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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

感覚。

2011年12月25日 00時27分23秒 | 意識論関連
 特定の人にしかできない能力のことを、それができない多くの人は天才的で「素晴らしい。」ことだと認識する傾向がある。

 逆に言うと、多くの人ができる能力のことは平凡で「つまらない。」ことだと認識しがちである。

 当然であると「思われて。」いるこうした傾向性であるが、こうした価値観というのは必ずしも本当に能力的高度さを「形容。」しているわけではない。

 二本の脚でバランスをとって歩行したりする能力や、普通に音声言語を発することというのは、実は非常に複雑で高度な機能であるが。こうした機能は「多くの人。」が平均的に持つため、多くの人は平凡でたいした機能ではないと「思う。」ものである。

 歩行機能とか音声言語機能といったものは、子供の頃に無意識的に習得してしまうため、その機能の高度さを認識することなく習得してしまう。

 しかし、大人になってから脳梗塞などで一度これらの機能を失ってから取り戻すことは、とても困難である。


 子供の頃に無意識的に習得する機能というのは、大人になってから習得するものとは困難さに違いがあるというある種のハンディキャップもあるのだろうが。大人になってから意識的に再度習得することになると、その機能の高度さを体感することになる。

 本当の機能的高度さと、一般「感覚。」的高度さの基準とは同じではない。


 いわば、凡人の「感覚。」的基準というものは、実際にはアテにならないのである。

 アイヒマン実験において被験者が服従する「感覚。」とは、こうした一般的凡人の「感覚。」的基準によって、無意識的に本能による社会形成習性として服従するのである。アイヒマン実験の被験者というのは、ごく普通の一般人であり、決して特異な人達だけにしか観測されないようなものではないことを、忘れてはいけない。

 一般的なごく普通の人達というのは、その感覚的「共感。」によって、アイヒマン実験のような珍しい状況における普遍的性質というものを、自分自身の行動選択とは無関係であると「思う。」傾向がある。

 多くの場面において関係のないことを、ヒトは無関係であると「整理。」してしまうのである。

 凡人の「感覚。」的な優先順位というものは、日常的に多い場面における平均的対処だけに意識が「整理。」されてしまう。

 動物の行動を「整理。」するのは、脳内物質ドーパミンが作り出す「常習性。」の作用である。

 凡人の凡人たる所以とは、つまり平凡な行動に意識が「整理。」されているからに他ならない。

 また、ヒトという種の生物には、自然淘汰の結果として社会形成という「習性。」が組み込まれているため。平均的であることに対しての強迫観念的執着を持つ習性があり、平凡であることへの感覚的「安心。」というものがある種先天的に組み込まれているようなものである。

 倉田真理子の漫画にあるように、「みんな、同じなんだ。」と、平均的であることに異常なまでに執着することを共感するからこそ、倉田真理子の漫画には「人気。」がある。それが凡人基準の「共感性。」とか「コミュニケーション能力。」の正体である。

 「合理性追求。」という言葉に対しての一般的「感覚。」として、利己的利益追求のようなものであると「思う。」ものであり。また、こうした「思い。」に対する論理的検証自体もまた「合理的。」であるとして忌避するのである。その結果固定観念的「思い込み。」という、いうなれば心理的拘束、ヒステリーを生み出すことになるのである。

 心理的拘束、ヒステリーというのは。ドーパミンが作り出す「常習性。」によって無意識に刷り込まれることによって作り出されるものであり。認知行動療法などの心理療法においては、こうした無意識的心理拘束の原因を論理的に「考え。」させることによって意識化し、それが論理的には無意味であることを自分自身で認識することによって心理的拘束を取り除くことが可能なのである。

 認知行動療法においては治療者は心理的拘束の原因を直接指摘したりはせず、あくまで患者自身によって「気付かせる。」ように促すだけである。それは、他者から心理的拘束の原因を直接指摘されると拒絶反応を示すことがあるため、あくまで患者自身が自律的に「気付く。」ように仕向けるだけなのである。

 無意識的な心理的な拘束というのは、患者の内部における無意識的価値観においては優先順位が高い傾向があり。他人から直接指摘されると反射的に拒絶することが多いという傾向習性があるために採られる臨床的手法である。

 しかし、患者が自分自身で心理的拘束の原因を論理的に認識することによって。こうした反射的拒絶を回避できるのである。

 本論においては、こうした感情的作用自体を論じているの以上。一般的なヒトの作用を利用するような一種のネゴシエーションは行うつもりはない。よって多数の「人気。」が得られないのは、むしろ必然である。



 一般的な感覚として、平均的で普通であることに対して強迫観念的に執着しておきながら。その一方で特殊能力を習得した者に対しての憧れも抱くという支離滅裂な「他人との比較。」にばかり意識を奪われている場合も多い。こうした「他人との比較。」にばかり意識を無意識的に奪われているからこそ「自分。」が何をしたいのかが見えなくなるのである。

 これはさておき。



 特殊な能力、感覚を習得した者のことだけを取り上げて、「直感的感覚こそに価値がある。」かのような番組作りというのはプロパガンダ的で、洗脳的である。

 そもそも視覚障害もないのにエコーロケーションは不要であり、サッカー選手でもないのに視野の広さや空間認知能力を論じても一般人にとっては無意味であり。また、公益的でもない。

 特定の人にしか認識できない差異であるならば、特定でない人達にとって本来価値を持たないものであり。どんなに味覚や嗅覚の優れたソムリエや料理人が勧めるものというのは、特定の特殊感覚を持たない凡人にとっては価値自体を認識できず、無意味である。

 特殊能力が優れていることというのは、社会的注目とか評価にはなるであろうが。こうした「社会的。」評価というのは大衆迎合的な価値観に基づくものであり。現実的に社会公益的価値に直結するようなものではない。

 特殊で社会的注目を得るような能力が社会の安全性や持続可能性に貢献しているわけではない。

 こうした本質的社会的価値というものを無視して、目先の注目評価に意識を奪われているというのは、目先の享楽に溺れて本質を見誤っている。

 気分の悪い話を無視するというのであれば、戦争や事故の記録から教訓として未来に活かすことを拒絶するということであり。それは頭のおかしい原発研究者の主張とほとんど同じである。

 「忘れてはいけないもの。」を忘れるから「人間。」性を喪失するのである。


 ヒトは自らの異常性を認識することを拒絶する性質がある。「自分だけは大丈夫。」という論理的根拠のない身勝手で過剰な確信によって自らの異常性を認識することを拒絶するのである。

 そういう「習性。」がある。

end;

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