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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

帝王

2020年11月01日 14時52分20秒 | 意識論関連

「読み書きそろばん」のような精神論的努力辛抱根性を主張しておけば 精神論に脳を冒されている衆愚の人気を得ることは簡単である

そういうの 養老孟司が散々やらかしましたから

強制的に「安心して同じを追求しておけば良い」みたいな話も養老はしてましたけど

その根拠が「だって皆さん同じを求めるでしょ」である

もはやホリエモンの「だって皆さんお金欲しいでしょ」と変わらん

「死ぬことは個人にとって一大事」だとか言っておいて 一方では「9.11同時多発テロは 歴史の中ではさざ波だ」とも言ってましたな 養老ってのは語っている話に都合の良いようにその場限りの解釈を与えることで 気分的な「納得感」を提供して大衆人気を得ているだけであって 論理客観的な根拠に基づいた普遍的理論があるわけではない

養老の著作が何かに応用できたことありましたかね?

 

精神論って 外見的に「かっこいい」んですよ だから鳥人間コンテストではやたらと興奮して怒鳴り散らすのが流行った

アニメとか漫画の多くで主人公が興奮して怒鳴り散らして謎の怪力みたいなのを出してますけど あれ いうまでもなくファンタジーっすからね

精神論的にガムシャラに何かやっときゃ何でも解決できるかのように錯覚してるんでしょうな 「そうだと良いな」って「思って」るだけなんすよ

でも実際にスポーツなどで興奮して怒鳴り散らしながら競技している奴なんかいませんよ

砲丸投げとかハンマー投げでも 投げた後に叫ぶこたあっても 投げる瞬間は黙ってるんですよ

テニスで叫ぶのは呼吸を利用しているのであって 興奮して絶叫しているわけではない

テニスってのは知的競技ですから 冷静さを失ったら必ず負けます 「必ず」です

マラソンでゴール直前に叫んでる奴いますか

100メートル走だっていませんよ

人気漫画みたいに「全集中!」だとか叫んでおけば集中できるわけではなくて 本当に集中するためには自分を客観的に見る冷静さが必要なんです

ヒトっていうのは感情的になって怒鳴り散らしておけば超人的能力が発揮されるんじゃないかという妄想観念がありますから それを精神論にすりかえて「暗記さえしときゃ頭が良くなる」みたいな根拠のないデマに誘導することは簡単なんすよ

「修行が必要」みたいな話も良く出てきますが

加藤英明の爬虫類の捜索なんかは 他人から見たら修行にしか見えないですけど あれって本人好きでやっているからトカゲに噛まれても「イテテテ」って喜んで「元気だな」って解釈をするんですけど あれを他人から強制されたら拷問にしかならない

外見上修行みたいな行動であっても 本人が自主的にやっているからこそ人並み外れた「努力」のように見えるのであって 実際刑務所で服役囚に懲役を強制しておいても再犯率は50%もあるのが現実です

大衆観念的には「我慢して辛い思いをしておけば 人間性が養われる」とでも思ってるんでしょうけど 実際には犯罪者の大半は虐待されて育ったんですよ

合理的な根拠もなければ 統計的現象の証拠もない話を鵜呑みにしたがるのは そう思っていた方が気分が良いからに過ぎず 個人的な主観によって論理客観的検証性が損なわれてしまう原因となる

 

注意しなければならないのは その場限りの雰囲気(空気)にのまれて「勝ち負け論」みたいな多数決的判定で「納得」してしまうことで

冷静になってじっくり検証すれば その場限りに偉そうな雰囲気を作り出して「勝った」かのように煙に巻いているに過ぎないことが結構あるということ

深い考えっていうのは 答えを導き出すのに時間がかかりますから その場限りの論戦で「勝てる」とは限らない

相手が何を言っているのか「わからない」ときには 一回「コイツ何言ってんだろう?」と保留しておいて あとでじっくり検証し直してみることも重要になる

その場限りの勝ち負け論争に「勝って」も 真実にたどり着けるわけではないからですよ

そりゃ 外見上相手を言いくるめてしまえば「勝った」ような錯覚に多数を陥れて優越感に溺れるこた簡単ですけど それこそが頭の悪いバカ同士の同調迎合を作り出すわけです

相手が用意した「土俵」の上で「負けた」としても そもそも相手の用意した「土俵」自体が論理的にグズグズな泥沼なら そこで「勝って」も何の意味もないんですよ

ヒトってどうしてもその場限りの感情が先行してしまう傾向があるため 不毛な殴り合いに陥って本末転倒な結果に陥ることがよくあるんですよ

そういうのはどうでもよろしい

「恥ずかしい」なんてのは 目先の多数派の観念に基づいた価値観による多数派同調バイアスが作り出す恐怖心(主観)であって バカしかいない集団の中で正しいことが通用しなくても それは集団の方の頭の悪さが原因であって 真理は多数決で決定するようなものじゃないんですよ

民主主義は多数決で決まりますけど それは民衆の半数以上がマトモな状態じゃないと機能しないのであって ナチズムというのは当時のドイツにおいて民主的に選ばれたものだったことからも 制度上民主主義を導入しておけば自動的に常に正しい結果が得られるような万能の制度ではないんですよ

私のことを変人扱いする奴は多いですけど そんなもん変人扱いしている奴の主観的感想しか出てきません

論理客観的な証拠や根拠に基づいた論証で 反証可能なのに誰も反証出来ないなら それは科学的には「より正しい」とみなして良い

科学は100%ではありません なぜならヒトの脳は有限で 忘れもすれば間違いもするし錯覚に騙されることもよくあるわけで その中から何が錯覚で何が真実に近いのかを探求し続けるのが科学なわけです

科学に人間性や倫理性を付与するのが哲学の存在意義です

だから「科学の帝王」と形容される

主観的に気分が良くなる話を鵜呑みにして満足するのが哲学ではないのです

ゆめゆめ間違えてはならない

 

 

Ende;


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