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玄善允・在日・済州・人々・自転車・暮らしと物語

在日二世である玄善允の人生の喜怒哀楽の中で考えたり、感じたりしたこと、いくつかのテーマに分類して公開するが、翻訳もある。

「折々のメモ34-1、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の5-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」

2025-07-07 16:24:20 | 折々のメモ
「折々のメモ34-1、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の5-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」

9.妻のその後(入院と手術と退院)
 妻の話に戻る。妻は、6月24日に入院した。入院手続きは午後の2時から4時までの面会時間に限られていたので、ふたりで1時45分に病院に着き、14時に依頼しておいた個室に収まったが、際立って寒がりの僕ら夫婦には、すごく寒く感じられて困った。  
 もちろん、僕らはそんなことも予想して、特に妻はさすがに防寒対策をいろいろとしていた。普段着の僕でも寒く感じられたから、パジャマ姿の彼女はもっと寒かったはずである。寒さ対策の服を用意していたから、なんとかなるだろう考えたし、1人部屋にしておいてよかったと改めて思った。夏でも暖房にすればいからと。
 そのとおり、妻も夏であるにもかかわらず暖房をかけ、看護師に毛布を追加してくれるように頼んだところ、薄くてとても防寒にはならないものを持ってきたので、改めて掛け布団を依頼して、ようやく眠ることができた。翌日に手術が終わってから、妻は僕にそんなことを愚痴っていた。
 手術は翌日の12時半からの予定で、僕がいくら早く病院に着いても、その時間は面会時間外なので病室には入れず、当然、病室にいる妻とは会えない。会える可能性は、手術室に移動する際の、エレベータ乗り場しかないと言われたので、その通りに、その前で長らく待った。ようやく会ってほんの少しだけ言葉を交わすことができた。既に書いたことだが、昨夜はやはり寒くて、腹が立ったという。
 その時に出くわした看護師の話では、2時には手術を終えて、病室に戻ってきて、病室で会えると言われて、病室の貴重品の引き出しのカギを渡された。
 待合室で、僕が出かける時には常時、リュックに入れて携行している推敲用の原稿をチェックしながら時間をつぶし、2時の面会時間になると病室に向かった。ところが、そこには妻はもちろん、彼女のベッドもなかった。
 妻はそのベッドに臥した状態で手術室に移動して手術を受けるのはもちろん、出術室から病室に戻って来ることが、ようやく僕にもわかった。
 仕方なく病室外で、壁にもたれながら原稿を読みながら待つことにしたが、いくら待っても妻は現れない。心配になったが、緊急の場合には僕の携帯に連絡があるはずなので、何度もその携帯を確認するなど落ち着かなかった。ともかく、連絡がないのが吉報と考えるように努めたが、心配性の僕にふさわしく、やたらといろいろなストーリーを思い描いているうちに、3時を過ぎた。その頃になってようやく、妻がベッドに臥したまま、酸素吸入器をつけて現れた。
 まだ麻酔から完全には覚めていないらしく、意識はあっても、まだはっきりしていそうになかった。ほんの少し言葉を交わしたが、そのまま眠らせた方が良いと思って、病室から出た。
 さてどうしようかと考えていると、執刀医が通りがかり、僕が何も言わないのに、僕のことを覚えてくれていたらしく、携帯の写真で手術の患部の写真を見せながら、「出来ることはすべてきちんとしたので、ピアノも弾けるようになります」と自信たっぷりに言うので、少しは安心する一方で、かえって心配になるなど、妙な気分で落ち着かなかった。
 看護師の話では、翌日の9時半以降に、改めてレントゲンその他の検査を終えてから、執刀医の診察も受け、今後のことなども相談してから退院手続きになるとのことだった。
 仕方ないので退散することにした。そもそも、その日は何としても実家に行って、用事を処理しなくてはならなかった。新大阪駅近辺の実家に向かったが、全身の倦怠感がひどいし、心ここにあらずの状態で、何かとミスが多くて困った。
 退勤時のラッシュ時に重ならないように急いで帰路についた。帰宅してから何かを作って食事という元気はなかったし、食欲自体もなかったので、駅前の小さな居酒屋でビールの小瓶と芋焼酎の湯割り、肴には鯛の南蛮漬けとビーフンのチャンプルーで夕食代わりにした。
 前にも2,3度入ったことのある店で、女将さんと料理はまともだが、常連グループがカウンターを占領して交わす話題が、聞いているとうんざりしたあげくに気分が滅入るので、早々に退散して帰宅を急いだ。
 帰宅早々、家のすべての窓を開け放して風を通し、屋上のバルコニーに白ワインを持って上がり、気持ちを落ち着けるために半時間ぐらい、夜の空と海を眺めながら、ちびりちびり飲んだ。
 シャワーを浴びてベッドに入ったが、なかなか寝付けず、韓国の民主党系のユーチューブをいくつか見ていた。
民主党と曹国新党のスポークスパーソン、どちらも脚光を浴びている30歳台の女性たちが、それぞれに魅力にあふれた議論を展開しながら、記者会見を見事にとり仕切る様子を見ているうちに、僕なんかすっかり過去の、それも使い物にならない男であることを、半分は嬉しく思いながら、半分は寂しく思っているうちに、かえって安心したのか眠りについた。
 明朝は、週に一回のプラスチックゴミの回収日なので、そのプラごみを集積場に出して、いつものようにサラダをしっかり食べてから、病院に駆けつけるようにと自分に言い聞かせた。
 体調もおかしいし、何かと気持ちが不安定なので、そんな時ほど、ルーティンを丁寧にしないと、ミスの連発となりかねないからと自戒しながら、雨模様の中を病院に向かった。
 兵庫駅から大開までの街並みは何かしら妙である。僕ら老人だけの街のように感じることもその一つ。兵庫駅は決して小さな駅ではなく快速も止まるのに、人通りはほとんどなく、当然のように活気もない。目に入るのは病院と葬祭会館、そして介護施設だけである。このような街が日本中にどんどん増加しているのだろう。
 執刀医は手術内容の説明もしながら、少しでも手の指が動けるようにと、ギブスの調整もしてくれた。妻は少し控えめながらも、同じ手でも、手術した部分とは別の部位の痛みを訴えたが、執刀医は「そんなところにはまったく手を入れていないので、手術のせいではなくてギブスのせいかもしれない」と曖昧なことを言いながら、ギブスを懸命に削っていた。
 ともかく、切れてしまっていた腱に別のところから取って来た腱を移植する手術とは関係のない部分も、これまでには相当に酷使して来たはずだから、その長期間にわたる酷使のストレスがあるにちがいない。
 ギブスの調整をしてもらったおかげで、見えるようになった手の指は、さすがにすごく腫れていて、痛みがないはずがない。2時間半もかけて手術したのはあくまで一部でも、手の全体に影響があるだろうから、今後の様子をしっかり見届けて、改めて執刀医と相談するしかない。
 一週間後には執刀医、二週間後には循環器の医師との診察予約ができた。当分はこの調子で、なんとかギブスが取れた暁には、リハビリも経て完治の宣告を受けるまで、どれほどの歳月を要するものやら予想がつかない。
 妻にとってはストレスフルな毎日になるだろうが、そんな妻をどのように支えることができるか、いろいろと考えたが、立派な知恵など浮かばない。状況、とりわけ妻の体調とそれに関連する心理的な負担その他に注意しながら、彼女はもちろん、ふたりの今後にとって助けになる介護に努めなくてはと、またしても自分を戒めた。
 退院手続きを済ませると、電話でタクシーを呼び、数分後にはタクシーが到着することを妻に告げに彼女が待っているはずの待合所に戻ってみると、妻の様子が明らかにおかしい。
「座っておれない。横にならないと我慢できないほど気持ち悪い」と言う。慌てて看護師に声をかけた。
 比較的若手の看護師が車椅子を持ってきてくれたし、先日来、何度も相手をしてくれていたベテラン看護師まで駆け付けてくれた。
空いている診察室のベッドに妻を寝かせて、体温や血圧や脈拍その他の検査もしながら、循環器の医師も手が空き次第、駆け付けてくれるように手配したという、
 妻の額や首筋の冷や汗を僕の小型の手ぬぐいで拭きながら、すごい汗の量であることを実感した。15分ほどすると、妻の容態、とりわけ表情がずいぶんと落ち着いてきたし、血圧は正常値に近づいてきた。しかし、脈拍は相変わらず100を超えるなど、常態よりも高かった。
 循環器の医師が現れた時には、半分は回復した様子だったが、もう少し様子を見てから動いた方が良いとの忠告だったので、妻がもう大丈夫と言うまで待ってから、帰路につくことにした。タクシーで自宅まで5千円、入院費用は8万7千円くらいだった。

(「折々のメモ34-2、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の6-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」に続く)

折々のメモ35:気苦労と老化

2025-07-06 11:19:18 | 折々のメモ
折々のメモ35:気苦労と老化

これから数回は、昨年の2024年7月20日に書き始めながら、多忙や心身の絶不調のせいで、そのまま放置せざるをえなかった草稿のことを、さすがに同じ季節が巡ってきたおかげか、或いは、その時期に恒例の夏の贈り物(後で詳述する)による刺激のせいか、一年ぶりに思いだした。タイトルは以下の通りであり、手入れができしだい、アップする。

35:気苦労と老化―時代(通信環境その他)への不適応症候群―
36:夏のプレゼントージイジ稼業は体力が必須―
37:孫たちと海に入ることー生きる覚悟―

今回はそのトップとして、辛かった話である。

35:気苦労と老化――時代への不適応症候群のひとつとしての通信環境の変化―

 2022年に母が100歳で亡くなって以降、実家の遺産処理などで何かと気苦労が絶えなかったが、それもようやく目途がつきかけたので、やれやれ一息と思った矢先に、今度は僕ら老夫婦が暮らす西神戸のわが家で大騒ぎが勃発した。ただでさえそれまでの長期にわたるストレスのせいで変調をきたしていた宿痾の胃腸病がひどいことになった。
 きっかけは通信環境の改変である。セールスに訪れた通信会社の営業担当職員の宣伝文句にのせられて、内容が詳しく分からないままに、自宅の通信環境を全面的に変える契約を結んでしまった結果、その後の数か月にわたって、右往左往の辛い羽目に陥った。
 営業マンが二人で飛び込んできた時には、毎月の経費が1万円以上も節約できるという話を、話半分と余裕をもって聞き流していた。ところが、親切そうで熱心な二人の掛け合いに信頼感を抱いたあげくに、すっかり口車に乗せられて、次回に二人が訪問してきた時には、その先に何度も相手をするのは面倒だからと、あっさりと契約を結んでしまった。
 そしてそれ以来、思わぬことの連続で、僕ら夫婦は完全に振り回され、ストレスに苦しむことになった。
 通信環境とは、テレビ、ネットフリックス、ユーチューブ、固定電話、携帯電話、その他のWi-Fi(パソコン、プリンター)全般に関わる包括的なもので、それだけに、いろんな会社を買収統合してできた通信の総合会社内では、多種多様な役割の分担と協力体制が不十分で、すっかり細分化された各部署の各職員は、他の部署のことはもちろん、同じ部署内の他の職員がしていることなど知らないし、責任を持たない。相互連絡もまともに機能していない。そんなことなど想像もしていなかった僕らは、もっぱら一つの同じ会社を相手にしているつもりなので、何が何だか分からず、意思疎通なんてありえない。
 そもそも僕ら夫婦は、そもそもが社会の産業構造の変化なとはあまり関係ない社会の周辺としての大学にかかわるフリーター生活でなんとか生計を立ててきたし、しかも、今や、現役から完全に引退した身なので、社会の先端としての通信関係の業務の進め方など全く分かっていない。新しいシステムが人間を操る超現代的な大都市に、未開の僻地からやって来たばかりのお上り老人の気分だった。
 一軒の家の通信環境の改変のためにわが家に来て説明、釈明、謝罪、さらには個々の作業を行 った人たちで、先ずは営業担当の2人が4回(毎回1時間以上)も。
 次いでは、Wi-Fiやテレビ、ネットフリックスその他の作業員2名が2時間の作業を行ったが、その彼らが致命的なミスをおかしていたことが、たちまちのうちに判明して大騒ぎする始末。設置された新品機器で、その会社の新技術として売りになっているWi-Fi機器が、その夜には恐ろしい音を出しながら熱を帯びてきて、爆発しないかと心配になったので、僕が敢えて、取り外す羽目になった。
 そして、翌日にカスタマーズセンターに連絡すると、故障かもしれないので、新しい機器を取り寄せてから、取り換えのために作業員を派遣しますとのことだった。そして、数日後になってようやく作業員がやってきて、10分ほどで作業を終えた。ついでだからと僕はその作業員にいくつか質問したところ、ひたすら「担当ではないので分かりません」と答えるだけ。
 携帯電話関連の作業員1名(僕ら夫婦を前にして、その会社のある部局と電話をつないで指示を仰いだりしながら、作業を1時間半ほどする間に、僕らの質問にも答えてくれるなど少しは話が通じた唯一の職員だった。
 そのほかに、それ以前にWi-Fiとテレビ関連(有線放送)の契約をしていた会社の作業員が3名、解約に伴う機器の取り外しと持ち帰りの作業を15分ほどして持ち帰った。
 その他、録画用の外付けハードディスクは我が家では無用なので解約の手続きをしたところ、僕が自分で取り外したうえで、受け取りに訪れる宅急便会社の配達員に渡すように指示されたのだが、機械音痴の僕は、そんなものが取り付けられていることすら知らなかったし、そんな説明を事前に受けていなかったから、それを取り外すなんてことなどできるわけがないと言うと、説明用の動画を送るので、それを見て客が自分ですることになっていると言う。そこで、しぶしぶ、こわごわながらも挑戦したところ、なんとか成功したので、それを宅配業者に渡せば、すべてが完了と胸をなでおろした。ところが、翌日にはまたその会社の、名前を見たこともない部署から、いろんな説明書きとともに工事道具が送られてきた。それがいったい何なのか訳が分からず電話したところ、そのまま外付けハードディスクと一緒に宅配業者に渡してもらいたいと、またしても訳が分からない返答で、僕の頭はまたしても深い藪の中に。
 既に触れたことだが、作業員が設定したネットフリックスの契約その他でとんでもないミスをしていたせいで、わが家が余計な費用まで支払って、やり直しを依頼する羽目にもなって、妻は激高し、既に変調状態になっていた僕の胃は、すっかり収縮してしまい、機能してくれそうになくなった。
 その間、僕ら夫婦が交代でカスタマーズセンターにかけた電話だけでも20回以上で、その度にその会社の職員同士の情報の共有が成立していないことが判明して、初めから説明のやり直しをするなど、毎回の通話時間も半端ではなかった。
 それどころか、電話から流れるガイダンスの自動音声で必要な部門の番号を打ち込むことを4回、5回と繰り返したあげくに、職員と話を交わせるまでに要した時間だけでも相当なもので、結果的に人の声とつながればまだしも、人につながらないまま諦めたことも少なくなかった。
さらには、その会社の職員を名乗るけれども、これまでには聞いたことがない部門の職員からいきなり電話がかかってきて、何のことかよく分からない質問を受けたり、指示されたりして、あっけに取られたりとまるで迷宮である。僕らがこれまでに生きてきた世界とは異なる世界をさまよい翻弄される気分だった。
 そんな世界は嫌だと言っても、それでは生きていけない。僕らは今や、そんな世界cで生きている。例えば、ネットがなければ生活できない。
 日常の買い物は殆どネット経由である。主な食料品は一週間前に手書きもしくはネットによる注文に基づいた生協の定期的宅配、日用品はアマゾンにネット注文の宅配。アマゾンのプライム会員だから、早ければ当日に、遅くても翌日には届く。
 5,6年前では、いつでもどこでも車が必須だった妻も、自分には何の落ち度もないのに追突事故にあって以来、車がいかに怖いかを実感して、車の廃車手続きを行った。夫婦ともに運転免許の更新なんか放棄したので、今や、ネット通販がなければ、わが家は世界からほとんど切り離されてしまいかねない。
 家庭菜園やガーデニング関連の資材や苗なども大半はネットで調達しており、すぐに必要なものがある時に限って、徒歩で15分もかけて最寄りのコーナンに行き、それを担いで持ち帰る。それが老いた僕にはなかなか重労働である。
 地上波などは殆ど見ないが、日本以外の有線放送によるドラマやニュースはユーチューブとともに、今や僕の人生の最大の友である。夜中でもいつでもベッドの友であると同時に、朝からヒーリング、ヨガ、ストレッチその他で必需品。
 だから、新しい通信環境を是が非でも手懐けないわけにはいかない。それ以上に、現代の会社とその職員たちの分断された仕事のやり方にも、この先、この社会はいったいどうなることやらと大いに不安に駆られながらも、実害をできる限り避けながら、付き合っていくしかない。
それこそ僕ら生きている現代の社会である。嫌いでも不愉快でも無関係を気取るわけにはいかない。
 そもそも僕のような老人は、時代に置いてきぼりを食らうのは殆ど必然的なのだが、それなりに環境変化に対応しながら、自分自身の不足、欠陥に意識的に対処して、残された時間を楽しみながら、大いに楽しまねばならない。それだけにどんなトラブルに巻き込まれようと、それ自体を楽しむのもまた、与えられた人生の選択肢の一つである。
 通信環境の改変に伴う面倒だけが僕らの日常に立ちはだかっているわけではない。津新環境の問題が解決してやれやれと思ったとたんに、新たなトラブルが生じた。今度は老化に伴う肉体的問題と、社会的役割の問題である。
 わが家のささやかな菜園を彩ってくれるプランターのトマトの実がなりだすと、カラスの大群が襲来するようになった。その攻撃からトマトを守ろうと、ネットで検索して音波で鳥を跳ね飛ばすなどという謡う機器など、いろんな対策を講じたが埒が明かず、その最後の策が防鳥網を張り巡らすことだった。
 早速、妻の督促と励ましを背に、覚束ない心身で試してみた。脚立への上り下りを繰り返し、やっと終わりと思って脚立から降りようとしたところ、最後の段で足を踏み外した。右ひざに鋭い痛みが走った。最初は少しの痛みで、そのうちに治るものと楽観視したが、夜になると膝を動かすたびに疼痛があり、階段の上り下りにも苦労するようになった。そして、翌朝にはもっとひどくなった。
 その翌日には母が亡き後の僕にとって大きな仕事である遺産の処理の一環としての不動産売買の決済の日にあたっており、取引場所である新大阪まで行けるのかと心配だったが、なんとかたどり着き、1時間半ほどかかってようやく、決済その他の手続が無事に終了してやれやれだった。
 ところが、その後は全身の気疲れに加えて、膝の痛みが本格的になった。それは僕にとって困ったことだった。シカゴ在住の次女の一か月にわたる仕事も兼ねた帰省のために、孫を二人引き連れてやってくることになっていたからである。そしてその間に僕に与えられたミッションは、そのチビどもと海で戯れることだったが、傷んだ膝で、果たしてそれが可能かという大問題に直面することになった。
(「折々のメモ36:夏のプレゼントージイジ稼業には体力が必須―」に続く

「折々のメモ33、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の4-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」

2025-06-29 11:46:00 | 折々のメモ
「折々のメモ33、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の4-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」

7.二人、或いは家族で一緒に過ごした時間―学生結婚と家族の生成と葛藤―
 
 夫婦の街歩きはさておいて、この半世紀に及ぶ夫婦生活で、一緒にいた時間、或いは、何かを一緒にしていた時間を思い返しみたくなった。妻の病院通いなどで、久しぶりに二人して外で過ごす時間のゆとりを味わったおかげだろう。
 僕ら二人は夫婦であり、家庭生活を共に営んでいるから、それぞれの血縁や友人知人との付き合いなどで一緒に出掛けたりも、結婚して10年くらいまでは頻繁にあったが、その類の付き合いはことごとく失敗して、僕ら夫婦はその種の付き合いはまったくしなくなって、既に40年になる。慶弔その他に二人で出かけることもないし、わが家に血縁者や知人や友人が来ることもない。夫婦として世間での体面とされていそうなことは何ひとつしていない。
 だから、以下では、そうしたこととは全く別枠の夫婦として、そして子ども二人の親として、何を一緒にしてきたのか、それに限っての話である。
 それも世間一般ではあまり普通ではなさそうなことから先ずは紹介する。
 僕ら二人はフランス語に関しては、教え教えられる関係だった。但し、僕が教え子と結婚したというわけではなく、結婚してから、僕が妻にフランス語の手ほどきをした。
 妻が最初の子どもを宿していた頃に、妻の希望を受けて、僕が妻にフランス語を教えた。さらには、その延長で、小説の購読やフランス文学の批評家の書物や研究書の輪読を二人でしていた。
 さらには、僕だけでは教え方が偏る懸念もあったので、近隣に住んでいた仏文の研究仲間にも妻の指導を頼んだ。妻はその家を訪問してフランス語のテクストの読解の訓練を受けた。
 その成果も受けて、僕と二人でフランス語の小説について議論することもあって、刺激的で楽しかった。
 妻は無事に長女を出産すると、その間の家庭での仏語仏文学の勉強をベースにして、仏文学専攻の大学院に進むことにしたが、その入試には、僕はまだ一歳に満たなかった長女と一緒に入試会場である大学のキャンパスで時間を潰しながら試験の終了を待った。
 その時には娘が便秘でひどく苦しんで、その対応に苦労したことが不思議に記憶に残っている。その詳細を書くと、長女は嫌がるだろうから、いくら老いた父親でもそれは慎んでおくべきだろう。
 修士論文を書いた妻は、さらに博士課程に挑戦することになる。そして、その試験の合格発表を受けて、妻は自分ですでに決めていたように、二人目の子どもを産むことにして、計画通りに妊娠して、お腹に子どもがいる状態で遠路はるばる博士課程に通った。そしその指導教授や大学院仲間との飲み会にはいつも僕も同行した。その指導教授は妻にとってはもちろんだったが、僕にとっても忘れられない人になった。その後、妻は次女を、無事に出産した。
 その間、コンサートに、映画に、演劇に、落語などに通った。子供がいなかった時代には、一緒に山登りもした。近場では六甲山系、生駒山系を歩いた。その頃は、僕よりも妻の方がはるかに健脚だった。僕は大学院の勉強とアルバイト、それに運動不足もひどかった。ガイドブック片手で生駒山系の暗峠を目指した時には。途中で道に迷って、不安になって引き返したことを覚えている。
妻が一回目の妊婦期には、気分転換にと、夏休みで僕のアルバイトの合間を縫って、信州の「高ボッチ高原」に3泊4日の旅行に出かけた。
 妻が宿その他をすべて計画してくれたが、生憎と最悪の天候だった。晴れていたのは到着した初日だけで、翌日からはガスが立ち込めて何も見えない。国民宿舎に缶詰状態で、しかも水不足で風呂もまともに入れない。料理もひどく、寒かった。
 ついには予定を早めて山を下り、浅間温泉に移動したとたんに見事な快晴となって、翌日は、美ヶ原高原を歩いた。お腹が大きいのに、妻は健気に良く歩いていた。楽しい山歩きだった。それに何と言っても、浅間温泉の宿で、やっとまともな料理と温泉にありつけた。
 山との関連で言うと、子どもが生まれて以降は、家族4人でよくスキーにも行った。湖西線の比良山、琵琶湖バレー、さらには、信州の白馬高原などにも毎冬、車で出かけた。妻はしきりに雪に対して本気で怒り、如何にも彼女らしいと僕は苦笑いしていた。
 次女のスキーぶりは、今の彼女からは想像も出来ないもので、まるで突貫小僧のようだった。それと比べると、怖がりの長女のスキースタイルは優美だった。
 万博公園の近くで暮らしていたころに、妻が一時、地域の女子ソフトボールのチームに参加していたので、その指導もした。僕も地域の男子チームで、吹田市130チームが参加する大会で、なんと準優勝するなど、中年になってようやく優勝の祝杯を味わえた。終日は殆ど車のない、万博公園の広大な駐車場で、テニスごっこもよくした。
 その後、僕がサイクリングを始めると、妻も一時期はその気になって、ヘルメットをかぶり、淀川の河川敷や安威川べりや神崎川べり、万博の外周道路などのサイクリングも二人で楽しんだ。家族では自転車で国際児童文学館にも通い、そこで借りた紙芝居を家に持ち帰る、僕がその紙芝居を実演もしていた。万博公園にも弁当持参でピクニック気分を満喫するなど、僕ら家族の庭だった。夏には万博パークの夜を楽しむのが毎年恒例の家族の行事だった。
 二人してのフランス小説の輪読、或いは、研究会の延長では、ふたりの関係の微妙さをタイトルにした夫婦雑誌『しましま模様』をワープロとコピー機と製本機など用いて、表紙も含めてすべて手作りで発行することにして、第5号まで続けた。
その創刊号に妻が発表した小説の処女作である「I河連れ」は、彼女の小説作品の中で僕が最も好きな作品で、それも含めて妻の作品の数編を選んで本を出版してはと、何度も提案してみたが、妻は同意しない。
 その後、妻は関西で有名だった同人誌『たうろす』に入り、精力的に作品を発表し、新聞の同人誌評などでもしきりに言及されるなど好評だった。ところが、その妻もやがては、創作を断念して今に至る。残念なことだが、僕にもその責任の一端があった。夫婦雑誌も最終号を出して、四半世紀になる。

8.二人、或いは家族4人で過ごした時間―飲食―
 外食も頻繁にした。食事はもちろん、飲み屋にも実に頻繁に通った。そもそも結婚前に付き合っていた頃も、殆ど居酒屋で会っていた。居酒屋が僕ら夫婦の聖なる場所だった。例えば、阪急東通り商店街の、落ちついたジャズが流れ、コーヒーの薫りが高くてお気に入りの喫茶店で待ち合わせて近くの居酒屋が基本コースだった。
 その後に結婚してからも、少しでもお金と時間と気持ちの余裕がある時は、居酒屋に駆け付けた。
 新婚所帯を構えたのは東三国の賃貸マンションだったが、その後に子どもができて僕が大学院を修了すると、泉北ニュータウンの周辺の一軒家に転居して、そこで二人目の娘が生まれて妻が大学院のドクターコースに、千里丘の一軒家、そして現在の塩屋の一軒家の都合4軒だが、どの家でもその周辺で、常連になった飲み屋さんがあった。電車に乗ってでも、気に入った店には足しげく通った。

 最初に住んだ東淀川駅や東三国駅の近くでは気に入った店が数軒あった。東淀川駅の踏切の向こう側のカウンターだけの居酒屋では、節約するために、同じ肴を二人で少しづつ食べた。仕上げは鍋焼きうどんだった。それも一人前を二人で食べた。二人で勉強して夜遅くになってから、自転車で駆け付けて、2時間足らずを過ごした。

 そんな頃に、今から考えても不思議だし、真剣に考えると、かえって泣き笑いに終わりそうなことがあった。僕か妻の、或いは、ふたりの誕生日を祝うという名目で、道頓堀のカニ道楽に、カニを食べに行ったことがある。
 そしてカニスキを注文したが、その量が何だか少ないと思いながらも、それを二人で食べて、金がないのは悲しいなあと思いながら、料金を支払う段になってようやく、僕ら二人は一人前のカニスキを二人で食べていたことに気付いた。
 道理で少なかったわけである。しかし、どうしてそんなことが起こったのだろうか。
 二人連れの客が、一人前のカニ鍋を注文することがあるのだろうか。1人はカニ鍋だったにしても、もう一人は別の何かを注文するだろう。ところが、僕らはカニ鍋以外の何も注文しなかった。他に頼んだのは酒の熱燗の2合くらいだっただろう。それなのに注文を受けた人が、僕らが若くていかにも貧しそうだから、一人前でもおかしく思わず、或いは、寛容の精神で、二人連れでカニ鍋を一人前の注文だけで、許してくれたのだろうか。最後に締めのオジヤも頼んで、ともかく、カニ鍋のコースを一人前、つまり、僕ら二人は半人前を食べたわけである。そんな馬鹿なと思うが、現にそうだった。貧しすぎるように見えたのだろう。それ以外に考えられない。せっかくの二人の誕生日のお祝いが、一人前でまかなえたわけである。健気で滑稽な二人だった。

 阪急三国駅の商店街の裏通りで、京都の「おばんざい」を謡う店のスタイルで、作り置きの家庭料理をおおきな容器に入れてカウンターに並べ、それを注文すると小鉢に入れて、チンしてくれた「十八番(おはこ)」。
 東淀川駅の踏切のこちら側のちゃんこ鍋店は、元お相撲取りの主人の刺身の包丁さばきが見事だった。最後にニラも入れる鶏のちゃんこ鍋が絶品だった。当時の僕ら夫婦には少し高級なので、臨時収入があった時しか行けなかった。
 東三国駅の近くにあったカウンターだけで、意地っ張りな主人の店「割烹四季」(この文章を書くうちに、50年ぶりにその店名を思い出した。記憶と言うのは、本当に不思議⦆で、初めて貝割菜を食べて、すごく気に入った。僕はこの種の量が少なくて、食材の妙や小技が利いているものが子どもの時からのお気に入りである。その頃から酒飲みの資質があったのだろうか。
 ちょっと張り込んで十三の路地裏の老舗の有馬屋は、おでんその他の古典的な居酒屋のスタイルの独特な落ち着きがよかった。新奇さを狙わず、刺身など無駄が生じやすい料理はあまりおかず、あってもせいぜいマグロの刺身くらいの地味さが独特だったので、そのスタイルを好む常連だけの店だった。
 大学一年時に通いだした際には若夫婦のサポートをその両親がしていたが、その20年後に最後に妻と一緒に行った際には、僕が知っている若夫婦の息子さんと娘さんとが、昔のご両親と全く同じスタイルのサービスをしてくれるのに感激した。いかにも年季が入っていそうな錫の容器で燗をしていたが、今でも同じスタイルらしい。
 十三の居酒屋の模範と、別の居酒屋の主人が呟くのを聞いたことがある。カウンターで横に座り合わせた「おっちゃん」が僕に、「おでん(関東焚き)は狙いを定めて、うまくなるまでお守りをしたらなあかんのや」と僕にその店の作法、或いは、呑み助の作法を教えてくれたが、その時、僕はまだ、18歳の大学一年生だった。
 「しょんべん横丁」の公衆トイレの向かい側にあって、小便の臭いがきつかった「万長」は、関学出身の兄弟が料理を作りながら、自分たちもどんどん飲むので、すっかり酔っぱらって、勘定の計算間違いが頻繁だた。その店の名物の、「アマダイと蕎麦の信州蒸し」が僕の大好物になって、家でも一時はよくそれを作って食べていた。鰯の大葉巻きの天ぷらもたぶん、そこで味を占めたはずである。
僕の大学院の先輩の行きつけで、阪和線の鶴ケ丘駅前まで二人ではるばる通っていたこともあった。「天鶴」という店名でも分かるように、天ぷらが売りで、絶品だった。中年夫婦の客への対応が素晴らしくて、それもその店で僕が気に入った特質だった。
 もちろん、地下鉄で15分と近場の梅田にも出た。東梅田駅近くの中華のチェーンである「青冥」では、卵白と白身魚の炒め物、鯛の中華風刺身が気に入って、家族で頻繁に通った。 
 飲み屋では、近くに花月劇場があったので、生前の桂枝雀さんがいつも決まったカウンターで飲みながら、次の出番を待っていた池田の酒の「呉春」を屋号にしていた店にも通った。。呉春の中でもレベルの高い酒をワイングラスで供してくれた。
後で知ったことだが、高校時代の同級生だった女子の兄さんがその店の少しプライドが高そうな主人で、客に料理を出すのは常にその主人で、使用人には任せなかった。
 このように過去のことを思い出そうとすると、近くにあった店は名前を忘れてしまっているのに、電車でわざわざ出向いた店は意外と覚えていることに気付いて、感動したりもする。
 東三国の次には、泉北ニュータウンの泉丘から徒歩で20分ほどのところで数年暮らし、二人目の子どもはそこで生まれた。恐ろしく暑い夏だった。妻が次女を産んで、はるばる神戸まで大学院通いを再開した。泉丘駅構内のおしゃれで落ち着いた居酒屋「牧水」はミナミに本店がある老舗の支店であり、雰囲気も料理も申し分なかった。その上、その泉丘駅のショッピングセンターには子ども用の小さい遊戯場もあって、長女はその「牧水」で料理を食べると、しきりに飲んでいる親なんか忘れて、ひとりでそこで長時間、遊んでくれた。生まれたばかりの次女は籠に入れられて僕らの脇にいた。
 その頃に、そこから遠くないところで知人夫妻が開店したジャズ喫茶の開店記念のジャズライブに、生まれたばかりの次女を籠に入れて、駆け付けたが、そんな僕らを見て、その店の主人夫婦は歓迎しながらも、少し呆れた表情をしていた。
当時はまだ、飲酒運転の取り締まりが今ほどには厳しくなかったので、よく飲酒運転していた。
 その後は、JR京都線の千里丘から徒歩15分で万博公園近くに転居した。そこでも馴染みの飲み屋が何軒かできたが、名前がまったく思い出せないので、外食はここまでとする。
 以上の外食に匹敵するほどに僕らにとって大事だったのは、わが家の夕食である。夫婦の仕事上の制約もあって、毎日、家族が揃って夕食がとれないので、家族が揃って夕食ができる時間をすごく大事にしていた。
それこそ、僕に生きる力を、供給してくれていた。まだ幼い娘も含めて4人が先ずは、「乾杯」を叫んでグラスを挙げて始まり、短くても1時間、長ければ3時間、4時間と長引いて、夫婦げんかで終わることも多かったが、とりわけ僕にとっては貴重な時間だった。
そんな習慣があったから、娘たちはどこの家でも夕食は「乾杯」で始めるものと思っていたらしく、大学卒業後に同僚と話すうちに、それはわが家だけの特殊な儀式であることを知って、びっくりしたという。
その通り、それは我が家の貴重な時間だった。
((「折々のメモ34、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の5-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」に続く)

折々のメモ31、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の2-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」

2025-06-22 09:21:41 | 折々のメモ
折々のメモ31、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の2-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」

3.検査結果で、計画は元の木阿弥に 
 手術予定とされた日の一週間前には、妻が事前検査を受けに病院に行くことになっていましたが、予報通りに天気がひどく荒れていました。
 わが家から最寄り駅までの、僕らが煩悩坂と名付けている108段の階段とそれに続く長い坂道を降りていくと、下から吹き付けてくるような風雨で、下半身はびしょ濡れになってしまいました。
 JRの兵庫駅で降りると、今度は大開駅の方に向かっての登り坂で、今度は上から雨が吹き付けてきましたが、なんとか病院にたどり着きました。
 僕も一緒に、執刀医から手術に関して詳細な説明を受け、看護スタッフからは、入院その他の説明も受け、入院時に持参すべき身の回り品など、さらには手術同意書などについても詳細な説明を受けて、やれやれ一段落と思っていたのですが、意外な話があって、話が別の方向に急展開しました。
 妻が受けた心電図検査で、不整脈があったので、循環器内科の医師と麻酔専門医との相談が必要と言われました。そして、全身麻酔が必須の手術では、不整脈のある患者の場合は思わぬ事態の発生が危惧されるので、現状のままで手術をするわけにはいかないと言うのです。
 そんなわけで、入院と手術の予約はいったんキャンセルとなりました。そのうえで、血液をさらさらにする薬の投薬で一週間後に不整脈が収まるかどうかを確認してから、その後のことを決めることになったのです。
 そんなわけで、妻としてはじれったいことになってしまいました。しかし、これまでにも不整脈という指摘を受けていたし、最近では動悸が急に激しくなるなどの症状があるなどと、本人が言い出したので、かえって良い機会と考えることにして、帰宅することにしたのですが、その時には午後の2時を過ぎていました。
 予約が10時で、僕らは早めに着いていたので、4時間半近く、病院にいたわけです。僕はいつでも草稿を持って動くようにしているので、家以外の場所で、自分の文章をチェックするのも悪くないので気にならなかったのですが、妻は初めてのMRIの検査などもあって、相当に疲れたはずですが、すっかり遅くなりましたが、どこかで軽く昼食をと、病院前に見えた中華の店に入って、僕はお得意の天津麺、妻はチャーハンを注文しましたが、さすがに古い街で、インテリアも客も味もごすべて古いなあと思いながら、なんとか食べつくしましたが、食事の時間がずれると、心身のバランスが崩れるのか、或いは、長時間、病院の待合室で座っていたせいか、帰宅するとぐったりしてしまいました。

4.妻の久しぶりの舞台と大川べり
 その間には、以前から予定されていたことだが、妻が久しぶりに人前で歌を披露する舞台が、なんと天神橋筋一丁目からすぐ近くの大川べりのライブハウスで開かれて、妻は一足先に、僕も少し時間をずらして晴れ姿を見に出かけた。
 妻は舞台上で、午前はジャズの英語版のスタンダードナンバーを、午後にはJポップスの高橋真梨子のジョニーへの伝言を、相変わらずの舞台度胸で、自分のスタイルを追求することを忘れずに謡いこなしていた。半世紀も連れ添った夫の贔屓目もあるだろうが、立派なものだと満足した。ずいぶんと長い間、そんな姿を見ていなかったと今更ながらに思った。もっといろんな機会を利用して、謡ってもらえたら、僕の余生の励みになるのになあと、今後に期待したい。
 合間の昼休みには、近くの大川の中州で、コンビニで買ったかつ丼を食べた。予想通りに甘辛すぎて、とうてい完食は無理だった。妻は体調がすぐれないので、パンをほんの少しだけだった。胃腸が快調な状態は久しくなさそうで、道理で痩せるのも仕方ないか、と改めて思った。ライブ会場が位置する天神橋筋一丁目近辺まで足を伸ばしたのは、数十年ぶりのことと今さらながらに思った。
 フィールドワークの際には、JR天満駅から天六方面に狭い商店街を人ごみの中を歩いて、万博景気なのか旅行客の多さに辟易したが、今回は同じ天満駅で下車したが、その後は南に向かって、割と幅があるし、昔の情緒が残っている天神さんとその商店街は、気持ちが落ち着いた。その昔、このあたりには高校の仲間たちが多く暮らしていて、その家に招かれて食事を御馳走になったのは、半世紀以上も昔で、そんな仲間も今では他に転居しているのだろう。
 天神橋筋二丁目でもある南森町駅近くの「日仏センター」でも割と長い間、フランス語を教えていた。フランスの高級新聞「ル・モンド」の第一面全体を2時間で読むという、大学では考えられない高レベルの授業を担当していた時は、毎回、懸命な準備をして臨みやりがいがあったが、それも僕がまだ30歳台のことだったから、45年ほど昔のことである。センター仕切っていた知人も2年ほど前に亡くなった。  
 大川の中州や大川べりの様子を見て、そして日仏センターの記憶が蘇ったのも、天六のフィールドワークの引き合わせと、やたらとノスタルジックな気分を楽しめた。
(「折々のメモ32、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の3-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」に続く)


カテゴリー:折々のメモ30 6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけのおまけ」-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」

2025-06-21 14:11:23 | 折々のメモ
カテゴリー:折々のメモ30
6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」

1.はじめにー今回の記事の経緯―
 今回は、折々のメモ28の「6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」だった「折々のメモ29」のそのまた「おまけ」としての折々のメモ30で、副題は「瓢箪から駒なのか、一念、岩をも通すなのか」です。
 ところが、前段としての28と29をアップしてから今ではずいぶんと時間が経過してしまったので、先ずは、以上の経過に関する29の記述の一部をペーストして、説明にかえさせていただきます。
 29では、フィールドワークの後日談として次のように書いていました。

「・・・4日後の水曜日の早朝、以下のようになんとも意外なメッセージをラインで二つも受け取った。
 先ずは、長らく難民支援の活動を精力的に継続するOさんから。
今回のフィールドワークで大きな収穫がありました。玄さんの弟さんがかかった行岡病院です。お話きいてピンとアンテナが立ち、帰って早速調べると「手外科」ありました。月曜日に早速問い合わせ、今コンゴ人男性がお世話になっているケースワーカーさんが行岡のケースワーカーさんに連絡をとってくれ6月2日に初受診の運びとなりました。
 コンゴ人男性は年初に睡眠薬自殺をはかり、発見されるまで何日間もピクリともせず寝ていたのでしょう。体の下側となった部分にはひどい褥瘡ができ、当初は歩くのも困難でした。が、緊急搬送された病院は一晩で追い出されました。褥瘡がわかってからは、彼を連れ何軒も病院を探しまわりましたが、実費を払うといっても、どこも診てくれず、ようやく堺の無料低額診療実施の病院で医療につながるまで2週間ほどかかったでしょうか?
 幸い褥瘡は紆余曲折を経て完治しましたが、左手指二本に麻痺が残りました。堺の病院の整形外科は小さく、手外科のある病院で治療するよう言われたものの、手外科のある大きな病院は、診療報酬300%のうえ手術費は前払いを要求され断念しました。診療報酬300%で、手術入院費用は前払いでなければいけないなんて、診療拒否にひとしい・・。
行岡病院が100%で受け入れてくれてほっとしました。玄さん、貴重な情報ありがとう!

 次いでは、長らく兵庫県の高校教師として在日の子どもたちに寄り添い、今なお在日外国人の人権問題に関する運動を継続し、高い敷居である武庫川を久しぶりに越えて参加してくださったKさんからです。
「昔、就職差別が今よりもっと厳しかった時、就職を考えて、医学系に進学するコリアンカルチャークラブの部員が多かった。医師資格が取れる医学部への進学が現役で、無理な生徒さんは、医療専門学校に行く者が多かった。
 天六の行岡医療技術専門学校は、民族差別が比較的少なく、落とされ難かったのを覚えてます。行岡病院と、関係のある学校やったんかな??」
 
こんなことをどのように言うのだろうか。僕の話の方に焦点を絞れば「瓢箪から駒」、OさんやKさんの活動の方に焦点を当てれば「一念、岩をも通す」かなと。
いずれにしてもいろいろな難問で苦しんでいる僕には、大きな励ましになりました。お二人、そしてフィールドワークの参加者の皆さんに改めて感謝!
 報告としての誤りその他、忌憚のないコメントも合わせて、この一連の友達の環の話が、共通の体験となれば幸いです。

 以上が前回の記事の最後の部分でした。フィールドワークでは、そのテーマと直接的な関係などなかったのですが、たまたま行岡病院の建物を見かけたので、世話役の一員として、その病院とわが家の半世紀以上も前からの長い因縁話を話したのですが、お二人の参加者がその話の環をつないでくださり、今回はそのまた延長上で、「瓢箪から駒」のような話を書き続けることになりました。

2.手外科と妻の右手(の手術と心臓病)
 個人的にも多様な意味で収穫が大きかったフィールドワークの余韻が冷めないうちに、上で触れたようにお二人の連絡をもらって気分が高揚していたのでしょうか。珍しく、晩酌の肴もかねて、妻にその話をしたところ、以前から手の痛みで苦しんでいた妻の、「手の手術」、さらには、「心臓病の治療」へと話が展開するなど、いまだにその渦中にあって、どこまで行けば終わるのか、見当がつかない状態ですが、途中経過の報告として、アップすることにしました。
それはともかく、右手の手首などの痛みで苦しんでいた妻は、僕から「手外科」という耳慣れない専門医の存在を聞いて、俄然、それにすごく興味を持つようになりました。
 その間、痛みに対して、妻はひたすら耐えてばかりいたわけではなくて、それなりにいろいろと対処していました。例えば、自宅からの最寄りの整形外科専門医院で受診してみたところ、その専門医は、「レントゲン検査で骨は折れていなかったから、痛み止めの注射でもしておきましょうか」などと患者である妻の気持ちを逆立てるようなことを言ったので、妻はその医師ばかりか整形外科医一般に対する信頼を完全に失ってしまいました。その結果、妻は他の専門医を新たに探すようなことはせずに、ネットであちこちの鍼灸院を探しては、その治療を試しながらごまかしてきたのです。
 鍼灸治療は僕も大いにお世話になっているのですが、すごく助かることもあってる一方で、完治が望めないどころから、下手をすると悪化することもないわけではありません。妻の手首と手も、少しは痛みが改善することもあったらしいのですが、根本的な治癒は望めないどころか、ガーデニングに没頭することの多い妻は、その作業を始めると痛みを忘れて、ついつい無理をするなどして、むしろひどくなっていたのです。
 それだけにむしろ、その「手外科」という耳慣れない専門医の存在には、新たな希望の可能性を見出したのか、甚だ強い関心を抱いた気配がありました
 翌日にはネットで、先ずは行岡病院を検索して、その病院所属の手外科専門医を調べて、その種の専門医がすごく数多いことに驚き、是非ともそこで治療を受けてみたいと思うようになったのです。
 ところが、その話を聞いた僕は、少し不安になりました。家が近ければ行岡で診療を受ければいいのですが、現在の塩屋のわが家からだと、JRで大阪駅まで、そこで環状線に乗り換えて天満駅、さらに天六まで歩くか、或いは、大阪の東梅田駅で地下鉄に乗り換えて天六まで、どちらにしても電車の乗り換えが必須だし、最近の大阪駅の混雑は僕ら老人にとっては怖いほどですので、右手に問題を抱えて通うなんてリスクが大きすぎるなどと、いかにも心配性らしいことを、正直に言ったのです。
 そして、付け加えました。大阪にそれだけの専門医がいるなら、神戸にもいないはずがないから、神戸で手外科の専門医がいる病院を検索してみた方がいいのではと。すると、妻は僕の提案をごくすんなりと受けいれ、ネットで調べたらしく、翌朝には神戸の地下鉄海岸線の沿線に、神戸では三菱重工の絡みもあって由緒ある病院に、週に一度だけ手外科の外来があるから、そこに行ってみる、と言ったのです。
 わが家からだとJR塩屋駅から新長田まで各停で気楽だし、そこから地下鉄に乗りかえるだけなので、アクセスも混雑についても安心だから、大賛成と妻に伝えると、妻は直ちに電話で予約をとって、その病院の手外科専門医による検査と外来診療を受けることになったのです。
 実際にその病院で受診したところ、担当医から直ちに入院と手術の提案を受けたのです。
 但し、妻が受診した病院では「手外科」の手術はできなくて、その専門医が所属している別の病院で、改めて綿密な検査をした上で、今後のことを相談する必要があるので、日を改めて、その病院に行かねばならなくなり、数日後に妻は一人でそこに赴いて、検査を受け、担当医とその後の打ち合わせをしました。
 その内容は次の通りでした。先ずは、手術予定日の一週間前に再度、その病院に出向いて、妻の身体が手術に支障のない状態なのかどうかを確認するために、数種類の精密検査を受けねばならないと言うのです。そして、その際には、雨模様の予報だったので、何かと心配になったので、僕も同行することにしたのです。

(カテゴリー:折々のメモ31、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の2-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」に続く)