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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

折々のメモ22、東京東村山市のハンセン病資料館への旅(3)

2025-04-07 09:01:34 | 折々のメモ
折々のメモ22、東京東村山市のハンセン病資料館への旅(3)

5.僕のハンセン病認識と立ち位置―<恐怖症>の恐ろしいまでの限界―
 ところで、ハンセン病問題についての基本的知識程度なら、僕にもないわけではない。しかし、知識があることと、その問題への積極的な関心や実践とは必ずしも一致しない。その点にこそ僕の問題がある。
 自分に即して、それが問題であるという自覚があったからと言って、それだけでは何の意味もない。何一つ進まない。むしろ逃げの口実にもなる。そんな状態が長い歳月にわたって続いてきた。根が深いのである。
 僕にはいつまでたっても、ハンセン病と正面から向き合う準備が整わない。それどころか、それから逃げようとする構え、思考のスタイルを備えて生きてきた。ハンセン病にまつわる僕の情緒や知識の根幹には、例えば、かつての加藤剛、土屋嘉と丹波哲郎が出演した映画『砂の器』に関して、当時の僕が抱いたイメージが決定的なものとして居座っている。つまり、もっぱら恐怖の対象なのである。
 映画のストーリーなんか殆ど記憶にない。そしてだからこそ、あの映画に関するイメージは強烈である。ハンセン病の当事者とその人々を排除しながら秘匿する社会、その両者に対する恐怖が僕の心身にこびりついている。まさに偏見なのである。
 ハンセン病だけが怖いわけではない。むしろ、それを忌避し、秘匿する社会と人間とその集団が怖い。しかし、その恐怖がハンセン病に対する無反省な偏見の中核となる。
 近寄れば大けがしそうだから、知らんふりして遠ざけて、あわよくば逃げるべきものと見なす。その存在を知っていようと、それを忌避する自分を意識していたとしても、そのこと自体も秘匿する。秘匿すべきもの、タブーとする。僕が君子などであるはずもないのに、「君子危うきに近寄らず」を決め込む。その対象がハンセン病にまつわる一切というわけである。
 自分とハンセン病との関係をそのように断絶し、決して接触したり交わったりすることがないようにする自己防御、自己規制が、僕のハンセン病に対する唯一絶対の立ち位置だった。
 ひと昔もふた昔も前の、多様な差別に共通していた「意識と行動の退行状態」に閉じこもって、僕は75年足らずの人生を生きてきた。
 その間、それも最近になって、少しは知識が増えた。しかし、それも自ら積極的に挑んで得たものではなく、偶然に、或いは、成り行きで積み重なっても、どこまでも表層的なものに過ぎないので、かえって偏見を強化する役割を果たした。
 例えば、両親もそしてそのことも子どもの自分もハンセン病に罹患して、韓国のハンセン病者の隔離施設がある<小鹿島>で暮らした姜善奉さんの自伝も、その<小鹿島>をモデルとして、王国創設の野望、つまり、軍事独裁政権の近代的国家建設のイデオロギーとそれを支える人々の様態を描いた李清俊の小説も読んだ。
 しかし、それは成り行きに加えて、ハンセン病やその患者に対する関心とは全く別個の、フィクションと伝記の差異に関わる知的関心に基づいた、まさに<知識>そのものを求めての読書だった。
 もう少し詳しく書いておこう。姜善奉の自伝は翻訳者から訳稿の校閲を依頼されたので、丁寧に読んだ。李清俊の小説『あなたたちの天国』は原作そのものではなく邦訳を読んだのだが、それは自伝とフィクションとの関係について考える材料にするために過ぎなかった。その両者ではハンセン病の取り扱いが見事なまでに異なっており、前者の自伝作者は、後者を読んで、そこに自分たちのことが書かれているなんて、とうてい思えない、と厳しく述べているらしい。
 因みに、李清俊は、『風の丘を越えて、西便制』の原作である『南道の人』、さらには『シークレットサンシャイン』の原作短編「虫の話」を書いた、現代韓国を代表し、圧倒的な読者も誇る小説家である。
 因みに、李清俊原作の韓流映画について少しだけ。
 僕は『風の丘を越えて、西便制』をあまり好まない。その映画が人気を博すことは確実と思いながら、その映画に危険なものを感じた。そんなことを口にするから、いろんな方から<変な奴>と言われもするのだが、それは僕固有の映画に関する見方なので、ご容赦願うしかない。原作の『南道の人』は未読なので何とも言えない。
 他方の、『シークレットサンシャイン』はチョン・ドヨンとソン・ガンホの両方の演技も、その役者に対する好みもあって、手放しのファンなのだが、原作は未見である。
 ここではチョン・ドヨンについて少しだけ。
 僕が彼女のファンになったのは、ドラマ『若者のひなた』で彼女を初めて見て以来のことである。将来は大物女優になると確信した。そしてそのドラマで共演していたぺ・ヨンジュンンにも将来性を見た。しかし、その後も二人のファンであり続けているわけではない。ぺ・ヨンジュンは『ホテリアー』はまだしも、『冬のソナタ』は見ておれなかったし、その後の時代劇風の大作なども、完全にうんざりだった。
 他方、チョン・ドヨンの方は映画はいいのだが、ドラマでの彼女を見るのは辛い。アメリカ映画の翻案である『グッドワイフ』でもそうだったが、その後のネットフリックスのドラマは、ファンとしてすごく残念という気持ちもあって、なおさら受け付けない。
 以上はあくまで僕の嗜好に過ぎない。俳優の能力とも関係なく、贔屓の引き倒しかもしれない。
 道草が長くなりすぎた。話を元に戻そう。
 読書でハンセン病に関する知識は少し増えたが、僕のハンセン病に関する偏見、そして立ち位置に変化など生じなかった。むしろ、昔から持っていたものが凝固したかもしれない。  
 それよりもはるか昔から後生大事に抱えてきた僕固有の総体的<恐怖症>の一部としてのハンセン病恐怖症、或いは、ハンセン病忌避症候群だった!
 僕にとってハンセン病は、僕がその他の多様な事柄に関して患っていた恐怖症と一体のものとして考えるべきものであり、ハンセン病に関する偏見を僕が持っているからには、さらに多様な事柄についての偏見やタブーを抱えて僕が生きてきたわけで、それを再確認しない限り、ハンセン病に限っての偏見だけを問題にするのは、不十分である。自他に隠してきた僕自身の<偏見の体系>に変化の兆しすら生じる可能性もない。
(折々のメモ23、東京東村山市のハンセン病資料館への旅(4)に続く)

折々のメモ21 東京東村山市のハンセン病資料館への旅(2)

2025-04-05 08:20:31 | 折々のメモ
折々のメモ21
東京東村山市のハンセン病資料館への旅(2)

3.ハンセン病資料館訪問の前史1―直近の具体的なきっかけ― 
 実は今回の旅の直接のきっかけは、ハンセン病資料館の展示と講演会の案内をもらったことだった。諸種の差別に一貫して反対する運動を実践すると同時に、その理論的バックボーンとなる議論をメールで送ってくださるFさんの案内を受けて、自分自身のハンセン病に関する考えや立場を整理する機会にできるかもと、計画を立てた。
 旅の経路としては先立つことになった南信州の満蒙開拓平和記念館訪問も、実はその後に続くことになったハンセン病資料館訪問とセットで脳裏に浮かびあがったものだった。
 両者ともに僕自身の問題として考えておくべきこと、つまり、僕の思考や感情の死角やアキレス腱になっているという感触があったからこそ、まるで連鎖反応のように一体で浮かび上がってきたのだろう。
 どちらも、本気で辿り直すつもりにでもなれば、人生のどこまで立ち戻らねばならないか定かでないほど、僕の意識の深部で長い歴史を持っていそうな問題だった。
 今の僕にはまだまだ説明が難しくても、端からその究明を回避している限り、今回の折角の訪問もその価値が半減、あるいは雲散霧消しかねない予感もあったから、困難を承知の上での訪問、そしてこの報告文なのである。
 前者の満蒙開拓記念館訪問については、結局は表面をなでるだけになってしまったが、前史めいたことを描いてみたので、以下ではハンセン病資料館訪問に限っての、僕にとっての具体的な前史と、それと密接に関連する内心深いところにある心理的障壁などの、せめて輪郭だけでも描いてみたい。

4.ハンセン病資料館訪問の前史2―もう少し古いきっかけ― 
 僕のハンセン病への関心は、今回の訪問の直接的なきっかけとなったFさんからの案内以前の、拙著『金時鐘は在日をどう語ったか』(2021年4月、同時代社刊)において、主テーマの背景として記述した兵庫県の一斉糾弾闘争に関する調査において始まっており、その成果としての拙著との関係もあってFさんから案内なども頂けるようになった。
 兵庫県の高校における一斉糾弾闘争は、1960年代から70年代にかけて、数多くの成果を上げるなど盛り上がりを見せた。しかし、それだけに反動も尋常ではなく、特に八鹿事件を契機にした政・財界、そして政党や教育行政、さらには警察が一体となった攻勢が一気に猛烈に襲い掛かり、闘争はすっかり守勢に追いやられ、そのあげくには、内部分裂を繰り返さざるをえなくなった
。そして、今やすっかり歴史の一齣となってしまった感がある。しかし、現今の兵庫県の社会や政治状況は、あの闘争に対する反動攻勢の結果であるという感じ方が僕にはある。
そして、そんな状況にあっても初志を貫徹していると、少なくとも僕には思える二つの潮流が、実はハンセン病問題にも積極的に関わっている。その両グループのハンセン病への関り方の様態と変遷が僕の関心を惹いたのが、上掲の拙著の刊行直後のことなので、既にそれから4年の歳月が流れたことになる。その間に僕の調査自体はそれほど進んだわけではないが、関心は持続している。
 二つの潮流の一つは、一斉糾弾闘争を主導していた進路指導研究会の中核を占めていた「むらぎもグループ」である。そのグループにおけるハンセン病に対する関心は、一斉糾弾闘争以前の1960年代初頭に遡り、現在に至るまで半世紀以上も一貫して、その問題に精力的に関わっている。
 機関紙としての『むらぎも』では、折に触れてハンセン病関連の報告が見られるし、その中核メンバーによるハンセン病施設在所者その他との交流、共闘の報告書なども刊行されている。例えば、『<対話の場>の創造へーハンセン病・朝鮮 そしてわたしたちー』(「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟を支援する市民の会、2004年)の主たる書き手として『むらぎも』の中心人物が名を並べているなど、必ずしもハンセン病に特化しているわけでもないグループとしては、長期にわたる独歩的な存在である。
 他方は、1970年代の半ばに、一斉糾弾闘争の現場として知られた尼崎工業高校を卒業する際に、運動の成果の一環で地方公務員として送り出された二人の在日青年を中心とした運動である。彼らはその後、公務員生活の傍ら、民族差別を含む多様な差別反対運動を継続し、現在は「兵庫県在日外国人人権協会」を拠点に活躍しており、その成果として『民族差別と排外に抗してー在日韓国・朝鮮人差別撤廃運動1975-2015―』などを刊行している。そして、その中核的人物が後には、ハンセン病被害家族訴訟原告団の一員として前面に立つようになって以降には、あたかもその運動自体がハンセン病に特化した運動体のようにも、例えば、僕などは錯覚するほどまでになった。
 ところが、上掲の報告書では、ハンセン病関連の記述は、以下のように限定的である。

2003年:韓国・ハンセン病補償請求棄却処分取消提訴訴訟3・23、東京地裁棄却、05,10・25、東京高裁取下6・2
2005年:「東京地裁、国立ライ病(ハンセン病)療養所小鹿島(韓国)・楽生院(台湾)の判決、小鹿島は請求棄却、楽生院は勝訴➡厚生労働省は小鹿島。楽生院入所者への補償支給を開始
台湾・ハンセン病補償請求棄却処分取消訴訟提訴12・17に東京地裁認容5年10・25、東京高裁取下
2008年:ハンセン病基本法成立6・11

 それを見ると、ハンセン病に関してはむしろ寡黙といった印象が強いほどである。但し、それはその運動体の近年におけるハンセン病に関する取り組みの活発さが頭にこびりついた僕だからこその印象に過ぎないのだろう。
 それにまた、その組織と報告書それぞれの性格も関係しているのだろう。「兵庫」を組織名に冠せ、「在日韓国・朝鮮人差別撤廃運動」と民族差別を中心とした差別撤廃の運動を、網羅的に記述することを目的とする報告集なのであり、ハンセン病に特化した報告ではないという事情が大きく作用してのことだろう。
 さらには、対象時期の限定も関係している。その組織の中心人物の1人であるHさんの家族にハンセン病患者がおり、そのために自分も含めた家族がどれほどひどい扱いを受けてきたかをようやく明らかにして、被害家族訴訟団の一員としてその運動の前面に躍り出るのは、報告集が対象としている1975年~2015年には含まれないどころか、それよりはるか後のことだからである。
 それも含めて、家族にハンセン病患者がいるという意味で当事者に他ならない者にとっての、ハンセン病の重みに想像力を働かさねばなるまい。
 以上のように、同じ兵庫県の一世糾弾闘争から生まれた運動という点、そしてハンセン病との密接な関りという点において共通性を持ちながらも、或いはそうだからこそむしろ、両者には差異が目立つ。
 例えば、ハンセン病への関心とその差別反対運動については、「むらぎも」が圧倒的に早く、長期にわたっている。運動体としての両者のハンセン病への関りの歴史には、四半世紀以上もの時間的偏差がある。
 その他、一斉糾弾闘争の過程における両者の激しい対立の歴史が関与してか、ハンセン病の差別反対運動に関しての協力関係や情報の共有などの気配も窺えない。
 従って、両者のそうした関係についても関心が尽きないのだが、相当に微妙な問題を含んでいそうな問題であり、それについての十分な情報を持たない僕としては当面、そうした差異よりも、一斉糾弾闘争において厳しく相対立した歴史を持つ潮流にある両者が、ハンセン病に関しては、同じく積極的に関わる姿勢を示している点に着目したい。
 そして、そうした事実に教えを受けながら、僕のハンセン病に関する認識と立ち位置を検討するきっかけになりはしないかと、ハンセン病資料館での講演会に参加して、展示も見たいと思うに至ったのである。
 要するに、僕のハンセン病に対する関心は、兵庫県の一斉糾弾闘争に対する関心の延長上にあることは確かなのだが、実はそれも含めて、僕個人の暗部との遅ればせの対面が、このシリーズ全体の主題なのである。
(折々のメモ22、東京東村山市のハンセン病資料館への旅(3)に続く)


折々のメモ20 東京東村山市のハンセン病資料館への旅(1)

2025-03-30 08:18:15 | 折々のメモ
折々のメモ20
東京東村山市のハンセン病資料館への旅(1)

1.信州飯田から東京都東村山市まで
 南信州・阿智村の満蒙開拓平和記念館に次いでの目的地は、東京東村山市に位置するハンセン病資料館だった。 
飯田から乗車した高速バスは、都内に入ったあたりから渋滞がひどくなったので、予定より15分ほど遅れて新宿のバスターミナルに着いたのが、12時半だった。下車すると、直ちにハンセン病資料館に向かった。1時半から予定されている講演会に遅れまいと気が急いた。
 しかし、東村山市など、僕はこれまでに聞いたこともなく、東京のどの方面にあるのかさえ知らない。携帯で路線情報を何度も確認しながら、所要時間の短縮に努めたが、東京の中央部の地下鉄路線で事故があったらしく、大きく迂回を余儀なくされるなどして、ハンセン病資料館の最寄り駅である西武の清瀬駅まで、繰り返しの乗り換えに往生した。
 キャリーバックと左足の膝痛がまさしく足手まといで、午前中の4時間を超えるバス旅行による疲れも、乗車中は殆ど意識しなかったが、それなりに大きかったのだろう。
 ともかく、乗り換えを何回したのか記憶にないほどだったから、清瀬駅にたどり着いた時には、さすがにほっとした。
朝早くのホテルでの朝食から、何も食べていなかったので、少しでも胃に何かを流し込んでおいた方が良かろうと、駅構内のカウンターだけの蕎麦屋で<かき揚げ蕎麦>を注文した。
 味なんか期待していなかったのに、意外とおいしかったから、得をした感じ。かき揚げが揚げたてだったからだろうが、ともかく嬉しかった。それに東京特有の濃い醤油味もそれほど気にならなかった。関西の薄口醤油、関東の濃口醤油という基本的な違いも、今では昔ほど気にならない。
 だし汁の味と人の舌の全国一律化、つまり平準化に、すっかり飼い慣らされたのだろう。ラーメンのチェーン店の濃さとパンチを利かせる競争の成果だろうが、自分なりに調整するしかない。濃すぎる味は後で不快感をもたらし、僕なんかの軟弱な胃腸は確実に重くなってくるので、できるだけ汁を残したり、水をたっぷり飲んで、味を中和するように努めるしかない。
 その蕎麦屋でもずいぶんと沢山の水を飲んだ。僕はさすがに高齢男性に特有の病を患っており、バス内では長時間、水分補給を慎んでいたので、その反動もあったのだろう。

2.ハンセン病
 ハンセン病資料館方面行きのはずのバス乗り場で、ベンチに腰かけていた上品な老婦人に、と言っても、僕よりそんなに年長というわけでもないはずだが、「ハンセン病資料館に行くバス乗り場はここで間違いありませんか?」と少し躊躇いながら尋ねたところ、すごく優しい声で「その通りですよ」と返答があったので、気持ちが和んだ。
 実は、「ハンセン病」という言葉を使わない方がよいのではと躊躇いながらも、やはり正確を期してそんな尋ね方をしたのだが、その種の躊躇いは無用だったのかもと少し嬉しくなった。
 ハンセン病という病名、そしてハンセン病資料館という施設名が、この地域では既に十分に市民権を獲得しているからかもと思ったが、すぐさまそんな単純な話ではないはずと、警戒心がぶり返した。僕が無知すぎるからこその余計そうな懸念や気遣いから、解放されたわけでもなかった。
 その病名や施設名を口にする際の躊躇いは、実は、僕自身のハンセン病に対する立ち位置に関わっており、僕自身がそのことに気づいていた。
 内心の不安の原因をむしろ外部の何かに転嫁して責任免れようとする小賢しい心理操作、<ええ格好しい><善意の人>が往々にして自らに施す心理操作、それを僕自身が行っていることに気付かない僕でもなかった。
 それはともかく、その老婦人がご自身が下車するにあたって、「次の次がハンセン病資料館のバス停ですから、くれぐれもお気をつけて」と、温和な微笑を浮かべながら、僕を励ますように(少なくとも僕にはそのように聞こえた)声をかけてくれたので、ますます嬉しく、有難かった。
 老婦人に教えられたバス停で、さらに運転手にも念押しするように確認したうえで下車し、道路の向かい側へ渡ると、なるほど「ハンセン病資料館」の玄関前にたどり着いた。



折々のメモ19 南信州・阿智の満蒙開拓平和記念館への旅(2)

2025-03-16 20:12:31 | 折々のメモ
折々のメモ19
南信州・阿智の満蒙開拓平和記念館への旅(2)

満蒙開拓平和記念館訪問 

 
満蒙開拓平和記念館(以下では記念館と略記することもある)は木造平屋の、自然の中でいかにも自然な感じで佇んでいる。素朴ながらも静かな気品を漂わせ、正面から一見してすぐさま好感を抱いた。そして、後に設立の趣旨や経緯を記した現館長の文章を読んで、その理由も分かる気がした。
 設計者は設立者グループと近く、専門家としてはもちろん、建築物の意義に関しての日知人の深い思いを注ぎ込んで設計したから、おのずとそうなったらしい。
 立地も、結果的には最も相応しい場所になったと、少なくとも僕は感じた。もっとアクセスが良く、人々が容易に訪れることが期待できる飯田市内を希望していたが、経費その他の障害が大きすぎて断念を余儀なくされた。そしてその後に、現在の阿智村から無償で貸与された、その地に建てることになったと言う。しかし、かえってその方がよかったし、その結果としての好立地は偶然ではなく、人々の気持ちが集約された賜物のように思えた。
 基幹的な村道からは奥まった所にあるのも悪条件ではない。むしろ村の胸深くに抱き抱えられているような安らぎがあるし、観光バスが多く駐車できるスペースの確保も可能になった。基幹的な表通りを車が盛んに行きかい大いに賑わおうと、そんな一時の盛衰とは関係なく、過去の国家的犯罪に巻き込まれた人々の無念さを忘れずに、平和で平穏な個人と集団の生活と地域を志向する場所として、さらには、そんな場所に建てられた建築物として理想的に思えた。
 アクセスが多少悪くても、志を持った人々は何かと工夫して時間と経費と機会を準備して訪問を果たす。そしてそれだけの苦労の分、多く深く学ぶ。そしてそんな人々のネットワークが記念館とその設立にかけられた人々の思いを広く伝える。そのようにして、青少年少女の世代の社会見学的集団旅行の波に乗って、遠くからはるばる観光バスで訪問者がやって来るだろう。
 現に僕が訪れた際にも、沖縄の子どもたちの団体と出くわした。中央政府の思惑とは別に、多様な地域で粘り強い取り組みがなされ、それがネットワーク化して情報伝達が容易になってこそ、この種の民間施設の維持も可能になる。
 少し先走りした感があるので、僕の到着と記念館への入館時点に戻る。
 入館(料金は600円)すると、旅に出発して以来の足手まといだったキャリーバックから解放されたくて、受付にいた女性に保管をお願いした。そのためにほんの少し言葉を交わすだけで、対応を通じて、記念館に対する好感度が増した。後で知ったことだが、その人こそは記念館の事務局長で、僕でも名前と顔を知る著名な研究者の指導下で研究していたらしい。記念館では、ボランティアの方々とも協力しながら、業務の全般にわたって、やり甲斐を感じながら、てきぱきと取り組んでいそうだった。
 事前に電話でいろいろと質問して、細かいことをあれこれ教えていただいたのも、その人だったのではと思い至った。
 観覧を始めようとしていたところ、小学校の上級生か中学の一年生くらいの集団がぞろぞろ入って来て、一気に賑やかになった。先の受付の方から、もしよかったら、その生徒たちと一緒にガイドの説明を聞きながら観覧してはいかがですか、と勧められ、有難くその言葉に従った。
生徒たちの後方で立ちながら、懇切丁寧な案内人(たぶん、記念館の要職者)の説明を受け、展示をひととおり観覧し終えると、生徒たちとは別のセミナー室で、贅沢にも僕一人で、関連動画の鑑賞までさせていただいた。
 折角の機会だからと、本棚にぎっしり並んだ図書をぼんやりと見ながら、少しはのんびりとした時間を過ごしたくなった。それには最適の空間と思えた。そのためにも、先ずは腹ごしらえと、サービスステーションのコンビニで買ってきた弁当を、電子レンジで温めていただけるようにお願いして、館内隅のテーブルで食べることにした。
 いつもそうだが、市販の弁当は僕には量が多すぎる。それを家に持ち帰って食べる際には、自分の容量を意識しながら自分をコントロールして、半分、少なくとも3割は残が、外では何かしら気が急いて、それができない。それこそ僕の宿痾の一つなのだが、案の定、味も感じないままに食べつくしてしまい、ずしんと胃が重くなってきた。
 記念館についてはウィキペディの記述が比較的にまっとうで、少なくとも僕から見れば、大きな瑕疵はなく、コンパクトで的確そうに思えたので、その一部を引用して説明に代えたい。
記念館の趣旨については、以下のように記述されている。

 旧満洲(中国東北部)に入植した満蒙開拓団の苦難の歴史を伝え、平和の尊さを次世代に語り継ぐために設立された[1]、満洲移民史を扱う日本で唯一の民間施設である[2]。
 同館は、設立を立案・主導した「飯田日中友好協会」の事務所としても利用されており[3]、 また2019年に団体学習用のセミナー室や映像室などが新設され、施設が拡充されている。
 長野県(殊に下伊那地方)は、農村の人口過剰と口減らしの必要性により、満蒙開拓移民を国内で最も多く送り出した地域であるが、開拓団員経験者の高齢化が進む中、開拓の背景と実情、  
また敗戦後の引揚げの苦しさを伝える全国初の施設として開設された。
中国残留孤児の帰国に尽力した阿智村の僧侶・山本慈昭の活動を伝える資料も展示している。
 
 以上からも十分に推察できるだろうが、実際に展示を見たりそれについての案内を聞いた限りでも、すごく真っ当な歴史観と事実認識、そして深く厳しい志に基づいた施設という印象だった。今の日本で、そんな企画が民間の手で実現し、長年にわたって維持・運営されていることに感激した。しかし、この言い方は少しおかしい。むしろ、民間だからこそ実現し、維持されているに違いない。日本では公的に、特に国家的にはこのようなことが実現する見込みはなさそうで、だからこそなおさら貴重である。
 国家と国民の負の歴史から目を反らさず、その責任を明確に指摘することによってこそ、その歴史がもたらした数々の悲惨の実相と、それにもかかわらず営々と続けられてきた国境を越えての連帯の取り組みの真相が見えてくる。
 そんなことは今の日本ではありえないと、もっぱらセンチメンタルに絶望しかできない僕なんかは、まったく与り知らないところで、その種の努力が続けられている。そんな事実を眼前にして、僕は心底、励まされた。絶望などと勝手なことを言う資格なんて、僕にあるはずもない。そんなことを感じるためにこそ、膝を痛めながらも、僕はそこまで足を運んだ。それまで明確に捉えきれていなかった旅の目的が、ようやく浮かび上がってきた。
 そうした心理、或いは思考の流れの延長上で、開設に至った記念館が開館以後も、予想以上の来館者を迎えるなど成功を収めてきた秘訣について、あくまで門外漢という立場からではあるが、想いを巡らしてみたい。
 一つは、この種の企画や施設にまつわって生じがちな関係国との軋轢その他については、国境を超えた相互理解と協力の関係を深めるための取り組みが長期にわたって継続されてきたからこそ、障害にならなかったのだろう。館長から頂いた名刺には、日中友好協会の長野県及び飯田市の副会長、さらには、身元不明中国残留孤児肉親調査などの肩書が記されており、会長を筆頭とした広範な人々の日中両国にまたがる地道な活動が、この種の事業を可能にしたし、その後の成功ももたらしたのだろう。
 因みに、名刺にはもう一つ、民間の会社の代表という肩書も明記されており、民間の経営者としての自立的経営感覚のようなことも、この事業の維持運営に大きく作用してきたことが推察されて、僕は内心、大いに喜んだ。
 そしてもう一つは、記念館の横に設置された記念碑の存在とその設立の経緯と効果である。それは、先代の天皇と皇后の行幸記念としての平和を祈念する碑なのだが。それが持つ意味と効果は甚だ大きく思われた。

 それを見れば、天皇主義を盾や矛として悪用する狂信的な人々でさえも、記念館に対してむやみに妨害工作を敢行するのは難しいに違いない。
 彼らが尊崇しているはずの天皇家お墨付きの施設とその行幸を記念する平和を祈る碑に対して、反日の外国勢力などとレッテルを張って、記念館とそこに集う人々を攻撃するのは論理的に成り立たない。
 それだけに、そうした<お守り>の建立に漕ぎつけた努力とそれを支える深謀遠慮について、想いを巡らさないではおれなかった。
 天皇と天皇制など、さらには、それとこの種の施設との関連に関しては、様々な議論がありうるし、日本国籍者ではない僕のようなものが、迂闊に余計なことを言うと、どこからか石礫が飛んできそうで怖じ気もあるが、在日二世として日本の戦後の学校教育の中で意識形成をしてきた者としての感想という条件つきで、考えてみたい。

 満蒙開拓団の悲劇は帝国主義国家日本の、とりわけ、当時の軍部の、より具体的には関東軍による犯罪によってもたらされたが、その旧憲法下での軍の統帥権を握っていたのは、大元帥でもある天皇に他ならなかった。
 その後の敗戦によって、旧憲法に換わる新憲法下で天皇は絶対君主ではなくなり、あくまで象徴天皇制という制度的枠組みにおける儀礼的存在となった。そのはずだが、実際には支配体制はそんな天皇を時々の政治的利害思惑によって利用してきた。新憲法の骨格をデザインしたアメリカもまた例外ではなく、日本統治に利する天皇制を巧妙に活用するなど、象徴は為政者(日本政府とアメリカ政府)にとって、甚だ便利な創作物だった。
 満蒙開拓団の被害者の立場から歴史を見る記念館にとっても、天皇制は極めて重層的な意味を持つ。その悲劇の根源には旧憲法下の天皇制があり、そのことも暗に含めての関東軍に代表される国策の責任を問うには、新憲法下の天皇制を為政者の側とは異なる方向で実質化することによって、記念館の盾とすることしかない。
 例えば、天皇皇后の行幸を実現し、記念館の展示物などで明らかにされている主張を、象徴天皇が行幸という象徴的行為によって受け入れるなど、被害者との和解を演出したうえで、平和記念碑の建立という方向性が打ち立てられたのではなかろうか。
 それは天皇を利用するといった小手先の術策とは異なり、憲法の本質を実践的に内実化することによって、天皇家の贖罪と国民との和合の実質化に向けての取り組みに他なるまい。
 先にも触れたことだが、僕などはそもそも日本国民ではないこともあって、その憲法について、云々するつもりなどないが、少なくとも戦後教育で習い覚えた新憲法の基本的な人間観として、象徴天皇というものは理解しがたい。天皇家の人々を一個の人間として解放するのが、その憲法の真の方向性であるはずなのに、現実世界ではなかなかその方向には進まない。
 しかし、少なくとも天皇家の人々が抱いている主体的志向性をしっかりとくみ取って、そういう存在として十全に尊重しながら、共に生きる工夫が必須だろう。そうした考えからすれば、記念館の平和記念碑の建立への努力と、その結果としての平和記念碑の存在の意味は、いくら強調しても十分ではないだろう。
 その他についての詳しいことは、当館で購入した資料の一部である小冊子『記念館建設の経過』に関する館長自身の二編の報告を、ホテルへ向かうバスの中で懸命に読んで初めて知ることが多く、感銘を受けた。研究者の論文ではなく、あくまで両親その他の開拓団にまつわる経験譚などを聞きながら培われた志、それを実現するまでの、一個の民間人という立場を貫徹した記述であり、そこには誇張やアジテーションの気配が感じられず、爽快だった。
 それを読了して、ますます来訪してよかったと思ったし、何かと障害が多くあったのに、この旅を敢行した自分を、珍しく褒めてやりたくなった。しかし、そうした僕自身の公共交通が都会とは異なるという基本的認識が僕には欠けていたからである。
 その後はのんびりと本棚を見たり、気になる本を取り出して読んでみたりするうちに、明日のバス便のことが気になりだした。東京の東村山市にあるらしいハンセン病資料館での講演会への参加呼びかけに応じて参加することが今回の満蒙開拓平和記念館訪問と並んでの二大目的の一つで、そのハンセン病資料館で13時半から開催を予定されている講演会に断じて遅れてはなるまいと思って、急に落ち着きがなくなった。そもそも東村山市なんて僕は初めて聞く名前で、それが東京のどこにあるかも知らなかったから、不安になりだすと止まらなくなった。
 そこでともかく飯田駅まで行って、その近くにきっとあるにちがいない高速バスのチケットの予約と販売窓口に一刻も早く赴かねばと考えた。
 そこでまたしても受付の女性に、記念館から飯田駅までのアクセス情報をお願いした。すると、彼女は調べた結果、二つの選択肢(二つの時間帯)をメモした紙を僕に手渡してくれた。ありがたかった。ところが、そんな親切を僕のひどい無知とそそっかしさが台無しにしてしまった。
 二つの選択肢とは2時台のバスを乗り継いでの方法と、5時台の記念館から直通の1本のバスのどちらかというのだが、僕としては5時台の出発であれば、飯田駅には6時台、下手をすると7時台になって、暗い中をホテルまで歩くのは危険だから選べるわけがなく、2時台の乗り継ぎが必要な方を選ぶしかなかった。そこまではわりと懸命な選択だったはずなのに、そのメモされた文字を僕は読み間違って、コミュニティバスから乗り換える市内バスの出発までの待ち時間が1時間半と書かれているのをまともに確認もせずに半時間と誤解してしまったのに、そんなことも知らないままに、預けていたキャリーバッグを返してもらって、いそいそとコミュニティバスの乗り場に急いだ。
 そして、やがてやって来た小さなコミュニティバスに乗って、市内バス停近くのコミュニティバス停留所で100円を支払って降り、道路の向こう側にあった市内バス停留所で待機を始め、手元無沙汰だったので、バス停に貼ってある時刻表を見ると1時間半も待たないと飯田行のバスがこないと書いてあった。「あれれ、不思議」と思ったので、受付の女性から頂いたメモを改めて確認したところ、なんと目の前のバス停の時刻表と同じで、僕がメモを読み間違っていたことに、ようやく気付いた。


 しかし、そのくらいのことであれば、僕の予定に何ひとつ不都合が生じるわけでもないと、落ち着きを取り戻した。そして、錯覚がもたらした無為な時間を活用しようと思い立った。
 道路の向こう側の、殆ど人影が見えない閑散とした駐車場があるスーパーに向かった。
スーパーの店内にも、客も店員も殆ど見かけない。ただ、東南アジア系と思しい若い女性たちが片隅に集まって談笑する姿が目に入った。なるほど、日本の各地で農業も工業もそんな若年の、おそらくは研修生制度という典型的な外国人を搾取する政策に基づく末端労働で日本を支えているのは、韓国でも同じだが、開発途上国の若者たちだと改めて思った。
 スーパーの隅にある喫茶スペースに腰を下ろしてぼんやりしていると、いかにも親切そうな女店員が現れて、注文を聞いてくれた。出されたのが、お水ではなく温かいお茶だったので、少し面食らいながらも、懇切丁寧な接客に感心しながら、コーヒーを注文し、じっくり味わった。そうしているうちに1時間くらいすぐに過ぎ去った。
 待望のバスに乗ったが、そこから飯田駅までは予想以上に遠かった。やがて、まるで絵本の中のように、赤くてかわいい駅舎の前でバスから降りた。そこが終点で、バス料金は400円だった。


 早速、その近くにあったバスのチケットの販売窓口で、翌朝の東京までのバス便を確保したつもりが、またしても僕の世間知らずのひどさが判明した。
 翌朝8時発の便を予約して、やれやれ、明日は無事に東京に行けると安心した。そして予約してあるホテルに向かうために、窓口の女子職員にホテル名を告げて、方向と所用時間を尋ねてみた。
 すると窓口にいた二人の女子職員が殆ど同時に、呆れたような顔つきと、口調で声をそろえた。「歩くなんて、とうてい無理です。それに、そんなところに宿泊するなら、バスのチケットもこの駅前ではなく、ホテルの最寄りの停留所発のチケットを予約して、そこから乗車すべきですよ」
 そこで、僕はなるほどと苦笑いを浮かべながら、先ほどの予約を取り消して、ホテル近くの停留所からのチケットに変えてもらった。同じバスだが、発車時間が20分近くも遅かった。つまり、そこからホテルからの最寄りの停留所まではバスで20分もかかるわけである。なるほど遠い、と納得した。
 ネットでホテルを予約した際に、飯田市であれば、どこであれ、駅前から歩いて行けるものと思い込んでいた。地方都市だからそれほど広くはないだろうと。だから、飯田市のホテルということ以外は何ひとつ確認もせずに予約した。後でそのずさんさに気付いて自分でも呆れた。
 結局は、バスのチケット売り場でホテルの位置を尋ねたことで、事なきを得て、アドバイスされた通りに、タクシーを拾ってホテルに向かった。料金は1800円、なるほど、キャリーバッグを引きずりながら、しかも、膝を痛めた左足も引きずりながらでは、相当に難儀したはずと胸をなでおろした。
 さすがに、無知を痛感した。南信州の都市事情だけのことではなかった。この旅では、東京のホテルの予約でも、同じように初歩的ミスを犯していたことに気付くことになり、まったく使い物にならない老人の自分のざまを、思い知った。
 しかし、そうしたホテルの予約に関する僕の幼稚すぎるミスにも、それなりの前史があって、情状酌量の余地がないわけでもない。というより、そんなミスは、ネットその他に関するトラウマのせいと、弁解もしたくもなる。
 実は半年前のこと、東京と韓国ソウルのホテルの予約をネットで行った際には、僕それまで普通に使っていたカード、それも次々に三枚も、ネット旅行社が受け付けなかった。何かのちょっとしたミスかと、繰り返して試してもダメだったので、殆どパニックに陥った。このところ、パソコンと携帯とネットで不具合が生じるとすぐにそんな状態になる。例えば、ネット詐欺の新たな手口で、僕のカードにまつわる個人情報を把握して、悪用されるのではと心配になって、ついには諦めた。そして、翌日に改めて予約を取る際には、カード決済ではなく、コンビニ支払いにして、自宅から徒歩10分にあるコンビニまで出向いて市支払いを済ませて、なんとか予約に漕ぎつけた。
 しかし、ネットを通じてのホテル予約に対する僕の苦手意識は確実に高じて、殆ど病的症状を呈すようになり、それ以降には、昔に使っていた旅行社に丸投げで依頼することにした。
 ところが、その旅行社を通じて予約を取ったソウルのホテルがあまりにもひどくて、金輪際、相手にしないことにせざるを得なくなった。だからこそ、今回の出張のホテル予約の際には、新たなカードを使用してみたが、僕の方に自信がないものだから、カードが有効と認められることしか念頭になくて、予約したホテルの正確な位置など全く確認もしないで、予約するなどと、なんとも馬鹿なことをする羽目になった。
 しかし、そうしたトラウマも関連した今回の旅における大小さまざまな成功と失敗の両方が、その後に急遽、企画・実行した西への出張(3月5日~6日)の際に、特にホテル予約にあたって役立ったので、なるほど失敗は成功の基と、能天気になれた。
 というよりもむしろ、そのように能天気に生きようと、自分に言い聞かせるようになった。そうでもしないと、もっぱら心配を募らせる余生になりかねない。失敗なんて気にせずに、命さえ残っておればラッキーと、少なくとも気楽を装いながら生きていこうと思うようになった。

地方都市のビジネスホテルの良さ
 ホテルの位置の確認をしなかったことは確かに大きな失敗で、その為に費やしたタクシー料金1800円はまさに自前の出費になったが、そのおかげで飯田の街の広さが少しは体感できたわけだから、一概にムダ金とは言えない。それに予約したホテルはいろんな点で、予想外に良かった。

 タクシーでホテルに到着してチェックインすると直ちに、翌朝のバスターミナルまで地域の地理を確認しながら歩くなど、自分なりにホテルを中心にした周辺の見取り図の作成に励んだ。ホテルから5、6分で翌朝に乗車する予定のバスターミナルにたどり着けた。
 しかし他方では、僕お好みの居酒屋はまったく見当たらなくて、がっかりした。そこでホテルに戻り、フロントで相談してみたところ、朝食を頂くことになるホテル内のレストランが、夕方6時以降は食堂兼居酒屋として営業するので、是非とも利用するようにと勧められた。
 それを聞いて、それに決めた。膝を痛めた状態で、外で一杯気分でホテルに戻る夜道で、怪我を悪化させかねない。ホテル内のレストランでのんびり一杯が得策と判断した。
 部屋の窓からは信州の山並みが一望できたし、部屋の広さも数か月前に出張で利用した札幌のホテルの、窓の外は建物ですっかり閉ざされ、室内も動きがとりにくいほどの狭さなどまるで牢獄のようなのに、とんでもない高かったのと比べれば、景観も広さも、そして価格もすべてが納得できて、嬉しかった。
 しかも、一階には大浴場があって、久しぶりの銭湯気分も味わえた。そのおかげなのか、僕には珍しくまともに眠れたし、6時半の朝食の開始時間には、殆ど一番で食堂に入った。朝食ということもあって、特に目立っておいしそうな料理などなかったが、ニンジンの千切りの酢油漬け、フランス料理のキャロット・ラぺみたいななのが、爽やかな甘さで気に入った。そのレストランに備え付けののコーヒーメーカーのコーヒーを自室に持ち帰って飲んでみると、意外なおいしさで、そのささやかな幸福感の中で、出発時間までのんびり過ごした。
 今回はホテルで一度もパソコンを開かなかった。珍しいことで、それも精神衛生によかったのか、4時間を超えるバス旅行への心身の準備が整った。

長いバス旅行(飯田から新宿まで4時間強)
 僕が乗り込んだ際には、既に始発の飯田駅からの客もいて、そこに僕らが加わっても、乗車率は50%ほどだったが、市内の停留所で新たな客が次々に乗り込んできて、殆ど満員状態で高速道路に入り、一路、東京新宿に向かった。乗った時点からひたすら眠ることに決めていそうな高齢の女性もいて、現に殆どずっと眠っていそうだった。僕と席が隣り合わせた若者は、外見からは意外なほどに礼儀を弁えていて、不快感などまったくなかった。
 2時間後にはサービスステーションで20分のトイレ休憩があったので、下車してトイレを済ませて20分ぎりぎりまで、膝には極力注意しながらも、四肢の屈伸運動などを軽くしながら、遠方の雪をかぶった山並みの景観を楽しんだ。


 
改めてバスに乗り込んでからも、不思議なほど退屈しなかった。記念館で購入した資料を読んだり、書きかけの草稿に目を通したりもしながら、その合間には大いにラインのお世話になった。
 バスの窓越しに見える信州の山の光景を写真に撮っては、家族や知人その他に送った。



とりわけ、先だってようやく連絡がつくようになった小学校時代の二人の女子とも、ラインがつながって、チャットの相手をしてくれたおかげで、退屈も疲労感もないまま新宿に着いた。バス料金は4800円ですごく安く感じた。こんなことなら、今後は大いにバスを利用して動き回れそうな気がした。何よりも高速道路の走行の安全性についての不安も一掃された。バス旅行に対する不安が消えたことは、僕にとっては大きな成果のひとつだった。
(これで『満蒙開拓平和記念館訪問』に関しては完了ですが、以上の2回の記事の双生児とも言うべき、「東京東村山市のハンセン病資料館への旅」も、しばらく後にはアップしますので、続編としてお読みいただければ幸いです。)


折々のメモ18 済州の名節のお供え料理であるピントクと京都の主婦の防寒対策2

2025-03-10 16:05:50 | 折々のメモ
折々のメモ18
済州の名節のお供え料理であるピントクと京都の主婦の防寒対策2

1.京都の主婦の防寒対策
さて、今回は京都の実に賢明な主婦となった僕の大昔の教え子からの防寒対策の話をきっかけに、彼女との長い断絶を挟んだ関係について書く
 先ずは、彼女が送ってくれた写真である。


 
 彼女は生まれ育ったのは大阪だが、結婚して京都に住み着いて既に数十年、京都人としての履歴の方が長くなっており、そんな彼女の京都便りに時折添えられる写真を僕が楽しむようになってからでも、ずいぶんの歳月が流れた。
 送られてくる写真はどれもこれも見事で、そのまま絵葉書にでもなりそうなほどである。それなのに、選りによって今回のように、主婦としてのこまごまとした生活の工夫の写真をアップすることには、彼女はあまり納得していそうにないのだが、それでも敢えてそうさせえていただいた。僕がそこに彼女を見出して、親しみを覚えるからである。
 他人様に自慢して見せるための写真ではなく、自分の生活の一部として「こんなこともしてますよ」という軽い感じだったが、そこに彼女の生活に実質を感じた僕が関心と愛着を抱き、当人の意向に反するかもしれないと思いながらも、敢えてアップした。
 京都の古家で、持病に悩む彼女が底冷えのする冬を凌ぐための工夫の様子は、僕の余生に対する励ましとなるし、これまでの彼女との長年の不思議な関係の中でも折に触れてあったことを思い出す。

観光大使級に、京都の伝統文化や景観に親しむ主婦の写真
 彼女はパートナーが長年にわたって、京都の観光関連の職に就いていて、その影響などもあってのことか、僕から見れば、彼女自身がまるで京都の観光大使のように、京都の伝統的文化行事や見事な景観に親しんでいる。そしてその楽しさのおすそ分けのように、四季折々のなんとも美しい写真で、僕の目を和ませてくれる。それと比べれば、家の防寒の工夫の写真など恥ずかしく他人には見せられないという気持ちも、僕にはよく分かる。
 しかし、写真でも何でも、美しいものだけに値打ちがあるわけではない。見る者にとって、或いは、被写体との関係によって、美しさの基準が変わるし、美しさよりも別の価値判断もある。彼女が送ってくれる見事な写真は本当に美しい。
 しかし、僕のようなへそ曲がり者の目には、それを捉える彼女の目の確かさや写真の技術に感心する一方で、それらは京都の観光案内のいたるところで目に入る美しさとあまり変わりそうにないといった、既視感が強い。

 それにまた、ここ数年はすっかりラインになったが、そのやり取りで、僕が驚かされると同時に、心身にそよ風が吹き込むような爽快感を覚える彼女の賢明な生活人としての魅力は、それらの写真だけにあるわけではない。そんな自分勝手な信憑が僕にはある。
ところが、今回の隙間風防止のビニールを貼った窓の写真は、テープの貼り方や写真の撮り方の拙さも含めて、彼女の生活人としての賢明さと僕が名付けたものの本領が垣間見えるように思えた。だからこそ、無理を言って掲載させてもらった。ひょっとしたら、彼女は今でも納得していないのかもしれず、それなら、この場で改めてお詫びとお礼の気持ちを伝えしておきたい。

新米仏語教師と受講生とは同じ地区の住民で同じ中学の卒業生
 さて、彼女との馴れ初めから、現在までの付き合いについて述べたい。三文教師の成れの果ての少しへそ曲がりの老人の相手を厭わないという、なんとも奇特な主婦の正体は?
 僕が大学で仏語の非常勤講師を始めたのは、大学院の博士課程の2年生からだった。その年度は二つの大学にそれぞれ週に1日で都合2日、翌年には大学がもう一つ増えて3校になり、これまたそれぞれ週に1日なので都合3日、大体1校で3コマか4コマの第二外国語としての仏語の初級、中級、つまり正規で言えば、1年生と2年生の学生だが、再履修生などの場合は、3年生、4年生などもいたが、そんな学生は既に大学を放棄したのか、授業に出てこない学生が多かった。
 博士課程3年生の年度にはおおむね9コマか10コマの授業を担当し、それで夜の塾などのアルバイトを減らすことができたので、毎夕、夫婦が一緒に食事ができるようになって、嬉しかった。その一方で妻の希望で、自宅でフランス語を個人教授も初め、後に子どもを産んだ妻は仏文科の大学院に進学した。
 ところで、京都の賢明な主婦と僕が勝手に名付けたKさんは、おそらくはその当時に僕が最初に教えた学生の一人だった。そして2年続けて教えたように思うが、確かなことではない。
 授業中の記憶もわずかながらもある。周囲の女学生と比べると、清楚で賢明な雰囲気を漂わせていた。そして、切れがよくまっすぐな話しぶりが、その外見の清潔感と釣り合っていた。
 ところがやがては、そんな彼女のことが、僕の記憶に確実に残る契機となる偶然があった。それが僕が彼女を教えていた頃のことなのか、或いは、既に彼女が3年生か4年生になってからのことだったのか定かではないが、大学からの帰路の電車から降りたところ、彼女も降りてくる姿を見かけた。そのとたんに、先方も僕を認めて、明るい挨拶の声が飛んできた。そして、成り行きで肩を並べて10分足らず歩きながら、彼女が僕の生まれ育った地域の住人であることを知った。そんなことがその後も、一度くらいはあって、彼女が僕の末弟と中学時代の同期生であることに気付いた。しかし、どちらに尋ねても、顔と名前は知っているが言葉も、交わしたことがないようだった。
 その他、当時としてはすごくお洒落な地元のカフェでアルバイトをしているという話も聞いたので、何かのついでにそこを訪れたこともあったが、彼女の姿はなかった。だから、それっきりだった。その後しばらくして、僕は遠くに転居して、生まれ育った地元との縁が薄くなった結果でもあった。
 ところが、なんとそれから20年以上も後になって、彼女からのメールが僕に届いた。それも、中国の厦門の海辺の丘に広大に広がる白亜の厦門大学(白城というニックネーム)の8階建ての宿舎の6階の部屋で、僕が寒さに震える日々を過ごしていた頃のことだったから、まるで神様が僕を助けに遣わした天使のメールのような、大げさな感慨があった。
 台湾に近接して亜熱帯気候の厦門で何故、寒さに震えていたかなどの詳細については、関心のある方は、本ブログの厦門関連の長い紀行文で書いているので、そちらを参照していただくことにして、ここではその大半を省く。
 しかし、本文の流れにとって最低限のことは以下に述べる。
 僕が寒さに異常に弱い体になっていたこと、温暖な気候の厦門の宿舎には暖房施設がなかったことが相まって、鉄筋コンクリートの建物内では昼間でも寒さに苦しみ、戸外に出るとむしろ暖かくて嬉しくなる毎日だった。
 僕はおそらくその寒さのせいもあって、食中毒の症状を発症して、大学病院の隔離病棟に一週間も入院する羽目になった。そしてようやく退院を許されて、自室に戻って、パソコンを久しぶりに開いて、思わぬメールに驚いたというのが、僕の今の記憶なのだが、ひょっとしたら、入院前にKさんのメールを見ていたのかもしれない。
 それはさておき、Kさんのメールの内容は次のようなものだった。
 Kさんご夫婦の娘さんが、ご両親が共に卒業した大学に入学することになって、入学式か何かの儀式に参加された際に、Kさんはふと、もしかして僕の所在を事務当局に問い合わせた。そして、既に僕は退職していたが、その大学の教え子であることは確かなのでと、特別に個人情報のメールアドレスを教えてもらえたので、実際に届くかどうかわからないけれども、ともかくメールを書いてみたと言うのである。
 因みに彼女のパートナーも僕の受講生だったらしいが、それらしい学生の心当たりが僕には全くなかった。当時はまだKさんの学生時代の姓だけ辛うじて覚えていたが、パートナーの姓も顔も知らないので、特定できるわけもなかった。
 ともかく、そんな不意のメールに、体調不安と孤独と寒さで追い詰められた気分だった僕は、藁をも掴む思いだった。
 その後は、彼女と頻繁にメールのやりとりをするようになって、既に15年を越える。僕が今でも定期的にメール交換をするかつての教え子は、5、6人いて、そのすべてが女性なのだが、Kさんはダントツに最高齢で、しかも、最も頻繁にやりとりをしており、さらに言えば、教えられることが非常に多い。
 世代的要素と僕のナマグサとが絡まって僕が困って回避している問題その他、実に多様なことを彼女は教示してくれる。鉄道の安価な活用の仕方。例えば、ポイントのことなど、僕にはチンプンカンプンなのだが、丁寧に説明してくれる。パソコンその他のIT関連に関してもいろいろと教えてもらえる。
 例えば、彼女と僕のラインのやり取りでは、韓国語通訳もメンバーの一員のように彼女が組みこんでくれたので、どちらかのメールも日本語と韓国語の2バージョンで読める。そのハングルを読めば、翻訳アプリの限界も目に付くが、二人が韓国語でこんなことを話し合っているのかと、僕は音読して遊んだりもする。
 そんなことができるのも、彼女は京都でずいぶんと長くハングル塾に通い、その仲間や教師経由の情報が多岐にわたっているかららしい。教え子の仲間や教師と一緒に韓国絡みのイベントや食事に出かけたりもするらしい。何かと僕より詳しいことが多いのである。
やがては、メイルの交換だけではなくて、僕の仕事絡みで京都の案内をしてもらったこともあるし、僕が所用で京都に出かけた時には会って、お茶や食事をしたりすることもあった。
 彼女の京都の家から割と近くにある画廊で開かれた在日がらみの写真展には一緒に行ったこともある。二条城の国際的な美術の大イベントについて、ある媒体に記事を書く羽目になった際には、彼女の案内を受けて酷熱の下の二条城内を歩き回った。
 彼女たちご夫婦が、僕が済州に長期滞在していた頃に済州旅行をすると知らされて、終日、タクシーをチャーターしてガイド役を買って出たこともある。パートナーはさすがに観光関連の職に就いて長いだけに、歴史に格別な関心があるらしく、僕が案内する済州の女性生活文化の遺跡その他を、真剣に見てもらえているのを見て、うれしい気分だった。夜は当時、済州市の原都心内で人気を博していた少し風変わりな豚の焼き肉専門店に招待して、会食を楽しんだ。
 それはともかく、彼女は僕が生まれ育った地域が地元だけに、在日との接触もそれなりにあったらしく、そのことを意識している、その点では在日なんて知らないという日本人女性とは異なる。しかし、だからと言って朝鮮韓国のこととなるとやたらと知ったふりして肩入れする様子はないところも感じが良い。それこそ僕が思い描く、あって欲しい日本の主婦の姿かもと思ったりもする。
 彼女の率直なメイルには、時折、はっとさせられて刺激的なので、ずいぶんと助かっている。ついつい一人相撲になりがちな僕を、それとなく批評的に見てもらえていそうな気がして、爽快になるからである。時には、屁理屈だらけの拙著に関する感想なども書いて送ってくれる。
 今から7,8年前には、僕ら共通の地元の交差点で、彼女が今では嫁いだ娘さんと一緒に歩いているところにばったり、地元が同じというのは、そういうものなのだろう。メールのやり取りでも、場所や店の名前を出せば、説明抜きで何かが通じる、場合によっては、有無を言わせない同一感情の強制の趣も帯びかねないが、彼女の自由そうでいて、地についた生活感覚が、そうした軽佻浮薄に対する防波堤になっていそうな気がする。
 地元に一人残して嫁いだお母さんが、ついには施設に入ったので、一人娘の彼女が実家の処分その他の手続きを一手に引き受けたらしく、彼女には実家という存在が消えて、名実ともに京都人になった。それでも僕の欲目からすれば、僕らの地元の人といった感じがどこかに残っていそうに思える時があって、何故かしら嬉しくなる。
 ともかく、長期にわたって相手をしていただいて、感謝以上の言葉を思いつかない。
 そんな人が教え子の中には彼女の他にも幾人かいて、その助けや励ましもあって、教師冥利に尽きる。教え子だけではなき、歳をとってから知り合ったそれなりの関係を結んで相互信頼のレベルに至っていそうな人たちがいる。だからこそ、こんなに老いた僕でも、それなりに充実感のある余生を送れるのだと痛感する。今後もその調子で、しかし、もっと軽やかに生きることができればいいのだが。
(済州のお供え料理であるピントクと京都の主婦の防寒対策の1と2は完)