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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

自律。

2013年08月08日 15時16分53秒 | 意識論関連
○論理検証性には自発性が優先される。

 本質的な自発的論理思考というのは、先ず初めに自発性が優先されなければならない。

 現在の認知科学的基準における論理思考能力試験でどんなに高い成績を獲得しても、試験でしか発揮されない論理思考などクソの役にも立たないからである。

 現在の認知科学者達がでっちあげた能力試験のほとんどには、論理的根拠などほとんどなく、「論理的思考能力を測るには、こういった試験問題が基準になるであろう。」という観念的憶測によって作られたものに過ぎない。

 知能指数いわゆるIQというものも、そもそもは60年以上前に兵隊への適性を検証するために作られた基準に過ぎず、IQが高いからといって人間としての知能を兼ね備えていることの論理的根拠など一切ない。大体兵隊に適しているということは権威への服従迎合性を兼ね備えていなければならず、自律的論理検証性を測る基準には全くなっていないため、何ら本質的知能を測る基準にはならない。

 そもそも論理検証というのは先天的或は後天的な思考バイアスに流されることなく、本質的な自己による主体的選択によって築かれるものであるからだ。

 数学数理というのもかなり怪しく、数学マニアが養老孟司の論理整合性の欠落を指摘した例はほとんどない。数学能力が論理検証性を促すというのであれば、数学者のほとんど全員が養老の支離滅裂さを指摘していないとおかしいのだが。現実にはほとんど誰も言及していない。

 「品格」云々の流行を作った数学者というのがいるが、そもそも「品格」自体に論理的根拠など一切なく、あくまで主観的な感覚以上の何も論じてはいない。彼は東北震災時の千葉県ブタンコンビナート火災を挙げて、「ブタンが燃えても二酸化炭素しか出ないから人体には無害だ。」と言い張ったが、現実には二酸化炭素というは無色透明であって、黒煙を上げているのは不完全燃焼による煤煙であって、これは決して無害ではない。ネット上で騒がれた程の危険性はないものの、大気汚染があったのは事実である。

 文科系大衆観念的には多数大衆に人気が出て、世間的に成功していさえすれば常に正しい判断を下すものであると勝手に妄想する性質があるが。マスコミが取り上げる基準自体が科学論理的根拠に乏しく、あくまで大衆多数人気を基準にしたウケ狙いに過ぎないことを認識すべきである。

 そもそもマスコミというのは、読者視聴者に判断責任をなすりつけて、自分達の判断責任を「メディアリテラシー」などと称して丸投げするものであり。マスコミの目的は自分達の表面的評価による組織の利益追求であって、こうした無責任さは東電原発の暴走と構造的には全く同じものである。



 自分の感情が促す行動バイアスの全てが常に正しいという妄想を、ヒトの多くは漠然と抱いているため、「感情=人間としての心。」という短絡的方程式に則って判断しがちである。

 ヒトの多くは大脳辺縁系が促す感情によって作り出される思考バイアス自体が無意識であることを認識していない。だからこそ気分感情が促す思考バイアスを短絡的に「心」であると言い張るのである。

 ヒトの多くは環境依存的要因によって行動のほとんどが決定する傾向習性があり、これらは全て無意識な感情が作り出す条件反射行動に過ぎない。

 原発の危険性を放置したのも、スペースシャトルの危険性を放置したことも、集団組織的な暴動や虐殺に加わることも、学校や企業でのイジメ差別迫害も、これらは全てヒトの感情が促す無意識な行動バイアスの結果であり。これを短絡的に「ヒトの心。」などと形容するのはとんでもない大嘘なのである。

 チンパンジーなどのサルには感情は存在しても、人間としての「心。」に至るまでの自己行動検証性など存在しない。それを「サルにも心がある。」などと言い張る現在の生物学者はオカルト宗教としか言いようがない。

 ヒトが差別迫害を行うのは、気分感情による行動バイアスに無意識に流されているからこその結果であり。差別迫害が正当化されないのは「人間」にとってだけの価値観であって。現在の生物学上における生存価だけを論ずれば、差別迫害であっても「より強い生存に適した個体を選択するための本能的目的である。」などと言い張ることは極めて簡単である。

 「心。」とは、単なる感情に由来する無意識な行動バイアスに流されることなく、自律的論理検証によって社会全体の安全性や持続可能性に供する行動を採ることによって、結果的に促されるものであって。ヒトの感情の全てが短絡的に「心。」であるなどと言い張るのは、あまりに無責任な文科系大衆観念である。

 「優しい気持ち。」になれるかどうか、それを「心。」などと形容するのも無責任である。気持ちという大脳辺縁系の反射が行動に短絡的に影響している時点で、これは心でもなんでもなく、DV男が散々暴力を振るった後に脳内物質の相転移によって行動が急変しているのと同じであるからだ。

 社会安全性に関わる判断を行う場合、それが企業組織の利益に反するなどの「理由」によって、安全性を優先することが個人の利益に反する場合というのは決して少なくはない。イジメにおいても暴力的イジメ集団に迎合しておかないと自分も排除される可能性は少なくない。

 こうした集団的な「力」に抗うのは気分感情ではなく、徹頭徹尾自律判断であって。どんなに気分の悪い結果になりそうだとしても個人が自発的に選択しなければ人間としての「心。」とは形容すべきではない。

 ヒトの多くは自分の意識の全てが常に100%意識であると錯覚しているため、自分の気分感情を短絡的に人間としての「心。」であると勘違いする傾向がある。こういった錯覚に陥っているヒトに限って「自分だけは大丈夫。」などと言い張るものである。

 ヒトである以上、間違えないヒトなどいない。

 自分が間違った判断を下す可能性を認識しているからこそ、本当の意味での意識/自律的論理検証が働くのであり。これを拒絶するのは気分感情が優先しているからに他ならない。

 「自分だけは絶対に大丈夫。」だと盲信しておけば、自分の頭の悪さを認識せずに済むため、気分的には安心で満足なのであろう。

 自分が間違った判断をしてしまう理由も、多数他人が作り出した社会環境の処為であると思い込んでおくことで判断責任を放棄出来るものであると勝手に勘違いすることも簡単であろう。

 実際には多数他人が作り出す社会環境自体には、論理的には何の安全性の保証も存在しないことを、ヒトの多くは認識しておらず。単に「多数である。」というだけで安心満足しているに過ぎない。

 目先の気分感情でしか行動が決定しないというのであれば、これは統合失調症の一種に過ぎず、病気である。多数派が共通して持っている病理であれば、多くの場合病気としては扱われないものであるが、本能先天的行動バイアスによって自律的な社会的責任判断が失われることは充分先天的疾患なのである。

 こうした本能由来の社会迎合習性による自律判断の喪失性というものが、あらゆるヒトに存在することを前提とすれば。「自分だけは絶対に大丈夫。」などという無責任な妄想に陥ることはなく、「感情気分=心。」などという短絡的方程式を鵜呑みにすることもないはずである。




Ende;

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