私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

無我をめぐる誤解

2022年09月26日 20時30分34秒 | 悟り
◇無我をめぐる誤解◇

これまで無我をめぐる誤解について何度か記事を書いてきましたが、今回はそれらをひとつにまとめてみようと思います。

一つ目は、無我とは私がないことであるという誤解です。
原始仏教等で悟りの三要素として、無常、無我、苦が挙げられることがありますが、この無我とは、私(自我)がないという意味ではないのです。
この無我とは、一切に実体がないという意味なのです。
自我との関係で言えば、無我には私という実体がないことも含んでいます。
なお、私という実体がないことと、私がないは、意味が異なります。

二つ目は、私がないの誤解です。
悟りに関連した体験に伴って、私がなくなったような感覚(錯覚)が生じることがあります。
このような錯覚は、悟りの行程をある程度の幅で一気に進んだときに起こりやすいです。
悟りの行程を一気に進むと、自我感覚の希薄化が一気に進むため、そのギャップ感により私(自我)が消失したかのような錯覚が生じます。
このような現象は、例えば明け渡しや一瞥と言われる体験や、禅の頓悟などの体験に伴って生じます。

実際には、涅槃(滅尽定)時の例外を除いて、私(自我)がなくなるということは起きないのです。
なぜなら、私(自我)の基本要素には何かを認識するという働きが含まれているのですが、この認識という働きは、自己の意識が活動を続けている限り、なくなることはないのです。
そして、この認識という働きは、涅槃(滅尽定)に落ちて意識が完全に途絶している間以外は、常に活動し続けています。
ですから、涅槃(滅尽定)に落ちているのでもないものが、私(自我)がないと言うのは、間違っているのです。
自身の自我の活動が続いているのに、それを見落としているのです。
まだ私という存在に対する追及が尽くせてないのです。

三つ目は、悟りの終着点が無我(私(自我)がないという意味での無我)であるという誤解です。
この誤解は、上記の二つ目の誤解と関係しています。
悟りの終着点は、「私(自我)がない」ではないのです。
そもそも、「私(自我)がない」という理解そのものが誤解ですから、そのような誤解により決着するなんてことはあり得ないのです。

また、悟りの終着点は、原始仏典の言う無我でもありません。
悟りの決着には、根本苦に向き合う必要があります。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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