従来生物学においては 遺伝的進化の説明において「○○の為にの進化を選んだ」といった説明をしてきた
この説明の仕方はチャールズ:ダーウィンが自著の進化論においてもしているらしい(原文は読んだことがない)のだが 自然選択説においては都合良く進化を「選ぶ」ことなどできないのであり 理論的に整合性が欠けている話である
「生きるため」に進化を「選んだ」のではなく
「死ななかった」個体を「生物」と分類しているに過ぎず 消極的に自然に「選ばれる」ことはあっても 能動的積極的に「選ぶ」ことはできない
主観的に「死にたくない」と「思った」ところで それは後天的な「望み」「欲望」であって どんなに強く「死にたくない」と主観的に「思った」ところで それは遺伝的要素には影響を及ぼすことはない
そもそも本能的に「死にたくない」と主観的に「思う」ことそのものすら選択不可能なのである
「死にたくない」と先天的に望む個体と 「特に死にたくないとは思わない」個体のどちらが生存に適しているかと言えば 自ずと「死にたくない」と思って生存に執着している個体の方が生存には適しているのであり 動物は基本的に死にたくないと本能習性として「思う」個体への収斂進化が起こっているのである
大脳辺縁系が作り出す行動バイアスというものは あくまで「死なずに生き残る」のに適した本能的(無意識)行動が促された個体への収斂進化の結果であって 本能習性そのものは本人には選ぶことができないものである
本能習性というものは祖先の生息環境や状況への適応に過ぎず 弱肉強食の過酷な殺し合い環境の中では凶暴性が強くなるものなのである
一般的に 環境資源の豊富な土地では 草食獣の個体数が多くなるため 肉食獣にとっても個体数を増やす上において有利に働くことになり より生存競争は激化し 草食獣は逃げ足が速くなったり 肉食獣も捕獲能力が高くなり 共に大型化も見られる
これは 草食獣の同じ種の動物の中においても「逃げ足」競争が起きているため 先天的に逃げ足の遅い個体から全部喰い殺されたことによって 結果的に先天的に逃げ足の速い個体への収斂が起こることで 先天的に逃げ足の速い個体への進化が促されるからである
しかし 環境資源の乏しい土地においては そもそも草食獣も数が増えず 肉食獣にとっても環境資源が乏しいため 共に個体数が限られ 生存競争も激化しずらいために 大型化や逃げ足が速くなるような進化もあまり見られず 凶暴化もあまり進まない
環境資源の乏しい土地では サルも集団の個体数が少ないために 集団内部での競争もあまり起きないために凶暴性も低いという
凶暴性の高い個体というのは 生存競争の激しい環境では適応しやすいが 環境資源の乏しい環境には適応しずらいのであり 凶暴性の高さというものは あくまで環境によって「選ばれる」ものであって 個体が主体的に「選ぶ」ことなどできない
ウサギやネズミは繁殖能力が高く オスはメスを見つけると見境いなく交尾をしようとする
過酷な自然環境下においては メスを選んでいる余裕などないため メスと出会えったらとにかく交尾をしないと「繁殖の継続」にはつながらず 環境に適応することにならない
オスの行動バイアスとしては 単に繁殖行動への強いバイアスが働いているだけであって 別に「繁殖の継続」を目的とした目的行動選択をしているわけではなく
より強い繁殖行動バイアスを持った個体の遺伝子の方が「拡がりやすかった」という結果的なものに過ぎない
後天的にどんなに「天敵に喰われたくない」と願おうが祈ろうが呪おうが ほとんどが喰われてしまう環境下においては 食い尽くされない程に増殖能力の高さが必要であり 生態系のピラミッドの底辺に属するネズミの意図目的のようなものは遺伝的要素には反映されることはないのである
「天敵に喰われたくない」「死にたくない」といった本能的情動というものは 個体が選択できるようなものではなく どんなに永遠の命を望み続けても永遠に生き続けるような進化が促されることはないのである
情動は それ単体では意志ではなく 目的も合理性も存在しない
ヒトにおいて 時折幼女強姦殺人のような犯罪が起こるのも 先天的行動バイアスとして幼女を強姦したい衝動によって促される行動であって そこに目的や合理性のようなものは何もないのである
先天的本能習性によって促される動物行動的衝動というものは 自然界においては「繁殖の継続」において有利に働く結果をもたらすことはあっても それが結果的に生態系の恒常性において適したとしても それは合理性を伴った「目的」の論証には全くならない
結果をいくら重ねても 結果以上のなにももたらされることはないのである
ヒトの場合には 幼女強姦なんぞが横行する社会では持続可能性や公平性が保てないことを理解認識すること「も」可能であるために 欲望や衝動の程度強度に無意識に流されることなく 自律的に社会的責任判断選択をすること「も」可能となる
無意識に流されないために必要なのは意識である
社会安全性や持続可能性 公平平等が担保されない社会というものを 自ら望まない「意志(自由)」によって 人間性を伴った行動選択「も」可能となるのである
しかし ヒトの意識の大半は 他の動物と同様に情動という無意識に支配されており 特に冷静さを失うような強い情動を伴う状況下においては簡単に理性を失い 「本当の目的」を忘れ 目先の恐怖を処理することにしか意識が働かなくなり バカになるのである
それこそ軍隊のような封建的序列による統率的協調行動を促す盲目的服従性を強要されていれば 目先の恐怖心を「処理」することばかりにしか意識が働かなくなり 戦争のようなバカげたことでも平気で行えるようになるのである
ヒトという種の生物が持つ先天的な認知上の欠陥というものを理解せずに 21歳かそこらの一兵卒に懲罰を加えても 戦争という残虐行為の根源的な原因究明にはならず 必然的に再発防止にも全くならない
ヒトは その先天的な「社会性」によって 多数や国家権力などの権威に対しては 恐怖心によって逆らわない傾向があるため 衆人環視環境下においては外見上の人間性を装うことはするものの これは個人が主体的に社会安全性や公平性を旨として選択しているわけではないので 誰も見ていない状況下においては神だか変質者だかに見張られていることにしなければならなくなるのである
エセ有神論者は「神がいないなら 何をしても許される」などと言い出すものだが 「神がいなければ社会安全性や公平性は求めなくても良い」ことには全くならない
社会の中において 自らの安全性や公平性を求める上においては 他人への安全性や公平性にも配慮することは当然の社会的責任であり 神の有無は関係がない
「神」のような「他者」から見張られている恐怖心というのは他律的なものであり これを利用すればヒトの盲目性を引き出し 独裁的に特定権力者の個人的欲望に則った集団統率的行動を促すことも簡単である
原発事故であれ 日本大学や大企業の組織腐敗であれ プーチン政権やナチス政権であれ あらゆる「人災」というものはヒトの先天的な頭の悪さ ヒトの無意識性によって作り出されるものであり 「自分だけは絶対に大丈夫」という正常性バイアスが作り出す錯覚によってヒトは簡単にバカになるものなのである
虐待が連鎖するのと同様に ヒトは自分の中の「常識」に論理客観的根拠や目的があろうがなかろうが情動的に安心でさえあれば盲目的に信じ込み 事後正当化の屁理屈ばかりを陳列しようとする
これこそが無意識が作り出した「エピソード記憶(嘘)」というものである
血縁続柄を超越し 他人すらも超越した実証不能の謎の無意識的行動バイアスによって 自分が意識しなくても自動的自然に人間性が発揮され 必ず正しい結果に無意識に導かれるかのような錯覚を抱いていた方が気分的には「楽」なのであろう
それは 元々親に対する信頼が超自然的な何者かに転移した幻であり そうした幻による主観的安心満足こそが 自律的な社会的責任判断選択をヒトがしなくなる原因でもある
遺伝的進化の過程において 祖先の生息環境下ではそれが「繁殖の継続」に適したために ヒトという種の生物に先天的本能習性として遺されたという結果であって そこに超自然的な目的なんぞあるわけがないのである
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」を多くの衆愚や「哲学者」共が鵜呑みにして満足したのも 自分には先天的に超自然的人間性のようなものが組み込まれているかのような超常的力学への幻想に因るものである
ヒトが自らの頭の悪さを自覚することができなければ 必然的にバカげた行動しか採ることができずに 本当は誰も望まない結果に陥る可能性は高まることになる
自分の頭の悪さを自覚することが 主観的に気分が悪いのは 誰のせいでもなく 本人の主観(個人的好き嫌い・本能)に過ぎない
「欲望(本能)そのものを欲することはできない」のであって 目的意識に基づいて自らの頭で「本当の目的」に基づいた行動選択をしなければ 必然的に誰も望まない結果に陥るのは当たり前の話である
Ende;