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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

幻想。

2013年02月14日 15時45分59秒 | 意識論関連

○体育会系幻想。

 全日本柔道連盟のゴタゴタや、角界における八百長問題に見られるように、武道と人格形成とは無関係であることは明らかである。

 大学サッカー部が学生寮で大麻を栽培していたり、野球部が集団レイプをしていたことからも、体育会系集団というのは統率的協調性は発揮出来ても、個人の主体的自律判断とは無関係なのである。

 文科系観念上では気分的安心満足と論理的安全性を履き違え錯覚する傾向が極めて強く、これを自覚認識出来ない以上、如何なる成績や学位も本質的な知能とも無関係である。

 体罰暴力による気分的抑圧を用いて従順に服従させることを「真面目」として扱う文科系大衆観念を放棄しない限り、どんなに桑田真澄が力説しても、「馬の耳に念仏。」である。

 人類は、「権威への服従という従順性こそが社会秩序である。」という本能由来の思考バイアスによる錯覚を認識する必要性がある。この錯覚を錯覚として認識しないからこそ、似たような「人災」が何度も繰り返されるのである。





○カッコイイ。

 「カッコイイ」とか「元気が出る、勇気がわく。」などといった話というのは、あくまで気分感情の問題、すなはち大脳辺縁系の本能的反射であり、先天的思考バイアスに過ぎない。

 「カッコイイ」ことが社会安全性や持続可能性を担保してくれる訳ではなく、単なる主観的好き嫌いの多数決を論じているに過ぎず、こんな基準を優先していれば社会安全性の論理的追求性が失われるのは当たり前というものである。

 「カッコイイ」などというのは、あくまで気分的なその場限りの満足を与えているだけの観念の源であり。こうした観念に囚われてしまう本能的な思考バイアスが論理検証性をヒトの脳から喪失させるのである。

 「カッコイイ」と「思って」いるのは「考え」ではない。単なる「思い」であり「感覚」に過ぎない。その「感覚」をどんなに無思考な多数大衆で共有しても、そこから論理的な社会安全性や持続可能性を「考え」導き出すことは出来ないのは当然である。

 ヒトという種の生物は、単なる感覚的「思い」に由来する気分的快楽、安心や満足に意識を奪われ。論理検証的に社会安全性や持続可能性を追求することを簡単に放棄してしまう本能的習性がある。

 金が儲かることや、多数人気が得られること、既存の論理的根拠のない学力や評価基準といった短絡的大衆観念ばかりで人間の価値を測っている以上、論理的安全性が確立出来ないのは当たり前の話なのである。

 バカな文科系大衆はこう言い逃れをするであろう。「自分はバカだから、社会全体の持続可能性だの安全性についてまでは考えられない。」と。しかし、これは単なる嘘である。実際には「考えられない。」のではなくて、「考えるのが面倒臭い。」という本質的自発性の欠落を正当化しようとしているに過ぎないからである。

 漫画家が「カッコイイ」とは何かを追求して大衆からウケ狙いをするのは勝手である。しかし、これを読み手が気分的満足快楽を得ることによって社会的安全性を蔑ろにして良いわけではない。漫画などの芸術は科学論理的根拠を必要としない単なる「気晴らし」に過ぎず、どんなに多数人気を得ているとしても人間として正しい判断を下していることの根拠には全くならないのである。

 文科系大衆観念上では、ニーチェの言葉をやたらと「カッコイイ」などと形容したがるが、ニーチェや養老孟司の言っていることには論理整合性がなく、すなはちこれは無責任なその場限りの「カッコつけ」によって無思考な大衆の脳を酔わせているだけの「嘘」に過ぎないのである。

 畑村洋太郎らによる危険学というのは、決して大衆観念的に「カッコイイ」ようなものではなく。むしろ泥臭い実質的対策の地道な積み重ねであって、これを多くのヒトは気分的に拒絶し簡単に忘れてしまうからバカげた「人災」が一向に減らないという結果を導いているのである。

 断片的な言葉を「カッコイイ」と称して名言扱いするのは簡単である。それを鵜呑みにして満足することは極めて簡単な「ヒト」の本能的習性に過ぎないからである。しかし、そうした短絡性こそが、思考を浅薄に導く快楽であることを、「ヒト」の多くは知らないし、認識することも拒絶するのである。

 「ヒト」という種の生物は、先天的にはバカであることを認識すべきであって。特定の機能能力を断片的に正当化することで論理検証もせずに自存在の正当化にすりかえ気分的に満足することこそが、「バカの連鎖。」を生み出す源なのである。

 現在の生物学のパラダイムを用いれば、権威服従性のみならず、イジメや差別排除にも何らかの「意味」があるとこじつけることは可能であろう。

 差別排除や権威服従性というのは本能習性が導く無意識的「結果」に過ぎない。その「結果」というものに無為に流されるだけなら簡単でバカでも出来ることである。その頭の悪さを認識していなければ、社会安全性や持続可能性といった「人間としての目的」に意識が働かないのは当然のことである。

 バカは「ヒト」であっても「人間」ではないのである。

 「ヒト」はバカのままバカげた文科系観念を振り回しておいた方が気分的に快楽で安心で満足を得られるであろう。だからこそ論理検証性を喪失することで、あらゆる「人災」の論理的原因究明や再発防止策を見失うのである。

 体育会系組織における封建的暴力も、それを「日本の文化」として位置付けているからこそ、一向に自浄作用が働かないのである。体育会系組織に限らず、個人の人格よりも特定能力の高さだけが価値として扱われることになりやすい傾向があろう。特定組織による評価や無思考な大衆人気というものが、必ずしも個人の人格性の論証にならないのは当たり前の話である。だからこそ無能なバカが権威として扱われることになり、結果的にバカが組織を牛耳ることに陥り腐敗を招くのである。

 現在の哲学界というのは、文科系観念に基づいた「カッコイイ」などの気分的安心満足快楽の追求に過ぎず、何ら純粋に物事を「考える」という哲学の根本を喪失しているのである。亀山郁夫がどんなにドストエフスキーと共感しても、何ら論理的な「ヒトの狂暴性」の原因究明にも対策にもならず、単なる気分的満足を得ているだけに過ぎないことを、バカ哲学者達は認識出来ていない。

 具体性のある論理的原因究明や対策が出て来ないのは、それが単なる気分的満足「安心」に過ぎないからであることを、多くの「ヒト」は認識していないし、しようともしない。それは具体性のある論理的対策というものは地道で地味で泥臭いことであるために、「気分的に嫌。」だからである。それは先天的本能がそうさせるのである。

 気分感情が作り出す無意識な思考バイアスに流されてしまうからこそ、論理的に物事を検証する「考え」が喪失するのであって、気分感情に流されずに冷静に泥臭く地道に検証するという「考え」が失われているからこそ、バカげた「人災」が減らないのである。




 「皆仲良く助け合いをしていたら国際競争力を失う。」などと言い出すバカも少なくないが、国際競争で勝ったからといって、その国の個人の幸福が得られることには全くなっていないことは明白である。GDPとその国の国民の幸福とは相関が全くない以上、目指すべきは国際競争に勝つことかどうかは議論の余地など最初からない。最も過酷な生存競争をしている内戦国が最も劣悪な状況に陥っているのも明白なことである。

 むしろ国内で奪い合いをしているからこそ、国際競争力を失うことになるのであって。奪い合いにならないためには個人の本質的主体性、自発性といったものが重要なのである。

 公正な競争が出来る社会であれば、個人がその能力を存分に発揮することが出来るのであり、それがひいては国際競争力にもつながることにもなるのである。

 自律的な社会的責任判断というものは、本質的な自発性によってのみ下されるものである。それがないから原発の暴走を導いたのであり、これはあらゆる集団組織「社会」において共通な暴走破綻の構造である。

 原発の暴走などの「人災」の最も根源的原因である個人の「自律」の欠落性について認識しない限り、あらゆる集団組織や国家の暴走破綻による社会の崩壊は免れることは出来ず、如何なる政治行政的対策も全ては無駄に終わることになるのである。






Ende;

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