哲学というものは 必ずしも答えに辿り着けなくても構わない
必要なのは「考える」ことであって 「考える」ことを止めてしまうことが危険なのである
ところが ヒトという種の生物というのは 論理的に「考える」ことが面倒で嫌いなため 何かにつけて論理思考を放棄するための屁理屈を鵜呑みにし 主観的感覚こそが正しいことにすることで 簡単に思考停止に陥る先天的欠陥がある
論理的に考えるためには客観性が不可欠であり 客観性がなければ主観的感覚が促す錯覚を認識出来ずに間違った認識を信じ込んでしまうことになるのである
「答えに辿り着けなくても構わない」のだが これを曲解して「考えなくても良い」と勘違いしている東大名誉教授達も非常に多い
哲学というのは「考える」ことであって 「考える」ことというのは論理的に「考える」ことであって 「考えなくても良い」というのは論理的根拠のない身勝手な観念である
哲学の「目的」 つまり「答え」とは真理である
論理客観的真理を目的としている以上 論理客観性に基づいた「考え」以外は哲学ではない
だが 現状の哲学界というのは論理客観性を無視した意味不明の主観的観念の陳列ばかりであり これは哲学ではなく哲学を逸脱したオカルト宗教か何かにしかなっていない
先日のNHKの番組では 「倫理に答えはありません」と断言していたが
「答えがない」という「答え」を出してどうする バカか
どうもマスコミっていうのは文科系大衆観念に自惚れる傾向が強く 論理検証性が抜け落ちた発言が多すぎる
「答え」すなはち「目的」というのは 現状認識可能な知識を基礎にして割り出すものであり 知識自体が拡大したり 或いは改定されたりした場合には「目的」にも
影響を及ぼすものであって あくまで暫定的な「答え」であるということは忘れてはいけないのである
決して絶対永久普遍の静止した「答え」など 有限の脳と知識しか持たないヒトが持てるわけがないことを 自覚する必要がある
こうした自覚がないから優生学などという非科学的オカルト観念を科学だと勘違いすることに陥るのである
フリードリヒ:ニーチェによる超人幻想を 多くのヒトは絶対的解答だと勘違いするのは それが気分(感覚)的に満足出来るからであり こうした感覚が及ぼす錯覚を錯覚として認識出来なくなる原因というのは ヒトの脳が持つ先天的欠陥に起因するのである
人間性としての倫理における安全性と それに付随する持続可能性というのも あくまで現状の知識に基づいた目的であるが 逆に言えばそれを目的だと認識出来ない原因というのは非論理的な観念に基づく身勝手な「答え」によって思考停止に陥っているからである
カントの「純粋理性批判」を読んで 何かを論理的に理解したような錯覚に陥ることで ヒトの多くは論理的思考が放棄できる免罪符になるという勘違い錯覚を得ることで この主観的感覚が促す先天的快楽こそが論理思考を阻害するのである
保守主義者達が信じ込んでいた「理性を超越した叡智」などという話も 論理思考を放棄するのに「都合」が良いからである
心理臨床では こうした身勝手なご都合主義を「合理化」と形容しているが 実際には論理的合理性など存在せず 全然合理的などではないのである
認知的不協和を解消する形で気分が良くなる話の方を信じこもうとするのは 自分という存在が何らかの絶対的保証の上に存在しているという傲慢さによる過信が素にあり
こうした傲慢さは棄てなくてはならない これは「人間」としての義務でもある
Ende;
必要なのは「考える」ことであって 「考える」ことを止めてしまうことが危険なのである
ところが ヒトという種の生物というのは 論理的に「考える」ことが面倒で嫌いなため 何かにつけて論理思考を放棄するための屁理屈を鵜呑みにし 主観的感覚こそが正しいことにすることで 簡単に思考停止に陥る先天的欠陥がある
論理的に考えるためには客観性が不可欠であり 客観性がなければ主観的感覚が促す錯覚を認識出来ずに間違った認識を信じ込んでしまうことになるのである
「答えに辿り着けなくても構わない」のだが これを曲解して「考えなくても良い」と勘違いしている東大名誉教授達も非常に多い
哲学というのは「考える」ことであって 「考える」ことというのは論理的に「考える」ことであって 「考えなくても良い」というのは論理的根拠のない身勝手な観念である
哲学の「目的」 つまり「答え」とは真理である
論理客観的真理を目的としている以上 論理客観性に基づいた「考え」以外は哲学ではない
だが 現状の哲学界というのは論理客観性を無視した意味不明の主観的観念の陳列ばかりであり これは哲学ではなく哲学を逸脱したオカルト宗教か何かにしかなっていない
先日のNHKの番組では 「倫理に答えはありません」と断言していたが
「答えがない」という「答え」を出してどうする バカか
どうもマスコミっていうのは文科系大衆観念に自惚れる傾向が強く 論理検証性が抜け落ちた発言が多すぎる
「答え」すなはち「目的」というのは 現状認識可能な知識を基礎にして割り出すものであり 知識自体が拡大したり 或いは改定されたりした場合には「目的」にも
影響を及ぼすものであって あくまで暫定的な「答え」であるということは忘れてはいけないのである
決して絶対永久普遍の静止した「答え」など 有限の脳と知識しか持たないヒトが持てるわけがないことを 自覚する必要がある
こうした自覚がないから優生学などという非科学的オカルト観念を科学だと勘違いすることに陥るのである
フリードリヒ:ニーチェによる超人幻想を 多くのヒトは絶対的解答だと勘違いするのは それが気分(感覚)的に満足出来るからであり こうした感覚が及ぼす錯覚を錯覚として認識出来なくなる原因というのは ヒトの脳が持つ先天的欠陥に起因するのである
人間性としての倫理における安全性と それに付随する持続可能性というのも あくまで現状の知識に基づいた目的であるが 逆に言えばそれを目的だと認識出来ない原因というのは非論理的な観念に基づく身勝手な「答え」によって思考停止に陥っているからである
カントの「純粋理性批判」を読んで 何かを論理的に理解したような錯覚に陥ることで ヒトの多くは論理的思考が放棄できる免罪符になるという勘違い錯覚を得ることで この主観的感覚が促す先天的快楽こそが論理思考を阻害するのである
保守主義者達が信じ込んでいた「理性を超越した叡智」などという話も 論理思考を放棄するのに「都合」が良いからである
心理臨床では こうした身勝手なご都合主義を「合理化」と形容しているが 実際には論理的合理性など存在せず 全然合理的などではないのである
認知的不協和を解消する形で気分が良くなる話の方を信じこもうとするのは 自分という存在が何らかの絶対的保証の上に存在しているという傲慢さによる過信が素にあり
こうした傲慢さは棄てなくてはならない これは「人間」としての義務でもある
Ende;