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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

折々のメモ37の2―75歳で再びの手習いー」

2025-08-08 19:51:02 | 折々のメモ
折々のメモ37の2―75歳で再びの手習いー」

5.サイクリング絡みで果たせなかったその他の夢
 サイクリングに関してさらに言うならば、僕らのグループと一緒に済州その他を走った神戸のHさんが、やがては僕ら以上にサイクリングにはまった挙句に、韓国のサイクリングマップを入手してくださった。
 そこで韓国全土のサイクリングの夢まで紡ぐようになった。そしてその一環として、済州島に次ぐ韓国第二の島である巨済島一周サイクリングを僕らサイクリング仲間に加えて、僕の韓国在住の従兄の長男で、巨済島にあった海洋関係の研究機関で勤務する甥のサポートも受けて、ついには実現した。その成功に味をしめて、広大な漢江流域、さらには、釜山から東海沿岸を江原道まで南北を、今度は束草からソウルへ東西に上がるなど、果てしないサイクリングの夢を紡いだが、それはまさしく夢で終わった。既に述べたことだが、腰痛を抱えた僕にはとうてい無理な話だった。
 しかし、その代わりに山歩きを含めたウォーキングが僕の最も近しい友になったし、2年前に亡くなった塚崎昌之さんの資料に導かれた「在阪朝鮮人の歴史を歩く」というフィールドワークを次々に企画するなど、ひとりで歩くだけでなく、人とともに歩きながら学ぶことが、僕の心身を支えてくれる貴重な友となったし、今後もそれが続くことを僕は祈っている。
 山中を歩きながら、誰にも迷惑にならないように、音痴でも堂々と楽しくシャンソンも歌いたい。昨年に亡くなった韓国の金眠基さんの歌も呟くような歌も歌いたい。自分の気持ちを歌にのせて、もっともっと解放を目指して生きていきたいものである。

6.中学二年で始まったギターを弾く夢
 その一環として、僕は半世紀以上も昔の夢の再開を試している。2か月前からギターのレッスンを月に2回、受けるようになったのだが、僕とギターの馴れ初めは、今から60年近くも前の、中学二年に遡る。両親と親しい在日のお金持ちの奥さんに頼まれて、その末っ子の家庭教師をして稼いだお金で、僕は憧れのギターを購入した。
 当時、人気を博していた歌手の佐良直美が歌って大流行していた「世界は二人のために」を、もっぱら教本を頼りに我流ながらも、弾き語りに挑戦するなどして遊んでいた。
 やっとそれができるようになった頃には熱も冷めるし、それ以上にはなかなか進歩しないので、すっかりうんざりしてしまった。そのあげくには、ギターがどこに行ってしまったのかもわからなくなった。
 そして、ギターに申し訳ない想いとギターと歌に対する苦手意識だけが、重く僕に残った。
 それから半世紀が経った10年ほど前には、人生をなんとか変えてみたくなって、それまでに果たせなかった夢に再挑戦を試みた。
 韓国の楽器であるチャンゴの集団レッスンを何度か受けた。しかし、チャンゴを購入するまでには至らず、家で楽器を練習するわけにもいかないので、ついには断念した。
 そこで、楽器がなくてもできるだろうからと、パンソリ教室にも3か月くらいは通った。しかし、その当時には仕事を続けていたので練習する時間もとれず、音痴という自覚がひどくなるだけだった。そして折しも、レッスンの日時が僕のスケジュールと合わなくなったので、残念に思いながらも断念した。

7.半世紀もの因縁がある初のギターレッスンー75歳の手習いー
 それから数年後には、たまたま商店街で見かけた楽器店で、中古ギターの値段を見て意外に安価だったので、その程度の値段なら、またもや断念しても大した出費にはならないからと購入した。  
 そして、またしても教本やDVDを参考に自室で練習を始めた。ところが、音楽をはじめとして芸術一般にはめっぽう厳しい妻が、僕の中途半端なやり方に苛つくようになったのを見て、とうてい抵抗できずに断念した。
 そもそも、久しぶりのギターのはずなのに、初心者以上にひどい自分のギターの技術に呆れ果てていたので、辞める頃合いだったのだろう。
 その後もいつかは再開と、内心でその機会を探っていたところ、家から徒歩で通える個人レッスンが、すごく安価であるというチラシを見て、これが最後の機会と覚悟して、始めることにした。
それから2か月が過ぎた。つまりレッスンを見学も含めて5回も受けるうちに、最初の当惑も徐々に消え、指の痛みにも慣れた。指の痛みが老化防止にもなりそうだし、何とか続けられそうな気になってきた。
 今回こそ本当に最後のチャンスだからと、自室で最低でも一日に30分の練習を課した。月にたった2回でも、対面で習うと緊張感がすごく、次回のレッスンまでに練習しないわけにはいかない。そんな拘束もあってなんとか続いている。それに対面の個人レッスンなので、たった数か月で逃げるなんて、この歳になって格好が悪すぎるという老人の体面もなくはない。
 一年間だけ続ければ、曲を一つくらいは弾けるようになると言われ、それで十分だから高望みしないように気を付けている。心身の調子がよほどにひどくなければ、なんとか続きそうである。
 ギターを買った人の9割が続かないと言われると、僕だけがダメなわけではないと安心もする。  
 この先には「書き魔」の僕でも文章を書けなくなる兆候もあるので、それを好機に、今までの生活から脱皮して、少しは楽しく暮らすためにも、数十年ぶりのギターへの挑戦を続けたい。
 うまくならなくても、せめてギターに対する申し訳なさ、自分に対する恥ずかしさがなくなれば十分である。そんな実にささやかな夢を少しでも叶えることができれば、一度は放棄したチャンゴやパンソリに再挑戦したり、他の歌、例えば、妻を真似て、フランス語でシャンソンを歌うレッスンも、費用との相談(個人レッスンでは、僕のギターの個人レッスンの最低でも2倍の費用がかかりそう)で、僕の歌のレッスンにはそんな価値がないからと諦めるつもりで、それなら集団レッスンの形でも良いかと思っている。

 音痴だって構わないと居直って、何よりも「自分の声」を出すことさえできれば、上出来である。人に聞いてもらう為に歌うのではない。今後さらに歳をとって、誰からも相手をされなくなっても、声を出す機会を確保できればいい。たとえ聞いてくれる人などなくても、聞いている人を自分の内部に仮想して歌う。
 その意味では書くことも同じである。書き魔の僕でも、自分の内部に読者を想定してこそ書ける。それができない文章は、書いている本人でも読める代物にならない。
 だからこそ、自分の内部だけに向かって、自分を拘束するものではなく、むしろ自分を解放する方向で、つまり、自分の何もかもを許す方向で、のんびり続けることさえできれば、それで十分である。
 そんな取り組み方は、妻の音楽その他への取り組み方を日々、見たり聞いたりするうちに、伝わってきたものである。一緒に暮らす連れ合いの存在はありがたいものである。
 見果てぬ夢や捨てた夢をこの先に思い出すのも、余生の大きな楽しみになりそうである。これまで何を夢見て生きてきたのか。沢山、夢見ながら、捨てたり、忘れたりしながら生きてきた。達成なんかしなくても、それはそれで十分で、何ひとつ悪いことではない。それもまた自分の人生の一部である。そんな自分を再想起して、そこに秘められていた何かを、改めて生きるつもりで楽しみたい。
 僕が今からすることの何もかもが、中途半端で、偽物であったって全く気にしない。そもそも、僕がすることに偽物も本物もない。僕が何らかの必然があって、或いは、まったく偶然に、そんなことをしたと言うに過ぎない。
 因みに、妻によると、東京在住の長女もギターのレッスンを受け始めたらしい。彼女は中学ではブラスバンドでパーカッション奏者だったし、幼い頃からピアノも習っていたし、大人になってからは、チャンゴも奏していた。住まいには電子ピアノを置いて、音を出さないで、イヤホンで聞きながら演奏を楽しんだりもしてきた。ところが、最近になって、もっと気軽に楽しめそうだからと、ギターを習い始めたらしい。偶然だが、僕とほぼ同じ時期と言う。
 しかし、賃貸マンションの自宅では楽器演奏は禁止なので、家では練習はできないが、幸いにも勤務先では、休憩や仮眠もできるフリースぺースがあって、そこでなら周囲の迷惑にならなければ、ギターの練習も可能らしく、そこで間に合わせるつもりという。
 とりわけ、朝早く出勤して、ギターで遊んでから、仕事を始めても構わないらしい。今時の会社で、すごく自由な勤務形態が許されている。
 それはそうと、ギターをほぼ同時に始めた父娘のどちらが長く続くか、僕としては面白いが、傍から見れば、なんとも低レベルの話だろうと思うと、笑ってしまう。
 忘れてしまった夢の発掘作業は今後も折に触れてしながら、楽しむつもりなのだが、手習い関連の話は、今回でひとまず終えたい。
 人生最後の書物のつもりの草稿の推敲が一段落して、少しは解放感もあって悪くない。いつも、相手になってくれる奇特な皆さんに、深く頭を垂れて、感謝します。(完)

折々のメモ37の1―サイクリングから山歩きへー

2025-08-08 11:07:59 | 折々のメモ
折々のメモ37の1―サイクリングから山歩きへー

1. 人生の折々の夢―アイルランドでのサイクリング旅行―
 人生の折々に、ささやかな目標、或いは、夢を描いて、とりあえずはそれを実現する計画を練ったり、その実現を自分に課したりしながら、それも糧にして生きてきた。しかし、もちろん、まったく実現しないどころか、すっかり忘れてしまったものも数えきれなくある。
 例えば、僕は60歳までには、アイルランド全国のサイクリング旅行を敢行すると、自分に誓ったことがある。50歳代の半ばに、60歳になったらすべての仕事を辞めるなど、あらゆる拘束から解放されることを夢見ており、それとセットにして思い描いたのだろう。それを目標にして、それまでに引き続くハードワークに耐えようと自分に言い聞かしたわけである。つまり、決定的な前提条件としての経済的な、そして時間の余裕が必須の夢だった。ところが、実際には仕事からの解放など夢の夢、しかも、60歳を目前にしての、体調の極度な不調のせいで、仕事を半減せざるを得なくなりながらも、生計を維持するには細々でも働き続けねばならなかった。それだけに、いわば余裕の産物である夢の実現などできるはずがなかった。
 しかも、50歳代の10年間に、僕の心身を支えてくれたサイクリングも、腰痛が深刻化したあげくに、60歳を最後に断念を余儀なくされた。それどころか、自転車に乗らなくると、愛車であるスポーツサイクル(フランス語を教えていた学生が僕のために特別に作ってくれて、10万円と破格の安値で僕に譲渡してくれたロードレーサー)で、ロードに出ること自体に対する恐怖心が募って、その愛車もすっかり宝の持ち腐れになってしまった。
 そもそも、生計と労働に関しても、それから10年以上も経った73歳になってようやく、大学の日雇い稼業から解放(あるいは追放)されたにすぎず、それでも家庭事情もあって、日々の労働から解放された悠長な人生など、僕には許されなかった。
 例えば、もうすぐ75歳を迎える現在でも、亡き両親が遺した土地建物の管理などに関して事業者登録をして、多様で頭の痛くなる雑務から解放されていない。だから、勝手気ままにどこにでも出かけて、長期にわたって家を留守にするなんて、夢の夢という状況には何ら変わりがない。
 でも、さすがに、この歳まであくせく働いてきた成果として、老後の生計の見通しくらいはつくようになったので、なんともありがたいことである。それでも悠々自適とは程遠い。
 半世紀にわたるフリーランサー稼業で、老後の生計が立つようには、この社会はできていない。年金から後期高齢者保険料を天引きされた残額を見ると、年金というのは、国が天引きで保険料を回収するために設定されたものではと、ついつい疑心を抱いたりするほどである。しかし、それでもないよりはましと、否定的な側面ばかりに目を向けて、この世を恨まないように努めている。生きる気力をなくさないために、僕にでも可能な唯一の知恵がそれなのである。要するに、根拠のない楽観!
 そんな僕だから、長期にわたって、気ままにアイルランドの荒野を彷徨するなんて、できるわけがなかったし、これからも命ある限り、ないだろう。
 しかし、いくら馬鹿げた夢想でも、それを夢見るようになったのはどういう経緯だったのかと、自分の過去の思いつきの由来を思い返してみると、実現にはいたらなかったささやかな夢も、その後にずいぶんと縮小されたり、すっかり形を変えても、しつこくその実現に向けて努めてきたからこそ、いくら貧相であっても、現在の僕がある。そのことに気付いて嬉しくなったりもする。

2.自転車から山歩きへ
 先にも述べたように、50歳代の僕は自転車のおかげで、中年の危機を凌ぐことができたというのが実感である。例えば、50歳から10年間、毎年一回、都合10回も敢行した済州一周サイクリングを最大のイベントとして、その他、琵琶湖一周、淡路島一周、しまなみ海道、木津川、桂川、淀川の三川合流を中心にした河川敷サイクリングその他のツーリング、さらには、交通費の節約と体力の鍛錬の為の、長距離自転車通勤などが50歳代の僕の、文字通りに心身の崩壊を防いでくれた。
 中でも済州一周サイクリングは、毎回、友人知人たちと一緒に、夢のような二泊三日を過ごして、命の洗濯ができた。それを一度でも経験すると、サイクリングにはまりこむ人が、僕の弟たちを筆頭に、少なくなかった。
 ちょうどそんな頃に、テレビで若いフランス人夫婦が、夏の長期休暇にアイルランドの荒野を一か月もかけて、ひたすら気持ちの向くままに過ごす様子を見かけ、いつかそれを真似ることが、僕の日常を支える夢となった。但し、それをあまり遠くの未来に設定するわけにはいかない。残された体力なども考えると、60歳までと、とりあえず時限を設定したのだった。
 そんな夢も結局は数多くのはかない夢のひとつとして終わったが、それにはれっきとした理由があった。それも、10年にわたる済州一周サイクリングの断念を余儀なくさせたのとまったく同じ理由だった。
 50歳代の半ばあたりから、急速に腰痛が深刻化して、長距離のサイクリングなど無理になった。当然、一か月を超えるアイルランドの自由なサイクリングの旅など、ありえない。
 ところが、その代わりというわけでもないのだが、ひょんなことから、山歩きその他のウォーキングを始めて、現在に至る。60歳以降の僕の人生からウォーキングを除外したら、書き魔と酒と駄弁以外には、何も残らない。ウォーキングが僕の命が果てるまで、僕を捨てずに、親切で忠実な友となることを、ひたすら祈っている。

3.夢の数珠繋ぎ
 一時は僕の命綱など大げさに思っていたサイクリングなのに、腰痛のせいで、それとどのように付き合うか大いに迷っていた頃、僕はソウルへ出張することになり、その際に、サイクリングとの関係で相反する二つの、僕にしては大きな買い物をした。その買い物のことを思いだすと、当時の僕が自転車に関しての岐路に立っていたことを、今さらながらに痛感する。
 そのソウル出張の際にソウルの知人が予約してくれたのが、東大門歴史文化公園駅の近くで、ソウル第一号店を開業したばかりの東横インだった。開店割引があるからと知人が予約してくれたのだが、そこはたまたま、僕が高校三年夏に一か月近くも、韓国の高校チームとの親善試合をした東大門運動場という、当時の韓国のスポーツのメッカだったこともあって、僕にはすごく懐かしいところだった。そんなノスタルジーなども絡んで、何か記念になることをしたくなって、東大門市場のお洒落なショッピングセンターに向かった。そして、スポーツウエア専門店で、サイクリング関連と、トレッキング関連の二種類の買い物をした。
 サイクリングウエーは上下お揃いで、黒と赤の防寒用のものを買ったのだが、その色合いも僕にしては変な感じだったし、サイクリングができなくなった僕がどうして、そんなものを買ったのか、自分でも不思議だった。そこであえてそんなものを買った理由を考えてみると、サイクリングに対する未練、或いは、サイクリングへの別れの記念のつもりだったのだろう。
 他方、トレッキング関連のウエアとシューズは、今や若者では知らない人がいそうにないブランドの「ノースアンドノース」の商品で、ブランドものなど買い慣れない僕としては、破格に高価な買い物だった。しかも、僕が入った店にあった最高級のものを選りすぐり、帰路に空港で免税手続きをすれば税金の返金があるとのことだったのに、面倒だからとそれも怠るなど、ケチな僕にはまったく似合わないことをしながら、その買い物に満足していた。
 それから既に15年になるが、その間には、トレッキングシューズもジャンパーも随分と重宝してきた。黄色と緑の鮮やかな色合いが、今でも殆ど色褪せしていないこともあって、アウトドアの際には手放せない愛用品である。それを着用するたびに、高級品はさすがに違うと喜ぶくらいだから、僕はまさに他愛ない老人なのである。
 それはともかく、ケチな僕にしては珍しく張り込んだのは、サイクリングへの別れと山歩きを始めるといった、新たな人生への旅立ちの記念などと意気込んでいたからだろう。
 色合いについては、一人の山歩きで道に迷ったり滑落したりした場合にも助かるように、出来るだけ目立つようにとの配慮であり、妻も珍しくその選択を誉めてくれた。買い物下手と僕を馬鹿にする妻が珍しく褒めてくれたのだから、僕としては珍しい大正解だった。

4.ソウルの岩山の一人歩き―雪をかぶった北漢山での初体験―
 そして、その翌日の予定がキャンセルになったのをこれ幸いと、そのウエアとシューズでしっかり身を固めて、ソウルのシンボルである北漢山に登った。在日の小説家である故李良枝が芥川賞を受賞した『由熙』で、在日の主人公にとってのソウルの文化のシンボルとして描いた峻厳な岩山である。ソウルの街から北を見て、ビルに邪魔をされなければ、その印象的な姿がいつでも見えて、何かしら厳粛な気分になったりする。
 景福宮の近くの韓屋旅館で泊まっていたので、そこから地下鉄で登山口に近い駅まで行って、そこから登りはじめた。ところが、僕にはそのあたりの地理をはじめとする基本的な情報もないままだったので、ともかく登山客たちの後を追えばなんとかなるものと、懸命に歩いた。そして、ある程度までの高度に達したあたりで、僕の考えの甘さを痛感する羽目になった。
 岩山で、しかもソウルの2月である。登るにつれて随所に積雪が目立ち、とりわけ、むき出しの岩山に積雪となれば、見るからに怖い。ロープが張り巡らしてある地域なら、懸命にそれにしがみつけば、なんとかなるが、そのロープがないところでは、どうしようもない。
 中年女性の集団がそのリーダーらしい中年男性に対して、集団で泣き叫ぶ現場に出くわした。その様子からすれば、「どうしてこんな危ないところに自分たちをつれてきたのか」と抗議している様子で、現に雪が深く積もった岩場の途中で、すっかり立ち往生していた。
 それを見た僕も、すっかり恐怖に襲われた。なんとかして雪が見える岩場を避けて、森林地帯の小道をたどりながら下山を目指した。しかし、土地勘もない冬場の山に、一人で入り込んだ浅はかさを後悔しながら下山を急いだ。そしてようやく、谷間を見下ろすログハウス仕立ての茶店を見つけた。そこで生マッコリをチジミを肴に飲んだ時には、生きかえった気がして、後悔の半分は消えた。
 生マッコリの味を堪能できたし、山歩きを甘く見てはならないと自分に言い聞かせる好機にもなったから、むしろラッキーだった。
 山歩きはそれから現在までの約15年間、僕の生活になくてはならないものになったが、それも突き詰めて考えれば、サイクリングが導いてくれたものである。その数珠つなぎのような縁に、感謝しないわけにはいかない。
(「折々のメモ37の2―75歳の再びの手習いー」に続く)

折々のメモ36-3:夏のプレゼントージイジ稼業のこぼれ話―

2025-08-05 17:45:35 | 折々のメモ
折々のメモ36-3:夏のプレゼントージイジ稼業のこぼれ話―

6.孫たちと海に入る
 海水浴も昔とはすっかり変わった。「芋の子を洗うほど」と形容されたかつてのビーチの混雑は、少なくとも今の須磨にはない。しかも、その海水浴場も行政や漁協や警察などによって、見事なまでに整備されている。水難事故が起こらないように、砂を大量に敷いて、ずいぶんと遠浅の海水浴場に仕立てあげられた地域だけが、海水浴場として指定され、救命チームによって守られている。
 それ以外の、立派な海水浴場のよウに見えても、指定されていない海域での遊泳者には、直ちに場所を変えるようにと、注意・勧告が繰り返される。よほどに頑固な人でないと、そこで踏ん張っておれない。
 その他、飲酒、喫煙なども厳しく禁じられている。したがって、昔と比べれば、はるかに安全なはずである。
 それでも、海はさすがに生き物で、怖い。プールとは全く異なる。視界が全く異なることもあるだろう。大海に一人という気持ちになる。海底には石や貝殻が転がっているから、いとも容易に足裏などにケガをする。現に今回、孫娘は海底の石で足の裏を切って血を流した。孫娘は痛みよりも、その血を見たとたんに、痛みが増したように顔をゆがめた。
 前日に風と波が激しかったらワカメばかりの海となる。そんな海に入ると、大ワカメに覆われた体の自由が利かないような気になる。
 ところが、そんな生き物の海だからこそ、人を誘う。海はプールとは違って、泳ぐ場所ではないのではないか。遊び、命を感じるところである。いかに「ちゃちな海」のように見えても、大海につながる自然の一部であり、自然が猛威を振るう可能性があるところであり、その危険が人を誘う。
 風が吹き、波が大きくなると、僕らの恐怖心と冒険心といった正反対、或いは、表裏一体の気持ちを同時に両方向から刺激する。その意味ではチビ助どももジイジイも同じである。
 波乗り遊びの誘惑が高じ、チビ助どもは怖いから、ジイジイにしがみつく。全身と四肢をジイジイの身体と四肢に絡める。二人同時にそうされると、ジイジイの身体の自由はまったく利かなくなり、恐怖に襲われる。わが身の危険に対する恐怖だけではない。孫に何か起こっても何もできなくなるといった責任の絡んだ恐怖である。
 そんな時に大波をかぶると、チビ助どもはパニックになり、ジイジイもまたそうである。必死になって、浜辺に逃げる。
 そもそもこのジイジイは今や、海なら一気には20メートルも泳げない身である。プールならその倍くらいは泳げても、海では無理である。
 いくら遠浅の海であっても、僕のように軟弱なジイジイと遊びに熱中するうちに、孫の一人が溺れでもしたら、助けるなんてできるわけがない。その上、孫の両方がパニック状態になって僕にしがみつきでもしたら、まったく対応できなくなる。
 しかし、だからこそ老人の生命力が試されているような気になり、挑戦的な気持ちにもなる。今度こそはと、ついつい本気になって、海ではなく、チビ達を叱咤激励する。
 チビ達も怖がりながらも、ジイジイの挑発に本気で怒ったり、涙ぐんだりしながら、改めて挑戦してくる。こちらも負けるわけにはいかないと老体に鞭打つ。
 そんなことをしているうちに、生きているってこんなことだったのかと、すっかり忘れていた生の感覚、失ってしまった野性の欠片が蘇って返ってくるような感じまでする。ありがたいことである。
 繰り返すが、プールとは全く違う。プールなら、今の僕でもある程度は泳げる。のんびり息を継ぎながら泳ぎを楽しめる。ところが、海、それも孫たち相手で海に入ると、その幼い命と僕の命がかかっているという緊張感がある。体力がなくなっただけ、そうした緊張や恐怖が相当なものである。
 そう、緊張、無力、恐怖といった点で、僕は孫たちの同類であり、仲間である。同じ範疇の弱い生き物なのである。表向きは保護者のつもりでも、僕は内心、自分自身の無力感と怯えを抱え持った、孫たちの仲間である。それでいて、幼児のように怯えを表に出すわけにはいかず、泣き叫んだり、逃げたりはできないが、その代わりに、虚勢を張って、チビ達を煽り、けしかける。そうすることで、自分の恐怖と闘う。
 孫相手の海遊びは、遊びと老人の余裕という仮面をかぶったサバイバルゲームなのである。そんなジイジイにとって、最も危険なのは、チビすけたちの命がかかったパニックとジイジイの体力に対する過信であり、ジイジイの、ついつい我を忘れた無理なのである。ほどほどにしなくてはらならないし、翌年に向けて、改めて、基礎体力の養成に励まねばなるまい。
 暑すぎて、早朝の散歩もストレッチも一か月以上もご無沙汰のジイジイの先が危ぶまれる。先日、妻に付き添っての病院通いで、たまたま計った体重が52キログラムを切れていた。小学生だった時、つまり65年ぶりのことである。心して心身の健康の回復に努めなくてはならない。
 大事なことを忘れていたので、付記しないと、この文章の僕にとっての価値が半減しかねない。もう少しだけお付き合いのほどを。
 僕は長年、三文教師として辛うじて生計を立ててきたが、その他にも何かと人に教える立場になって、ひどい教師根性がすっかり身について、周囲の人に嫌がられたりもする。しかし、今回は教えることの楽しさと難しさを、今さらながらに思い知ったので、それについて少々。
 僕が人に何かを教える時に最も強調することは力を抜くことで、しかし、教える相手に力を抜かせるには、その相手からの一定の信頼を勝ち得ないといけない。勉強でも運動でもそれは変わらない。或いは、仕事でも家事でも同じと僕は考えているけど、相手の信頼を勝ち得ることがどれほど難しいか。その前提が成立しないと、相手はリラックスなんてするわけがない。
 海でチビ助を教えているうちに、そのことを改めて思い知った。孫娘は既に9歳だし、物わかりの良い子で、僕にも何かと気を遣うことができる。それが申し訳なく、もっと自分勝手に生きて欲しいと思いながらも、ともかく、僕をある程度は信頼してくれているので、海面で浮くための脱力を教えると、すぐさま自分のものにして、見事に浮いて見せてくれる。海に入るたびにその上達度を確認し、誇らしくしてくれる。教え甲斐があって、嬉しくなる。
 ところが、まだ4歳になったばかりの孫息子は怖さが先立ち、男の子だからと僕が少し厳しく対するから、僕を少し警戒しているからか、僕に対する信頼なんかあるはずもなく、自分の安全のために、僕にしがみつくことが何よりも優先する。当然、力を抜くなんてできるわけがない。
 毎回、信頼感を少しづつ獲得する工夫が必要だったのに、それをおろそかにしたから、脱力を教えることができなかったと最後になってようやく、教師失格を痛感した。それでもその教訓を今後に活かそうと、心を新たにするなど、懲りない老人でした。というわけで、来年の夏に再挑戦のつもりだが、果たして・・・
(折々のメモ36-3:夏のプレゼントージイジ稼業のこぼれ話―完了)

折々のメモ36-2:夏のプレゼントージイジ稼業のこぼれ話―

2025-08-04 09:06:22 | 折々のメモ
折々のメモ36-2:夏のプレゼントージイジ稼業のこぼれ話―

3.次女一行の日本、とりわけ神戸滞在の変化
 シカゴ在住の次女たちの毎年恒例の、夏の神戸滞在の話だった。
 その間ずっと、次女は会社から休暇を取れているわけではない。半分の2週間は毎朝早くから、リモートで勤務している。
 やがて目を覚ました子どもたちは、母親が用意した朝食を食べ、アイパッドなどでユーチューブを見ながら、母親の邪魔にならないように時間を過ごす。
 しかし、その勤務は早朝の4時前から8時間後の昼の12時には終わるので、子どもたちもようやく母親と存分に遊べる。
 例えば、母親が日本で暮らしていた時代(主に高校や大学時代)の友人たち、或いはアメリカで知り合って後に日本に戻った知人たちと再会して旧交を温める際にも同行して、外食なども楽しむ。
 
 ところで、この4年間で、彼女たちの滞在の形が徐々に変化してきた。大きく二つ。一つは滞在拠点の変化、もう一つは孫たちの滞在中の教育その他の異文化体験において、目立って変化があった。
 当初は、神戸塩屋のわが家を拠点にしての滞在で、まさしく帰省だった。ところが、その形では何かと不都合が生じたので、その後はわが家とは別個に長期滞在型の民宿を確保して、そこを拠点にしながら、わが家で泊まったり、食事に来たり、逆に僕ら老夫婦がその民宿を訪問して、一緒に外食したり買い物をしたり、海辺で遊んだり、神戸ハーバーランドの、世界の子どもたちの聖地として人気を博すアンパンマンミュージアムで遊んだりするようになった。
 要するに、互いの生活を浸食しないで、親・子・孫の間でもプライバシーを尊重するようになった。
 僕らには娘も孫も大事だし、一緒にいると楽しい。しかし、それ以上に大事なのは、自分たちの安定した日常である。それが崩れると心身のバランスを失し、そのあげくには相互の関係がおかしくなる。
 そんな現実を痛感したあげくに、次女たちの滞在の形が今のように変わった。
 因みに、次女に民宿の確保の方法を尋ねたところ、短期でも長期でも、そして宿泊者の数にあった広さ、目的や用途にあったロケーションその他の条件で適当な場所を、「airbnb」というサイトを通じて確保すると言う。
 早速そのサイトにアクセスしてみたところ、3~4名の3週間くらいの場合、相当な費用がかかりそうで、毎年、フライト代金と宿泊料金など、相当な経費を支出しながらも、老いた僕らを訪ねてくれているのかと、申し訳なくなった。
 その民宿も、最初は元町の商店街の外れのマンションの2DKだった。商店も近く、外食にも便利だし、アクセスは完璧だが、難点をあげれば、自然がまったくない。部屋も暗くて、窓から見えるのは家と通りだけだった。
 その翌年は、須磨ビーチに面したメゾネットタイプの2LDKに変えて、窓からはビーチも海も一望できる。しかも、須磨駅から徒歩で2分、商店街も近くて買い物にも便利、食堂などもいろいろとある。それ何より、部屋を出るとすぐにビーチなので、水着のままで外に出て、海水浴ができる。帰ってきたら、そのまま一階のバスでシャワー、その入り口には洗濯機も設置してある。
 因みに、その施設は端から、そうした一時滞在の客を目当てに建てられており、その一棟から数棟を個人や会社が投資物件として確保して、副業のようにして民宿業を営んでいる人が相当数いるらしい。
 今年も次女たちは昨年と同じ建物を確保したが、今年は生憎と、途中で同じ建物の別棟に移動しなくてはならなかった。それぞれの部屋のオーナーが別人で、サービスのレベルや料金も差異があるとのことだった。
 もう一つの変化は孫たちの滞在の形も変化している。ずっと母親と一緒に滞在するのではなく、その間に日本の保育・教育施設に10日ほど通うようになった。
 わが家を拠点にしていた時には、わが家の近くのキッズランドだった。わが家が位置するジェームズ山には、「外国人居住地」と名付けられた広大な住宅地域がある。外国人だけがそれぞれに広く海が一望できる一軒家の洋館で暮らし、周囲はフェンスや林や監視カメラで厳重に守られているが、その中には幼児教育施設も併設してあり、次女はアメリカからメールで予め何度も問い合わせて、子供二人を一時的に(二週間足らず)通わせる約束を取り付けていた。
 そこで、わが家からその保育施設まで、ジイジイはその送り迎えの一部を担当した。最初の頃は、下のチビがそこに預けられるのを拒んで泣き叫ぶので苦労したが、その姉の慰めなども効果を発して、それなりに楽しい時間を過ごしていたらしい。
 保母さんたちには西洋人も日本人もいて、英語も日本語も通じる。わがチビたちと同じように、夏だけ一時的に通う子供が他にもいるらしく、わが家の次女のように日本で生まれ育ち、アメリカで所帯を構えている日本人が帰省がてら、子どもに日本の教育を経験させているらしい。
 次女がそんなことを思い立ったのも、そうした在米日本人その他のネットワークの情報などの影響も受けてのことかもしれない。或いは、在日三世としてアメリカで孤独?に、おそらくは終生暮らすことになる者としての、ルーツの確認、或いは、子どもたちへの自分の生き方の伝承の希望もあってのことなのかもしれない。
 今年はさらにそのスタイルが進化して、上の娘は日本の公立小学校の授業に、息子は地域の私立幼稚園に10日ほど通わせた。因みに、日本の公立学校で使う教科書は、孫娘がアメリカの週末の日本語学校で用いる教科書と重なっているものが多いらしく、違和感はないらしい。しかも、さすがに子どもたちはすぐに仲良くなる。
 そのように子どもにほんの一時的にでも、日本の教育を受けさせることについては、夫婦間では意見が一致しているらしいが、次女とその母親(僕の妻)とは考えが異なるらしいが、その話は僕が正確に把握しているわけではないので、立ち入らないでおく。
 ともかく、僕の娘がアメリカで暮らすようになり、さらには在米二世のアメリカ人と結婚して、ふたりの間に生まれた孫たちが、三つのエスニシティの関係をどのようにして生きていくのか、思ってもいなかった事態に、僕は距離を置いてひたすら見ることくらいしかできないが、それでも学ぶことが多い。有難いことである。

4.ジイジイの奮闘のつもりだったが・・・
 次女たちが須磨ビーチに面した民宿で滞在するようになると、孫たちと海水浴を楽しもうと、ジイジイは大いに張り切ったが、実際にはそうはいかなかった。
 昨年は彼らの到着の寸前に左ひざを痛めてしまい、片足を引きづってようやく歩ける状態で、そのチビ二人の安全を守りながら、一緒に遊ぶには限界があった。
 妻も次女も無理してはいけないと厳しく言うので、心づもりにしていた半分も一緒に遊べなかった。それでも幼児たちと遊んでいると、僕にも珍しく責任感が芽生えて、昔、小学校時代に、夏休みになると毎日午前中に、特錬(特別錬成)に選ばれた誇りを胸に、泳ぎまくっていたことも思い出して、昔取った杵柄とついつい頑張りたくなる。
 それと同時に野球が僕のいろんな可能性の邪魔をしてきたことを、今さらながらに痛感した。昔の野球部は肩が冷えるからと、水泳を厳しく禁止しており、小学校時代にあれだけ懸命に取り組んだ水泳なのに、中学、高校と水泳を自らに禁じた結果が、現在の体たらくにつながっていると腹立たしくもなってきた。野球部めが!
 今年はリベンジのつもりで手ぐすね引いて、孫たちを待つつもりだったが、実際にはそうはいかなかった。2月の末に、その後に二つの出張を控えながら、今度は右ひざを痛めてしまった。これで両足の膝の故障を抱えたことになる。
 実際には、どちらの膝も鍼灸院に懸命に通って、相当によくなった。つまり、歩くくらいなら支障がなくなった、ところが、膝というのは恐ろしいもので、通常の歩行その他には支障がなくなっても、「うんこ座り」ができなくなった。したがって、その姿勢の代わりに尻を床につける形でしか、いろんな作業ができない。
 妻の腰や背中や肩のマッサージもできなくなったし、家の随所のゴミ集めも、いったん尻を床に落とさないとできなくなった。軽くなら膝の屈伸はできるのに、うんこ座りは無理。だから、今や殆どなくなったが、和式トイレは僕には使えなくなった。それに気付いたのは、昨年秋の北海道出張の際の、アイヌ関連の資料館のトイレ、そして千葉の歴史博物館のトイレでのことだった。そんなところに和式トイレがあること自体も驚きだったが、自分がそれを使えない体になったことが、もっとショックだった。
 膝の屈伸などの努力はしているが、これが回復することは今や殆ど諦めている。だから、孫と一緒に海に入っても、その問題が常に頭にあって、ついつい腰が引ける。
孫と一緒に子ども時代に戻って遊ぶなんて、夢のまた夢である。
(折々のメモ36-3:夏のプレゼントージイジ稼業のこぼれ話―に続く)

折々のメモ36-1:夏のプレゼントージイジ稼業のこぼれ話―

2025-07-30 11:44:04 | 折々のメモ
折々のメモ36-1:夏のプレゼントージイジ稼業のこぼれ話―

前振り―ダウンの一週間―
 本題に入るに先立って、このところのハプニングと言うか、僕自身に加えて、わが家の事情があいまって、ブログから遠ざかることを余儀なくされていたことについて少々。
 僕には珍しく、一週間もブログからご無沙汰しました。拙稿のブログアップのことではありません。拙稿のアップは概ね、最低でも週に一回を自分に課しているので、それが普通の頻度、そしてペースなので、特に変わったことはありません。
 ところが、自分のブログへの反応をチェックする。どんな記事がどの程度、読まれているか。或いは、過去の記事を再読して、自分が何を書いていたのかなどの記憶を蘇らせる。だから書く気力がない時には、何度も自分のブログにアクセスする。そんな僕なのに、ブログへのアクセスを一週間も怠っていたのです。
 僕がブログを開始して以来、初めてのことでした。旅先でも、体調が悪くて何もできないような時でも、自分のブログを数日間も開かないようなことはありませんでした。
 そのように、殆どブログに頼って生きているような体たらくの僕なのに、ブログを開けなかった理由は実に単純、風邪で完全にダウンして、机に向かうこともパソコンを開くこともできなかったのですが。そんなこと自体が僕には珍しいことでした。
 チェコからフランスに亡命したノーベル賞作家のミラン・クンデラが、その小説中で、相当に辛辣に言及している「書き魔」、その姿が、まさに僕に他ならないと痛感して、クンデラの愛読者である僕がその批判を一身に受け止めながらでも書くんだと意志を固めて、自らをその「書き魔」を自任して、既に20年を越えます。
 その間、いつも何かに追われるようにして、当然、焦りながら文章を書き、それをブログにアップすることを自分に課してきました。その課題をこなすことを糧にして生きてきたわけで、自分の首を絞めている感があるほどなのです。
 そんな自分には、しばしばうんざりしますが、それでも馬鹿げたほどに、それに執着しているのですが、今回はそのうんざりが原因ではなく、僕の身体がダウンして、パソコンを開く気にもなれなかったために、ブログにはすっかりご無沙汰してしまっていたのです。
 そして、そんな僕の体調が妻にも波及してしました。心配していた通りでした。手の手術の後遺症と、その手術のための検査過程で発見された心臓の持病でますます不安を抱えて苦しんでいる妻にとって、風邪でダウンなんて、まさしく泣きっ面に蜂。
 それでも、すっかり弱っている体に悪影響を及ぼしかねないからと、抗生物質を免れるために医者にもかからず、以前から愛用する漢方薬だけで、いわば自然治癒を目指しているのですから、なかなか大変な様子でした。
 僕ら二人の、老々介護の予行演習と銘打った介護者と被介護者の関係の新たな構築といった課題など、なにもかもを適当にごまかしながら、なんとか最低限のことだけで日々を過ごしました。
 そんな状態は僕らにとって、一時の異常事態ではなく、今後の生活の基本形になるかもしれないと考えると、さすがに気持ちはめげるし、2人共にまともな食事もできないまま、飲むべき薬を確実に服用することだけは忘れないで辛抱を決めこんでいました。
 僕は辛くても、熱がそれほどでもなかったので、処方してもらった痛み止めや解熱剤は僕の軟弱な胃をさらに傷めかねないので、服用を避けていました。しかし、症状が日々変化して、最初は全くなかった咳が、医者から処方された薬を飲み始めた翌日になって始まると、それが僕の苦痛の主たる原因となった。咳のせいで腹筋を筆頭に全身の筋肉痛がどんどんひどくなった。特に腹部のみぞおちのあたりにまでの痛みは、他の症状が殆ど消えた今でも、なかなか辛い。その上、これまであまり経験したことがない症状、例えば、胃がねじれるような感じにはすごく心配になったりもしました。
 そんな事情もあってか、食欲なんかまったくありえず、その一方で咽喉がしきりに乾くので、ビタミンと果汁たっぷりのスムージーのお世話になりました。一日に2つや3つ、ゆっくり時間をかけて飲んでいると一時でも爽快感が大きな助けになって、それが殆ど食事代わりになりました。
 それでもさすがにワーカホリックで「書き魔」の僕だから、完全に休息していたわけではありません。何もしないでいるなんて辛い時間がひどく長く感じられて耐えられないので、ベッドに横たわりながらも、僕の人生最後の刊行物になるはずのA4で300枚にわたる原稿の最終推敲版を、うつらうつらしながらも再読に努めました。そしてもちろん、読み流していたわけではありません。ボールペンで修正メモを原稿に書き込むなど、チェックに励んでいたのです。
 それ自体も疲れることですが、何もしないでいるよりは辛さが減じるように感じるのが、まさに僕の僕たる所以、必ずしも病名などもらわなくても、物心ついて以来、病的な生き方を続けてきましたので、今さら、仕方ありません。
 ともかく、そんな永遠のワーカホリック症候群のおかげで、病に伏した一週間で、その作業をほぼ終えました。そこで今後は、それをパソコン内のファイルに反映させる作業に入らねばなりませんが、実はその方が厄介な作業を覚悟しなくてはなりません。
 せっかくチェックしたつもりでも、ベッドで寝ころびながら書き込んだメモが、ミミズが這ったみたいなインク跡にすぎず、書いた当人のはずの僕にも判別不能なのです。だからもちろん、修正メモとしては殆ど無効なので、一体、何をしていたのやらと、うんざりしかねません。
 ところが、こんなところでは僕の二枚腰の発揮のしどころです。自分で書いたつもりの文字を読めなくても、その部分に僕自身が不満に思ったことだけは確かなので、それを手掛かりに再考しながら修正を試みればいいわけで、二度手間で無駄だったなどと後悔など不要と、自己肯定の道を用意するのです。
 それにしても、自分の草稿に何度も目を通すのはやはり苦行です。自分の生の姿を目のあたりにしながら、そのひどい体たらくを人目には少しでも隠せるように、せめてものお化粧直しをしているにすぎないと感じられて、恥ずかしくなってくるからです。
 こんな訳の分からない文章を書きながら、人生最後の本の完成のつもりだったことが情けなく、何もかもなかったことにしたくなってきたりもします。しかし、数年もかけて、ようやくたどり着いた成果を、まるでなかったもののようにする潔さなど、僕にありません。誰の為でもなく、もっぱら自分がしたくて励んできたことなので、せめて自分だけでも現状の問題点を洗い直したうえで、最低限の化粧直しに努めるのがせめてもの書き手の責任の取り方などと、自分に言い聞かせるのです。
 しかも、そんな徒労めいた作業でも、心身の調子が優れない時には、自分を見つめる機会にもなって、出口がありそうな気がして救われるといった利点もあるのです。自虐趣味を自任する僕らしい理屈です。
 ところで、妻は次々と新たに発生、或いは、発見される問題を抱えて苦しんでおり、その妻をサポートすべき僕までダウンしたら、今後、いったいどうなるのかと、前途の二人の暮らしが改めて心配になったりもしますが、こんな二人でも次々と障害に直面するたびに、それなりに工夫したり、相互理解を一歩でも半歩でも進めて、助け合って前向きに生きていきたいものです。
前振りはここまでにして、今回の本題に入ります。

毎年恒例の夏の贈り物―ジイジイ稼業のこぼれ話―

1.アメリカ在住の次女とその子供たちの来訪
 ここ数年、夏になると、10年以上もシカゴに在住する次女が、娘と息子を連れて、1か月近くにわたって、僕ら老夫婦が暮らす神戸に滞在し、慎ましく日常を送る僕ら夫婦ふたりにとっては、一年に一度のお祭りとなる。
 それが始まったのは、今では9歳になった孫娘がまだ1歳にもならない8年前のことだったが、その後は、現在4歳の息子が生まれて落ち着くまで、コロナ禍もあったし、次女の仕事や家庭、そして当人の身体事情から、幼子二人を連れての長旅は難しく、訪日は無理だった。
 しかし、4年前からは、次女とその娘、そして息子の3人が、神戸滞在を繰り返すようになり、今年もその季節が巡ってきた。
 概ね7月初旬にやってきて4週間、主に神戸滞在だが、日本でのフライトの発着は東京なので、日本に到着してからの1、2日と再出発前の2,3日は東京で過ごしながら帰路の準備もするのが、一般的な旅程となった。
 その間には次女のパートナーが休暇でも取れれば、短期間でも神戸や東京で合流して一緒に過ごして、一緒にアメリカ戻る。そして、そのうちの神戸滞在中の一部の期間に限ってだが、僕は老いた心身に鞭打って、<ジイジイ稼業>に励む。
 他方の妻は、僕との対比では、<バアバア稼業>なるはずが、2人の娘も、そして次女の孫娘と孫息子たちも、妻のことそんな風に呼ばない。彼女の名前のハングル読みの一部の後に<~ピー>をつけた、例えば<のりピー>の類の呼称がわが家ではすっかり定着している。そしその<~ぴー>は、僕なんかよりもはるかに、その夏の贈り物を楽しみにして、2、3か月前から心身を入れ込みすぎるからか、実際にシカゴからのプレゼントが届くころには、心身が疲れ切って、体調を崩したり、心身のバランスを崩すことが多い。
 だから、そんな気遣いなど何もしない能天気な僕の方が、もっぱら子どもの遊びの補助役としての「ジイジイ稼業」役となる。一行の3週間足らずの神戸滞在の半分にも満たない期間だが、その「ジイジイ稼業」にまつわる試練と喜びが、僕のその間の生活の中心を占める。

2.次女のアメリカ生活の断面
 次女は日本の会社からアメリカ支社に派遣されているうちに、現地で今の夫と知り合った。その後、いったん日本に戻ったが、ついには会社を辞めて渡米して、結婚することになった。そして、持ち前のIT関連の経験と技術を売りにしてアメリカで就職も果たし、シカゴ生まれの日系二世の夫と、シカゴ郊外のベッドタウンで、二人の子供を育てている。
 その地域の住民の多くは多様な移民で、とりわけインド系のIT技術者の比較的若い家族が多いらしく、孫の友人も実に多様な民族の子どもたちである。
 次女の夫は毎日、会社に通勤するが、次女は、殆ど常にリモート勤務であり、いわゆる通勤などしない。きわめて稀に地方への出張があっても、それはあくまで例外的である。
 従って、子供を持つ女性労働者にとって助かる。そういう条件を求めて現在の会社に転職したという事情もあるが、ともかく、幼い子どもがいる場合、すごく助かっている様子である。
 例えば、保育所に子どもを預けると、往々に感染症などで、通園禁止措置などになって、仕事を持つ女性は欠勤を余儀なくされることが多いが、そんな場合にも、次女の場合には、家で子どもの面倒をみながらの勤務が可能である。とりわけ、コロナ禍の時期は助かったらしい。
 それ以前に別の日系の会社に勤務していた頃は、それほど徹底したリモート勤務ではなく、半分は会社に通勤する必要があったが、その後、転職して今の形になった。そもそも、転職のための面接もリモートで採用され、それ以降も特定の人物以外の同僚とは対面で会う機会など殆どなかったらしい。
 子どもたちはウイークデーには地元の小学校とデイケアに通い、土曜日には日本語学校にも通う。次女の夫もシカゴで生まれ育って、同じような教育を受けたらしく、日本語が堪能で、孫たちも僕なんかは驚くほどに流暢で正確な日本語を話す。
 両親とは日本語で生活しており、上の娘は今や英語と日本語の能力が同じ程度らしいが、その弟は英語よりも日本語の方がはるかに達者らしい。
 アメリカでは両親が異文化の子どもに関しては、英語のサポートの授業が課され、それがもはや必要でないと判断されると、子どもたちもその両親も、言語的にようやく一人前と安心する。孫娘も秋からそうなりそうと、次女は喜んでいた。
(折々のメモ36-2:夏のプレゼントージイジ稼業のこぼれ話―に続く)