ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の29
第四章
第3節 上級生から見たサークルと学外組織(1)
韓学同の活動(家)の三層構造
僕の頭の中では、韓学同経験は三層で構成される。まずは、在日の新入生としてのイニシエーションである。集団としての同世代の学生集団、もしくは組織によるオルグ活動の成果として、民族主義的目覚めを経験し、それを内面化しようと努力する。
次いでの第二層は、二年生になって新入生に対するオルグを、サークルや組織の一員としての民族的活動家としての自覚を持とうと努力する。こうして、在日のサークルもしくは学外組織の学生活動家が誕生する。以上のことは前回に述べた。
それに続くのが第三層で、それは在日の学外組織の活動家として、親団体である民団や韓青同など関連組織、さらには、留学同その他の外部組織との折衝や競合の活動を経験する。例えば、組織運営の基盤を、人的にそして経済的に固めねばならない。それまでの自己、さらには、新入生の民族的目覚めも促進など、個人の内面に比重を置いた活動よりも、組織活動に比重がかかる。その段階でも内的葛藤は常に付きまとう。
それまでに培ってきた日本人との関係、民族活動を心配・制止する家族との関係、さらには将来的な生き方、例えば、職業選択など、葛藤の種は尽きない。
特に韓学同の執行部の一員にでもなれば、特に地元生まれの自宅通学で、韓学同の地方本部がある地域の民団所属の家庭の子弟の場合は、家庭を通じての民団の統制管理を受けかねない。
民団の傘下団体でありながらも、民団の方針に反旗を翻すことが多い青年学生組織に対する統制管理の手段として最も効果的なのが、地方本部から支部、そして親を通じての青年・学生の活動への干渉である。学生でも下宿生活の学生はそれを免れやすいが、親元で暮らしその府県の大学に通い、その府県の地方本部傘下の韓学同で活動する学生にとっては、大きな障害であり心理的負担になる。ひどい場合には、すべての民族的活動に対する禁止命令が親から下されかねない。エスニックグループは、例え大都市にあっても、村的な相互扶助。相互監視の濃密なコミュニティを構成している。
その他、上級生ともなれば、自らが所属する大学以外の大学の在日学生に対するオルグやサークル活動の支援をすることも多い。
民団はもちろん、関係組織との交渉その他もある。民団の役職者との面談、韓青同との会議、協力体制。その他、競合組織との交渉もある。留学同その他の学生団体との新入生の確保競争、運動の正当性に関する論争などもある。
さらに言えば、非常に柔軟でメンバーシップが不明確な韓学同を草刈り場にするような秘密結社的なものの妨害活動にも対処しなくてはならなかったのだが、これは韓学同の大きな生来のアキレス腱だったので、後に詳論する。
その他、韓学同は財政的な基盤が甚だ弱く、メンバーの会費などはなく、イベントによって、実際の費用の一部を参加者が負担することもあるが、その費用の大半を組織、つまり執行部の学生が何らかの方法であってかき集めなくてはならない。
僕がいたころの韓学同大阪では、民団から月額3万円の定期(傘下団体として認められ、その騰勢を受けるのと引き換えに)補助金と、新入生歓迎会はサマーキャンプ、文化祭などのイベントの際には、その都度、臨時の補助金もしくは、韓学同の指導統制を担当する文教部長などのポケットマネーの名目で若干の補助もあるが、それだけでは到底、足りない。
そこで、カンパ活動が必須で、その対象は大きく二つに分かれた。
一つはOBたちである。しかし、韓学同の実際的な歴史は、1960年の韓国における4・19学生蜂起以降のことであり、僕ら先輩と言ってもたかだか10年間でその後も統一朝鮮新聞系の学生との分裂・争闘などもあって、ただでさえ少ない大学卒業者の中で、自らが韓学同のOBと自覚し、支援する人たちの数などしれたものだった。そのうえ、そのような意識を持つ人たちも学生団体に支援できる金銭的余裕を持っている人は限られている。さらに言えば、大学を卒業するとたちまちのうちに、自分が活動していた学生組織と距離を置くだけでなく、その活動を後悔した挙句に嫌悪するようになった人も少なからずいた。結局、カンパを気持ちよくしてくれるOBの数は、二けたに届かなかった。
もう一つのスポンサー候補は、民団の中で学生にシンパシーを持ち、その活動に理解を示す企業人だが、その数も金額も大したことはなかった。しかも、訪問時には服装や礼儀に気をつけねばならないし、学生組織に対するアドバイスと言う名の説教なども慎んで拝聴しなくてはならない。すごく大きなビルを持ち、そこで諸種の事業を展開していそうなのに、少額の領収書を傘下の2つの会社名で書くように言われて、殺伐とした気持ちになったりもした。
そのような限られた財政状況でもともかく活動できたことが、今から考えると不思議なくらいである。しかし、事務所を民団から無償で貸与されていたことはやはり大きかったし、1970年頃からは朝鮮奨学会関西支部の隣室に新設された図書室を、これまた無償で使用させてもらえたこと、さらには、学生個々人対する返還義務のない奨学金の支給がやはり大きな助けになった。
僕は大学一年時に月額4千円で始まり、4年生時には6千円ほど支給されていたが、そのすべてを韓学同の活動費、但し、オルグや研究会後の二次会の飲み食いの費用として使っていた。韓学同の活動家の少なからずが受給していた。
朝鮮奨学会の韓学同への支援・協力は、関西支部長の積極的な姿勢が決定的だったし、そうした人物の支援も受けて、奨学会の理事や職員に韓学同と韓青同の経験者が増えるにつれて、さらに手厚いものになった。
韓学同中央の委員長や民団や韓青同で活躍した人物が奨学会の理事になったし、その人をロールモデルとする人が、奨学会の東京や関西支部で職員や役員となり、僕ら韓学同大阪の活動に対しても特別な配慮をしてもらえた。
とりわけ僕は、韓学同を終えて後も、関西支部の図書室を自分の勉強部屋のように使わせてもらいながら昼食はもちろん、帰路での一杯などもご馳走になり、一度は職員の方の家に泊めてもらったりまでしながら、奨学会その他の民族組織関連の著名な人士などの裏話も数多く拝聴した。
大学院生時代にも過分な奨学金に加えて、一度は研究奨励金などの名目で臨時の補助金までいただけて、学生結婚をしたばかりの苦学夫婦としてはすごく助かった。
そんな関係の延長上で奨学会から派遣されて、高校奨学生への奨学金支給と課外活動の講師として韓国語講習や在日の渡航史の講演など業務の一部にも、臨時に関わり、報酬をいただいたし、結婚時には支部長に仲礼(人前結婚式における立会人)までしていただいた。
ところが、僕は3年生4年生の頃の韓学同での活動については、あまり記憶がない。民団の役員の恫喝などへの対応その他、民団との関係がすごく難しくなってきたこともある。カンパ活動で、殺伐として気持ちになったと書いたが、実はそれはカンパだけのことではなく、韓学同内部の困難も絡んでいた。内部での意思統一どころか、意志疎通の困難に直面して苦しんだ際の心境が、まさに<殺伐>だった。
今からでも執拗に努めれば、具体的な記憶を思い起こすこともできないわけではなさそうだが、そうしたい気になれない。いろいろな軋轢による別離を当時も、そしてすっかりそんなことを忘れたはずの後になって経験したせいである。
上級生になるにつれ、家庭の事情、学業上の制限、就職など卒業後の進路その他、一緒に活動してきた仲間が次第に距離をとり、ついには関係が断絶したり、そこまでいかなくても殆ど顔を合わせる機会がなくなったりもした。そしてそれにつれて、残された者の負担は大きくなり、孤独感と下級生の、つまりは自分たちがオルグした学生に対する責任感の重圧も募り、ぎりぎりで堪えながら、大学の卒業などとは関係なく、韓学同からの引退の日を首を長くして待つようになり、日々のことなど意識の核になど届かなかったはずである。
そこで、以下では、僕が上級生として活動しながら、韓学同について感じていたことを項目別に記してお茶を濁したい。項目別とは言っても、それらがすべてつながっているはずなのに、その繋がり具合をうまく書けそうにない。だからこそ、とりあえず項目別に試してみる。
例えば、
①韓学同のメンバーシップの曖昧さ。
②様々な思惑を持った学生、或いはグループの草刈り場としての韓学同という僕の感触。
③大学内サークルと学外組織としての韓学同との関係の曖昧さ。大学別の学閥意識、或いは、大学ナショナリズムなどである
先ずは①のメンバーシップの曖昧さなのだが、それが韓学同の長所でもあり短所でもあったので、それについて少し考えてみる。韓学同のメンバーシップとは何だったのか。
民団の傘下団体だった時期には、正式の執行部の役員になると、その名と所属大学などの個人情報のリストが、民団、そしてその傘下団体に公文で周知されるので、そこに掲載される学生に関しては、民団が課す必須の資格条件があったはずである。例えば、韓国籍の大学生、そしてもちろん、民団に親が在籍している。僕自身はその種の規定を読んだことがあるわけでもなくて、あくまで推測に留まるが、その程度の規定、或いは、暗黙の了解が成立していたのではなかろうか。
それと言うのも、僕の2年上で、親が総連組織の忠実なメンバーで、大学内の韓歴研と韓学同大阪でわりと熱心に活動しているように思えた学生は、執行部メンバーには名前がないのに気づいて、そんなことを推測を行ったことがあるからである。正式に公文に掲載される学生に関しては。韓学同でも相当に神経を遣い、必ずしもそのリストが実態を正確に反映していない場合も、なくはなかった。そしてそうした僕の推察が正しければ、少なくとも韓学同大阪地方本部の執行部のメンバーには、メンバーシップがあった。組織としても個人としても韓学同大阪の執行部の一員であり、当然、韓学同のメンバーであることが、公私両面で認知されていた。
しかし、それ以外の一般の学生の場合には、そのようなものなど何一つなく、韓学同のメンバーか否かを決めるのは、もっぱら当人の意識だったということになる。韓学同の活動に参加した経験のある人に、あなたは韓学同の同盟員だったかどうかを聞くと、各人で相当に幅広い回答が返ってくるのではないだろうか。上でも記したように、地方本部の執行部経験者が、同盟員だったことはないなどと答える場合は殆どないだろうが、そうではない学生の場合、当人の認識とその周囲で一緒に活動していた学生の認識が異なることが往々にしてある。
従って、韓学同のメンバーシップというものは、個々人の意識にしかなかった。自分は韓学同のメンバーであるという自覚だけがメンバーシップの必要条件だった。何かのイベントに参加したことがあっても、自分はただ誘われて参加しただけと考える者もいるだろう。それだけに、やがては誘いを受けても参加しなくなっても、手続きなど何もなかった。参加しなければそれで終わりだった。
個人が定期的に会費を払うこともなかったし、経費が必要な催しも大抵、組織が費用を捻出し、そのごく一部を個人が支出するだけの場合が多かった。それは同盟員かどうかとはあまり関係なく、一回限りの参加費という名目だった。
メンバーシップの曖昧性こそが、韓学同の弱みであり、また同時に、強みでもあった。明確な自覚などなくても、いわば<冷やかし>で参加して、その後は何も言わずに消えるのも普通のことだった。
次いでは②の草刈り場としての韓学同である。
メンバーシップの曖昧性の延長で、個人が、或いは、グループが、自分(たち)の仲間を勧誘するために、当人たちは<密かに>のつもりで韓学同組織の中で暗躍するのも実に簡単だった。そんな秘密めかした勧誘活動のせいで、声をかけられた方が怖くなって、韓学同の活動にも突如として参加しなくなり、その後は一切の関係を断つようなことも少なからずあった。
その種の活動は、明らかな分派行動で、一種の組織分断、或いは、破壊工作なのだが、少なくとも僕らが現役時には、影に潜んで目立たないようにしているつもりのようだった。例えば、そのグループが学習会の後に酒でも飲みに出て、ある店に入ろうとして僕の姿を目に止めると、踵を返すようなこともあった。僕は「ああ、やっているなあ、秘密結社ごっこ」と苦笑いしていたのだが、それが後には大変なことになるとまでは、想像できなかった。だから、その活動に介入することは慎んでいたのだが、その結果として二つの事件が生じた。一つは韓国での大事件で、もう一つは、前者とは比べ物にならないほどに些細なことなのだが、僕らの韓学同組織のことである。
但し、前者については、僕が確証を持っているわけではないので、それについて書くのは控えるが、後者に関しては、僕の心象に基づいて、僕が知る限りのことを書いておきたい。
僕がまだ韓学同で現役の頃までは、韓学同の各地方本部の執行部のメンバーにはならないようにしていた彼らが、僕らが卒業後には、各地方本部の執行部のメンバーとして前面に姿を現すようになり、やがては主要な役を占有するようになった。韓学同を実質的に乗っ取ったわけである。少なくとも、僕はそんな印象を持つようになり、それからさらに時を重ねて、その乗っ取りの結果が明々白々に思えるようになってからは、僕は韓学同に対する支援を、精神的にも財政的にも、きっぱりとやめた。
そんな印象とは、次のような事情があってのことだった。僕よりも既に10年以上も後の韓学同大阪の委員長がカンパの要請のために面会を求めてきた。そこで、例年のように多少のポケットマネーを渡すつもりもあって、いろいろと話を交わすうちに、何か変な感じがした。その学生は委員長でありながら、自分たちの活動の財政状況を全く知らなさそうに思えたのである。そこで僕は少し意地が悪いと思いながらも、組織としての財政についての質問をした。すると、「全く知りません。あるグループの方々が考えてやってくれています」と実にあっけらかんと答えたので、呆れかえってしまった。時代は変わった。彼らは彼らなりの活動をすればよくて、それは僕らのそれとは名前は同じでも、全く別の組織である。僕らはいかに拙劣でも、せめて学生団体としての自律性を最後の砦として活動しているつもりだった。それだけにそれとは全く違って、<ひも付き>の学生組織に対して、OBとして支援する必要どころか、資格もないと考えるようになった。
僕はその学生にそのように述べて、その後は一切、彼らからの連絡には対応しないと伝えたので、それ以降には誰からも連絡が来なくなった。
但し、以上のことは僕の韓学同経験が正しくて、それとは違う世代の人々のそれが邪道であるなどという話ではない。韓学同は時代や状況に合わせて変化する柔軟な組織体というのがその本質だと、その経験を通じて、僕はやっと考えられるようになったのだから、かえって感謝すべきと思っている。
そんなわけで、本文で書いていることは、あくまで僕が在籍していたころに僕が経験した韓学同の物語に過ぎない。
(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の30に続く)
第四章
第3節 上級生から見たサークルと学外組織(1)
韓学同の活動(家)の三層構造
僕の頭の中では、韓学同経験は三層で構成される。まずは、在日の新入生としてのイニシエーションである。集団としての同世代の学生集団、もしくは組織によるオルグ活動の成果として、民族主義的目覚めを経験し、それを内面化しようと努力する。
次いでの第二層は、二年生になって新入生に対するオルグを、サークルや組織の一員としての民族的活動家としての自覚を持とうと努力する。こうして、在日のサークルもしくは学外組織の学生活動家が誕生する。以上のことは前回に述べた。
それに続くのが第三層で、それは在日の学外組織の活動家として、親団体である民団や韓青同など関連組織、さらには、留学同その他の外部組織との折衝や競合の活動を経験する。例えば、組織運営の基盤を、人的にそして経済的に固めねばならない。それまでの自己、さらには、新入生の民族的目覚めも促進など、個人の内面に比重を置いた活動よりも、組織活動に比重がかかる。その段階でも内的葛藤は常に付きまとう。
それまでに培ってきた日本人との関係、民族活動を心配・制止する家族との関係、さらには将来的な生き方、例えば、職業選択など、葛藤の種は尽きない。
特に韓学同の執行部の一員にでもなれば、特に地元生まれの自宅通学で、韓学同の地方本部がある地域の民団所属の家庭の子弟の場合は、家庭を通じての民団の統制管理を受けかねない。
民団の傘下団体でありながらも、民団の方針に反旗を翻すことが多い青年学生組織に対する統制管理の手段として最も効果的なのが、地方本部から支部、そして親を通じての青年・学生の活動への干渉である。学生でも下宿生活の学生はそれを免れやすいが、親元で暮らしその府県の大学に通い、その府県の地方本部傘下の韓学同で活動する学生にとっては、大きな障害であり心理的負担になる。ひどい場合には、すべての民族的活動に対する禁止命令が親から下されかねない。エスニックグループは、例え大都市にあっても、村的な相互扶助。相互監視の濃密なコミュニティを構成している。
その他、上級生ともなれば、自らが所属する大学以外の大学の在日学生に対するオルグやサークル活動の支援をすることも多い。
民団はもちろん、関係組織との交渉その他もある。民団の役職者との面談、韓青同との会議、協力体制。その他、競合組織との交渉もある。留学同その他の学生団体との新入生の確保競争、運動の正当性に関する論争などもある。
さらに言えば、非常に柔軟でメンバーシップが不明確な韓学同を草刈り場にするような秘密結社的なものの妨害活動にも対処しなくてはならなかったのだが、これは韓学同の大きな生来のアキレス腱だったので、後に詳論する。
その他、韓学同は財政的な基盤が甚だ弱く、メンバーの会費などはなく、イベントによって、実際の費用の一部を参加者が負担することもあるが、その費用の大半を組織、つまり執行部の学生が何らかの方法であってかき集めなくてはならない。
僕がいたころの韓学同大阪では、民団から月額3万円の定期(傘下団体として認められ、その騰勢を受けるのと引き換えに)補助金と、新入生歓迎会はサマーキャンプ、文化祭などのイベントの際には、その都度、臨時の補助金もしくは、韓学同の指導統制を担当する文教部長などのポケットマネーの名目で若干の補助もあるが、それだけでは到底、足りない。
そこで、カンパ活動が必須で、その対象は大きく二つに分かれた。
一つはOBたちである。しかし、韓学同の実際的な歴史は、1960年の韓国における4・19学生蜂起以降のことであり、僕ら先輩と言ってもたかだか10年間でその後も統一朝鮮新聞系の学生との分裂・争闘などもあって、ただでさえ少ない大学卒業者の中で、自らが韓学同のOBと自覚し、支援する人たちの数などしれたものだった。そのうえ、そのような意識を持つ人たちも学生団体に支援できる金銭的余裕を持っている人は限られている。さらに言えば、大学を卒業するとたちまちのうちに、自分が活動していた学生組織と距離を置くだけでなく、その活動を後悔した挙句に嫌悪するようになった人も少なからずいた。結局、カンパを気持ちよくしてくれるOBの数は、二けたに届かなかった。
もう一つのスポンサー候補は、民団の中で学生にシンパシーを持ち、その活動に理解を示す企業人だが、その数も金額も大したことはなかった。しかも、訪問時には服装や礼儀に気をつけねばならないし、学生組織に対するアドバイスと言う名の説教なども慎んで拝聴しなくてはならない。すごく大きなビルを持ち、そこで諸種の事業を展開していそうなのに、少額の領収書を傘下の2つの会社名で書くように言われて、殺伐とした気持ちになったりもした。
そのような限られた財政状況でもともかく活動できたことが、今から考えると不思議なくらいである。しかし、事務所を民団から無償で貸与されていたことはやはり大きかったし、1970年頃からは朝鮮奨学会関西支部の隣室に新設された図書室を、これまた無償で使用させてもらえたこと、さらには、学生個々人対する返還義務のない奨学金の支給がやはり大きな助けになった。
僕は大学一年時に月額4千円で始まり、4年生時には6千円ほど支給されていたが、そのすべてを韓学同の活動費、但し、オルグや研究会後の二次会の飲み食いの費用として使っていた。韓学同の活動家の少なからずが受給していた。
朝鮮奨学会の韓学同への支援・協力は、関西支部長の積極的な姿勢が決定的だったし、そうした人物の支援も受けて、奨学会の理事や職員に韓学同と韓青同の経験者が増えるにつれて、さらに手厚いものになった。
韓学同中央の委員長や民団や韓青同で活躍した人物が奨学会の理事になったし、その人をロールモデルとする人が、奨学会の東京や関西支部で職員や役員となり、僕ら韓学同大阪の活動に対しても特別な配慮をしてもらえた。
とりわけ僕は、韓学同を終えて後も、関西支部の図書室を自分の勉強部屋のように使わせてもらいながら昼食はもちろん、帰路での一杯などもご馳走になり、一度は職員の方の家に泊めてもらったりまでしながら、奨学会その他の民族組織関連の著名な人士などの裏話も数多く拝聴した。
大学院生時代にも過分な奨学金に加えて、一度は研究奨励金などの名目で臨時の補助金までいただけて、学生結婚をしたばかりの苦学夫婦としてはすごく助かった。
そんな関係の延長上で奨学会から派遣されて、高校奨学生への奨学金支給と課外活動の講師として韓国語講習や在日の渡航史の講演など業務の一部にも、臨時に関わり、報酬をいただいたし、結婚時には支部長に仲礼(人前結婚式における立会人)までしていただいた。
ところが、僕は3年生4年生の頃の韓学同での活動については、あまり記憶がない。民団の役員の恫喝などへの対応その他、民団との関係がすごく難しくなってきたこともある。カンパ活動で、殺伐として気持ちになったと書いたが、実はそれはカンパだけのことではなく、韓学同内部の困難も絡んでいた。内部での意思統一どころか、意志疎通の困難に直面して苦しんだ際の心境が、まさに<殺伐>だった。
今からでも執拗に努めれば、具体的な記憶を思い起こすこともできないわけではなさそうだが、そうしたい気になれない。いろいろな軋轢による別離を当時も、そしてすっかりそんなことを忘れたはずの後になって経験したせいである。
上級生になるにつれ、家庭の事情、学業上の制限、就職など卒業後の進路その他、一緒に活動してきた仲間が次第に距離をとり、ついには関係が断絶したり、そこまでいかなくても殆ど顔を合わせる機会がなくなったりもした。そしてそれにつれて、残された者の負担は大きくなり、孤独感と下級生の、つまりは自分たちがオルグした学生に対する責任感の重圧も募り、ぎりぎりで堪えながら、大学の卒業などとは関係なく、韓学同からの引退の日を首を長くして待つようになり、日々のことなど意識の核になど届かなかったはずである。
そこで、以下では、僕が上級生として活動しながら、韓学同について感じていたことを項目別に記してお茶を濁したい。項目別とは言っても、それらがすべてつながっているはずなのに、その繋がり具合をうまく書けそうにない。だからこそ、とりあえず項目別に試してみる。
例えば、
①韓学同のメンバーシップの曖昧さ。
②様々な思惑を持った学生、或いはグループの草刈り場としての韓学同という僕の感触。
③大学内サークルと学外組織としての韓学同との関係の曖昧さ。大学別の学閥意識、或いは、大学ナショナリズムなどである
先ずは①のメンバーシップの曖昧さなのだが、それが韓学同の長所でもあり短所でもあったので、それについて少し考えてみる。韓学同のメンバーシップとは何だったのか。
民団の傘下団体だった時期には、正式の執行部の役員になると、その名と所属大学などの個人情報のリストが、民団、そしてその傘下団体に公文で周知されるので、そこに掲載される学生に関しては、民団が課す必須の資格条件があったはずである。例えば、韓国籍の大学生、そしてもちろん、民団に親が在籍している。僕自身はその種の規定を読んだことがあるわけでもなくて、あくまで推測に留まるが、その程度の規定、或いは、暗黙の了解が成立していたのではなかろうか。
それと言うのも、僕の2年上で、親が総連組織の忠実なメンバーで、大学内の韓歴研と韓学同大阪でわりと熱心に活動しているように思えた学生は、執行部メンバーには名前がないのに気づいて、そんなことを推測を行ったことがあるからである。正式に公文に掲載される学生に関しては。韓学同でも相当に神経を遣い、必ずしもそのリストが実態を正確に反映していない場合も、なくはなかった。そしてそうした僕の推察が正しければ、少なくとも韓学同大阪地方本部の執行部のメンバーには、メンバーシップがあった。組織としても個人としても韓学同大阪の執行部の一員であり、当然、韓学同のメンバーであることが、公私両面で認知されていた。
しかし、それ以外の一般の学生の場合には、そのようなものなど何一つなく、韓学同のメンバーか否かを決めるのは、もっぱら当人の意識だったということになる。韓学同の活動に参加した経験のある人に、あなたは韓学同の同盟員だったかどうかを聞くと、各人で相当に幅広い回答が返ってくるのではないだろうか。上でも記したように、地方本部の執行部経験者が、同盟員だったことはないなどと答える場合は殆どないだろうが、そうではない学生の場合、当人の認識とその周囲で一緒に活動していた学生の認識が異なることが往々にしてある。
従って、韓学同のメンバーシップというものは、個々人の意識にしかなかった。自分は韓学同のメンバーであるという自覚だけがメンバーシップの必要条件だった。何かのイベントに参加したことがあっても、自分はただ誘われて参加しただけと考える者もいるだろう。それだけに、やがては誘いを受けても参加しなくなっても、手続きなど何もなかった。参加しなければそれで終わりだった。
個人が定期的に会費を払うこともなかったし、経費が必要な催しも大抵、組織が費用を捻出し、そのごく一部を個人が支出するだけの場合が多かった。それは同盟員かどうかとはあまり関係なく、一回限りの参加費という名目だった。
メンバーシップの曖昧性こそが、韓学同の弱みであり、また同時に、強みでもあった。明確な自覚などなくても、いわば<冷やかし>で参加して、その後は何も言わずに消えるのも普通のことだった。
次いでは②の草刈り場としての韓学同である。
メンバーシップの曖昧性の延長で、個人が、或いは、グループが、自分(たち)の仲間を勧誘するために、当人たちは<密かに>のつもりで韓学同組織の中で暗躍するのも実に簡単だった。そんな秘密めかした勧誘活動のせいで、声をかけられた方が怖くなって、韓学同の活動にも突如として参加しなくなり、その後は一切の関係を断つようなことも少なからずあった。
その種の活動は、明らかな分派行動で、一種の組織分断、或いは、破壊工作なのだが、少なくとも僕らが現役時には、影に潜んで目立たないようにしているつもりのようだった。例えば、そのグループが学習会の後に酒でも飲みに出て、ある店に入ろうとして僕の姿を目に止めると、踵を返すようなこともあった。僕は「ああ、やっているなあ、秘密結社ごっこ」と苦笑いしていたのだが、それが後には大変なことになるとまでは、想像できなかった。だから、その活動に介入することは慎んでいたのだが、その結果として二つの事件が生じた。一つは韓国での大事件で、もう一つは、前者とは比べ物にならないほどに些細なことなのだが、僕らの韓学同組織のことである。
但し、前者については、僕が確証を持っているわけではないので、それについて書くのは控えるが、後者に関しては、僕の心象に基づいて、僕が知る限りのことを書いておきたい。
僕がまだ韓学同で現役の頃までは、韓学同の各地方本部の執行部のメンバーにはならないようにしていた彼らが、僕らが卒業後には、各地方本部の執行部のメンバーとして前面に姿を現すようになり、やがては主要な役を占有するようになった。韓学同を実質的に乗っ取ったわけである。少なくとも、僕はそんな印象を持つようになり、それからさらに時を重ねて、その乗っ取りの結果が明々白々に思えるようになってからは、僕は韓学同に対する支援を、精神的にも財政的にも、きっぱりとやめた。
そんな印象とは、次のような事情があってのことだった。僕よりも既に10年以上も後の韓学同大阪の委員長がカンパの要請のために面会を求めてきた。そこで、例年のように多少のポケットマネーを渡すつもりもあって、いろいろと話を交わすうちに、何か変な感じがした。その学生は委員長でありながら、自分たちの活動の財政状況を全く知らなさそうに思えたのである。そこで僕は少し意地が悪いと思いながらも、組織としての財政についての質問をした。すると、「全く知りません。あるグループの方々が考えてやってくれています」と実にあっけらかんと答えたので、呆れかえってしまった。時代は変わった。彼らは彼らなりの活動をすればよくて、それは僕らのそれとは名前は同じでも、全く別の組織である。僕らはいかに拙劣でも、せめて学生団体としての自律性を最後の砦として活動しているつもりだった。それだけにそれとは全く違って、<ひも付き>の学生組織に対して、OBとして支援する必要どころか、資格もないと考えるようになった。
僕はその学生にそのように述べて、その後は一切、彼らからの連絡には対応しないと伝えたので、それ以降には誰からも連絡が来なくなった。
但し、以上のことは僕の韓学同経験が正しくて、それとは違う世代の人々のそれが邪道であるなどという話ではない。韓学同は時代や状況に合わせて変化する柔軟な組織体というのがその本質だと、その経験を通じて、僕はやっと考えられるようになったのだから、かえって感謝すべきと思っている。
そんなわけで、本文で書いていることは、あくまで僕が在籍していたころに僕が経験した韓学同の物語に過ぎない。
(ある在日の青春―1970年前後の大阪における在日韓国学生同盟の物語―の30に続く)