○「麻原彰晃が何をしたかったのかを知りたい。」
麻原は何か統一的な目的があって教団を指導していたのではなく、その場限りに自分の地位を維持するための命令を下していただけであって、具体的に「何をしたかった。」わけではない。
麻原はナチスの絶滅収容所吏官アドルフ:アイヒマン同様に外見的には権力欲が強く、他人に対する順位欲として他人に対して異常なまでに上下関係を求めていた。これは本能的な社会性/社会形成習性による行動である。
麻原は他人からの見た目、外見上の権威性に憧れていただけであって、集団内部においての権威性を維持することばかりに固執した結果として暴力的命令を下したに過ぎない。
麻原は基本的に全て「ポア。」なる短絡的な最終解答しか導き出しておらず、麻原の目的とは弟子からの盲目的信頼によって服従させることだけであって、それ以上の統合的で合理性のある目的意識などなかったのである。
世界征服程度の目的ならば、そこら辺にいる暴走族のバカガキでも求めるものであろう。問題なのはこうした荒唐無稽な要求/命令に対しての従順さを発揮する服従の本能習性である。文系大衆観念的には「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという実証不能の観念を盲信して安心したがるが、こうした合理性のない観念に何ら疑問を持たない論理検証性の欠落がヒトを破滅に導くのである。
権威に服従して統率されていれば多くのヒトは安心して破滅の道を暴走することが可能であるが、破滅の道であることを論理的に認識して自律的に抑制することは非常に困難である。
ヒトという生物に本能的欠陥があるとしても、特定の誰か救世主に対する服従によってどうにかなるようなものではなく。本能的欠陥を本能ではない論理検証性によって補うことが可能であり、その可能性が困難であるからといって破棄するという短絡的で安易な結論を導き出すのは、論理検証性に欠ける気分的な「諦め。」に過ぎず合理性の放棄である。
ヒトの多くは論理検証を簡単に放棄し、観念的な諦めによって意識を狭窄化させておくことの方が気分的に安心であり満足することができるのである。
麻原に聞きさえすれば全てが明らかになることの論理的根拠などなく、これは信者達の勝手な思い込みに由来する観念である。こうした観念を盲目的に信じ込んでいること自体が洗脳の原因でもある。麻原に目的があって意味のある命令を下しているものであると思っていたからこそ何の疑問も持たなくなったのである。
マイケル:サンデルの講義も麻原の講義との類似点があり、特定の条件の範囲内においての思考を促されることによって、あたかも自分勝手で何かを考えたような錯覚に陥れる手法自体が洗脳であり。こうした洗脳手法を用いて学力競争を行っているからこそ、多くの高学歴者達は簡単に麻原に引っ掛かっるようになってしまうのである。
「やる気スイッチ。」的な環境依存的自発性というものは、環境に依存している時点で本質的な自発性ではない。
本質的な自発性というものは環境依存的に短絡的に見つけられるようなものではなく、様々なことに「ある程度。」挑戦してみなければ発見できないものである。「ある程度。」というのは個人差もあり環境にも依り「程度。」問題にしかならないが、これはヒトという種の生物の個体差によるものであって、これもまた「これさえやっときゃ。」的に短絡的に見つかるようなものではないのである。
ヒトの多くは自分の気分が良くなることは短絡的に自分の頭が良くなったと簡単に錯覚する性質があり、構造的/環境依存的に快楽を与えられることによって簡単に洗脳することが可能である。「生徒に答を導き出させる。」と称して予め用意された解答に辿り着かせることによって自分で考えたような錯覚に陥れていること自体が、本質的な自発論理検証性を失わせる原因になっているが。こうした洗脳的学習による学力向上だけが目的となっていれば、個人の本質的自発性の探求などという面倒臭いことは排除されることになりがちである。こうした目先の学力追求によって教育者が自分の評価を求めることというのは、社会の持続可能性や安全性を無視した無責任な行動であることを認識すべきである。
何の話だっけ。
麻原が欲していたのは目先の多数からの支持信頼崇拝による優越感だけであって、それ以上の具体的目的意識があった訳ではない。
本能的社会性/社会形成習性によって作り出される統率への安心感の追求だけが目的であって、その先に論理的根拠を持った本質的目的など最初から存在していないのである。
一度作り上げた集団体制を維持することだけが目的となれば、そこには合理的自浄作用は全く働くことはなく、ただ気分本能のおもむくままに文系大衆観念的な最終解決や、或は権威者への盲目的服従による気分的満足以外は選択されることはない。
ヒトという種の生物というものは、目先の短絡的最終解決や権威者への行動責任の丸投げによって、自律的責任判断を放棄しがちな性質が普遍的にあるからだ。
「水戸黄門。」だの「暴れん坊将軍。」といった権威による暴力によって全てが解決されるような短絡的な話がヒトは大好きなのである。暴力的最終解決という暴走性というものは、ヒトという種に本能的に組み込まれた構造原理的帰結であって、こうした短絡的最終解決手法を多くのヒト達は「カッコイイ。」という感情を持つことで満足することが可能なのである。
短絡的ではなく、合理性を持った対策というものには多数のヒトは気分的に満足することができず。そのため死刑制度という短絡的最終解決策が未だに温存されることになっているのである。
ヒトという種の生物が、なぜ特定集団内部だけの身勝手な観念だけで行動が決定してしまうのか。それは集団内部における統率、服従迎合によって作り出される本能気分的安心満足が自動的/条件反射的に作り出されるものであって。それは本能的目的である快楽の追求だけであって、論理的根拠に基づいた具体的目的など存在しないのである。
麻原に何を聞いてもオウムの目的など出てくることはない。それは振り込め詐欺集団の目的や、シエラレオネの少年ゲリラの目的と同様、合理性を持った具体的目的意識など最初から存在しないからである。
シエラレオネの少年ゲリラのリーダーに「残虐行為の目的は何か。」と尋ねても具体的目的など出てくることはなく。こうした目的のない暴走というものは、どんなに高度な統率組織的結果であっても同じことであり、ナチスの総統が結局は自決してしまったのも、そこに合理性を持った目的など存在せず、ただ漫然と目先の体制維持だけに邁進した結果でしかないからである。
子供のイジメにおいても、そこに目的があるわけではなく、あくまでその場限りの空気に多数が無意識に流された結果としてイジメが発生しているだけであり。統率的組織的にイジメを行っているとしてもイジメを行う集団のリーダーには何ら目的など存在せず、どんなにイジメの理由を尋ねても合理的な解答を得ることは不可能である。
犯罪者の多くも、自分がなぜ犯罪を行ったのかの説明などすることはできず。むしろ何の目的もなく本能感情のままに無意識に流された結果として犯罪に至っただけ故に説明不能なのである。「悪魔が乗り移った。」だの「魔がさした。」といった、何ら合理性のない「説明。」しか出てこないのは、こうした当人の目的意識自体が介在しない行動結果でしかないからである。
原発行政の暴走と同様、そこには合理性を持った目的など存在することはなく、ただ漫然と服従迎合する高学歴な多数凡人達による、目的意識のない無意識による本能的「結果。」でしかないのである。
本能的目的である快楽/安心満足だけを追求しておけば、そこには論理的根拠を持った具体的目的など出てくる訳もなく、無意識的な「結果。」以上の何も出ては来ない。従来の生物学における目的と結果の区別が出来ていない実証不能の観念に基づく屁理屈や断片的言い逃れを放置しておいて、ヒトの暴走性というものへの原因究明や対策が立てられる訳はなく、未だに生物学では優生学への論理的反論をすることが出来ていないというのは、生物学者達の手抜き怠慢という他形容のしようがない。
特定個人への崇拝、盲目的信頼によって作り出される服従と、それによって結果的に作り出される集団統率というものはヒトに進化する以前から組み込まれた、多くの動物に見られる本能習性であり。これは人間としての合理的目的意識とは無関係に機械条件反射的な無意識行動である。
昆虫であっても可能な集団統率/役割分担という「社会性。」には、合理的目的を持った行動選択が伴わないのは当たり前のことである。そこにあるのは単なる生物学上の正義である「生存。」価だけであり、どんなに凶悪残虐暴力的であろうとも結果的に生存してさえいれば全ては必然的目的であるかのごとく論じられることに陥っているのである。
こうした生物学における実証不能の観念というものは、マスコミを筆頭とする文系大衆観念/本能的満足との親和性が高く、論理的根拠を伴った合理的説明というものへの本能的拒絶反応によって差別排除され、一切認識されることがないのである。
ヒトという種の生物は人間としては完全ではない、だからこそ人間は完全であろうとするのであるが。これを自己自身の自律的判断によって達成するのではなく、特定他者という統率者への服従によって気分的に安心満足させることにすりかえてしまうことこそがヒトという種における頭の悪さや合理性の欠落を招き、結果的に人間としての社会性も失うことになるのである。
動物的社会性/本能的社会形成習性というものは、生物生存以外の何の結果以外何も論証することはなく、その過程において如何なる暴力的暴走があろうとも、結果的に生存してさえいれば構わないという極めてその場限りの短絡的結果論しか論証していないことを認識すべきである。
その場限りの短絡的結果論だけを追求していれば、統合的で合理性のある「目的。」行動選択が導き出されないのは極めて当然のことである。
生物/脳科学/哲学における、こうした怠慢というものこそが、合理的な原因究明や対策への阻害となっているのである。
ある経済学者は、「目先の効用さえ個人が追求しておけば社会全体が良くなると良いな。」などという子供じみた短絡的妄想を述べていたが、その理由として「社会全体など一部の天才にしかわからない。」などと、自分自身の意識の低さによる無責任さを先天的能力限界であるかのようにすりかえているだけであり、無責任な言い逃れに過ぎない。
誰も社会全体のことなど把握はしていない、しかし自分自身で把握可能な範囲内においてまで判断することを制限し、自律判断を放棄して良い論拠にはならない。
こうした無責任な自律判断放棄を多くのヒトがしているから多くの社会問題が放置され、社会安全性や持続可能が向上しないのである。
教祖やリーダーというのは本能的欲望によって結果的に得られる地位に過ぎず、必ずしも合理性のある目的行動選択であるわけではない。
「指導力。」だの「統率力。」というのは必ずしも人間性を伴うものではなく、「善人に世界は変えられない。」などという観念の根拠ともなっている。文系大衆観念上における「決断力。」というものも、その場限りに無責任な決断を下すことに対して大衆の多くが盲目的信頼をすることによる気分的安心を得ているだけの観念に過ぎず、何ら合理的判断力を形容しているわけではない。
文系観念上における「説得力。」も、気分的に納得したいかどうかという気分の問題でしかなく。論理的検証に基づく合理性のある「理解力。」とは無関係なのである。
文系大衆観念上においては世界を変えさえすれば偉人と規定するため、歴史上における大量虐殺を英雄視する観念の根拠ともなっている。これを単に時代だの社会環境に基づいた判断であるとするならば、こうした観念自体が時代や社会環境に依存した「結果。」を並べているだけであって、普遍性のある人間としての目的意識とは無関係なその場限りの取り繕い/言い逃れに過ぎない。
こうしたその場限り取り繕い/言い逃れを放置しているから、普遍的な人間としての目的行動がいつまでも選択されずに社会の諸問題が一向に解決しないのである。
年功序列的な封建的体育会系組織への従順性を子供の頃から刷り込み学習させておけば、自分より目上の者に対する論理検証性や批判精神を喪失し。結果的に社会的自律判断能力を失い人間性も喪失することに陥るのである。
当人自身は権威への忠誠忠実さだけを発揮しておくことによって、あたかも社会的存在であるかのような錯覚に勝手に陥ることが可能であろう。「SQ。」などという基準も要するに当人の気分的世間従順性を測っているに過ぎず、何ら自律的な社会的責任判断能力とは無関係な基準に文系大衆観念的に飛びついただけに過ぎない。それがどんなに多くの大衆凡民の大脳辺縁系を満足させたとしても、そこには合理的根拠など全く存在せず、単なる出版業界の金儲けに撹乱されているだけなのである。
恐怖や権威性を用いた封建的服従性を子供に刷り込み学習させておけば、バカな大衆大人達にとっては扱いやすくて気分的に安心満足を得ることが可能であろう。こうした本能由来の文系大衆観念に無意識に流されているから合理的な論理検証性が多くのヒトから失われ、権力欲に溺れた「指導力。」や「統率力。」のある「決断力。」や「説得力。」によって多くの大衆凡民「衆生。」は暴走への抗力を喪失するのである。
こうした状態を指して「危機意識が低い。」と言うのである。
オウム幹部の上祐は、自律的に内部告発しなかった理由として「盲信と弱さ。」だと証言する。しかしこんなものは気分の問題、恐いとか安心かといった感情の問題に過ぎず。何ら論理的不可能証明にはならず、単なる言い訳/言い逃れでしかない。自分が精神的に弱ければ何をしても許される論証には全くならない。
しかしヒトという種の生物は論理検証による合理的判断よりも、本能感情による恐怖や安心といった気分的バイアスによって行動を決定しがちである。振り込め詐欺だの占い師に騙されることも、気分的行動バイアスによるものであり。更には東北大震災において津波被害を大きくしたのも多数派同調バイアスや正常性バイアスといった気分的行動バイアスによるものである。
ヒトの多くが反社会的行動に暴走しないのは、その行動バイアス的に破壊行為が恐いから暴走しないだけであって。ほとんどのヒトは自律的に行動判断しているわけではない。故に暴動などが一旦発生すると多数に便乗する形で暴動に加わるのである。それを社会のせいだの時代のせいにしているのであれば、これはオウムの思想と全く違いなど存在せず、オウムというのは文系大衆観念による気分的行動バイアスが作り出した一面的現象に過ぎない。
ナチスやポルポトによる大量虐殺も、シエラレオネの少年ゲリラの残虐行為も、暴力団や暴走族の無意味な行動も、全ては本能が促す気分的行動バイアスが作り出した行動「結果。」であり、こうした気分的行動バイアスを漫然と文系大衆観念によって事後正当化しているからこそ、論理原因究明も対策も出来ないのである。
無意識本能的行動「結果。」と意識的合理性を持った行動「目的。」の正確な区別も出来ずに、結果的に優生学などというバカげた観念をいつまでも学問として放置している生物学の怠慢は、学問の在り方として許されるものではない。
「オウムの暴走を止めることが出来なかったのか。」と言うのであれば、「通り魔の暴走を止めることが出来なかったのか。」と論じているのと同じことであり。個々の事象においての結果論に過ぎない。
本当に根本的解決策を求めるのであれば、本質的な合理的論理検証というものを文系大衆観念によって放棄しないことである。そのためには全ての学問から大衆文系観念を排除し、合理性のある論理検証によって何が正しく、何が間違っているのかを明確に判断することである。実証不能の観念と合理的根拠の区別も出来ずに解決策もすったくれもあったものではないからだ。
被害者達は個々の事象における検証ばかりを求めるであろうが、統合的に「ヒト。」というものの性質を把握しなければあらゆる暴力性や暴走性というものに対する根源的原因というものは解明することは出来ないのである。
オウム事件などの重大事件などばかりに意識を奪われ、子供のイジメのような小さな事象の原因と無関係であると錯覚してしまうのは間違いである。ハインリッヒの法則にあるように、一つの重大事象の陰には29の小さな事象が隠れているものであり、重大事象にばかり意識を奪われてしまっていればヒトという種の生物全般に見られる普遍的性質を見逃すことになるのである。
ヒトという種の生物は本能的社会形成習性による観念的差別排除感情によって暴力的暴走に陥る性質が普遍的に存在することを認識する必要性がある。それが文系大衆観念的に多数に受け入れ難いかどうかで「判断。」すべきではない、気分で判断を下すから論理検証性を失うことになるからである。オウムの幹部や教祖であろうとも、かつては普通の子供であったこと、単なる「ヒト。」の一人であり。あくまでヒトという種の生物における無意識的暴走性の一面的結果に過ぎない。
集団が暴走破滅という結末に至るのは、その行動選択に長期的持続可能性や安全性を追求するべき本質的意識が全く伴わないからである。
ヒトという種の生物に普遍的に見られる暴走性を認識出来なければ、社会における持続可能性も安全性も確立されることはなく、予め組み込まれた本能による暴走の結果以上の結末を回避することは出来ないのである。
人類は今まで本質的意識とは何で、無意識的なものが何かを認識区別することをしてこなかったため、こうした認識をしなくても気分的には安心していられるであろう。ヒトは長く続くことは永遠に続くと錯覚しがちであり、また、長く続いてきたことに対する気分的観念的安心感を得がちでもある。どんなに気分的に安心しても安全性の向上確立には全くならないことは、本来言うまでもないことのはずなのだが。
本「意識論。」は、「これさえやっときゃ、全ては解決。」的な短絡的な解答ではなく。あくまで個人の自律的社会的責任意識の重要性を唱えるだけのものでしかない。それは決して簡単なものではないかも知れないが、難しそうだからやらないで済むような話でもなく、これ以外に解決策も存在しないのである。解決策自体が論理的に求められるものでしかないからだ。
結果的に重大な破綻に至ったからと言って、暴走自体には目的など存在しない。東電による原発暴走であっても、特に東電が意識的に社会を破滅に向かわせようという目的意図はなく、あくまで無責任で無意識な暴走の結果として重大な破綻に至っただけであって。暴走というものは基本的に誰にも意思/目的がないからこそ暴走なのである。
教祖やリーダーといった特定の者が「全てを知っている。」というのは文系観念上での勝手な思い込みに過ぎず、論理的根拠はない。
このように論理的根拠のない文系大衆観念という「思い込み。」に囚われているから合理的論理検証が全く進まないのであって、こうした「思い込み。」という固定観念こそが論理検証性を不具にするのである。
大学や研究機関において論理検証が出来ないにも関わらず単に学力が高いバカを飼い馴らしているから社会のあらゆる問題が一向に解決しないのである。
マスコミも文系大衆観念に迎合して世間的なウケ狙いばかりに邁進しているからこそバカ研究者をそれと認識することができず、丸め込まれてしまっているため、何ら改善することがないのである。
話を丸めることは気分的には安心であろうが、社会的責任判断とは言うことができないことを認識すべきである。
Ende;
○実証不能の観念。
多数のヒトがアイヒマン実験や振り込め詐欺に引っ掛かっても、これは多数であるために気分的安心感だの多数決によって「普通。」或は医学的に「正常。」とされるが。多数の相手のご機嫌をとろうとしない場合にはアスペルガー症候群などと分類される。
マイノリティの場合は社会的実害がなくても特殊扱いされるのだが、マジョリティの場合は社会的問題を含んでいても特殊扱いはされず、「○○症候群。」などと分類されることはなく。多くのヒトがアイヒマン実験に引っ掛かっても盲目的服従性には何の名称も付けられることはないのである。
医学的な正常性というものは、人間としての社会性/自律的社会的責任判断能力とは無関係な生物学的正常性を論じているに過ぎないのである。
ヒトとしてはアイヒマン実験で他人に危害を加えても「正常。」である。振り込め詐欺に引っ掛かっても、振り込め詐欺師自体が統率的に役割分担をして組織的に詐欺を行っても、これを医学的には「正常。」と規定する。
暴力団だの暴走族ような組織的役割分担や封建的統率行動によって反社会的行動を行うことも、医学/生物学的には異常としては扱うことはない。
人間として、社会的に異常な行動をとっていても、医学/生物学的には異常としては扱わない。従って犯罪者というものは医学/生物学的には治療対象にはならず、何ら合理性も存在しない司法刑罰による処理手続きを行うだけで済まされることにもなり。再犯率への対処対応の喪失の原因ともなっているのである。
ヒトは多数派であることが気分的に安心であるために、これを観念的に「正常。」であると規定する習性傾向があり。これによって有害なヒトの習性傾向性であっても合理的原因究明も対策も行われることがほとんどなくなってしまうのである。
逆に「空気を読めない。」程度の実質的には社会的有害性などないアスペルガー症候群のような性質は少数であるために特殊な病気扱いによる差別排除をするのが多くのヒトにとっては気分的に安心なのである。
社会的に有害であっても多数派の習性傾向は放置され、社会的にはほとんど人畜無害な性質の場合は特殊扱いによる排除差別を行うのは。その分類自体に合理的根拠によるものではなく、文科系大衆観念に基づいたものであるからに他ならない。
社会に対する「迷惑。」を生ずる実証不能の観念というものは、合理的根拠や検証性を持たない気分的安心による文科系特有の大衆迎合的無思考性によって作り出されるのである。
Ende;