「笑い。」とは何かについて、オニギリ頭で有名な南伸坊氏が核心をついたアイデアを提案している。
「人が笑うっていうのは、脳がコマッタ状態になっている。」
というものである。
ヒトの脳では、固定観念などの無意識機能と。記憶学習過程における意識機能の二つがあり。この二つの間に乖離があると、笑いが発生する。
笑いの状態には二つの状態があり。一つは意識が固定観念を笑う状態と、もう一つは固定観念が意識を笑う状態である。
前者は「良い笑い。」であり、後者は「悪い笑い。」である。
アイヒマン実験の際にヘラヘラ笑いながら電気ショックのボタンを押す状態での笑いとは、
「権威者が命令していることだから、何をしても自分の責任にはならないものである。」という固定観念に基づいた行動が、意識上の自分の良心を笑ってしまっているのである。
自分がにやけている時、その笑いがどのような笑いであるかを考える人は少ない。おそらく、そんなことは考えずに大脳辺縁系のシーケンスに従って、反射的に笑っていれば当人は快楽なのかも知れない。固定観念などの無意識的な情動に従っていた方が、生物的には健康なのかも知れない。しかし、それは本質的には自由ではない。
一般感覚的には、自分の好き嫌いは自分の選択であると錯覚する。しかし、それは嘘である。
自分の好き嫌いとは、脳の大脳辺縁系に組み込まれた情動によって決定するものである。しかし、その大脳辺縁系自体を自分で作ったわけではない。
遺伝情報自体は自分では選択不可能なものであり、脳それ自体は自分の望んだものではない。しかも、自分が育った環境である時代や社会といったものも、自分で選んだものではないのである。となると、後天的に刷り込まれた価値観や固定観念といった無意識的な好き嫌いは自分自身で選択したものではないということである。
「それは、理屈だよ。」と大抵の人は拒絶する。だが、理論的には誰も反論できないのであり。厳然と存在する事実でもある。
普通のヒトが平凡な生活をしている限り、こうした事実は知らなくても概ね問題なく生活可能である。しかし、それは「概ね問題ない。」だけであって、「全て問題ない。」わけではない。
仲間と一緒に居酒屋で酒を呑み、さて、家に帰ろうかとなった際。酔っ払った仲間が自動車を運転して帰ろうとする。それを止めるか、それとも放置するか。
ここでは、その解答を求めない。そんな問題を与えてどのような答を出したとしても、それは架空の話でしかないし、また、公益倫理的には答に選択の余地など最初からない。
マイケル:サンデルの講義において、どんなに正義らしい「解答。」をしても、それが実際の現場でできるかどうかは全く別の話である。
「それでも、考えたことがあるかどうかで、行動に差があるのではないか。」などということを言い出すバカもいるかも知れない。数行前に書きましたよね、「公益倫理的には答に選択の余地など最初からない。」って。
サンデルの講義では、「一人の生命と、多数の生命とを天秤にかける。」といった条件を提示することによって、単に話をややこしくすることによって、受講生に考えを促す。
現実には絶対的正義など存在しない。アイロン男みたいにゲリラを虐殺してしまえば、気分的にはスッキリするであろう。目の前で子供が頭をナタで切り落とされそうになっているときに、ナタを振り上げている奴を殺す以外に選択の余地がないと判断できる場合。ナタ男を殺すことは現場の判断であろう。
だが、それは現場の一面的な正義でしかない。だから、私が論じている意識論とは、子供の頭をナタで切り落とそうとするような人間がなぜでてくるのか。同じ「ヒト。」でありながらどうして「人間。」として自律的に自分の行動を選択できないのか。それを考えるための基礎を論じているのである。
サンデルの論ずる正義は、あくまで現場の正義でしかなく。普遍的な正義とは何かを全く論じていないのである。
「選択の余地のない状態。」という「縛り。」を加えることによって、その「縛り。」の中だけでしか考えが及ばないようにしている時点で、それは脳トレ類と同じように、与えられた条件範囲内でしか考えておらず。自発的に何かを考えることとは全く異なるものなのである。
特定環境下においての限定的能力をどんなに先鋭化させても、そんなものは「チンパンジーの瞬間記憶。」と構造的には全く同じものなのである。
わかったか、このボンクラ野郎。でわまた。(炎上。)
「人が笑うっていうのは、脳がコマッタ状態になっている。」
というものである。
ヒトの脳では、固定観念などの無意識機能と。記憶学習過程における意識機能の二つがあり。この二つの間に乖離があると、笑いが発生する。
笑いの状態には二つの状態があり。一つは意識が固定観念を笑う状態と、もう一つは固定観念が意識を笑う状態である。
前者は「良い笑い。」であり、後者は「悪い笑い。」である。
アイヒマン実験の際にヘラヘラ笑いながら電気ショックのボタンを押す状態での笑いとは、
「権威者が命令していることだから、何をしても自分の責任にはならないものである。」という固定観念に基づいた行動が、意識上の自分の良心を笑ってしまっているのである。
自分がにやけている時、その笑いがどのような笑いであるかを考える人は少ない。おそらく、そんなことは考えずに大脳辺縁系のシーケンスに従って、反射的に笑っていれば当人は快楽なのかも知れない。固定観念などの無意識的な情動に従っていた方が、生物的には健康なのかも知れない。しかし、それは本質的には自由ではない。
一般感覚的には、自分の好き嫌いは自分の選択であると錯覚する。しかし、それは嘘である。
自分の好き嫌いとは、脳の大脳辺縁系に組み込まれた情動によって決定するものである。しかし、その大脳辺縁系自体を自分で作ったわけではない。
遺伝情報自体は自分では選択不可能なものであり、脳それ自体は自分の望んだものではない。しかも、自分が育った環境である時代や社会といったものも、自分で選んだものではないのである。となると、後天的に刷り込まれた価値観や固定観念といった無意識的な好き嫌いは自分自身で選択したものではないということである。
「それは、理屈だよ。」と大抵の人は拒絶する。だが、理論的には誰も反論できないのであり。厳然と存在する事実でもある。
普通のヒトが平凡な生活をしている限り、こうした事実は知らなくても概ね問題なく生活可能である。しかし、それは「概ね問題ない。」だけであって、「全て問題ない。」わけではない。
仲間と一緒に居酒屋で酒を呑み、さて、家に帰ろうかとなった際。酔っ払った仲間が自動車を運転して帰ろうとする。それを止めるか、それとも放置するか。
ここでは、その解答を求めない。そんな問題を与えてどのような答を出したとしても、それは架空の話でしかないし、また、公益倫理的には答に選択の余地など最初からない。
マイケル:サンデルの講義において、どんなに正義らしい「解答。」をしても、それが実際の現場でできるかどうかは全く別の話である。
「それでも、考えたことがあるかどうかで、行動に差があるのではないか。」などということを言い出すバカもいるかも知れない。数行前に書きましたよね、「公益倫理的には答に選択の余地など最初からない。」って。
サンデルの講義では、「一人の生命と、多数の生命とを天秤にかける。」といった条件を提示することによって、単に話をややこしくすることによって、受講生に考えを促す。
現実には絶対的正義など存在しない。アイロン男みたいにゲリラを虐殺してしまえば、気分的にはスッキリするであろう。目の前で子供が頭をナタで切り落とされそうになっているときに、ナタを振り上げている奴を殺す以外に選択の余地がないと判断できる場合。ナタ男を殺すことは現場の判断であろう。
だが、それは現場の一面的な正義でしかない。だから、私が論じている意識論とは、子供の頭をナタで切り落とそうとするような人間がなぜでてくるのか。同じ「ヒト。」でありながらどうして「人間。」として自律的に自分の行動を選択できないのか。それを考えるための基礎を論じているのである。
サンデルの論ずる正義は、あくまで現場の正義でしかなく。普遍的な正義とは何かを全く論じていないのである。
「選択の余地のない状態。」という「縛り。」を加えることによって、その「縛り。」の中だけでしか考えが及ばないようにしている時点で、それは脳トレ類と同じように、与えられた条件範囲内でしか考えておらず。自発的に何かを考えることとは全く異なるものなのである。
特定環境下においての限定的能力をどんなに先鋭化させても、そんなものは「チンパンジーの瞬間記憶。」と構造的には全く同じものなのである。
わかったか、このボンクラ野郎。でわまた。(炎上。)