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パピヨン&猫~アリオ&りんご&バジル&くるみのブログ~

愛犬&愛猫と一緒に愛車で日本全国?はまだまだですが、お出掛けした事・趣味のお城の事・鉄道の事など紹介しています。

第34回上田真田まつり~草刈正雄さんら真田丸出演者6名による行列~4/24

2016-04-25 17:58:46 | 真田丸
上田城築城400周年を記念して
1983年から始まった上田真田まつり

毎年毎年、武者行列があるのですが
今年は特別でした。

と、その前に。
武者行列前に歩行者天国になった海野町

前日の夜更けまでかかってこの日の為に作った
上田城の櫓を模した、その名も猫櫓!!
エアバギー(AirBuggy for Dog)のカゴ部分に被せました。
城主になったバジルです。
殿は様子を伺っています。
まだぁまだぁ~

行列が始まりました。






そして、真田丸出演者による行列です。

行軍
原町→海野町Uターン→松尾町Uターン→原町
の順で行われました。

参加されたのは

真田昌幸役の草刈正雄さん
高梨内記役の中原丈雄さん
小山田茂誠役の高木渉さん
堀田作兵衛役の藤本隆宏さん
真田信忠尹役の栗原英雄さん
与八役の今野浩喜さん


11:20、真田丸のメインテーマが流れ
沿道の観客は一斉に声を上げ盛り上がりました。

そして、やってきました!!!





いや~、興奮しましたねぇ~。ドラマのまんまですからね!!
安房守殿、カッコイイ~。
内記さんは終始笑顔でした。
茂誠さまぁ~
叔父上、カッコイイ。

行列後は上田城へ。

海野町から移動。
いつもの赤備えコスに加えて猫櫓付きなので
写真をたくさん撮ってもらいました。




上田城に着いたのにバジル殿はお昼寝zzz。
おもてなしおもてなし
ここでもたくさんの人に撮ってもらいました。


帰る頃にお目覚めのバジル殿


ワン友のももちゃんと友好的なバジル殿
ももちゃん&ケリーちゃんと一緒に。

朝の様子







自宅のウッドデッキで完成記念撮影

今回も赤備えアウディが展示されていました。

カッコイイねぇ~。

大変盛り上がった上田真田まつりでした。

第14回「大坂」4/10、第15回「秀吉」

2016-04-18 17:50:39 | 真田丸
いよいよ、大坂の地に足を踏み入れた源次郎

その経緯について。

天正壬午の乱(天正10年)後から、羽柴秀吉と友好関係にあった上杉景勝は、天正11年(1584年)6月に同盟関係となりました。

その頃、真田昌幸上杉への臣従を申し入れています。
が、実際に受け入れられたのは、第一次上田合戦開戦前の天正13年(1585年)7月の事です。
その時、源次郎(当時は弁丸)が人質となりました。

織田信雄秀吉の関係悪化に端を発し、家康秀吉の関係も悪化し、秀吉vs家康・信雄の天正13年(1585年)4月の小牧・長久手の戦いが起きました。

昌幸は、第一次上田合戦中に秀吉に対し援助を請う書状を送っています。
それに対して秀吉は返書(10月17日付)しました。内容はその身を安堵するというもの。
これにより秀吉との確実なつながりができました。
その裏には景勝の働きもあったのではないかと思います。

石川教正出奔後、秀吉の11月19日付の書状で、正月に家康を成敗するので要請次第出陣するように、と昌幸に通知してきました。また上洛要請もあったと思われます。

7月に関白に任官、12月に豊臣姓を下賜され、天下人へと歩む秀吉

昌幸はそんな秀吉の狙いどころやその器を見極めるためにも源次郎秀吉のもとに人質として送り込んだと伝わっています。

源次郎秀吉への人質の過程には諸説あり、第一次上田合戦終結後、昌幸景勝の下にいた源次郎を呼び戻し秀吉の下へ送り出したとか、天正14年(1586年)6月の景勝上洛に帯同したとか、させたとか・・・その他にも・・・。


この辺りの事が、ドラマで描かれました。

上田城下での争いが一段落した後、景勝のもとへ帰した源次郎でしたが、を亡くした悲しみに耽っていた。

そんな中、秀吉から全国の大名や諸将に対し上洛要請があった。源次郎景勝上洛に共する事となった。

上田城において昌幸徳川の動きに対し警戒している中、真田信尹による調略によって徳川重臣中の重臣である石川教正秀吉に出奔という事態が起きました。
これによって第一次上田合戦は終結することになりました。

この石川教正の出奔は謎に満ちています。真意がわかっていません。
また、真田信尹は天正12年(1584年)から家康に仕えています。

まぁ、昌幸が何もせずに何か策を立てていたのではと思いますが、あそこまで入り込んでの調略であったのかはちょっとどうかなぁと思いました。しかし、教正うん!には笑いました。

石田三成・加藤清正、そして秀吉、茶々・大蔵卿局も登場。
何か世界観が大きく変る、源次郎を取り巻く環境状況が一変する節が垣間見れました。
そして物語事態も大きく変わっていくのだなぁと思いました。

最近の大河の構成を踏んでいます。



今まで見たこともない世界に足を踏み入れた源次郎

大谷吉継・千利休等も登場し、いよいよ秀吉の世界が展開されていきます。

昌幸・景勝共にあそこまで秀吉に対して半信半疑というか警戒心があったのかと思うが。

大坂城秀吉に拝謁した景勝(天正14年1586年6月14日)。その際に真田への肩入れを禁じられ苦悩する景勝。そして、お茶席の場面。お茶で表現した景勝臣従。とても良い表現でした。

景勝が思うほど源次郎は気にはしていなかったのでしょう、景勝判断

もう一人、苦悩するのは源三郎源次郎大坂へ行って以来自身の在り方に悩んでいる。しかし、安泰の世の源三郎をみればその才を如何なく発揮した事はご承知の通り。
そんなところを、昌幸の口からそんなところを発せたところも良かったです。

豊臣家中、豊臣家に巻き込まれていく源次郎

これからの人間模様が楽しみです。

第14回「大坂」第15回「秀吉」の感想でした。





真田丸第13回「決戦」放送日4/3

2016-04-04 16:33:49 | 真田丸
東京ビッグサイトで開催されたインターペットから帰宅してから、録丸で見ました。

第一次上田合戦(別名:神川合戦)の開戦!!!

地元で起こった合戦が全国区の大河で見れるなんて、それだけでも感動しています。
上田城上田城下、神川(かんがわ)と、どれも今もなお慣れ親しんでいる場所。

特に神川は、小さい頃から過ごした場所(神川地区)、遊んだ場所。
千曲川との合流点近くにある神川小学校は我が母校、クワガタを採りに神川まで行きました。

徳川軍の神川渡河点、
徳川軍を追い詰めた合戦の場所は実家のすぐ近く。

第一次上田合戦において、源次郎が参加していたのかはよくわかっていません。

厚遇されていたとは上杉の人質。
ドラマでも、「戦の為に人質を返すなんて聞いたことがないわ!!!」と、裏返った声で村上新悟兼続が言っていましたが・・・。

参加したとも、海津城で後詰めしていたとも、春日山城に居たとも色々言われています。

今回のような役割であれば参加していたとしても良いのではないでしょうか。
源三郎(信幸)が大活躍(これについても諸説あります)したと伝わる第一次上田合戦

それを上回る武勇伝を晒さない作り方は良かったと思います。


合戦といえば原野で鑓を突き合わせ、騎馬隊が駆け回るというものが大半でした。
そう印象付けられていました。

市街戦・城内戦だったということはわかっていても
なかなか映像的に想像できませんでした。

たくさんの罠が仕掛けられ、千鳥に柵が設置され
正に袋のねずみを叩きのめしたという戦い方を見ることができました。

こんな合戦は今までに見たことないです。

城・城下・支城・土地をうまく使った戦いが
真の難攻不落の上田城として印象付けられたのでしょう。

そして、真田の名を天下に轟かせたのでしょう。

神川から上田城下まで直線距離で4km弱。
源三郎が詰めていた砥石城(戸石城)からは直線距離4kmほど。

そんな範囲で合戦は起きました。

徳川は戦巧者ばかりの7000という兵の数。
真田は領民を含めて2000ほど、実際の兵は1300弱と言われています。

ちょっと細かい事ですが、
この時の上田城には天守はありませんでした。
2重の櫓はあったかもしれませんが、ドラマほど遠くまでの見渡しは良くなかったのではないかと思いました。

お梅の死。
お梅についても良く分かっていません。いつどうなったのかも。
ドラマではこのタイミングだったのでしょう。
童子に六文銭と銀を交換してもらうというなんだか意味ありげな演出に深読みしてしまいます。

あっちこちになってしまいました。

いよいよ大坂へ。

真田の郷から更に遠くへ行ってしまいます。
なんだか寂しい気がしますが、今後も楽しみです。

感想でした。





真田丸第12回「人質」放送日3/27

2016-03-31 15:11:10 | 真田丸
まだまだ素直になれないきり

しかし、ぼそっと言った「・・・源次郎さんか行くところ・・・」の一言が今後の展開を予感できます。

冒頭の上田城の様子、どこの櫓から城下を見渡しているのかな?
方向的には東北東。

画面左側が砥石城・その先の真田の郷の方向、
画面右格子の向こうに烏帽子岳(2,066m)が見える方向。

画面中央下には門らしき建物、その先に城下町が延びています。

どういう城郭を描いたのでしょう?
第10回で大まかな城図面は出てきましたが。


室賀正武謀殺後(1584年7月)、再び上杉に対して属する旨の書状を送っています。(ドラマ・史実共)しかし、上杉景勝はすぐには認めませんでした。

上杉に文を送ったと明かす昌幸信幸の冷静な返しが面白く
昌幸の「世の中上手く行かないかぁ(?うまく聞き取れなかったけど)」に
高梨内記のちょっとした表情が良かったです。きりの事で思うところがあったのかな?

ここで人質として源次郎景勝のもとへ参じますが
史実ではさらに先の第一次上田合戦(1585年閏8月)の直前の7月のことです。

の策士ぶりにドン引きのきり。こんなところも面白かったです。

沼田を巡っては、北条と争い、徳川と敵対し始め、上杉には未だに認めてもらえないという状況下というのは本当に真田家にとっては生きた心地のしない状況だったでしょう。

ドラマではその辺りはサラッと描かれていました。

真田丸景勝は実に優しくていい人です。そして、直江兼続も。

昌幸との対比、そして徳川との対比。
表裏ある二者の対局にあるを重んじる上杉。こんな明確な対比も解りやすい。

中世の風俗、鉄火起請を再現し、それを使って源次郎の策士ぶりを描き、その姿を見て景勝の心を掴む。帰城の際に景勝の一言「お主のような子が欲しかった・・・」良いシーンでした。

実際には、源次郎の言動があそこまで景勝に影響したとは思えませんが、景勝・兼続からの教えは、源次郎にとってとても共感するところであり、学ぶ事が多かったと思います。上杉での厚遇があのようなかたちで表現されたのかなぁ、とみました。

昌幸家康手切れを宣告、これに対し家康鳥居元忠真田討伐の命を出し小県へ進軍しました。

いよいよ、第一次上田合戦、開戦です。楽しみです。

感想でした。


真田丸第11回「祝言」放送日3/20

2016-03-23 15:08:13 | 真田丸
沼田領問題家康強要に拒否し続けている真田昌幸に対して
「謀(はかりごと)を以って真田を討つべし」と室賀正武に命じるところから始まりました、と史実に倣った言い方をしました。

ドラマでは、室賀正武は躊躇し、
家康・正信によってはめられ、そそのかされ、心を売ったように描かれました。

史実では、真田室賀は、甲斐武田氏滅亡後から対立抗争関係にありました。

それをドラマでは、「おぬしの家来ではない!」や
織田北条に従属した頃の正武の態度をあのように描くことによって
対立関係を表現したのではないかと思います。

しかし、家康と関わろうとした頃から、昌幸に対する正武態度が変化しました。

史実では、先に室賀は徳川方に属していました。
昌幸が徳川方に属した後、小県平定する為に動き、室賀を抑えようとし、
それに対して室賀応戦しましたが、
真田に対して和睦を申し入れ真田の麾下(家来となる)に入りました。

そんな変化をあのように表現したのかなと。

源次郎と夫婦になる事を近親者に報告したくだりは面白かったです。
きりさんと一緒になるのかと思った」とか
源三郎との会話も仲の良い兄弟をうまく描いたと思います。

きりの耳にも入り、その複雑な心情が今回の後半にかけて描かれました。

このきり源次郎に対する思いや言動が、
今後の真田丸でとても重要な役割を果たす事になるとはっきり示したように思います。
それは、源三郎に吐露した源次郎の心情に現れていたと思います。

未熟さ、心配り、何が大切なのか、源次郎がこれから直面する問題に対して
精神的に支えてくれる重要な存在になって行くのだと思います。

ドラマでは人間的なところを描く事は大事だなと。
武勇伝、戦、歴史的事象、重厚さ云々などの
ただの羅列なら好きな戦記物や史書史記を
読んでいればいい事である。

正武の謀殺に至る囲碁からのシーンは
かなり、衝撃的に描かれていたと思います。

史実をなぞっていると
不本意ながら昌幸の家来となった
正武は、真田の勢力拡大不満に思い、家臣を家康のもとに送り訴えていた。
そこで家康の命暗殺を計画。その計画を練りに練っていた。
室賀一族の室賀孫右衛門を徳川家臣のもとへ派遣し
援軍を要請する手はずだったが、その者は既に昌幸内通しており、
そのまま上田城へ向かい暗殺計画を密告し、室賀のもとへ帰参した。
そうとは知らない正武囲碁の観戦に招待され、これを良い機会とみて
上田城へ乗り込んだが、通された書院の間にて昌幸・信幸調略により真田家臣の手で討たれた。
伴ってきた室賀家臣は捕らえられ、のちに真田の家臣となった。

と、さほどの驚きもなく、昌幸の調略により討たれた、と、
実際にはこのように淡々とした流れであったかもしれません。

しかし、そこに昌幸・正武を付加し、
「幼馴染み」「同じような人生を歩んできた」とか思い留ませる一言を入れ、
そして小刀を差し出し小県の国衆の想いを託す(?)など感傷的なところや
「おぬしの家来にはならん」と言い放つ対抗心はある。手を掛けようとするが・・・。

ドラマにするにはこのように表現しなければならなかったのか?
それを源次郎と梅の祝言を利用するという・・・。

しかし、前にも記したように、真田丸は信繁が主人公の物語、そしてヒロインはきり

この2人をうまく絡めなければ、昌幸が主人公と言っても過言ではない物語になってしまう。

そうなんです、信繁を主人公に描く事は難しいのです。
何せ、この頃の信繁の事を見出す史料が極端に少ないから。

たとえあったとしても、その時の細かな心情言動までは書かれた
史書・史記は殆んど無いと言っても良いでしょう。

逆に言えば、どんな風にも描ける。がそれもまた難しい。

あとちょっと気になったのが、
「上田城が完成した」とナレーションが入りましたが???です。
あの時点(1585年7月)では完成していません。徳川の援助による普請は中断となり
第一次上田合戦が勃発、収まったところで上杉の援助による普請で一応の完成
(9月末から10月頭にかけて)となりました。



長々となりましたが、信繁青春期のクライマックスである第一次上田合戦がいよいよ勃発

真田vs徳川、どのように表現されるのか楽しみです。

第11回「祝言」感想でした。
だんだん長くなります・・・(;^ω^)

上州沼田真田丸展に行ってきました3/20

2016-03-22 16:51:09 | 真田丸
先週、沼田へ行ったときに
上州沼田真田丸展の開催を知り
2週続けて沼田へ行く事となりました。


先週同様、真田街道を通って沼田を目指しました。

ちょっと遅めの出発。

足湯のある道の駅八ッ場ふるさと館でちょっと早めの昼食を摂りました。
足湯は混んでいたので今回はパスしました。

岩櫃山付近まで進むと沿道のこんにゃく屋さんが目に入り寄ってみると午前中に出した生こんにゃくは売り切れで、もう一時間ほどで新たな生こんにゃくが出来上がるというので、時間つぶしすることにしました。

岩櫃山の南麓にある密岩神社へ行きました。
前日のNHKのTV番組でおもてなしをやっていると知ったので。

これです。



絶景です。岩櫃山。




お茶を頂き、物販もやっており、買い物しました。

記念撮影






真田丸で堺雅人信繁が羽織っているのと同じ陣羽織やお手製の甲冑を身に着けること出来ます。ポスターと同じように撮る事が出来ます。
再チャレンジしたいです(;^ω^)


アンケートに答えるとガラポンが1回でき、見事銀賞でした\(^O^)/
商品は東吾妻町特性のマフラータオル!!良いモノもらえました。
これです↓


生こんにゃくを受け取り、沼田へ向かいました。
買ったこんにゃく美味しかったです。

真田丸展、良かったです(*^^*)
きりや梅の衣装や源次郎がプレゼントした櫛、沼田城の天守の模型など見ごたえありました。
初日だったのでたくさんの人出でした。








近所のバームクーヘン屋さん樫の木で2種類買いました。これもまた美味しかったです。


真田丸第10回「妙手」放送日3/13

2016-03-16 09:12:44 | 真田丸
大問題へと発展していく沼田領問題

室賀正武の癇癪で始まりました。

国衆にとっては、
大名の都合で勝手にされるがままの状況に陥れば
怒りや困惑するのは当然の事です。

家康の下に乗り込んだ信幸・信繁兄弟に信尹。

まぁ、この家康の心ない口先だけの言動にはイラッとしますが、元々好きではない家康なのであんな感じでOKです。嫌な感じが出ていて。

家康に対して凄んだ信幸に信繁の本多忠勝制止。この場面にはしびれました。
これで終わらない、直後の信幸の疲弊脱力感が良い感じでした。
まだまだこの時の信幸は10代だからね。「凄んだけど死ぬかと思ったぁ~怖かったぁ~」感が良かったです。

北条のイライラっぷりもなかなかのもの。

そんな中、上田城が普請されました。
なにか、地元の城、他から比べれば小さな城にもかかわらず、上田城の築城が描かれた事に感慨深げです。嬉しいです。本当に。

そして、上杉景勝と信繁のやり取り。
上杉方へ「1人で乗り込んだ勇気」と「武士の誇り」、「その裏のない純粋さ」にぐっと来て流した一筋。景勝の描かれ方が、戦乱の世にあって和ませてくれるように感じました。

虚空蔵山城での戦芝居の場面。
メインテーマ曲が流れた瞬間、鳥肌が立ちました。しびれました。

信繁からのプロポーズを待ちに待っていたお梅ちゃん。
今で言うデキ婚の運びとなりました。

軽率で向こう見ずから始まった沼田領問題に翻弄される真田・北条・徳川・上杉のそれぞれの思惑がテンポよく描かれていました。

今回は、信幸・信繁兄弟が大活躍し、囲碁に明け暮れていた昌幸。
昌幸ばかりが目立っていたのでは、という感じの回でした。

いよいよ、真田の名を天下に轟かせた第一次上田合戦へと展開していきます。

第10回「妙手」の感想でした。