パピヨン&猫~アリオ&りんご&バジル&くるみのブログ~

愛犬&愛猫と一緒に愛車で日本全国?はまだまだですが、お出掛けした事・趣味のお城の事・鉄道の事など紹介しています。

山城 伊勢崎城

2020-01-23 14:37:04 | 
伊勢崎城(虚空蔵山城・伊勢崎砦)

上田市上野874-2

(上野霊園(公営)の住所)

付近案内図です

縄張り図は見た感じで書き入れました

 

上信越道の上田ローマン橋の下に

設置されている案内板です

一部、加筆しました

加筆部分は駐車場に関してです

ローマン橋下に駐車スペースのような

場所がありますが

現在、ローマン橋の工事用の

関係施設用地として利用されています

よって、公営霊園の駐車スペースを

利用した方が良いです

ただし、霊園用のスペースなので

配慮が必要です

あと、破線矢印登山道を加筆しました

 

東屋の横に道を徒歩で登って行きます

 

伊勢宮大神宮の参道・鳥居が

見えてきます

鳥居をくぐって進むと

 

参道を横切る道に出ます

左折して進み、そのまま真っ直ぐに

アスファルト舗装道路を進みます

 

道なりに進むと丁字路があり

右折します

コンクリート舗装路を進みます

 

道なりに進むと丁字路がありますが

そのまま真っ直ぐ進みます

辺り一面りんご畑ですので

けっして余計なことはしないように

しましょう

実を付けた時期収穫時期

りんご泥棒に間違えられないように

特に気を付けましょう

 

途中、丁字路がありますが

そのまま真っ直ぐに道なりに

進みます

 

Yの字の分岐点があるので

斜め左を進みます

 

このまま進むと

コンクリート舗装路は終わります

いよいよ城跡域に足を踏み入れます

 

当時、このような道筋に

なっていたかは不明です

 

道筋左側(北側)に

曲輪のような平削部分と切岸

見る事が出来ます

 

進みます

 

道筋左側(北側)には

もう一段の曲輪のような平削部分と切岸

見る事が出来ます

 

道筋右側(南側)にも

腰曲輪のような平削部分が

3段もしくは4段、見る事が

出来ます

その中に、石積みがあります

当時モノか後世のモノかは不明です

 

埋もれている石がいくつかあります

 

主郭です

西側から撮影しました

 

宇賀神社址を示す石碑と

三角点があります

三角点は石碑より一段高いところに

あります

 

主郭から神川を望む

主郭の背後(東側)は険しい崖になっています

 

埋もれた石

 

土塁のような盛り上がりがあります

 

主郭南側に段状の腰曲輪のような

平削部分が見る事が出来ます

 

北東隅が搦手のような

そこから延びる道筋がありますが

当時から有ったモノか後世のモノかは不明

 

下の段(曲輪)から主郭を望む

 

南側(丸子方面)望む

 

第二次上田合戦

徳川秀忠が陣取った染屋城

並びに徳川軍が宿営した一帯を望む

 

瀧水寺南西部から望む

かいこ山とも呼ばれる所以

かいこの頭部が城跡域

 

主郭部分

 

東側から虚空蔵山を望む

対岸(手前)には消防士の訓練所があります

 

戸石城・砥石城支城として造営されましたが

村上義清の時か真田幸隆の時か

はたまた真田昌幸の時かは不明です

 

 

村上義清の時なら

小県に勢力拡大過程で、背後や対岸の

敵対する海野氏配下の真田氏矢沢氏

牽制する為に造営したか?

(戸石城防衛のための最前線)

 

真田幸隆の時なら

村上義清を追い払い

更に回復し得た所領、真田の郷

防衛する為に造営したか?

(戸石城-伊勢崎城-矢沢城防衛ライン)

 

真田昌幸の時なら

大軍の徳川軍への備えとして

少数軍の奇策として伏兵を配し

奇襲する為に造営したか?

(神川堰き止めや横矢掛り)

 

色々と想像できます!!

(尚、最後の画像は

尾野山城からの景色です)


山城 孫台

2020-01-22 14:14:35 | 

孫台

上田市生田2937-1

(信州国際音楽村の住所)

付近案内図です

 

実家屋上からこのように見えます

 

孫台尾野山城

それぞれ違う尾根に造営されています

 

孫台入口まで、

信州国際音楽村駐車場から

徒歩で15分程

尾野山公民館駐車場から

徒歩で10分程

 

孫台入口付近

 

コンクリート舗装面を進みます

 

コンクリート舗装面が途切れますが

そのまま進みます

 

視界が開けます

孫台入口から徒歩3分程で到着します

更に進むと

古墳(円墳)のようです

 

掲示されている案内板には

平将門の当地での戦跡が

記載されています

尾野山城の支城として

機能したと云われているので

海野平の合戦第一次上田合戦時も

機能したのでしょう

 

案内板に向かって

左側(北側)へ向かうと

古い墓石が点在しています

石積みもありますが当時のモノかは

判明しません

周辺は墓地となっています

注意が必要です

 

南側(丸子市街地)を望む

 

石祠越しに尾野山城を望む

 

簡単に登城できます

 

登城道両側はとなっているので

踏み込まないよう注意しましょう

わだち部分を歩きましょう


山城 尾野山城跡Vol.3

2020-01-21 10:24:49 | 

全景を南側から撮ってみました

左から

大堀切→主郭→二の郭→三の郭→

愛宕神社→参道→登城口(駐車スペース)

 

大堀切と主郭(三峰社)

2条もしくは3条の堀切の

形状がよく見えます

見事な台形の主郭

 

二の郭→三の郭

この辺は雑木で形状がわかり辛い

 

三の郭→愛宕神社

この辺も雑木で形状がわかり辛い

 

愛宕神社→参道(配水池)

 

参道(配水池)→登城口(駐車スペース)

 

天文10年(1541年)5月

起こった海野平の合戦

小県郡に侵攻してきた

武田信虎村上義清らと

小県郡を支配していた

海野棟綱滋野三家

真田氏との戦い

 

海野棟綱ら滋野一族は

武田・村上連合軍に応戦するも

この尾野山城が落城、

更に海野平でも敗戦し

総崩れとなり上州へ敗走

 

また、武田氏が滅亡後に

小県郡を統一した真田昌幸属城とし

天正13年(1585年)閏8月

小県に侵攻してきた徳川軍

(第一次上田合戦)に備えて

改修し拠ったという

 

そのような歴史がある城です


山城 尾野山城跡Vol.1

2020-01-18 13:24:16 | 

ここ3年間、仕事が忙しくて

また私的でも色々とあって

なかなか、趣味のに時間を

割くことが出来ないでいました


令和2年・2020年はまた城活

積極的にしていきたいと

思っています

 

という事で早速ですが

私が生まれ育ち、

現在でも仕事場(事務所)でもある

実家がある

上田市の神川地区は古からの

歴史が豊富な場所です

官道の古代東山道が通り、

信濃国の国府が置かれたり、

信濃国分寺が建立されたり

平将門が合戦をしたり、

源頼朝の勧進と伝わる

信濃国分寺三重塔(国重文)があり

海野平の合戦

第一次上田合戦(神川合戦)

あったりしました

 

中世末期から戦国時代には

戦国大名や国衆の草刈場・戦場

となった為に

多くの山城が造営されました

 

そんな多くの山城を実家の屋上や

実家までの道すがら

市内を車で走っていると

そこかしこに見ることが出来ます

実家から見えるのが真田氏本城など

真田地区の諸城や

戸石城・砥石城矢沢城伊勢崎城(砦 蚕山)を望むことが出来ます

そしてもう一つが

今回の記事タイトルになっている

尾野山城(尾山城) 

上田市生田2007-1

(尾野山公民館の住所)

<掲示されている縄張り図>

海野氏配下の尾山氏によって

造営されたとされる

造営年代は詳細不詳ではあるが

室町時代後半か?

応永7年(1400年)の大塔合戦

参戦したとの伝承があり

その後の戦乱の中で造営されたか?

大塔合戦 応永7年(1400年)9月24日に

信濃守護小笠原長秀

村上・祢津・海野・高梨・井上氏などの

国人領主の連合軍対戦した合戦

この尾野山城跡が落葉した晩秋から芽吹く前の初春にかけて

実家やその周辺から目の前に

はっきりと見える様になるのです!

このように実家の屋上から見る事が出来ます

たぶん尾野山城をこういう風に

撮った人はいないのでは!?

登城口となる愛宕神社参道側から

中央部の建物が愛宕神社社殿です

<参道→社殿→堀切→三の郭>

<比較的平坦な三の郭付近>

 

<三の郭→堀切→二の郭→堀切→主郭>

主郭 見事な台形を成しています

主郭西寄りに小さな三峰社社殿が

あります

<二の郭→堀切→主郭→大堀切>

続く・・・


山城 尾野山城跡Vol.2

2020-01-18 13:24:16 | 

今年は雪が全くないので

行ってみました

付近案内図です

県道186号線須川方面へ進むと

Yの字の分岐点があり

愛宕山展望台入口の案内看板があり

斜め左方向へ進入します

集落内を道なりに進むと

 


このような標柱が見えます

軽自動車や小型普通車ならこのまま

左折して行けますが

中型普通車以上はそのまま

斜め右方向へ車を進めます

集落内を進むと信号のない交差点

行き当たります

交差点を右折すぐに尾野山公民館

あります

公民館敷地内に

尾野山城跡観光案内板があります


こちらに駐車して車で来た道を

徒歩で先程の標柱まで戻ります

 
標柱から舗装された道を進むと

ここが登城口です


公民館駐車場から徒歩10分ほどで

駐車スペースの様な場所に

辿り着きます

階段を上り

歩を進めると

展望台がありその脇を進みます

展望台から眺められる景色です

こうして見ると第一次上田合戦

上田城を攻めた(結果は敗走)後、

真田方の丸子城(丸子氏)を攻める為

徳川勢が布陣した八重原台地

よく見えます


真田昌幸にとって戦略上重要な城

あったことがわかります

尾野山配水池脇にある鳥居をくぐり

歩を進めます

2つ目の鳥居をくぐり

3つ目の鳥居をくぐって歩を進めると

愛宕神社社殿に着きます

毎年1月最終の土曜日夕から日曜日

かけて祭事が執り行われるようです
 
案内の通りに社殿の裏に回ると

今は埋まっていますが堀切を経て

 

馬の背の様な比較的平坦な三の郭へ

と足を踏む入れることになります

 

南側斜面には切岸と帯曲輪が

施されています(画像中央当たり)

 

途中に石祠があります

 

今は土橋のようになっていますが

その左右には堀切を見る事が出来る

縄張り図が掲示されています

 

南側の堀切

 

 

北側の堀切から竪堀に

 


小規模な桝形虎口のように

見受けられます

この辺に門があったのでしょうか?

 

この辺りは切岸部分

 

二の郭に足を踏み入れます

馬の背の様になっている部分から

斜め左に腰曲輪が平坦に続きます

 

途中に首なしの石像が

鎮座しています

 

南側には2段の腰曲輪が見る事が

出来ます

 

反対の北側はこのような眺めです

手前が尾野山集落で神川や

神川地区(海野平)、条里的遺構が

みてとれる第1段丘の染屋面、

神科地区、豊殿地区、真田地区、

菅平高原、四阿山・根子岳が

望めます

そして戸石城・砥石城や矢沢城、

真田氏本城などが見る事が出来ます

 

小さな平坦部分

何か施設があったのか?

 

更に進むと

 

先程より一回り大きい平坦部分

あります

櫓台だったのでしょうか?

 

2条の堀切跡

両側にその痕跡がみてとれます

 

いよいよ主郭へ 

高い切岸になっています

 

主郭 小規模です

 

西寄りに小さな三峰社社殿が

鎮座しています

近傍には土塁の一部がみてとれます

 

眺めがイイですね!

海野郷も一望できますしその先の

小諸や御牧原、佐久方面も望めます

 

これらが掲示されています

 

主郭後背の搦手側には2条もしくは

3条のからなる大堀切を

見る事が出来ます

 

大堀切へ下りることが出来ます

 

搦手側に伸びる平坦な尾根から

主郭を望む

 

主郭を仰ぎ見る
 

㈱しなのき書房発行の

上田古地図帖に掲載されている

上田市立博物館所蔵の

信州上田合戦図です


その中央部に尾ノ山に陣取る

真田安房守の軍勢の様子が

記載されています

数字などの信憑性は?です

また、

日付が天正十三年年八月二日

なっており、実際には閏八月二日

このほかに

真田源三郎後伊豆守(真田信幸)や

十八歳真田左衛門(真田信繁(幸村))の

名前が記載されています
 
以上、尾野山城跡の紹介でした
 
尾野山公民館から行って

帰ってくるまでに1時間ほどです

よく整備されていて

(携わっているみなさんに

感謝いたします)

大変行き易く多くの遺構を見る事が

出来て景色も良くハイキング程度の

感覚で登城することが出来ます

落葉から芽吹きまでの間が

訪れるには一番良いかもしれません

ただし、雪が無ければですが(^ω^;)
 
今年は

第27回

山城サミット上田・坂城大会

10月31日(土)~11月1日(日)

開催されます
 
たくさんの山城がある上田小県地域

微力ながらいくつかの山城

紹介できればと思っています


上田城西櫓の創建時期ほぼ確定12/13

2016-12-14 17:16:01 | 
県宝に指定されている上田城西櫓。
造りは、
白漆喰塗籠に下見板張りをした二重二階の層塔型の櫓。

現在、上田城跡公園には同様の櫓が西櫓の他に
2棟(通称北櫓、南櫓)があります。

この3棟の櫓の内、
西櫓は太政官通達による廃城後の民間払い下げの際に
売れ残りそのままその場に建ち続けました。

これまでこの西櫓は、
第二次上田合戦後に破却された後に、1626~28年に
当時の城主である仙石忠政によって再建された
7棟の櫓の内のひとつと言い伝えられてきました。

今回、放射性炭素年代測定で測定した
西櫓の真ん中に建つケヤキの真柱が
15世紀から17世紀にかけて伐採された
ものであることが特定されました。

最終結果は来月の末頃出るようです。

この結果が確定すれば、先述したことが証明されます。
となると、国指定の重要文化財となる可能性もあるようです。



尼ヶ淵広場から望む西櫓 2016年1月21日撮影

信濃毎日新聞記事より一部文言を抜粋しています。
詳しくは12/13付紙面並びに信毎webにてご確認ください。

再考、上田城築城とその背景

2016-08-01 15:33:15 | 
多くの書籍・リーフレット等における上田城築城に関する説明で気になる点があります。疑問に思ったり、そうではないのでは、と思ったり。

そんな点を自分なりに調べ解釈してみました。

以前にもこの場で上田城築城の背景を発表しましたが
それに付した自作の絵図ついても腑に落ちない部分があり再考しました。

大河ドラマ真田丸に於いては
いよいよ、秀吉時代の終焉を迎え、動乱の時を迎えるという頃の事がこれから展開されます。
真田家にとって一大事というか存亡の分岐点というか分かれ道となった
1600年第二次上田合戦1600年といえば一般的には関ヶ原の戦いなのでしょうが。

天正11年(1583年)4月に築城開始された上田城
第二次上田合戦を迎えるまでに大変貌しました。
本格的近世城郭となり、そして対徳川を鮮明にして。

再考、上田城築城とその背景を少々遡って
古代から見てみたいと思います。

ヤマト王権が全国に統治体制を敷き、ヤマト政権として政治統治するようになると信濃(初期は科野)もその統治下に置かれました。

原始科野国の始まりは、現在の千曲市(旧更埴市)から長野市篠ノ井、長野市松代町の更級・埴科一帯であっとする見方があります。

ヤマト政権の統治体制以前からこの地を中心とした原始科野国領域を治めていた大勢力が存在していたことは大きな古墳が点在する事からも想像できます。

ヤマト政権下の原始科野国の統治者もしくは国造にとって一番の悩みどころは、千曲川の氾濫でした。

更級・埴科一帯には、広い千曲川の氾濫原が広がっており、一たび氾濫すると大きな被害をもたらしましたが、その頻度が多く、安定した統治経営が出来ない状況でした。

ヤマト政権によって派遣された国造は、更級・埴科の上流にある小県(ちいさがた)に目を付けました。

その小県は少雨であるが安定した気候で、千曲川の氾濫原が非常に狭く、関東などの東国や東北(蝦夷地)へ通じる道(古代東山道)や越の国(北陸から新潟県にかけて)へ通じる道(古代北国道)が開かれていたのです。

それらを考慮した上で、統治の中心を小県へ移しました。

以上は、5世紀から7世紀前半の事で、ヤマト政権が統一国家(朝廷)へと移り変わっていく時期でした。


大化の改新によって新たな国家体制(国評(郡))が定められると、新たな国司が地方行政長官として朝廷から各地に派遣されました。

701年に大宝律令が制定されると国司が地方政治の任に就いた地を国府と称しました。信濃国においてはその所在地は引き続き小県郡でした。

741年、聖武天皇によって国分寺建立の詔が出されると、信濃国では小県郡内(現、上田市国分)に、国分僧寺・国分尼寺が建立されました。国司が日常的に管理・清掃をするように命じられていたためです。

743年、墾田永年私財法が施行され、農地開発が急増し、地方でも条里地割されるようになりました。
国分寺の僧寺・尼寺にはそれぞれ財源として水田10町ずつ開発することが定められていたので、国分寺近傍に条里地割した水田が開発されました。

小県郡(現、上田市部分)には長野県下最大の条里地割が確認されています。

その中で最大面積は、河岸段丘第一段丘面(神科台・染谷面)の神科・染屋台・岩門と呼ばれる一帯のもの。
続いて第二段丘面(常入・上田面)の常田・踏入と呼ばれる一帯のものです。

律令制が衰退し、平安時代初期に国府筑摩郡(現、松本市)に移転、平安時代末期頃には国分寺は荒廃してしまいました。

しかし、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて荒廃した国分寺の北側の段丘面に再建されました。鎌倉時代のものとされる石造多宝塔が現在の信濃国分寺境内にあります。

平安時代後期から急速に全国にわたって発達した荘園

鎌倉時代末期には小県郡内には7つの荘園がありました。

その中に、常田庄(常入の条里地割を含む、上田城・城下町が形成された場所)と上田庄(神科台の条里地割や国分寺や周辺地を含む場所)がありました。尚、庄=荘です。

それら荘園の中心勢力者が土豪となり名実共にその地域の支配権を握りました。

築地塀や堀をめぐらした居館を構え、居館の内外に従属する農民や職業人を居住させました。これがやがて武士・武士団となっていきました。

平安時代末期の保元・平治の乱で武士が台頭すると史上初の武家政治が開かれました。鎌倉幕府成立。

源頼朝より全国的にもみてもいち早く小県郡塩田庄地頭補任状が出されました。

このように武士によって領地経営が常態化していくと、当然、争い事も多くなりました。それはやがて戦・合戦へと発展していき、耕作地は場合によっては荒れ放題となってしまいました。

南北朝時代・室町時代・戦国時代と時代が下るにつれ争い事が頻発・激化していき「荒れては耕し」を繰り返していました。

大勢力に支配され没落した小勢力の地においては目が行き届かなくなり、領地安堵された小勢力においても領内整備に目を向ける余裕がないなど、一部耕作地は荒れ放題となり耕作放棄地となって行きました。

そんな地が、沼や湿地となってしまったのだと思います。

上田城築城の地や周辺地が
最初から沼や湿地ではなかった、結果そうなった
という解釈が必要なのではと思います。

上田城築城の地もそのような目に合った場所の一つでした。

前置きが非常に長くなりましたが絵図で確認してください。



【中世の様子】

(1)国分僧寺
(2)国分尼寺
(3)現在の信濃国分寺
(4)国府所在推定地(私論)
(5)総社 科野大宮社
(6)上田城築城地
(7)東山道(川中島道又は善光寺道とも)
(8)東山道(保福寺道とも)
(9)北国道(川中島道又は善光寺道とも)
(10)上州道又は沼田道
(11)神川
(12)千曲川
(13)神科台の条里地割
(14)常入の条里地割
(15)秋和の条里地割



【上田城築城直前の様子】

(1)小泉氏の古城館があったとされる場所(小泉曲輪)
(2)常田氏の御屋敷があったとされる場所(現、上田高校)
(3)尼ヶ淵
(4)千曲川支流
(5)千曲川
(6)旧矢出沢川が流れていた広谷
(7)旧矢出沢川
(8)旧蛭沢川
(9)川中島道(東山道)
(10)保福寺道(東山道)
(11)川中島道(北国道)
(12)上州道又は沼田道
(13)総社大宮社
(14)常入の条里地割された頃からの田畑
(15)秋和の条里地割された頃からの田畑



【天正11-12年(1583-84年)の様子】

(1)本城(本丸)
(2)二の丸
(3)小泉曲輪
(4)小泉曲輪
(5)大手口
(6)二の丸東虎口
(7)屋敷?
(8)常田氏御屋敷
(9)広堀
(10)尼ヶ淵
(11)千曲川支流
(12)千曲川
(13)矢出沢川
(14)蛭沢川
(15)川中島道又は善光寺道(東山道)
(16)保福寺道(東山道)
(17)川中島道又は善光寺道
(18)上州道又は沼田道
(19)大輪寺(戸石城の麓から築城時に鬼門除けの為に移転)
(20)海禅寺(海野郷の海禅寺から築城時に鬼門除けの為に移転)
(21)呈蓮寺(1433年この地に移転)
(22)八幡宮(上田城鎮護の為に海野郷から移転)
(23)宗吽寺(上田城築城時にこの地に移転)
(24)日輪寺(1545年開山)
(25)向源寺支坊
(26)常福寺
(27)総社大宮社(上田城鎮守)
(28)沼
(29)常入の条里地割された頃からの田畑
(30)秋和の条里地割された頃からの田畑


築城当初は徳川家康の援助の下、北の上杉景勝に対する防衛最前線基地として築かれました。
なので、大手口は北に開きました。北側・東側に小規模の城下が配されました。

矢出沢川の川筋が北側に変更され一直線に東から西へ流れる筋になり、外堀の役割を担いました。
上田城の構造は悌郭式で、縄張り自体は真田昌幸が考えたといわれています。

当時の徳川方には、羽柴秀吉のような築城技術はありませんでした。
なので石垣は無く(東国は土の城)、土塁で本城(本丸)や二の丸を囲みました。

旧矢出沢川の広谷を堰き止め広堀とし、北側に集中的に堀を作りました。
広堀の排水を兼ねた堀切を設け小泉曲輪を東西に分けました。
構造物は簡素なもので、瓦葺きではなく板葺きの櫓に木塀といったものが本城を囲む土塁上に築かれました。

本城(本丸)には北に虎口1つ、東に虎口2つを設けそれぞれに門を設置。
御殿の他に、土塁上に櫓が8棟あり、うち1つは2重櫓で残りは1重櫓、門は3棟でそれぞれを木塀で繋いだ。

二の丸には北に大手口、東西に虎口が1か所ずつ、それぞれに門を設置。
家臣の屋敷が配され、東西の土塁上には木柵、北の土塁には木塀を設けた。
と想像します。

中世的な非常に簡素な構造の城郭でした。わずか1年間の築城期間の事なので。
とりあえず竣工した天正12年(1584年)6月12日に祝賀に常田・房山獅子が舞いました。
その1カ月後、真田昌幸暗殺計画露呈・暗殺未遂で徳川家康とは手切れのきっかけとなり、上杉景勝へ臣従の誓いの書状を送っています。

東国は土の城。西国は石の城。基本的に。
しかし東国の城に全く無かったわけではなく中世城郭でも部分的に石垣が積まれました。土塁の補強・補助的なものとして。
それは西国の城郭によく見られるような高石垣や長大な石垣ではありませんでした。虎口にわずかに。

東国で本格的な石垣が構築されたのは、豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原征伐の際、小田原城・城下を見下ろすように築かれた一夜城の名で知られる石垣山城だと言われています。西国の大名が大量投入されたので出来たのでしょう。



【天正13年(1585年)の様子】

(1)本城(本丸)
(2)二の丸
(3)小泉曲輪
(4)小泉曲輪
(5)大手口
(6)二の丸北虎口
(7)屋敷?
(8)常田氏御屋敷
(9)広堀
(10)尼ヶ淵
(11)千曲川支流
(12)千曲川
(13)矢出沢川
(14)蛭沢川
(15)川中島道又は善光寺道(東山道)
(16)(17)城下町
(18)保福寺道(東山道)
(19)川中島道又は善光寺道
(20)上州道又は沼田道
(21)大輪寺(戸石城の麓から築城時に鬼門除けの為に移転)
(22)海禅寺(海野郷の海禅寺から築城時に鬼門除けの為に移転)
(23)呈蓮寺(1433年この地に移転)
(24)八幡宮(上田城鎮護の為に海野郷から移転)
(25)宗吽寺(上田城築城時にこの地に移転)
(26)日輪寺(1545年開山)
(27)向源寺支坊
(28)常福寺
(29)総社大宮社(上田城鎮守)
(30)沼
(31)常入の条里地割された頃からの田畑
(32)秋和の条里地割された頃からの田畑

天正13年(1585年)7月、1年かかってようやく上杉景勝に従属することになりました。
これを知った徳川家康は真田昌幸に対して正式に宣戦布告。

大軍の徳川勢に備えて城の東側を強化。
本城(本丸)の北虎口を塞ぎ、西に虎口を設置。東の虎口はそのまま。
御殿の他に、土塁上に櫓が8棟あり、うち1つは二重櫓で残りは平櫓、門は3棟でそれぞれを木塀で繋いだ。
また北・東側に堀を設けました。

二の丸の東虎口が大手口となり強固な土塁と門を設置。
二の丸内には迷路のように構造物を配した。

(7)(8)を出曲輪としました。城下に殺到した敵兵を側面攻撃する為に。

小規模の城下を強化し、カギ折れの道を設置。
又、城下には千鳥の木柵や罠が設置された。

徳川家康の宣戦布告から約2ヶ月後の閏8月2日、第一次上田合戦開戦。
神川を挟んで7,000の徳川軍と真田軍の小隊である200余りの真田勢が対峙しました。
真田勢の挑発に乗るように徳川軍が神川を押し通って、退く真田勢を追撃しました。

真田勢も少々反撃しながらも後退し城内に退散しました。追撃してきた徳川軍は城下の千鳥柵等に阻まれながらも二の丸に到達しました。二の丸は迷路のようになっており狭い通路を進みますが、真田軍の伏兵がどこからともなく攻撃してきました。

本城(本丸)の門まで達すると本城から真田軍は無数の銃矢を放ち、徳川軍が撤退し始めると真田昌幸が追撃、城下に火を放ち退路を断ちました。後退し始めた先鋒隊と攻め寄せる後続隊がぶつかり合い右往左往しながらも後退したところに戸石城から攻め寄せた真田信幸に側面攻撃され壊滅状態に、更に神川上流での大雨による鉄砲水が神川を逃げ渡る徳川軍を襲い多数の兵が溺死しました。

1,300余りの真田軍ではありましたが、真田昌幸の策略・上田城・城下に翻弄され多数の犠牲者を出した徳川軍は退散。

当地での戦が終息した後、上杉景勝の援助の下、更なる強化の為に増築・改修しました。
小諸城へ撤退した徳川軍が再び攻めて来るであろうと見ていたからだと思います。

11月、突然、徳川の重臣である石川教正が羽柴秀吉に出奔した為に、徳川家康は完全撤退を命令しこの合戦は終結しました。

その他に(3)の東側に空堀を設け、木柵又は木塀や簡易的な構造物を築き捨曲輪としたか、もしくは搦手口を設けたと思われます。
空掘を設けたことにより二の丸の南西隅が出角になりました。



【天正18年以降(1590年以降)の様子】

(1)本丸
(2)二の丸
(3)三の丸
(4)小泉曲輪
(5)小泉曲輪
(6)大手口
(7)二の丸東虎口
(8)二の丸北虎口
(9)二の丸西虎口
(10)搦手口
(11)屋敷?
(12)屋敷?
(13)広堀
(14)尼ヶ淵
(15)千曲川支流
(16)千曲川
(17)矢出沢川
(18)蛭沢川
(19)川中島道又は善光寺道(旧東山道)
(20)(21(22)(23)(24)城下町
(25)保福寺道(旧東山道)
(26)川中島道又は善光寺道
(27)上州道又は沼田道
(28)大輪寺(戸石城の麓から築城時に鬼門除けの為に移転)
(29)海禅寺(海野郷の海禅寺から築城時に鬼門除けの為に移転)
(30)呈蓮寺(1433年この地に移転)
(31)八幡宮(上田城鎮護の為に海野郷から移転)
(32)宗吽寺(上田城築城時にこの地に移転)
(33)日輪寺(1545年開山)
(34)向源寺支坊
(35)常福寺
(36)総社大宮社
(37)月窓寺(第一次上田合戦の際に焼失、その後この地に、真田信繁が再建したと伝わる)
(38)金昌寺(真田昌幸が援助し、旧武石村(現、上田市武石上本入)から移転)
(39)常入の条里地割された頃からの田畑
(40)秋和の条里地割された頃からの田畑

天正13年(1585年)の第一次上田合戦後、真田昌幸の武功は全国に広まり、その名を轟かせました。
そして戦場となった上田城(真田表)も難攻不落の城として知られることになりました。

豊臣秀吉に臣従後、真田昌幸は領地は安堵されましたが徳川家康の与力大名となり、真田信繁は豊臣秀吉の馬廻衆として仕え、真田信幸は沼田城の城主として一人立ちしその後、徳川家康に仕える事になりました。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原征伐で北条氏を滅ぼし、奥州仕置後に天下統一を成し遂げました。
小田原征伐の際の真田昌幸の武功が豊臣秀吉の目に留まり、信濃国の諸将は関東へ移されたにもかかわらず、真田昌幸はそのまま小県を安堵され関東へ移った徳川家康の監視役として独立大名となり豊臣秀吉の直臣になりました。

小田原征伐後、各大名は居城の大改修や築城、城下・領地の整備に取り掛かりました。

上田城も同じように、徳川家康を監視する役目を受け、大改修されました。
本格的な近世城郭に生まれ変わりました。しかも織豊系城郭に見られる金箔が施された瓦を使った城郭に。

関東の徳川家康を取り囲むように上田城(真田昌幸)の他に松本城(石川教正)、小諸城(仙石秀久)、沼田城(真田信幸)、甲府城(豊臣秀勝)、駿府城(中村一氏)、若松城(蒲生氏郷)、高島城(日根野高吉)と、いずれも豊臣秀吉配下の大名達が居城し、高島城以外の城郭には部分的に金箔瓦が使用されました。

関東の徳川家康を睨み、更に城の東側を強化しました。

本丸は、東西1ヶ所ずつの虎口とし、虎口や櫓台、北西隅の天守台には石垣を積みました。
天守・櫓・櫓門を土塀で繋ぎ、土塀が立つ部分は土塁のまま。西側にも堀をめぐらしました。
天守の存在ついては確実にあったとする史料はありませんが、本丸堀の北西の隅の底から金箔瓦が出土したことから、それ相当の建物=天守があったと解釈しています。
場所は本丸北西隅(戌亥・乾)。
規模は金箔瓦が葺かれた付櫓(1重)が付く複合式の3重5階程度であったと想像します。
平城であり位置が北西隅なので物見の為にはある程度の高さが必要である為です。
その他、御殿や2重櫓が6棟、平櫓が1棟、櫓門が2棟築かれました。
本丸を俯瞰すると方形に近い一般的な形をしています。

二の丸は、東西北に1ヶ所ずつある虎口は石垣積みとし、東虎口近傍に堀を設け強化しました。
北西隅が出角となりその北西隅には石垣を積み櫓台とし、金箔瓦が葺かれた3重3階の櫓を築きました。
この付近の広堀の底からも金箔瓦が出土している事からこの程度も櫓があったと想像します。
このほかに虎口の石垣上や土塁上に2重櫓が10棟、櫓門が3棟が築かれ、それぞれ土塀で繋ぎました。
東側の堀を尼ヶ淵まで延長し完全に囲いました。
二の丸を俯瞰すると、出角と入角が出来た為に、超攻撃的な構造となりました。

三の丸は、二の丸の東側のみで、家臣の屋敷が配され城内と城下の境に堀が設けられ、そこに大手口を開きました。
大手口や土塁の端には石垣が積まれ、大手口には櫓門(大手門)がその他の2ヶ所の虎口にはそれぞれ門が設置されました。
堀に沿って土塁が築かれ、石垣上・土塁上には2重櫓が1棟、平櫓が4棟が築かれました。

(4)の西側に土塁を築き平櫓が3棟、門が1棟、土塀が築かれました。
この付近からも瓦が出土している為、建物があったと思われます。

(5)に搦手口を設け、北西側に土塁を築き平櫓が1棟、門(搦手門)が1棟、土塀が築かれました。

(11)(12)は戦時、横曲輪として機能しました。特に(11)は手薄な三の丸の北側に対する防衛線となりました。

三の丸の設置、小泉曲輪の整備によって城域が約2倍に拡大しました。

城下も東・北・北東方向に拡大され、のちに真田信之(信幸)によって整備された城下の原型ができました。

そして迎えた慶長5年(1600年)9月4日、第二次上田合戦開戦。
徳川秀忠率いる徳川主力の38,000の大軍勢が上田城を攻略しにやってきました。迎える真田軍は2,500余り。

この時、
「徳川秀忠率いる徳川の大軍勢が中山道を西進し北国街道(北国脇往還)を上田城目指して進軍した。」
のような説明が良くされますが、この時点では「中山道」「北国街道(北国脇往還)」という名称の道はありません。
「街(海)道」整備、名称は江戸時代になってからである。

「東山道」もしくは「川中島道又は善光寺道」もしくは東海道の「海道」対する「山道」です。

染屋台(神科台の西側の地)にある染屋城に陣取った徳川軍は上田城・城下を俯瞰しました。
徳川秀忠の並々ならぬ上田城攻めへの想いがこの地に陣取りをしたのだと思います。

9月8日、徳川軍は城下東側に広がる田畑の稲を刈るという刈田狼藉を開始しました。それを阻止しようとして真田軍の小隊が城内から打って出ましたが徳川軍に急襲され上田城へ撤退、それを追って徳川軍は大手門まで迫りました。

刈田狼藉(かりたろうぜき)。田畑が無ければ出来ないことで上田城の説明で「沼や湿地が広がっていた場所、もしくは周辺に広がっていた」とただ単にそうのように説明することが良くありますが、それは正確ではありません。

冒頭で説明した通り、元々、田畑が広がっていた場所で、その中に耕作放棄された部分が沼や湿地となったのであって、最初から沼や湿地ではなかったのです。ただ単に沼や湿地が広がっているだけでは刈田狼藉なんてできませんでした。いや、させませんでした。

何故、「させませんでした」と述べたのかというと、全て真田昌幸の策略の内でした。
攻め寄せた徳川軍に対して大手門を開き一斉射撃。城内からも銃矢を浴びせました。

撤退し始めた先鋒隊と攻め寄せる後続隊がぶつかり合い右往左往しているところへ真田昌幸は更なる攻撃を加え、追い打ちをかけました。染屋台の北方に潜んでいた真田信繁が徳川本陣に攻め込み、徳川秀忠は小諸へ敗走しました。
さらに後退していく徳川軍は、神川渡河の際、堰き止めた神川の堰を切って流れ下ってきた大水に多数の兵馬が飲み込まれ、攻め寄せた隊は壊滅状態になってしまいました。

徳川家康の命令により関ヶ原へ向かわざるを得なくなった徳川秀忠は、上田城や真田軍を牽制しながらも慌てて向かったので、結果、上田城攻めは失敗に終わりました。

2度の上田城攻めにことごとく失敗した徳川。しかもその2度とも同じような展開となり攻め落とすことができませんでした。
近世城郭で2度実戦経験しながら落ちることなく、「真の難攻不落の城」としてその名を知られることになりました。

が、しかし、慶長6年(1601年)に徳川方によって上田城は破却されてしまいました。
真田昌幸の領地を与えられた真田信之はすぐには上田城の再建をせず城下の整備や(12)に政務執る屋敷を築きました。
元和7年(1621年)に幕府に対して上田城の再整備(再建)の申請をしましたが却下され、翌年に松代へ移封となってしまいました。

代わって入封した仙石忠政が寛永3年(1626年)から上田城の再建開始、真田昌幸の縄張りをほぼ踏襲して普請されました。
天守は築かれず、本丸に2重櫓が7棟、櫓門が2棟、土塀でそれぞれを繋ぎました。
二の丸にも7つの櫓台、東西北に虎口、三の丸に大手口が築かれましたが、寛永5年(1628年)に仙石忠政が病死していまい、再建は中断され、その後仙石氏に代わって入封した松平氏も再建しないまま明治維新を迎えてしまいました。

「1647年(正保4年)信州小県郡上田城絵図」


本丸・二の丸部分を拡大

1644年(正保元年)、幕府は諸藩に国絵図や郷村高帳などの作成を命じました。
この絵図はその内の一つとして作られたものです。

関ヶ原の戦い後、もしくは江戸幕府開府後に普請された城の特徴が出ています。
それは「白い城」ということです。あと、本丸西虎口の櫓門が2重になっています。

上田城跡公園でスマートフォンアプリ「VR上田城」を使ってスマートフォンをその方向にかざすと正保4年(1647年)の絵図を基に作成された上田城を見ることができます。
また「VR上田城」内の「真田氏ゆかりの地映像ツアー」でも見ることができます。


1583年(天正11年)の築城開始
1585年(天正13年)の第一次上田合戦
1590年(天正18年)以降の大改修
1600年(慶長5年)の第二次上田合戦
1601年(慶長6年)の破却
1626年(寛永3年)の再建開始
1628年(寛永5年)の再建中断

と、45年間(内25年は更地期間)に色々な出来事に直面した上田城
現在見られる姿は小さな城ですが、背負っている歴史は日本一の城

だと思っています。

以上、長々と記しました。全て想像・私論・自分なりの解釈でまとめてみました。

今後も更に研究を続けたいと思います。

しっかり確認しましたか、その案内の仕方

2016-03-31 10:07:30 | 
来城者が日増しに増えている上田城跡公園

本丸跡に上田城築城の所以が記載された案内板が設置されています。

これです。

タタミ1枚分ほどのところに文章と絵図、写真が記載されています。

これはいかがなものかと思うところがありました。

そして、それが影響している場面に出くわしました。

絵図・写真部分の拡大


1つ目、細かい事ですが、上部に記載されている

         真田氏時代の
上田城・仙石氏以降の上田城


この表記の仕方なんですが、
「真田氏」を強調したかったのかなぁ?
なんて思いましたが
それにしてもちょっと違和感があります。

真田氏時代の上田城
      と
仙石氏以降の上田城


のような表記の仕方の方が良いのではないでしょうか。

更に拡大して


2つ目、この案内板をパッと見たとき目につくのはこの部分です。

この白抜き文字は、

上田城が誇る広大な堀
百間堀はあちらです

と表示されています。

これが問題なんです。
赤矢印の上の信州上田城絵図には現在地が記載されています。

赤矢印の方向は絵図中で白矢印(画像加工して付け加えました)の方向(西側を向く)です。

実際、この方向には本丸を囲う土塁があり、その先には西側の水堀があります。

この表記をそのまま受け取る人も多いと思いますし
そちらの方向へ行く人達が多いと思います


実際にそう思って土塁から西側の水堀眺めて
「これが百間堀かぁ」と言っている人がいました。

実際の百間堀(正確には百間堀跡、現在は陸上競技場)は、絵図中の赤丸(画像加工して付け加えました)で囲ったところです。
赤矢印の方向からは見えません。

正確に情報を伝える事をしっかり考えたのか?
って思うような案内の仕方で、
正直、仕事が雑、しっかりしてくれ

上田城について~一直線~

2016-03-19 10:58:00 | 
先日、上田城築城について記事を載せましたが

今日は、ちょっと違った視線から見てみたいと思います。

築城の地の選定についていくつか挙げましたが
もう一つ、挙げたいと思います。

それは、
真田氏本城砥石城上田城一直線で結ばれているということです。

これは、数年前に地元紙で紹介されました。
そしてこの事は、砥石城のある地域の事をまとめたガイド冊子に記載されていることです。

真田家が上田城へ移る前に本拠としていた砥石城。

実際に砥石城へ行ってみました。

砥石城とは、
本城を中心に北に枡形城、南に砥石城、西南に米山城からなる
連郭式の山城
です。

枡形城から眺めてみました。

松の向こうに真田氏本城があります。
この辺の木、伐採してもイイのではないかと思いました。
間伐間伐。山は間伐しないと荒れ放題になります。
松をよけて撮ってみました。

真田の郷が一望できます。

そして180度振り返ると

が見えます。
一直線上の先には夫神(おがみ)岳があり冬至の日の入リとなる場所です。


一直線です!!!
こんなことも考えられていたのかと思います。
こういうことは、古代からよく採られている方法ですから。
何か、ロマンを感じます。ゾクッとします。

砥石城からは富士山を見ることができます。


そして眼下に広がる風景




砥石城については日を改めて記したいと思います。

こんな点から見ても上田城の築城には、色々な思いが、構想があったことがわかります。