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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

愚鈍は罪である

2020年09月30日 10時26分13秒 | 意識論関連

カントは子供じみた好奇心や探究心を理性(科学)だと定義しているが 好奇心や探究心というのは欲望であって理性ではない

好奇心や探究心は「答え」を求めるが 客観的論理検証性という理性が伴わなければ科学的真理にはならない

単なる好奇心や探究心だけでは 宗教やイデオロギーといった絶対的な「答え」に到達して客観的論理検証性を失う場合もある

本当の純粋理性とは客観的論理検証性であって これは決して「答え」を必要以上に求めたりするものではなく わからないことはわからないと保留するものでもある

大脳辺縁系を損傷した人の場合 他人から選択を求められた場合に「わからない」と言うだけであって 決して子供じみた「なぜ?」を追求するわけではなく 現状の「哲学者」達が「大脳辺縁系を損傷した人と子供じみた好奇心は一緒だ」などと言い張るのは 論理客観的に物事を検証することが苦手な文科系「哲学者」達の頭の悪さに起因する著しい誤謬か 若しくはカントの純粋理性批判を鵜呑みにしていた自分達の頭の悪さを隠蔽するためのはぐらかしや嘘に過ぎない

 ◇

ヒトの多くは論理客観的に検証することが嫌いで 主観に基づいた気分的な満足や安心感さえ得られれば それを100%の「答え」だと信じ込み 疑うことをしなくなる習性がある

宗教やイデオロギーはその内部で100%の「答え」を提供してくれるので 主観的満足や安心を得られるため 論理客観的に物事を考えることが嫌いな大衆から人気を得られるのである

一度自分が信じ込んだ「答え」を疑う自己客観性を働かせる意欲を失い 事後正当化のための根拠の乏しい屁理屈を陳列し ヒトは盲目性を発揮するようになる

カントの純粋理性批判を読んだヒトの大半は 実際には何も論理的には理解などしていないにも関わらず 観念的に「純粋理性は悪」という屁理屈に基づき 実証不能の謎の「叡智界」というファンタジー妄想に酔いしれて満足することで論理客観性を簡単に失い 何が真理(本当のこと)なのかを分別することをしなくなるのである

カントの言う「叡智界」というのは カントが言うには「絶対に知覚できない」のだという

では「なぜ知覚できないのか」についての理由も説明されなければ 「知覚できないのになぜ存在すると言えるのか」も「知覚できないものがどうして発揮されるのか」についても理由を説明することはない

何せ「理性を超越」していることになっているからである

実際には「理性を逸脱」して実証不能の観念に囚われ酔いしれることで盲目なっているだけであって 故に多くのヒトはその内容に合理性がないことには誰も言及しなくなるのである

カントの純粋理性批判の結論の中には 天体の運行に見られる秩序とヒトの相互関係を結びつけるという 論理客観的には全く意味不明なお伽話が出てきてしまうのだが

何せ「理性は悪」という屁理屈に基づいているために 論理不明なお伽話であるにも関わらず 主観的満足や安心に酔いしれることによって 多くのヒトはその内容を理論的に検証することを全くしなくなるのである

このようにヒトという種の生物は 簡単に実証不能の観念に囚われ 100%の「答え」に満足して疑うことを一切しなくなるという欠陥(頭の悪さ)が先天的に存在しているからこそ ファンタジーと哲学の区別すらできなくなるのである

それは正に子供じみた好奇心や探究心だけが行き着いた「答え」であって カントの純粋理性批判を鵜呑みにしている事自体が因果律に基づいた盲目性や頭の悪さに他ならない

カントの純粋理性批判というのは その内容が非常に冗長であるため 本当は誰も論理的理解などしていないのであって そもそも論理的に検証すれば「間違いと決めつけの陳列に過ぎないファンタジー妄想」でしかない

養老孟司の著作や振り込め詐欺の電話の内容と同じように 冗長な話をされるとヒトの多くは内容を論理的には何ら把握していないにも関わらず 観念的に「わかった」ような感覚(主観)だけで鵜呑みにしてしまう先天的習性が存在するのである

感覚が促す錯覚を 錯覚だと認識するためには論理客観性が必要不可欠である

「大脳辺縁系を損傷した人に選択を求めても何も決められない」ことと 「子供じみた答えの追求性」を一緒だと哲学権威(と世間的にみなされている者)が言い張れば 多くのヒト(ノーベル賞受賞者の野依良治も含めて)は鵜呑みにしてしまうのである

原因は簡単である 主観的満足によって自発的論理検証性が機能しなくなるからである

理論的には簡単だが 何せヒトという種の生物の脳は論理客観的検証を優先するようにはできておらず 気分感情という主観さえ満足してしまえば簡単に論理検証性を喪失するという先天的欠陥があるため 多くのヒトは論理客観的根拠のない「答え」に酔いしれ囚われ盲目性を発揮しバカに陥るのである

 ◇

ヒトは一度信じ込んだ事柄に対して 他人から「間違いだ」と指摘されると 自分が間違ったことを信じ込んでしまっていたことを認めなければならず これが気分的に「嫌」なために 事後正当化の屁理屈をでっちあげて現実逃避してはぐらかす習性がある

認知行動療法において 「なぜ そう思うのですか?」という問いかけを繰り返すことで間違いを自覚させる手法が採られるのは 頭ごなしに間違いを指摘されることが主観的に嫌なために拒絶してしまうために あたかも「自分自身で気づいた」かのような錯覚を促すための手法である

振り込め詐欺に騙されている最中のヒトに対し 「それは詐欺ではないですか?」と問いかけても大抵の場合は拒絶反応を示し 最悪の場合「騙されていても良いから振り込ませろ」などと言い出すことまであるという

これはカルト宗教の信者達に対して「あなたの信じている教祖は頭がおかしい」と言うと猛烈な拒絶反応を示すのと同じメカニズムである

認知的不協和理論というのは こうしたヒトの先天的習性に起因する盲目性を論証したものであり 気分が良くなる内容でさえあれば盲目的に信じ込み しかも一度信じ込んだ内容には疑うこと(客観的に検証する)をしなくなることで洗脳状態から脱することができなくなる習性が存在していることを説明しているのである

 ◇

多くのヒトにとっては カントの純粋理性批判というのは「近代哲学の最高峰」だと信じ込まれているのかも知れないが 論理客観的に検証すれば実証不能のファンタジー妄想でしかないのである

論理客観的根拠の伴わない話には安全性が担保されない

安全性の担保されない話に倫理も人間性もヘッタクレもありはしないのである

倫理や人間性に言及できない話が哲学として有効性が存在する保証はない

論理客観的に理解できずに「わからない」のであれば それは「わからない」として保留していれば科学や哲学を逸脱することはないが 「わからないけど 主観的に好きだから信じたい」とか「主観的に嫌だから信じたくない」というのは哲学ではなくオカルトである可能性が非常に高い

どんなに主観的に安心満足していても むしろ主観的安心満足こそが客観的安全性を著しく損なう大きな要因であることを自覚すべきである

ヒトという種の生物でさえあれば 人間性が常に発揮される保証があるわけではない

ヒトが論理客観性を発揮するためには 自己の主観である情動を検証する客観性が必要不可欠である

自己も含めた「ヒト」とはどのようなものなのかを理解認識するのは理性であって悟性でも純粋統覚でも叡智でも主観でもない

野依良治がどのような経緯で「主観が大事」などと言い出したのか詳細は知らないが 京大学長山極寿一などの生物学者や西研などの哲学権威も含めて老害と言わざるを得ない

何も論理的に理解していないボケ老人が京大学長だったり理研理事を務めているのは社会に対する詐欺ペテンも甚だしく この状態を放置している大学や理研の職員も同罪である

 

 

Ende;


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