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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

イジメ。

2011年08月17日 08時48分32秒 | 意識論関連
 ここのところアクセスIPが増える傾向があるのだけど、その原因がどの記事に由来するのかはgooブログでは無料ではわからない。単にデジカメの懸賞を紹介したのが原因かもしれないけど、学校でのイジメに関する話にアクセスしているかも知れないので、もう少し書いておこうと思う。  実際に学校でのイジメを無くすためには、子供達が勝手に作り出す習性的な「社会性。」、生物学的な社会形成習性任せにしないことである。  具体的には子供達だけで放置しないことである。「協調性を養うため」だとか言う屁理屈は単なる教師や親の手抜きの言い訳でしかない。イジメという「協調行動。」を養っても、人間性は全く養われないばかりか、むしろ心に大きな傷を与えて社会に出た後に重大な悪影響を及ぼすことの方が多い。それは本質的には協調性などではない。  その意味において、学校内部に監視カメラを設置するのは悪いことではない。学校内というのは生徒にとっては公共空間であって、イジメを「プライバシー」などとは言うことができないのである。  生物学的な社会形成習性というものは、服従する対象の存在が非常に大きく。大人の目があればイジメというのはエスカレートすることはない。ましてや動画で「証拠」が残る状態であればなをのことであろう。  だが、こうした物理的対策だけでは根本的解決にはならない。根本的には通り魔になるようなヒトを育てないことであり、そのための教育でなければ社会的存在価値はない。  ただ漫然と教師の言うなりに服従するだけの従順な生徒を育てた方が、教師にとっては簡単である。徹底して服従を強要しておけば良いからだ。だが、それは本質的には手抜きでしかない。そうした手抜き教育によって育った教師しかいないから、結局は人手不足、人材不足に陥るのである。  そのためにも、従来の生物学における「社会性。」という根本的な誤りを正さなければならない。脳科学というのは生物学の一部に分類されており、生物学的社会形成習性を人間性と混同している限り、本質的な人間性を伴った「社会性。」とは何かについての研究は一切成されないからである。  これは私に言わせれば、もはや犯罪である。  大衆やマスコミが「脳トレ。」の類に満足してうかれているから根本的な問題が蔑ろにされるのである。「脳トレ。」類など、いうなれば「クソゲー。」「ヒマゲー。」でしかないことを認識すべきである。  生物学者達にとって、学校でのイジメなどというのは他人事に過ぎない。ヒト以外の研究も大切ではあるが、ヒトについての研究が全くされないというのは異常である。  イヌに見られるような協調行動というのは、そこに異常なまでの服従習性が根本にある。それこそがイジメという異常なまでの協調行動を作り出していることに、今更疑うことの方が頭がおかしい。  悪いことであると「知って」いながらイジメを行ってしまうこと自体は、どんなに学力成績が高くても人間として出来損ないであることを、誰も認識していない現状を維持していることこそが異常なのである。  多くの大衆凡民は、自分が育った環境というものを事後正当化したがる性質がある。自分の世代でイジメがあったことを、あたかも「社会勉強のひとつ」であると言い張るのは、単なる虐待の連鎖の一種に過ぎない。こうした愚かさを民主主義の手続きに基づいて存続させておいて、社会が悪くなることはあっても良くなる訳がないのである。  民衆がバカしかいないのであれば、民衆主義の制度をどんなに徹底しても、それは単なる「バカ主義。」にしかならないからである。  「難しいことはわからない。」というのであれば、教育についても関わるべきではないのである。権利ばかり主張して義務を果たさないヒトがあまりに多すぎる。だから「モンスター○○」というのが蔓延する。どんなに学生時代に学力が高くても、点数にならない新しい知識に全く興味がないのであれば、それこそが学力という抽象化されたエサに対する機械的条件反射行動の結果としての学力でしかなく、それこそがバカの大量生産の弊害なのである。  過去に何が出来たかが重要なのではない。今現在何ができるのかが重要なのである。  本質的な「人間とは、何か。」というのは、たとえ現在の義務教育において教わっていなくても、社会人として全ての人が知っていなければならないはずのことである。たとえ教員免許を持っていても、本質的意識とは何なのかが理解できないようなバカが教師を続けられる現状自体が根本的に間違いなのである。一級建築士の免許を持っていても、根本的にバカなら社会的には損失しか生まないのと同じことである。  そもそも、義務教育というのは、子供達にしてみれば国家権力による強制的集団軟禁状態であり。それ自体が子供達にはストレスの原因なのである。そのストレスがイジメの一因ともなっているのである。外からの不審者にばかりに警戒して、学校内での犯罪者を放置して良いわけではない。  学ぶことは権利であって、本来義務ではない。どのようなことを具体的に学ぶのかの選択肢の狭い現在の教育ビジネスにおいては、義務ばかりが強調されており、学ぶことの権利は規制されている状態なのである。  教師が教え込みたいことだけを教え込み、それ以外の知識を隠蔽統制されている現状というのは。本質的には学ぶことの権利が奪われている状態なのである。何も知識を広めることができなかった時代と現代を同列に扱うのは間違いである。  学校に通り魔が侵入するとマスコミは大騒ぎするが。陰惨なイジメがあってもマスコミというのは「多数」の事件については「日常的」であるとして報道はしない。マスコミというのは稀な事件、センセーショナルなことしか大きく取り上げることはないのである。   溺死の大半は海や川で起こるのではなく、実際には風呂場が95%以上である。だが、マスコミにとって風呂場での溺死は「日常茶飯事」なので報道しないのである。  通り魔に関しては、物理的対策というのは事実上不可能である。根本的対策としては、通り魔を行うようなヒトを育てないことが最優先されるべきなのであり。学校に対する漫然とした怨念を持った人物を大量生産しておいて、学校だけ安全性を確保されても、社会的には迷惑でしかない。  秋葉原の歩行者天国中止であっても、それは通り魔に対する論理的対策にはならない。通り魔と歩行者天国の相関関係など初めからないからだ。それは学校内においても同じである。  素性の知れた大人が学校内に多くいる方が、少数であるはずの異常者に対する抑止にはなるはずである。その異常者というのが、通り魔であってもイジメを行う生徒であってもである。

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