学力も含めた特定能力の高さというものは人間としての本質的知能の論証にはならないことは、今まで何度も述べてきたつもりである。
将棋の勝ち負けだの、クイズの正解率だの、大学入試の得点といった、予め答の用意された問題をどんなに正解しても、それは人間としての知能の論証にはならない。
学力偏差値がどんなに高くても、自律的な社会的責任判断を下すことができなければ「ヒトという種の生物」ではあっても「人間」としての論証にはならないからである。
東京電力の原発安全管理者であれば、さぞかし学力偏差値が高かったに違いないであろう。それでも彼らは原発の危険性を放置したのであり、学力偏差値と人間としての知能には論理的相関はない。
学力偏差値が高い無差別殺人犯の存在を無視し、「学力=知能」という短絡的な大衆観念に基づいた人工知能論など、単なるペテン詐欺に過ぎない。
USBメモリに入ると言っても、2ギガというのはプログラムとしてはとんでもない巨大さであり、思考手順を手続き的に羅列しておいて人工知能だと言い張るのはあまりに幼稚でバカげている。それは「シーマン」をチューリングマシンだと言い張るようなものであり、もはや語るにも足らない。
思考手順自体をプログラムが自律的に形成し、プログラマが思考手順自体は一切コーディングをしなくても「考え」てこその人工「知能」であって、手順のいちいちを羅列したプログラムなど知能でも何でもなく。報酬バイアスを外的に規定することでしか働かないニューラルネットワークでも同じことである。
現在の人工知能研究者というのは、自分の学力成績や研究内容を事後正当化することだけを目的とした大衆迎合によって体制維持を目的としているだけであって、本質的な人工知能についての研究などするつもりはない。
コンピュータプログラムを大学入試に合格させておけば、何も知らない愚かな大衆マスコミに対しては「人工知能の研究が進んだ。」かのような錯覚を与えることは簡単であろうが、これはとんでもないペテンである。
手口としては原発研究者達と同じである。
人間としての本質的な知能とは、単なる特定能力の高さで論証されるような短絡的で安易なものではなく。自己存在意義としての社会的存在価値自体にまで考えが及ぶ意識(論理検証性)の広さを指すのであって、これは学力偏差値だの、クイズの正解率だの、将棋の成績といった特定能力の高さとは相関がない。
本質的な知能とは何かという根源的知能論を無視したまま、大衆観念的外見上特定能力だけ高めることに邁進しても、本質的な人工知能の進歩には寄与しない。
要するに税金の無駄遣いということである。
人間の知能としても最も重要なのは、自律的に社会安全性や持続可能性を求めることであり、そのためには特定能力の高さに異常執着することとは無関係であり、自発的な論理検証的思考が不可欠である。
現在の人工知能研究者達にも、また彼らがでっちあげたエセ人工知能にも、自発的論理検証性など存在せず。予め教えられた手順に基づいた思考以外には全く考えが及んでおらず、何も新しい知見には到達していない。
物覚えだけは異常に良いコンピュータという機械に、手順の全てを手続き的にどんなに大量に教えこんでも、教えた手順以外の何も自発的に「考え」たりすることは構造原理的にない。
その程度の能力で、原発の安全管理が出来ると思ったらとんでもない大間違いである。教えられていないことには想定が及ばなかったからこその「想定外」であり、その甘さ故の「人災」だったのである。
人工知能研究者達は、こう言い逃れをするであろう、「まだ、研究の途上だ。」などと。しかし、これはその場凌ぎの取り繕いに過ぎず、外見上の能力規模の大きさだけでハッタリをかまして大衆を撹乱しているだけであって、根源的な知能の論証として成立していない。
メモリ容量や処理速度の向上による演算能力の高さをどんなに立証しても、それはハードウェアの能力に依存した外見上の特定能力の高さの証明にしかならず。自律的で自発的な論理検証性、想定能力の論証には全くならない。
すなはち、ソフトウェア工学としての進歩の論証には全くなっていないのである。
安全で持続可能性を持ち、次世代にもつなぐことの出来る社会の在り方とはどうあるべきなのか。それを自己報酬系として論理検証する「意志」なくして本質的な人間としての知能の論証にはならない。
それは大学入試問題とは無関係である。
時折、「そういうことは、教えてもらわないとわからないじゃないですか。」などと言い出すポンコツは多い。いちいち思考手順を手続き的に教え込まないと自律的には一切論理検証出来ないからポンコツの証明なのである。
ポンコツが作り出す人工知能がポンコツなのは必然的結果である。
それらはプログラマが演算手順のいちいちを手書きしている以上、コーディングしているプログラマの想定以上の想定をプログラム自身が行うことは構造原理的にないのと同じである。
「教えたこと以外何も自律的には論理検証出来ない。」からバカというのである。
Ende;
将棋の勝ち負けだの、クイズの正解率だの、大学入試の得点といった、予め答の用意された問題をどんなに正解しても、それは人間としての知能の論証にはならない。
学力偏差値がどんなに高くても、自律的な社会的責任判断を下すことができなければ「ヒトという種の生物」ではあっても「人間」としての論証にはならないからである。
東京電力の原発安全管理者であれば、さぞかし学力偏差値が高かったに違いないであろう。それでも彼らは原発の危険性を放置したのであり、学力偏差値と人間としての知能には論理的相関はない。
学力偏差値が高い無差別殺人犯の存在を無視し、「学力=知能」という短絡的な大衆観念に基づいた人工知能論など、単なるペテン詐欺に過ぎない。
USBメモリに入ると言っても、2ギガというのはプログラムとしてはとんでもない巨大さであり、思考手順を手続き的に羅列しておいて人工知能だと言い張るのはあまりに幼稚でバカげている。それは「シーマン」をチューリングマシンだと言い張るようなものであり、もはや語るにも足らない。
思考手順自体をプログラムが自律的に形成し、プログラマが思考手順自体は一切コーディングをしなくても「考え」てこその人工「知能」であって、手順のいちいちを羅列したプログラムなど知能でも何でもなく。報酬バイアスを外的に規定することでしか働かないニューラルネットワークでも同じことである。
現在の人工知能研究者というのは、自分の学力成績や研究内容を事後正当化することだけを目的とした大衆迎合によって体制維持を目的としているだけであって、本質的な人工知能についての研究などするつもりはない。
コンピュータプログラムを大学入試に合格させておけば、何も知らない愚かな大衆マスコミに対しては「人工知能の研究が進んだ。」かのような錯覚を与えることは簡単であろうが、これはとんでもないペテンである。
手口としては原発研究者達と同じである。
人間としての本質的な知能とは、単なる特定能力の高さで論証されるような短絡的で安易なものではなく。自己存在意義としての社会的存在価値自体にまで考えが及ぶ意識(論理検証性)の広さを指すのであって、これは学力偏差値だの、クイズの正解率だの、将棋の成績といった特定能力の高さとは相関がない。
本質的な知能とは何かという根源的知能論を無視したまま、大衆観念的外見上特定能力だけ高めることに邁進しても、本質的な人工知能の進歩には寄与しない。
要するに税金の無駄遣いということである。
人間の知能としても最も重要なのは、自律的に社会安全性や持続可能性を求めることであり、そのためには特定能力の高さに異常執着することとは無関係であり、自発的な論理検証的思考が不可欠である。
現在の人工知能研究者達にも、また彼らがでっちあげたエセ人工知能にも、自発的論理検証性など存在せず。予め教えられた手順に基づいた思考以外には全く考えが及んでおらず、何も新しい知見には到達していない。
物覚えだけは異常に良いコンピュータという機械に、手順の全てを手続き的にどんなに大量に教えこんでも、教えた手順以外の何も自発的に「考え」たりすることは構造原理的にない。
その程度の能力で、原発の安全管理が出来ると思ったらとんでもない大間違いである。教えられていないことには想定が及ばなかったからこその「想定外」であり、その甘さ故の「人災」だったのである。
人工知能研究者達は、こう言い逃れをするであろう、「まだ、研究の途上だ。」などと。しかし、これはその場凌ぎの取り繕いに過ぎず、外見上の能力規模の大きさだけでハッタリをかまして大衆を撹乱しているだけであって、根源的な知能の論証として成立していない。
メモリ容量や処理速度の向上による演算能力の高さをどんなに立証しても、それはハードウェアの能力に依存した外見上の特定能力の高さの証明にしかならず。自律的で自発的な論理検証性、想定能力の論証には全くならない。
すなはち、ソフトウェア工学としての進歩の論証には全くなっていないのである。
安全で持続可能性を持ち、次世代にもつなぐことの出来る社会の在り方とはどうあるべきなのか。それを自己報酬系として論理検証する「意志」なくして本質的な人間としての知能の論証にはならない。
それは大学入試問題とは無関係である。
時折、「そういうことは、教えてもらわないとわからないじゃないですか。」などと言い出すポンコツは多い。いちいち思考手順を手続き的に教え込まないと自律的には一切論理検証出来ないからポンコツの証明なのである。
ポンコツが作り出す人工知能がポンコツなのは必然的結果である。
それらはプログラマが演算手順のいちいちを手書きしている以上、コーディングしているプログラマの想定以上の想定をプログラム自身が行うことは構造原理的にないのと同じである。
「教えたこと以外何も自律的には論理検証出来ない。」からバカというのである。
Ende;