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89年天安門事件における「虐殺」説の再検討 村田忠禧4

2005-05-06 | 政治/歴史
4) 「虐殺」と称すべき事態が発生したのか



 前述した通り中嶋嶺雄は『中国の悲劇』(10頁)で「身に寸鉄を帯びず全く無抵抗・非暴力の『平和的請願』に徹していた民主化要求の学生や市民を、人民の軍隊であるべき人民解放軍が無差別的に銃撃し、装甲車や戦車が逃げまどう学生や市民をひき殺すという暴挙は、ヒトラーやスターリンさえなし得なかったこと」として、他に類例を見ない残虐行為であり「民主化を要求して整然と座り込んでいた学生や市民を、一方的に殺戮する行為」という表現を用いて、中国当局の措置を厳しく糾弾している。

 しかし結論を先に述べれば、実際には89年6月の北京では「残虐な殺戮」とか「虐殺」と称すべき事態は発生しなかった。この点について天安門広場での情況と、その他の場所における情況を検証してみることにする。



 A)天安門広場について



 6月4日未明の天安門広場における戒厳軍による学生たちの強制排除(当局側は清場と称している)過程において、当時、巷間で流された「虐殺」情報を中国当局は直ちに否定した。89年6月6日に国務院スポークスマンの袁木などが中南海で行った記者会見において、戒厳部隊某部政治部主任の張工(彼は当日、現場にいた)が発言し、6月4日の4時半から5時半、広場を正常化させる過程で、学生や大衆を一人も殺したことはない、と言明している。

 当時、日本のテレビなどの生々しい映像や現地リポートから衝撃を受けていたわれわれが、この当局側の発表に対してにわかに信じがたい気持ちであったことは事実だが、早くはアメリカのABCテレビが6月27日夜10時の番組で、天安門広場でのできごとを撮影したビデオフィルムを点検した限りでは「いわゆる大虐殺の事実はなかった」と報道している(『天安門事件の真相』上巻212頁、中江要介前掲書196頁)。アメリカの人権組織である「アジア・ウォッチ」のリサーチ・ディレクターであるロビン・マンローは9月23日の香港『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』紙に、自分自身が広場に最後まで居残り、そして学生とともに撤退していった様子を冷静に描写している。「そこにはパニックを示すようなものはなく、なにか虐殺が起こったことを示すような微かな兆候さえもなかった」(『チャイナクライシス重要文献』第3巻173頁)と。

 広場でのハンストに加わった4人の知識人の一人である侯徳健は8月17日に新華社記者のインタビューに答えるなかで「一人の学生も、一人の市民も、また一人の解放軍兵士も殺されたものは目撃しなかったし、戦車や装甲車が人の群れに突っ込んで行ったのは見ていない」(『チャイナ・クライシス重要文献』3巻167頁)と証言している。また同じくハンストをして居残っていた劉暁波も、「私は戒厳部隊が群衆に向けて発砲するのを見てはいない。彼らが発砲したのは、空に向けてか、スピーカーに向けてだけだった。また、私は一人の死者も見なかったし、まして天安門広場で流血が河を成したなぞということを見ていない」(同じく重要文献3巻169頁)と語った。侯徳健、劉暁波の証言を報道したのがいずれも『人民日報』など中国の国営報道機関であるために、西側マスコミ、あるいは「民主化運動」を支援する人々、そして中国研究者の大半から、検討するに値しないものであるかのように扱われ、無視された。

 日本でも89年12月4日の『読売新聞』夕刊において矢吹晋が、天安門広場における「虐殺」なるものが幻である、ということを明確に指摘した。さらに彼は90年6月に出版された『天安門事件の真相』上巻(蒼蒼社)で、さまざまな資料を元に、戒厳部隊の暴乱鎮圧過程を詳細に再現し、戒厳部隊の側の被害情況をも紹介するとともに、「テレビ画面に写った燃えあがる装甲車や銃弾の曳航、銃声から推察して、天安門広場の整頓過程において、大量の「虐殺」が生じたものと、多くの日本人(いや世界の人々)はイメージしたであろう。虐殺情報の発生源は学生側からのものが多い」(217頁)としたうえで、それらが信憑性に欠けるものであることを指摘した。同じく『天安門事件の真相』下巻の白石和良論文「『デマ』と『錯覚』の『天安門事件』」は実に詳細にわたって当時流された「デマや噂の真相」を解明した。筆者自身も『チャイナ・クライシス「動乱」日誌』(蒼蒼社)を編纂する過程において、同様な観点に立って日誌を作成した。また『天安門事件の真相』下巻に訳載されたロビン・マンローの論文も、天安門広場では虐殺はなかった、ということを立証している。ただし彼は広場以外、ことに北京の西側での「虐殺」に注目するよう問題提起している。この点は後述することにして、天安門広場での「虐殺」なるものが存在しないことは、事件発生後の一周年前にすでにさまざまな人から明白に主張されていたにも関わらず、その主張が正論として社会的に受け入れられることはなかった。

 事件の四周年にあたる93年6月3日9時30分、NHK総合テレビ「クローズアップ現代」は、当時、天安門広場に最後まで残って撮影を続けていたスペイン国営放送のレスト・レポ記者の映像と彼へのインタビュー、当時、広場に残って学生の平和撤退のために奮闘したシンガーソングライター侯徳健へのインタビューからなる番組を作成し、放映した。これによって天安門広場での虐殺の有無について決着が付けられたといえる。この時のインタビュー記事の内容は、取材にあたった加藤青延NHK北京支局長の解説とともに『蒼蒼』(蒼蒼社発行)51~52号に掲載されている。レスト・レポ記者が撮影した映像では、劉暁波が広場の労働者が保持していたライフル銃を打ち壊す場面が非常に印象的である。

 問題は89年の段階ですでに判明していた事実が、4年後にようやく世間一般に認められた、ということである。加藤青延らNHK側のスタッフが中国側の映像は一切利用せず、西側映像のみに頼って「空白の3時間」の再現に迫った結果、広場での虐殺はなかったと、日本の視聴者を納得させることができたのであるが、西側映像でなければ真相だと見なさない、中国当局の公式発表にたいする不信感が日本人の中に根強くあることは問題であると思う。

 広場での「虐殺」がなかったことについては、映像情報だけでなく、この民主化運動の当事者たちの回想録でも確認できる。前述した劉暁波の『末日倖存的独白 関於我和六・四』(台北 92年 時報出版公司)や、高新の『卑微与輝煌 一個「六四」受難者的獄中札記』(台北 91年 聯経出版事業公司)がそれである。彼らは前述した広場でハンストを行ったインテリ4人のメンバーであるが、その証言は自由の身になってからの発言であり、いずれも台北で出版されており、中国当局への配慮などまったく必要のない条件で、自分の思うがままに書いた文章である。

 高新の回想では、広場には当時、こん棒、鉄棒、チェーン、銃弾の込められたライフル1丁、機関銃1丁があり、その銃口は人民大会堂東門の兵士たちに向けられていた、と証言している(高新 前掲書325頁)。学生、労働者の側に一部の武器が奪われていたことは彼らの証言からも判るし、この他にもそれを立証する写真や映像資料がいろいろ存在する。

 つまり、もしこれらの武器が実際に広場で使用されたら、双方で撃ち合いが始まり、広場で流血の事態が発生した可能性は大きい。劉暁波らが学生や労働者に武器の放棄を説得し、侯徳健らが戒厳軍当局と交渉し、学生たちを広場東南の方角から撤退させることで合意が成立したため、平穏里に学生たちが広場から撤退していったのである。したがって彼ら4人の知識人が、最後の時点で貴重な役割を果たしたことは事実である。

 なお注目すべきは、戒厳部隊は天安門広場の包囲網を作るが、広場東南の側に学生の逃げ道となるよう、そこにだけ部隊を配置していなかったことである。後述する西長安街での、発砲をも含む強行突破による天安門広場への進駐や、東長安街周辺での群衆にたいする威嚇射撃を用いた強制排除は、指定された時間内に天安門広場の周囲を制圧し、同広場を北、東、西方向から圧倒的多数の部隊を一挙に繰り出し、居残る学生たちを威圧し、彼らを強制的に(ただし流血の事態を避けるようにして)絞り出す形で東南の方角に撤退させようとした、計画的な作戦であった、ということである。この作戦の詳細については『天安門事件の真相』上巻の矢吹晋の分析に詳しく載っている。

 天安門広場での「虐殺」が存在しないことは、以上で明白になったと言える。では他の場所で発生した死傷者の存在をどう見るべきであろうか。



 B)西長安街での衝突



 当時の戒厳部隊の主力は西長安街からやって来た。これは西側報道陣の予期に反したことで、彼らはほとんど東長安街にカメラやリポーターを集結させていた。そのため西長安街での衝突を再現する映像は、中国当局側が撮影した記録しかない。筆者がこれまでに見た中国当局側が作成したビデオ映像は『北京風波紀実』『驚天動魂的博闘』『北京風波五十天』であるが、いずれも類似した内容であり、中国当局の特定の意図の下に編集された宣伝品であることは間違いない。ただしだからといってそれらの映像に価値はない、と見なすことはできない。当日の実際に起こった出来事の一部分が記録されていることには変わりないのであり、西側カメラマンの撮影した映像と同様に貴重な歴史資料と見なすべきである。中国側は宣伝ビデオを作成するにあたって、西側カメラマンの撮影した映像をも積極的に利用している。中国側の撮影したものは使いたくない、見たくない、信じたくないという心情は、客観的に中国を分析しようとする信念の希薄さの表明以外の何者でもない。

 中国側が撮影した西長安街における映像には、群衆が武装警官や戒厳部隊に投石している場面や、バス、トロリーバスなどをバリケードにして戒厳部隊の進軍を妨げている場面、さらにはそれらに火を放ち、黒炎が猛烈な勢いで舞い上がっている場面、動けなくなった軍用トラック目掛けて群衆が雨あられのように投石を繰り返し、運転手の生命さえ危ぶまれる場面(中国語のナレーションでは運転席にいた2名が殺されたと述べている)、放送局に群衆が押しかけ、それを武装警官がこん棒を振り回して排除し、門の外に押し返す場面などが記録されており、中嶋嶺雄が述べるような「身に寸鉄を帯びず全く無抵抗・非暴力」な民衆像とは程遠く、戒厳部隊の進軍にたいしてさまざまな手段を用いて抵抗する群衆の姿が映っている。

 中でも注目すべきは、群衆(暴徒と称すべきであろう)が装甲車を占拠し、周囲に発砲している場面が、ビルの高所から撮影されていることである。群衆が装甲車を占拠して乗り回したことは90年2月に香港の広角鏡出版社から発行された写真集『北京風波真相』の113頁にも鮮明な写真で掲載されている。それによると乗っ取られた装甲車の番号は422号、場所は復興門立体橋一帯である。死傷者の一部分がこれらの発砲によっても発生した可能性は排除できない。もちろん、戒厳部隊が群衆の抵抗に耐えかねて発砲したことによって死傷者が出たことは、当局側が発行した各種回想録の文章でも認めている。戒厳部隊に随行した撮影記者李靖は「レンズに映った長安街」(解放軍文芸出版社89年10月発行『戒厳一日』下巻所収)の179頁で、「兵士は発砲して少数の暴徒を射殺した」と明確に戒厳部隊の兵士による射殺の事実を記録している。

 当局側は戒厳部隊の任務執行にあたって、群衆から激しい抵抗にあい、被害が続出したため、止むなく発砲して警告し、あるいは公然と戒厳部隊への攻撃を仕掛ける者については暴徒と見なして射殺し、天安門広場へ進軍する道を切り開いていった。その過程で死傷者が発生したのである。

 このような当局側の見解を裏付ける情報が、実は天安門広場の学生側情報にも記録されている。

 劉暁波の前掲書「末日倖存者的独白」224頁以下に当時の天安門広場の実況録音が再現されており、そこには柴玲が広場統一指揮部の名義で発する「第5号最厳令の命令」が紹介されている。柴玲は以下の通り発言する。

 「こん棒、瓶、煉瓦、さらには火炎瓶(原文は燃焼弾)を手にしているすべての学友諸君は、それらの役たたずの武器を手放してください。みなさん知っていますか。西長安街ではすでに死体が溢れ、血は川のごとく流れています(原文は屍体遍地、血流成河)。殺され、殴られたのはすべて物を投げた人達です。もしも個人としてなら、物を投げても構わないかも知れません。けれどひとたびあなたが物を投げれば、すべての学友たちがみな犠牲になってしまうということを考えたことがありますか。」

 この柴玲の武器放棄の命令の意味することは、これ以上、戒厳部隊に無益な抵抗をするな、すれば犠牲者がでる(現に衝突によって死者が出ている)、ということである。これは前述した中国当局が事件後に『戒厳一日』などの書籍で公表した、暴徒の抵抗にあったから止むなく発砲をしたとする当局側の見解と符合する。

 西長安街で死傷者が多数出たが、その多くは中嶋嶺雄や小島朋之あるいは加々美光行『現代中国の黎明』15頁で主張しているように「素手に等しい今回の民主化運動に対して、たとえそれが一〇〇万を越す大規模なものであったにせよ、戦車や装甲車を繰り出してまで、あれほどの無残な殺戮を加えなければならなかった」とか、中嶋嶺雄の述べるように「身に寸鉄を帯びず全く無抵抗・非暴力な市民・学生」ばかりではなかった。死んだ人には確かに巻き添えを食った一般市民もいるが、戒厳部隊に攻撃を仕掛けたがために発砲された、当局側からすれば暴徒の類もいるし、また戒厳部隊自体に死傷者、とくに負傷者が五千人以上と非常に多く出たことを忘れてはならない。



 C)東長安街での水平打ちについて



 西側報道陣は天安門広場に近く、東長安街に面している北京飯店を取材拠点にしていたのが多かった。そのため東長安街周辺での映像は比較的多く収録されているし、テレビなどで衝撃的事件として伝えられたものの多くは、天安門広場周辺から東長安街一帯の出来事である。

 映像では当初、空中に向けて銃弾が発射され、ついで水平射撃に変わった、とされている。空中を実弾が飛んでいる場面は確かに画面で確認できる。問題はその後の水平射撃である。6月4日未明の段階の東長安街の映像は、銃声と人々の叫び声の重なる混乱した場面がほとんどで、実際がどうであったのか、筆者には明確に確認ができなかった。ただ当時の報道などによれば、実弾が自分の周囲を音を立てて飛んでいった、とか、目の前にいた女性が血だらけになって倒れた、というリポーターの報告がある。報道関係者に死傷者が出たことも確かである。

 しかし子細に当時のビデオ映像を検討してみると、戒厳部隊の行動は天安門広場に集結しようとする群衆の強制排除を目的とする威嚇的行動であり、殺傷を目的とした水平射撃による無差別発砲ではない。ビデオ映像から、一部の兵士が実弾を発射していることは確認できるが、それはあえてすぐ近くの地面に向けて発射し、実弾の火花を示威している。ゴム弾ではないぞ、実弾だぞ、当たれば死ぬぞ、と群衆に知らしめ、脅迫しているのである。

 また白昼(6月4日午前10時前後か)、戒厳部隊の攻撃を受けて群衆が東長安街を東方向に逃げまどう場面が撮影されている。その時は射撃音が非常に多く聞こえるが、どうやら空砲の可能性が高い。もしも水平射撃であれほど実弾を発射したとすれば、もっと多くの人間が東長安街で相継いで倒れる映像が映っているはずである。地面に倒れている人の映像も数人かある。しかしそれらの人も、実は死んでいるのではなく、銃弾から身を守ろうとして、うつ伏せになっているのであって、必ずしも撃たれて死んだ人ではない。このことはビデオ画面を詳細に見ると、うつ伏せになっている彼らが戒厳部隊の動向を知ろうと体を動かす場面があることで確認できる。その場面では一人が確かに負傷するが、死んではいず、間もなく周囲から救いの手が差し伸べられ、自転車つきリヤカーに載せられて運び出されてゆく(以上の場面はNHK総合テレビのニュース番組のビデオから)。

 西側映像に映った東長安街での出来事でも、軍隊が狂気の沙汰で発砲しているのではなく、6月4日未明の段階では、天安門広場での学生たちを強制排除するために広場周囲の群衆を強制的に排除する目的で威嚇射撃(空砲、ゴム弾、そして実弾をも含む)が行われた。その後、広場からの学生排除が終わった後でも、群衆が再び広場への再結集を企て、小型バスに火を点けて戒厳部隊めがけて突入させるような抵抗も行った。それら群衆の報復措置にたいする対抗措置として、威嚇射撃を含む排除活動が行われたのである。

 長安街以外の場所での発砲についても本来は検討を加えるべきなのであろうが、映像資料が不足しているので、省略する。

 以上のような理由から、天安門広場以外の場所では、戒厳部隊が発砲したことにより、死傷者が発生したことは事実だが、発砲は限定された条件の下で行われているのであって、虐殺とか殺戮といった表現を用いることは妥当ではない、と筆者は考える。



 D)死者の数について



 この事件で北京での死者の数は何人になるのか、事件直後には中国紅十字関係者の話として二千六百人説が流されたり、五千人以上とか、一万人以上だとかさまざまな数字が飛び交った。6月6日に国務院スポークスマン袁木は事態の掌握がまだ完全にできていないので不完全な統計であるとして、軍側負傷者は五千人以上、学生・市民側は二千人以上、死者は双方合わせて三百人程度で、学生の死者は二十三人という数字を示した。その後、6月30日に北京市長陳希同が行った情況報告では、軍・警察・公安側の負傷者は六千人以上、軍側死者は数十名。一方、学生・市民側の負傷者は三千人以上、死者は学生三十六人を含む二百余人という数が公表された。いずれの報告も軍側の負傷者が民間側の倍である、という事実は注目すべきことである。89年9月17日に李鵬首相が伊東正義訪中団に伝えた死者の数は、双方合わせて三百十九人という(『天安門事件の真相』上巻222頁)。

 この三百十九人という数値を絶対的に正しいとする根拠は見当たらないが、中国政府を代表して外国の代表団に具体的数字を出して説明しているのである以上、それなりの根拠があって提示していると見るのが常識ではなかろうか。筆者が北京理工大学の関係者(彼は当日、アメリカにおり、帰国後、説明を受けたとのことだが)から聞いた話では、北京理工大学の学生は二名死んでおり、死んだ場所も即座に紹介してくれた。この例から判断するに、少なくとも三十六名の学生の死者については、どの大学の学生がどこで、どのようにして死んだのか、当局側は具体的に把握している模様である。同様に、三百十九名の死者について、当局側はそれぞれ具体的な死亡状況を把握しているものと思われる。

 89年6月の段階でアメリカのABCがビデオを再チェックして千人を越えることはなかろう、との判断を下しているし、中国紅十字関係者の二千六百人説なるものは「広場での虐殺」を前提とした推定であるので、天安門広場での死者がゼロとなれば、他の地域での衝突による死者に絞られるので、三百十九人説は信憑性の高いものと思われる。死傷者の数は永遠に判らない、というような不可知論的対応をとることは、研究者としての怠惰な言い逃れに過ぎない。三百十九人説が妥当でないとするなら、具体的な根拠を挙げて主張すべきで、ただ感覚的に無数の労働者や市民が殺された、と述べるのも、何の反論にもなっていない。


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3 コメント

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Unknown (Unknown)
2010-11-27 01:15:39
では、何の根拠もない「南京大虐殺」もなかったという方向でよろしいでしょうか?
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Unknown ( )
2012-03-27 17:40:00
南京事件が根拠ないとか言ってるのはバカウヨだけだろw
返信する
Unknown (Unknown)
2016-08-11 01:53:52
>では、何の根拠もない「南京大虐殺」もなかったという方向でよろしいでしょうか?

普通にいくらでも根拠あるけど。
何の根拠もないのは「虐殺なかった」論のほう。
詳しくは下記にて。

 ↓ ↓ ↓

http://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/
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