*/---NHK「ScienceZERO」の内容説明。
思いやり、友情、笑顔など、私たち人間の「心の動き」。今、その成り立ちを解明する研究が急ピッチで進んでいます。カギは、先祖が歩んだ「進化の足跡」に隠れていました。
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「感情=心」ではない。
本能的感情というものは、思いやりや友情、笑顔といった文系観念上都合の良い感情だけではなく、差別排除や嗜虐性も促すものであって、感情の全てが人間としての「心」になるわけではない。
振り込め詐欺師や少年ゲリラの内部における限定的思いやりや友情/仲間意識こそが彼らの暴走を促すのである。
笑うという行為においても、集団でイジメを行う時であっても笑うことは珍しくはない。笑いというのはむしろ邪悪な感情によって促されるケースの方が多い。
ヒトの反射的感情の全てを人間の「心」と言い張ることは、イジメを容認することと同義であり悪質である。
生存に適した行動の全てに人間性が伴っている証拠はない。あくまで「生き残った」結果として生存しているだけであり、ましてや本能的情動行動であれば大脳が肥大する以前における生物的祖先の行動習性が組み込まれているのであって、本能が常に人間性を伴った社会性を発揮することを証明することは原理的に不可能である。
生存してさえいれば強姦だろうが虐殺だろうが生物学的にはどうでも良いことなのである。強姦や虐殺に快楽を感じるとしても何ら不思議はなく、それらは全て生存の「結果」以上の意味は存在しない。
社会心理学における監獄実験や服従実験の結果を無視し、人間性にとって都合の良い実験結果だけを基にヒトの行動習性を規定することは、文系大衆観念のゴリ押し/強弁であって、科学的論証として成立していない。
ヒトには他人を思いやる感情も、他人を排除する感情も、優しい感情も、暴力的感情もそれぞれ存在し、本能のままに無意識に流されていれば、環境によって無為に左右されてしまうだけであり。様々な感情から統合的な観点から本質的合理性を持った「選択」を介することで、はじめて「人間」としての行動となるのである。
従って無意識的な本能習性や、その場限りの感情に流されているだけなら本質的な人間性を常に発揮することは出来ないのである。
単にその場限りの気分で行動が選択されていても、断片的に人間性を発揮することはある。しかし、環境や状況が変化した場合に気分が悪くなるからといって凶悪性を発揮してしまうことを自律的に抑制出来ないからといって、自分にとって都合の悪い気分の悪い話を無視し、論理検証を放棄することこそが人間性を喪失する原因である。
無意識な習性に無為に流されているだけであれば、そこには自律的「目的」選択を介在しておらず、全ては「結果」しか導き出さず。断片的「結果」の抽出だけではヒトの人間性を証明したことにはならない。
断片的に人間性にとって都合の良い実験結果を抽出しても、監獄実験や服従実験の反証には全くならないからである。
ヒトとは人間性と非人間性の両面を持ち合わせており、人間性に値する選択判断を行う本質的「意識」によってはじめて人間性を発揮するのであり。無意識的な本能習性の枚挙からヒトの人間性を証明することは原理的に不可能である。
習性とは傾向性であって、断片的傾向性の枚挙をあたかも普遍的行動選択であると錯覚し、習性以外の行動が選択不可能であるかのように言い張るのは科学的検証とは言えない。
Ende;