「(誉められる=気分が良い)=(学力偏差値が高い=賢い=知能が高い)=人間として優秀」といった短絡的価値観の連携が承認欲求中毒にはあるため。
「気分が良い=知能が高い=人間として優秀」といった、脳の報酬系にとって主観的に気分の良いことこそが人間としての優位性であると錯覚しているからです。
従って承認欲求中毒では、自分にとって気分の悪い話には一切耳を貸さなくなるため、自分の頭の悪さを認識することが全く出来なくなるのです。
そのため、どこぞの頭のイカレた病理医ちゃんのように科学的議論に個人の主観的好き嫌いを持ち込んで、自分の頭の悪さを認識しないよう拒絶反応しか示さなるからです。
自分の頭の悪さを認識せずに、どうして「賢く」なることができるんでしょう。
「気分が良い=人間として優秀」という方程式は、全能感覚をもたらし、感情気分が行動に直結するようになるため。犯罪者の多くに見られる傾向でもあります。
無差別殺人犯などは自分が絶対的に優秀な存在だと思っているからこそ残虐な行為も平気で行えるようになるのです。
そのため、気分が良くなるようにしてくれる相手を、とりたてて合理的根拠もないまま盲目的に信奉し、マイケル:サンデルなどを短絡的に「頭が良い=天才だ。」と思い込み。サンデルの講義さえ聴いておけば自分の頭が良くなったと勝手に思い込み、更にはSNS上で同じ観念を他者とも共有することで多数派同調バイアスによる満足感と相まって、頭の悪さが暴走状態に陥ることで、利己的で身勝手なことも平気で行えるようにもなるのです。
気分を良くしてくれる相手であれば、別にサンデルでも養老孟司でもオウム真理教の教祖でもISILの指導者でもナチス総統でもかまわなくて、行き当たり場当たり的に、自分がおかれた環境に依存して偶発的に盲信することにもなります。
こうした全能感覚というのは、同時に「俺の気分が悪くなることを言う奴は、バカだ。」といった、これまた短絡的な価値観も生み出します。
バカの話は聞きたくありませんよね。私もそうです。バカは大嫌いです。バカの話をマトモに聞いているとこっちまでバカが感染るんじゃないかという恐怖さえ覚えます。
そのため、普通はバカだと思う奴の話は最初から取り合わないのが普通の一般人の感覚ではないでしょうか。バカがバカげたことしたら、懲罰でも与えて「シメときゃ良いんだ。」となるでしょう。刑法懲罰というのはそれを社会制度にしたものです。
ところが、刑法懲罰制度というのは、バカがバカげたことを実際に犯さないと懲罰対象にはなりません。たとえ実際にバカげたことをやらかして懲罰を与えたからといって、バカが治る論理的根拠も保証もないので、強盗殺人で25年服役して出所後数週間で殺人を犯すなんていう事例がいくつも出てきます。
刑法懲罰というのは、単に大衆的な報復感情を満たすために存在しているだけなので。具体的かつ論理的に「なぜ、この犯罪者は自分の行動に何の疑問も持たなくなったのであろうか。」といった、精神分析的なアプローチは制度的に一切組み込まれていないのです。
凶悪な強盗殺人犯の主張に耳を傾け、どのような条件によって殺人犯が殺人を犯すのかを真面目に分析するアプローチは刑法制度にはないため。裁判官による科料の妥当性(それまでの判例と較べて)によって判決を下しているだけなのです。
よって、刑務所の出所者が出所後に何をやらかしても、誰も責任を取らないという、社会的には無責任極まりない制度でありながら、大衆の感覚的な懲罰感情を満たすだけの制度が漫然と温存放置されていることになっているのです。
実際に被害者が出なくても、バカには普遍的に共通した傾向性や症状があるはずです。それが「気分感情が行動や思考と直結している。」という点なのです。
行動や思考が気分感情と直結する大きな原因として、承認欲求中毒が挙げられるのです。
某どこぞのイカレた承認欲求中毒の病理医ちゃんなんていうのは、バカとしてはさしたるものではありません。精々「ヒヤリ、ハッと」程度の話に過ぎないでしょう。このくらいのバカであれば掃いて棄てる程世の中にはいますが、その全てが重大犯罪者になるわけではないですし。単に私が個人的に気分が悪い程度の話でしかありませんでしょうから。(奥さんの気分も悪かったようですが。)
しかし、一つの重大事象が発生する裏には、無数とも言える小さな事象が隠れている(ハインリッヒの法則)のであって、どんなに些細(に見えるよう)な出来事であっても詳細に分析する必要性があるのです。
先日の「オイコノミア」で放送していた内容で、経済学で言うところのインセンティブ設計というのを採り挙げていましたが。これはヒトの脳の報酬系の条件反射的行動動機付けを利用しているわけです。
経済学というのは大多数の人の行動傾向を利用する形の誘導を、特定の社会制度などに応用するためのものでもあるため。大多数の人達のこうした無意識性を変えようという考えが最初からありません。
ですから自分で自律的に物事の良し悪しを判断する能力が未発達な幼児の行動を制御するためならまだしも、身体は大人ででありながら気分と行動が直結しているのでは、到底人間としては大人とは言えません。
具体的に誰のことを述べているのかはもう言いませんが。(言いたいけど。)
幼児の場合は自分の行動を論理的に判断し行動や言動を選択できる程の知識の量もすくなければ、当然判断基準も足りないので自律的に社会的責任なんぞ負えるわけがありませんから。幼児が悪いことや危ないことをしていたら親大人が「こらこら、そんなことしてはいけません!。」的に叱って抑制するしかありません。
しかし、こうした他律的な行動抑圧によって心理的に刷り込まれた「超自我(ジグムント:フロイト)」だけでは、構造原理的に自律判断が養われないために。自分がおかれた環境に依存した行動抑制しか働かないばかりか、むしろ環境に従順に従うことで承認を得ようとするようにも陥るわけです。
その典型的な一例がナチス政権下のポーランド アウシュビッツ ビルケナウ ユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマン中佐でしょう。
彼は国際法廷においても、「自分は体制に忠実な一吏官に過ぎない。」とも述べています。
これはつまり、意味としては「自分が悪いのではなくて、自分を雇ったナチス政権が悪いだけだ。」と主張しているのと同義でしょう。
社会の多数派が求めているものであるならば、何でも正しいと思うのは間違いの素です。今自分がおかれている社会環境が完全無欠の絶対的なものであると「思う」のは、それが「生まれてずっとそうだった。」というたかだか数十年という時間が作り出した感覚に過ぎません。
そういえば以前、ヲタク叩き番組に煽られてカウンターに入ろうとした若者がいましたが。キチガイというのは個人的な好き嫌いを短絡的に物事の良し悪しに直結させて糾弾しておけばどうにかなると思っているような奴がヘイトスピーチをしているのであって。感情的に怒鳴り散らすことで、論理的な土台のグズグズな泥沼地雷原に引きずり込まれることもあるのでとても注意が必要です。こうした意識の引きずり込みというのは、必ずしも相手が意図的にやっているとは限らず、バカがバカ同士で共鳴しあっているうちに暴走している「結果」に過ぎないことも少なくありません。
むしろそっちの方が多いのかも知れませんし。
人はどうしても感情が優先してしまいがちです。これは特に承認欲求中毒に限ったことではなく、そもそもヒトという種の生物は哺乳類ですから、どうしたって親と子の関係性からは逃れられるものではなく。全ての人はかつて子供だったことを前提に、ほぼ例外なく承認欲求を潜在的に持ち合わせているものであると考えるべきなのです。
こういう話をしていると、短絡的に承認欲求という「甘え」が全面的に悪いかのような解釈をしてしまい、子供は幼児期から甘やかさずに厳しくスパルタ戸塚ヨットスクール万歳的な思い込みに陥るバカも少なくありません。
そんな短絡的でバカみたいな文系解釈の仕方こそが「甘え」に他ならないのです。論理的理解をすっ飛ばして「甘え」だけが悪いといった「これさえやっときゃ、全ては解決」みたいな短絡的思考こそがバカが陥る典型的パタンでもあるのです。
子供にとって、親というのは神も同然です。親が望まざるとしても子供にとって親は絶対的な存在でなくてはならないのであって。子供が自律的に行動責任判断を行えるようになるまでは決して威圧的な強制をするべきではないのです。
自律とは自発の中にあるのであって。先ずは子供の主体的な意思というものを大切にし、自由に物事を考えられるような精神的ゆとりを持たせてあげる必要性があるのです。
ここでアルバート:アインシュタインの言葉を引用しておこうと思います。
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私にとって、最悪だと思われるのは学校が主として恐怖、力、人工的な権威という方法を用いることです。そのような扱いは、生徒の健全な情緒、誠実さ、自信を破壊します。それが作り出すのは従順な臣民です。 (大月書店刊「アインシュタインは語る」より抜粋)
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「従順な臣民の一体なにがいけないんだ。」そう思っているのであれば、もはや相当頭がヤラレていると自覚した方が良いかもしれません。
従順であることというのは環境依存的に多数派や権威の命令に服従するだけの冷徹さを意味するのであって、それこそが役所の手続きのようにユダヤ人殺害計画書の作成に邁進するようなキチガイをも作り出すからです。
恐怖や威圧的な態度で子供を服従させた最も典型的な害が虐待の連鎖ではないでしょうか。
そこで問題になるのが、自発的に物事を考え、権威や多数派の意見に安易に同調しないようには育てられていない親大人達が、一体どうすれば子供に自律的判断力をつけさせられるのかがさっぱりわからないということでしょう。
承認欲求中毒患者の場合、評価承認とセットで教えられたことを無批判に鵜呑みにするばかりで、自律的には何が正しいのかを判断する能力がほとんど全く養われていません。 ですから教えられていないことは何も出来ないのです。
厄介ですね。
私も匙投げたくなりますわ。
夕ご飯の支度があるので今日はこれまで。
Ende;
「気分が良い=知能が高い=人間として優秀」といった、脳の報酬系にとって主観的に気分の良いことこそが人間としての優位性であると錯覚しているからです。
従って承認欲求中毒では、自分にとって気分の悪い話には一切耳を貸さなくなるため、自分の頭の悪さを認識することが全く出来なくなるのです。
そのため、どこぞの頭のイカレた病理医ちゃんのように科学的議論に個人の主観的好き嫌いを持ち込んで、自分の頭の悪さを認識しないよう拒絶反応しか示さなるからです。
自分の頭の悪さを認識せずに、どうして「賢く」なることができるんでしょう。
「気分が良い=人間として優秀」という方程式は、全能感覚をもたらし、感情気分が行動に直結するようになるため。犯罪者の多くに見られる傾向でもあります。
無差別殺人犯などは自分が絶対的に優秀な存在だと思っているからこそ残虐な行為も平気で行えるようになるのです。
そのため、気分が良くなるようにしてくれる相手を、とりたてて合理的根拠もないまま盲目的に信奉し、マイケル:サンデルなどを短絡的に「頭が良い=天才だ。」と思い込み。サンデルの講義さえ聴いておけば自分の頭が良くなったと勝手に思い込み、更にはSNS上で同じ観念を他者とも共有することで多数派同調バイアスによる満足感と相まって、頭の悪さが暴走状態に陥ることで、利己的で身勝手なことも平気で行えるようにもなるのです。
気分を良くしてくれる相手であれば、別にサンデルでも養老孟司でもオウム真理教の教祖でもISILの指導者でもナチス総統でもかまわなくて、行き当たり場当たり的に、自分がおかれた環境に依存して偶発的に盲信することにもなります。
こうした全能感覚というのは、同時に「俺の気分が悪くなることを言う奴は、バカだ。」といった、これまた短絡的な価値観も生み出します。
バカの話は聞きたくありませんよね。私もそうです。バカは大嫌いです。バカの話をマトモに聞いているとこっちまでバカが感染るんじゃないかという恐怖さえ覚えます。
そのため、普通はバカだと思う奴の話は最初から取り合わないのが普通の一般人の感覚ではないでしょうか。バカがバカげたことしたら、懲罰でも与えて「シメときゃ良いんだ。」となるでしょう。刑法懲罰というのはそれを社会制度にしたものです。
ところが、刑法懲罰制度というのは、バカがバカげたことを実際に犯さないと懲罰対象にはなりません。たとえ実際にバカげたことをやらかして懲罰を与えたからといって、バカが治る論理的根拠も保証もないので、強盗殺人で25年服役して出所後数週間で殺人を犯すなんていう事例がいくつも出てきます。
刑法懲罰というのは、単に大衆的な報復感情を満たすために存在しているだけなので。具体的かつ論理的に「なぜ、この犯罪者は自分の行動に何の疑問も持たなくなったのであろうか。」といった、精神分析的なアプローチは制度的に一切組み込まれていないのです。
凶悪な強盗殺人犯の主張に耳を傾け、どのような条件によって殺人犯が殺人を犯すのかを真面目に分析するアプローチは刑法制度にはないため。裁判官による科料の妥当性(それまでの判例と較べて)によって判決を下しているだけなのです。
よって、刑務所の出所者が出所後に何をやらかしても、誰も責任を取らないという、社会的には無責任極まりない制度でありながら、大衆の感覚的な懲罰感情を満たすだけの制度が漫然と温存放置されていることになっているのです。
実際に被害者が出なくても、バカには普遍的に共通した傾向性や症状があるはずです。それが「気分感情が行動や思考と直結している。」という点なのです。
行動や思考が気分感情と直結する大きな原因として、承認欲求中毒が挙げられるのです。
某どこぞのイカレた承認欲求中毒の病理医ちゃんなんていうのは、バカとしてはさしたるものではありません。精々「ヒヤリ、ハッと」程度の話に過ぎないでしょう。このくらいのバカであれば掃いて棄てる程世の中にはいますが、その全てが重大犯罪者になるわけではないですし。単に私が個人的に気分が悪い程度の話でしかありませんでしょうから。(奥さんの気分も悪かったようですが。)
しかし、一つの重大事象が発生する裏には、無数とも言える小さな事象が隠れている(ハインリッヒの法則)のであって、どんなに些細(に見えるよう)な出来事であっても詳細に分析する必要性があるのです。
先日の「オイコノミア」で放送していた内容で、経済学で言うところのインセンティブ設計というのを採り挙げていましたが。これはヒトの脳の報酬系の条件反射的行動動機付けを利用しているわけです。
経済学というのは大多数の人の行動傾向を利用する形の誘導を、特定の社会制度などに応用するためのものでもあるため。大多数の人達のこうした無意識性を変えようという考えが最初からありません。
ですから自分で自律的に物事の良し悪しを判断する能力が未発達な幼児の行動を制御するためならまだしも、身体は大人ででありながら気分と行動が直結しているのでは、到底人間としては大人とは言えません。
具体的に誰のことを述べているのかはもう言いませんが。(言いたいけど。)
幼児の場合は自分の行動を論理的に判断し行動や言動を選択できる程の知識の量もすくなければ、当然判断基準も足りないので自律的に社会的責任なんぞ負えるわけがありませんから。幼児が悪いことや危ないことをしていたら親大人が「こらこら、そんなことしてはいけません!。」的に叱って抑制するしかありません。
しかし、こうした他律的な行動抑圧によって心理的に刷り込まれた「超自我(ジグムント:フロイト)」だけでは、構造原理的に自律判断が養われないために。自分がおかれた環境に依存した行動抑制しか働かないばかりか、むしろ環境に従順に従うことで承認を得ようとするようにも陥るわけです。
その典型的な一例がナチス政権下のポーランド アウシュビッツ ビルケナウ ユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマン中佐でしょう。
彼は国際法廷においても、「自分は体制に忠実な一吏官に過ぎない。」とも述べています。
これはつまり、意味としては「自分が悪いのではなくて、自分を雇ったナチス政権が悪いだけだ。」と主張しているのと同義でしょう。
社会の多数派が求めているものであるならば、何でも正しいと思うのは間違いの素です。今自分がおかれている社会環境が完全無欠の絶対的なものであると「思う」のは、それが「生まれてずっとそうだった。」というたかだか数十年という時間が作り出した感覚に過ぎません。
そういえば以前、ヲタク叩き番組に煽られてカウンターに入ろうとした若者がいましたが。キチガイというのは個人的な好き嫌いを短絡的に物事の良し悪しに直結させて糾弾しておけばどうにかなると思っているような奴がヘイトスピーチをしているのであって。感情的に怒鳴り散らすことで、論理的な土台のグズグズな泥沼地雷原に引きずり込まれることもあるのでとても注意が必要です。こうした意識の引きずり込みというのは、必ずしも相手が意図的にやっているとは限らず、バカがバカ同士で共鳴しあっているうちに暴走している「結果」に過ぎないことも少なくありません。
むしろそっちの方が多いのかも知れませんし。
人はどうしても感情が優先してしまいがちです。これは特に承認欲求中毒に限ったことではなく、そもそもヒトという種の生物は哺乳類ですから、どうしたって親と子の関係性からは逃れられるものではなく。全ての人はかつて子供だったことを前提に、ほぼ例外なく承認欲求を潜在的に持ち合わせているものであると考えるべきなのです。
こういう話をしていると、短絡的に承認欲求という「甘え」が全面的に悪いかのような解釈をしてしまい、子供は幼児期から甘やかさずに厳しくスパルタ戸塚ヨットスクール万歳的な思い込みに陥るバカも少なくありません。
そんな短絡的でバカみたいな文系解釈の仕方こそが「甘え」に他ならないのです。論理的理解をすっ飛ばして「甘え」だけが悪いといった「これさえやっときゃ、全ては解決」みたいな短絡的思考こそがバカが陥る典型的パタンでもあるのです。
子供にとって、親というのは神も同然です。親が望まざるとしても子供にとって親は絶対的な存在でなくてはならないのであって。子供が自律的に行動責任判断を行えるようになるまでは決して威圧的な強制をするべきではないのです。
自律とは自発の中にあるのであって。先ずは子供の主体的な意思というものを大切にし、自由に物事を考えられるような精神的ゆとりを持たせてあげる必要性があるのです。
ここでアルバート:アインシュタインの言葉を引用しておこうと思います。
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私にとって、最悪だと思われるのは学校が主として恐怖、力、人工的な権威という方法を用いることです。そのような扱いは、生徒の健全な情緒、誠実さ、自信を破壊します。それが作り出すのは従順な臣民です。 (大月書店刊「アインシュタインは語る」より抜粋)
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「従順な臣民の一体なにがいけないんだ。」そう思っているのであれば、もはや相当頭がヤラレていると自覚した方が良いかもしれません。
従順であることというのは環境依存的に多数派や権威の命令に服従するだけの冷徹さを意味するのであって、それこそが役所の手続きのようにユダヤ人殺害計画書の作成に邁進するようなキチガイをも作り出すからです。
恐怖や威圧的な態度で子供を服従させた最も典型的な害が虐待の連鎖ではないでしょうか。
そこで問題になるのが、自発的に物事を考え、権威や多数派の意見に安易に同調しないようには育てられていない親大人達が、一体どうすれば子供に自律的判断力をつけさせられるのかがさっぱりわからないということでしょう。
承認欲求中毒患者の場合、評価承認とセットで教えられたことを無批判に鵜呑みにするばかりで、自律的には何が正しいのかを判断する能力がほとんど全く養われていません。 ですから教えられていないことは何も出来ないのです。
厄介ですね。
私も匙投げたくなりますわ。
夕ご飯の支度があるので今日はこれまで。
Ende;