■国旗国歌法制定時には、強制するための正当性を与えるのではないかという、懸念も聞かれたが、「強制するものではない」という説明がなされて法律は制定された経緯があり、判決の ― 国旗、国歌は、国民に強制するのではなく、自然のうちに定着させるというのが国旗国歌法の制度趣旨であり ― はまさにその通である。
ただし、これには反論もあり、「強制しないのは生徒に対してであり、教師には国旗国歌を指導する義務がある」。という意見も見受けられた。国旗国歌法制定時にも、「子供たちの良心の自由を制約しようというものでない」としながらも「教職員については指導義務がある」と、当時の小渕首相などは答弁している。
■教職員について義務があるかは、賛否の分かれるところだが、両陣営とも生徒に対する強制は想定していないのであり、そのことについては一致している。
しかし、この違憲判決を受けて石原都知事は ― 「子供たちの規律を取り戻すために、ある種の統一行動は必要。その一つが国歌、国旗に対する敬意だ」 ― と発言している。これは、今までなされてきた立法趣旨と大きくかけ離れてものであり、教職員に対する強制は、生徒に強制するための前段階であることを意味する。
■そもそも、教師に強く指導することを求めれば、生徒に対しても強制的に国旗・国家について指導することは自明のことであり、むしろ、そのような狙いがあるからこそ、教師に強く(処分まで行う)、指導するように求めるのである。
生徒と教師の立場が対等であれば、「教職員については強制するが、生徒には強制しない」は可能ではあるだろうが、生徒と教師の立場が対等でないのだから(生徒の評価をするのは教師)、教師の指導は絶対的なものになりがちであり、それに反対することによって、何らかの評価に影響がでることの懸念が国旗・国家を(見せ掛けだけ)尊重する動機になってはならない。
■石原氏の言うように、― ある種の統一行動は必要。― であることは認めるが、統一行動を求めるなら、何も強烈な拒否反応を引き起こすようなものではなく、もっと中立的なものを用いるべきだろう。例えば校歌・校旗で事足りるのであって、無理に日の丸、君が代である必要はない。
むしろ、ある種の統一行動をとらせる方法が賛否両論の分かれる日の丸、君が代であれば、思想信条の自由を阻害する象徴として見られることになり、かえって日の丸、君が代の価値を貶める事になる。
■日の丸、君が代がなぜ問題視されるかといえば、一時期に日の丸、君が代が国民統制の道具に使われていた事や、君が代の歌詞が皇国史観を連想させるものであることが原因であるようだ。私もこのように思う人々の気持ちは理解ができる。
だが私自身は、日の丸、君が代について、そのような感情を持つことは無い。なぜなら、現在の日本においては、日の丸や君が代を尊重しないことも認められているからであり。そうであるからこそ、現在の日の丸、君が代と、過去の一時期に国民統制の道具として使われていた、日の丸、君が代とは意味合いが違うと思うからだ。
しかし、国家が日の丸、君が代を愛国心(見せ掛けの)を推し量る道具として利用するのであれば、心から尊重などとても出来ない。
特に、君が代は、民主主義を理解している良識(「強制はよろしくない」)や素晴らしい人格を兼ね備えている天皇(天皇家)であるからこそ、歌うことができるのであって、これが国旗国歌の強制を是としたり、「国家のために命を投げだすのは当然であり、それができないのは非国民である」。というものであれば、全く尊重する気になれない。
■やはり、異論についても尊重する姿勢が現在の日の丸・君が代を国旗・国歌たらしめていることを為政者はもっと考えるべきではないか。もし、それとは逆の方向で動くのであれば国旗・国歌として日の丸・君が代を誰も尊重しないだろう。――(終わり)
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