大相撲

大相撲についての想い

おさるのジョージ

2006-05-14 23:07:20 | Weblog
今日は国技館で観戦。

千代大海がトップを走り、雅山が続いて、これを魁皇が追走、なんて、彼ら三人は貴乃花晩年時代くらいからタイムスリップしてきて入れ替わったのではないかという錯覚すら感じる。

全般には引き・いなしでばったり倒れる相撲が多かった。
木村城之介さんの装束が全身京都の「よーじや」だったのがある意味目を奪われた。
結び、千代大海が朝赤龍に負けて座布団が舞った。

最近、国技館及び地方場所に行くと、必ずと言っていいほど金色の帽子をかぶって日の丸のスーツを着た特定の方をお見かけする。扇子を振り回して周りや後ろの席の人には大変見にくそう。もうかなりの顔でいらっしゃるようで、出方さんや一般のお客様に対して傍若無人に話しかけたり席に座り込んだりしておられるようだ。一階席から二階のお知り合いに対して大声で話しかけたりもされている。土俵上の取組の流れとは全く関係なしに。大相撲が大変お好きなのだろうが、大相撲の競技そのものが本当にはお好きではないのかな、と感じる。往年の名作絵本、ひとまねこざると黄色い帽子のおじさんの、両キャラクターを一人で二役やっているような感じ。

2006-05-14 10:42:49 | Weblog
この一両日、大相撲と人生のアナロジーで考えたこと。

①闘牙と栃乃花。どちらも小結まで行って腰を痛めて幕下に落ちた。二人とも自分の型があるからこそ三役経験もあり。

栃乃花:腰の負担を下げるため体重を落とし捲土重来を狙って虎視眈々と再起に励み、再入幕して敢闘賞も取った。

闘牙:気力が尽き、準年寄へ。

闘牙が根性がないとかいうことではない。遣り残したことがあるのかないのかだろう。しかし、似たような条件下で、想いが強くあきらめない人は再起を果たし、すでに自分の中の到達点に達した人はそこから第二の人生へ。この違いとなる要素はただ一点、何事もまずは想いなのだ、と。


②栃東初優勝のときの優勝決定戦。立合いのタイミングで栃東の変化をもろに千代大海が食らってしまいばったりと落ちて栃東優勝。このあと、「優勝決定戦で変化とは何事ぞ」という批判もあった。

しかし、あのあと新大関が出るたび、「もし優勝すれば栃東以来で史上○人しかいない新大関優勝」ということが新聞等に書かれるのこととなる。ある種の偉業を栃東は成し遂げたこととなっている。今場所の白鵬に対しても初優勝すれば栃東以来、とよく報道されている。

この取組みについては、千代大海があっさり食らって落ちたことにも問題があり、栃東も変化で勝負を決める気はなかったはずで、結果から見て栃東だけを攻めることは適切でないという見方もある。

栃東について何ら批判するスタンスでなく、本件を一般化して考えると、男気と目先の結果を天秤にかけて後者を取る(栃東がそうだったといいわけではない)ことで、時が経てばそれが実績とか偉業とかになっていくことがあるということ。

他方で、それでもそのときのことを覚えている人はいつまでも覚えているし、自分自身の心の中でその選択についての悔いは決して消えないのだろうということ。などと考えると、陳腐だが人生の様々な局面に当てはまるような気がして、節目節目の選択をどうするかはその人の生き様そのものだな、と。

やはり大相撲は「道」である。