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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

小笠原。

2013年08月08日 15時29分18秒 | 意識論関連
○小笠原流。

 北野武がやたらと小笠原流を推すんだけど、作法という形式外見への気分的安心を安全性と履き違えている文科系大衆観念に基づいた大衆迎合に過ぎない。

 作法などの外見的形式さえ教え込んでおけば社会安全性や持続可能性が構築される論理的根拠も、統計的根拠もなく。単に外見的に「美しい。」などという観念だけで安心しているに過ぎない。

 そもそもヤクザ暴力映画で大衆人気を得ている芸人が作法形式を論じていること自体が支離滅裂である。

 ヒトの多くは気分的な安心満足に意識を奪われ、簡単に実証不能の観念を信じ込みがちな習性がある。だからこそヒトの多くは論理的思考を簡単に喪失し、回避可能なはずの「人災」に陥るのである。

 小笠原流というのは、元々室町武士が作り出したものであり。封建的差別主義を正当化するために形式外見的に取り繕うためにでっちあげたものに過ぎない。武力抑圧による封建社会体制を維持するために、外見的に偉そうな雰囲気や、形式的な権威性を用いた、一種の錯覚を促すための手口手法に過ぎない。

 どんなに小笠原流に気分的安心感を得ても、封建的差別主義自体は正当化され得るものではない。


 小笠原流を教え込んでおけば原発の危険性が放置されなかったとでも言えるだろうか。

 小笠原流を教え込んでおけば役人は天下りをしなくなるであろうか。

 だとすれば、どうして刑務所では小笠原流作法を教え込まないのであろうか。受刑者のケツの穴を覗き込むことは作法だと言えるのだろうか。

 どうして体育会系組織は怒鳴り声を作法とするのであろうか。

 作法などの形式外見というのは、無思考な大衆の脳を酔わせて安心満足させるだけの洗脳に過ぎず。ヤクザが形式外見に執着するのも、それによってありもしない権威性を演出し、バカな大衆の脳を洗脳させているのである。

 作法形式というものと、個人の自律的な社会的責任判断能力は無関係である。形式外見で本質的な人間性など形成されることはない。

 作法形式のような簡単でバカみたいな手法で、あらゆる「人災」への対策が出来るなら、既に統計的実証があって然るべきであって、そんなものは最初から存在しないのである。


 北野武なんぞ所詮は大衆迎合であり、「こうすれば世間的評価が得られる。」といった目先の効用しか意識の俎上にはなく。具体性のある論理的人間性の論証など眼中にはない。

 こんな話はいちいちおいらが言わなくても自律的に検証すべきことである。

 特にマスコミは。

 だから学力学歴が高いだけのバカは要らないって言っているのである。





Ende;

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