情動行動とか本能習性というものは遺伝的に決定しているものであって 目的意識に基づいて合理的に選択したものではない
「欲望そのものを欲することはできない」のである
従って本能欲望のままに行動することは何ら「自由」ではない
主体的に選択不可能な行動バイアスは「自由」でも何でもないからだ
ヒトは誰も自らの主体的選択によって産まれてきた者などおらず
自分の肌の色や瞳の色や体格などの遺伝的形質や 脳の構造に由来する本能習性も自分では選択することが構造原理的に不可能である
しかし 本能欲望というのは決して社会安全性や公平性にとって反するものだけではなく 赤ちゃんのほっぺた見て意味もなく幸せな気持ちになることもあれば 近所の子供がイジメで自殺してしまったり 自動車に轢かれて死んでしまったりしたら自分も嫌な気分になることもあり 社会持続可能性や安全性や公平性にとって適する本能欲望も存在するのである
目先の欲望の大きさに依存せず 本当に求めている社会のあり方がどのようなものであるのかを主体的に「選択」してこその本当の「自由意志」と言えるのであり
遺伝的進化の結果に過ぎない本能欲望任せに権力だの物質的豊かさだのを求めても 「人間」としての意識の論証にはならない
従来進化生物学上では 生物や遺伝的進化は目的に則って合理的に選択しているかのように説明してきたが 生物やその遺伝的進化というものは全て「その環境」への適応結果であって その先に目的が存在するわけではない
「生物の全ては力を求める」などという「結果」をどんなに陳列しても ヒトが権力を求めなければならない根拠にはならない
フリードリヒ:ニーチェの論説は「遺伝的進化には目的が存在している」という間違った前提に基づいたものであり 論説の基礎となる前提が間違えている以上 ニーチェの論説は全て意味がない
そもそもニーチェの言っている内容というのは具体性が乏しく 読み手が自分の気分が良くなるように都合良く勝手に解釈して満足することができる観念論に大衆人気があるだけで 到底論理的根拠に基づいた「真理」の論証にはなっておらず 到底「哲学」とは言えないのである
大衆の多くは哲学を「気分が良くなるもの」だと勘違いしているが 哲学は本来「嘘と真理を区別するためのもの」である
欲望が満たされないことにフラストレーションが溜まれば「不条理」だと感じることになるが 様々な欲望の中から社会的迷惑にならない個人的な楽しみを「選択」することは決して不可能ではない
主体的に楽しめる純粋行為を 子供の頃から見つけるためには 子供の主体的好奇心を大切にし 安心して好きなことに熱中できるようになれば 付随して様々な知識や主体的な考え方も身につくようになり 結果的に社会安全性や平等への配慮も働くようになるのだが
既存の価値観に則った基準で学力偏差値などを他人と比較され続けていると 他人との間の優劣の比較だけが学習動機になり 平等を嫌い利己的利益ばかりを追求するバカが出来上がるのである
一度他人との比較競争に依存した評価承認中毒に陥ると 物事の判断の全てが他人との比較だけになってしまい 多数他人や権威からの評価や利益ばかりに執着する(中毒)ようになり 自律を失い 自律的に物事を検証判断せず 目先の気分的な安心満足ばかりを追求するようになるため 教えられた内容に間違いがあっても全く気づくことができないバカが出来上がるのである
たとえ学力偏差値が高くても 自分の頭で物事を検証する「考え」が働かないため 教えられた内容が間違っていても気づくことはできない
学力成績の評価基準が動機であれば 評価だけが目的になり 教えられた内容が間違っていようがなんだろうが 教えられた内容を教えられた通りにしか覚えようとはせず 自分の頭では客観的に論理検証することはなくなるからである
「ウイルスが困るから 適応した変異がどんどん起こる」などという荒唐無稽な進化プロセスを主張し 「自分の言っていることが論理客観的に正しいのかどうか」という自己客観性は働かないのである
なまじ学力偏差値が高く 国家試験に合格していることによって あたかも「自分は頭が良く 絶対に間違えることのない存在だ」という過信によって 他人から間違いを指摘されても認知的不協和を解消する形で無視し 耳を貸さなくなる
「臨床は科学ではない」と言われる
臨床医学は決して全てが科学的に解明されているわけではなく ヒトの人体においても謎の部分は膨大で 到底全てを理解把握することなどできておらず
医者というのは厚生労働省が慎重に安全性を確かめた医薬品や治療法だけを機械手続き的にこなしておいても成立する仕事であり 個別の医師が科学的な論理客観的根拠や証拠を検証判断する能力は特に必要ないのである
厚生労働省が把握していない医療処置上の危険性であれば 責任は厚生労働省に丸投げできるのであって 個別の医師が自律的に危険性を判断できなくても責任は問われない
成熟した制度システムの中では 機械手続き的に決まった手順さえ踏襲しておけば 責任逃れができるように出来上がっているため 進化生物学上の誤謬であっても 間違った解釈をしたままでも責任逃れができると勝手に勘違い錯覚しているのである
政治家も同じように「既存の知見に基づいた判断さえしておけば全ての問題は解決するはずだ」と錯覚しているため 「文武両道や規範意識でイジメを無くす」などという客観的根拠の乏しい観念にすがりついて安心満足するだけだから 問題の本質が見極められず 問題が一向に解決しないのである
経済対策においても 未だに「トリクルダウン」などというアダム:スミスの「見えざる神の手」妄想を鵜呑みにしているからこそ貧富格差が一向に是正されないのであり
理化学研究所理事の野依良治が 研究者の論文不正事象に対して「嘘をついてはいけません」などという幼稚園レベルの「教育」を「再発防止策」だと言い張ったのも 問題の本質を見極める意欲も具体策もない無能な老害だからこそ 外見だけ取り繕った「対策」以外 実効性のある対策には興味すら持たない
データ改竄などの論文不正というのは 研究者の評価承認欲求が原因であって 個人の人格性や人間性や倫理観に依存したものであり 自律的な社会的責任判断能力の欠如は幼少期からの教育の仕方に原因があり 学力偏差値が高くてもバカはバカなので 研究に対する真摯な姿勢を発揮できるかどうかは大人になってからでは判別が困難である
ましてや「論文データを改竄してはいけません」などと口頭で注意してどうなるものでもないことは よほどのバカでもなければ気づくはずである
しかし 気づいていても誰も指摘はしない
ノーベル賞受賞者の野依に忖度しているからである
組織が腐敗するのは 組織を構成する個人が自律判断選択をしないからであり
原発事故における「最も根源的な原因」と同じものである
Ende;