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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

選択の真理

2020年11月17日 11時51分39秒 | 意識論関連

身勝手な実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけたがる奴というのが時折いる

集団組織的に誰かを「悪者」や「敵」とみなして統率協調的に同じ観念を共有して攻撃することで 先天的な社会形成習性を満足させられることができるため 半ばシーケンシャル(自動的自然・条件反射的)にイジメや差別というものは発生する

 

イジメや差別を行うための屁理屈として 根拠の乏しいこじつけ「ストーリー」を様々にでっちあげ これを誰も客観的に検証することなく主観的満足や安心を満たす形で集団統率的に協調して「実証不能の観念の振り回し」を引き起こすのである

それは宗教や民族とは無関係に 個人が主観的に嫌いな相手を攻撃するためにでっち上げたものに過ぎず 差別やイジメというのは集団組織的に誰かを攻撃することで主観的に満足するための中毒症状であり 本能の暴走に過ぎない

「仲間同士で誰かを攻撃していると楽しい」のである

そういう人間としての欠陥が ヒトには先天的に存在している

 

「嗜虐」というものは 獲物を捕る際に発揮される情動であり 獲物を押さえ付けて殺害して喰うという行動を促す動物的本能の一つであるが これは必ずしも狩猟捕食以外では発揮されないわけではなく 性欲を満たす場合にも発揮されるものでもある

女性の身体に勃起したペニスを挿入して喘ぎ声に興奮する場合にも 嗜虐性は発揮されるものである

かつてヒトがヒトにまで進化する遙か昔 祖先が森の中で巨大恐竜達に怯えながら生きていたい時代には 異性を見つけたらとにかく強制的に交尾しないことには繁殖にはならなかったため 繁殖行動が暴力的になるという「生存や種の保存にとっての必然性」はあったと言えるが そもそも生存自体が結果に過ぎない以上 繁殖にも目的などなく あくまで繁殖した個体種が「死なずに生き残った」ものを「生物」と分類しているに過ぎない

 

集団レイプをしても「自分の遺伝子を遺す」ことにはならない

輪姦してしまったら誰の子供かわからなくなってしまうし そもそも集団レイプというのは子供を作ることが目的ですらない

単に妙齢の女性を強姦して楽しむことだけが目的であり この場合における「目的」とは 目先の本能欲望を満たすことだけであり 合理性は一切伴わない

本能欲望に合理性があろうがなかろうが 進化の過程において特定環境下における「生存や種の保存にとっての必然性」はあるとしても それは生存という結果にとっての必然性だけであって それ以上には意味がなく そもそも本能欲望自体は自発的に選択することのできない「結果」でしかなく 選択不可能なものに目的も合理性もヘッタクレもないのである

 

先天的本能習性によって促される行動バイアス(欲望)には 合理性が伴う必要性がなく あくまで欲望によって促された行動が結果的に特定環境下において生存や種の保存に適した「結果」以上には意味がない

先天的な本能習性というものは 急激な環境変化には対応できるものではなく 環境変化にその都度適応するにはかなりのコストが必要であり 失敗(絶滅)する可能性も充分にあり 遺伝的な進化というものは不確実で偶発的な「結果」以上に意味はない

従って 本能習性のままに行動した結果 絶滅しても 誰も責任を取ってはくれないのである

 

ヒトが現代社会において塩分や糖を過剰摂取したがるのも 祖先が塩分や糖の乏しい生息環境下において積極的に塩分や糖を摂取する習性を持った個体種への淘汰圧力が働いた結果であって それが現代社会への適応を妨げ 生活習慣病の根源的要因となっているのである

ヒトは 農耕などの文明社会を作り出したことによって 生活に余裕を持てるようになり 交易を発達させたことによって 持て余した「暇」を同種同士の無駄な暴力によって先天的本能欲望を満たそうとして差別や紛争暴力を引き起こしているのである

差別や紛争暴力には 何の合理性もない

それは強姦と同様に何か目的意識によって主体的に選択した行動ではなく あくまで先天的に組み込まれた動物的な行動習性である本能欲望に基づいた行動であり 合理的な目的など介在する余地はない

凶悪殺人犯に対して「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と 感情的に怒鳴り散らすことによって大衆の人気を得ることは簡単であるが テロリストや通り魔を死刑にしてもテロや通り魔事件の原因究明にも再発防止にもならず 死刑などの刑罰自体が社会安全性にとって無駄なものであり 社会的に無責任な制度に過ぎないことを無視した犯罪者差別にしかなっていないのである

そりゃ 私とて殺したいバカはいるものだが それは私個人の主観的感情論であって 殺したところで社会安全性が高まる合理的根拠は何もない

社会安全性や持続可能性を優先しない倫理や人間性は成立しない

どんなに多数の個人的主観を多数決で集計しても そもそもヒトの先天的本能である限りそこに合理的な目的など存在せず バカや通り魔を何人死刑にしても通り魔が発生する原因究明や再発防止になるわけではない

「司法判決で解決だ」という錯覚は 言うなれば生活習慣病のようなものに過ぎず 「塩中毒」同様に「刑罰中毒」に陥っているのであり これはヒトの先天的本能習性によって促される無意識な行動バイアスの結果であって 合理的な目的が存在するわけではない

刑罰などの暴力的な威圧によって 何かが解決すると「思って」いるのが錯覚なのであり 本当は暴力威圧というのは「それを実行しておけば主観的に満足で安心できる行動」に過ぎない

司法の本来の社会的役割とは 安全性を高めることであって 法手続きに則って多数大衆のご機嫌取りを優先しておけば安全性は無視しても良い理由にはならない

罰というものが多数大衆の合意の元に正当化されていても それが社会安全性にとって非合理なものであることが反証できるわけではない

何度も言うが 社会安全性を優先しない倫理や人間性は成立しないのである

罰というのは いうなれば犯罪者差別に過ぎず 法に触れた場合にのみ手続き的に罰を与えているだけであって 合理的な安全性の確立には全くならない

刑法罰という 社会的に無責任な制度を鵜呑みにしていることに合理性は何もないのであり 社会的に無責任な制度に何の疑問も持たないことが法手続き上違法ではないとしても 道義的には「罪」なのである

 

人類は歴史上様々な罪を犯してきた それに対してどう「償えば良いのか」という発想自体が間違いなのである

危険学や失敗学では 賠償よりも再発防止が優先される

「失敗」そのものが起きないようにすることの方が社会にとっては重要なのであって 事が起きてから償ったり贖(あがな)ったりしていても 被害は減らないからである

松永莉子パパが「再発防止を優先して欲しい」と主張するのは 罰がどうであれ 既に起きてしまった事象は回復のしようがない以上 もはや「二度と自分のような地獄を誰にも遭わせたくない」という「考え」に基づいたものである

感情的には 「どうして重大事故になるまで誰も止めずに放置した」と 無責任な行動を取ったあらゆる特定人物の全てを糾弾したいであろうが ヒトである以上同じ過ちを犯す可能性は誰にでもある以上 事故を教訓として家族の死を無駄にしないための選択をしているのである

松永莉子パパは もはや自らの地獄を解消することは叶わないからこそ 自らの感情を後回しにして 他人である社会全体の安全性を優先する選択をしているのである

何か重大事象が起きる度に「死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして軽薄に大衆人気を集めることは簡単であろうが あまりに考えが浅すぎて無責任極まりない大衆迎合であって 社会安全性を蔑ろにした戯言である

松永莉子パパの真意を汲み取らず 漫然と多数派に同調し 国家権力に迎合している無責任さを 多くのヒトは全く自覚していない

そうした愚かさこそが「人類の罪」であり 「罪」は償うことよりも先に原因を究明し再発防止を優先する理性の方が重要なのである

罰などの報復感情には合理性はない 報復感情は社会安全性に一切寄与しないからである

感情などの先天的本能習性の全てには合理性はないのである

先天的本能習性によって促される様々な感情の中から 最も自己存在にとって優先されるべきものは何なのか それを論理客観的根拠に基づいた「本当の選択」をすることによってのみ 人間性や倫理として機能するのである

「本当の選択」を見極めるためには 論理客観的根拠に基づいた真理(本当のこと)の追求が必要であり 目先の感情や行動バイアスにふらふら無意識に流されていて人間性も倫理もスッタクレもないのである

 

 

Ende;


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