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意識論。

2013年09月13日 17時20分44秒 | 意識論関連

 ○意識論

 意識というものの定義は幾つかあるが、ヒトという種の生物だけが持ちうる人間としての本質的な目的意識そのものを分類定義した論文は従来存在しなかった。

 医学上における意識の有無とは、姓名を答えられるとか、視覚認識に異常はないか、などの基準で判定されるが。これらの基準では人間としての本質的意識の有無については全く判定が出来ない。

 人間としての本質的意識とは、個人が主体的自律的に社会的責任判断選択を下せるか否かであり。これは視覚認識能力の有無や姓名応答の有無で判定出来るようなものではない。

 人間としての本質的意識とは。すなはち単なる遺伝分類上での「ヒトという種の生物。」が、人間としての自律的な社会的責任判断可能かどうかの判断が伴わなければならない。

 最近の事例を挙げれば、東京電力福島第一原子力発電所の安全担当者による危険性放置の有無を、医学上の意識判定基準では判定不可能なのである。

 医学は臨床で科学ではない、医学は生物としての生存を目的としたサービス商売であって、患者のヒトとしての生物的健康しか保証することはない。従って無責任な凶悪犯罪者を「治療」診察も治療もしない。また、現在の司法制度においても悪者探しをして懲罰科料の妥当性を吟味するだけであって、論理的根拠を持った具体的再発防止対策には一切つながらず、単に懲罰感情を満足させているだけの大衆迎合に過ぎず、社会的な価値としての安全性や持続可能性に対して何ら貢献しないばかりか、むしろ危険工学的分析の障害にしかなっていないのである。

 こうした既存の制度手続きや体制というもものが、その場限りの大衆迎合に過ぎないことを、ヒトの多くは認識しておらず。故に具体的な問題点の改善が一切進まないことに陥っているのである。

 本来、危険工学においては「悪者探し」は一切行わず。ヒトが起こし得る過失を明確にし、これを共有することによって同じ過ちを繰り返さないようにすることで対策教訓として扱うことが出来るのであり。現在の司法システムにおいては、こうした合理的対策が手続き上一切盛り込まれておらず、処罰感情だの被害者感情を満たすことだけを目的とした非科学的な観念に基づいた制度に過ぎない。

 とは言え、個人に主体的な危険に対する再発防止意欲がなければ、どんなに過去の事例から対策を共有しても意味はない。すなはち、人間としての責任判断能力というのは、自発的主体性の上に成立するものであって。規範意識だの超自我的抑圧といった環境から刷り込み学習された無意識な価値観で作られるものでは構造原理的にない。



 §:自己

 自己とは、生物学上の個体としての区別だけを指すが。環境依存的に刷り込み学習された無意識な抑圧や行動バイアスだけで行動が決定していれば、これはたとえ「ヒトという種の生物」であっても個人の主体性意思としての人間の論証には全くならない。

 スタンレー・ミルグラムによる服従心理実験、通称「アイヒマン実験」では。ヒトという種の生物には権威に服従することで個人の主体的判断を喪失させ、他者に危害を加えるように誘導することが可能であることを証明した。

 アイヒマン実験において他者に危害を加えた被験者達というのは、日常から特別異常な性格を持っているわけではなく、ごく一般的な普通の市民から抽出されており、「ヒトという種の生物」における普遍的習性として権威服従性というものが立証されているのである。

 ミルグラムのアイヒマン実験論文にもあるように、「Cyberneticsの観点から。」と称して断片的有効性も論じられているが。これは現在の生物学における一面的立証を短絡的に絶対科学的証明であるかのように言い張る一種の「文化」に基づくペテンであり、科学としての社会的役割を蔑ろにした極めて無責任な論証法である。

 生物学の異常性については後述するとして。

 「自己」の本質とは。多数派や、多数派によって認証されたとおぼしき権威の意見命令や規範意識に基づいて主体的判断を放棄しない、本質的な「自律」選択を指すものである。

 東京電力という社内環境において、原発の危険性を放置するかどうか。

 イジメが蔓延している教室において、イジメを傍観放置するのかどうか。

 ナチス政権下のドイツにおいて、ユダヤ人絶滅計画に同調迎合するのかどうか。

 例えは挙げればキリがないので、各々想起して頂ければ良いが。環境に左右されずに個人が主体的な自律判断を下すことこそが、個人の人間としての社会的価値でもあり、同時に他者と互換不可能な個人の人間としての尊厳の論証ともなるのである。

 そこに生物個体としての「生存」は意味を持たない。ナチズムに反逆して命を落としたベンヤミンの行動を、短絡的に「死んだ」や、世間的に成功しなかったことを根拠に人間としての価値が低いことの論証には全くならないからだ。

 東京電力社内においても、原発の危険性を訴えることで失職する可能性があるとしても、それが社内で多数派を占めているとしても、バカにされようとも、マスコミが取り上げないとしても、それを放置したことこそが大惨事を招いた「人災」の最も根源的原因に他ならない。

 個体の生存価と人間としての価値には相関性がなく、故に生物個体としての「生存」に意味はない。

 ヒトが回避不可能である災害であれば「人災」とは分類されない。回避可能性が立証出来るが故の「人災」であり、回避する個人(自己)の意志こそが、人間性の証明なのである。



 ここで多くのヒトが忌み嫌う話をしておこう。

 脳内麻薬ドーパミンは、その常習性によって行動や思考を整理する。

 「慣れる」、「ハマる」、「癖になる」といった性質は、全てこのドーパミンが作り出す。

 ドーパミンは別名「安心物質」とも言われ、安心と不安に分類することでヒトの行動バイアスを作り出す。

 ヒトはこの世に生まれて今までずっと「生きて」いるために、「生きて」いることが安心である。

 これはヒトという種の生物に限らず、大脳辺縁系の持つ最も基本的な行動バイアスの根幹を成すものである。


 ヒトは誰しも自己の意志選択によってこの世に産まれて来た者はいない。

 自己の遺伝要素は自分では構造原理的に選択不可能であり、その選択不可能な遺伝要素によって作り出された大脳辺縁系が作り出す情動気分感情もまた、自己の選択が介在する余地はない。

 後天的に刷り込まれたあらゆる価値観であっても、時代や世間という成育環境を自己自身では選択不可能である以上、これもまた自己の選択が介在する余地はない。後天的に刷り込み「学習」されたあらゆる価値観の類というものは、自己の主体的選択によるものではなく、それがどんなに強い感情を伴った好き嫌いであろうとも、「結果」的にドーパミンによって「整理」された行動バイアスに過ぎない。


 ここまで論じると、ヒトによっては「自由意志など存在しない。」などという短絡的帰結に至る者もいるが。こうした短絡的帰結を導き出して「おかなければならない理由。」もまた、大脳辺縁系が促す思考バイアスに由来する結果である。

 「概ねほとんど全てが自己選択不可能であるならば、短絡的に自己選択可能性の全ては実存しない。」ことに決め付けておけば、あたかも全てを知り尽くしたような全知全能感覚に陥ることが出来るからであろう。しかし、これは感覚的観念に過ぎず、自己選択可能性がどこにあるのかを検証しようとする主体性が欠落している者特有の身勝手な妄想に過ぎない。


 では一体何が本質的な主体性を持った自己選択であると言えるであろうか。

 それは生存意欲を含む先天的なヒトとしての行動習性や、時代や世間から刷り込み学習された価値観に惑わされることなく、自己が存在するに価する社会の在るべき姿としての本質的な目的意識に基づいた、現在における選択可能性に実存する。

 とりあえずはこれが意識の本質であり、本論における「解」でもある。とは言え、これを厳密に理解して簡単に実践出来るようなものではない。

 ヒトの多くは困難なことを短絡的に不可能性の論理証明とすりかえる性質がある。簡単で安易に「これさえやっときゃ、全ては解決する。」的な話には簡単に飛び付くが、自己の内部の刷り込み学習的固定観念の全てを論理的に検証して行動に反映させるような面倒臭いことには耳を貸さないのが、ヒトという種の生物の習性でもある。

 オリンピック選手やビジネス、大学入試や就職活動や技術者倫理など、他人に対しては難しいことを要求しておきながら。社会にとって最も重要な安全性や持続可能性についての検証においては、多くのヒトは行わないものである。





Ende;

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