天体の動きというものが悠久の太古から秩序立った不変のものだと「見える」のは
精々100年程度しか生きられないヒトの主観的感覚によるたった数千年程度の知識に基づく法則性に過ぎない
それは遺伝的な生物進化によって環境調和が保たれていることと同様 過去に膨大な淘汰圧力が働いた結果であり また 決して永久不変の絶対的秩序の保証が存在するわけではない
主観的に「見える」からといって それが論理科学的に真理であることの証明には一切ならない
実際には太陽系全体の重心は ほとんどの場合太陽の中にすらないという
ヒトは生物進化における過程の中で 極めて極く最近の出来事しか「見て」おらず 化石などの発掘による知見も 所詮は極めて断片的証拠にしかならない
全体から見て極めて短い期間の結果だけを根拠に 生物進化や天体の動きに秩序や永遠性が存在すると「思う」のは 単なる主観的感覚にすぎず 科学的論証には全くならない
ましてや見えている「結果」だけを抽出してきて「目的」だと言い張るのは因果律の事後正当化に他ならず それはまるで虐待されて育った人が自分の子供にも虐待を繰り返すための屁理屈のようなものである
ダーウィンの進化論に対して 当時多くがヒトがサルから進化したことを拒絶したのも ヒトが神の産物でさえあれば人間性を発揮できるものだという根拠のない妄想に基づくものである
ルーツがどうあれ 誰も自らの意思でこの世に産まれてきたわけではない以上 「これからどう行動選択するか」とは無関係なのである
実証不能の神の産物でさえあれば人間性や倫理を常に発揮できるという根拠は全くなく
サルから進化したからといって何かが変わるわけでもない
ヒトはヒトであって それ以上でもそれ以下でもなく 生き続ける上において最も優先されるべきものとしての「目的」とは 統合的に普遍性を持った価値を選び取るための論理客観性にのみ存在するのである
遺伝的形質や習性や生育環境に依存した結果的行動バイアスは意識でも意思でも目的でも人間性や倫理の論証にもならない
目先の気分感情に左右されずに統合的見地から 最も優先されるべき自己存在意義としての人間性や倫理が何なのかを区別できなければ 目的も意識もヘッタクレもあったものではないのである
他人に人間性や倫理を求める以上 自らも人間性や倫理に基づいた行動選択をしなければ 自己存在の根拠をも失うのである
「俺が悪いことをするのは 目先の多数他人が悪いからだ」という主張は 社会環境の奴隷であって本質的主体性に基づいた自己選択の放棄であり 故に自律的な社会的責任判断選択を放棄するバカの主張である
他人からの評価や報酬を目的としていれば 自律的な社会的責任判断選択は後回しになるし
生存を目的とすれば他人に危害が加わるような選択であっても正当化できるようにもなる
原発の津波に対する脆弱性を放置しなければ生活の安定が得られないような状況が作り出されるのは 東電社内における多数が組織の目先の利益追求に同調迎合したからであり
特定の個人だけが犠牲になるような状況を作り出すのは 大多数の無責任が原因である
誰も自分だけが犠牲になりたいわけではない 本当なら犠牲者が出ないよう全員が自律的な社会的責任判断選択をしていれば 特定個人だけが犠牲になるような状況には陥らないのである
ところがヒトというのは多数派に迎合同調していないと不安になり また 多数派に同調さえしておけば「正常」だと勘違いする習性もあるため 多くのヒトは自律的な社会的責任判断選択をしなくなるように陥るのである
上司などの権威に服従してさえおけば「自律的な社会的責任判断選択を自分がしなくても良い」という「感覚(錯覚)」によって 無責任な組織は出来上がるのである
こうした組織腐敗に陥らないために必要なのは 組織を構成する個人の自律的な社会的責任判断以外にない
組織腐敗というもの 「組織体質」といったものの原因は全て組織を構成する個人の無意識な服従迎合性に因る無責任性が作り出すものであって 個人を超越した自分達以外の何か原因不明な謎の「風土」だの「空気」による力学作用が働いているわけではない
ヒトは多数が無責任である場合には 責任が多数によって薄まると勘違い(錯覚)する習性がある
「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」
怖いかどうかと安全かどうかは関係がない
「怖い」のは主観であって 客観的安全性の論証とは何の関係もないのである
多くのヒトがカントの純粋理性批判を盲目的に信奉していれば カントの純粋理性批判が「理論として正しいもの」として永遠に扱われ続けるものだと安心して「思う」のかも知れないが
その主観には何の保証も根拠もないのである
Ende;