折々のメモ29
今回は前回28、「6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」です。
前回の28をアップしたところ、すぐさま、これまでにないほどの反応があった。ブログの閲読者の数も当日だけのことだが、一気に3倍とか4倍になった。時々生じる一時的な現象なのだが、ともかくそれをきっかけにしていろんなことを考えたので、折角だからと、それを書きとめて幅広く共有したくなった。だから、「おまけ」なのです。僕は幼い頃からおまけ大好き人間で、今でもそれは変わらないようです。
さて、反応は例えば、以下のようなものでした。
高校時代の野球部仲間で、前回のFWのコースの近くで生まれ育ち、今なおその地域を中心にして市の放置自転車撤去作業をアルバイト、時間つぶし、そして社会勉強がてら行いながら、その地域と多様な関係を維持しているそうです。
これまでも拙著を「いくつか読んでみたけど、何か読みづらかったのに、今回のFW報告は、良く知っている地域ということもあってか、すごく興味深く気持ちよく読めた」、そして、今後もFWを続けるようにと励ましてくれました。
既に10年近くも音信不通だったのに、先日来から、ちょっとしたことをきっかけにラインでのやりとりが始まり、互いに相手に対する見方を更新しながら旧交を温めています。昔の野球部仲間で、僕の書き物に関するコメントは初めてもらった感じで、その意味でも僕には新鮮で嬉しいものでした。
小中高と12年間も同じ学校に通い、7,8年前までは高校の同期会で顔を合わせては少し言葉を交わしたり、メールでのやり取りを何度かしていましたが、ここしばらくはそれもすっかり途絶えていました。ところが、小学校時代の友人から小学校の同窓会を企画するようにとの依頼があったので、それを述減するために連絡を取っていたのですが、その間に彼女の家庭で不幸なことがあり、それも頓挫していました。しかし、ようやく改めて、ラインで頻繁なやり取りするようになっていたのですが、ブログについては「分かり易い報告で、興味深く」読んでくれたそうで、ブログの他の記事もゆっくりと読んでみるつもりと、優しい言葉をいただきました。
少し変わり種の方からの連絡もありました。僕が生まれ育った集落で家族ぐるみで親戚付き合いをしていた在日の家族の「お姉さん」です。半世紀近く前に単身でアメリカにわたって、アメリカ軍の軍人と恋に陥ってそれを成就させて以降は、夫の勤務で世界各国を転々として、今はすっかりアメリカに定住し、時には日本にも帰省?して、その度に僕と会食したりの間柄ですが、それ以上に特筆すべきは、拙著や僕のブログの一番の愛読者なのです。先日も会ったばかりなのですが、僕のFW報告を読んで、そこに書かれている地域で生まれ育ったのに、何一つ知らないままだった自分のことが「恥ずかしい」とのメールが届きました。
僕らの企画の資料準備ばかりか、案内役まで押し付けるなど、何かと負担をかけて申し訳なく思っている高野さんからは、一緒に歩くなど「同じ時間を共有しながら、私と違って、はるかに様々なことをお考えなので驚きです」とのメールを頂戴しました。
高野さんと僕は同じ高校の卒業生で、一回り以上もの年齢差があっても、淀川沿いに位置する高校や恩師や校風その他で、記憶や感慨を共有することが多くあります。例えば、淀川を見ると、一年に一回、全校生徒が男子は13キロ、女子は7キロ、淀川の河川敷を往復するイベントにまつわる想い出などもその一つです。
その一方で、生まれ育った地域や家庭環境などの差もあり、FWで歩いた地域に関する思い入れもさすがに違って、上のような印象が生じるのも当然のことでしょう。
ともかく僕としては、そうした反応の一つ一つが嬉しいことです。意味は相当にずれるようですが、なんとなく、友あり、遠方より来る、楽しからずやといった昔、習った一句を思い出しました。
その他、送って頂いた反応のそれぞれの理由、そして違いの理由などを考えるなど、皆さんの反応に触発されて、今さらながらに思うことがありました。
例えば、男女の目の違いがあるでしょう。だから、例え、同じ家族でも大きく異なったりもします。男女に強いられた性役割は本当に恐るべき威力を発揮してきたものです。
その他、同じ地域で暮らしてもやはり育った家の性格があり、それによって関心の持ち方が異なってくるのでしょう。
そんなことも含めて、FWで巡った地域と僕との関係について、もっぱら個人的な事情について考えてみた結果が以下のようなことでした。
先ずは、淀川とそこに架かる旧長良橋に関する僕の記憶です。父と長柄橋や淀川に関する話は前回にも少し触れましたが、それとも関連しています。幼い頃の僕にとって、淀川と旧長柄橋は越境的冒険の場所でした。
僕はまだ小学校に入る前か、或いは低学年の頃に、近所の友人4名と総勢5名で、長良橋を通っての淀川越えを試みて、なるほど越えてはみたものの、最大の目的地であるガラス工場は見つからなくて落胆するばかりか、その後は道に迷うなどして、想定していなかった経路をさまよいながら、ようやく東淀川駅の開かずの踏切にたどり着きました。そして、僕らを懸命に探していた家族などの姿を見た時には、たまらなくなって号泣してしまいました。
さらに約5年後には、二度目の長柄橋越えに挑戦しました。小学校4年くらいの時のことですが、父が豊崎地域にあった得意先に納品に向かう際に、同行をしつこくねだったあげくに許可を得て、懸命にペダルを踏んで父の後を追い、長柄橋を越えて無事に得意先にたどり着きましたが、そこで僕が目撃したのは、得意先の若くて偉そうな職員に父が民族差別も絡んで罵倒されるという、父にとっては自分の子どもには断じて見せたくない屈辱的な場面でした。そして、そのショックもあって、僕はその後、とんでもない失敗をしでかしました。
以上のどちらも、僕の成長期のシンボリックな出来事だったので、ノンフィクションとしてもフィクションとしても(小説仕立て)書いており、その一部はブログの「玄善允の成長小説もどき3部作の3と4」でアップしています。
本文では、4は全文を以下にペーストして参考に供したいと思います。3に関心をお持ちの方はブログの、「玄善允の成長小説もどき三部作の第二部『ちっちゃい兄ちゃん』の3(第三章)をご一読いただけたら幸いです。
4の方は3と比べて短文なので、以下にそのまま貼り付けます。文中のチビと正一は僕の、正河は僕の母の、漢守は父の仮名です。
玄善允の成長小説もどき三部作の第二部『ちっちゃい兄ちゃん』の4(第四章)
第四章 再びの冒険
1)挽回を期しての再挑戦
2)糞垂れのおまけまでついた再びの敗北
第四章 再びの冒険
1)失敗の挽回を期した再挑戦
夢の冒険の失敗を挽回できそうな機会がチビに訪れたのは、その翌年の春休みのことだった。
珍しくバスに乗って野球の試合に遠征することになって、マサは前日から大はりきりだった。しかも、初めて先発メンバーに抜擢されるらしくて、その張り切り具合も並みではない。そんなマサを見て、チビがじっとしているわけがない。いくら邪険にされても、とことん粘っていると、両親の介入などもあって、試合に同行させてもらえるかもしれない。その為にも、とりあえずはマサのご機嫌取りに懸命である。命じられもしないのにマサのグローブを磨いた。先発メンバーに抜擢のお祝いとして、母が子供全員に奮発してくれた卵焼きなのだが、マサは自分のものを逸早く食べてしまうと、チビの分までかすめとろうとした。普段なら断じて黙っていないチビなのに、その日は、それすらも身を切る思いで、見逃した。
ところが、そんなお為ごかしも徒労に終わった。最後の切り札である泣き落としも、かえってマサの癇癪を引き起こすだけだった。
「金魚の糞が付きまとったら、邪魔なんじゃ!チビはチビらしく、家に引っ込んどれ!」
マサはチビに対する十八番の台詞を残して、颯爽と出かけてしまった。
取り残されたチビは、うじうじと家の周りをうろつき回るしかなかった。そんなところへ、納品に出かける途中の漢守が家に立ち寄った。そして、相変わらず泣きっ面のチビを目に止めて、思わぬことを言った。
留守をしているマサの自転車に乗って、漢守の納品についてきたらいい、と言うのである。納品先は、あの大河を越えた当たりに位置する漢守のコウバの得意先である。漢守がそんなことを言うなんて、信じられないくらいに珍しいことだったが、チビはすぐさまその気になった。漢守のお墨付きだから、マサには厳しく禁じられている自転車にも乗れるのだから、願ってもない機会である。しかも、チビにとってはあの失敗した冒険の雪辱戦にもなる。
だから、漢守の気持ちが変わらないうちにと、出かける準備を急いだ。お気に入りの野球帽をかぶり、手ぬぐいを首に巻き、マサの自転車を玄関から引きずり出して、玄関先に停めてあった、納品する製品を荷台にうず高く載せたウンパンシャの後ろに並べて、準備完了である。トイレにでも入っていたのか、家から出て来た漢守もそんなチビを見て、微笑を浮かべて、嬉しそうである。まるでこれまでに一度もなかった父子だけのピクニック気分である。
最初は10mくらいだった間隔が次第に広がって、今や50mくらい先を走る漢守の体は、自転車の荷台にうずたかく積まれた段ボール箱に殆ど隠れて、チビに見えるのは力強いがゆっくりと回転するペダルにかかった足の動きだけである。しかし、左右交互に足を踏み込むたびに、荷物が少しだけ左右に揺れる様子が、チビの眼には、父親の力強さ、頼もしさを表しているように映る。長い登り坂に差し掛かると、年季の入った力強い足の動きが、ますます大写しになり、チビの漢守への信頼が高まるだけでなく、上り坂にあえぎだしたチビを励ましもする。少し汗ばんだ肌に春のうららかな風が触れ、かすかに潮の香りも混じっていそうである。あの大橋が前方に姿を現した。視界が一気に広がった。
チビの眼は漢守の自転車を中心に展開する光景にらんらんと輝く。遥か遠くにまで連なる数多くの工場の煙突からは七色の煙が立ち昇り、微風を受けて悠々とたなびく。この大河を自分の足で越えるのはこれが二度目と思ったとたんに、あの最初の渡河の失敗が蘇ってきた。大きく息を吸い込む。苦い記憶がむしろチビを鼓舞する。風も太陽も甘い香りを含んでいて、足も予想以上に軽快に動いている。
そう思った時だった。腸をしめつける痛みが走った。
「くそ、うんこや」と、すぐさま後悔に襲われた。朝食後に少しもよおしたのに、済ましておかなかった。その時は、眼を離すとマサに置いてきぼりを食らう心配が先立ち、便所で時間をかけて「気張る」余裕などなかった。
臍に力を集中し、サドルに尻を押しつけて、断続的に押し寄せてくる腸の運動を押し殺そうとする。既に橋を越えたのだから、漢守の得意先までもう少しのはず、と自分を励ます。
真新しい工場横の、屋根瓦を備えた屋敷風の門が目指す所だった。その門前で漢守はウンパンシャを止め、チビに待つように言い含めたが、そのいかにもよそ行きの顔つきと少し緊張した言葉つきを見て、チビは「便所」の一言を発する機会を逃してしまった。そんなチビの気持ちなど察する余裕はまったくなさそうな漢守は、門の脇戸から中へ姿を消した。
しばらくして漢守が現れたので、すぐさま駆け寄って、ますます切迫してくる「うんこ」の一言をと思ったが、頼みの漢守の俯き加減の顔の眉間には、深い皺が走っている。しかも、その漢守の後ろに人影がある。
ワイシャツにネクタイ姿のその人は、チビを一瞥しながらも黙殺した。その人の指示で荷台から納品用の製品を下ろす作業にとりかかった漢守の動きが、見るからにぎこちない。その「係長」はいきなり漢守を押しのけて、荷台の箱を乱暴に開き、製品を幾つか取り出すなど点検を始めた。そして、これまたいきなり、箱を地べたにぶちまけた。製品が大きな音とともに散乱した。呆然とする漢守の眼前に、係長はその散乱した品物の一つを突きつけると、漢守の懸命につくった笑顔もゆがんだ。
係長の口から、罵りとともに唾までも飛び散るのが見える。
「おたくらの国の連中は、ホンマに信用ならん。下請けも金輪際・・・」。
その瞬間、漢守の肩がぴくりと動くのをチビは見逃さなかった。とんでもないことが起るのではと、チビは恐れた。しかし、チビの予想に反して、漢守はひたすら頭を下げたままである。
係長が捨て台詞を残して去ると、漢守は散乱した製品をダンボール箱に収め直し荷台に載せ始めたが、その顔は少し痙攣しているようだし、色も失っている。チビは呆然としたまま、便意もすっかり忘れている。
漢守は辛うじて少し歪んだ笑みをつくり、「帰るんや」とチビに言った。漢守にはチに気を遣う余裕など全くなさそうである。チビは無言のままに自転車に乗り、漢守の肩を落とした姿を懸命に追いかける。すると、体を動かし始めたせいか、忘れていたはずの便意が猛烈な勢いで戻ってきた。涙がにじみ、冷や汗がどっと吹き出る。
2)糞たれ
大橋を越えて長い下り坂にさしかかったあたりで、ついに辛抱が切れた。もうこれまでと、はっきり意識して腰を浮かし、肛門の緊張をゆるめた。下り坂なのでペダルを踏まなくてもいいので、そうした動きも楽だった。
最初は遠慮しているかのように、しかし、ついには凄い勢いで、体内からそれが飛び出て、チビは解き放たれる快感と虚脱感とが重なった脱力感を覚える。液体とも固体とも判別のつかないそれがニュルニュルと流れ出て、尻とズボンの合間に滞留するのが分かる。
気がつくと、漢守の姿がはるか遠くにあり、すっかり小さくなっている。
あわてて足を回転させながら、流れ出たそれを尻で押しつぶさないように、サドルから腰を浮かそうとするが、その姿勢を保つ辛さと、尻から足へと伝う柔らかで生温い感触の不快感とが重なって、生きた心地がしない。
ようやくオオミチにたどり着いた。漢守は「オマエは家に帰れ」と言い残してコウバへ直行した。おかげで、父には気づかれずに済んだ。自分につきまとう臭いと、乾きだしてごわごわした感触の気持ち悪さからやっと逃れられると思ったのも、ほんの束の間のことにすぎなかった。なんとも<まんの悪い>ことに、足を踏み入れようとした玄関には、何故かしら正河がいた。コウバに向かおうとしている様子だった。正河の鋭い目はいつだってチビの挙動不審を見逃さない。距離を置こうとすればするほど、また、自然な歩き方をしようとすればするほど、正河の目はチビをしっかりと捕らえる。「ショウ」の一言でチビは震え上がる。
「糞たれ」は初めてのことではなかった。小学校入学後の最初の遠足の時もそうだった。糞を尻と脚にへばりつかせたままに、誰にも気付かれることなく帰宅できたのはよかったが、その不始末が正河にはたちまちのうちに見つけられた。
そもそも、この種の「下」の不始末は、生来の、そして体質的なものなのかもしれない、3年になっても寝小便の癖は完全には直っていなかった。そんなわけだから、それは正河のチビに関する心配の種の一つでもあり、正河がチビの挙動不審を見逃すはずはないし、チビもそのことを重々承知している。
「おまえ、また?!」と正河は呆れた声をあげ、すぐさま「裏へ回り!」と厳しい声に変わった。
チビは泣きべそをかきながら、玄関を出た。オオミチを少し右に進んで、鉄工所がある右側の路地をとぼとぼと歩いてやっと家の裏庭に入いると、ホースを拳銃のように構えた正河が厳しい顔で待っていた。すぐさま服を剥ぎ取られてすっぽんぽんになった。そのとたんに、ホースの冷たい水が襲いかかってきた。体のあちこちが痛いほどで、涙がこぼれてくる。殆ど乾いておさまっていた臭いが、水気を与えられて息を吹き返したのか、全身から立ち昇ってくる。正河が交互に繰り出す嘆き節と叱り声も耳に痛い。舌打ちを交えた小言が次第に間遠くなる。
正河は既に大量の水を火にかけて準備しており、その湯と水を混ぜて、それで肌にこびりついた糞を柔らかくしたうえで、タワシでチビの体をこする。冷たい水の後に湯、それに乱暴なタワシの攻撃まで加わって、チビは泣きわめきたいほどである。しかし、一生の恥をはぎ取ろうとしているかのような正河の表情と腕の勢いを前にして、懸命にこらえるしかない。
石鹸の臭いがうんこの臭いに打ち勝つ頃になってようやく、正河の表情は少しほころび、笑みがのぞいた。チビは新しいパンツとシャツを投げ与えられた。こすられて赤くなった肌にシャツが痛い。しかし、その痛みがかえって爽快感をもたらしてくれる。
脱皮した気分で思わずニンマリした。正河の目にも微かな笑みが浮かんだと思ったのは、チビの甘えがもたらした幻想に過ぎないのだろうが、チビは解放感に満ちている。二度目の冒険もこうしたドタバタ劇で幕引きとなった。こうして人間の、それも自分の糞にまみれて成長の一段階が越えられた。但し、チビの精神の成長という意味でなら、もっと重要な経験があった。(引用終わり)
以上でもお分かりになるように、淀川と長柄橋を越えることは僕にとってシンボリックな冒険的価値を備えていました。
その後、高校生になると、僕が入った高校は川のこちら(南)側なのに、わが家の最寄りの国鉄駅で乗車すると、いったんは北側に向けて淀川を越えてキタの中心の大阪駅を経由して、そこから今度は西に向かって再度、淀川を越えてこちら(南)側に戻るような経路で通学するようになりました。したがって、その中間地点であるキタにも足しげく通うようになって、「キタこそ僕の大阪」など馬鹿げたことを吹聴するようにまでなったのです。
それはともかく、僕が今回のFWの地域のあちこちに、実際に足を伸ばすようになったのは、車の運転でのことでした、つまり、大学入学以後のことでした。大学に合格しても学生紛争で長らく授業がなかったので、僕は我が家のコウバの両親にとっては誠に使い勝手の良い働き手、或いは、「何でも屋」になりました。
それには車の運転が必須なので、入学が決まるとすぐさま自動車学校に通って運転免許を取得しました。そしてコウバの製品の配達のために、淀川を毎日、二度三度と往復するようになったのですが、その頃には以前に冒険に失敗した長柄橋ではなくて、新設の自動車専用道路としての新御堂筋を経由してのことでした。
しかも、そうした我が家のコウバの仕事の一環としての運転手稼業だけではなく、両親の便利なお抱え運転手にもなったのです。しかもそれは、紛争で大学の授業がなかった時期だけでなく、学生時代を通じて、さらに場合によっては、その後も続くことになりました。
父が飲みに十三などに行くとき、母や父が頼母子の集まりで、知人が営む焼き肉屋で食事会も兼ねる時には、僕はそこまで載せていき、それが終わるまで、近くで待機して、車に載せて帰宅するようなことが度々ありました。
それが遠くの鶴橋近辺の場合も時にはありましたが、近場では、下新庄、南方、新大阪駅の近くの山口町、さらには崇禅寺、天六など、今回のFWのコースの近辺の店の場合が多かったのです。
頼母子のメンバーがそんな店を経営している場合もあったし、何かの誼で利用してあげる場合もあるなど、金融の手段に加えて懇親会の機能を兼ねて、両親たちは気分よく飲み食いするが、その間、僕はひたすら我慢して待機タクシーの運転手の気分でした。
そんなわけで、僕は自分には何の動機もないのに、まさに成り行きで便利屋稼業を続ける羽目になった。これが僕のいわゆる「家付き息子」の役割でした。
それに味を占めたわけでもないのですが、これまた成り行きで、一時期は中津のプラスチック成型の金型製造会社の社長のお抱え運転手のようなアルバイトまでする羽目になりました。
その社長が何かで免停処分を受けたので、その間に限ってのアルバイトで、その人の得意先の接待のために、ミナミの高級飲み屋(会員制クラブなど)の近くで待機するなどして、送り迎えをしていたのです。
そんなことを何でも成り行きで行いながら、自分でもなんとも馬鹿げたことで青春を無駄にしているなどと、いらいらもしていましたが、そんな経験で知ったことや学んだこともいろいろあって、今から考えると、決して無駄ではありませんでした。但し、その知識や経験を活かすような生き方ができたかと言うと、そんなことはなかったので、やはり無駄だったということになってしまいます。
今回のFWの出発点だった天六へは、母に頼まれて、そのあたりの母の馴染みの朝鮮の食材屋さんでの買い物のために、母の送り迎えを何度かしました。しかも、その種の用事は野放図に広がって、母はずいぶんといろんなことで、僕は運転手として母にとって実に重宝な存在でした。
桜ノ宮の大川べりの巫俗信仰のメッカだった竜王宮にも、母の送り迎えのためにしばしば通いました。生駒の朝鮮寺もそうでした。鉄橋で有名な赤川にも、遠縁の姉さんが嫁いだので、母は彼女に会いに、僕を使いました。赤川という地名はすごく貧しい朝鮮人集落という話を聞いていたのですが、実際に行ったのは、母の運転手としてだけでした。旭区の清水というところにも、同じように母すごくが可愛がっていた遠縁の姉さんの実家があったらしく、何度か通いました。
コウバの仕事の一環で、不渡りでひどい損害を被った時には、その倒産した得意先に父と一緒に車で駆け付けて、何もできなくて、ひどく空しい思いしながら、言葉もなく帰路についたものでした。
そんな会社も淀川の向こう側の豊崎や中津あたりにあり、我が家のコウバの得意先は、何故かしら、淀川の向こう側の豊崎、中津に集中していたわけです。
他方、頼母子の札入れ、つまり、参加者がそれぞれ希望の利子をメモした紙片を提出して、その中で最も高利な札を出した人が、その月に頼母子を下ろす権利を持ちます。頼母子のメンバーは、その利子を引いた額を支払い、降ろした者はその全額を受け取ることができるのです。
そんな頼母子兼夕食会に参加する両親或いは、父か母のどちらかを車で送り迎え 焼き肉屋でした。僕はそんな送り迎えでずいぶんと両親の親密圏の土地勘は培ったわけですが、僕にとってまったく楽しいことではなかったので、好い感情を持つはずもありませんでした。
それにまた、親などに刷り込まれた地域ごとのイメージが僕の頭に偏見として刻み込まれたので、鶴橋や淡路以外は、何かしら自分の意志で足を伸ばすようなことは殆どありませんでした。だから、僕にとってはその地域は長年にわたって、死角のままでした。その地に積極的に足を踏み入れるようになったのは、ここ二年のことに過ぎません。それだけに、そのあたりを歩くと、慙愧の念が付きまとい、気が重くなったりもするのです。
「おまけ」のつもりが長くなりすぎました。今回はここまでにします。お付き合い、ありがとうございました。
今回は前回28、「6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」です。
前回の28をアップしたところ、すぐさま、これまでにないほどの反応があった。ブログの閲読者の数も当日だけのことだが、一気に3倍とか4倍になった。時々生じる一時的な現象なのだが、ともかくそれをきっかけにしていろんなことを考えたので、折角だからと、それを書きとめて幅広く共有したくなった。だから、「おまけ」なのです。僕は幼い頃からおまけ大好き人間で、今でもそれは変わらないようです。
さて、反応は例えば、以下のようなものでした。
高校時代の野球部仲間で、前回のFWのコースの近くで生まれ育ち、今なおその地域を中心にして市の放置自転車撤去作業をアルバイト、時間つぶし、そして社会勉強がてら行いながら、その地域と多様な関係を維持しているそうです。
これまでも拙著を「いくつか読んでみたけど、何か読みづらかったのに、今回のFW報告は、良く知っている地域ということもあってか、すごく興味深く気持ちよく読めた」、そして、今後もFWを続けるようにと励ましてくれました。
既に10年近くも音信不通だったのに、先日来から、ちょっとしたことをきっかけにラインでのやりとりが始まり、互いに相手に対する見方を更新しながら旧交を温めています。昔の野球部仲間で、僕の書き物に関するコメントは初めてもらった感じで、その意味でも僕には新鮮で嬉しいものでした。
小中高と12年間も同じ学校に通い、7,8年前までは高校の同期会で顔を合わせては少し言葉を交わしたり、メールでのやり取りを何度かしていましたが、ここしばらくはそれもすっかり途絶えていました。ところが、小学校時代の友人から小学校の同窓会を企画するようにとの依頼があったので、それを述減するために連絡を取っていたのですが、その間に彼女の家庭で不幸なことがあり、それも頓挫していました。しかし、ようやく改めて、ラインで頻繁なやり取りするようになっていたのですが、ブログについては「分かり易い報告で、興味深く」読んでくれたそうで、ブログの他の記事もゆっくりと読んでみるつもりと、優しい言葉をいただきました。
少し変わり種の方からの連絡もありました。僕が生まれ育った集落で家族ぐるみで親戚付き合いをしていた在日の家族の「お姉さん」です。半世紀近く前に単身でアメリカにわたって、アメリカ軍の軍人と恋に陥ってそれを成就させて以降は、夫の勤務で世界各国を転々として、今はすっかりアメリカに定住し、時には日本にも帰省?して、その度に僕と会食したりの間柄ですが、それ以上に特筆すべきは、拙著や僕のブログの一番の愛読者なのです。先日も会ったばかりなのですが、僕のFW報告を読んで、そこに書かれている地域で生まれ育ったのに、何一つ知らないままだった自分のことが「恥ずかしい」とのメールが届きました。
僕らの企画の資料準備ばかりか、案内役まで押し付けるなど、何かと負担をかけて申し訳なく思っている高野さんからは、一緒に歩くなど「同じ時間を共有しながら、私と違って、はるかに様々なことをお考えなので驚きです」とのメールを頂戴しました。
高野さんと僕は同じ高校の卒業生で、一回り以上もの年齢差があっても、淀川沿いに位置する高校や恩師や校風その他で、記憶や感慨を共有することが多くあります。例えば、淀川を見ると、一年に一回、全校生徒が男子は13キロ、女子は7キロ、淀川の河川敷を往復するイベントにまつわる想い出などもその一つです。
その一方で、生まれ育った地域や家庭環境などの差もあり、FWで歩いた地域に関する思い入れもさすがに違って、上のような印象が生じるのも当然のことでしょう。
ともかく僕としては、そうした反応の一つ一つが嬉しいことです。意味は相当にずれるようですが、なんとなく、友あり、遠方より来る、楽しからずやといった昔、習った一句を思い出しました。
その他、送って頂いた反応のそれぞれの理由、そして違いの理由などを考えるなど、皆さんの反応に触発されて、今さらながらに思うことがありました。
例えば、男女の目の違いがあるでしょう。だから、例え、同じ家族でも大きく異なったりもします。男女に強いられた性役割は本当に恐るべき威力を発揮してきたものです。
その他、同じ地域で暮らしてもやはり育った家の性格があり、それによって関心の持ち方が異なってくるのでしょう。
そんなことも含めて、FWで巡った地域と僕との関係について、もっぱら個人的な事情について考えてみた結果が以下のようなことでした。
先ずは、淀川とそこに架かる旧長良橋に関する僕の記憶です。父と長柄橋や淀川に関する話は前回にも少し触れましたが、それとも関連しています。幼い頃の僕にとって、淀川と旧長柄橋は越境的冒険の場所でした。
僕はまだ小学校に入る前か、或いは低学年の頃に、近所の友人4名と総勢5名で、長良橋を通っての淀川越えを試みて、なるほど越えてはみたものの、最大の目的地であるガラス工場は見つからなくて落胆するばかりか、その後は道に迷うなどして、想定していなかった経路をさまよいながら、ようやく東淀川駅の開かずの踏切にたどり着きました。そして、僕らを懸命に探していた家族などの姿を見た時には、たまらなくなって号泣してしまいました。
さらに約5年後には、二度目の長柄橋越えに挑戦しました。小学校4年くらいの時のことですが、父が豊崎地域にあった得意先に納品に向かう際に、同行をしつこくねだったあげくに許可を得て、懸命にペダルを踏んで父の後を追い、長柄橋を越えて無事に得意先にたどり着きましたが、そこで僕が目撃したのは、得意先の若くて偉そうな職員に父が民族差別も絡んで罵倒されるという、父にとっては自分の子どもには断じて見せたくない屈辱的な場面でした。そして、そのショックもあって、僕はその後、とんでもない失敗をしでかしました。
以上のどちらも、僕の成長期のシンボリックな出来事だったので、ノンフィクションとしてもフィクションとしても(小説仕立て)書いており、その一部はブログの「玄善允の成長小説もどき3部作の3と4」でアップしています。
本文では、4は全文を以下にペーストして参考に供したいと思います。3に関心をお持ちの方はブログの、「玄善允の成長小説もどき三部作の第二部『ちっちゃい兄ちゃん』の3(第三章)をご一読いただけたら幸いです。
4の方は3と比べて短文なので、以下にそのまま貼り付けます。文中のチビと正一は僕の、正河は僕の母の、漢守は父の仮名です。
玄善允の成長小説もどき三部作の第二部『ちっちゃい兄ちゃん』の4(第四章)
第四章 再びの冒険
1)挽回を期しての再挑戦
2)糞垂れのおまけまでついた再びの敗北
第四章 再びの冒険
1)失敗の挽回を期した再挑戦
夢の冒険の失敗を挽回できそうな機会がチビに訪れたのは、その翌年の春休みのことだった。
珍しくバスに乗って野球の試合に遠征することになって、マサは前日から大はりきりだった。しかも、初めて先発メンバーに抜擢されるらしくて、その張り切り具合も並みではない。そんなマサを見て、チビがじっとしているわけがない。いくら邪険にされても、とことん粘っていると、両親の介入などもあって、試合に同行させてもらえるかもしれない。その為にも、とりあえずはマサのご機嫌取りに懸命である。命じられもしないのにマサのグローブを磨いた。先発メンバーに抜擢のお祝いとして、母が子供全員に奮発してくれた卵焼きなのだが、マサは自分のものを逸早く食べてしまうと、チビの分までかすめとろうとした。普段なら断じて黙っていないチビなのに、その日は、それすらも身を切る思いで、見逃した。
ところが、そんなお為ごかしも徒労に終わった。最後の切り札である泣き落としも、かえってマサの癇癪を引き起こすだけだった。
「金魚の糞が付きまとったら、邪魔なんじゃ!チビはチビらしく、家に引っ込んどれ!」
マサはチビに対する十八番の台詞を残して、颯爽と出かけてしまった。
取り残されたチビは、うじうじと家の周りをうろつき回るしかなかった。そんなところへ、納品に出かける途中の漢守が家に立ち寄った。そして、相変わらず泣きっ面のチビを目に止めて、思わぬことを言った。
留守をしているマサの自転車に乗って、漢守の納品についてきたらいい、と言うのである。納品先は、あの大河を越えた当たりに位置する漢守のコウバの得意先である。漢守がそんなことを言うなんて、信じられないくらいに珍しいことだったが、チビはすぐさまその気になった。漢守のお墨付きだから、マサには厳しく禁じられている自転車にも乗れるのだから、願ってもない機会である。しかも、チビにとってはあの失敗した冒険の雪辱戦にもなる。
だから、漢守の気持ちが変わらないうちにと、出かける準備を急いだ。お気に入りの野球帽をかぶり、手ぬぐいを首に巻き、マサの自転車を玄関から引きずり出して、玄関先に停めてあった、納品する製品を荷台にうず高く載せたウンパンシャの後ろに並べて、準備完了である。トイレにでも入っていたのか、家から出て来た漢守もそんなチビを見て、微笑を浮かべて、嬉しそうである。まるでこれまでに一度もなかった父子だけのピクニック気分である。
最初は10mくらいだった間隔が次第に広がって、今や50mくらい先を走る漢守の体は、自転車の荷台にうずたかく積まれた段ボール箱に殆ど隠れて、チビに見えるのは力強いがゆっくりと回転するペダルにかかった足の動きだけである。しかし、左右交互に足を踏み込むたびに、荷物が少しだけ左右に揺れる様子が、チビの眼には、父親の力強さ、頼もしさを表しているように映る。長い登り坂に差し掛かると、年季の入った力強い足の動きが、ますます大写しになり、チビの漢守への信頼が高まるだけでなく、上り坂にあえぎだしたチビを励ましもする。少し汗ばんだ肌に春のうららかな風が触れ、かすかに潮の香りも混じっていそうである。あの大橋が前方に姿を現した。視界が一気に広がった。
チビの眼は漢守の自転車を中心に展開する光景にらんらんと輝く。遥か遠くにまで連なる数多くの工場の煙突からは七色の煙が立ち昇り、微風を受けて悠々とたなびく。この大河を自分の足で越えるのはこれが二度目と思ったとたんに、あの最初の渡河の失敗が蘇ってきた。大きく息を吸い込む。苦い記憶がむしろチビを鼓舞する。風も太陽も甘い香りを含んでいて、足も予想以上に軽快に動いている。
そう思った時だった。腸をしめつける痛みが走った。
「くそ、うんこや」と、すぐさま後悔に襲われた。朝食後に少しもよおしたのに、済ましておかなかった。その時は、眼を離すとマサに置いてきぼりを食らう心配が先立ち、便所で時間をかけて「気張る」余裕などなかった。
臍に力を集中し、サドルに尻を押しつけて、断続的に押し寄せてくる腸の運動を押し殺そうとする。既に橋を越えたのだから、漢守の得意先までもう少しのはず、と自分を励ます。
真新しい工場横の、屋根瓦を備えた屋敷風の門が目指す所だった。その門前で漢守はウンパンシャを止め、チビに待つように言い含めたが、そのいかにもよそ行きの顔つきと少し緊張した言葉つきを見て、チビは「便所」の一言を発する機会を逃してしまった。そんなチビの気持ちなど察する余裕はまったくなさそうな漢守は、門の脇戸から中へ姿を消した。
しばらくして漢守が現れたので、すぐさま駆け寄って、ますます切迫してくる「うんこ」の一言をと思ったが、頼みの漢守の俯き加減の顔の眉間には、深い皺が走っている。しかも、その漢守の後ろに人影がある。
ワイシャツにネクタイ姿のその人は、チビを一瞥しながらも黙殺した。その人の指示で荷台から納品用の製品を下ろす作業にとりかかった漢守の動きが、見るからにぎこちない。その「係長」はいきなり漢守を押しのけて、荷台の箱を乱暴に開き、製品を幾つか取り出すなど点検を始めた。そして、これまたいきなり、箱を地べたにぶちまけた。製品が大きな音とともに散乱した。呆然とする漢守の眼前に、係長はその散乱した品物の一つを突きつけると、漢守の懸命につくった笑顔もゆがんだ。
係長の口から、罵りとともに唾までも飛び散るのが見える。
「おたくらの国の連中は、ホンマに信用ならん。下請けも金輪際・・・」。
その瞬間、漢守の肩がぴくりと動くのをチビは見逃さなかった。とんでもないことが起るのではと、チビは恐れた。しかし、チビの予想に反して、漢守はひたすら頭を下げたままである。
係長が捨て台詞を残して去ると、漢守は散乱した製品をダンボール箱に収め直し荷台に載せ始めたが、その顔は少し痙攣しているようだし、色も失っている。チビは呆然としたまま、便意もすっかり忘れている。
漢守は辛うじて少し歪んだ笑みをつくり、「帰るんや」とチビに言った。漢守にはチに気を遣う余裕など全くなさそうである。チビは無言のままに自転車に乗り、漢守の肩を落とした姿を懸命に追いかける。すると、体を動かし始めたせいか、忘れていたはずの便意が猛烈な勢いで戻ってきた。涙がにじみ、冷や汗がどっと吹き出る。
2)糞たれ
大橋を越えて長い下り坂にさしかかったあたりで、ついに辛抱が切れた。もうこれまでと、はっきり意識して腰を浮かし、肛門の緊張をゆるめた。下り坂なのでペダルを踏まなくてもいいので、そうした動きも楽だった。
最初は遠慮しているかのように、しかし、ついには凄い勢いで、体内からそれが飛び出て、チビは解き放たれる快感と虚脱感とが重なった脱力感を覚える。液体とも固体とも判別のつかないそれがニュルニュルと流れ出て、尻とズボンの合間に滞留するのが分かる。
気がつくと、漢守の姿がはるか遠くにあり、すっかり小さくなっている。
あわてて足を回転させながら、流れ出たそれを尻で押しつぶさないように、サドルから腰を浮かそうとするが、その姿勢を保つ辛さと、尻から足へと伝う柔らかで生温い感触の不快感とが重なって、生きた心地がしない。
ようやくオオミチにたどり着いた。漢守は「オマエは家に帰れ」と言い残してコウバへ直行した。おかげで、父には気づかれずに済んだ。自分につきまとう臭いと、乾きだしてごわごわした感触の気持ち悪さからやっと逃れられると思ったのも、ほんの束の間のことにすぎなかった。なんとも<まんの悪い>ことに、足を踏み入れようとした玄関には、何故かしら正河がいた。コウバに向かおうとしている様子だった。正河の鋭い目はいつだってチビの挙動不審を見逃さない。距離を置こうとすればするほど、また、自然な歩き方をしようとすればするほど、正河の目はチビをしっかりと捕らえる。「ショウ」の一言でチビは震え上がる。
「糞たれ」は初めてのことではなかった。小学校入学後の最初の遠足の時もそうだった。糞を尻と脚にへばりつかせたままに、誰にも気付かれることなく帰宅できたのはよかったが、その不始末が正河にはたちまちのうちに見つけられた。
そもそも、この種の「下」の不始末は、生来の、そして体質的なものなのかもしれない、3年になっても寝小便の癖は完全には直っていなかった。そんなわけだから、それは正河のチビに関する心配の種の一つでもあり、正河がチビの挙動不審を見逃すはずはないし、チビもそのことを重々承知している。
「おまえ、また?!」と正河は呆れた声をあげ、すぐさま「裏へ回り!」と厳しい声に変わった。
チビは泣きべそをかきながら、玄関を出た。オオミチを少し右に進んで、鉄工所がある右側の路地をとぼとぼと歩いてやっと家の裏庭に入いると、ホースを拳銃のように構えた正河が厳しい顔で待っていた。すぐさま服を剥ぎ取られてすっぽんぽんになった。そのとたんに、ホースの冷たい水が襲いかかってきた。体のあちこちが痛いほどで、涙がこぼれてくる。殆ど乾いておさまっていた臭いが、水気を与えられて息を吹き返したのか、全身から立ち昇ってくる。正河が交互に繰り出す嘆き節と叱り声も耳に痛い。舌打ちを交えた小言が次第に間遠くなる。
正河は既に大量の水を火にかけて準備しており、その湯と水を混ぜて、それで肌にこびりついた糞を柔らかくしたうえで、タワシでチビの体をこする。冷たい水の後に湯、それに乱暴なタワシの攻撃まで加わって、チビは泣きわめきたいほどである。しかし、一生の恥をはぎ取ろうとしているかのような正河の表情と腕の勢いを前にして、懸命にこらえるしかない。
石鹸の臭いがうんこの臭いに打ち勝つ頃になってようやく、正河の表情は少しほころび、笑みがのぞいた。チビは新しいパンツとシャツを投げ与えられた。こすられて赤くなった肌にシャツが痛い。しかし、その痛みがかえって爽快感をもたらしてくれる。
脱皮した気分で思わずニンマリした。正河の目にも微かな笑みが浮かんだと思ったのは、チビの甘えがもたらした幻想に過ぎないのだろうが、チビは解放感に満ちている。二度目の冒険もこうしたドタバタ劇で幕引きとなった。こうして人間の、それも自分の糞にまみれて成長の一段階が越えられた。但し、チビの精神の成長という意味でなら、もっと重要な経験があった。(引用終わり)
以上でもお分かりになるように、淀川と長柄橋を越えることは僕にとってシンボリックな冒険的価値を備えていました。
その後、高校生になると、僕が入った高校は川のこちら(南)側なのに、わが家の最寄りの国鉄駅で乗車すると、いったんは北側に向けて淀川を越えてキタの中心の大阪駅を経由して、そこから今度は西に向かって再度、淀川を越えてこちら(南)側に戻るような経路で通学するようになりました。したがって、その中間地点であるキタにも足しげく通うようになって、「キタこそ僕の大阪」など馬鹿げたことを吹聴するようにまでなったのです。
それはともかく、僕が今回のFWの地域のあちこちに、実際に足を伸ばすようになったのは、車の運転でのことでした、つまり、大学入学以後のことでした。大学に合格しても学生紛争で長らく授業がなかったので、僕は我が家のコウバの両親にとっては誠に使い勝手の良い働き手、或いは、「何でも屋」になりました。
それには車の運転が必須なので、入学が決まるとすぐさま自動車学校に通って運転免許を取得しました。そしてコウバの製品の配達のために、淀川を毎日、二度三度と往復するようになったのですが、その頃には以前に冒険に失敗した長柄橋ではなくて、新設の自動車専用道路としての新御堂筋を経由してのことでした。
しかも、そうした我が家のコウバの仕事の一環としての運転手稼業だけではなく、両親の便利なお抱え運転手にもなったのです。しかもそれは、紛争で大学の授業がなかった時期だけでなく、学生時代を通じて、さらに場合によっては、その後も続くことになりました。
父が飲みに十三などに行くとき、母や父が頼母子の集まりで、知人が営む焼き肉屋で食事会も兼ねる時には、僕はそこまで載せていき、それが終わるまで、近くで待機して、車に載せて帰宅するようなことが度々ありました。
それが遠くの鶴橋近辺の場合も時にはありましたが、近場では、下新庄、南方、新大阪駅の近くの山口町、さらには崇禅寺、天六など、今回のFWのコースの近辺の店の場合が多かったのです。
頼母子のメンバーがそんな店を経営している場合もあったし、何かの誼で利用してあげる場合もあるなど、金融の手段に加えて懇親会の機能を兼ねて、両親たちは気分よく飲み食いするが、その間、僕はひたすら我慢して待機タクシーの運転手の気分でした。
そんなわけで、僕は自分には何の動機もないのに、まさに成り行きで便利屋稼業を続ける羽目になった。これが僕のいわゆる「家付き息子」の役割でした。
それに味を占めたわけでもないのですが、これまた成り行きで、一時期は中津のプラスチック成型の金型製造会社の社長のお抱え運転手のようなアルバイトまでする羽目になりました。
その社長が何かで免停処分を受けたので、その間に限ってのアルバイトで、その人の得意先の接待のために、ミナミの高級飲み屋(会員制クラブなど)の近くで待機するなどして、送り迎えをしていたのです。
そんなことを何でも成り行きで行いながら、自分でもなんとも馬鹿げたことで青春を無駄にしているなどと、いらいらもしていましたが、そんな経験で知ったことや学んだこともいろいろあって、今から考えると、決して無駄ではありませんでした。但し、その知識や経験を活かすような生き方ができたかと言うと、そんなことはなかったので、やはり無駄だったということになってしまいます。
今回のFWの出発点だった天六へは、母に頼まれて、そのあたりの母の馴染みの朝鮮の食材屋さんでの買い物のために、母の送り迎えを何度かしました。しかも、その種の用事は野放図に広がって、母はずいぶんといろんなことで、僕は運転手として母にとって実に重宝な存在でした。
桜ノ宮の大川べりの巫俗信仰のメッカだった竜王宮にも、母の送り迎えのためにしばしば通いました。生駒の朝鮮寺もそうでした。鉄橋で有名な赤川にも、遠縁の姉さんが嫁いだので、母は彼女に会いに、僕を使いました。赤川という地名はすごく貧しい朝鮮人集落という話を聞いていたのですが、実際に行ったのは、母の運転手としてだけでした。旭区の清水というところにも、同じように母すごくが可愛がっていた遠縁の姉さんの実家があったらしく、何度か通いました。
コウバの仕事の一環で、不渡りでひどい損害を被った時には、その倒産した得意先に父と一緒に車で駆け付けて、何もできなくて、ひどく空しい思いしながら、言葉もなく帰路についたものでした。
そんな会社も淀川の向こう側の豊崎や中津あたりにあり、我が家のコウバの得意先は、何故かしら、淀川の向こう側の豊崎、中津に集中していたわけです。
他方、頼母子の札入れ、つまり、参加者がそれぞれ希望の利子をメモした紙片を提出して、その中で最も高利な札を出した人が、その月に頼母子を下ろす権利を持ちます。頼母子のメンバーは、その利子を引いた額を支払い、降ろした者はその全額を受け取ることができるのです。
そんな頼母子兼夕食会に参加する両親或いは、父か母のどちらかを車で送り迎え 焼き肉屋でした。僕はそんな送り迎えでずいぶんと両親の親密圏の土地勘は培ったわけですが、僕にとってまったく楽しいことではなかったので、好い感情を持つはずもありませんでした。
それにまた、親などに刷り込まれた地域ごとのイメージが僕の頭に偏見として刻み込まれたので、鶴橋や淡路以外は、何かしら自分の意志で足を伸ばすようなことは殆どありませんでした。だから、僕にとってはその地域は長年にわたって、死角のままでした。その地に積極的に足を踏み入れるようになったのは、ここ二年のことに過ぎません。それだけに、そのあたりを歩くと、慙愧の念が付きまとい、気が重くなったりもするのです。
「おまけ」のつもりが長くなりすぎました。今回はここまでにします。お付き合い、ありがとうございました。