間の3時間だけアルバイトの若い女性を雇って、その間には姉ちゃんの家の家事や子どもの世話はもちろん、亡くなった兄ちゃんが遺した乗用車を乗り回して、コウバの納品その他、姉ちゃんが外出する際の運転手なども引き受けるようになった。
 その妹は、少女の頃から姉さん以上に美人と評判だったのに、あまりに美人だからか、相応しい相手に関する要求も高くなり、それにつれて男性も近づきにくくなってくるのか、そばかす美人のオールドミスとささやかれて久しくなっていたが、やがては、姉ちゃんのコウバで長らく姉ちゃんを支えてくれていた日本人青年と結ばれた。 
 その実によく働き寡黙な日本人青年の目的は、手っ取り早くお金を稼ぐことだったが、少し暇ができると、コウバ脇の喫茶店で過ごすうちに、誰もが高嶺の花と見なしていた姉ちゃんの妹と、なんと恋仲になった。妹の方が4.5歳年長だったが、その程度のことなど、双方ともに気にかけていそうになかった。
 実は、その日本人青年はそれ以前からもひそかに、彼女のことを<あわよくば>と思いながら、その高嶺の花を射止めるためにもと、姉ちゃんを助けていたのかもしれない。もしそうだったならば、その涙ぐましい努力が報われたことになる。
 その国際結婚は、姉ちゃんにとってすごく頼りになる一方で、心配の種だった妹のことだけを考えれば、嬉しいことだった。しかし、姉ちゃん自身にとっては一大事の発生だった。
 ふたりは結婚してしばらくすると、夫の会社の都合(転勤)なのか、あるいは、故郷の親たちにまつわる事情があってのことか定かではないが、はるか遠方に転居することになってしまったので、姉ちゃんは最も頼りにしていた身近な2人を、同時に失うことになり、家庭とコウバの両方において苦境に陥った。
 納品のアルバイトを僕に持ち掛けたのは、そんな事情があってのことだった。一日に1時間から2時間だけの中途半端なアルバイトを頼めそうな人物として思い当たるのが僕だけだった。だからこそ、僕に提示された条件はすごく良いものだった。僕にとっては高額の報酬はもちろん、姉ちゃんの妹が乗り回していた夫の遺品の乗用車も、その妹がいなくなると宝の持ち腐れになってしまうので、僕に自由に使用させるという条件を付加しての厚遇だった。
 納品に要する時間は、たいていは1時間足らずが月に3万円、週に2時間を2回で月に8千円から1万円が相場だった家庭教師と比べても割がよく、夜の酒の付き合いの障害になることが多い家庭教師を辞めても経済的には困らないし、少しは姉ちゃんの役にも立てるので、引き受けないわけにはいかなかった。登校前か下校後に立ち寄れば簡単に済むので、学業への障害になんか殆どならなかった。しかも、そのアルバイトが続いている限り、僕は学生としては殆ど常に経済的に余裕があったし、大学へは乗用車で通学するのが基本だった。朝早くに家のコウバの手伝いを言いつけられたら、小型トラックで得意先に納品してからコウバに戻り、姉ちゃんの車に乗り換えて大学へ向かった。
 そのように自動車に頼るのがすっかり癖になった。たこ足大学だった僕らの大学の、僕が通うキャンパスとは別のキャンパスに行くのにも車はいたって便利だったし、やがては同じキャンパス内の別の校舎に移動する際にも、なんと車を利用するといったように、一見すると何ひとつ不自由のないブルジョア学生のように見なされたりもしただろう。
 
ブローカーなどの中間業者の中抜きの現場
 しかも、そのアルバイトをするうちに、思わぬ発見もした。
 姉ちゃんのコウバの仕事の殆んどすべての受注元が、松下電器の協力会社、つまり、部品製造の下請け業務がを中核とするA社で、その会社は我が家のコウバとも、直接ではなくても、一定の関係があり、それ以前にも僕は、我が家のコウバの用事で何度か訪れたことがあった。我が家のコウバの仕事の一部は、別のB社を間に挟んで、A社の仕事の孫請け仕事だったのである。
以上のことを整理しておく。発注・受注の関係は以下の通りだった。
松下電器→A社→B社→わが家のコウバ
 ところが、我が家のコウバはB社から受注していたので、納品もそのB社にするのが本来の筋であり、実際にも普段はそのように行っていたが、何かの事情、例えば、急を要するような場合には、B社からの指示を受けて、納品書はB社宛でも、製品はA社に直接に納品する場合もあった。その場合には、B社からA社には、我が家のコウバからB社宛の納品書の金額に相当額の価格を上乗せしたB社の納品書が送られていたはずなのだが、わが家のコウバ関係者にその実態を知られることをB社が望むはずがなく、僕らもその内容を知るはずがなくても、ある程度の上乗せがなされていることを知らないはずがなかった。
 ところが、僕が姉さんのコウバからの納品のためにA社に赴いて、事務所に納品書を提出しに行ったところ、珍しいことに、スタッフ全員が出払っていた。そして、受付の棚の上に、我が家のコウバがB社に納品した製品を、B社がA社にそのまま納品した納品書が目に飛び込んできた。その内容は、わが家のコウバがB社に提出した納品書を、B社名義にして、金額は倍以上になっていて、中抜きがあることは常識のつもりだったが、製品価格のそれほど大きな嵩上げは想像を超えていて、自分の目を疑うほどだった。
 それにしても、B社がA社に納品した際の納品書がどうして僕の目に入ったのか、不思議である。いろんな下請け業者の納品が立て込んでスタッフが超多忙になって、書類の扱いがぞんざいになっていたのだろうか。
 ともかく、そうした事情も含めての偶然にすぎなかったのだが、その偶然はある種の<必然の枠内での偶然>とだったのではなかろうか。
 大阪の弱電メーカーのプラスチック部品の下請け、孫請けには在日の零細業者が多くて、その発注会社と下請け業者などの間に割って入って、書類一枚で多額の利益を抜きとってしまう<ブローカー的会社>や個人のほぼすべてが日本人だったから、在日は構造的に搾取される側にあり、その搾取される業者の息子である僕が、搾取をたまたま免れていた業者(松本の姉ちゃんのコウバ)の配送のアルバイトとしてA社に出入りしていたからこそ、それが発覚するといった偶然が生じた。
 そしてまた、そうした二つの納品書の照合が容易にできるアルバイトの僕が、地縁、血縁が絡んで、そんな場に紛れ込んでいたのもまた、在日的与件がもたらしたことだった。
 それ以来、姉ちゃんのコウバの納品の為にA社に行く度に、同じ類の発見ができるかもしれないと眼を光らせるようになった。そのあげくには、その種の中間搾取の証拠を探し求めているみたいな自分の所業が、さもしいことのように思えてきて、そんな自分に嫌気がさした。
 それにまた、そうした厳しい現実を自分の目で確認できたとしても、それに対して何一つ、まともな対応などできそうにないという、自分の無力さを思い知るのも嫌だったし、辛かった。
だからと言って、自分が将来に父の仕事を継いだ場合に、接待に励むことで中間搾取を減らせるとも思えなかった。そんなことは最も苦手な仕事だった。
 その結果として僕はお得意の逃げ道を考えた。そのアルバイトもそろそろ辞める潮時になったと思い始めたのである。それでも、姉ちゃんの状況を見ている限り、僕が辞めると即座に困ってしまうに違いないので、辞めるなんてことを口には出せなかった。

姉ちゃんのコンプレックス
 実は話はすごく単純で、僕が辞めたとしても、姉ちゃんが自分で車を運転して納品できるようになればいい。そんなことにようやく気が付いた。それまでどうしてそんなことも考えつかなかったのか、それがむしろ不思議だった。
 これまでのところ、姉ちゃんはそれが出来ないでいるが、それは彼女が決して口に出さない何かがあってのことではないかと、ようやく思い至った。
 教育を受ける機会がなかったせいもあって、日本語の文字の読み書きができないことがどれほど不便なばかりか、自尊心を傷つけることになるかを、生まれてこの方一緒に暮らしてきた母を見るにつけ痛感してきた僕なのに。
 姉ちゃんの文字に関するコンプレックスは、僕の母ほど深刻なものではなかった。日本語の文字をある程度は読めるし、書くことだってできる。僕の母とは大違いである。姉ちゃんは、日本の公立小中学に通っていたとも聞いていた。
 それに、姉ちゃんの長兄は大学に進学し卒業もしている。しかし、男女の差が決定的だったらしい。男の子は教育を受けさせても、女の子にはそんなものは無用だという親の固定観念が災いし。それに、在日の大家族の中での長女という立場もあって、幼い頃から家事に忙しかった。しかも、机にじっとしておれる性格ではなく、勉強などお金にならないから、無駄なことなど願い下げという<潔さ>もあって、きちんと学校に通わなかったらしい。そのせいで、文字を書くのが苦手だし、自分が書いた字を人に見られるのをすごく嫌がった。
 僕の名前を、誰もが口伝で「よしみっちゃん」ではなく「よしみちゃん」と「っ」抜きで呼んでいた理由の一端も、姉ちゃんが漢字に自信がないから、僕の名前の漢字表記を知ろうとしなかったことが大きな原因だったと確信した。
 姉ちゃんは自分の容姿や運動神経、世渡りの術その他の様々な能力には十分に自信があったが、それと反比例するように、わずかな欠点に過ぎない文字が下手ということで、コンプレックスが心の深いところに住み着いてしまったのだろう。そのせいで、自動車学校にも行かないので、運転免許など取れるはずがなかった。
 しかし、それは本人が抱え込んだコンプレックスに過ぎない。だから、僕はアルバイトを辞めることを伝えた際には、確信をもって説得に励んだ。まだ最近になってできたばかりの、オートミッション限定の運転免許なら、誰だって簡単に取れる、と繰り返し勧めてみたところ、姉ちゃんもついに覚悟を決めた。自動車教習所に通い、運転免許を取得した。
 そして路上運転に自信がつくと、わざわざ我が家を訪れて、「よしみちゃん、おかげさまで、免許とったで!すごいやろ!」と嬉しそうに報告してくれた。
 その後は、丁寧な化粧と派手な服で身を固めて、ご自慢の新車で颯爽とゴルフに出かける姿を見かけるようになった。
 しかし、そこに至るまでの時期の話が、すっぽりと抜けてしまったので、そこに戻らねばならない。

ブローカ―の小間使い経験
 僕が姉ちゃんのコウバの納品のアルバイトを辞めるべきか否か、中途半端な気持ちで揺れ動いていることを知ってか知らずか、姉ちゃんは別のアルバイトの話まで僕に持ちかけてきた。もちろん、断られるなんて、全く思っていそうになかった。
 プラスチック成型業者の上前を撥ねるブローカーも兼ねた金型会社の社長の運転手役の、あくまで臨時の、特に必要な場合だけという条件付きのアルバイトを頼まれたのだが、その話に入る前に、ブローカーについての説明をしておいた方がよかろう。
 プラスチック成型にまつわるブローカーは、一般にプラスチック成型用の金型製作会社や、金型製造の技術者が多かった。
 新たなプラスチック製品や部品が必要になった会社は、それを制作するのに必須の金型会社や技術者に、金型の設計と製作を依頼する。そして、それが完成すると、その代金と引き換えに金型を受け取って、自社でプラスチック成型を行うか、下請けのプラスチック成型業者に発注する。金型会社もしくは個人の仕事はそれでひとまず終わる。
 しかし、金型の発注者は必ずしも、その金型を用いて製品を作る成型業者を自ら探し出して、成形の発注を自らは行わずに、金型を製作した会社や個人に、プラスチック成型ができる下請けを選定・発注などの一連の業務を丸投げし、最終的に完成したプラスチック製品を受け取り、その費用を中間に入った金型製作会社や個人に支払うといった場合もあり、実際にはその場合の方が多い。
 その場合、金型会社はプラスチック成型業者を選んで発注し、それをいったんは自社に納品させたうえで、自社のものに書き換えた納品書とともに製品を元来の発注会社に転送する。
そのようにして、金型会社もしくは個人が、元来の発注会社と成型業者の仲介役として、発注側と受注側の両方から手数料を受けとるなど、<書類一枚>で大きな利益を得る。その仲介者はたいていが金型製造会社やそれに準ずる個人であり、その人たちがブローカとして大いに活躍する。
 そんなシステムの便利さとそれによる大きな儲けが病みつきになり、金型製作の精密で面倒な仕事など殆ど廃業状態にして、ブローカー稼業の方をむしろ本業にするような金型製作会社や個人も多かった。
 若くして亡くなった松本の兄ちゃんは、そんなブローカー役もこなす金型製造会社の経営者と親しく付き合っていたし、未亡人である姉ちゃんも、亡くなった兄ちゃんの人脈をそのまま引き継いだ。
 そのために、僕は姉ちゃんの用事で、その人物と既に何度も会うなど、顔見知りになっていたのだが、その人が交通事故で運転免許停止の処分を受けて、<足>がない状態に陥って困っており、その足、つまり、その人の乗用車の臨時運転手役のアルバイトを、姉ちゃんは僕に持ちかけてきたわけである。
 僕はその人に対しては、何かしら不快な既視感のようなものがあったので、少し躊躇ったが、姉さんのたっての願いだから、とりあえず一回きりという条件付きで受け入れた。ところが、その後にも何度か、その度に1回だけという殆ど意味のない約束で、引き受ける羽目になった。
 その運転手役というのは、姉さんのコウバの納品といった単純なものではなく、関連会社の担当社員やその上司たちを接待する際に、ブローカー氏自身を送り迎えするついでに、接待にも付き合うという、あまり気持ちがよくない、いわば<裏の仕事>だった。
 大阪のキタやミナミの歓楽街、さらには名古屋まで足を伸ばしての接待用の運転手役を僕は何度もする羽目になった。
 先ずは昼間にその会社を訪れて、儀礼的な挨拶を交わすのと同時に、その夜の接待の約束もとりつける。そして夕刻になると先ずは料理屋、次いで高級クラブ、そして最後は、接待相手の社員の行きつけの、見るからにきわどいスナックへと、場所を変えての接待に付き添ってから、ブローカーさんの自宅へ送り届けて役目は終わる。
 名古屋まで行った際には、接待が終わった時には既に真夜中で、そこから車で名神高速を走って大阪に戻ると、殆ど明け方になっていた。
 僕はあくまで臨時の運転手にすぎないので、接待現場である料理屋や会員制の高級クラブやきわどいスナックにまで付き添う必要などあるはずもない。それに僕は、運転手役だから酒を飲むわけにはいかないし、接待の現場である飲み屋にまでついて行きたいなどとは思わない。しかし、その当時はまだ携帯電話のような便利なものがなかったから、その飲み屋の近くのどこかで待機して、携帯で連絡を受け次第、お迎えに直行するようなことできなかったし、ブローカー氏は、接待が終わればすぐに帰路につきたいからか、他にも理由があったのか、僕を接待の現場のクラブやバーに連れて行くことにこだわった。
 僕は料理屋に同行しても酒は飲まずに、隅でひとり料理をつまむことになるから、いくら豪勢な料理でも、有難くなんか思えないし、クラブなどで着飾ったホステス陣が腿の上にさりげなく手を置くと、思わず緊張してしまう。そんな青二才の僕を揶揄うことも接待の一部なのか、ブローカー氏も接待を受ける会社員も、さらにはホステスさんたちも、何かと僕にちょっかいをかけてくる。それが苦痛で嫌悪感を募らせた。とりわけ、強烈な香水が堪らない。
 僕の緊張した顔つきや挙動も笑いの種にしながら、いい歳の大人たちが下ネタで盛り上がる現場にいると、いたたまらなくなる。ブローカー氏は余興の一つのつもりで、うぶな大学生の僕を同席させていたのかもしれない。
「お前なんか、青二才の小便垂れにすぎない」と、そのブローカー氏の顔つきは言っていそうに見えた。
 しかも名古屋の場合は、真夜中の名神高速道路の岐阜から滋賀までがひどい濃霧で、殆んど何も見えない中を走らねばならなかった。後部座席ですっかり酔っぱらって眠り込んでいるブローカー氏の鼾を聞きながら、手に汗を握りながらの命からがらの運転だった。茨木インターで高速道路から一般道に出たとたんに、冷や汗で体中がベトベトになっていた
ることにようやく気付いた。
 ともかく、接待の現場での、冗談めかしながらの隠語を交えた掛け合い(互いの取り分に関する折衝)の内容を、僕は殆ど理解していた。幼い頃から大人たちの話にそれとなく耳を傾けるのが趣味だったので、その経験が生きていたのだろう。厳しい鞘当てもあり、時にはブローカー氏が僕に警戒心が露わね目つきを向けることもあった。
 しかし、わが家のコウバとは直接の利害関係がある話ではなかったからか、全体としては、僕が驚くほどに開けっぴろげな言動を双方がしていた。要するに、僕は透明人間の小間使いだった。ブローカー氏は僕に人生修行の機会でも与えているつもりだったのかもしれない。
 ともかく、そうした経験を通じて、金型屋などのブローカーがどれほど受注先の重役や担当社員への接待で甘い汁を吸わせる一方で、自分はそれ以上の甘い汁を吸っていることが、手に取るように分かった。
 本来ならば、下請けや孫請けの零細業者の血と汗の結晶の多くが、発注元の担当社員とその金型製作者兼ブローカーが、折衝を重ねた結果として、<くすねあい>される交渉の現場に僕はいた。
 僕の父は、接待するなんて、すごく苦手なタイプだったが、時には已むに已まれず、接待の真似ごとを試みても、中途半端だから、うまくいかなかったようである。僕も父のそんな性分を確実に受け継いでいる。もちろん、僕だけではない。兄弟全員がそのようである。但し、それを遺伝といえるのかどうか、むしろ、身を寄せ合って暮らしてきた結果だと、僕は思っている。
しかし、そんな性分だからと、僕らが潔癖を衒うわけにはいくまい。接待が苦手というのは性分なので、そのようなものとして引き受けるしかない。そうでもしないと、自分がつぶれてしまいかねない。そして、そのせいで被る不利益は覚悟したうえで、そうするしかない。
 松本の兄ちゃん夫婦の小さなコウバがすごくうまくいっているように見えた理由は大別して二つあったように思う。一つは、金型会社を経営しながらブローカー稼業も積極的に展開していた人物との特別な関係があった。そのおかげでブローカーによるひどい<中抜き>の被害にあわずに済んだ。その中抜きを、金型屋と兄ちゃんとが山分けしていたのだろう。それでも中抜きを完全に免れていたわけではない。
 しかし、それはもう一つの要素があってこそ、効果があったのではないか。それが、松本の兄ちゃん夫婦の先見の明なのか、或いは、ただの偶然がもたらした幸運だったのか定かではないが、我が家のコウバも含めた同業者の多くとは異なる道を選び、あるいは、選ばずにはおれず、それが結果として、兄ちゃんのコウバの生き残りに貢献した。 
 時代の趨勢は、人力が中心だったベークライトから機械が中心のインジェクションに雪崩を打っていた。ほとんどのプラスチック成形業者は、初期投資額がプレスなどとは比較にならないほど大きく、それを回収するには、少しでも機械を寝かせないように、可能ならば24時間操業を、しかも、受注の空白期間がないように、発注元の言い値で受注することを余儀なくされた。その結果として、機械の奴隷になってひたすら働いた。
 ところが、松本の兄ちゃんのコウバは、意図してなのか、資力不足の結果なのか、そうした趨勢に逆らって、従来のベークライトの設備と工法に留まった。その結果、同業の多数の零細コウバの雪崩を打つような、ベークライト部門の<廃業>による空白を埋めるといった、希少性という利点に恵まれた。
 しかも、そうした状況がもたらす強みもあって、受注価格の交渉でも強く出たり、発注元の弱みに付け込むことも少しはできた。金型会社を看板にしたブローカーがそれを側面からサポートしていたのだろう。
 しかし、それも規模が小さかったからこそのことだった。小さなパイの残り物の確保も、規模が小さかったからこそ、容易にできた。そうしたことのすべてが、これまた偶然でもあり必然でもあったと僕は思っている。
 僕がその松本の姉さんのコウバの納品のアルバイトを辞めたのは、それを始めて1年以上が経過してからのことだった。上でも少し触れたように、半年くらいの時点で、辞めたい気持ちが兆していたが、それを姉ちゃんに切り出せないまま、ずるずると続けていた。そんな僕の背中を押したのは母だった。
 「おまえ、ほどほどにしとかな、あかんやないか。後ろめたいことなんかないやろけど、人の目と口は怖いもんや」と母は僕に、奥歯に何かが挟まったような曖昧なことを僕に言った。
母は詳しくは言わなかったが、僕には母の言葉の意味するところがなんとなく分かった。中年の盛りの未亡人のコウバ兼自宅に毎日通う大学生の僕のことを、色眼鏡で見る人がいてもおかしくないし、母のその口ぶりからして、僕のことをよく知る人の中で、例えば、わが家の遠縁のおばさんなどがそんなことを、僕の母に対するライバル心や嫉妬などもあって、お為ごかしに親切を装って、口にしたのではないか。それとよく似たことがそれまでにもあったから、おのずと僕は、そのように確信した。
 或いは、遠縁のおばさんがそんなことを母に対して言わなくても、母がそんな<余計な>心配をしても当然な頃合いになっていたのだろう。そのように考えた僕は、母の心配に納得し、姉さんとの関係にけじめをつけることにした。
 それからしばらくして、キリの良さそうな時を選んで、姉ちゃんにアルバイを辞める話を切り出した。
「辞めたい」ではなく、「学校の事情で辞めなくてはならなくなった」と姉さんに伝えた。すると、姉さんも僕にはすごく意外なことに、すんなりと受け入れてくれた。そして、その際の、既に触れたような僕の勧めを受けいれて、自動車学校に行く決心をした。その結果として、運転免許をとったことはもちろんのことだが、ひそかに縛られていたコンプレックスの壁を破って、自分で人生を切り開く新たな力を実感したことが、姉ちゃんにとっては、幸いだったはずである。
(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の26に続く)