養老孟司は発言内容に論理整合性がないことを指摘された際にこう発言している
「私は教科書に墨を塗らされたんですよ どうせ間違っていない本なんかないんだから 間違っていたら墨を塗れば良いんだな そう思っています」と
自分が受けた教育環境を事後正当化する形で認知的不協和を解消するために支離滅裂で無責任な発言を平気でやらかすのである
宮台真司もまた 「自分の頭で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」と言い出し その「理由」として 「自分は教師からそう言われた」などと主張している
これもまた過去に自分が受け入れた教育を事後正当化し 認知的不協和を解消する形で生徒に「連鎖」しているのである
虐待が連鎖するのは 虐待されて育った人が自分の生育環境を事後正当化し 認知的不協和を解消する形で自分の子供にも虐待を行うからである
間違った育て方をされた場合に 間違った育て方を事後正当化し認知的不協和を解消する形で同じ様な育て方を無意識的に「連鎖」しておいた方が気分的納得感が得られるからこそ 「連鎖」は起きるのである
「信じたい話だけを信じていた」方が満足なのである
これが無意識というものである
無意識な行動でありながら むしろ「強い感情」を伴っているからこそ 無責任な発言や行動は「連鎖」してしまうのである
「墨を塗らされた」だの「丸暗記しろと言われた」だのといった権威の命令に対し 唯々諾々と盲目的に服従した既成事実を事後正当化する形で「連鎖」しておいた方が気分的納得感満足感が得られるために 無意味な「連鎖」は繰り返すのである
自分の生育環境下において 大人達の無責任な行動や言動によって理不尽に翻弄されたのであれば それはむしろ断ち切るために「自分は発言に責任を負おう」とするのが「人間としての意識」というものである
「意識」とは 自分の頭で「何が本当に正しい行動選択なのか」を見極めるためのものであり 気分的納得感や満足安心感を得るための行動のほとんど全ては先天的な脳の認知的欠陥によって促される「無意識」的条件反射に過ぎない
生育環境は自分では選択不可能である 「どのような育て方をされたか」を事後正当化していれば 「どのような育て方をされることが正しいのか」を識別することはできなくなる
養老孟司が教科書に墨を塗らされたのは 小学生の頃であろう 子供であれば教師の命令に従うしか選択肢はないのは致し方ないし
宮台真司は大学時代の話であろうが 大学では教師に逆らえば成績単位に影響を及ぼす恐怖心からパワハラを受け入れざるを得なかったとも言えるであろう
だが 自分がいざ教える立場になった場合においては 無意識に自分の教育環境をなぞって「連鎖」することが教師として正しい行動選択ではなく 「自分の生育環境は本当に正しかったのか?」を検証し 間違っていたなら修正を加えることで「進歩」となるのである
ヒトという種の生物は どうしても先天的に「自分だけは絶対に大丈夫だ」という過信に溺れていた方が安心満足感や納得感を得ることができるため 「本当の目的」を簡単に忘れてしまうものなのである
大学生の大半がイマヌエル:カントの「純粋理性批判」を鵜呑みにして何の疑いも持たないのも 生物学上の遺伝的進化において意図目的戦略「考え」「工夫」が本当は介在しないことにも 生物学上の「社会性」というものが人間としての社会性とは全く別物であることにも 誰も疑わずに鵜呑みにしてきたのである
それは大学という制度における権威上下関係において 教師に逆らうことが不利益になり 唯々諾々と鵜呑みにすることだけが利益になるという制度上の「結果」である
どんなにたくさんの「結果」を陳列枚挙しても それが教育における「目的」であることの論拠には全くならない
漫然と教えられたことを唯々諾々と「連鎖」していた方が安心満足なようにヒトの脳は出来ているのであり こうした先天的本能習性のままに行動選択しているから「無意識」だと言っているのである
自分が今まで信じ込んでいた事が「本当に正しいものなのかどうか」を客観的に検証してこその「意識」というものである
そのためには自分の主観的安心満足感や納得感に惑わされることなく 「全てを疑う」客観性や批判精神が必要不可欠である
何も考えず 検証することなく「多数から人気のある養老孟司先生なら 深く物事を考えていらっしゃるんだわ」と勝手に思い込んで盲目的に信じ込むことなく 発言内容全体から「嘘つきかどうか」を見極める必要がある
「どうせ間違っていない本なんかないんだから」などと称して支離滅裂な無責任発言を正当化して繰り返している養老孟司なんぞを学術権威扱いするべきではない
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