安全性に関わる研究のことを 失敗学や危険学って言うのね
なんで安全学って呼ばないのかっていうとね 安全を追求するために重要なのは 何が危険で何が失敗の原因なのかを詳しく解析することなのよ
あらゆる危険性を徹底排除してゆくことによって 安全性というのは高められる
だから危険を学ぶ 失敗から学ぶ
意識とは何かを知るためにおいても同じことが言える
意識とは何かを追求するためには 意識ではないものが何かを徹底追求することによって 本当の意識が何かを知ることが出来るわけよ
だから 意識論って言いながらも無意識とは何か 愚かとは何かを論じているわけ
愚かさが何かを知って 初めて本当の知能になる
意識とは何かを追求する学問に名前をつけるとしたら 無意識学とか愚学って呼んだ方が良いのかも知れない
自分の頭の悪さがどういうものなのかを知ることによって 頭が悪い失敗を回避出来るようになる それが結果的に本質的な知能向上になる
単に「皆が言っているから」とか 「権威にそう教えられたから」といったことを 何ら自分では論理的に検証することもなく鵜呑みにしていると 真実を見失うことになる
本庶祐 佑が「教科書を疑え」って言ってたけど 教科書に書いてあることをただ漫然と鵜呑みにしているだけでは本当に頭が良くなったことにはならない
本当に頭の良いエリートの学生だというのであれば 教授の間違いを指摘するくらいの能力がなければならない
自主的 主体的に真理を追求していないからこそ 自律的な論理検証性も働かないバカが増えてしまうことになる
そして 困ったことにバカ同士で話を丸め 「誉められないと やる気が起きないじゃありませんか」などというバカの観念を共有して気分的に安心満足することで 自分達の頭の悪さを認識しようともしなくなる
目先のバカの多数派に流され 自律的に何も考えない状態は「頭が良い」と言えますか 言えませんよね どんなにクイズの正解率が高くても 学力偏差値が高くても 自分の主体的考えがないならただのバカなんですよ
自律の源は主体性です 主体的に物事を考えてこその目的意識ですから 「死にたくない」だとか「金にならない」だとか「世間や権威から承認されない」といった環境依存的な気分感情に無意識に流されるのは 全て主体性の欠如が原因なのです
あらゆる「人災」というのは ヒトの無責任さが作り出すものです
最初っからどうにも回避不可能性が証明されていれば これは「人災」としては扱われることはありません
トロッコ問題的な条件下において 死んだ人数で倫理や正義が立証されることはありません そこには正義も倫理も最初から存在してなどいないからです
他人の無責任さによって危険性が放置されて誰かが死ななければならない状況下において 自分の選択で死ぬ人数が変わるとしても そこに選択責任なんぞありゃしないんですよ
どんなに「悩んで」も 提示された条件の範囲に倫理が存在しないことが指摘出来ない時点で 本当は何も「考え」てなんかいないんですよ
でも マイケル:サンデルの講義を受けた学生達も テレビで見ていた視聴者の誰一人として 「そこに倫理なんぞ存在しないぞ」なんて言い出さない
それは サンデルによって促された命題によって「悩ましい気分」を促されたために それを短絡的に「何かを深く考えた」と錯覚し 「自分は頭が良くなった」と勝手に錯覚することでサンデルを好きになり 何の疑いも持たなくなっていることで余計何も「考え」なくなる
これが洗脳の基本構造です
実は オウム真理教の教祖も似たような手法を用いていました 答えの出しようもない命題を与えておいて「皆さんご自分で考えてみて下さい」なんてね
構造原理的に解答の出しようのない命題であっても 出題された命題自体が構造原理的に意味がないことには誰も気付かない習性があるんです
ジャレド:ダイアモンドも同じです 遺伝的進化の話とは無関係な「スペイン人がインカを滅ぼした」話をひけらかしておいて 結局「関係がありません」という結論でしょ 本人が「関係がありません」って正直に言っているにも関わらず 読者や視聴者は何か意味のあることのように錯覚しているんですよ ピュリッツア賞なんてのはその程度のもんなんです
何ら論理的には意味がない話であっても ヒトの多くは大量の情報を聞かされると情報の内容を理解するだけで意味があると勝手に勘違いして何かを考えたかのような錯覚に陥る習性があります
これって振り込め詐欺も使う手口です
「皆さんも考えてみて下さい」なんて「頼む」のも ベンジャミン:フランクリン効果を期待しているのかも知れませんよ
逆に オイラみたいに最初から「それはお前がバカだから騙されてるだけじゃねぇか」なんて言うと 自分の頭の悪さを自覚しなければならず 反射的拒絶反応によって論理的根拠もなく否定的思考バイアスが働くのかも知れません
それは まるで芸人の宇治原ナントカ君が「俺は頭が良いんじゃぁ!」と怒鳴って開き直っている心理状態と同じじゃありゃしませんかと
バカの難治性というのは バカというのは自律的には何も論理検証出来ず 主観的気分感情が優先してしまうのが原因です
経済心理学において「ヒトは長く続くことは 永遠に続くと錯覚する」と言われています
長い間自分では何も論理検証せずに鵜呑みにしていた話に対しては ヒトは論理反証を条件反射的に拒絶する習性があるのです
長い間 クイズの正解率の高さを誉められ続けることによって それが永遠に続くものだと宇治原ナントカ君は思っていた だから論理反証を条件反射的に拒絶するようになる
これは 宗教家が実証不能の神を論理否定されることに対する拒絶反応と一緒で 中毒の禁断症状のようなものでしかありません
当人的には死ぬ程嫌で マジで死ぬかのような恐怖心を抱くのかも知れませんけど それこそが錯覚妄想に過ぎないのです
「実証不能の神なくしては生きられない程弱いものである」ことの論理的証明なんかないんですよ
それは強迫観念が生み出した幻でしかないのです
Ende;
なんで安全学って呼ばないのかっていうとね 安全を追求するために重要なのは 何が危険で何が失敗の原因なのかを詳しく解析することなのよ
あらゆる危険性を徹底排除してゆくことによって 安全性というのは高められる
だから危険を学ぶ 失敗から学ぶ
意識とは何かを知るためにおいても同じことが言える
意識とは何かを追求するためには 意識ではないものが何かを徹底追求することによって 本当の意識が何かを知ることが出来るわけよ
だから 意識論って言いながらも無意識とは何か 愚かとは何かを論じているわけ
愚かさが何かを知って 初めて本当の知能になる
意識とは何かを追求する学問に名前をつけるとしたら 無意識学とか愚学って呼んだ方が良いのかも知れない
自分の頭の悪さがどういうものなのかを知ることによって 頭が悪い失敗を回避出来るようになる それが結果的に本質的な知能向上になる
単に「皆が言っているから」とか 「権威にそう教えられたから」といったことを 何ら自分では論理的に検証することもなく鵜呑みにしていると 真実を見失うことになる
本庶
本当に頭の良いエリートの学生だというのであれば 教授の間違いを指摘するくらいの能力がなければならない
自主的 主体的に真理を追求していないからこそ 自律的な論理検証性も働かないバカが増えてしまうことになる
そして 困ったことにバカ同士で話を丸め 「誉められないと やる気が起きないじゃありませんか」などというバカの観念を共有して気分的に安心満足することで 自分達の頭の悪さを認識しようともしなくなる
目先のバカの多数派に流され 自律的に何も考えない状態は「頭が良い」と言えますか 言えませんよね どんなにクイズの正解率が高くても 学力偏差値が高くても 自分の主体的考えがないならただのバカなんですよ
自律の源は主体性です 主体的に物事を考えてこその目的意識ですから 「死にたくない」だとか「金にならない」だとか「世間や権威から承認されない」といった環境依存的な気分感情に無意識に流されるのは 全て主体性の欠如が原因なのです
あらゆる「人災」というのは ヒトの無責任さが作り出すものです
最初っからどうにも回避不可能性が証明されていれば これは「人災」としては扱われることはありません
トロッコ問題的な条件下において 死んだ人数で倫理や正義が立証されることはありません そこには正義も倫理も最初から存在してなどいないからです
他人の無責任さによって危険性が放置されて誰かが死ななければならない状況下において 自分の選択で死ぬ人数が変わるとしても そこに選択責任なんぞありゃしないんですよ
どんなに「悩んで」も 提示された条件の範囲に倫理が存在しないことが指摘出来ない時点で 本当は何も「考え」てなんかいないんですよ
でも マイケル:サンデルの講義を受けた学生達も テレビで見ていた視聴者の誰一人として 「そこに倫理なんぞ存在しないぞ」なんて言い出さない
それは サンデルによって促された命題によって「悩ましい気分」を促されたために それを短絡的に「何かを深く考えた」と錯覚し 「自分は頭が良くなった」と勝手に錯覚することでサンデルを好きになり 何の疑いも持たなくなっていることで余計何も「考え」なくなる
これが洗脳の基本構造です
実は オウム真理教の教祖も似たような手法を用いていました 答えの出しようもない命題を与えておいて「皆さんご自分で考えてみて下さい」なんてね
構造原理的に解答の出しようのない命題であっても 出題された命題自体が構造原理的に意味がないことには誰も気付かない習性があるんです
ジャレド:ダイアモンドも同じです 遺伝的進化の話とは無関係な「スペイン人がインカを滅ぼした」話をひけらかしておいて 結局「関係がありません」という結論でしょ 本人が「関係がありません」って正直に言っているにも関わらず 読者や視聴者は何か意味のあることのように錯覚しているんですよ ピュリッツア賞なんてのはその程度のもんなんです
何ら論理的には意味がない話であっても ヒトの多くは大量の情報を聞かされると情報の内容を理解するだけで意味があると勝手に勘違いして何かを考えたかのような錯覚に陥る習性があります
これって振り込め詐欺も使う手口です
「皆さんも考えてみて下さい」なんて「頼む」のも ベンジャミン:フランクリン効果を期待しているのかも知れませんよ
逆に オイラみたいに最初から「それはお前がバカだから騙されてるだけじゃねぇか」なんて言うと 自分の頭の悪さを自覚しなければならず 反射的拒絶反応によって論理的根拠もなく否定的思考バイアスが働くのかも知れません
それは まるで芸人の宇治原ナントカ君が「俺は頭が良いんじゃぁ!」と怒鳴って開き直っている心理状態と同じじゃありゃしませんかと
バカの難治性というのは バカというのは自律的には何も論理検証出来ず 主観的気分感情が優先してしまうのが原因です
経済心理学において「ヒトは長く続くことは 永遠に続くと錯覚する」と言われています
長い間自分では何も論理検証せずに鵜呑みにしていた話に対しては ヒトは論理反証を条件反射的に拒絶する習性があるのです
長い間 クイズの正解率の高さを誉められ続けることによって それが永遠に続くものだと宇治原ナントカ君は思っていた だから論理反証を条件反射的に拒絶するようになる
これは 宗教家が実証不能の神を論理否定されることに対する拒絶反応と一緒で 中毒の禁断症状のようなものでしかありません
当人的には死ぬ程嫌で マジで死ぬかのような恐怖心を抱くのかも知れませんけど それこそが錯覚妄想に過ぎないのです
「実証不能の神なくしては生きられない程弱いものである」ことの論理的証明なんかないんですよ
それは強迫観念が生み出した幻でしかないのです
Ende;