○無差別報復。
岩淵で連続放火があったらしい。犯人は今のところ捕まっていないらしく、ウチは岩淵も遠からず近からずな場所なので、ちょっと気持ち悪い。
連続放火などの無差別破壊行動というのは、通り魔同様社会に対する自律的責任の放棄である。
自律的、自発的に社会安全性を求めない者というのは、気分感情でしか行動が決定しないので、気分的に世間への不満を持つと簡単に通り魔的無差別破壊行動へと暴走するのである。
自律的、自発的に社会安全性を求めないということは、すなはち規範意識的な他律抑圧でしか社会的責任を構造原理的に自覚出来ず、自律のない者というのは、自暴自棄になると構造原理的に歯止めが全く効かなくなる。
自分自身で歯止めが効かない状態を指して「自律がない。」と言う。
「罪の意識」というのも、実質的な被害を伴うものと感覚的錯覚によるものもあり。これを分別するのは感覚ではなく論理検証性である。
サバイバーズギルトのようなものは罪の「感覚」であって、実質的には自分の行動が他者に被害を生じさせてはいない。
これと同様、「被害者意識」というものにも実質的加害者が存在する場合と、感覚的な錯覚に過ぎない場合がある。
無差別破壊行動を行う者というのは、多数他者社会に対する観念的被害者意識という勝手な思い込み錯覚が動機の根底に存在するからであって。こうした頭の悪さ、自律的論理検証性が欠落しているからこそ、不毛な反社会的無差別破壊行動へと暴走するのである。
具体的に加害者が存在しない、或は加害者が特定出来ない場合における社会に対する無差別報復というのは合理性が全く存在しない。
そもそも報復という行動自体に合理性など存在していないのである。
司法システムにおける刑法罰というものも、あくまで被害者の気分感情的報復に過ぎず。こうした「悪者探し」にばかり意識を奪われ、「虜になって。」いるからこそ、合理的で実効性のある犯罪や事故の再発防止策が進まないのである。
ヒトの多くは悪者を規定して罰を与えておけば、目先の気分感情的には安心で満足であろうが。こうした気分感情論こそが論理的合理性のない実証不能の観念の源となっているのである。
イジメというものも、特定の「悪者」を規定することで多数同調の安心満足を得るためのものであり。差別排除は懲罰による快楽を促すのである。
犯罪被害者の気分的満足というものと、犯罪の再発防止対策というものは構造原理的に全く異なるものであって。後者の方は現在の司法システムにおいては全く考慮されていないことを、多くのヒト達は報復だけで気分的に満足してしまい、放棄していることすら認識してはいない。
社会安全の観点からは、被害者の報復感情の充足よりも、危険工学的な再発防止策の確立の方が重要であるが。従来の司法システムへの盲目的依存によって、具体的再発防止策の確立は全く進まないことに陥っているのである。
報復による気分感情的満足ばかりを追求している頭の悪さを認識せず、無差別破壊行動者の頭の悪さを指摘することは出来ない。これらは共に同じ気分感情主体の文科系大衆観念であることに変わりはないからである。
犯罪被害者の気分感情に寄り添って、気分感情的共感さえしておけば被害者のご機嫌取りも可能であろうが。これは大衆迎合に過ぎない。
逆に言えば、被害者の感情論を否定することによって、大衆迎合を放棄すれば人気が得られないことも充分わかっている。それでも優先すべきは社会安全性であることに論理的異論など存在しないのである。
Ende;
岩淵で連続放火があったらしい。犯人は今のところ捕まっていないらしく、ウチは岩淵も遠からず近からずな場所なので、ちょっと気持ち悪い。
連続放火などの無差別破壊行動というのは、通り魔同様社会に対する自律的責任の放棄である。
自律的、自発的に社会安全性を求めない者というのは、気分感情でしか行動が決定しないので、気分的に世間への不満を持つと簡単に通り魔的無差別破壊行動へと暴走するのである。
自律的、自発的に社会安全性を求めないということは、すなはち規範意識的な他律抑圧でしか社会的責任を構造原理的に自覚出来ず、自律のない者というのは、自暴自棄になると構造原理的に歯止めが全く効かなくなる。
自分自身で歯止めが効かない状態を指して「自律がない。」と言う。
「罪の意識」というのも、実質的な被害を伴うものと感覚的錯覚によるものもあり。これを分別するのは感覚ではなく論理検証性である。
サバイバーズギルトのようなものは罪の「感覚」であって、実質的には自分の行動が他者に被害を生じさせてはいない。
これと同様、「被害者意識」というものにも実質的加害者が存在する場合と、感覚的な錯覚に過ぎない場合がある。
無差別破壊行動を行う者というのは、多数他者社会に対する観念的被害者意識という勝手な思い込み錯覚が動機の根底に存在するからであって。こうした頭の悪さ、自律的論理検証性が欠落しているからこそ、不毛な反社会的無差別破壊行動へと暴走するのである。
具体的に加害者が存在しない、或は加害者が特定出来ない場合における社会に対する無差別報復というのは合理性が全く存在しない。
そもそも報復という行動自体に合理性など存在していないのである。
司法システムにおける刑法罰というものも、あくまで被害者の気分感情的報復に過ぎず。こうした「悪者探し」にばかり意識を奪われ、「虜になって。」いるからこそ、合理的で実効性のある犯罪や事故の再発防止策が進まないのである。
ヒトの多くは悪者を規定して罰を与えておけば、目先の気分感情的には安心で満足であろうが。こうした気分感情論こそが論理的合理性のない実証不能の観念の源となっているのである。
イジメというものも、特定の「悪者」を規定することで多数同調の安心満足を得るためのものであり。差別排除は懲罰による快楽を促すのである。
犯罪被害者の気分的満足というものと、犯罪の再発防止対策というものは構造原理的に全く異なるものであって。後者の方は現在の司法システムにおいては全く考慮されていないことを、多くのヒト達は報復だけで気分的に満足してしまい、放棄していることすら認識してはいない。
社会安全の観点からは、被害者の報復感情の充足よりも、危険工学的な再発防止策の確立の方が重要であるが。従来の司法システムへの盲目的依存によって、具体的再発防止策の確立は全く進まないことに陥っているのである。
報復による気分感情的満足ばかりを追求している頭の悪さを認識せず、無差別破壊行動者の頭の悪さを指摘することは出来ない。これらは共に同じ気分感情主体の文科系大衆観念であることに変わりはないからである。
犯罪被害者の気分感情に寄り添って、気分感情的共感さえしておけば被害者のご機嫌取りも可能であろうが。これは大衆迎合に過ぎない。
逆に言えば、被害者の感情論を否定することによって、大衆迎合を放棄すれば人気が得られないことも充分わかっている。それでも優先すべきは社会安全性であることに論理的異論など存在しないのである。
Ende;