○手抜き。
排気量が250㏄以下だと車検がないから取り締まらず違法改造車を放置するのは警察の手抜き。
警察というのは社会安全性とか公平性よりも、取り締まり点数しか眼中にないので、点数にならない違法改造車の取り締まりはしないのである。
これでは「エサ」に対する反射的行動しかしない「公権の犬」と言われても仕方ない。
どう見ても違法改造の車両であるなら容赦なく取り締まるべきであるが、その自律は警察にはない。
刑罰や警告による抑圧では、根本的な個人の自律判断能力を持たせることにはならないが、自律的に社会的責任判断をしないバカの場合はイヌと同じで、力ずくで抑圧しないといくらでも頭に乗ってしまう。
バカというのは気分的に安心なら、いくらでも頭に乗るからバカなのである。
バカの判断基準は「恐くない」とか「カッコイイ」だけであり、これは明らかに子供じみた価値観に基づいた判断基準である。
とりあえずの暫定的措置として力による恐怖心を用いた観念的抑圧によって、法令遵守を強制するのは決して根本的問題の解決にはならないが、バカを制御するにはバカげた手段も暫定的には必要ではある。
まあ、要するにうるさいバカ車には「うるさい、迷惑だろ。」と文句を言え。
「法律がないから。」だとか言い出すなら、正に法手続きや社会制度というものの無効性の証明に他ならないではないか。
既存の社会制度や法手続きさえ実行しておけば、全ての問題が解決するものであると安心満足し勘違いしているから、誰も言われたこと以外に何ら問題意識が働かないのである。
問題意識のない者というのは、与えられた仕事以外は「エサ」評価報酬に結びつかないので、可能な限り手抜きをしようとする。手抜きを「得」だと思っているのである。
利己的な「得」という目先の「効用」ばかり個人が追究しているから、社会全体の公的利益が蔑ろにされることになるのである。
そもそも他人の迷惑を考えたがらない者というのは、他人の迷惑を考えない者への迎合であり。カッコイイだとか勝手に思い込んでいるからである。
迷惑な者に対して自分が文句を言う勇気がないために、世の中の全てのヒトは迷惑な者に対して誰も文句を言えないものであると勝手に決め付け、迷惑な者こそが自由だと勘違いしているのである。
それは極めて子供じみた観念である。
暴走族を検挙すると以外と従順だったりするが、これを警察は「素直」と勘違いする。暴走族というのはそもそも服従相手に服従することで本能的安心が欲しいだけであり、警察に検挙されて急に警察官に従順になるのは服従対象がその場限りに転移しているに過ぎない。
その場限りに従順さを発揮することを「素直」だと勘違いするのは文系大衆観念特有の錯覚である。
行き当たり場当たりに従順になることは、極めてその場限りの無責任な行動であり。これは単なる「卑屈」さに過ぎない。
自律的に社会的責任判断を伴ってこそ、「素直」と形容することも可能だが、その場限りに迎合するのはシツケの悪いペットの行動と全く同じものである。
生物本能的社会形成習性を持つイヌにとって、服従対象は麻薬と同じである。
カルト宗教一本に従順な信者は刷り込み学習が激しい鳥類の脳と同じであり、その場限りにコロコロと服従対象を転移させるのはイヌの行動習性と同じものである。
自律的に社会的責任判断を常におこなう「考え」なくして「ヒト」ではあっても「人間」ではない。
現状の日本の教育システムでは、子供に自発的好奇心による思考や検証性といったものを持たせず、ただ恐怖や力を用いて強迫観念的に学力競争しか植え付けていない。これでは自発的な「考え」を放棄するようになるのも必然というものである。
教育の目的とは、社会にとって有用な、自発的に問題解決が出来る人材を育てることであって、「言われたこと以外何も出来ないバカ。」を大量生産することではない。
従来の教育システム制度の中で育ってきたバカが教育機関を構成しているから、何らイジメなどの問題を自発的には解決することが全く出来ないのである。
子供がバカなのは大人の責任であるが、大人でありながら従来の制度システムの問題を解決できないというのは怠惰怠慢でしかなかろう。
バカというのは連鎖するものである。
そもそも連鎖しか出来ない状態そのものが「脳がバカになっている。」状態と言うのである。
Ende;