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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

大衆観念。

2011年12月25日 23時16分00秒 | 意識論関連
 一般大衆的には「説得力」というのは気分的満足によって相手を「丸め込む。」能力のことを言う。

 こうした「説得力。」というのは論理的合理性が伴うわけではなく、単に相手の気分を捩曲げ、無視し、観念的に否定する意欲を失わせるだけの「力。」である。

 「決断力。」というのも、一般的には単に物事の短絡的決定性を言う場合がほとんどである。こうした大衆観念的な「決断力。」というものにも論理的合理性が伴う必要性はない。

 「指導力。」というのも同様である。単なる「仕切りたがり屋。」のことを「指導力がある。」などと形容している場合がほとんどである。

 仕切りたがる者の決断に、論理的合理性に基づいた根拠が伴うとは限らない。

 単に他者との比較において、他人を誘導したがる者であるという先天的、或は後天的習性として、結果的に周囲の者を服従させることになるだけであれば。それは服従させるための「目的。」自体が最初からないということでもある。

 単なる本能習性的な行動の「結果。」として、生物学的本能に由来する社会形成習性を発揮するだけであるならば。それは誰にも「目的。」のない集団を形成するだけである。こうした無目的な集団というのは制御する者がいないために暴走に至る場合が多い。

 特定の目的に基づき、その目的のための統率手段としてのヒエラルキー構造であるならまだしも。誰にも目的がない状態において、本能習性的行動の「結果。」としての統率というものというのは。むしろ、その集団の内部における個体の本能を満足させること自体が「目的。」となってしまうことになる。

 なにがしかに対する忠誠忠実性に対して、ヒトという種の生物は美徳を感じるようにできている。なにがしかに対して固定観念的に忠実であることを人間性であると錯覚するのである。

 イヌにとって服従は阿片である。イヌは服従すること自体が快楽で「目的。」なのである。

 生物学における本能的社会形成習性というものは、社会形成そのものへの「美徳。」という名の本能的満足によって目的が存在しなくても行うようにできているのである。

 「美しい。」というのは主観である。人それぞれであり、普遍的美などというものは存在せず、時代や環境に左右されるものである。たとえどんなに「傾向性。」を統計的に集計しても、それが「全ての者にとって普遍的に美しいと感じるものである。」ことの論理的証明にはならない。

 そもそも「美しい。」というのは論理的根拠では最初からない。こうした論理的合理性のない本能由来の観念を基準にして行動選択をしていれば、そこに本質的意識に基づく「目的。」行動が行われず、無意味に習性的な統率だけが一人歩きを始め、結果的に暴走を招くことにつながるのである。

 一般大衆的な「説得力。」だの「決断力。」だの「統率力。」といった、論理的根拠を持たない「大衆観念=ヒトという種の本能習性。」に無意識に流されているから、ヒトという種の起こすあらゆる問題というのが改善されないのである。

 

 とは言っても専門家にしか判断できないことというのも少なくはない。重要なのはわからない場合に判断自体を行わないことであり。観念的に丸め込まれて大衆観念的な「説得力。」に左右されないことである。

 単なる説得力だのコミュニケーション能力であれば詐欺師の能力に過ぎない。わからないことであるなら判断を行わないというのも、論理的合理性のある判断の一つなのである。

 最も悪い判断というのは、多数や権威といったものに迎合して気分的満足をしてしまうことであり。これは論理的合理性のある判断から最も遠い、気分的「観念。」なのである。




 動物が同一種に暴力を振るう「理由。」には論理的根拠はない。殺人も含めて暴力性の根源というの本能的気分であり、合理性はない。

 ウサギ等の野生生物が交配相手の選択において暴力を振るう行為に対し、「種の存続。」だのといった大局的目的など存在することはなく。ただ気分的に本能の満たされないことに腹を立て反射的に暴力を振るっているだけである。

 その「結果。」として偶発的に「種の存続。」に貢献する行動として観測することができたとしても、それはこうした「種の存続。」などに貢献しない行動習性を持たない種が淘汰された「結果。」に過ぎず。個体においての「目的。」とは無関係な「結果。」でしかない。

 個体に存在しない「目的。」というものを生物学的にこじつけても、それは超自然的なオカルトにしかならず。全く科学的論証にはなっていない。

 これに対して生物学は、「生存戦略や目的とは、比喩である。」という訳のわからぬ言い逃れを「支持。」するのだという。

 論理整合性を放棄する理由とは、論理的説明を「したくない。」或は「されては困る。」から以外にない。

 生物学における、こうした論理整合性の放棄というものは、ヒトという種の生物における習性と、それを認識するべき本質的意識の区別の存在を隠蔽するものである。

 生物学者達は詐欺師の手法についての説明をしてしまうことによって自分達の詐欺行為にまで言及されてしまうことを忌避して、本質的意識とは何かや本質的合理性の重要性を隠蔽しておかなければならないのである。

 その隠蔽の手法とは、本能的習性としての権威への服従性を利用して、習性こそが正しい判断を促すものであると「説得。」し、本能のままに行動することこそが正しい結果を導き出してくれるものであるという嘘で塗り固めることである。

 それによって観念的本能を満足させ、思考を停止させることが可能となるのである。

 思考が停止していれば正確な判断は行うことはできず、本能的習性のままに権威や多数に迎合することで「安心。」するヒトの習性を利用したペテンの手法、或は無意識的洗脳の結果である。

 無意識的洗脳であれば罪がないという話にはならない。そもそも脳科学分野であれば積極的に研究されていなければならない領域であり。研究すべき生物学者が認識できないというのは許されるような怠慢ではない。

 しかし、現状において脳科学界は特定の無意識的特殊能力の一面的優位性ばかりを取り上げ、優位性によって大衆観念的社会的成功が得られるかのような大衆迎合ばかりを取り上げることによって、意識の重要性を撹乱しているのである。

 スポーツ選手などの社会的成功というものは、それ自体には本質的人間としての価値。自律的公益倫理判断とは無関係である。

 大衆人気による社会的成功を取り上げることによって、大衆は利己的欲望だけに意識を奪われ。公益倫理的自律などという個人的には旨味のない話からは意識を失うのである。

 動物の本能的行動というのは、あくまで個人的欲望本能を満たすことが優先し、大局的公益性には意識が働かないものなのである。だからこそ本質的意識によって自律的に自己の本能習性を制御することが重要なのである。

 ただ漫然と気分的な「安心。」によって満足する怠惰によって、ヒトは目先の欲望に基づく行動選択しかしなくなるものである。「怠惰。」というのは必ずしも行動自体の「量。」とは無関係である。命懸けで地下鉄に毒ガスを散布することこそが意識の「怠惰。」なのである。

 ヒトは考えることが本能的に嫌いである。考えることが本能的に嫌いであるからこそ「ヒト。」でしかないのである。

 しかし、ヒトの全てが本能的に嫌いなわけではない。全く新しい発見や発明をする人というのは、むしろ大脳新皮質の容積の大きさに由来する、自発的思考の快楽を知っているのである。

 こうした「ヒトと人の違い。」というものは、本質的自発性の有無に因るものである。詳細は既に論じた記憶があるが、今回の趣旨とは少し異なるので割愛する。

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