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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

キャラクター。

2011年04月12日 18時09分31秒 | 意識論関連
 「この人は、こういう人だ。」という風に、自分や他人を決め付けておくと、多くのヒトは気分的に安心するらしい。

 脳内麻薬ドーパミンは、その常習性によって行動や思考を「整理。」する。

 「整理。」されていると安心。

 だから「整理。」しておこうとする。

 シンボライズとか抽象化といったものは、いわば「分類。」である。プラトンの言う「イデア。」なんつうのも同じであろう。

 権威者を権威者として扱うときも、同様の機構が働いている。権威とは、生物学的な社会形成習性によって促される服従対象のことである。

 権威とは、科学的には立証されることはない。ヒトであることに変わりはないので、絶対服従対象などというものは科学的には立証されることなど有り得ない。科学的には、いかなる権威者であろうとも、その発言は常に検証され続けなければならない。従って科学というものには精密検証と、それに伴う批判精神が不可欠なのである。それが失われるから科学からの逸脱が生ずることになる。

 相手がノーベル賞受賞者であろうと、東大名誉教授であろうと。嘘や間違いは指摘しなければならないのである。それは誰であろうとも構わない。ただし、その検証性は論理的でなければならない。

 科学の世界に権威は必要ないのである。

 では、それ以外の世界に権威は必要か。

 実は必要ではない。必要であると「思って。」いるのは気分である。権威が存在すると気分的に安心なので、逆に権威が存在しないと気分的に不安であり、恐怖を感じるのである。

 イヌに見られる順位欲というものは。服従対象が明確であるとき、非常に従順で素直で情動的に安定した状態で盲目的に服従していることができる。

 つまり、権威が明確な状態というのが、ヒトにとっては精神的な安定をもたらし。逆に権威が不明確な状態に精神的恐慌をもたらすのである。生物学的な社会形成習性というのは、本能であるから、本能のおもむくままに行動していないと不安で仕方がないのである。

 ヒトという種の生物は、ヒトになる以前の単なるケダモノであった期間の方が圧倒的に長いのである。従って、そのケダモノがどのような進化過程、生存過程を経てきたのかなど、もはや知る由もない。それこそレイプとかSMに対する本能的快楽が、どのような過程によって本能として組み込まれていても、もはや自分自身ではどうにもならないものなのである。

 「レイプされて気持ち良かった。」という話も、それ自体は当人の「意思。」とは無関係な大脳辺縁系に組み込まれた機械手続き的な条件反射であり。そこに当人の選択の余地などないのである。いわば、「坊主の頭にハエがたかって、うっかり笑ってしまった。」ようなものであり。単なる条件反射でしかないのである。

 それと同じで、権威者に服従して他人や自分自身に多大な迷惑をかけてしまう「習性。」であっても、それは当人の選択によるものではない。だが、「権威にうっかり従ってしまって、600万人のユダヤ人を死体に変換しまった。」というのは「坊主の頭。」と同列に扱える問題ではない。途中にいくらでも権威と決別するチャンスはいくらでもあるからだ。

 それは「権威。」の代わりに「多数。」の意見に同調しても同じである。結局は気分的な安心によって促される行動選択でしかないからだ。

 権力者による統率こそが、治安維持に不可欠であるというのは、実は論理的な「考え。」ではなく。単なる観念的な「思い。」でしかない。

 だが、面倒なのはヒトが思い描く観念的安心というものは、本能に直結しているために、いわば強迫観念的にしがみついてしまうため。どんなに論理的に説明しても理解「しよう。」という気分的な「意欲。」がわかないのである。

 逆に、論理整合性のない、読み手が勝手な解釈をできるようなテキトーな話の方が、ヒトの脳が気分的に楽になるため、異常なまでの「意欲。」を持ってしまうものなのである。

 養老孟司とかニーチェの人気の原因は、そこにある。

 いわゆる「元気が出る。」とか「勇気がわく。」といった類の気分的な高揚を促進するのである。これが麻薬性、常習性を持っているのである。

 前向きな気持ちで600万人のユダヤ人を死体に変換したアウシュビッツの役人達の意識というものが、一体どういうものであったのか。一般的なヒトの多くは、「特殊な変質者の群れであった。」と分類し、抽象化し、決め付けることによって。自分とは無関係な現象であると意識から外すことで安心するのである。

 私自身、意識論関連の話を書くのは気が乗らない。面倒臭いのである。説明する方も、読む方も、共に気分的には嫌な話でしかない。それでも書かねばなるまいし、また、可能な限り読まなければならないのでもあろう。

 ヒトという種の生物は、理論的に考えるのが嫌なのである。そういうものなのである。それなら考えなくて良いなどというわけにはいかず、理論的に追求しなければならないのである。

 養老は、理論的追求というものは、中東由来の一神教特有のものであって。日本では馴染まないなどと言い張る。当然、論理的な根拠など存在しない。むしろ、論理的追求をされたくないから、予め予防線として敷設しておいた思考停止のための屁理屈に過ぎない。

 占い師が「人を信じないのは、心が狭いから。」などと言っているのと同じ構造である。

 ペテン師が相手を丸め込むときに使う常套手段なのである。

 養老は、非常に偉そうである。いかにも落ち着いた東大名誉教授然とした態度というものを心得ているのである。だから多くのヒトは騙される。

 ヒトというのは、見た目が9割なのである。つまり、言っている内容の論理的精密検証性とかには意識はいっておらず。単なる「見た目。」でほとんど判断してしまうものなのである。

 ヒトは、他人を評価するとき。ほとんど無意識に機械反射的に行っているものなのである。だから正しい判断ができなくなる。

 振り込め詐欺のように、相手が視覚的に見えない場合、多くのヒトは相手がどのような人物であるかを勝手に妄想し、作り出してしまう。警察官然とした言い方とか、弁護士風味な言い方というものによって、多くの人は無意識に、機械手続き的条件反射によって、相手がどういう人物であるかを、勝手にでっちあげてしまうものなのである。

 いわゆる、「説得力。」と呼ばれるものの99%は、実際には論理的根拠に基づく合理性ではなく。雰囲気的な気分の問題でしかない。だから詐欺とか占いが商売として成立するのである。


 意識論関連の記事を読んでいる人というのは、どう考えても漫然と無意識に読んでいるような人ではないだろう。しかし、果たしてどこまで理解して、何がわからないのか。それが私にはわからないので、記事を書くにも取っ掛かりがない。

 時折「お前らバカだろ。」とか書いているから、読み手としてもコメントは書き難いのかも知れないが、こちらとしても取っ掛かりがないのでどうにも書き難い。携帯電話で読んでいる人も多いようなので、コメントも書けないのかも知れない。

 まあ、思い付くまま書いておけばいいのかな。それで読者が満足しているなら、別に構わないのだが。




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