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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

実質的効果。

2012年07月21日 13時16分40秒 | 意識論関連

○実質的効果。

 厳罰化というものは力による恐怖を利用した他律的な抑圧であり、気分による無意識的な行動抑圧にしかならない。

 そもそも危険運転などの行為というのは、当人が気分的に安心で「恐くない」からやらかすのであって、無意識な者というのは「自分だけは捕まらないから、恐くない。」という気分でしか行動が決定されないために行われるものである。

 「恐くない」というのは気分である。気分によってのみ行動が選択されていれば、「今まで事故を起こしたことがない。」だとか「捕まったことがない。」という精神的な安心によって行動が決定すると言うことであるから、厳罰化による精神的恐怖を用いた抑圧では実質的効果は薄い。あくまで厳罰化というものは被害者や遺族の気分的/精神的報復処罰感情を満たすだけのものであって、無意識で無責任な者に対して意識そのものを喚起することにはほとんどならない。

 故に危険運転というものは減らないのである。

 実質的効果を持った対策を行うためには、気分/精神的抑圧に依らず自律的に社会的責任行動選択を行えるようにしなければならない。

 懲役刑が再犯抑止効果をほとんど持たないのと同様、厳罰化というものでは危険行為を減らす実質的効果はない。

 本当に危険行為を撲滅するためには、個人に自律的な社会的責任判断能力を持たせることであって、これこそが本質的な意識喚起につながるのである。

 自律的に社会的責任判断を行う者と、そうでない者との違いというものを科学的に解析し、精神論的抑圧に依らない自律能力の獲得方法を確立しないことには、あらゆるヒトが引き起こす無責任な危険行為の抑制にはならないのである。

 その意味において、処罰報復感情に流され、厳罰化しか求めない被害者や遺族もまた、社会全体から見て無責任な判断であるとも言えるのである。

 実質的効果を持たない気分的満足に流されていることは、結局危険行為をやめようとしない者の精神と何ら違いはないのである。

 ヒトの多くは気分的満足安心によって目先の個人的感情を満足させることにしか意識は働かないが、こうした目先の感情を満たすことを多数で共有したところで、合理性のある実質的効果を持った社会安全性にはつながらないばかりか、むしろ実質的効果を持った対策を阻害してしまうのである。

 そりゃ司法は自分達の体制維持のために厳罰化の無効性を認めたりはしないだろう。厳罰化というものは司法の権力拡大になるので、実質的効果が無くても「知ったことではない。」のである。

 「厳罰化=社会安全性」という観念による実質的効果の希薄な手段だけしか行われない司法という体制を、根本的に変えないことには実質的効果を持った対策は一切行われることはないのである。

 三権分立というもの自体には合理的根拠などなく、単なる経験則的な「安全の傾向性」しか存在しないのである。

 権力というのは既に存在する自分達の権益を保守するという利己的目的しか意識は働かず、実質的な社会安全性などどうでも良いと思っているのである。

 警察や検察であれば、適度に犯罪があった方が自分達の手柄評価が増えるので、実質的効果を持った社会安全性などどうでも良いのである。冤罪などというのは、その典型であり、法手続き上手柄評価になりさえすれば、真犯人が捕まらなくてもどうでも良いから冤罪というものが発生するのである。


 本当に社会安全性を高めようと「考え」るのであれば、従来の機械手続き的制度に堅持固執することではなく、合理性を持った科学的検証に基づく手段を再構築/脱構築することが必要である。

 どんなに強く「思った」としても、それは「考え」ではなく。むしろ観念的「思い込み」による気分的満足によって合理的で実質的な「考え」を停止させてしまっているのである。

 無意識な観念に則った大衆迎合の方が世間的にはウケが良いことはわかっている。しかし、こうした大衆迎合による集団依存のマインドセットこそがあらゆる人為的危険性放置の最も根源的原因なのである。

 自分達のマインドセットを無視しておいて、東電幹部のマインドセットを批判するのは支離滅裂というものである。

 司法は再犯率の全く下がらない懲罰科料の決定しか法手続き的には目的としていない。この根源的構造の間違いを認識しないことには、何ら社会安全性の向上にはならない。

 危険学などの工学は、実際に取り返しのつかない失敗を経験しても制度法律だけの問題にしか関心はないようである。本来であるなら法哲学などの領域であるが、哲学はドストエフスキーだのニーチェで気分的満足をするばかりで、何ら社会安全性になど意識は働らかない。

 他人の頭の悪さの原因を知るためには、先ず自分自身の頭の悪さというものが一体何なのかを認識することである。

 ヒトの多くは他人を制御することにしか意識が働かず、自分自身の何が感情という無意識で、何が思考という意識であるのかすら認識していない。むしろ、強い感情こそが意識だと錯覚しているのである。

 こうした根源的錯覚を、錯覚であると認識しないことには何も世の中の問題は解決することはない。どんなにテクノロジーが発達しようとも、それを使う意識や意思がなければ暴走破綻しかもたらさないからである。


Ende;

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