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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

勝ち。

2012年07月21日 13時06分39秒 | 意識論関連

○勝ち。

 ヒトが勝ち負けにこだわるのは、結局「勝ち」を誰かに評価して欲しいからである。

 世間的な勝ちに固執する者というのは、外見に異常な執着があり。他人からの見た目に執着するのは主体的価値観に依る自発性の欠落の顕れであり、自己自身内部に価値基準が存在しないために他人から外見しか評価基準がないためである。

 「自分は世間的に成功した、他人との比較で優位に立った。」ことを、他人から評価羨望されることによって優越感に浸ることが出来る。これはすなはち、評価や羨望をされる他人からの外見でしか精神的満足を得る基準が存在しないからである。

 「自己中心的な者に、自己はない。」とは、「勝ち負け」という他人との比較でしか精神的満足を得ることが出来ない者には、自律的に社会的責任判断をする本質的自己が存在しないという意味である。

 「勝ち負け」という他人との外見上の比較しか価値基準が存在しない者の場合、あくまで現状世間という普遍性を持たない暫定的流行という環境依存的勝敗基準でしか物事を判断することが出来ないため。自律的には社会的責任判断をすることが原理的に出来ないのである。

 暫定的流行や現状世間だけが判断の基準でしかないということは、本質的な自発的意思選択が介在していないことでもある。

 たとえどんなに「勝つ」ことが出来たとしても、結局は時代や世間に流されているだけの自発的選択を介さない環境依存的条件反射に過ぎない。環境依存的で条件反射ということは本質的意識が介在しておらず、無意識である。

 勝ち負けの基準とは常に多数他人によって無意識的結果として作り出されたものに過ぎず、勝ち負けに執着している時点で既に現状世間の多数に迎合しているだけなのである。

 現状世間の価値観に迎合している時点で、既に本質的な自己自身は「負けて。」いることには大抵のヒトは意識が働くことはない。

 権力欲というものは現状世間というものへの迎合服従性の無意識的「結果」なのである。


 その場限りの強弁で相手を「負かした」ような錯覚で自己正当化が出来るわけではないし。本能的な順位欲が促す差別で「勝った」ような錯覚しても、自己の人間としての価値が上がるわけでもない。

 本能気分が促す大衆観念的錯覚によって安心満足しても、それは極めて個人的なものに過ぎず、目先の「効用」でしかない。そんなものに意識を奪われているから社会全体の持続可能性や安全性というものへの配慮を誰もしなくなるのである。

 自分自身が配慮していないものを他人に要求するのは傲慢という他ない。

 人間にとって最も重要なものは勝ち負けなどという目先の他人との比較ではない。勝ち負けなどというのは本能的に欲求「してしまう」ものに過ぎず、何ら本質的には自己自身の意識的選択を介していない無意識で動物的行動習性に過ぎない。

 本能のままに行動しておけば気分的に満足するのは当たり前である、しかし本能のままに無意識に行動が支配されていれば、これは本質的には自己自身による行動選択を介しておらず、事実上「自由」ではない。

 自己の本能からも自由でなければ、本質的な自由とは言えず、欲望の奴隷でしかない。欲望に「負けて」いながら勝ち負けに執着するというのは根本的な勘違い(錯覚)である。





Ende;

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