■安部官房長官は、次期総理大臣として最有力候補であり、マスコミでは当選確実として語られている。その安部氏が、4月15日に靖国神社を参拝していることが判明した。安部氏は、閣議後の記者会見でこの事について質問されると ―「参拝したかしないか申し上げるつもりはない」― と明言する事を避けている。
― すでに外交、政治問題化している以上、それをさらに拡大すべきではない。― と思っているなら、なぜ参拝に行くのか理解に苦しむが、私が気になるのは、― 過去の政府見解を紹介する形で「首相や閣僚が私人の立場で参拝することは自由だ。記帳の際に肩書を付しても、私人の立場を離れたと考えることはできない。玉ぐし料も公費で支出するなどの事情がないかぎり、私人の立場での行動とみるべきだ」と説明。本殿での参拝も「問題ない」と強調した。― とする部分だ。
■政府見解は、政府の言い分なのであって、当然政府にとって都合のいい解釈をするのは当たり前であり(特にこの問題は)、そんなものを説明されたところで、何の意味も無い。
― 首相や閣僚が私人の立場で参拝することは自由だ。― といっているが、憲法99条には、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とある。
これは、統治権力を取り仕切る為政者が、「私人」などと詭弁を弄して、言い逃れできないように規定されているのではないだろうか。
憲法は、民衆が統治権力にタガをハメるための規定であるのだから、そのタガを権力を実質的に運用している為政者にもハメる為に99条の規定はあるのではないか。
それをあたかも、権力の当体である総理大臣や閣僚が、一国民として振舞い、憲法に規定されている権利を主張するのは、どう考えても、憲法を逃れるためのものであり、明らかな憲法違反ではないだろうか。(自らの立法した法すらも守ろうとせず、抜け穴を作って形骸化させることに長けている政治家らしいが。)
■― 記帳の際に肩書を付しても、私人の立場を離れたと考えることはできない。― もおかしい。なぜ記帳に肩書きを記入する必要があるのかを考えれば、それが「私人の行為」ではない事は明白である。
参拝するにしても、何の肩書きも無い「安部晋三」が参拝しても意味がなく、内閣官房長官としての「安部晋三」が参拝した事が重要なのであって、そのために「官房長官」の肩書きの記帳が必要になる。
肩書き記帳によって靖国神社に「国家御用達」としての地位を積極的に与えようとしているから、あえて「肩書き」を記入するのだろう。これは官房長官という肩書きが無ければ出来ない事なのだから、「私人の立場を離れている」と考える事が出来る。
■小泉氏も相変わらず、「個人の自由」を主張しており、中国や韓国に対しても― 「いつものことですね。反発する方がおかしいですね」と反論した。― としている。しかし、これもおかしな理論ではないか。
国家の権力をつかさどる者が、個人の自由を主張できるなら、「軍国主義を肯定する神社に参拝するような奴とは会いたくない」。と胡錦濤氏や盧武鉉氏が会わなかったとしても「個人の自由」なのだから何の問題もないはずだ。
この事を胡錦濤氏や盧武鉉氏が、小泉流で答えれば「会う会わないは個人の自由だ。嫌いな人物に会わなければいけないと言う方がおかしい」。となるだろう。
■小泉氏は「公」より「私」を最も尊重する個人主義者なのだから、自分だけ自由を主張せずに胡錦濤氏や盧武鉉氏にも「嫌な人物には会いたくない」という「個人の自由」を認めてあげたらどうだろうか。
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―以下引用記事―
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060804-00000016-maip-pol
安倍長官 靖国参拝、自らは発言せず…私人としては自由と
安倍晋三官房長官は4日午前の閣議後の記者会見で、今年4月15日の靖国神社参拝について「参拝したかしないか申し上げるつもりはない」と述べると同時に、首相や閣僚の私人としての参拝は「自由」との見解を改めて示した。一方、参拝の際に安倍氏は「内閣官房長官 安倍晋三」と記帳し、本殿に上がって参拝していたことが新たに分かった。
「ポスト小泉」の最有力候補である安倍氏の参拝は9月の自民党総裁選で靖国神社をめぐる論議に影響するうえ、中国、韓国の反発を呼ぶことは避けられない情勢だ。 安倍氏は会見で「すでに外交、政治問題化している以上、それをさらに拡大すべきではない。行くか行かないか、行ったか行かなかったか申し上げるつもりはない。この先どうするかも同じだ」と述べ、今回も含め、首相に就任しても参拝の有無を明言する考えのないことを改めて強調した。
一方で、過去の政府見解を紹介する形で「首相や閣僚が私人の立場で参拝することは自由だ。記帳の際に肩書を付しても、私人の立場を離れたと考えることはできない。玉ぐし料も公費で支出するなどの事情がないかぎり、私人の立場での行動とみるべきだ」と説明。本殿での参拝も「問題ない」と強調した。 複数の関係者によると、安倍氏は4月15日午前7時半ごろ、公用車を用いずにモーニング姿で靖国神社を訪問。「内閣官房長官 安倍晋三」と記帳、本殿に上がり参拝した。
玉ぐし料はポケットマネーから出したという。参拝後、安倍氏は東京・新宿御苑で開かれた小泉純一郎首相主催の「桜を見る会」に出席した。 小泉首相が昨年10月17日に参拝した際は、スーツ姿でポケットから取り出したさい銭を投げ入れただけで、記帳はしなかった。 安倍氏はこれまで小泉首相の靖国神社参拝を擁護。自らも自民党幹事長の04年と同代理を務めていた05年の8月15日に靖国神社を参拝している。 参拝問題について、総裁選の争点にはすべきではない、との立場。「第二次世界大戦前の戦没者を慰霊するには春秋の例大祭が適切」というのが持論であり、今年の8月15日の参拝は見送る意向であることから、4月参拝は代替的な位置づけ、との見方も出ている。【鬼木浩文】 (毎日新聞) - 8月4日17時5分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060804-00000138-jij-pol
安倍氏参拝「個人の自由」=小泉首相
小泉純一郎首相は4日夕、安倍晋三官房長官が4月に靖国神社を参拝していたことについて「それは個人の自由ですから」と述べた。中国や韓国の反発に関しては「いつものことですね。反発する方がおかしいですね」と反論した。 また、首相が終戦記念日の8月15日に参拝する意向を固めたとの一部報道については「推測するのは自由ですから。適切に判断する」と語った。山口県下関市内で記者団の質問に答えた。 (時事通信) - 8月4日19時1分更新
>これは、統治権力を取り仕切る為政者が、「私人」などと詭弁を弄して、言い逃れできないように規定されているのではないだろうか。
そもそも、靖国参拝が違憲である、という判決は出されていない。判決の主文以外の部分でそのような判断が述べられたことはあったが、これは判決そのものとは関係が無い。
よって、閣僚が公式参拝しても、憲法99条に違反しているとはいえない。
>この事を胡錦濤氏や盧武鉉氏が、小泉流で答えれば「会う会わないは個人の自由だ。嫌いな人物に会わなければいけないと言う方がおかしい」。となるだろう。
>■小泉氏は「公」より「私」を最も尊重する個人主義者なのだから、自分だけ自由を主張せずに胡錦濤氏や盧武鉉氏にも「嫌な人物には会いたくない」という「個人の自由」を認めてあげたらどうだろうか。
靖国参拝と首脳会談の性格付けは明白に異なる。小泉氏は参拝時の玉串料も賽銭も個人の資産から出している。よって、首相の参拝に関しては個人的なこととすることができる。しかし、首脳会談に赴く場合、交通費や宿泊費が首脳個人のポケットから出るだろうか?
それは有り得ない。もしそういうことがあったとしたら、それは非公式訪問になる。中華人民共和国と大韓民国の首脳は、「公式訪問をしない」と言っている。それは、国家として、日本との首脳会談を拒否するという姿勢であり、首脳個人として会わないのとは違う。
判決とは関係ないというのはちょっと違うのではないでしょうか。強制力はないというだけで司法の判断としては「違憲である」とその裁判では判断したわけです。
しかし、実際に如何なる強制力があるのかと問われれば、損害賠償は退けられたので「無い」としかいえません。
しかし、三権の一つである行政が、一茶髪弁護士のように「関係ない」とは言えないでしょう。そのために小泉氏も賽銭投げ入れ参拝にしたわけです。
>靖国参拝と首脳会談の性格付けは明白に異なる。小泉氏は参拝時の玉串料も賽銭も個人の資産から出している。よって、首相の参拝に関しては個人的なこととすることができる。
私はそうは思いません。公用車を使い、SPもついてくるわけです。もし、それらを省いたとしても「公約」としての一政策として(靖国を国家の追悼施設としての認定行為)参拝表明しているわけです。
また、首相に公私の区別などあるとは思えず、過去からの国家との関係や政治とのつながりが強い靖国に、総理として参拝している以上、それが私的であるとはとても思えないです。
>国家として、日本との首脳会談を拒否するという姿勢であり、首脳個人として会わないのとは違う。
政教分離の原則を逃れるために「信教の自由」で「公」であるものを、「私」とごまかしているわけです。
その変な理屈が通るなら ―「嫌な人物には会いたくない」という「個人の自由」を認めてあげたらどうだろうか。― と嫌味を書いているわけで、本当に私がそう思っている分けではないです。