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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

著しいバカが発生する温床

2021年09月30日 14時19分19秒 | 意識論関連

私自身もスーパーに勤めていたことがありますが、会計前に食べてしまう困った客なんて、ざらにいるんです。コロッケを買って、その場で食べて空の袋だけで会計しようとするおじいちゃんとかね(笑)。でも、それで警察を呼ぶなんてことはなかったです。ここまでの騒ぎになったのは、動画に残していたことと、悪いイメージがあったからでしょう

 -へずまりゅう

 

⇨「困った客なんて、ざらにいる」からといって 自分が困ったことをしても良い理由には全くならない

困った客」だと認識しているのであれば それは「悪いこと」であるとも認識しているのであって 「ざらにいる」ことを根拠に自己の迷惑行為を正当化することはできないのである

 

「だって 皆が」とは 多数派同調バイアスに過ぎず それは主観的に安心なだけであって 論理客観的な安全性の根拠には全くならない

どんなにたくさんの迷惑行為を枚挙しても 迷惑行為が「普通」で「常識」的で「間違っていない」ことの論証にはならない

それは自身の幼稚性を自慢しているようなものであり 言語道断である

 

バカ特有の屁理屈の形式は 基本的に「他人が悪いから」という環境依存的な責任転嫁である

オウム真理教においても 通り魔の屁理屈においても 暴走族や振り込め詐欺集団においても その行動の論拠は「社会が悪い」というものであり 「俺が悪いことをするのは 社会が悪いからだ」というすり替え論法に過ぎず 何ら論理的根拠にはなっていないのである

確かに社会には様々な問題があるのは確かで 不公平や理不尽な格差というものが存在してはいるものの だからといって自分の迷惑行為を正当化できるわけではない

むしろ 自分から率先して「正しい」行動を主体的に選択してこその「人間性」というものである

 

ヒトが陥りやすい傾向性を抽出してきて「人間的」などと形容することを文科系の大衆やマスコミは平気でするが

ヒトの傾向性から導き出せるのは「ヒト性」だけであって ヒトの傾向性をどんなに枚挙しても人間性や倫理の論証には全くならない

 

「まちがったっていいじゃないかにんげんだもの」と みつを的な話で気分的に安心満足することを人間性だと勘違いするのは

気分的安心満足という個人の主観を 自分の意識の本質だと勘違いしているからである

「まちがって」いるなら「良い」わけがない 当たり前の話である

間違えて 間違えを改めないことこそが 本当の間違いなのである

だが ヒトは間違える生き物である ヒトという種の生物には工業製品のような品質保証がどこにもない

自分の先天的欠陥は自分で選んではいないのだが 自分の先天的欠陥に由来する間違いを正当化することはできない

「俺が600万のユダヤ人殺害計画書を書いたのは ナチス政権が悪いからだ」という屁理屈は通用しないのである

「俺が原発の津波に対する脆弱性を放置したのは 東電という会社の体質が悪いからだ」という屁理屈も通用しない

ならば 間違えた者に懲罰を与えることよりも 同じヒトである以上は同じような間違いに陥る可能性が存在するという前提において どうやったら間違えずに済むようにできるのかを考え工夫することの方が より効果的 実効的 合理的に間違いを減らすことができるのである

 

ヒトは間違えた者に対して暴力排除的差別をすることで正義を振りかざそうとする習性がある

正義を振りかざしておけば自分が正当化できると勘違いしているからである

「自分だけは絶対に間違えない」と そう思い込むからこそ違法な「私刑」も平気でやらかすようになる

私刑を行う奴も「ざらにいる」ものである 「ざらにいる」からといって正当化することはできない そんな言うまでもないことすら気が付かないというのは 何も自分では「考えて」いないからである

 

へずまりゅうの行動の屁理屈というものは 要は「自分が生きるため」という利己的目的に基づいたものである

ナチスの吏官も 東電原発安全担当者も 「自分や自分の家族が生きるため」に有利で安心な行動を優先したからこそ 社会安全性や持続可能性を蔑ろにしたのである

「生存自体に意味はない」とは そういうことである

個人が特定環境社会において生存にとって有利な行動選択をしたからといって それがむしろ国際社会全体における安全性や持続可能性において有害な行動になることは珍しいことではない

衆愚から人気を得られる話に同調し 金儲けに成功することは簡単であろう だが 嘘やデマで大衆を騙してしまえば社会を崩壊破綻にしか導かない

 


一部には「決め付けをする人は疑え」という話があるが 基本的にヒトが説明する論説は全て決め付けに基づいているのであって むしろ「かもしれません」的な根拠のあやふやな説明しかしていないのに「実害があります」などと宣言している時点で嘘なのである

嘘か 真実か それは論理客観的に考えればわかる話である

読書猿だの更科功は「かもしれません」的なあやふやな説明しかしていないにも関わらず 衆愚は簡単に鵜呑みにして疑うことを全くしない

ヒトという種の生物は 自分が主観的に気分の良くなる話を真実だと錯覚する習性がある

そういう先天的欠陥が存在しているのである

だからへずまりゅうみたいな「著しいバカ」も発生することがある

「著しいバカ」をただ糾弾するのではなく むしろ「他人のフリ見て我がフリ直せ」と言うように 「自分もバカげた間違いに陥るかもしれない」という前提で自らを律するための教訓として捉えることの方が重要なのである

「自分だけは絶対に大丈夫だ」とでも思っておけば安心満足なのはわかっている だがその安心満足こそが精神の怠慢を促し へずまりゅうのような著しいバカが発生する根源的原因なのである

へずまりゅうのような「著しいバカ」というのは 衆愚の多数が温床となっているのであって 大多数の頭の悪さによって「著しいバカ」は発生するのである

 

 


Ende;


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