「折々のメモ34-1、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の5-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」
9.妻のその後(入院と手術と退院)
妻の話に戻る。妻は、6月24日に入院した。入院手続きは午後の2時から4時までの面会時間に限られていたので、ふたりで1時45分に病院に着き、14時に依頼しておいた個室に収まったが、際立って寒がりの僕ら夫婦には、すごく寒く感じられて困った。
もちろん、僕らはそんなことも予想して、特に妻はさすがに防寒対策をいろいろとしていた。普段着の僕でも寒く感じられたから、パジャマ姿の彼女はもっと寒かったはずである。寒さ対策の服を用意していたから、なんとかなるだろう考えたし、1人部屋にしておいてよかったと改めて思った。夏でも暖房にすればいからと。
そのとおり、妻も夏であるにもかかわらず暖房をかけ、看護師に毛布を追加してくれるように頼んだところ、薄くてとても防寒にはならないものを持ってきたので、改めて掛け布団を依頼して、ようやく眠ることができた。翌日に手術が終わってから、妻は僕にそんなことを愚痴っていた。
手術は翌日の12時半からの予定で、僕がいくら早く病院に着いても、その時間は面会時間外なので病室には入れず、当然、病室にいる妻とは会えない。会える可能性は、手術室に移動する際の、エレベータ乗り場しかないと言われたので、その通りに、その前で長らく待った。ようやく会ってほんの少しだけ言葉を交わすことができた。既に書いたことだが、昨夜はやはり寒くて、腹が立ったという。
その時に出くわした看護師の話では、2時には手術を終えて、病室に戻ってきて、病室で会えると言われて、病室の貴重品の引き出しのカギを渡された。
待合室で、僕が出かける時には常時、リュックに入れて携行している推敲用の原稿をチェックしながら時間をつぶし、2時の面会時間になると病室に向かった。ところが、そこには妻はもちろん、彼女のベッドもなかった。
妻はそのベッドに臥した状態で手術室に移動して手術を受けるのはもちろん、出術室から病室に戻って来ることが、ようやく僕にもわかった。
仕方なく病室外で、壁にもたれながら原稿を読みながら待つことにしたが、いくら待っても妻は現れない。心配になったが、緊急の場合には僕の携帯に連絡があるはずなので、何度もその携帯を確認するなど落ち着かなかった。ともかく、連絡がないのが吉報と考えるように努めたが、心配性の僕にふさわしく、やたらといろいろなストーリーを思い描いているうちに、3時を過ぎた。その頃になってようやく、妻がベッドに臥したまま、酸素吸入器をつけて現れた。
まだ麻酔から完全には覚めていないらしく、意識はあっても、まだはっきりしていそうになかった。ほんの少し言葉を交わしたが、そのまま眠らせた方が良いと思って、病室から出た。
さてどうしようかと考えていると、執刀医が通りがかり、僕が何も言わないのに、僕のことを覚えてくれていたらしく、携帯の写真で手術の患部の写真を見せながら、「出来ることはすべてきちんとしたので、ピアノも弾けるようになります」と自信たっぷりに言うので、少しは安心する一方で、かえって心配になるなど、妙な気分で落ち着かなかった。
看護師の話では、翌日の9時半以降に、改めてレントゲンその他の検査を終えてから、執刀医の診察も受け、今後のことなども相談してから退院手続きになるとのことだった。
仕方ないので退散することにした。そもそも、その日は何としても実家に行って、用事を処理しなくてはならなかった。新大阪駅近辺の実家に向かったが、全身の倦怠感がひどいし、心ここにあらずの状態で、何かとミスが多くて困った。
退勤時のラッシュ時に重ならないように急いで帰路についた。帰宅してから何かを作って食事という元気はなかったし、食欲自体もなかったので、駅前の小さな居酒屋でビールの小瓶と芋焼酎の湯割り、肴には鯛の南蛮漬けとビーフンのチャンプルーで夕食代わりにした。
前にも2,3度入ったことのある店で、女将さんと料理はまともだが、常連グループがカウンターを占領して交わす話題が、聞いているとうんざりしたあげくに気分が滅入るので、早々に退散して帰宅を急いだ。
帰宅早々、家のすべての窓を開け放して風を通し、屋上のバルコニーに白ワインを持って上がり、気持ちを落ち着けるために半時間ぐらい、夜の空と海を眺めながら、ちびりちびり飲んだ。
シャワーを浴びてベッドに入ったが、なかなか寝付けず、韓国の民主党系のユーチューブをいくつか見ていた。
民主党と曹国新党のスポークスパーソン、どちらも脚光を浴びている30歳台の女性たちが、それぞれに魅力にあふれた議論を展開しながら、記者会見を見事にとり仕切る様子を見ているうちに、僕なんかすっかり過去の、それも使い物にならない男であることを、半分は嬉しく思いながら、半分は寂しく思っているうちに、かえって安心したのか眠りについた。
明朝は、週に一回のプラスチックゴミの回収日なので、そのプラごみを集積場に出して、いつものようにサラダをしっかり食べてから、病院に駆けつけるようにと自分に言い聞かせた。
体調もおかしいし、何かと気持ちが不安定なので、そんな時ほど、ルーティンを丁寧にしないと、ミスの連発となりかねないからと自戒しながら、雨模様の中を病院に向かった。
兵庫駅から大開までの街並みは何かしら妙である。僕ら老人だけの街のように感じることもその一つ。兵庫駅は決して小さな駅ではなく快速も止まるのに、人通りはほとんどなく、当然のように活気もない。目に入るのは病院と葬祭会館、そして介護施設だけである。このような街が日本中にどんどん増加しているのだろう。
執刀医は手術内容の説明もしながら、少しでも手の指が動けるようにと、ギブスの調整もしてくれた。妻は少し控えめながらも、同じ手でも、手術した部分とは別の部位の痛みを訴えたが、執刀医は「そんなところにはまったく手を入れていないので、手術のせいではなくてギブスのせいかもしれない」と曖昧なことを言いながら、ギブスを懸命に削っていた。
ともかく、切れてしまっていた腱に別のところから取って来た腱を移植する手術とは関係のない部分も、これまでには相当に酷使して来たはずだから、その長期間にわたる酷使のストレスがあるにちがいない。
ギブスの調整をしてもらったおかげで、見えるようになった手の指は、さすがにすごく腫れていて、痛みがないはずがない。2時間半もかけて手術したのはあくまで一部でも、手の全体に影響があるだろうから、今後の様子をしっかり見届けて、改めて執刀医と相談するしかない。
一週間後には執刀医、二週間後には循環器の医師との診察予約ができた。当分はこの調子で、なんとかギブスが取れた暁には、リハビリも経て完治の宣告を受けるまで、どれほどの歳月を要するものやら予想がつかない。
妻にとってはストレスフルな毎日になるだろうが、そんな妻をどのように支えることができるか、いろいろと考えたが、立派な知恵など浮かばない。状況、とりわけ妻の体調とそれに関連する心理的な負担その他に注意しながら、彼女はもちろん、ふたりの今後にとって助けになる介護に努めなくてはと、またしても自分を戒めた。
退院手続きを済ませると、電話でタクシーを呼び、数分後にはタクシーが到着することを妻に告げに彼女が待っているはずの待合所に戻ってみると、妻の様子が明らかにおかしい。
「座っておれない。横にならないと我慢できないほど気持ち悪い」と言う。慌てて看護師に声をかけた。
比較的若手の看護師が車椅子を持ってきてくれたし、先日来、何度も相手をしてくれていたベテラン看護師まで駆け付けてくれた。
空いている診察室のベッドに妻を寝かせて、体温や血圧や脈拍その他の検査もしながら、循環器の医師も手が空き次第、駆け付けてくれるように手配したという、
妻の額や首筋の冷や汗を僕の小型の手ぬぐいで拭きながら、すごい汗の量であることを実感した。15分ほどすると、妻の容態、とりわけ表情がずいぶんと落ち着いてきたし、血圧は正常値に近づいてきた。しかし、脈拍は相変わらず100を超えるなど、常態よりも高かった。
循環器の医師が現れた時には、半分は回復した様子だったが、もう少し様子を見てから動いた方が良いとの忠告だったので、妻がもう大丈夫と言うまで待ってから、帰路につくことにした。タクシーで自宅まで5千円、入院費用は8万7千円くらいだった。
(「折々のメモ34-2、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の6-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」に続く)
9.妻のその後(入院と手術と退院)
妻の話に戻る。妻は、6月24日に入院した。入院手続きは午後の2時から4時までの面会時間に限られていたので、ふたりで1時45分に病院に着き、14時に依頼しておいた個室に収まったが、際立って寒がりの僕ら夫婦には、すごく寒く感じられて困った。
もちろん、僕らはそんなことも予想して、特に妻はさすがに防寒対策をいろいろとしていた。普段着の僕でも寒く感じられたから、パジャマ姿の彼女はもっと寒かったはずである。寒さ対策の服を用意していたから、なんとかなるだろう考えたし、1人部屋にしておいてよかったと改めて思った。夏でも暖房にすればいからと。
そのとおり、妻も夏であるにもかかわらず暖房をかけ、看護師に毛布を追加してくれるように頼んだところ、薄くてとても防寒にはならないものを持ってきたので、改めて掛け布団を依頼して、ようやく眠ることができた。翌日に手術が終わってから、妻は僕にそんなことを愚痴っていた。
手術は翌日の12時半からの予定で、僕がいくら早く病院に着いても、その時間は面会時間外なので病室には入れず、当然、病室にいる妻とは会えない。会える可能性は、手術室に移動する際の、エレベータ乗り場しかないと言われたので、その通りに、その前で長らく待った。ようやく会ってほんの少しだけ言葉を交わすことができた。既に書いたことだが、昨夜はやはり寒くて、腹が立ったという。
その時に出くわした看護師の話では、2時には手術を終えて、病室に戻ってきて、病室で会えると言われて、病室の貴重品の引き出しのカギを渡された。
待合室で、僕が出かける時には常時、リュックに入れて携行している推敲用の原稿をチェックしながら時間をつぶし、2時の面会時間になると病室に向かった。ところが、そこには妻はもちろん、彼女のベッドもなかった。
妻はそのベッドに臥した状態で手術室に移動して手術を受けるのはもちろん、出術室から病室に戻って来ることが、ようやく僕にもわかった。
仕方なく病室外で、壁にもたれながら原稿を読みながら待つことにしたが、いくら待っても妻は現れない。心配になったが、緊急の場合には僕の携帯に連絡があるはずなので、何度もその携帯を確認するなど落ち着かなかった。ともかく、連絡がないのが吉報と考えるように努めたが、心配性の僕にふさわしく、やたらといろいろなストーリーを思い描いているうちに、3時を過ぎた。その頃になってようやく、妻がベッドに臥したまま、酸素吸入器をつけて現れた。
まだ麻酔から完全には覚めていないらしく、意識はあっても、まだはっきりしていそうになかった。ほんの少し言葉を交わしたが、そのまま眠らせた方が良いと思って、病室から出た。
さてどうしようかと考えていると、執刀医が通りがかり、僕が何も言わないのに、僕のことを覚えてくれていたらしく、携帯の写真で手術の患部の写真を見せながら、「出来ることはすべてきちんとしたので、ピアノも弾けるようになります」と自信たっぷりに言うので、少しは安心する一方で、かえって心配になるなど、妙な気分で落ち着かなかった。
看護師の話では、翌日の9時半以降に、改めてレントゲンその他の検査を終えてから、執刀医の診察も受け、今後のことなども相談してから退院手続きになるとのことだった。
仕方ないので退散することにした。そもそも、その日は何としても実家に行って、用事を処理しなくてはならなかった。新大阪駅近辺の実家に向かったが、全身の倦怠感がひどいし、心ここにあらずの状態で、何かとミスが多くて困った。
退勤時のラッシュ時に重ならないように急いで帰路についた。帰宅してから何かを作って食事という元気はなかったし、食欲自体もなかったので、駅前の小さな居酒屋でビールの小瓶と芋焼酎の湯割り、肴には鯛の南蛮漬けとビーフンのチャンプルーで夕食代わりにした。
前にも2,3度入ったことのある店で、女将さんと料理はまともだが、常連グループがカウンターを占領して交わす話題が、聞いているとうんざりしたあげくに気分が滅入るので、早々に退散して帰宅を急いだ。
帰宅早々、家のすべての窓を開け放して風を通し、屋上のバルコニーに白ワインを持って上がり、気持ちを落ち着けるために半時間ぐらい、夜の空と海を眺めながら、ちびりちびり飲んだ。
シャワーを浴びてベッドに入ったが、なかなか寝付けず、韓国の民主党系のユーチューブをいくつか見ていた。
民主党と曹国新党のスポークスパーソン、どちらも脚光を浴びている30歳台の女性たちが、それぞれに魅力にあふれた議論を展開しながら、記者会見を見事にとり仕切る様子を見ているうちに、僕なんかすっかり過去の、それも使い物にならない男であることを、半分は嬉しく思いながら、半分は寂しく思っているうちに、かえって安心したのか眠りについた。
明朝は、週に一回のプラスチックゴミの回収日なので、そのプラごみを集積場に出して、いつものようにサラダをしっかり食べてから、病院に駆けつけるようにと自分に言い聞かせた。
体調もおかしいし、何かと気持ちが不安定なので、そんな時ほど、ルーティンを丁寧にしないと、ミスの連発となりかねないからと自戒しながら、雨模様の中を病院に向かった。
兵庫駅から大開までの街並みは何かしら妙である。僕ら老人だけの街のように感じることもその一つ。兵庫駅は決して小さな駅ではなく快速も止まるのに、人通りはほとんどなく、当然のように活気もない。目に入るのは病院と葬祭会館、そして介護施設だけである。このような街が日本中にどんどん増加しているのだろう。
執刀医は手術内容の説明もしながら、少しでも手の指が動けるようにと、ギブスの調整もしてくれた。妻は少し控えめながらも、同じ手でも、手術した部分とは別の部位の痛みを訴えたが、執刀医は「そんなところにはまったく手を入れていないので、手術のせいではなくてギブスのせいかもしれない」と曖昧なことを言いながら、ギブスを懸命に削っていた。
ともかく、切れてしまっていた腱に別のところから取って来た腱を移植する手術とは関係のない部分も、これまでには相当に酷使して来たはずだから、その長期間にわたる酷使のストレスがあるにちがいない。
ギブスの調整をしてもらったおかげで、見えるようになった手の指は、さすがにすごく腫れていて、痛みがないはずがない。2時間半もかけて手術したのはあくまで一部でも、手の全体に影響があるだろうから、今後の様子をしっかり見届けて、改めて執刀医と相談するしかない。
一週間後には執刀医、二週間後には循環器の医師との診察予約ができた。当分はこの調子で、なんとかギブスが取れた暁には、リハビリも経て完治の宣告を受けるまで、どれほどの歳月を要するものやら予想がつかない。
妻にとってはストレスフルな毎日になるだろうが、そんな妻をどのように支えることができるか、いろいろと考えたが、立派な知恵など浮かばない。状況、とりわけ妻の体調とそれに関連する心理的な負担その他に注意しながら、彼女はもちろん、ふたりの今後にとって助けになる介護に努めなくてはと、またしても自分を戒めた。
退院手続きを済ませると、電話でタクシーを呼び、数分後にはタクシーが到着することを妻に告げに彼女が待っているはずの待合所に戻ってみると、妻の様子が明らかにおかしい。
「座っておれない。横にならないと我慢できないほど気持ち悪い」と言う。慌てて看護師に声をかけた。
比較的若手の看護師が車椅子を持ってきてくれたし、先日来、何度も相手をしてくれていたベテラン看護師まで駆け付けてくれた。
空いている診察室のベッドに妻を寝かせて、体温や血圧や脈拍その他の検査もしながら、循環器の医師も手が空き次第、駆け付けてくれるように手配したという、
妻の額や首筋の冷や汗を僕の小型の手ぬぐいで拭きながら、すごい汗の量であることを実感した。15分ほどすると、妻の容態、とりわけ表情がずいぶんと落ち着いてきたし、血圧は正常値に近づいてきた。しかし、脈拍は相変わらず100を超えるなど、常態よりも高かった。
循環器の医師が現れた時には、半分は回復した様子だったが、もう少し様子を見てから動いた方が良いとの忠告だったので、妻がもう大丈夫と言うまで待ってから、帰路につくことにした。タクシーで自宅まで5千円、入院費用は8万7千円くらいだった。
(「折々のメモ34-2、6・7大阪大空襲とスラムに住んだ朝鮮人―大阪市北部・天神橋筋六丁目~長柄橋~淡路を歩く」の「おまけ」の「おまけ」の6-「瓢箪から駒なのか、一念岩をも通すなのか」に続く)