宗教だけが破壊と殺戮を促す原因とは断定できない。アイヒマン実験における服従性というのは宗教を利用していないし、秋葉原の通り魔も宗教とは無関係である。シエラレオネの少年ゲリラも北朝鮮政府も宗教ではない。
北朝鮮の場合、理論的であるはずのマルクシズムを実際の政治に応用すると宗教化してしまう訳だが。これは故金正日書記長が指摘したように、「マルクスはヒトはなぜ封建社会に陥るのかを説明していない。」ことが理論の宗教化を促しているからであろう。
こうしたヒトという種の生物における、多数他人への迎合性、及び多数他人によって規定された権威への服従性といった本能感情主体の気分的安心追求による意識狭窄、理論的思考の盲目性が危険なのであって。
宗教の危険性だけを抽出枚挙することによって、短絡的に「宗教=危険。」と決めつけ、「無宗教=安全。」という短絡的盲目もまた危険である。無神論者が常に論理的である保証などないからだ。
多数他人への迎合と、多数他人によって規定された権威への服従への気分的「安心。」を、これをあたかも論理的「安全性証明。」であるかのごとく錯覚することが危険なのである。
ヒトという種の生物における本能優先性によって論理思考をパスしてしまう性質について、危険学のような工学的分析を行うことによって。錯覚を錯覚であると認識できるようにできれば錯覚に基づいた間違った行動を採らずに済むようにできる。
本来であれば生物学や脳科学が率先して研究すべき領域であるが。現在の生物学においては「ヒト=人間。」という短絡的帰結が錯覚であるということすら誰も認識しておらず。全く科学としての役割を果たしていない。
むしろ「ヒトの全ては人間である。」という短絡的思考が世間大衆にはウケが良いことに迎合して、「習性=人間性。」という短絡的帰結に基づいた理論展開を全く訂正するつもりがない。
本能的行動の結果としての生存や種の保存を、あたかも個体の本能目的を超越した目的意識に基づいて選択された「生存戦略。」であると言い張ることは極めて非科学的観念でしかないことを生物学/脳科学界は認めようとはしておらず。当然ヒトの本能であっても、本能のままに行動しておきさえすれば、本能超越的な目的意識に基づいて生存や種の保存が無意識自動条件反射的に行われるものであると勝手に錯覚し「安心。」しており。無意識的行動結果の枚挙だけで全てを説明できるものであると勝手に満足している。
こうした現在の生物/脳科学を放置しておけば、「本能=絶対的正義。」という短絡的帰結に基づいた断片的立証しかされることはなく。全く論理的思考による本能抑制/錯覚抑制に対する考えに基づく研究は一切なされない。
それは科学というものへの本質的社会要請には全く応えておらず、税金の無駄遣い以外の何ものでもない。
脳科学は脳トレ類というクソゲー利益ばかりを追求し、生物学は「ヒト=人間。」という観念に基づいた大衆迎合に固執し。哲学は「心の救い。」と称して気分的な快楽しか追求していない。
ヒトというのは「社会的成功者=権威=服従対象」という短絡的方程式に基づいた気分的安心を追求しがちで、そこに論理的な思考/選択といった合理性追求に対する気分的拒絶反応が追加されることによって本質的合理性の追求を放棄する習性がある。
ヒトは合理的に「考え。」ることが気分的に「嫌。」なのである。
それこそがヒトを人間たらしめない最も根源的要因であるにも関わらず、現在の生物/脳科学界という権威性の認証がないために。それを意識から外し、無視し、盲目でいることに安心しているのである。
マスコミもまた、生物学/脳科学界における多数決をあたかも科学的根拠であると短絡的に錯覚し、論理的裏付けであると勝手に妄想し、思考を停止して「ヒト=人間。」という観念に基づいた「科学。」番組を垂れ流し、生物学の観念をプロパガンダすることに加担するだけである。
こうした生物学系観念が訂正されないことの方が社会的負担であり、且つ危険性放置でもあることを、より多くの人が認識すべきである。
バカの多数決をどんなにたくさん集めても、民主主義制度下においては「バカ主義。」にしかならないからだ。
end;
北朝鮮の場合、理論的であるはずのマルクシズムを実際の政治に応用すると宗教化してしまう訳だが。これは故金正日書記長が指摘したように、「マルクスはヒトはなぜ封建社会に陥るのかを説明していない。」ことが理論の宗教化を促しているからであろう。
こうしたヒトという種の生物における、多数他人への迎合性、及び多数他人によって規定された権威への服従性といった本能感情主体の気分的安心追求による意識狭窄、理論的思考の盲目性が危険なのであって。
宗教の危険性だけを抽出枚挙することによって、短絡的に「宗教=危険。」と決めつけ、「無宗教=安全。」という短絡的盲目もまた危険である。無神論者が常に論理的である保証などないからだ。
多数他人への迎合と、多数他人によって規定された権威への服従への気分的「安心。」を、これをあたかも論理的「安全性証明。」であるかのごとく錯覚することが危険なのである。
ヒトという種の生物における本能優先性によって論理思考をパスしてしまう性質について、危険学のような工学的分析を行うことによって。錯覚を錯覚であると認識できるようにできれば錯覚に基づいた間違った行動を採らずに済むようにできる。
本来であれば生物学や脳科学が率先して研究すべき領域であるが。現在の生物学においては「ヒト=人間。」という短絡的帰結が錯覚であるということすら誰も認識しておらず。全く科学としての役割を果たしていない。
むしろ「ヒトの全ては人間である。」という短絡的思考が世間大衆にはウケが良いことに迎合して、「習性=人間性。」という短絡的帰結に基づいた理論展開を全く訂正するつもりがない。
本能的行動の結果としての生存や種の保存を、あたかも個体の本能目的を超越した目的意識に基づいて選択された「生存戦略。」であると言い張ることは極めて非科学的観念でしかないことを生物学/脳科学界は認めようとはしておらず。当然ヒトの本能であっても、本能のままに行動しておきさえすれば、本能超越的な目的意識に基づいて生存や種の保存が無意識自動条件反射的に行われるものであると勝手に錯覚し「安心。」しており。無意識的行動結果の枚挙だけで全てを説明できるものであると勝手に満足している。
こうした現在の生物/脳科学を放置しておけば、「本能=絶対的正義。」という短絡的帰結に基づいた断片的立証しかされることはなく。全く論理的思考による本能抑制/錯覚抑制に対する考えに基づく研究は一切なされない。
それは科学というものへの本質的社会要請には全く応えておらず、税金の無駄遣い以外の何ものでもない。
脳科学は脳トレ類というクソゲー利益ばかりを追求し、生物学は「ヒト=人間。」という観念に基づいた大衆迎合に固執し。哲学は「心の救い。」と称して気分的な快楽しか追求していない。
ヒトというのは「社会的成功者=権威=服従対象」という短絡的方程式に基づいた気分的安心を追求しがちで、そこに論理的な思考/選択といった合理性追求に対する気分的拒絶反応が追加されることによって本質的合理性の追求を放棄する習性がある。
ヒトは合理的に「考え。」ることが気分的に「嫌。」なのである。
それこそがヒトを人間たらしめない最も根源的要因であるにも関わらず、現在の生物/脳科学界という権威性の認証がないために。それを意識から外し、無視し、盲目でいることに安心しているのである。
マスコミもまた、生物学/脳科学界における多数決をあたかも科学的根拠であると短絡的に錯覚し、論理的裏付けであると勝手に妄想し、思考を停止して「ヒト=人間。」という観念に基づいた「科学。」番組を垂れ流し、生物学の観念をプロパガンダすることに加担するだけである。
こうした生物学系観念が訂正されないことの方が社会的負担であり、且つ危険性放置でもあることを、より多くの人が認識すべきである。
バカの多数決をどんなにたくさん集めても、民主主義制度下においては「バカ主義。」にしかならないからだ。
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