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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

今回は前回28、「6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」

2025-05-25 09:23:33 | 折々のメモ
折々のメモ29
今回は前回28、「6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」です。

 前回の28をアップしたところ、すぐさま、これまでにないほどの反応があった。ブログの閲読者の数も当日だけのことだが、一気に3倍とか4倍になった。時々生じる一時的な現象なのだが、ともかくそれをきっかけにしていろんなことを考えたので、折角だからと、それを書きとめて幅広く共有したくなった。だから、「おまけ」なのです。僕は幼い頃からおまけ大好き人間で、今でもそれは変わらないようです。 
 さて、反応は例えば、以下のようなものでした。
 高校時代の野球部仲間で、前回のFWのコースの近くで生まれ育ち、今なおその地域を中心にして市の放置自転車撤去作業をアルバイト、時間つぶし、そして社会勉強がてら行いながら、その地域と多様な関係を維持しているそうです。
 これまでも拙著を「いくつか読んでみたけど、何か読みづらかったのに、今回のFW報告は、良く知っている地域ということもあってか、すごく興味深く気持ちよく読めた」、そして、今後もFWを続けるようにと励ましてくれました。
 既に10年近くも音信不通だったのに、先日来から、ちょっとしたことをきっかけにラインでのやりとりが始まり、互いに相手に対する見方を更新しながら旧交を温めています。昔の野球部仲間で、僕の書き物に関するコメントは初めてもらった感じで、その意味でも僕には新鮮で嬉しいものでした。
 小中高と12年間も同じ学校に通い、7,8年前までは高校の同期会で顔を合わせては少し言葉を交わしたり、メールでのやり取りを何度かしていましたが、ここしばらくはそれもすっかり途絶えていました。ところが、小学校時代の友人から小学校の同窓会を企画するようにとの依頼があったので、それを述減するために連絡を取っていたのですが、その間に彼女の家庭で不幸なことがあり、それも頓挫していました。しかし、ようやく改めて、ラインで頻繁なやり取りするようになっていたのですが、ブログについては「分かり易い報告で、興味深く」読んでくれたそうで、ブログの他の記事もゆっくりと読んでみるつもりと、優しい言葉をいただきました。
 少し変わり種の方からの連絡もありました。僕が生まれ育った集落で家族ぐるみで親戚付き合いをしていた在日の家族の「お姉さん」です。半世紀近く前に単身でアメリカにわたって、アメリカ軍の軍人と恋に陥ってそれを成就させて以降は、夫の勤務で世界各国を転々として、今はすっかりアメリカに定住し、時には日本にも帰省?して、その度に僕と会食したりの間柄ですが、それ以上に特筆すべきは、拙著や僕のブログの一番の愛読者なのです。先日も会ったばかりなのですが、僕のFW報告を読んで、そこに書かれている地域で生まれ育ったのに、何一つ知らないままだった自分のことが「恥ずかしい」とのメールが届きました。
 僕らの企画の資料準備ばかりか、案内役まで押し付けるなど、何かと負担をかけて申し訳なく思っている高野さんからは、一緒に歩くなど「同じ時間を共有しながら、私と違って、はるかに様々なことをお考えなので驚きです」とのメールを頂戴しました。
 高野さんと僕は同じ高校の卒業生で、一回り以上もの年齢差があっても、淀川沿いに位置する高校や恩師や校風その他で、記憶や感慨を共有することが多くあります。例えば、淀川を見ると、一年に一回、全校生徒が男子は13キロ、女子は7キロ、淀川の河川敷を往復するイベントにまつわる想い出などもその一つです。
 その一方で、生まれ育った地域や家庭環境などの差もあり、FWで歩いた地域に関する思い入れもさすがに違って、上のような印象が生じるのも当然のことでしょう。
 ともかく僕としては、そうした反応の一つ一つが嬉しいことです。意味は相当にずれるようですが、なんとなく、友あり、遠方より来る、楽しからずやといった昔、習った一句を思い出しました。
 その他、送って頂いた反応のそれぞれの理由、そして違いの理由などを考えるなど、皆さんの反応に触発されて、今さらながらに思うことがありました。
 例えば、男女の目の違いがあるでしょう。だから、例え、同じ家族でも大きく異なったりもします。男女に強いられた性役割は本当に恐るべき威力を発揮してきたものです。
その他、同じ地域で暮らしてもやはり育った家の性格があり、それによって関心の持ち方が異なってくるのでしょう。
 そんなことも含めて、FWで巡った地域と僕との関係について、もっぱら個人的な事情について考えてみた結果が以下のようなことでした。

 先ずは、淀川とそこに架かる旧長良橋に関する僕の記憶です。父と長柄橋や淀川に関する話は前回にも少し触れましたが、それとも関連しています。幼い頃の僕にとって、淀川と旧長柄橋は越境的冒険の場所でした。
 僕はまだ小学校に入る前か、或いは低学年の頃に、近所の友人4名と総勢5名で、長良橋を通っての淀川越えを試みて、なるほど越えてはみたものの、最大の目的地であるガラス工場は見つからなくて落胆するばかりか、その後は道に迷うなどして、想定していなかった経路をさまよいながら、ようやく東淀川駅の開かずの踏切にたどり着きました。そして、僕らを懸命に探していた家族などの姿を見た時には、たまらなくなって号泣してしまいました。
 さらに約5年後には、二度目の長柄橋越えに挑戦しました。小学校4年くらいの時のことですが、父が豊崎地域にあった得意先に納品に向かう際に、同行をしつこくねだったあげくに許可を得て、懸命にペダルを踏んで父の後を追い、長柄橋を越えて無事に得意先にたどり着きましたが、そこで僕が目撃したのは、得意先の若くて偉そうな職員に父が民族差別も絡んで罵倒されるという、父にとっては自分の子どもには断じて見せたくない屈辱的な場面でした。そして、そのショックもあって、僕はその後、とんでもない失敗をしでかしました。
 以上のどちらも、僕の成長期のシンボリックな出来事だったので、ノンフィクションとしてもフィクションとしても(小説仕立て)書いており、その一部はブログの「玄善允の成長小説もどき3部作の3と4」でアップしています。
 本文では、4は全文を以下にペーストして参考に供したいと思います。3に関心をお持ちの方はブログの、「玄善允の成長小説もどき三部作の第二部『ちっちゃい兄ちゃん』の3(第三章)をご一読いただけたら幸いです。
 4の方は3と比べて短文なので、以下にそのまま貼り付けます。文中のチビと正一は僕の、正河は僕の母の、漢守は父の仮名です。

玄善允の成長小説もどき三部作の第二部『ちっちゃい兄ちゃん』の4(第四章)

第四章 再びの冒険
1)挽回を期しての再挑戦
2)糞垂れのおまけまでついた再びの敗北

第四章 再びの冒険

1)失敗の挽回を期した再挑戦
 夢の冒険の失敗を挽回できそうな機会がチビに訪れたのは、その翌年の春休みのことだった。
 珍しくバスに乗って野球の試合に遠征することになって、マサは前日から大はりきりだった。しかも、初めて先発メンバーに抜擢されるらしくて、その張り切り具合も並みではない。そんなマサを見て、チビがじっとしているわけがない。いくら邪険にされても、とことん粘っていると、両親の介入などもあって、試合に同行させてもらえるかもしれない。その為にも、とりあえずはマサのご機嫌取りに懸命である。命じられもしないのにマサのグローブを磨いた。先発メンバーに抜擢のお祝いとして、母が子供全員に奮発してくれた卵焼きなのだが、マサは自分のものを逸早く食べてしまうと、チビの分までかすめとろうとした。普段なら断じて黙っていないチビなのに、その日は、それすらも身を切る思いで、見逃した。
 ところが、そんなお為ごかしも徒労に終わった。最後の切り札である泣き落としも、かえってマサの癇癪を引き起こすだけだった。
 「金魚の糞が付きまとったら、邪魔なんじゃ!チビはチビらしく、家に引っ込んどれ!」
 マサはチビに対する十八番の台詞を残して、颯爽と出かけてしまった。
 取り残されたチビは、うじうじと家の周りをうろつき回るしかなかった。そんなところへ、納品に出かける途中の漢守が家に立ち寄った。そして、相変わらず泣きっ面のチビを目に止めて、思わぬことを言った。
 留守をしているマサの自転車に乗って、漢守の納品についてきたらいい、と言うのである。納品先は、あの大河を越えた当たりに位置する漢守のコウバの得意先である。漢守がそんなことを言うなんて、信じられないくらいに珍しいことだったが、チビはすぐさまその気になった。漢守のお墨付きだから、マサには厳しく禁じられている自転車にも乗れるのだから、願ってもない機会である。しかも、チビにとってはあの失敗した冒険の雪辱戦にもなる。
 だから、漢守の気持ちが変わらないうちにと、出かける準備を急いだ。お気に入りの野球帽をかぶり、手ぬぐいを首に巻き、マサの自転車を玄関から引きずり出して、玄関先に停めてあった、納品する製品を荷台にうず高く載せたウンパンシャの後ろに並べて、準備完了である。トイレにでも入っていたのか、家から出て来た漢守もそんなチビを見て、微笑を浮かべて、嬉しそうである。まるでこれまでに一度もなかった父子だけのピクニック気分である。
 最初は10mくらいだった間隔が次第に広がって、今や50mくらい先を走る漢守の体は、自転車の荷台にうずたかく積まれた段ボール箱に殆ど隠れて、チビに見えるのは力強いがゆっくりと回転するペダルにかかった足の動きだけである。しかし、左右交互に足を踏み込むたびに、荷物が少しだけ左右に揺れる様子が、チビの眼には、父親の力強さ、頼もしさを表しているように映る。長い登り坂に差し掛かると、年季の入った力強い足の動きが、ますます大写しになり、チビの漢守への信頼が高まるだけでなく、上り坂にあえぎだしたチビを励ましもする。少し汗ばんだ肌に春のうららかな風が触れ、かすかに潮の香りも混じっていそうである。あの大橋が前方に姿を現した。視界が一気に広がった。
 チビの眼は漢守の自転車を中心に展開する光景にらんらんと輝く。遥か遠くにまで連なる数多くの工場の煙突からは七色の煙が立ち昇り、微風を受けて悠々とたなびく。この大河を自分の足で越えるのはこれが二度目と思ったとたんに、あの最初の渡河の失敗が蘇ってきた。大きく息を吸い込む。苦い記憶がむしろチビを鼓舞する。風も太陽も甘い香りを含んでいて、足も予想以上に軽快に動いている。
 そう思った時だった。腸をしめつける痛みが走った。
 「くそ、うんこや」と、すぐさま後悔に襲われた。朝食後に少しもよおしたのに、済ましておかなかった。その時は、眼を離すとマサに置いてきぼりを食らう心配が先立ち、便所で時間をかけて「気張る」余裕などなかった。
 臍に力を集中し、サドルに尻を押しつけて、断続的に押し寄せてくる腸の運動を押し殺そうとする。既に橋を越えたのだから、漢守の得意先までもう少しのはず、と自分を励ます。
 真新しい工場横の、屋根瓦を備えた屋敷風の門が目指す所だった。その門前で漢守はウンパンシャを止め、チビに待つように言い含めたが、そのいかにもよそ行きの顔つきと少し緊張した言葉つきを見て、チビは「便所」の一言を発する機会を逃してしまった。そんなチビの気持ちなど察する余裕はまったくなさそうな漢守は、門の脇戸から中へ姿を消した。
 しばらくして漢守が現れたので、すぐさま駆け寄って、ますます切迫してくる「うんこ」の一言をと思ったが、頼みの漢守の俯き加減の顔の眉間には、深い皺が走っている。しかも、その漢守の後ろに人影がある。
 ワイシャツにネクタイ姿のその人は、チビを一瞥しながらも黙殺した。その人の指示で荷台から納品用の製品を下ろす作業にとりかかった漢守の動きが、見るからにぎこちない。その「係長」はいきなり漢守を押しのけて、荷台の箱を乱暴に開き、製品を幾つか取り出すなど点検を始めた。そして、これまたいきなり、箱を地べたにぶちまけた。製品が大きな音とともに散乱した。呆然とする漢守の眼前に、係長はその散乱した品物の一つを突きつけると、漢守の懸命につくった笑顔もゆがんだ。
 係長の口から、罵りとともに唾までも飛び散るのが見える。
 「おたくらの国の連中は、ホンマに信用ならん。下請けも金輪際・・・」。
 その瞬間、漢守の肩がぴくりと動くのをチビは見逃さなかった。とんでもないことが起るのではと、チビは恐れた。しかし、チビの予想に反して、漢守はひたすら頭を下げたままである。
 係長が捨て台詞を残して去ると、漢守は散乱した製品をダンボール箱に収め直し荷台に載せ始めたが、その顔は少し痙攣しているようだし、色も失っている。チビは呆然としたまま、便意もすっかり忘れている。
 漢守は辛うじて少し歪んだ笑みをつくり、「帰るんや」とチビに言った。漢守にはチに気を遣う余裕など全くなさそうである。チビは無言のままに自転車に乗り、漢守の肩を落とした姿を懸命に追いかける。すると、体を動かし始めたせいか、忘れていたはずの便意が猛烈な勢いで戻ってきた。涙がにじみ、冷や汗がどっと吹き出る。

2)糞たれ
 大橋を越えて長い下り坂にさしかかったあたりで、ついに辛抱が切れた。もうこれまでと、はっきり意識して腰を浮かし、肛門の緊張をゆるめた。下り坂なのでペダルを踏まなくてもいいので、そうした動きも楽だった。
 最初は遠慮しているかのように、しかし、ついには凄い勢いで、体内からそれが飛び出て、チビは解き放たれる快感と虚脱感とが重なった脱力感を覚える。液体とも固体とも判別のつかないそれがニュルニュルと流れ出て、尻とズボンの合間に滞留するのが分かる。
 気がつくと、漢守の姿がはるか遠くにあり、すっかり小さくなっている。
あわてて足を回転させながら、流れ出たそれを尻で押しつぶさないように、サドルから腰を浮かそうとするが、その姿勢を保つ辛さと、尻から足へと伝う柔らかで生温い感触の不快感とが重なって、生きた心地がしない。
 ようやくオオミチにたどり着いた。漢守は「オマエは家に帰れ」と言い残してコウバへ直行した。おかげで、父には気づかれずに済んだ。自分につきまとう臭いと、乾きだしてごわごわした感触の気持ち悪さからやっと逃れられると思ったのも、ほんの束の間のことにすぎなかった。なんとも<まんの悪い>ことに、足を踏み入れようとした玄関には、何故かしら正河がいた。コウバに向かおうとしている様子だった。正河の鋭い目はいつだってチビの挙動不審を見逃さない。距離を置こうとすればするほど、また、自然な歩き方をしようとすればするほど、正河の目はチビをしっかりと捕らえる。「ショウ」の一言でチビは震え上がる。
 「糞たれ」は初めてのことではなかった。小学校入学後の最初の遠足の時もそうだった。糞を尻と脚にへばりつかせたままに、誰にも気付かれることなく帰宅できたのはよかったが、その不始末が正河にはたちまちのうちに見つけられた。
 そもそも、この種の「下」の不始末は、生来の、そして体質的なものなのかもしれない、3年になっても寝小便の癖は完全には直っていなかった。そんなわけだから、それは正河のチビに関する心配の種の一つでもあり、正河がチビの挙動不審を見逃すはずはないし、チビもそのことを重々承知している。
「おまえ、また?!」と正河は呆れた声をあげ、すぐさま「裏へ回り!」と厳しい声に変わった。
 チビは泣きべそをかきながら、玄関を出た。オオミチを少し右に進んで、鉄工所がある右側の路地をとぼとぼと歩いてやっと家の裏庭に入いると、ホースを拳銃のように構えた正河が厳しい顔で待っていた。すぐさま服を剥ぎ取られてすっぽんぽんになった。そのとたんに、ホースの冷たい水が襲いかかってきた。体のあちこちが痛いほどで、涙がこぼれてくる。殆ど乾いておさまっていた臭いが、水気を与えられて息を吹き返したのか、全身から立ち昇ってくる。正河が交互に繰り出す嘆き節と叱り声も耳に痛い。舌打ちを交えた小言が次第に間遠くなる。
 正河は既に大量の水を火にかけて準備しており、その湯と水を混ぜて、それで肌にこびりついた糞を柔らかくしたうえで、タワシでチビの体をこする。冷たい水の後に湯、それに乱暴なタワシの攻撃まで加わって、チビは泣きわめきたいほどである。しかし、一生の恥をはぎ取ろうとしているかのような正河の表情と腕の勢いを前にして、懸命にこらえるしかない。
 石鹸の臭いがうんこの臭いに打ち勝つ頃になってようやく、正河の表情は少しほころび、笑みがのぞいた。チビは新しいパンツとシャツを投げ与えられた。こすられて赤くなった肌にシャツが痛い。しかし、その痛みがかえって爽快感をもたらしてくれる。
 脱皮した気分で思わずニンマリした。正河の目にも微かな笑みが浮かんだと思ったのは、チビの甘えがもたらした幻想に過ぎないのだろうが、チビは解放感に満ちている。二度目の冒険もこうしたドタバタ劇で幕引きとなった。こうして人間の、それも自分の糞にまみれて成長の一段階が越えられた。但し、チビの精神の成長という意味でなら、もっと重要な経験があった。(引用終わり)

 以上でもお分かりになるように、淀川と長柄橋を越えることは僕にとってシンボリックな冒険的価値を備えていました。

 その後、高校生になると、僕が入った高校は川のこちら(南)側なのに、わが家の最寄りの国鉄駅で乗車すると、いったんは北側に向けて淀川を越えてキタの中心の大阪駅を経由して、そこから今度は西に向かって再度、淀川を越えてこちら(南)側に戻るような経路で通学するようになりました。したがって、その中間地点であるキタにも足しげく通うようになって、「キタこそ僕の大阪」など馬鹿げたことを吹聴するようにまでなったのです。
 それはともかく、僕が今回のFWの地域のあちこちに、実際に足を伸ばすようになったのは、車の運転でのことでした、つまり、大学入学以後のことでした。大学に合格しても学生紛争で長らく授業がなかったので、僕は我が家のコウバの両親にとっては誠に使い勝手の良い働き手、或いは、「何でも屋」になりました。
 それには車の運転が必須なので、入学が決まるとすぐさま自動車学校に通って運転免許を取得しました。そしてコウバの製品の配達のために、淀川を毎日、二度三度と往復するようになったのですが、その頃には以前に冒険に失敗した長柄橋ではなくて、新設の自動車専用道路としての新御堂筋を経由してのことでした。
 しかも、そうした我が家のコウバの仕事の一環としての運転手稼業だけではなく、両親の便利なお抱え運転手にもなったのです。しかもそれは、紛争で大学の授業がなかった時期だけでなく、学生時代を通じて、さらに場合によっては、その後も続くことになりました。
 父が飲みに十三などに行くとき、母や父が頼母子の集まりで、知人が営む焼き肉屋で食事会も兼ねる時には、僕はそこまで載せていき、それが終わるまで、近くで待機して、車に載せて帰宅するようなことが度々ありました。
 それが遠くの鶴橋近辺の場合も時にはありましたが、近場では、下新庄、南方、新大阪駅の近くの山口町、さらには崇禅寺、天六など、今回のFWのコースの近辺の店の場合が多かったのです。
 頼母子のメンバーがそんな店を経営している場合もあったし、何かの誼で利用してあげる場合もあるなど、金融の手段に加えて懇親会の機能を兼ねて、両親たちは気分よく飲み食いするが、その間、僕はひたすら我慢して待機タクシーの運転手の気分でした。
 そんなわけで、僕は自分には何の動機もないのに、まさに成り行きで便利屋稼業を続ける羽目になった。これが僕のいわゆる「家付き息子」の役割でした。
 それに味を占めたわけでもないのですが、これまた成り行きで、一時期は中津のプラスチック成型の金型製造会社の社長のお抱え運転手のようなアルバイトまでする羽目になりました。
 その社長が何かで免停処分を受けたので、その間に限ってのアルバイトで、その人の得意先の接待のために、ミナミの高級飲み屋(会員制クラブなど)の近くで待機するなどして、送り迎えをしていたのです。
 そんなことを何でも成り行きで行いながら、自分でもなんとも馬鹿げたことで青春を無駄にしているなどと、いらいらもしていましたが、そんな経験で知ったことや学んだこともいろいろあって、今から考えると、決して無駄ではありませんでした。但し、その知識や経験を活かすような生き方ができたかと言うと、そんなことはなかったので、やはり無駄だったということになってしまいます。
 今回のFWの出発点だった天六へは、母に頼まれて、そのあたりの母の馴染みの朝鮮の食材屋さんでの買い物のために、母の送り迎えを何度かしました。しかも、その種の用事は野放図に広がって、母はずいぶんといろんなことで、僕は運転手として母にとって実に重宝な存在でした。  
 桜ノ宮の大川べりの巫俗信仰のメッカだった竜王宮にも、母の送り迎えのためにしばしば通いました。生駒の朝鮮寺もそうでした。鉄橋で有名な赤川にも、遠縁の姉さんが嫁いだので、母は彼女に会いに、僕を使いました。赤川という地名はすごく貧しい朝鮮人集落という話を聞いていたのですが、実際に行ったのは、母の運転手としてだけでした。旭区の清水というところにも、同じように母すごくが可愛がっていた遠縁の姉さんの実家があったらしく、何度か通いました。
コウバの仕事の一環で、不渡りでひどい損害を被った時には、その倒産した得意先に父と一緒に車で駆け付けて、何もできなくて、ひどく空しい思いしながら、言葉もなく帰路についたものでした。
 そんな会社も淀川の向こう側の豊崎や中津あたりにあり、我が家のコウバの得意先は、何故かしら、淀川の向こう側の豊崎、中津に集中していたわけです。
 他方、頼母子の札入れ、つまり、参加者がそれぞれ希望の利子をメモした紙片を提出して、その中で最も高利な札を出した人が、その月に頼母子を下ろす権利を持ちます。頼母子のメンバーは、その利子を引いた額を支払い、降ろした者はその全額を受け取ることができるのです。
 そんな頼母子兼夕食会に参加する両親或いは、父か母のどちらかを車で送り迎え 焼き肉屋でした。僕はそんな送り迎えでずいぶんと両親の親密圏の土地勘は培ったわけですが、僕にとってまったく楽しいことではなかったので、好い感情を持つはずもありませんでした。
 それにまた、親などに刷り込まれた地域ごとのイメージが僕の頭に偏見として刻み込まれたので、鶴橋や淡路以外は、何かしら自分の意志で足を伸ばすようなことは殆どありませんでした。だから、僕にとってはその地域は長年にわたって、死角のままでした。その地に積極的に足を踏み入れるようになったのは、ここ二年のことに過ぎません。それだけに、そのあたりを歩くと、慙愧の念が付きまとい、気が重くなったりもするのです。
 「おまけ」のつもりが長くなりすぎました。今回はここまでにします。お付き合い、ありがとうございました。

折々のメモ28 6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く

2025-05-22 09:13:23 | 折々のメモ
カテゴリー:折々のメモ28

6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路 を歩くー
故塚崎昌之さんの資料に導かれて在阪朝鮮人の歴史を歩く―2025年第1回、通算第8回(それ以外にテストの2回も含めれば第10回目)の世話人としての玄善允の個人的報告

お断り
カテゴリー分類が混乱して申し訳ありません。今回はとりあえず、これまでの延長上で、この記事も「折々のメモ28」としますが、今後はこの種のものは。「在日関連のフィールドワーク」に統合して見つけやすくしたいと考えています。何をしても統一性、一貫性がなくて、なんとも情けないことです。

日時;2025年5月17日13時(午後1時)
集合場所:阪急天神橋筋六丁目駅(堺筋線・北改札口前)
解散場所:阪急千里線下新庄駅周辺の予定だったが、実際には東淀川駅周辺で解散した。
参加者:12名。その他にも出席を予定していながら、事情で参加できなかった方が2名。Kさんは家族の大怪我のせいで、もう一人のIさんは転居でエネルギーを使い果たし、体力に自信がなくなったから、との連絡を受けた。
 初参加もお二人で、Oさんは長年にわたる日の出地区の居住歴に加えて、差別撤廃や平和運動の一環としての調査や運動歴も長い方です。故塚崎昌之さんの最後の論文の貴重な協力者でした。コース後半の長良川南詰の弾痕の記念碑以後は、そうした経歴ならではのお話を実にたくさん聞かせていただけました。詳しくは後述しますが、塚崎資料に基づく僕らのFWとしては、塚崎さんの研究と縁のある方からお話を聞ける得難い機会ともなり幸いでした。
もう一人のRさんは思春期の頃まで、本日のコースの地域で暮らすなど、地域と深い因縁がある方でした。昔の地元感覚に基づく、これまた貴重な話をいろいろとお聞きすることができました。
 この報告を書いている僕自身もその周辺で生まれ育ち、随所で家族がらみの思い出があり、その一部は参加者に披露する機会となりました。
 僕らのFWは、案内人と参加者との境界がしだいに曖昧になって、参加者のそれぞれが案内人にもなって、互いに言葉を経験や印象などについて言葉を交わしながら、その地域における在日の歴史はもちろん、その地域自体の歴史と現在を、多角的、重層的に感じとる傾向が強まっており、今回もまさしくそうでした。
 参加者の男女別は女性4名、男性8名と男性の方が多かったのですが、欠席者のお二人が女性だったことも影響していそうです。
 民族別では、日本人8名、在日が4名と日本人が多数で、これは毎回、あまり変わりません。在日は在日の歴史にあまり興味を持たないのか、或いは、自分は分かっていると思い込んでいるのかもしれません。
 それはともかく、在日だけが在日の歴史に関心を持っているわけではないといった、ごく当たり前のことを改めて確認できるのは、僕には大きな励みになります。
 このような男女別や民族別の情報開示は不要で、むしろ、望ましくないと考える向きもあるでしょう。しかし、僕はそんな内情も明らかにすることで、この種のイベントへに関心を持ちながらも、参加を躊躇っている方々にとって、参加のハードルが少しでも低くなることを願って、敢えて記しています。ご理解のほどをお願いします。
 ついでに言えば、年齢は50歳前後から85歳くらいの幅で、平均年齢は70歳くらいでしょうか。平均年齢を大きく押し下げる、例えば、僕の昔の教え子さんたちなど若手が一人も参加していなかったので、高くなったのかなとも。但し、いつもと比べて、特に年齢層が高いという印象はなくて、皆さんワイワイガヤガヤとお元気だったからでしょう。
ともかく、年齢など気にせずに、気分転換も兼ねて、一緒に歩きながら、お喋りを楽しみましょうというのが、この種の情報開示の趣旨なのです。
 毎度のことですが、今回も天候が大きな気がかりでした。若くて元気でさえあれば、多少の悪天候など気にしなくても済むでしょうが、僕らのような高齢者集団が悪天候下で慣れない街中をうろつきまわるのは危険です。足元がおぼつかないことに加えて、雨から身を守るはずの傘が、強風下では危険物に変貌しかねないからです。
 今回は他の事情もあってのことですが、世話人の金稔万さんが車で足や体調が気がかりな方は載せて、次のコースに運ぶという選択肢も用意していたので、心理的負担が相当に軽減しました。現に2名はそのようにショートカットして他の一行と再合流しました、
 繰り返しになりますが、この種の屋外イベントは、天候の良し悪しがいつだって大きな気がかりとなります。今回も一週間前ほどから毎日、長期予報を見ては一喜一憂。一週間前の予報では、晴れか曇り程度だったのに、日ごとに悪くなって、前日の予報では絶望的になってきました。
 ところが、それは僕の携帯の予報(ウエザーニュース)に基づくものに過ぎず、パソコンで確認してみたヤフーの予報では、まったく印象が異なることを発見して、詳細で信頼に足る感じがあった後者を信じることにしました。
 当日の午前8時の時点では、僕の自宅がある西神戸の塩屋でも風雨が激しくて、断念を覚悟したのですが、ところが、ヤフー予報の1時間ごとの降水量と風速を見ると、決行可能と判断できました。そして、実際にもその予報通りでしたので、ヤフーの天気予報の精度に驚嘆しながら感謝の気持ちになりました。
 行程で僕らが傘を開いたのは、3時頃の5分ほどだけのことで、予報でもその時刻に限っては、ごく少量の雨と記述されていました。
 以上のように雨は免れましが、その一方で、強風には少しびくつきました。予報通りに相当にきつい風が吹く時間帯もあったのです。ある参加者は十分な体重のように見受けられるのに、「強風に体が運ばれそう」と冗談まで。
 ともかく、今回の天候で遅まきに学んだことが一つあります。高齢になるほど、傘よりも雨合羽が安全なことです。傘は異常気象が常識となった現代の、しきりに、しかもいきなりの突風を含めた天気の急変に対処できないどころか、いたって危険です。だから、今後の屋外のイベントでは、傘ではなく雨合羽が必携というのは、まさに僕らにとって重要な知恵となります!
 10年以上も前に購入して、5年前の台風下の済州フィールドワークの際に使用して以来、一度も使用していなかった合羽の出番が今後は増えそうなので、嬉しくなってきました。
 以下では先ず、塚崎昌之さんが遺し、参加者には事前にメール添付でお送りした15頁に及ぶ資料の一部(2頁足らず)をほぼそのまま入力することで、僕らの街歩きの概況を知って頂きたいと考えました。

予定コース
① 天神橋筋六丁目近辺:大阪が近代化・工業化する中で、社会の「底辺」労働者の吹き溜まりとして下寺・今宮と並ぶ木賃宿がならぶ「貧民窟」に。1910年代半ばから、朝鮮人もこの周辺にあるガラス工場などに使用され、大阪で最も朝鮮人が早く定住していった場所。大阪(日本)最大の「朝鮮人遊郭」街も自然発生した。

② 北市民館跡:1921年、大阪市が全国に先駆けて設立した公営セツルメント。この時代の館長が、日本の「福祉の原点」を築いたと言われる志賀志那人。志賀は同じクリスチャンで在阪労働運動にもともと参加していた賀川豊彦や、当時の助役で後の名大阪市長と呼ばれた関一との親交が深く、自らも天六に移り住んだ。彼は施しではなく。貧民が自ら立ち上がり、相互扶助的な協同組合を作ることにより貧困からの解放がありうると考えた。
③ 済美第四小学校(現天満小):大阪における朝鮮人教育発祥の地。1923年に付近のガラス工場などで働く朝鮮人のために、日本人校長の尽力で夜間の特別学級が設けられた。少年から青年に至る多くの朝鮮人が、仕事に疲れた体で修身・日本語・朝鮮語・算術を熱心に学んだ。学用品は支給、授業料も無料であった。関大の学生で大阪の朝鮮人留学生の学友会委員長を務めた民族主義者も教えた。当時の校舎が現存するが、現在、保存か解体か、論議が続いているらしい。
④ 内鮮協和会隣保館跡:1924年5月、関東大震災の後、朝鮮人の「保護救済」機関として大阪府内鮮協和会が設けられた。理事長は大阪府の内務部長が勤めた。その事業の一つとして、1927年に付近の朝鮮人のためのセツルメントとして内鮮協和会隣保館が設けられ、職業紹介、授産事業、慰安会などを行った。同施設内には学齢期を過ぎた朝鮮人のための夜学校も設けられた。また、隣接地には宿泊所31戸の住宅が設けられた。建物は現存しない。
⑤ 豊崎勤労学校・長柄共同宿泊所:前者は1925年に、就学困難な子供に対する教育の普及を目指して企図・設立された学校で、普通教育とともに家具・玩具・塗工・ミシンなどの職業指導が行われた。後者は1926年に建築された単身労働者のために宿泊程施設である。現存するが解体工事中のようである。
⑥ 長柄橋跡:大阪市の北東部を襲った1945年6月7日昼の第三次大阪大空襲は、被災面積に比べて死者も多く、大阪大空襲の中でも最も激烈な空襲であった。焼夷弾・爆弾・機銃掃射と3種類の攻撃が同時に行われたからである。天六などの大阪市内の密集地帯に住む人々は、淀川を渡って郊外である北に逃れようとした。P51ムスタングの機銃掃射で追われた人々に、橋上や橋梁の下で多くの惨劇があった。・・戦後しばらく、河原には1トン爆弾で空いた穴に水が溜まってできた「爆弾池」が数多く残っていた。新長柄橋の建設に伴い、1983年に旧長柄橋は完全に撤去されたが、新長柄橋の南には、空襲犠牲者のための明倫観世音菩薩像が設けられ、長柄橋の弾痕痕も保存されている。
⑦ 柴島高校「奪われし者の叫び」の像:1984年、「オオサカの中のヒロシマ・ナガサキ」として、沖縄の彫刻家金城実氏の指導の下、柴島高校の生徒たちが作った長柄橋付近の惨状の樹脂像と長柄橋の弾痕片で構成される。
⑧ 柴島浄水場:1908年から工事が始まり、朝鮮人も関わった。その労働者たちは浄水場付近の被差別部落の周辺部に形成されたスラムに住んでいたと考えられる。崇禅寺の駅前には日本で最初と考えられる朝鮮寺も作られた。崇禅寺駅の北東には6・7空襲の浄水場の壁面の弾痕が遺されている。
⑨ 崇禅寺:被差別部落・スラムが密集するこの付近にも、6月7日、焼夷弾・爆弾が降り注いだ。住環境の悪さもあり、多くの犠牲者を出した。崇禅寺には518名もの死体が運び込まれた。しかし、朝鮮人は日本人と同じところには埋葬されなかったという。1953年に建立された「戦災犠牲者慰霊碑」には多くの朝鮮人の名前が刻まれる。
⑩ 西淡路小学校前:この小学校の前には、朝鮮人のためのキリスト教会があり、多くの朝鮮人が団結していたと言われるが、詳細は不明である。
⑪ 高射砲陣地;7センチ高射砲6門が備えられた。・・・十三の武永(武田薬品)を中心とする軍需工場を守るために設置されたものであり、大阪の民衆を守るためのものではなかった。200数十人ちかい兵士が配置されていた。
⑫ 延原製作所(現延原倉庫):戦時中は海軍の指定工場として魚雷などを製造した。強制連行された朝鮮人を使用していたと言われる。1945年の初夏からは、高槻の服部に地下工場の建設も始めていた。付近には現在も「朝鮮人部落」が存在するが、延原製作所との関連はまだ解明されていない。
⑬ 城東貨物線:大阪城公園周辺にあった東洋最大の兵器工場の大阪砲兵工廠と日本全国に物資を集散するために吹田操車場を結ぶために軍事目的をもって作られた特別な線路。1929年に完成したが、その建設工事にも多くの朝鮮人が関わった。

 念のために繰り返しますが、以上の記述は塚崎資料そのままではなく、割愛したり、加筆した部分もあります。因みに、この種の塚崎さんが遺してくれたフィールドワーク資料は、今年の秋には、東京の在日韓人歴史資料館でその全貌を見ることができるようになりそうですので、乞う、ご期待を!詳しいことが分かりしだい、何らかの方法で、お報せするつもりです。

 今回に巡ることができたのは上述のうちの①~⑨まで、それ以降の⑩~⑬は時間不足その他の事情で断念しました。
 事情というのは例えば⑪は、昨年までは一か所だけでも残っていたのですが、それも今や撤去されてしまったからです。しかし、ネットで「淡路の高射砲台」を検索すれば、多様な写真とすごく詳しい解説をみることができますので、参考までに。
 その他、⑫⑬は僕自身は何度も見たことがあり、面白い話もいろいろとありますが、あまり詳しくない僕が知ったかぶりで不確実なことを書くのは申し訳ないので慎みます。
 しかし、その代わりというわけでもないのですが、案内人役の高野さんのたっての願いもあって、今やすっかり更地になってしまった山下飯場跡と善教寺には、上でも紹介したように、この地域ついては格別に詳しいOさんに案内していただき、実に多様な話を聞くことができました。
前者の山下飯場は、塚崎さんが人生最後の論文で、市役所職員が実地調査に訪れて、「こんなひどいところは見たことがない。人間が住めるところではない」と言わしめるほど劣悪な居住施設だったことなどを詳述しており、その塚崎フィールドワークの愛弟子の高野さんとしては、跡地でも何でもいいから、確認したかったのだろう。さすがに歴史家の情熱はすごい。
 その他、コースの途中では上でも触れたように、僕(玄善允)がファミリーヒストリーその他に関連することを、少しだけ話しました。具体的には、(ア)大阪では昔から有名だった行岡外科病院、(イ)豊崎地区、(ウ)関大学舎跡に関連したことです。その他、淀川とそこにかかる長柄橋が僕ら子どもにとってどのようなものであったかも少しだけ。
 大阪の都心からすれば淀川の北側の川向うで生まれ育った僕などは、長柄橋を越えて「都市の中心に足を踏み入れること」が、成長の一段階を超えるスリリングな冒険の意味を担っていたことなどです。
 さらに言えば、国鉄東海道線の西側で生まれ育った僕らは、その東海道線を東に越えた地域に関しての偏見を、地域や家の大人たちから、とりわけ小中時代には教師から、折に触れて刷り込まれていたことを、この地域を歩いていると、今さらながらに痛感して、心が重くなってしまいます。
 ところで、上で(ウ)として挙げた、関大の天六学舎では長らく二部に限っての授業を行っていたのですが、その頃に数年間、僕も仏語を教えに通っていたことがありますが、それ以上に済州との関連で大いに関心を掻き立てられたことがありました。
 済州の貧しい家の子どもは、中等教育を受けるのはすごく難しかった。済州には中等教育機関は農学校しかなく、その定員がすごく少なかった。そこで、中等教育を受けたければ、陸地のソウル、光州、木浦などの中学校などに行かねばならないが、それは並みの家庭の子どもではとうてい無理だった。当時の済州は全羅南道に属していたので、その中心である光州の中学や師範学校に進学できるのは、相当な資産が必須だった。
 在日の有名な詩人である金時鐘さんはその1人だった。しかし、一般の子どもはそういかなかったので、浮かび上がったのが大阪である。大阪で働きながら夜間の商業学校、例えば、関大の卒業生が経営する北陽や興国に進み、さらに高等教育を望めば、これまた働きながら、関大の専門部つまり二部に進んだ。そして卒業後には高等文官試験や司法試験に挑戦して、立身出世の道を切り拓いた。朝鮮人の関大卒業生の少なからずが、そのような履歴を持ち、特に済州出身者にとって、そのコースは命綱のような機能を果たしていた。関大の天六学舎は貧しい済州の向学心を持った子供にとっての希望の星だった。
 ところで、塚崎さんは在阪朝鮮人史における天六地域の重要性を夙に力説し、在阪朝鮮人史における生野区の猪飼野神話と左翼民族解放運動理論にはむしろ意識的に距離を置き、そうした先験的なイメージを解体する方向で在阪朝鮮人史を考えていらした。実際に歩きながら改めてそんなことを思いだした。
 朝鮮が日本の植民地になった当初から既に、多数の朝鮮人がこの地区に住み着き諸種の活動を展開していたが、その中でも日本人と朝鮮人が多様な形で協働していたことに、塚崎さんは日を当てようと努めていた。本日のコースの⑦までの多くがその種の歴史の現場だった。
天六や天八地域は、昔の大阪の地理としても重要なところである。
 大阪の街の北のはずれに位置する天六は、昔から境界的な意味を刻まれた施設が随所にある。長柄墓地、火葬上、そしてスラム。そこから淀川を越えた「川向う」には崇禅寺と広大な被差別部落地域があり、歴史的にひどい扱いがなされてきた。そんな中でも、被差別部落の人たちと朝鮮人との、そして日本の行政に関係する人々その他と朝鮮人との協働の試みが数多くなされ、それが時には大きな成果もあげた。そんなことに対する鋭い嗅覚,視覚を備えた塚崎さんの継続的な研究、そしてその過程でできた人の環、その一部を今回も痛感した。
 ところで、僕の家族と豊崎地域のことを書きそびれていたので、それについて少々。
 わが家とコウバt淀川の北側にあって現在の淀川区(旧東淀川区が分区して東海道線以東の現東淀川区と以西の淀川区になった)の地下鉄東三国駅を挟んでいるのだが、それは父の叔母が1920年代からそこに単身で暮らし、父が渡日する際に最も頼りにした血縁だったからである。しかし、父にはもう一つの頼りにする拠点があった。淀川の南側の豊崎地域に定着していた父のすぐ上の兄夫婦だった。父は渡日直後にはむしろ、その姉夫婦の世話で職住を確保できて、定着の基盤とした。ところが、戦争末期の大阪大空襲で最も頼りにしていた義兄が死亡、生計の目途が立たない姉は、幼い二人の子供を連れて済州に戻らざるを得ず、父のその後の生活の地の選択肢の一つはなくなり、叔母の家の近くの日本人集落で両親は新婚所帯を始めることになった。しかし、その後も父は、コウバの得意先が豊崎地区や中津にあったので、亡くなる直前まで、淀川を殆ど毎日横断しながら暮らしてきた。交通手段は、運搬車という大きな自転車、バイク、ミゼットという三輪の小型トラック、一般の小型トラック、中型トラックと乗用車といったように変化したが、その人生は長柄橋を往来しながら、つまり、大阪の街の北の場末の豊崎、中津地域と、川向うの大阪の僻地である北中島の圏域の日常だったことを、今回も歩きながら僕はずっと考えていた。。

 解散は阪急の下新庄駅を予定していたが、後半の目的地をいくつか断念したこともあり、山下飯場からの最寄り駅は新大阪だった。しかし、あのひどい新大阪駅の旅行者の人混みは避けたいという思いが強くて、隣駅である東淀川駅の方に向かって、駅近くで解散した。
 そして有志は僕のお気に入りの中華料理店「紅海月(べにくらげ)」で打ち上げの会を行った。
 二人は他に用事があって既に去っていたし、さらにお二人は帰路につかれたので、残されたのは総勢8名だったが、厚手のクラゲの酢のものの格別な食感、豚足の揚げ物の独特な味わい、その他、何を食べても満足させてくれる店での酒宴が楽しく続いた。
 そのうちに、次のような思わぬ話まで聞けて、この種の集まりの醍醐味まで堪能できた。
たまたま同席することになった、僕と同年配のお二人の間で、斎藤幸平に関する議論が始まった。僕には斎藤幸平のことなんか何も知らないので、お二人の議論に対する僕の興味を説明するのは難しい。しかし、左翼は今でも生き残っている、といった、それも爽やかな感じに加えて、その左翼は馬鹿にされるべきではなさそうに感じて、安心したというか、感動したというか。断じて、老人のノスタルジーではないと僕は思いたいが、はたしてどうだろうか。
 共産党の旧古参専従者と全共闘出身の殆ど同年配のお二人は、このフィールドワークの一年来の常連でありながら、どちらも人見知りするのか、これまでは殆ど言葉を交わしたことがなかった。ところが、何かの拍子で斎藤幸平の名前が出たとたんに、それぞれのマルクス観、斎藤幸平観を実に率直に、しかもご自身の立場や人生と密接に絡めて語り合い始めた。意気投合というわけでもなかっただろうが、互いの率直さに互いが気持ちよく反応しあうというか、傍から見ていて気持ちよかった。
 僕はその種のことに関しては門外漢どころか、今や本をほとんど読まなくなったし、そもそも<大きな思想>には40年以上も背を向けながら生きてきたので、何のことやら良く分からないが、ふたりの真摯な語り口には本気で感動した。なるほど、今でも、いつでも、思想を生活の中で活かしながら生きている人がいるのだと。こんな刺激は久しぶりである。
 次いでは後日談。4日後の水曜日の早朝、以下のようになんとも意外なラインメッセージを二つ受け取った。
 先ずは長らく難民支援の活動を継続しているOさんのメッセージ。
今回のフィールドワークで大きな収穫がありました。玄さんの弟さんがかかった行岡病院です。お話きいてピンとアンテナが立ち、帰って早速調べると「手外科」ありました。月曜日に早速問い合わせ、今コンゴ人男性がお世話になっているケースワーカーさんが行岡のケースワーカーさんに連絡をとってくれ6月2日に初受診の運びとなりました。
コンゴ人男性は年初に睡眠薬自殺をはかり、発見されるまで何日間もピクリともせず寝ていたのでしょう。体の下側となった部分にはひどい褥瘡ができ、当初は歩くのも困難でした。が、緊急搬送された病院は一晩で追い出されました。褥瘡がわかってからは、彼を連れ何軒も病院を探しまわりましたが、実費を払うといっても、どこも診てくれず、ようやく堺の無料低額診療実施の病院で医療につながるまで2週間ほどかかったでしょうか?幸い褥瘡は紆余曲折を経て完治しましたが、左手指二本に麻痺が残りました。堺の病院の整形外科は小さく、手外科のある病院で治療するよう言われたものの、手外科のある大きな病院は、診療報酬300%のうえ手術費は前払いを要求され断念しました。診療報酬300%で、手術入院費用は前払いでなければいけないなんて、診療拒否にひとしい・・。行岡病院が100%で受け入れてくれてほっとしました。
玄さん、貴重な情報ありがとう!

 次いでは、長らく高校教師として在日の子どもたちに寄り添い、今も在日外国人の人権問題の運動を継続し、久しぶりに武庫川を越えて参加してくださったKさんのメッセージ。
昔、就職差別が今よりもっと厳しかった時、就職を考えて、医学系に進学するコリアンカルチャークラブの部員が多かった。
 医師資格が取れる医学部への進学が現役では、無理な生徒さんは、医療専門学校に行く者が多かった。
 天六の行岡医療技術専門学校は、民族差別が比較的少なく、落とされ難かったのを覚えてます。
 行岡病院と、関係のある学校やったんかな??

 こんなことをどのように言うのだろうか。僕の話の方に焦点を絞れば「瓢箪から駒」、Oさんの活動に焦点を絞れば「一念、岩をも通す」かな。
いずれにしても苦手な難問を抱えて苦しんでいる僕には大きな励ましになった。感謝!
 報告としての誤りその他、忌憚のないコメントを頂いて、共通の体験となれば、幸いです。

折々のメモ27、広島の「加納実紀代資料室サゴリ(以下ではサゴリ資料室と略記)」訪問と 宇部の長生炭鉱のフィールドワーク

2025-05-10 09:08:04 | 折々のメモ

折々のメモ27
広島の「加納実紀代資料室サゴリ(以下ではサゴリ資料室と略記)」訪問と
宇部の長生炭鉱のフィールドワーク
断り書き
1.はじめに
2.予定
3.実際の行程:初日の広島・サゴリ資料室
4.宿泊:広島駅近くの東横イン
5.二日目の実際の行程:宇部の長生炭鉱付近

断り書き
タイトルの「折々のメモ27」は次の事情による。
「折々のメモ26」がブログ会社の規定で公開されなくなったので、ブログでは見ることはできないが、関心のある人は連絡を頂ければ、メール添付でお送りする。
ブログ上の「折々のメモ」のカテゴリーでは、前回の記事が「折々のメモ2」5、今回が「27」なのは、僕の立場から言えば、間違いではない。何が何だか分からないことがいろいろとあって、柔軟に対応しないと、生きていけないと自分に言い聞かせている。

1.はじめに
 2025年2月末には神戸から東へ向かった。南信州の満蒙開拓平和記念館と東村山市のハンセン病資料館を訪問後には、東京で長女を含めて旧知の人々7名とそれぞれ個別に、別の場所で会って長々と話し合って、一か月分くらい話した気がするほどで、既に咽喉がおかしくなっていたのに、帰路にはさらに名古屋に立ち寄って、旧知のご夫婦と近況も含めた貴重な話も聞きながらの会食を終えてようやく、今度こそ正真正銘の帰路についた。
 ところが、帰宅してすぐに、3月の初旬には神戸から西に向かう計画を立てた。広島市内を歩き回ってから、駅北の山腹に位置するサゴリ資料室を訪問して、資料室の旧知の関係者と懇談し、その翌日の午前中には宇部の長生炭鉱を初訪問、午後には下関市内再訪という計画だった。しかし、その間にはいろいろと私的事情もあったし、事前準備の意外な進捗もあって、計画を大幅に変更したが、ともかく実行して、無事に、堪能して終えることができた。
 以上の旅のすべてが、実は数年前に終わってているはずの公的研究補助金による調査活動の一環で、期限がコロナ禍のせいで延期に延期を重ねることを余議なくされていたが、それもようやく完了となった。予算の完全執行を果たしたのである。
 そして、それを最後に、僕はそうした公的研究資金による調査旅行とは縁が切れて、やれやれといった気持ちと、長らくお世話になったと感謝の気持ちとがないまぜだった。
 実は、これが最後だからと、その間にできそうなこと、しなくてはならないことはすべて終えたいという焦りもあっての、年寄りの冷や水と言われかねない東奔西走だったが、その甲斐は十分にあった。それになんとか無事に、しかも、満足して終えることができたのは、本当に幸いだった。
 それも含めて、実に多様な形で、まさしく余生に入ったことを痛感しながら、以前よりも自由なはずの時間をどのように活用するか、そのヒントも今回の旅で得た。
 計画からは大きく変更を余儀なくされたが、かえってそのおかげで、これまでになんとなく培ってきた人々とのつながりが、僕にとって占める意味の大きさを改めて思い知った。余生でもそれも糧にして、生きる喜びをさらに発掘する方向でのんびり毎日を送りたい。
そんな心境になっているので、今回の報告は、公的報告では無視されて当然の、まさに僕に相応しい私的な事柄に比重を置いて書くことにする。

2.当初の計画
 既に触れたように、事前の計画と実際の旅とでは大きな変化があったので、それがよく分かるように、先ずは、当初の計画を明らかにしておく。
日時:2025年3月6日~7日
目的地:広島・宇部(長生炭鉱)・下関
初日は自宅から広島へ。以下の記述における、➡の後は、その前に記した目的などの事情や理由をその後に記しているという意味である。
① 広島平和公園周辺のかつての在日集住地区及び平和公園内の韓国人被爆者の慰霊塔とその周辺、さらには、在日少年少女たちの「祖国帰国」を記念して建てられた時計塔などの現況の確認➡前回は韓国人被爆者の慰霊塔周辺で、韓国の統一教会の女性が待機して、しつこく勧誘するので、僕は珍しく不愉快になって、すごく邪険にしてしまった。そんな情けない経験の記憶を振り払うためにも、何としても再訪して、慰霊塔を見つめたかった。既に、4,5回は訪れたが、その間の僕の印象の変化なども確認したかった。その他、民族学校の生徒たちが北に帰国する際に記念に建てたという時計塔の時計が、前回はすっかり廃れて時計も止まっていたので、それがその後にはどうなったかが気になっていたので、それもぜひとも確認して在日の歴史の一齣として自分の記憶に刻みこんでおきたかった。
 
② 女性史研究と在日研究とが交差する研究拠点、及び、多様なジャンルの活動の出会いの場として創立された「サゴリ(交差点)資料室」の現況を確認すると共に、主宰者の高雄氏とその協力者である安氏と面談。➡旧知の二人と旧交を温めると同時に、絶景が自慢の資料室の雰囲気を楽しみながら、その整備の進展と利用状況の変化などを確認したかった。

③ 広島駅近くで宿泊➡昔馴染みのホテルチェーンである東横インがアクセスなどでも恰好と勧められたので、久しぶりにそのホテルに泊まって、昔とどのような変化があるかも確認したかった。他にも数多くのビジネスホテルのチェーンがあるが、その先頭を切っていた東横チェーンの現状はどうかというのである。

二日目の午前中は広島から宇部に、午後は宇部から下関に、そして、下関から神戸の自宅に。
④ 宇部炭鉱群の中でも特に、朝鮮半島出身者が多数、1942年に水没した長生炭鉱の発掘調査の現況の確認と関係者(「長生炭鉱の<水非常>を歴史に刻む会」など)のインタビュー➡以前に済州で会食した方が、その長生炭鉱に関する市民運動に関係していらしたことを、ふと思い出してのことだった。その後、10年以上も経つのに、僕はその間にその運動に全く関心を示さなかったことに対して罪悪感も覚えて、遅まきながら勉強を始める契機になりはしまいかという気持ちもあっての訪問。

⑤ 下関駅近くに位置し、かつては日韓交流の中心となっていた商店街、そして港湾周辺のかつての遊興街などの現況を確認➡コロナ禍が始まった頃に、筑豊、下関、そして広島を巡った際に、雨の中を下関駅近くのかつての歓楽街その他を一人で歩き回りながら、これは是非とも、再訪すべきと思っていた。しかも、その後には大阪や神戸の在日二世や三世の様々な運動の活動家には何故かしら下関の出身者が多いことに気付いて、それが一体どうしてかなど、下関と関西との関係、特に人的交流に関心を持つようになったので、そうした関心を念頭に再訪してみると、どのような印象になるかを確認したかった。
 
3.計画変更の事情について
 以上の計画は以下で細かく記すように、実際には大きく変わった。それには二つの理由があった。一つは悪いこと、他方は良いことだった。
1)格好のガイド、トモダチの環
 先ずは良いことから始めよう。
10年以上も前、僕が遅ればせに、本籍地である済州に関する勉強を始め、そのために春と夏の長期休暇を利用して済州滞在を繰り返していた頃のことである。日本の知人であるAさんから、知人の紹介とその人たちに関しての依頼のメールを受け取った。日本の学校で在日の子どものために何かと尽力している教員ネットワークのSさんとUさんの二人が、ちょうど済州を訪問しているので是非とも会って、済州についていろいろと教えてあげて欲しいと言う。
 僕には教えられそうなことなど何一つないが、一人で食事するのにうんざりしていたので、食事と酒の相手、それも日本語で話せる相手はすごくありがたいので、当時、済州で人気を博していた少し変わり種の焼き肉屋に案内して、酒と済州の豚肉と会話を楽しんだ。
 その1人であるSさんは筑豊の方で、その後には僕が特にお願いして筑豊のフィールドワーク案内をしていただいたし、そのお返しというわけでもないのだが、Sさんは僕が主宰した「済州の歴史と生活文化のフィールドワーク」に参加していただいた。そしてその後は、僕とSさんはそのライングループのメンバーになっているので、互いの近況が分かり、その他の要件でも連絡を取り合ったりもしてきた。
 もう一人のUさんは、長生炭鉱に関わる活動を長年にわたってなさっているような話を少しお聞きしたが、その後、せっかく長生炭鉱のことを教えていただきながら、その長生炭鉱に関する勉強をすっかり怠っていたことが恥ずかしくて、連絡も取れないでいた。そうした記憶もあって、今回の旅のコースに入れたわけだが、実際には一人で行ったとしても何一つまともことなどできそうにない、とあくまで次回の訪問のための感触を得る程度のことを想定していた。ところが、折角の機会だからと、筑豊のSさんに連絡して、Uさんとの中継ぎをお願いしたところ、翌日にはUさんご自身からメールが届いて、こちらの都合に合わせて、終日の案内が可能という、思ってもいなかった有難い話、しかも、終日のコースの候補まで丁寧に作成して送って頂いた。さらには、今回のフィールドワークの事前学習用の文章も作成してくださると言い、翌日にはその事前学習用の文章も届いた。
 お願いした時点では詳しくは知らなかったが、Uさんは宇部の長生炭鉱地域の案内人としては、他に匹敵する人などいそうにないほどの方(「長生炭鉱の水非常の歴史を刻む会顧問」)で、自宅は北九州なのに、当日はその自宅からかはるばる車で新山口まで迎えに来て、その車に載せて宇部に向かい、長生炭鉱周辺を終日にわたって案内し、さらに夕刻には新山口まで送ってから、北九州の自宅にお帰りになるという。そんなことになるなんて、すっかり感激する一方で、ますます申し訳なくなった。当然、予定していた下関訪問は次回に期すことにした。
 そうした長生炭鉱関連の僕の予定を、広島で会うことになっているお二人に伝えたところ、彼女たちも是非とも同行したいと言うので、Uさんに同行者が二人いても不都合がないかを確認したところ、すぐさま、了解とのことで、ますます長生炭鉱一帯のフィールドワークへの期待が膨らんだ。

2)僕の体調の変調
 次いでは悪い事情である。
僕は2月の東への旅で次々に旧知の人々に会って長時間にわたって話し込んだせいなのか、帰宅してからは咽喉の痛みと微熱に苦しんでいた。そして次の旅が近づくにつれて、咳き込みと発熱がひどくなるので不安になった。自分の体調の心配はもちろん、西への旅で約束している人々に迷惑を及ぼす懸念が募った。しかし、断念でもしたら、せっかくのご好意を無駄にすることになりかねないので、計画を断念すべきかどうかさんざん迷ったあげくに、当日の朝にはともかく決行するつもりで、旅の荷物を抱えて家を出て、最寄り駅の近くの、馴染みの医院に立ち寄り、診察に加えて、コロナとインフルエンザの検査も受けて、協力者に感染などの迷惑をかけない保証を得ることに決めた。
 検査結果はどちらも陰性だったし、肺のレントゲンも異常はなさそうだった。熱は最近の僕には珍しく39度近くの高熱だったが、動けないほどではないからと、とりあえずは解熱剤と咳止めを含めた数種類の処方を受けて、旅を敢行することにした。
 電車内でも発熱による悪寒は消えず、せき込みはいったん始まるとなかなか止まらない。新幹線ではそれが始まりそうな予感がすると、同じ車両の乗客に迷惑をかけるかと、口元をティッシュで抑えながら席を立ち、車両間のデッキに身を避けてようやく、心置きなく?咳こむといった状態で、なかなかに苦しかった。
 そうした事情もあって到着が予定よりも2時間以上も遅れたので、広島での僕のお得意の定点観測と銘打った、センチメンタルジャーニーめいた街歩きは、時間と体力不安で断念せざるをえなかった。

4.実際の旅1―広島のサゴリ資料室訪問(3月5日午後)
 広島のサゴリ資料館には今回で3回目、しかも、その主宰者の高雄さんとその仲間の安さんとは、コロナ禍が始まった頃に広島で、その後のコロナ禍が終わった頃には済州で落ち合い、同じホテルで泊まるなどもして、お酒を飲みながらたっぷりと話し続けた仲である。 
 広島駅の北側の山腹のサゴリの窓から、広島の絶景も眺めながら資料室の充実ぶりを確認しながら、楽しい時間を過ごしてから、場所を換えてお酒でもと気楽に考えていたが、体調が体調だけに酒は普段より慎しんだ。しかし、それなりの話はできた。
 ジェンダー問題と在日問題を交差させるというテーマを掲げて開室された資料室は来るたびに、見るからに充実し、アーティストや研究者や運動家その他の多様な人々が集う、一種の文化センターに成長している。
 必要なら泊まり込んでの合宿も可能だし、今回は高雄さんのパステル画のミニ展覧会もしていて、絵を楽しませてもらった。
 所蔵資料の活用の至便性を高める努力が実を結んでいそうなことを確認して、広島や中国地方を越えて、その試みの成果をさらに高め、輪を広げる一翼を担いたいと、僕には珍しいことも思った。
 翌日の宇部の長生炭鉱周辺のフィールドワークにはそのお二人も参加することになったので、案内してくださるUさんと4人の弥次喜多道中を楽しみに、普段よりはずいぶんと早めに別れた。
 安さんからは鳥取県の在日に関する論文の抜き刷りを頂いて、ホテルに戻るとすぐに拝読して、僕の在日に関する知識がすごく偏っていて、中国地方、とりわけ島根や鳥取などの在日史に関してはまるで無知であることを今更のように痛感させられた。ありがたいことである。

5.宿泊先
 広島駅から山側に徒歩5分の東横イン、20年前からは日本でも韓国でも旅の際には定宿にしていたが、10年ほど前からは中国人その他の団体客がワンフロア―をすっかり占領して、まるでわが家のように部屋間を往来しながらの騒がしさに耐えられなくなって、使わなくなっていた。
 しかし、駅と資料室の中間に位置するなどアクセス至便だからと高雄さんに勧められたので、久しぶりに利用したところ、さすがに歳月を経たので、変化がいろいろあって面白かった。
 とりわけ、経費節約の徹底ぶりには驚いた。備品その他に関しては、どこのビジネスホテルでもその種の努力と言うか簡素化が進んでいるが、東横インはその中でも、突出した印象だった。
 例えば、朝食サービスでは、10種類ほどのおにぎりと5種類ほどのスープと3種類くらいのジュース(スムージー)に統一して、それ以外には何もなくしてしまったが、客の様子を見ると、不満そうな気配はなかった。
 僕は朝食にはたっぷりのサラダが必須なので、少し不満だったが、スープとジュースで代用した。アクセスの便利さを考えれば、最近によくみられるホテルチェーンのように、牢獄に閉じ込められたみたいな圧迫感は免れる広さだったので、8000円は高くないと思った。

5.二日目:広島から新幹線で新山口まで
 午前8時に新山口駅まで「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」顧問のUさんが、住まいのある北九州からわざわざ迎えに来て、17時には新山口駅まで僕らを送っていただいてから、北九州に帰宅されるなど、終日にわたって懇切な案内の他に、上記の会のこれまでの活動の紆余曲折について詳細に話していただけた。
 車中はもちろん、長生炭鉱周辺を歩き回りながら、実に多種多様な話を伺うことができた。
広島から同行したお二人も、予想以上の経験と感動の様子だった。これに味をしめて、いつか広く呼び掛けて、山陽と筑豊の炭鉱などに関わる在日の歴史のフィールドワークの実施まで夢見る気分だった。そんな形でも先人の労苦の一翼を担いたいと思ったが、それが果たして僕に可能かどうか?

 Uさんが提案してくれた行程は以下の通りで、そのすべてを順番には異同があったが、予定通りに巡った。
① ピーヤ(海中炭鉱の排気。排水筒)の見える海岸。長生炭鉱の歴史を語る象徴的な光景で、その光景が慰霊碑にも見事に表現されていて、あらゆることに長年の取り組みの底力を感じさせられた。しかも、その慰霊碑の造形などには、韓国の遺族たちの主張も摂り入れられたとのことで、その詳細はまたどこかで書いてみたい。Uさんは、「刻む会」発行の証言・資料集(2011年から現在までに6号まで発行で、僕は1号と6号を頂いた)で、ひたすら関係者の証言を収集している。どれもこれも、すごい。
② 浄土真宗西光寺本堂(犠牲者の位牌が安置されている)位牌の安置という話だけでも、その現場で窺うと、さすがにリアリティがあって、僕には珍しく厳粛な気持ちになって、そこを行程に繰り込んでいただいた配慮に感謝した。
③ 源山墓地の東見初炭鉱遭難者之墓(1915年に603名が入坑、そのうち235名が犠牲者。ほぼ日本人)➡長生炭鉱との比較、富裕な炭鉱の場合、手厚い慰霊がなされていることが立派な墓碑から一目瞭然。長生炭鉱は中小の炭鉱として無理が重なった結果としての事故、つまり殆ど人災だったことが一目瞭然である。


④ 常磐公園記念館(1969年竣工)、炭鉱博物館もあって宇部の炭鉱の歴史などがよく分かる。
⑤ 公園内のボンボンレストランで昼食、少しお洒落な焼き肉レストランで、クッパを食べたが、給仕をしてくれた若い女性と話が通じず、困った。桂文珍の得意芸に、ファーストフード店の店員たちのマニュアル通りの言葉遣いの真似があって、いつも笑ってしまうが、そんな落語の前振りで声帯模写される女店員そのままで、僕ら4人の一行は大いにとまどって苦笑いするしかなかった。丁寧だけれども、予め想定されたやり取り以外の状況には全く対応できない様子だった。悪気はないのにそうなのだろう。料理の味はまずまずだった。
⑥ 長生炭鉱追悼広場➡やっと確保した敷地だったが、周囲では慰霊碑などを建てることに反対の雰囲気だったのに対して、その敷地の隣の家の主人が、「構わんじゃないか」との一声で、了承されたと言う。周辺で何かと発言力を持っていたその家の主人の娘さんが、韓国に嫁いでいるという偶然もあってのことらしい。人間やその集団の面白さである。

⑦ 抗口広場(地下5メートルに隠された抗口を発見してそれを可視化したのは2024年9月25日)
 発見までの苦労がしのばれた。さすがに現場に行かないと分からない感慨があった。その入り口近くに、昔からあった慰霊碑では、強制連行の歴史はもちろん、事故被害者の多くが、強制連行されてきた朝鮮人であることなどは一切ひた隠しにしながら、「受難者」を湛える文言で、歴史を歪曲して資本と国家に迎合する人たちの姿を眼前にする思いだった。そのような人々が支配する地域で、ここまでの成果を上げるに至った「刻む会」を中心にした運動のすごさ!。

⑧ 地域全体における地元民の、「刻む会」の活動に対する反応の濃淡に関わる事情なども、そこを実際に歩きながら聞くことができた。
 その炭鉱のかつての経営者一族の広大な土地屋敷が今でもその一帯に広がり、隠然たる影響力を行使していることが窺われた。豪邸の周囲の鬱蒼とした森林は、まるで屋敷を守る城壁、そしてそれは日本人の岩盤保守層と言われるようなものと類似した何かを象徴しているようにも感じられた。

6.個人的総括とその他
① 地域を何度も歩き回って聞き取り調査なども繰り返してきたUさんのような専門家と現場を歩きながら話を聞いていると、なんでもなさそうなことにも、歴史の重層性が窺われる。

② 川を一つ渡ることで、長生炭鉱に関する地域ごとの利害関係が変わり、調査に入った際の対応が正反対というような話もあった。

③ 今もなお<歴史の争奪戦>が続いている。公共の長生炭鉱事故に関する案内パネルがようやく建ったが、その文言の細部に関しての実に微妙で根本的な強制連行や多数の朝鮮人の死の意味についての沈黙を固守しようとする行政の抵抗などの攻防の話もあった。

④ 上でも触れたことだが、ひどい噓に基づく戦争礼賛の文言が刻まれた碑のすぐ近くで、長年にわたって埋められ、隠匿されてきた坑口を、ようやく見つけ出した人々の長年の努力には、本当に頭が下がる。

⑤ この地域には墓地がすごく多くて、それがことごとく立派なことに驚かされた。地方ではまだそんなことが一般的なのだろうか?或いは、この地域が裕福で、祖先崇拝が今なお盛んだからなのか、不思議な感じがした。

⑥ 長生炭鉱以外の大規模炭鉱の事故で亡くなった人々(ほぼ日本人)の慰霊碑はすごく立派で、それと比べると、歴史的に隠蔽されてきた長生炭鉱の犠牲者たち(その多くが朝鮮人)たちに対する沈黙と隠蔽が連綿と続いてきたことのひどさがよく分かる。

⑦ 出自も経歴も年齢も性も、何もかもが異なる僕ら3人が専門家のUさんと歩きながら、それぞれが繰り出す質問とUさんの説明に対する反応の多様性など、さすがにひとそれぞれであることを今更ながらに痛感し、他者と共に学びあうこと、教えあうことの貴重さを今更ながらに痛感して、その意味でも今回の旅は成功だった。

⑧ 下関にはいけなかったが、Uさんは実は下関の出身で松田勇作の家族とは親しく付き合っていたとのことだった。その他、僕の知人の中でも意外な方々がUさんのことを御存知ということを、何か話のついでに知らされて、それこそ世間は狭いのだが、それは世間というより、在日に関しての何らかの取り組みをしている人々の環があって、僕はの環の一部と知り合いというに過ぎない。しかし、その環の存在が、こんなになってしまった日本の、歴史改ざんと排外主義の中でもそれなりの抑止力になっているのだから、立派なものだと思う。日本の小中学校での在日の生徒に関する様々な取り組み、とりわけ、高校における朝文研活動に尽力した教員たちの今に続く粘り強い運動のおかげで、僕も少しはいろんなことに刺激されている。

⑨ 上でほんの少しだけ触れたが、広島、下関、宇部、そして筑豊をコースとしたフィールドワークという思いつき、いつか実現できれば、僕にとって大きな記念になりそうなのだが、はたして・・・

長生炭鉱からUさんの車で新山口に戻って別れ、僕ら3人は新幹線で帰路についた。広島で下車の二人と別れて、僕は塩屋の自宅に戻った。帰宅した時は既に20時を過ぎていた。解熱剤のおかげでなんとか無事に、しかも、相当な満足感を持って旅を終えることができたことは幸いだったが、さすがに疲れた。
          

折々のメモ24 東京東村山市のハンセン病資料館への旅(5)

2025-04-19 10:14:29 | 折々のメモ
折々のメモ24
東京東村山市のハンセン病資料館への旅(5)

7.前回のアナロジーに関する釈明
 前回に、伝染性疾患に関する僕の偏見と民族的帰属意識に関して、以下のように近似性を指摘した。
「・・・僕の体系的な恐怖症は、僕が在日二世であることと無関係ではなかった。僕は<在日という菌(病でもいい)>を生まれた時から体内に、或いは、心身に孕む保菌者であったから、それとハンセン病の先天的保菌者という信憑とは、連想としてはごく自然なものだった」の部分なのだが、それについては類似と同時に差異にも言及しなければ、とんでもない誤解をもたらしかねないとの危惧を持ったので、簡略ながら釈明しておきたい。
 僕の伝染症疾患に対する偏見と民族的帰属意識との間には近似的な側面があることは確かだが、それに劣らないほどに大きな差異もある。
 先ずは民族的帰属に関して、病原<菌>といった比喩を用いたのは、必ずしも安易な思いつきではないつもりだった。
 僕を取り巻く差別者は僕ら在日の<朝鮮人の血>に対して悪意を持ち、僕らをあたかも<朝鮮人の血という菌>の保有者として差別した。僕らは幼い頃からそんな視線や言動や処遇を受けてそれを体感するうちに、ついにはそうした差別者の眼差しと意識を内面化するに至った。自分が朝鮮人の血という蔑まれる菌を持っているからこそ、差別されるのだと理解し、その<罪>に対する劣等感をベースにして意識形成をした。以上が先のアナロジーの第一段階の趣旨だったが、重要なのは、そこで終わらない点である。続きがある。
 そのように僕らが保有する菌は固定的な性質を持ったものではない。意味付けによって可変的なものなのである。その菌に肯定的な価値づけをすることも可能なのである。例えば、むしろ獲得すべき民族的自覚として掲げながら、差別者に対峙するに至ることもある。
 僕らが持って生まれたのは<悪性の病原菌>などではなく、<新たな実りを生み出す酵母菌>と意味を変える。そんなものとして、自分が親から受け取った民族的帰属を意味づけることで、強いられた否定的自意識を転倒し、それを肯定的な存在証明にもなる。
 この第二段階では、僕が採用した<菌>のアナロジーは無効となる。そのように考える向きもあるだろうが、実は、必ずしもそうではないように、僕は考える。
 元ハンセン病患者の皆さんは、そのことだけで既に、社会が備える恐るべき排除・抑圧の体制の被害者であり、それら総体の問題性の証人でもある。<ハンセン病の菌>は単に感染症の病原菌にとどまらず、圧倒的な社会的意味が充填されたリトマス試験紙のようなものであり、それ自体が社会体制とそこに生きる人々の意識や言動の意味を明らかにする。そんな可能性を秘めている。
 その意味で言えば、僕が民族的帰属意識と感染症病原菌に関して用いたアナロジーは、この第三段階に至っても一定の有効性を保持していると言えるのではないだろうか。以上が僕が用いた菌にまつわるアナロジーを用いたことに関する、当座の釈明である。

8、保菌者の自覚と自己懐疑との相似性
 <自分がすごく忌み嫌う病原菌を他ならない自分の体内に保持している>という自己イメージ、それは必ずしも僕に特有のものでもなさそうである。かつて青春の知的煩悶に伴うシンボルのような位置を占めていた伝染性疾患の筆頭には肺結核があった。それは貧困や将来に対する不安と社会に対する異議申し立てや怨恨とも絡んでいた。そしてそれに続いたのが梅毒ではなかろうか。性的欲望を意識すると、それに関する倫理的な罪悪感、さらには、それらと何か密接な関係を持ったもののようにして、梅毒に対する恐怖に苦しむようになる。場合によっては、倫理的な罪に対する懲罰としての梅毒といった趣き、或いは、意識が強まつ同時に、それに対する恐怖に支配される。
 自分が既に感染しているのではないか、或いは、いつかきっとそれに感染するに違いないと恐れる。

 だからこそ、時には文学的テーマとなって、作品の形で昇華される。僕が若かりし頃に愛読していたアルベールカミュ、とりわけ『ペスト』では、ペスト菌の保菌者であることを免れない人間存在の宿命、或いはむしろ、理想的人間像としての伝染性疾患の<保菌者の自覚>というテーマを見出して、僕はすごく共鳴した。幼い頃から僕はそのことで苦しんでいたからだろう。
 その他、もっと身近な作家たちも、その変種とでも言うべき、梅毒にまつわるエピソードを活用している。
 僕が学生時代に愛読していた野間宏の『青年の環』にもそれに似た話があったような朧げな記憶がある。それはおそらく野間の被差別部落に関する強い関心とも関係しているのではと、当時の僕は微かに思った。その他、在日二世の作家である金鶴泳の作品にも梅毒の話があった。金の場合は、在日、暴力的かつ専制的な父の存在、生まれついての吃音者としてといった何重もの問題意識と梅毒の問題とが絡み合っていそうな気がしたが、あまり突き詰めて考えることはできなかった。ただ、僕が在日の作家としては最も親近感を抱いた金鶴泳の作品に、保菌者としての自意識があったことも、僕が彼に対して親近感を抱いた理由の一つだった。竹田青嗣が金鶴泳と対照的に、むしろ否定的に論じた李恢成に僕があまり関心を持てなかったことも当然と、当時の僕も既に思っていた。
 それはともかく、保菌者意識というものはなかなかに辛いことだが、そうした自己の暗い内部への関心は必ずしも否定的なことではないだろう。自己懐疑への扉を開いてくれる。
 カミュの『ペスト』はもちろん寓意であり、ペスト菌ももちろんそうである。例えば、ナチズムの寓意を読み取る人が多い。つまり、ペスト菌とは深いニヒリズムを暗示していると。
 権力欲や自己肯定の欲望に捉われて、デマゴギーに簡単に操られる温床としてのニヒリズムに対する警戒を、カミュはその作品で強調していたという理解もできる。
 僕はそれも含めて、人間が常に無垢なんてことはあり得ず、そのことに自覚的でなくてはならない、という自他に対する警告が『ペスト』の究極のテーマと見た。それがその作品を書いた当時のカミュの到達点だったが、その後のカミュはさらに深い自己懐疑を余儀なくされる。アルジェリア独立戦争におけるコロンとしての発言がアルジェリアからもフランスからも相手にされず深い無力感に苛まれる。さらには、長年の盟友だったサルトルとの激烈な論争で深く傷ついた結果として、あらゆる価値の喪失としての転落をテーマとして、究極的には言語の価値に対する絶望に至った告白として『転落』を書くに至る。そして、ついには、自殺説まで云々される不慮の事故死で人生を閉じた。そとまで見れば、『ペスト』における到達はやはり一時的なものに過ぎず、カミュの究極的到達点ではなかったが、しかし、不断の自己に対する懐疑がその出発点であったことは疑えない。
 それはともかくとして、僕は『ペスト』を読んだ際、「人間は誰でもペスト菌(傲慢や憎悪や羨望その他を含めた人間不信)の保菌者になることを自覚して、それに対する警戒を始めとした不断の闘いを続けることこそが、人間に課せられた義務である、といったメッセージ」を僕なりに真剣に受けとめたつもりだった。
 人間に内在するペスト菌を意識することによって、「無菌の自分という能天気」では見えないようなことも見えてくる。
 例えば、自分は男だから、女性に対して性的暴力を振るう潜在的可能性があるといった認識も殆ど必然的なものとなってくる。善人にも潜む<性的犯罪の保菌者性>の認識によって、性的犯罪者を先天的異常などと一括して、自己防衛、自己肯定にしがみつくような、実は乱暴極まりなく、甚だ危険な能天気に陥らずに済む。
 一定の状況に置かれると、たいていの男は性的犯罪者になりうる。戦争状態における兵士たち、権力や財力にまみれた男たち、密室状況で性的刺激を与えられ、しかも、免責特権を保証された自分なども想像すればよい。
 さらに言えば、例え女性であっても、その種の犯罪性を免れているとは言えなくなる。男性の性犯罪者と同じく、同性や異性、或いは、多様な弱者に対する性的犯罪その他の攻撃性を免れているわけがない。
 犯罪は往々にして、欲望と暴力と権力の問題でもあり、権力や財力や果てしない欲望を持った者は、それだけで既に暴力菌や権力菌など犯罪菌の保菌者なのである。
 だからこそ、常に衆人の監視と協力関係が必要である。雑踏の中の孤独や密室などは決して存在することがないように、工夫や配慮が必須である。言い換えれば、殆どあらゆる事柄における開放性、明朗性が重要である。或いは、その開放性に耐える力を各人が培わねばならない。
メディアの役割もまた、同じ脈絡で考えられる。常には無垢ではありえない個人や組織や社会、  そうした基本認識に基づいて、メディアの重要性が浮かび上がる。
 自分はもちろん、周囲の誰もが保菌者になる可能性を想定して、そんなことが断じて起こらないように、自分だけではなく、多種多様な人々と手を携えなくてはなるまい。
 そもそも、自己懐疑とは第三者の目を自分の中に保持することで、自分を多重化することでもある。性善説は悪いことではないが、それを手放しで称えるのは危険である。自分自身のことでも他人のことでも、天性の善良さなどに頼っているわけにはいかない。いかに善良に見えようとも、その判断は自己懐疑によって検証、そして下支えされなくてはならない。自己懐疑を欠いた善良さはかえって危険である。流行になって久しい危機管理ができず、その結果、小さな危機が大きく爆発させてしまう。自分にとってだけではなく、周囲の人々、さらには、社会総体にとっても危険きわまりない。
 特に僕のようにアルコール好きで、時には酒に溺れてしまう高齢者男性は、甚だ危険である。酔うと自分がすごく善人に思えてくることもある。それ以上に厄介なのは、周囲の人々が自分のやることなすことをすべて受け入れてくれそうに思えてくることもある。本当に危険である。
 そうなると、自分の中に潜在し、眠り込んでいた悪い菌が、とんでもなく活性化して、何をしでかすか分かったものじゃない。自分が内蔵しているが、幸いにもまだ活性化していない菌を、断じて活性化させないで眠らせておくために、不断の注意と監視が必須である。さらには、たとえ活性化しても、それを状況に応じて、抑制できるような訓練も必要だろう。
 第三者の目を自己の内部で育て、それを作動させる訓練が必須なのである。そんな場合のシナリオも描いて、シミュレーションを繰り返すことで、対処法を自分に叩き込んでおくべきだろう。
 既に少しだけ触れたが、そういう対処法は個人的なものである限り、あまり有効性がない。世の中に蔓延して、それを空気のように吸い込んだ結果、同調の傾向性が強くなってしまって、惰性で行動してしまいかねない者としては、やはり他人との協力関係が必須である。

 僕はわりと幼い頃から保菌者、或いは、誰にも先んじて感染しかねない保菌者予備軍という強迫観念に憑りつかれ、時と場合によって強弱の変化はあるとしても、そうした自己認識には殆ど変化がないまま、現在までなんとか生きてきた。
 それを言い換えると、菌を持っている可能性の高い人、もしくは人々、或いは、菌が蔓延するような環境からは出来る限り身を離して生きるしかないという思い込みを抱えて、社会から隠遁するようにして生きてきたわけで、差別主義者一般の自己合理化の理屈にすっかりはまり込んで生きている。そんなことが快いはずがなく、そこからなんとか脱して生きたいと願いながらも、じっとしている限り、そこにたどり着くことなどありえない。そんなことが分かりながらも、それに甘んじてきた。
 自己懐疑と伝染症の保菌者の自覚、もしくは、保菌者になることへの警戒を云々したからと言って、実際には何一つ変わらない。例えば、ハンセン病に対する僕の恐怖症、そして、そうした個人的症状が招来する強固な差別体制には何の変化も起こらない。
 僕自身の保菌者という強迫観念の中でも有用な側面はしっかり活用しながらも、心身を拘束するような呪縛の側面からはなんとか解放されて、もっと自由な余生の可能性をどのようにすれば、つかみ取れるだろうか。

折々のメモ23 東京東村山市のハンセン病資料館への旅(4)

2025-04-11 12:41:04 | 折々のメモ
折々のメモ23
東京東村山市のハンセン病資料館への旅(4)

6.システマティックな恐怖症とその来歴
 物心ついた頃から母が僕のことで一番の心配の種が、極度の<怖がり>だった。写真を撮られるのも怖がり、シャッターを押される寸前に両手をかざして顔を隠してしまう。そのせいで、顔がまともに写った写真が一枚もない、と嘆くのが口癖だった。そんな怖がりの子どもは大人になっても、一人前の男になんかなれるはずがない、と本気で心配した。
 しかも、その怖がり絡みの嘆き節は、その他の多様な欠陥とつながった。母の意識の中で、連想システムが形成され、どんなことであれ、その一端に触れさえすれば、母の心配症総体に火をつけ、そのあおりで僕の心配性総体もまた作動する。母の心配性と僕の恐怖症がフル回転する。
例えば、小学校の低学年の頃まで、僕は<下の不始末>がすこぶる目立つ子供だった。寝小便も、<大>の失敗も、小学校の3年生くらいまで続いた。
 学校の遠足でも、そして父と同行した自転車での遠出の際にも、そんなことがあった。「便所に行きたい」という実に単純で自然な欲求を先生にも、そして肉親である父にも言えなくて、或いは、言おうとするたびに何かに邪魔されて、仕方なく我慢せざるを得ず、あげくはそのタイミングを失ってしまう。そして、ぎりぎりまで我慢したあげくに、<もらして>しまう。その我慢の過程自体がひどく辛かっただけに、ついには諦めて、なるようになれと心身の緊張を緩めた瞬間の解放感は並みのものではなかったが、そんなことでケリがつく問題ではない。
 自身の下半身から立ち上る悪臭と尻から下半身へと降りていく<にゅるにゅる>した触感の広がりその他、なんとも惨めで辛い時間を過ごさねばならなかった。
 既に事が起こってしまったのだから、それをなんとかして隠し通さねばならない。周囲に気づかれないように、とりわけ、臭いを感づかれないように、出来る限り人とは距離を取り、普段と変わらない歩き方に努める。なんとか自宅の玄関にたどり着けば一安心。そのはずが、生憎と、そこにはいるはずのない母が、まるで待ち構えていたかのように、仁王立ちで、僕を睨みつける。
 いつもならコウバで仕事をしているはずの母が、そんな時に限っては、何かの用事で家に帰っている。そして、僕の挙動不審を見逃さない。僕の様子を見たとたんに顔色を変え、たちまちのうちに厳しい言葉と手振りで、玄関から僕を追い出し、裏庭に回らせる。
 僕が路地裏を辿って家の裏庭の扉に姿を現すと、待ってましたとばかり、僕には意味不明でも、怒り具合が分かる朝鮮語を叫びながら、身に着けていた服や下着の一切をはぎ取る。真っ裸になった僕は、身を守るものなど何一つないから、心身が凍りつく。
 そんな僕の頭の天辺から足先まで、母は水道のホースの水圧で責め立てる。全身に断続的な冷水攻撃を受け、その冷たさと水圧がもたらす痛みに耐える。
 次いでは、僕の体、とりわけ下半身を何度も、思わずうめき声が洩れるほど力を込めたタワシによる<皮なめし>作業が続く。そんな時の母の顔つきは夜叉そのもので、恐ろしくてたまらず歯を食いしばる。次第に石鹸の臭いが僕にこびりついた悪臭を凌ぐようになってくる。
 ようやく、仕上げである。沸騰した水をバケツの水と混ぜて、そこに浸した温かい雑巾で母は僕の体をしつこく拭う。その雑巾を洗いゆすいだ湯は捨てて、またしても水と熱湯を混ぜた新たなぬるま湯に浸した雑巾で僕を拭う。そんな作業を母は飽きることなく繰り返す。最後はさすがに雑巾をタオルに替えて、僕の全身、とりわけ下半身を丁寧に拭う。
心身がすっかり新しくなったみたいに、白い肌が赤くていかにも痛そうな色を帯びる頃になって  
 しだいに母の夜叉の顔の一隅から笑みの断片が輝き、僕も一息つく。
(このエピソードは本ブログの「玄善允の小説もどきの第二部」で詳細に描いている。つまり、正真正銘の実話である。関心がある方は是非ともご一読のほどを!)

 そんな不始末を折に触れて繰り返す情けない次男に手を焼きながら母が発する朝鮮語のヨク(悪口)が、「ピョンシン(病身、障碍者で間抜けというニュアンスも含む悪口だが、母の発音はペンシンに近かった)」、「ヤㇰビョンジェンイ(薬病患者つまり麻薬患者を意味する悪口だが、済州の知人に尋ねると、自分はそんな言葉は聞いたことがなくて、むしろヤㇰジェンイと(薬漬け野郎)だったと教えてくれた。これも母の発音は、ヤㇰペンジェンイに近かった)を連発しながら、不幸を耐えていた。
 社会からの<脱落者>で<厄介者>の運命を持った息子を産んだ自分の人生を嘆き、そんな不幸の種である僕を責めてもいた。
 因みに、その種の言葉はなるほど<ヨㇰ>、つまり悪口なのだが、しかしそんな言葉で僕を差別しているつもりはなかったに違いない。息子としての僕の贔屓目かもしれないが、母は教育を受ける機会など全くなかったあの時代の女性らしく、相当に迷信深かったが、多様な差別意識のようなものからは免れた人だった。しかも、僕らが長ずるにつれて、そんな朝鮮語の悪口的語彙も母の口からは殆ど姿を消した。日本語のその種の語彙はそもそも母にはなかった。
 僕ら兄弟姉妹、つまり自分が生んだ子ども以外なら、母は悪口を言うことを好まず、むしろ自虐で適当にケリをつける。そんな人だった。
 ところで、当時は既に両親ともに在日経験が20年近くになっており、日常の生活言語としての日本語は、彼らの母語である朝鮮の地方語である済州語の訛りの名残も殆どなく、子どもである僕らから見ても、実に自然で流暢なものだった。僕らはその点で両親のことを。他の在日一世の親たちの癖があって、すぐさま朝鮮人とわかりそうな日本語と比べて、誇らしいほどだった。
 それなのに、子どもに文句を言ったり叱ったり、或いは、夫婦喧嘩の時に限っては、自分が20歳くらいまで生まれ育った済州の言葉を用いていたのは、そんな悪口に相当する日本語を知らなかったからだったのだと、僕は今になって思う。
 両親のどちらも学校教育を受けたことなど一度もなかった。しかし、父は子供の頃に曾祖父から家で千字文などの手ほどきを受けていたらしく、文字の読み書きが十分にできるばかりか、漢字は今の僕以上に立派に書けた。他方の母は、<女>だからと教育機会を完全に封じられていたので、朝鮮語も日本語も読み書きができなかった。そのせいもあって話す語彙も著しく制限され、文語的だったり抽象的だったり、また、漢字の二字や四字熟語的な日本語の語彙は、母には殆どなかった。
 それに加えて、ごく内輪に限られる日本語の語彙も、日本人と内輪になった経験がなかった母は知らなかっただろうし、知っていても自然に使いこなせるまでには至らなかった。
 母は僕ら子どもを叱る時に、意識的に朝鮮語を用いていたわけではなく、条件反射的に自分の内側から湧き出る感情を表現するに際しては、それしか手立てがなかったに過ぎない。そして、その言葉が朝鮮語では下品で差別的な部類であっても、差別などとは全く別の回路で、例えば、情愛が強すぎるあまりついつい口から飛び出るという事情があってのことだったに違いない。
「お前はなんて馬鹿なの」という、字面では確かに馬鹿にしている言葉も、抑揚や話し方やシチュエーションによっては、すごく濃密な愛情表現にもなりうる。そんな類の表現としても、母は僕らにヨクを活用していたに違いなく、そんな言葉を向けられた僕らも内心のどこかで、そのことに気付いていた。それでいながらも、自分の欠点を繰り返し指摘される言葉と一緒にその情愛表現が行われると、どうしても否定的イメージがこびりつくので、僕らの心理的負担になり、そのあげくには、そんな「ヨㇰ」を伴う親の情愛を、もっぱら自分を束縛するものとして感受して、それから解放されることをねがいがちだった。
 心の奥底から出てくる不安や心配を厳しく表現する<ヨク>を用いていた母の内心で、その言葉がどういう位置を占め、母がどのような気持ちでそれを用いていたかは、実は定かでないのだが、そのヨクには、社会に疎まれ、忌避され、排除されるという意味での伝染病患者という意味も広く含まれていたのだろうが、ハンセン病患者がその伝染病患者に含まれていたかどうかはやはり分からない。
 それはともかく、そうした社会的に忌避される存在の徴みたいで恥ずかしい、と母が僕によく叱ったのが、ついつい下腹部に手をあてる癖だった。母はそれをすごく嫌った。「みっともないから、二度としたらあかん」と、僕の手をぴしゃりと叩いたりもした。そんな母の叱正を繰り返し受けるうちに、僕の中に連想の体系が形成された。
 泌尿器や消化器の末端に関する病的な何かが、殆ど先天的な欠陥として僕にはある。そんな懸念を母が持つようになり、そんな母の心配を通して、僕もその懸念を自己認識の一部に取り入れた。何らかの疾患の先天的保菌者としての自己認識、そして、それに対する恐怖もあわせて持つようになった。

 思春期ともなると、それが性的疾患への危惧となる。そのあげくには、性的疾患であると同時に伝染病としての梅毒が関わって来た。僕は潜在的にその保菌者の候補であり、それだけにそれをひどく恐れるようになった。
 そうした性的感染症の原因とされる行為の経験などまったくないのに、そうした論理的因果や物理的可能性などを超越する強力な心理作用が働いて、梅毒に対する恐怖どころか、自分がそれに必ず感染する運命といった非論理的な信憑が僕の内部で成立する。
 その根拠は自分の心理的連鎖しかないことがわかっているのに、自分は梅毒の保菌者候補であり、自分はもちろん、自分にとって大事な人々に伝染させる可能性を持った疎まれる存在、これが僕の強迫観念となった。そこまでくると、ハンセン病に対する恐怖、或いは、その保菌者候補生としての自己という認識まで、殆ど距離がなく、一体化するのにさほどの時間は要しない。僕はそれら一切を極度に恐怖しながら、その潜在的保菌者という自己認識に縛られる。
 因みに、以上のような僕の体系的な恐怖症は、僕が在日二世であることと無関係ではなかった。僕は<在日という菌(病でもいい)>を生まれた時から体内に、或いは、心身に孕む保菌者であったから、それとハンセン病の先天的保菌者という信憑とは、連想としてはごく自然なものだった。
 以上はあくまで僕に即しての話であり、それを一般化するなんてことは断じて謹んで頂きたいし、僕個人のことであっても、馬鹿げた理屈とお叱りを受けることは致しかたない。その通り、僕は甚だ変な奴で、変なことばかり考えては苦しんだり悲しんだり、さらにはそんな自分を面白い奴だなどと、苦笑いもしながら、この歳まで生きてきたこと、それは本当に確かなことなのである。