ここ数回のブログの意図が不明なの で、あなたの思考手順を僕なりに推察してみ ました。違っていたらすみません。 あいつ科学的議論から逃げた!(実際はすり 替え論法に嫌気がさしただけ)→周りの奴ら の賛同を得てやがる!承認欲求中毒に違いな い!→((続く
「すり替え論法に嫌気がさしただけ」というのは病理医の主張の鵜呑みですが、それが本当かどうかは何の確証もありません。すり替えというよりは実際には単なる間違いに過ぎないですから、科学的議論であれば「いやそれ、間違えているよ」で済む話のはずなんですが。病理医は明らかな拒絶反応(ブロックなど)を示していることから何らかの不都合を指摘されたことが推測できるわけです。
さらに病理医達のやり取りを追えば、進化生物学的こじつけに賛同し、「面白い」とも同意していることは明らかで、進化生物学的なこじつけについて何ら認識していなかったことは明白であるにも関わらず。
「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話をしたら「○○は生存 のために役に立つ能力だったと言うとまるで生存を目的として機能が生まれたみたいになるけどそれは間違いです」 とつっこまれたんですが、これ、すりかえですから……あぁーもうめんどくさい
という病理医の主張には論理整合性はないことになり、言い逃れや取り繕いに過ぎないことが推理できるのです。
進化生物学的なこじつけ論法の間違いを頭から否定しており、論理的反証すら最初からしていません。
それなら進化生物的こじつけの間違いを私のブログを読んで初めて認識したことになるのです。
この私のツッコミに対して論理的反論が出来ないために、そもそも曖昧な議論に対し、後から「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話をしたことに後から取り繕ったと考えられるのです。
たった一言でも進化生物学的こじつけに対して同意している以上、彼らは進化生物学的こじつけが科学的に間違いであったことを、それまで全く認識していなかった証拠になります。
進化生物学的こじつけを認識していない時点で、どうして結果と目的を区別した上での話が可能なのでしょうか。そもそも「査読がない」ことを根拠に頭から否定している理論に沿った考えが予め成立しているわけがないのです。
そもそも科学的議論に拒絶するなんていう話は科学者として論外です。個人的気分で嫌な話を拒絶していたのでは到底科学的議論は成立しないからです。
「めんどくさい」なんて話も科学的議論の途中では論外です。もちろん主観的感想を挟むのは自由ではありますが、感情的になって拒絶する時点で最初から本気で科学的議論をするつもりはなかった証拠になります。科学的議論なんつううのはそもそもがめんどくさいものだからです。
本当に科学的議論をするのに「攻め過ぎ」だの「自分を大事に」といった話が出てくるわけがありません。そうなると彼らは既存の業績知識をなぞることで、進化生物学的こじつけを共有して満足したかったとしか考えられないわけです。
彼らに見られる権威主義性の源は一体なんでしょう。教えられたことを鵜呑みにして満足感を得るだけの科学的には意味のない議論(のつもり)で同じ観念を共有するのはなぜでしょう。その理由として承認欲求中毒の症状が考えられるのです。
ブログの「意図」としては、普遍的に見られる組織集団の閉鎖性や差別排除の心理的構造を明らかにすることや、自律的に論理検証することも出来ずに科学的議論をしたつもりになっているという支離滅裂さの原因として、承認欲求中毒(甘え)がもたらす思考や行動のパタンを一般化することです。病理医はサンプルに過ぎません。
医師だし、承認欲求中毒の原因は、偏 差値だけを追い求めたからに違いない!→ 「偏差値が高い=賢い」ではない!→じゃあ バカだ!!New!! ってな感じですかね。。。少なくとも僕の見 た範囲での解釈はこんな感じです。すり替え と、自分の仮説を前提として確定させている のがマズイです
私は別に偏差値が高いことが直接バカであるとは述べたつもりはありません、ただ、偏差値が高いからといって賢いとはかぎらないとは言うことは出来るわけです。学力偏差値が高い方全てをバカだと言っているわけではなくて、むしろバカの原因が承認欲求中毒に由来するものであるという趣旨です。
承認欲求中毒というものが、学力偏差値の追求だけで生ずるものではないことは、良く読んで頂ければわかるのではないかと思いますが。親の多くも「学力=知能」という大衆的観念を鵜呑みにして子供に学力競争を強いることは非常に多いことからも、学力偏差値の追求の動機が、当人が本当は主体的には望んでいないにも関わらず、努力辛抱根性で親の期待に応えようとした結果である場合には、結果的に承認欲求中毒に由来する頭の悪さ(自律的論理思考や発想力の欠如)を生ずることになると考えられるわけです。
「考えられる。」と述べましたが、それ以外に(学力偏差値が高いにも関わらず)自律的論理検証性や発想力の欠如を招くような要因が存在する可能性があるのであれば、是非聞かせて頂きたい。
進化生物学的こじつけが間違いであるという証明は、教えられれば誰でも理解可能な簡単な論理証明です。ですから自発的に考えが及んでいれば中学生にでも言うことのできるものに過ぎません。にも関わらず私以外誰も主張していないのはどういうことでしょうか。私より遥かに学力偏差値が高い方は無数にいるはずにも関わらず、どうして誰も気付くことが出来ないのでしょうか。それは、その事柄についての自発的疑問とか認識が働いていないことが原因です。
学力偏差値に関わらず、承認欲求中毒というのは気分感情と思考や行動が直結することで自律的な論理検証性が失われます。学力偏差値というのは知識の「量」とか促された思考の「速度」といった特定の能力の高さによっても高くなるものであるため、学力偏差値が高くても「評価承認とセットで教えられていないことには何も自発的には気付くことが出来ない」という決定的な頭の悪さを発揮しているのです。
前述のように「すりかえ」というのは病理医の主張であって、実際には単なる「間違い」とか「意思疎通不足に由来する勘違い」であって。むしろ取り繕いによって論点をすりかえているのは前述のように病理医の方です。
それから進化生物学のこじつけ論法の間違いというのは論理から導き出しているものであって、予測的な「仮説」ではなく論理的「証明」です。 もし証明ではないというのであれば論理的な反証が必要となります。
Ende;
「すり替え論法に嫌気がさしただけ」というのは病理医の主張の鵜呑みですが、それが本当かどうかは何の確証もありません。すり替えというよりは実際には単なる間違いに過ぎないですから、科学的議論であれば「いやそれ、間違えているよ」で済む話のはずなんですが。病理医は明らかな拒絶反応(ブロックなど)を示していることから何らかの不都合を指摘されたことが推測できるわけです。
さらに病理医達のやり取りを追えば、進化生物学的こじつけに賛同し、「面白い」とも同意していることは明らかで、進化生物学的なこじつけについて何ら認識していなかったことは明白であるにも関わらず。
「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話をしたら「○○は生存 のために役に立つ能力だったと言うとまるで生存を目的として機能が生まれたみたいになるけどそれは間違いです」 とつっこまれたんですが、これ、すりかえですから……あぁーもうめんどくさい
という病理医の主張には論理整合性はないことになり、言い逃れや取り繕いに過ぎないことが推理できるのです。
進化生物学的なこじつけ論法の間違いを頭から否定しており、論理的反証すら最初からしていません。
それなら進化生物的こじつけの間違いを私のブログを読んで初めて認識したことになるのです。
この私のツッコミに対して論理的反論が出来ないために、そもそも曖昧な議論に対し、後から「生存の上で○○が役に立ったのだろうと推測することは大切だ」という趣旨の話をしたことに後から取り繕ったと考えられるのです。
たった一言でも進化生物学的こじつけに対して同意している以上、彼らは進化生物学的こじつけが科学的に間違いであったことを、それまで全く認識していなかった証拠になります。
進化生物学的こじつけを認識していない時点で、どうして結果と目的を区別した上での話が可能なのでしょうか。そもそも「査読がない」ことを根拠に頭から否定している理論に沿った考えが予め成立しているわけがないのです。
そもそも科学的議論に拒絶するなんていう話は科学者として論外です。個人的気分で嫌な話を拒絶していたのでは到底科学的議論は成立しないからです。
「めんどくさい」なんて話も科学的議論の途中では論外です。もちろん主観的感想を挟むのは自由ではありますが、感情的になって拒絶する時点で最初から本気で科学的議論をするつもりはなかった証拠になります。科学的議論なんつううのはそもそもがめんどくさいものだからです。
本当に科学的議論をするのに「攻め過ぎ」だの「自分を大事に」といった話が出てくるわけがありません。そうなると彼らは既存の業績知識をなぞることで、進化生物学的こじつけを共有して満足したかったとしか考えられないわけです。
彼らに見られる権威主義性の源は一体なんでしょう。教えられたことを鵜呑みにして満足感を得るだけの科学的には意味のない議論(のつもり)で同じ観念を共有するのはなぜでしょう。その理由として承認欲求中毒の症状が考えられるのです。
ブログの「意図」としては、普遍的に見られる組織集団の閉鎖性や差別排除の心理的構造を明らかにすることや、自律的に論理検証することも出来ずに科学的議論をしたつもりになっているという支離滅裂さの原因として、承認欲求中毒(甘え)がもたらす思考や行動のパタンを一般化することです。病理医はサンプルに過ぎません。
医師だし、承認欲求中毒の原因は、偏 差値だけを追い求めたからに違いない!→ 「偏差値が高い=賢い」ではない!→じゃあ バカだ!!New!! ってな感じですかね。。。少なくとも僕の見 た範囲での解釈はこんな感じです。すり替え と、自分の仮説を前提として確定させている のがマズイです
私は別に偏差値が高いことが直接バカであるとは述べたつもりはありません、ただ、偏差値が高いからといって賢いとはかぎらないとは言うことは出来るわけです。学力偏差値が高い方全てをバカだと言っているわけではなくて、むしろバカの原因が承認欲求中毒に由来するものであるという趣旨です。
承認欲求中毒というものが、学力偏差値の追求だけで生ずるものではないことは、良く読んで頂ければわかるのではないかと思いますが。親の多くも「学力=知能」という大衆的観念を鵜呑みにして子供に学力競争を強いることは非常に多いことからも、学力偏差値の追求の動機が、当人が本当は主体的には望んでいないにも関わらず、努力辛抱根性で親の期待に応えようとした結果である場合には、結果的に承認欲求中毒に由来する頭の悪さ(自律的論理思考や発想力の欠如)を生ずることになると考えられるわけです。
「考えられる。」と述べましたが、それ以外に(学力偏差値が高いにも関わらず)自律的論理検証性や発想力の欠如を招くような要因が存在する可能性があるのであれば、是非聞かせて頂きたい。
進化生物学的こじつけが間違いであるという証明は、教えられれば誰でも理解可能な簡単な論理証明です。ですから自発的に考えが及んでいれば中学生にでも言うことのできるものに過ぎません。にも関わらず私以外誰も主張していないのはどういうことでしょうか。私より遥かに学力偏差値が高い方は無数にいるはずにも関わらず、どうして誰も気付くことが出来ないのでしょうか。それは、その事柄についての自発的疑問とか認識が働いていないことが原因です。
学力偏差値に関わらず、承認欲求中毒というのは気分感情と思考や行動が直結することで自律的な論理検証性が失われます。学力偏差値というのは知識の「量」とか促された思考の「速度」といった特定の能力の高さによっても高くなるものであるため、学力偏差値が高くても「評価承認とセットで教えられていないことには何も自発的には気付くことが出来ない」という決定的な頭の悪さを発揮しているのです。
前述のように「すりかえ」というのは病理医の主張であって、実際には単なる「間違い」とか「意思疎通不足に由来する勘違い」であって。むしろ取り繕いによって論点をすりかえているのは前述のように病理医の方です。
それから進化生物学のこじつけ論法の間違いというのは論理から導き出しているものであって、予測的な「仮説」ではなく論理的「証明」です。 もし証明ではないというのであれば論理的な反証が必要となります。
Ende;