折々のメモ37の2―75歳で再びの手習いー」
5.サイクリング絡みで果たせなかったその他の夢
サイクリングに関してさらに言うならば、僕らのグループと一緒に済州その他を走った神戸のHさんが、やがては僕ら以上にサイクリングにはまった挙句に、韓国のサイクリングマップを入手してくださった。
そこで韓国全土のサイクリングの夢まで紡ぐようになった。そしてその一環として、済州島に次ぐ韓国第二の島である巨済島一周サイクリングを僕らサイクリング仲間に加えて、僕の韓国在住の従兄の長男で、巨済島にあった海洋関係の研究機関で勤務する甥のサポートも受けて、ついには実現した。その成功に味をしめて、広大な漢江流域、さらには、釜山から東海沿岸を江原道まで南北を、今度は束草からソウルへ東西に上がるなど、果てしないサイクリングの夢を紡いだが、それはまさしく夢で終わった。既に述べたことだが、腰痛を抱えた僕にはとうてい無理な話だった。
しかし、その代わりに山歩きを含めたウォーキングが僕の最も近しい友になったし、2年前に亡くなった塚崎昌之さんの資料に導かれた「在阪朝鮮人の歴史を歩く」というフィールドワークを次々に企画するなど、ひとりで歩くだけでなく、人とともに歩きながら学ぶことが、僕の心身を支えてくれる貴重な友となったし、今後もそれが続くことを僕は祈っている。
山中を歩きながら、誰にも迷惑にならないように、音痴でも堂々と楽しくシャンソンも歌いたい。昨年に亡くなった韓国の金眠基さんの歌も呟くような歌も歌いたい。自分の気持ちを歌にのせて、もっともっと解放を目指して生きていきたいものである。
6.中学二年で始まったギターを弾く夢
その一環として、僕は半世紀以上も昔の夢の再開を試している。2か月前からギターのレッスンを月に2回、受けるようになったのだが、僕とギターの馴れ初めは、今から60年近くも前の、中学二年に遡る。両親と親しい在日のお金持ちの奥さんに頼まれて、その末っ子の家庭教師をして稼いだお金で、僕は憧れのギターを購入した。
当時、人気を博していた歌手の佐良直美が歌って大流行していた「世界は二人のために」を、もっぱら教本を頼りに我流ながらも、弾き語りに挑戦するなどして遊んでいた。
やっとそれができるようになった頃には熱も冷めるし、それ以上にはなかなか進歩しないので、すっかりうんざりしてしまった。そのあげくには、ギターがどこに行ってしまったのかもわからなくなった。
そして、ギターに申し訳ない想いとギターと歌に対する苦手意識だけが、重く僕に残った。
それから半世紀が経った10年ほど前には、人生をなんとか変えてみたくなって、それまでに果たせなかった夢に再挑戦を試みた。
韓国の楽器であるチャンゴの集団レッスンを何度か受けた。しかし、チャンゴを購入するまでには至らず、家で楽器を練習するわけにもいかないので、ついには断念した。
そこで、楽器がなくてもできるだろうからと、パンソリ教室にも3か月くらいは通った。しかし、その当時には仕事を続けていたので練習する時間もとれず、音痴という自覚がひどくなるだけだった。そして折しも、レッスンの日時が僕のスケジュールと合わなくなったので、残念に思いながらも断念した。
7.半世紀もの因縁がある初のギターレッスンー75歳の手習いー
それから数年後には、たまたま商店街で見かけた楽器店で、中古ギターの値段を見て意外に安価だったので、その程度の値段なら、またもや断念しても大した出費にはならないからと購入した。
そして、またしても教本やDVDを参考に自室で練習を始めた。ところが、音楽をはじめとして芸術一般にはめっぽう厳しい妻が、僕の中途半端なやり方に苛つくようになったのを見て、とうてい抵抗できずに断念した。
そもそも、久しぶりのギターのはずなのに、初心者以上にひどい自分のギターの技術に呆れ果てていたので、辞める頃合いだったのだろう。
その後もいつかは再開と、内心でその機会を探っていたところ、家から徒歩で通える個人レッスンが、すごく安価であるというチラシを見て、これが最後の機会と覚悟して、始めることにした。
それから2か月が過ぎた。つまりレッスンを見学も含めて5回も受けるうちに、最初の当惑も徐々に消え、指の痛みにも慣れた。指の痛みが老化防止にもなりそうだし、何とか続けられそうな気になってきた。
今回こそ本当に最後のチャンスだからと、自室で最低でも一日に30分の練習を課した。月にたった2回でも、対面で習うと緊張感がすごく、次回のレッスンまでに練習しないわけにはいかない。そんな拘束もあってなんとか続いている。それに対面の個人レッスンなので、たった数か月で逃げるなんて、この歳になって格好が悪すぎるという老人の体面もなくはない。
一年間だけ続ければ、曲を一つくらいは弾けるようになると言われ、それで十分だから高望みしないように気を付けている。心身の調子がよほどにひどくなければ、なんとか続きそうである。
ギターを買った人の9割が続かないと言われると、僕だけがダメなわけではないと安心もする。
この先には「書き魔」の僕でも文章を書けなくなる兆候もあるので、それを好機に、今までの生活から脱皮して、少しは楽しく暮らすためにも、数十年ぶりのギターへの挑戦を続けたい。
うまくならなくても、せめてギターに対する申し訳なさ、自分に対する恥ずかしさがなくなれば十分である。そんな実にささやかな夢を少しでも叶えることができれば、一度は放棄したチャンゴやパンソリに再挑戦したり、他の歌、例えば、妻を真似て、フランス語でシャンソンを歌うレッスンも、費用との相談(個人レッスンでは、僕のギターの個人レッスンの最低でも2倍の費用がかかりそう)で、僕の歌のレッスンにはそんな価値がないからと諦めるつもりで、それなら集団レッスンの形でも良いかと思っている。
音痴だって構わないと居直って、何よりも「自分の声」を出すことさえできれば、上出来である。人に聞いてもらう為に歌うのではない。今後さらに歳をとって、誰からも相手をされなくなっても、声を出す機会を確保できればいい。たとえ聞いてくれる人などなくても、聞いている人を自分の内部に仮想して歌う。
その意味では書くことも同じである。書き魔の僕でも、自分の内部に読者を想定してこそ書ける。それができない文章は、書いている本人でも読める代物にならない。
だからこそ、自分の内部だけに向かって、自分を拘束するものではなく、むしろ自分を解放する方向で、つまり、自分の何もかもを許す方向で、のんびり続けることさえできれば、それで十分である。
そんな取り組み方は、妻の音楽その他への取り組み方を日々、見たり聞いたりするうちに、伝わってきたものである。一緒に暮らす連れ合いの存在はありがたいものである。
見果てぬ夢や捨てた夢をこの先に思い出すのも、余生の大きな楽しみになりそうである。これまで何を夢見て生きてきたのか。沢山、夢見ながら、捨てたり、忘れたりしながら生きてきた。達成なんかしなくても、それはそれで十分で、何ひとつ悪いことではない。それもまた自分の人生の一部である。そんな自分を再想起して、そこに秘められていた何かを、改めて生きるつもりで楽しみたい。
僕が今からすることの何もかもが、中途半端で、偽物であったって全く気にしない。そもそも、僕がすることに偽物も本物もない。僕が何らかの必然があって、或いは、まったく偶然に、そんなことをしたと言うに過ぎない。
因みに、妻によると、東京在住の長女もギターのレッスンを受け始めたらしい。彼女は中学ではブラスバンドでパーカッション奏者だったし、幼い頃からピアノも習っていたし、大人になってからは、チャンゴも奏していた。住まいには電子ピアノを置いて、音を出さないで、イヤホンで聞きながら演奏を楽しんだりもしてきた。ところが、最近になって、もっと気軽に楽しめそうだからと、ギターを習い始めたらしい。偶然だが、僕とほぼ同じ時期と言う。
しかし、賃貸マンションの自宅では楽器演奏は禁止なので、家では練習はできないが、幸いにも勤務先では、休憩や仮眠もできるフリースぺースがあって、そこでなら周囲の迷惑にならなければ、ギターの練習も可能らしく、そこで間に合わせるつもりという。
とりわけ、朝早く出勤して、ギターで遊んでから、仕事を始めても構わないらしい。今時の会社で、すごく自由な勤務形態が許されている。
それはそうと、ギターをほぼ同時に始めた父娘のどちらが長く続くか、僕としては面白いが、傍から見れば、なんとも低レベルの話だろうと思うと、笑ってしまう。
忘れてしまった夢の発掘作業は今後も折に触れてしながら、楽しむつもりなのだが、手習い関連の話は、今回でひとまず終えたい。
人生最後の書物のつもりの草稿の推敲が一段落して、少しは解放感もあって悪くない。いつも、相手になってくれる奇特な皆さんに、深く頭を垂れて、感謝します。(完)
5.サイクリング絡みで果たせなかったその他の夢
サイクリングに関してさらに言うならば、僕らのグループと一緒に済州その他を走った神戸のHさんが、やがては僕ら以上にサイクリングにはまった挙句に、韓国のサイクリングマップを入手してくださった。
そこで韓国全土のサイクリングの夢まで紡ぐようになった。そしてその一環として、済州島に次ぐ韓国第二の島である巨済島一周サイクリングを僕らサイクリング仲間に加えて、僕の韓国在住の従兄の長男で、巨済島にあった海洋関係の研究機関で勤務する甥のサポートも受けて、ついには実現した。その成功に味をしめて、広大な漢江流域、さらには、釜山から東海沿岸を江原道まで南北を、今度は束草からソウルへ東西に上がるなど、果てしないサイクリングの夢を紡いだが、それはまさしく夢で終わった。既に述べたことだが、腰痛を抱えた僕にはとうてい無理な話だった。
しかし、その代わりに山歩きを含めたウォーキングが僕の最も近しい友になったし、2年前に亡くなった塚崎昌之さんの資料に導かれた「在阪朝鮮人の歴史を歩く」というフィールドワークを次々に企画するなど、ひとりで歩くだけでなく、人とともに歩きながら学ぶことが、僕の心身を支えてくれる貴重な友となったし、今後もそれが続くことを僕は祈っている。
山中を歩きながら、誰にも迷惑にならないように、音痴でも堂々と楽しくシャンソンも歌いたい。昨年に亡くなった韓国の金眠基さんの歌も呟くような歌も歌いたい。自分の気持ちを歌にのせて、もっともっと解放を目指して生きていきたいものである。
6.中学二年で始まったギターを弾く夢
その一環として、僕は半世紀以上も昔の夢の再開を試している。2か月前からギターのレッスンを月に2回、受けるようになったのだが、僕とギターの馴れ初めは、今から60年近くも前の、中学二年に遡る。両親と親しい在日のお金持ちの奥さんに頼まれて、その末っ子の家庭教師をして稼いだお金で、僕は憧れのギターを購入した。
当時、人気を博していた歌手の佐良直美が歌って大流行していた「世界は二人のために」を、もっぱら教本を頼りに我流ながらも、弾き語りに挑戦するなどして遊んでいた。
やっとそれができるようになった頃には熱も冷めるし、それ以上にはなかなか進歩しないので、すっかりうんざりしてしまった。そのあげくには、ギターがどこに行ってしまったのかもわからなくなった。
そして、ギターに申し訳ない想いとギターと歌に対する苦手意識だけが、重く僕に残った。
それから半世紀が経った10年ほど前には、人生をなんとか変えてみたくなって、それまでに果たせなかった夢に再挑戦を試みた。
韓国の楽器であるチャンゴの集団レッスンを何度か受けた。しかし、チャンゴを購入するまでには至らず、家で楽器を練習するわけにもいかないので、ついには断念した。
そこで、楽器がなくてもできるだろうからと、パンソリ教室にも3か月くらいは通った。しかし、その当時には仕事を続けていたので練習する時間もとれず、音痴という自覚がひどくなるだけだった。そして折しも、レッスンの日時が僕のスケジュールと合わなくなったので、残念に思いながらも断念した。
7.半世紀もの因縁がある初のギターレッスンー75歳の手習いー
それから数年後には、たまたま商店街で見かけた楽器店で、中古ギターの値段を見て意外に安価だったので、その程度の値段なら、またもや断念しても大した出費にはならないからと購入した。
そして、またしても教本やDVDを参考に自室で練習を始めた。ところが、音楽をはじめとして芸術一般にはめっぽう厳しい妻が、僕の中途半端なやり方に苛つくようになったのを見て、とうてい抵抗できずに断念した。
そもそも、久しぶりのギターのはずなのに、初心者以上にひどい自分のギターの技術に呆れ果てていたので、辞める頃合いだったのだろう。
その後もいつかは再開と、内心でその機会を探っていたところ、家から徒歩で通える個人レッスンが、すごく安価であるというチラシを見て、これが最後の機会と覚悟して、始めることにした。
それから2か月が過ぎた。つまりレッスンを見学も含めて5回も受けるうちに、最初の当惑も徐々に消え、指の痛みにも慣れた。指の痛みが老化防止にもなりそうだし、何とか続けられそうな気になってきた。
今回こそ本当に最後のチャンスだからと、自室で最低でも一日に30分の練習を課した。月にたった2回でも、対面で習うと緊張感がすごく、次回のレッスンまでに練習しないわけにはいかない。そんな拘束もあってなんとか続いている。それに対面の個人レッスンなので、たった数か月で逃げるなんて、この歳になって格好が悪すぎるという老人の体面もなくはない。
一年間だけ続ければ、曲を一つくらいは弾けるようになると言われ、それで十分だから高望みしないように気を付けている。心身の調子がよほどにひどくなければ、なんとか続きそうである。
ギターを買った人の9割が続かないと言われると、僕だけがダメなわけではないと安心もする。
この先には「書き魔」の僕でも文章を書けなくなる兆候もあるので、それを好機に、今までの生活から脱皮して、少しは楽しく暮らすためにも、数十年ぶりのギターへの挑戦を続けたい。
うまくならなくても、せめてギターに対する申し訳なさ、自分に対する恥ずかしさがなくなれば十分である。そんな実にささやかな夢を少しでも叶えることができれば、一度は放棄したチャンゴやパンソリに再挑戦したり、他の歌、例えば、妻を真似て、フランス語でシャンソンを歌うレッスンも、費用との相談(個人レッスンでは、僕のギターの個人レッスンの最低でも2倍の費用がかかりそう)で、僕の歌のレッスンにはそんな価値がないからと諦めるつもりで、それなら集団レッスンの形でも良いかと思っている。
音痴だって構わないと居直って、何よりも「自分の声」を出すことさえできれば、上出来である。人に聞いてもらう為に歌うのではない。今後さらに歳をとって、誰からも相手をされなくなっても、声を出す機会を確保できればいい。たとえ聞いてくれる人などなくても、聞いている人を自分の内部に仮想して歌う。
その意味では書くことも同じである。書き魔の僕でも、自分の内部に読者を想定してこそ書ける。それができない文章は、書いている本人でも読める代物にならない。
だからこそ、自分の内部だけに向かって、自分を拘束するものではなく、むしろ自分を解放する方向で、つまり、自分の何もかもを許す方向で、のんびり続けることさえできれば、それで十分である。
そんな取り組み方は、妻の音楽その他への取り組み方を日々、見たり聞いたりするうちに、伝わってきたものである。一緒に暮らす連れ合いの存在はありがたいものである。
見果てぬ夢や捨てた夢をこの先に思い出すのも、余生の大きな楽しみになりそうである。これまで何を夢見て生きてきたのか。沢山、夢見ながら、捨てたり、忘れたりしながら生きてきた。達成なんかしなくても、それはそれで十分で、何ひとつ悪いことではない。それもまた自分の人生の一部である。そんな自分を再想起して、そこに秘められていた何かを、改めて生きるつもりで楽しみたい。
僕が今からすることの何もかもが、中途半端で、偽物であったって全く気にしない。そもそも、僕がすることに偽物も本物もない。僕が何らかの必然があって、或いは、まったく偶然に、そんなことをしたと言うに過ぎない。
因みに、妻によると、東京在住の長女もギターのレッスンを受け始めたらしい。彼女は中学ではブラスバンドでパーカッション奏者だったし、幼い頃からピアノも習っていたし、大人になってからは、チャンゴも奏していた。住まいには電子ピアノを置いて、音を出さないで、イヤホンで聞きながら演奏を楽しんだりもしてきた。ところが、最近になって、もっと気軽に楽しめそうだからと、ギターを習い始めたらしい。偶然だが、僕とほぼ同じ時期と言う。
しかし、賃貸マンションの自宅では楽器演奏は禁止なので、家では練習はできないが、幸いにも勤務先では、休憩や仮眠もできるフリースぺースがあって、そこでなら周囲の迷惑にならなければ、ギターの練習も可能らしく、そこで間に合わせるつもりという。
とりわけ、朝早く出勤して、ギターで遊んでから、仕事を始めても構わないらしい。今時の会社で、すごく自由な勤務形態が許されている。
それはそうと、ギターをほぼ同時に始めた父娘のどちらが長く続くか、僕としては面白いが、傍から見れば、なんとも低レベルの話だろうと思うと、笑ってしまう。
忘れてしまった夢の発掘作業は今後も折に触れてしながら、楽しむつもりなのだが、手習い関連の話は、今回でひとまず終えたい。
人生最後の書物のつもりの草稿の推敲が一段落して、少しは解放感もあって悪くない。いつも、相手になってくれる奇特な皆さんに、深く頭を垂れて、感謝します。(完)